「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第3章:近世の日本」批判4


4:信長は「旧体制」の再編強化を図ったー「旧体制」の破壊者という信長像の誤りー

 「ヨーロッパ人の来航と織田信長の台頭」の三つ目の項目は、「織田信長の台頭」である。教科書はここで戦国の動乱をやがて統一へと導いていった織田信長の事跡を描いているのだが、この記述にも、多くの誤りや思いこみが存在する。その極めつけは、「信長は旧来の政治勢力や社会制度を徹底的に破壊し、新しい時代への道を切り開いた」(p117)という認識なのだが、これは戦後にとくに強調された、「封建的秩序の破壊者」としての信長像である。しかし近年の中世研究の深化に伴って、この認識には大規模な訂正が施されているが、残念ながら「つくる会」教科書の記述にはほとんど反映されていない。

 ではこの認識はどう誤りであり、今ではどのように認識されているのか。教科書の記述に沿いながらこれを検証してみよう。

(1)戦国大名の上洛は将軍家再興のため!

 「つくる会」教科書は、信長が現われた時代を次のように記述している(p116)

人々の視野が国外に広がるとともに、国内でも統一の機運が高まった。各地の有力な戦国大名たちは、上洛(京都にのぼること)して朝廷から認められ、衰えた足利将軍家を支えることで、全国の支配者になろうとした。その中で、中部地方の豊かな生産力と、京都に近いという地の利をいかして頭角をあらわしたのが、尾張(愛知県西部)の織田信長であった。(中略)信長は(中略)、将軍足利義昭を奉じて京都にのぼり、全国統一に乗り出した(1568年)。信長は、京都の荒廃した内裏(天皇の住む御殿)の修理をするなど、朝廷の心をつかんだ。

 少しかわった記述である。通常ならここは、上洛して天下を統一しようとする動き=全国の支配者になろうとする動きがあらわれたという記述になる。私が授業で使用していた清水書院の教科書は、次のように記述している。

 「戦国大名のなかには、やがて、朝廷や幕府のある京都に進出して、天下を統一しようとするうごきがあらわれた」と。

 つまり「つくる会」教科書のこの部分の記述の特色は二つある。
 一つは、有力な戦国大名にはみな全国の支配者になろうという意欲があったとしたこと。二つ目は、その際、朝廷の承認と足利将軍家を支えることを通じて全国統一をしようとしたこと。

 この記述は実は、最近の研究史の進展を一部であるが反映したものである。それは上洛した多くの戦国大名は足利将軍家を立て、それを支える形での上洛だったということと、その際天皇家がそれに承認を与えていたこともあるという事実の確認であった。

@戦国大名の上洛は将軍の命によるもの

 今谷明は「戦国大名と天皇」において、戦国大名の上洛運動を詳細に検討している。それによると戦国時代に京都に上洛した戦国大名の多くは、将軍の命によるものだという。その例を検討しておこう。

 1508(永正5)年に数万の大軍を率いて上洛し、10年の間在京した周防(山口県)守護大内義興の場合は、1493年の明応の政変で将軍を廃されて周防に身を寄せていた前将軍足利義材(義尹と改名)の命により、彼を再び将軍につける目的で上洛した。そして彼の力に怖れをなした11代将軍足利義澄は近江に逃亡し彼を支えた勢力も瓦解し、ここに10代将軍足利義材(義尹)が将軍に返り咲いた。まさに大内義興が上洛した大義名分は前将軍の復帰だったのである。そしてこの上洛には義興自身の目的もあった。それは彼の領国である周防・長門(以上山口県)・豊前(大分県)・石見(島根県西部)の守護職の回復であった。1501年に追放された前将軍を匿った義興は幕府によって全ての守護職を解任され、その上、後柏原天皇から義興の追討の綸旨すら出され、その領国支配が危機に陥っていたからであった。そして彼が擁立した前将軍が将軍に復帰したことで守護職は安堵され、彼の領国支配は安定した。また大内義興がその処遇に不満をもって領国に帰国しようとした際には、後柏原天皇が女房奉書を出して帰国を思いとどまらせ、義興に従4位という破格の官位を授けたのであった。天皇は義興が帰国することで幕府が不安定化し京都の治安が悪化することを恐れたのである。
 1553(天文12)年に越後(新潟県)守護代の長尾景虎はわずかの近習だけをつれて上洛し、後奈良天皇に拝謁して、綸旨を賜った。この綸旨は景虎が信濃(長野県)での戦闘に勝ったことを賞賛し今後の武運長久を念じるとともに同国における皇室領地の回復を命じたものであったが、景虎にとって綸旨を得たことの意味は、前年に彼が関東管領上杉氏の養子となり、今後関東に進出を図ることを天皇の承認を得たと解釈できることであった。このとき将軍義輝にも拝謁したかったのであろうが、義輝は三好長慶と戦って敗れ近江(滋賀県)に亡命中であったため対面は果たせなかった。
 長尾景虎は1559(永禄2)年にも上洛している。このときは5000の兵を率いての上洛であり、上洛後将軍足利義輝から将軍一門と同じ格式の家格を認定されている。そして同じ時期に上洛したのが美濃(岐阜県)の斉藤義竜と尾張(愛知県)の織田信長であった。どちらも100程度の近習をつれての上洛であったが、斉藤氏は幕府を支える大名衆と同格の相伴衆の格を手に入れ、織田信長は尾張守護代の地位を保証されている。この同時期に3人の戦国大名が上洛していたことは、三好長慶との講和で京都に戻っていた将軍義輝の地位が不安定なため、将軍の要請で3人の戦国大名が上洛したのではないかと今谷は推測している。

 このように戦国時代の大名の上洛の多くは将軍の命によるものであり、当時不安定な地位に置かれていた将軍が自己の地位を守るために有力な戦国大名の上洛を促したのであり、戦国大名にとっては将軍を推戴することで、自己の領国支配に有利な地位を得ることを目的としていたのであった。

A信長も将軍の命で上洛した

 そして、1568(永禄11)年に数万の軍勢を率いて上洛した織田信長の場合も将軍の地位を狙う足利義昭を擁しての上洛であったし、この行動は、義昭の兄13代将軍足利義輝を殺害して14代将軍に足利義栄を擁立して幕府の実権を握った三好三人衆と義栄を追放して、義昭を将軍につけることを大義名分としていたのであった。
 信長が「全国統一」を指向した証拠としてよくあげられるのは、彼が美濃(岐阜県)を攻略して岐阜稲葉山城に拠点を移した1567(永禄10)年8月ののち、11月ごろから「天下布武」の朱印を用いたことである。そして翌年彼は足利義昭を奉じて上洛した。
 しかしこの当時は「天下」という語は、「日本全国」という意味に用いられてはおらず、これは将軍ないしは将軍が管轄する領域を指しており、狭義には京都、広義には畿内を指す言葉であった。したがってこれは信長が全国統一を呼号したことを意味しないし、全国支配を目指したことも意味しない。
 ではこれはどんな意味があるのか。これを解くには、この前後の状況を考えねばならない。

B将軍家が分立して対立した時代の性格

 戦国時代は、足利将軍家が二つの系統に別れて対立し、幕府を支える有力守護大名細川家も二つに分裂し、双方が周辺の大名や寺社、さらには遠国の大名にたよって幕府の実権を握ろうと激しく争いあっていた時代である。
 すなわち、応仁の乱において次期将軍の座を8代義政の息子義尚と弟の義視が争い結果的には義尚が9代将軍となったのだが、彼の早世によって、義視の子義材(よしき)が10代将軍となったことにより、再び将軍の座を巡って激しい争いが起こった。1493(明応2)年、管領細川政元が9代義尚の弟で関東に下って堀越公方となっていた足利政知の子義澄を擁立して兵をあげ、将軍義材を廃し、義澄を11代将軍に着けた。しかし義材は阿波に逃れて将軍を名乗り(阿波公方)、以後この二つの系統の足利将軍家が並び立ち、争いを繰り広げていた。
 このような状況の中で父信秀から家督をついだ信長は着々と尾張一国の掌握を進め、1559(永禄2)年京都へ上って13代将軍足利義輝に謁見し、尾張守護代の地位を保証された。信長は対立する将軍家の一方を支持したのであった。そして尾張をほぼ統一し終えた信長が、1565年尾張に侵攻した駿河(静岡県)の今川義元を桶狭間に破ってその統一を確実にした直後、13代将軍足利義輝が幕府の実権を握る三好三人衆(三好長逸・三好政康・石成友通)と松永久秀の軍勢によって殺害され、三人衆は、対立するもう一つの足利将軍家の義栄を将軍につけるという事態が起きた。このとき、義輝の弟・奈良興福寺の一乗院の覚慶は三人衆の監視を逃れて近江に至り、還俗して義秋(のちに義昭と改名)と名乗り、諸国の大名に「幕府再興」を呼びかけたのである。
 この時期に信長は、自分の花押(サイン)を「麟」の字をかたどったものに替えている。「麟」は中国の想像上の動物である麒麟のことであり、麒麟は世の中がよく治まった時代に出現するものと考えられていることから、信長はこのとき、自分を尾張守護代に任じた義澄系足利将軍家の再確立と将軍管轄領域、つまり天下の静謐をスローガンとして掲げたのではないかと考えられている。そして義昭から信長に上洛が要請されたのだが、信長は美濃の斉藤竜興との戦で苦戦しており、このときは上洛は果たせなかった。そして彼が「天下布武」の朱印を使い始めた1565年11月という時期は、その斉藤氏を滅ぼして美濃を攻略し、ときの正親町天皇から綸旨を賜り、戦の勝利の褒賞と今後の武運長久、天皇領の回復命令を受けた直後であった。
 つまり信長が「天下布武」の朱印を使い始めたのは、自己の領域支配に正統性を与えていた義澄系将軍家の再興を可能にする物質的基盤を獲得し、天皇からもその功績を賞賛されるという上洛して幕府再興を果たす大義名分を手に入れたことを示していたのである。
 1565年のこの時期において信長は、けっして全国統一を考えていたのではなく、自己の領国支配の正統性を保証する足利将軍家の再興と、その畿内支配の安定化を考えていたに過ぎないのであった。

C領国支配で手一杯の戦国大名

 戦国大名にとって将軍家は、自己の領国支配の正統性を保持するための権威であったことは「中世の批判」の戦国時代の項【25】で詳しく述べたとおりである。
 織田信長にとってもこれは同じだったのだ。そしてこの時期、将軍家が二つに別れて争い、その権力が低下する一方であった時期においては、天皇の権威も戦国大名にとっては大事な権威として推戴されるにいたっている。そして二つに別れた将軍家は常に有力な大名の後ろ盾を必要としており、さらに天皇家も大名勢力の伸張によって天皇家領の多くが横領されたゆえに収入に困窮しており、多くの大名の援助を必要としていた。このような互いの状況により、戦国大名と将軍・天皇との連携はさらに深まっていたのである。
 この観点からみれば、戦国時代にしばしば大名が上洛をすることは、全国を統一するためというよりも、自己の領域支配に正統性を与えてくれる将軍家を支え、さらにそれに権威を与える天皇家にさまざまな財政援助をすることで、自己の存立基盤を確保することだったのである。1565年に信長が撃ち破った今川義元の行動も、けっして上洛して全国に号令をすることが目的であったのではなく、その直前に義元が天皇の認可を受けて三河(愛知県東部)守に任官していることから、三河一国の支配を確実にし、さらにあわよくば尾張にまで勢力を拡大しようとの意図だったと考えられている。
 戦国大名にとってもっとも大事なことは、自己の領国支配を確保することだった。そして戦国大名の家臣団は、それぞれの地に土着した武士団であり、それぞれの先祖伝来の領国を守ることを身上とした集団であった。このような戦国大名が、互いに争いあっている状態の中で、大軍を率いて上洛することは、自国を空にして背後から敵に突かれる危険を犯すことであり、よほどの事情がなければやらないことなのである。

D将軍との対立で「全国統一」を強いられた信長

 信長の場合も1568年に足利義秋(義昭と改名)を奉じて上洛し、14代義栄と彼を支える三好三人衆方の大名や国人領主を討伐して追放または軍門に下して義昭を15代将軍に据えた。信長は自身が支持する義澄系足利幕府を再興し、彼は将軍の名代として行動して畿内地域の安定を図ろうとしたのであった。しかしこの構想は頓挫した。
 その理由の第一は、14代義栄を擁した三好三人衆とこれと結んだ近江半国守護六角氏と越前朝倉氏の敵対行動が止まなかったこと。しかも、この三人衆と六角氏・朝倉氏の動きに同盟軍であった近江北半国守護代の浅井氏や比叡山延暦寺・大阪本願寺一向一揆が加わることで、彼の将軍義昭を奉じての畿内平定策はほとんど頓挫してしまったのであった。
 またその理由の第二は、彼が奉じた将軍足利義昭と信長の対立であった。次第に信長の傀儡にあまんじることに我慢ができなくなった義昭は、信長と手を切るべく三好三人衆・浅井・朝倉・本願寺と手を組み、さらには遠国大名にも上洛を促して甲斐(山梨県)の武田信玄が上洛を目指して戦端を切った(1572年)。この危機は信玄の急死によって脱出でき、敵対した義昭を1573年京都から追放したが、義昭の反信長行動は1583年の信長の死まで続いたのである。

 こうして当初は将軍を奉じて畿内の安定を図ることを目的に上洛した信長であったが、将軍を敵に回して畿内大名ばかりではなく、本願寺一向一揆や遠国の武田・上杉・毛利などの有力大名まで敵にまわす羽目に陥り、信長は否応なく全国統一に進むしかなかったのである。なおこの義昭を中心とした反信長同盟の中で、上洛を果たそうとした武田信玄や上杉謙信(1576〜79)の行動は、全国統一をはたそうとするものであったかどうかは定かではない。明かなことは、彼らは追放された将軍足利義昭の命を奉じて上洛し、「逆賊」織田信長を討つことを大義名分として上洛戦を戦ったのであり、足利幕府の再興が目的であったということだ。

 したがって「つくる会」教科書が、戦国大名が上洛するに際しては足利将軍家を支えることと天皇家の承認を得ていたと記述していたことは歴史研究の深化を踏まえた正しい記述であったが、多くの戦国大名が上洛して全国の支配者になろうとしていたと記述したことは、時代の性格を取り違えた誤解だったのである。

:05年8月刊の新版も時代の性格を「有力な戦国大名たちは、京都にのぼって朝廷から認められ、全国の統治者になろうとした」と記述している(p94)。しかしこの記述は、旧版よりもさらに後退した間違った記述である。旧版は少なくとも「足利将軍家を支える」と記述しており、新たな統一政権を作るとは書いていない。この意味で、足利将軍家が分裂しているという事情が欠如しているとはいえ、上洛した戦国大名がそれぞれ足利将軍家を推戴していたという事実を反映してはいた。しかし新版はこの限定を削除してしまったことにより、はじめから戦国大名は、足利将軍家にかわる新たな全国的統治者を目指したかのように事実を歪めてしまったのである。

(2)信長は旧来の政治勢力を破壊したわけではない

 すこし話しを急ぎすぎたが、改めて織田信長が何をなそうとしたのかについて教科書の記述を検討しておこう。「つくる会」教科書は、次のように記述している(p117)。

このように、信長は旧来の政治勢力や社会制度を徹底的に破壊し、新しい時代への道を切り開いた。

 ここで記述される「旧来の政治勢力」とは何であろうか。それは彼に敵対した将軍足利義昭であり、比叡山延暦寺、そして一向一揆である。教科書は次のように記述している(p116〜117)。

信長は、京都の荒廃した内裏の修理をするなど、朝廷の心をつかんだ。このような信長を将軍義昭は警戒するようになり、各地の大名と結んで信長に対抗しようとした。しかし、信長はこれらの大名たちを次々と破った。その結果、義昭は将軍の地位を追われ、1573年、室町幕府はほろびた。
 信長は仏教勢力にもきびしく対処した。信長は自分に反対する大名と結んだ比叡山延暦寺を全山焼き討ちにし、浄土真宗の教えをもとに武装して抵抗する一向一揆と徹底的に戦い、降伏させた。信長はキリスト教の宣教師を優遇したが、それもこうした仏教勢力を嫌ったためである。

@室町幕府は滅ぼされていない

 通常この教科書が記述したように、1573年を持って室町幕府の滅亡とされている。しかし足利義昭は将軍の地位を追われたり剥奪されたわけではなく、京都から追放されたに過ぎない。また彼は追放されても信長を倒すことに執念を燃やし、諸国の大名に檄を飛ばして、上洛を促し続けた。そして1576(天正4)年には中国の毛利氏の領国である備後の国鞆の浦(広島県福山市)に移り、以後彼は鞆公方と呼ばれ、この地には小規模ながらも幕府が置かれ、1582年に織田信長が明智光秀に殺害されたときも鞆幕府は存続し、信長を打倒すべく積極的に活動していたのであった。
 つまり1573年の義昭京都追放によっても室町幕府は滅びず、京都の信長が支持する幕府と義昭の幕府の二つの幕府・将軍が対峙していたのである。そしてこれは、先に述べたように、戦国時代にはあたりまえの状況であった。
 藤田達男は「謎とき本能寺の変」で、鞆幕府の詳細を検討している。これによると、幕府の重臣は毛利家の重臣たちと幕府本来の直臣、さらには信長によって所領を奪われた守護大名の系譜を引く近江の六角氏や伊勢(三重県)の北畠氏、若狭(福井県西部)の武田氏や丹後(兵庫県北部)守護代の内藤氏なども身を寄せ、毛利氏の援助を受けながら、将軍義昭の命をうけて、それぞれの旧領で再起を賭けて戦っていたのであった。そして義昭は依然として将軍の権威を保持しており、諸国大名や毛利家重臣に官位などの様々な栄誉を与えたり、京都五山や鎌倉五山などの有力寺社の住持の任命なども行って、それぞれから多額の礼銭を受け取っていた。そしてこのような権威を背景として、朝鮮や明との外交関係においても「日本国王」として遇され、外交活動を続けていたと見られる。
 備後鞆の浦は、幕府草創者である足利尊氏が後醍醐天皇方との戦いに敗れて西国に走り、その過程で持明院統の光厳上皇から朝敵追討の院宣を得た場所であり、西国で力を蓄え、畿内奪回に向けて兵を進めたその場所でもあった。義昭は尊氏の故事にならって、幕府を再興するつもりだったのだ。
 このように1573年に畿内から追放されたにも関らず将軍の地位と権威を保持していたからこそ、義昭は諸国大名に命令を下し、信長打倒のために、大阪本願寺や越後(新潟県)の上杉氏などを動かすことができたのである。この鞆幕府の足利義昭の権威が解体されたのは、1585(天正13)年に豊臣秀吉が関白に就任して初めてなしえたことだった。
 また将軍義昭が信長に叛旗を翻したのは、この教科書の記述のような「信長が天皇に接近した」ことにあるのではない。義昭は極めて気位の高い人物である。そして三好三人衆によって殺された義澄系足利氏の嫡流足利義輝に代わって将軍位につき、「我こそ足利将軍家嫡流」の意識の強い人物であった。しかし彼の幕府の実態は、織田信長の力に完全に依拠しており、将軍の直臣である幕府奉公衆の主だった畿内大名たちはみな、信長の直臣となり、信長からその所領を安堵され、その命に基づいて行動していた。そして信長は義昭に、「天下のことを将軍から任されているのだから、誰に対しても将軍の承認をえることなく成敗する」と認めさせ、幕府における人事権を完全に掌握していた。彼は事実上の管領であったと言うべきであろう。そして将軍義昭の権限は、畿内の寺社本所領の安堵や守護不入権の保証、そして諸大名に対する和睦命令など、将軍固有の権威に関る問題だけに限られていた。この意味で将軍義昭は有力大名である信長の傀儡としての本来の室町将軍だったのである。
 しかし室町幕府の歴史は、先に「中世の日本批判」でも述べたように、将軍専制を目指す将軍と、それを主だった大名の合議によって統制しようとする宿老(管領など)との間の、権力闘争の連続であった。将軍から実際の権力を奪い、権威としての役割に限定しようとする大名とそれに抗する将軍との争いであった。この観点から見れば、信長の行動は、伝統的な幕府宿老の有力大名としての行動であり、義昭の行動は、それを制限し将軍自らの手に専制権力を握ろうとする伝統的な将軍の行動そのものであった。義昭は信長の傀儡の地位に甘んじられなかったのである。

:旧版が、義昭と信長の離反の理由として「信長が朝廷の心をつかんだ」ことを揚げたのには一応根拠がある。朝廷との交渉や訴訟などの上奏は将軍の専権事項であるのに、信長は義昭に対し、禁裏に上奏する際にはかならず信長の承認を得るという条件を突きつけており、これは将軍専権事項の制限であったからである。信長は将軍を介さず直接朝廷と結びつこうとした。このことが義昭には信長は将軍・幕府を廃止し、直接権力を掌握しようとしているのではないかと受け取れ、疑心暗鬼となったことが、離反の理由だと考えられるからである。05年8月刊の新版では、「信長が朝廷の心をつかんだ」という記述は削除された(p94)。これによって信長と朝廷の関係を考える糸口すら失われたのだが、これは、この記述が信長が朝廷を利用したと受け取られることを恐れての措置であったのではなかろうか。

A信長も事実上の将軍として行動した

 信長の行動は、室町将軍を奉じて幕府の機能を維持するものであった。上洛直後には畿内の寺社本所領の安堵を義昭の命を奉じて行い、信長は事実上の幕府管領として行動していた。また義昭を追放したのちの信長の行動も、幕府管領・将軍としてのそれであった。
 義昭を追放してのちも信長は、畿内の有力寺院の所領の安堵やその自治権の承認を行い、薩摩の島津氏と豊後の大友氏に対して和睦命令を出している(1580年)。そして京都の治安を維持する役所として所司代(かつての侍所)を置き、畿内諸国には守護代を任命している。つまり将軍としての権威に基づいた幕府管領としての行動そのものである。1573年に義昭を追放して以後も彼は、義昭の嫡子を擁しており、彼の政府は幕府としての体裁を保ったものでもあった。信長の行動から見る限り、彼は幕府という伝統的な統治機構を解体したわけではなく、その伝統的な統治機構にのっとって行動したのである。
 しかしその後彼は朝廷の官位を次々と受け、1575(天正3)年には権大納言・右近衛大将に、翌1576年には内大臣兼右近衛大将、さらに1577年には右大臣・右近衛大将に任官し、事実上の将軍となっていき、このころから信長の家臣たちは、信長を「上様」と呼び、和睦命令をもらった島津義久もまた信長のことを「上様」と呼んでいる。つまりこの頃になると信長自身が将軍として行動し始めていたし、朝廷もそして信長の家臣だけではなく諸国大名もこれを追認し、事実上の将軍として寓していた。このことは、ここに至って、足利将軍家の血の継承の論理は相対化され、実力があり諸国に安寧をもたらすことのできるものが将軍の地位につくべきであるという、社会的な共通認識が生まれていたことを意味している。
 将軍という権威が一義的には「天下静謐」を保つという事実に基づくのであり、血の継承の論理はそれに支えられて初めて存在できることの証明である。

B仏教勢力を解体したわけではない

 さらに信長が仏教勢力に厳しくあたりそれを解体したと捉えるのも誤解である。
 さきにも述べたように信長は畿内の有力寺社の所領を安堵し、その自治権すら認めている。彼が全山焼き討ちを行った比叡山延暦寺に対しても、信長の家臣が、近江にあったその所領を横領した際には、天台座主の直訴を受けた天皇の命令に従って、その所領の返還に応じてさえいる(1569年)。さらに、焼き討ちを行い延暦寺を滅ぼしてその所領を奪ったあとでさえ、明智光秀が妙法院・三千院・青蓮院の山門三門跡領を山門領と称して没収しようとしたとき正親町天皇の命を受けて、信長はその返還を命令している(1571年)。
 また一向一揆に対しても、伊勢長島や越前において一揆の皆殺しを敢行してはいるが、一揆の中心となった大阪本願寺や諸国の真宗寺院を全て破壊したわけでもないし、その所領を全て没収したわけでもない。1580(天正8)年の本願寺との和睦がなって教主顕如が紀伊雑賀鷺の森に退去したのちには、諸国に触れを出して、門徒の鷺の森参賀のための便宜を図るよう指示しているくらいである。
 神田千里は、「信長と石山合戦」と「戦国乱世を生きる力」において、信長の比叡山焼き討ちと、一向一揆皆殺しについて注目すべき見解を表明している。
 それによると信長が延暦寺や一向一揆に対して皆殺しという方法をつかった理由は、三つある。一つは、これらが信長に敵対する勢力に組して彼の行動を妨害し彼を窮地に追い込み、彼の「天下布武」を頓挫させたこと。二つには、信長の行動は将軍義昭の命を受けたものか、事実上の将軍としてのものであり、将軍はその専権事項として寺社の所領を安堵したり住持の任命権があり、寺社の存続そのものを認可することも将軍の専権事項であったこと。さらに三つ目に、延暦寺や本願寺・一向一揆は、それ自身が広大な所領をもつ領主であり、その領民の安全を確保することを義務として、安全を確保しているという事実をもってその権威の背景としていた。したがって信長に敵対する勢力の権威を解体して反抗を押さえつけるためには、彼らの領主としての権威に泥を塗ることが必要であったこと。このように説明している。
 この意見は近年の中世史研究の深化、「中世の批判」の村の自治【20】や応仁の乱【25】で説明したような中世の村と領主の関係についての研究の深化を受けたものであり、戦争になれば領主の城には領民も多数安全を求めて逃げ込み、領民を守ることこそが領主の義務であり権威の源泉であったという認識に基づくものである。信長は将軍の下での管領として、または事実上の将軍としての「天下静謐」の行動に敵対し深刻な打撃を与えた比叡山延暦寺と一向一揆に対して、その権威を解体するために、その城に逃げ込んだ領民もろとも皆殺しするという蛮行をあえて行ったというのが、神田の解釈である。そしてこのことは、叡山焼き討ちや一向一揆皆殺しの際に、信長があげた理由の中に見事に示されているという。信長は叡山に対しては、「坊主が妻帯して酒池肉林にふけり、叡山にこもって修行や祈祷にはげむことなく山ろくの坂本に居住し、ために根本中堂も荒れ果てている」と、叡山の僧侶達が僧侶としての聖なる義務すら怠っていることを非難している。そして一向一揆に対しても「坊主は念仏修行に励むことなく、諸国のあぶれものや犯罪者を匿い、諸芸にふけって遊び暮らし、城を構えて国主に対する年貢や公事も滞納し国法も犯している」と、これまた僧侶としての義務も忘れ、領民としての義務も怠っていると非難しているのである。要するにどちらも寺院として聖なるものとしての権威を付与されるに値しないと非難しているのであり、だからこそ、聖なる寺院を認定する将軍の権限をもって、彼らの聖なる権威を否定し滅亡させたと唱えていたのであった。
 また一向一揆に対する皆殺しというのも、いつでもどこでもなされたことではない。敵対行為を中止し、信長の指示に従った浄土真宗寺院やその信徒に対しては、年貢・公事の遵守と命令に従うことと引き換えにその所領と信仰の安堵を行っている。皆殺しは、信長に敵対し、信長の政道に深刻な害を与えたものだけに限られていたのだ。
 伊勢長島の一向一揆の皆殺し(1574年)は、その蜂起によって信長の弟を自害に追いこみ、信長の領国である尾張の生命線である東海道を遮断することによって尾張を危機に陥れたからであり、敵対した朝倉・浅井・六角氏討伐の戦いを、織田領国の背後をつくことによって信長に断念させたことが原因であった(1570年)。また越前一向一揆の皆殺し(1575年)は、1573年に越前朝倉氏を滅亡させそこに信長の臣下を配置して織田領国を確立したのに対し、翌1574年に一向一揆が蜂起して織田家臣を追放し、織田領国を解体したことによる。さらに加賀一向一揆の制圧(1580年)は、本願寺教主顕如との和議がなって長い戦が終結したのにもかかわらず、教主の息子教如の将軍義昭と連携した指令により、加賀一向一揆が蜂起して越前における織田領国支配を覆さんと行動したことによる。それぞれにみな、殲滅される理由があったのである。
 そして忘れてはならないことは、伊勢・越前・加賀において、浄土真宗の信仰とその寺院が全て破壊されたわけではない。本願寺の組織は、教主の命令で一斉に動くものではあるが、教主そのものが諸国の有力寺院や門徒に推戴されてのものであり、それぞれの有力寺院や門徒は本願寺から自立して行動する権限を有していた。したがって各地での一向一揆と信長との戦いにおいても、信長につくほうが有利と見た有力寺院や一揆衆は独自に信長と和睦を結び、その寺院と所領、そして信仰の保証を受けていたのであり、伊勢・越前・加賀においてもこの動きは行われていた。
 信長の主張はいわば、寺院・僧侶は、聖なるものとしての義務の履行に専念し、百姓衆は年貢・公事の義務を果たし、各々政治向きのことには口をはさんではならないというものであり、御政道に敵対しないかぎりにおいては、その信仰も許すというものであったといわねばならない。これは、どの戦国大名もとってきた政策であり、近世江戸幕府における政教分離の方針と同じである。

 この意味で「つくる会」教科書が、「自分に敵対する大名と結んだ」延暦寺・一向一揆と限定符をつけて記述したことは正しい。しかしこの記述に続けて「宣教師を優遇したのは、仏教勢力を嫌ったためである」としたことは、この正しい記述を帳消しにしている。信長は仏教勢力を嫌ったのではなく、一つには彼の天下静謐を阻害したことと、二つには彼らがその聖なる任務を放棄し現世的権力として行動していることを嫌ったためであった。キリスト教を保護したのは、キリスト教が当時の日本人によって少し異なる仏教の一派と認識していたことに鑑み、当時のキリスト教勢力が信長の行動を阻害する力がないことにより、信長が御政道を阻害しない限りでの信仰の自由を保障したものと解釈すべきであろう。宣教師がもたらす海外の情報に引かれたという側面も付随的理由であろう。

注:05年8月刊の新版の記述では義昭が信長と対立した理由は削除されたが、義昭の京都追放で幕府が滅んだという記述はそのままである。また、延暦寺や一向一揆が信長の敵方の大名と結んだという記述はなされているが、「仏教勢力を嫌った」という記述は旧版と同じである。

(3)信長は旧来の社会制度を破壊したわけではない

 また信長は旧来の社会制度を破壊したわけではない。この点でも教科書の記述は誤解に満ちている。
 教科書が指摘している旧来の社会制度とは何であろうか。教科書は以下のように記述している(p117)。

 信長は京都を臨む地である琵琶湖畔の安土に壮大な城(安土城)を築いた。城下に楽市・楽座令を出して、市・座の特権を廃止し、商工業者に自由な営業を認め、流通のさまたげとなっていた各地の関所を撤廃した。

 信長の事跡として有名な、楽市楽座と関所の撤廃である。
 楽市とは、中世においては通常は市における商売は、その市に棚を出す権利を持っている商人だけに許可されるという市場特権によってなりたっていたのだが、その市場特権を廃し、だれでも自由に商売することができ、しかもその商売に対しては税は免除されるということを指している。そして楽座とは、中世においては様々な商品の製造・販売は、ある一定の領域においては座という同業者組合の成員権利をもった者にのみ許されていた、その座特権を廃して、だれでも自由に製造・販売をすることを許可したものとされている。

@誤解されている楽市・楽座

 誤解されていることが多いが、楽市令は、その場所についての楽市令であり、他の地域にも及ぼされるものではない。そして楽座令と呼ばれるものも、座特権を解体したのではなく、その地における座特権の制限であり、しばしば座に対する課税の免除しか意味していなかった。
 しかも楽市はなにも信長の専売特許ではなく、戦国時代に各地にすでにその先例があった。
 とくに、聖なる権威を背景とした自治都市の多くは、楽市と称して、その町においては市場特権の廃止と諸税免除をうたっていたのである。例をあげれば伊勢と尾張の境目にありここから伊勢湾を渡って熱田に至る東海道の重要な港である桑名の津は十楽の津と称して早くから楽市の町であり、諸国から商人が訪れていた。また、本願寺が置かれた大阪はその寺域の中に大規模な町を含み、そこも、守護は税をかけない、徳政令は適用しない、座に取引税は課さないなど、楽市と同様な特権を守護から保証されており、諸国の有力な浄土真宗寺院もまたその寺域に町を含み、そこでは「大阪並み」としてその特権を守護から保証されていたのであった。
 そして戦国大名も自身の城下に近い市において楽市を宣言した例はいくつもある。もっとも早い例は、1549年の近江で守護六角氏がその城下町に石寺新市を開きそこを紙の楽市にしたことであり、以後、今川義元の駿河、織田信長の美濃加納など、その例は多い。
 楽市の目的はまさに商売を自由にすることにより、その地における商工業を活発にし、諸国からの物資の流入と、市場税とか座に対する税は賦課しないが、その他の公事を徴収することによって、領主である寺院や大名にとって必要な物資の調達を便利にし、かつ銭を集めるよい機会であった。この意味で、信長が新たに建設した安土の城下町に楽市・楽座令を出したということは、戦国大名や寺院によって従来からなされていた政策の継続であり、安土に諸国の富を集める政策だったのである。したがってこの政策は、安土以外の信長領国全体にわたる楽市=市場特権の廃止や楽座=座特権の廃止ではないことに注意が必要である。信長はけっして、市場特権や座特権そのものを廃止してはいないのだ。
 また信長の美濃加納における楽市令は彼の領国における最初の例なのだが、この加納は美濃における浄土真宗の有力寺院である円徳寺の寺域に発達した町であり、楽市特権を持っていた町だと考えられる。ここに楽市令が出されたのは、信長の美濃稲葉山城攻めによって被害を受けた稲葉山城下と言ってもよい加納町に、信長が旧来認められてきた楽市特権を保証し、城下への諸国商人の来訪を促したものと考えられる。

 楽市・楽座令は、中世の商工業の仕組みを破壊するものではなかったのである。この意味で「つくる会」教科書が、「(安土の)城下に楽市・楽座令を出して」と限定符付きで記述したことは正しい。しかしそのあとにすぐ「旧来の社会制度を徹底的に破壊し」と記述したことでこの限定符の意味は不分明となり、まるで織田領国の全ての地域に適用されたかのように誤解される記述になっている。

A全ての関所が廃止されたわけではない

 また関所の廃止も誤解の多い出来事である。
 たしかに信長によって多くの関所は撤廃された。しかしそもそも関所とは何のためのもであったらう。関所は本来は、それぞれの所領を通る道の境界の場に作られるものであり、本来の意味は、その領国の防衛的機能である。しかし商品流通が盛んに成るにつれ、領内に道や市場を保有すること自体が特権となり、そこを訪れる商人から通行税を取ることによって、収入を確保するものという性格が付与された。
 そして中世において関所が乱立した背景は、統一権力が存在せず、それぞれが自衛武装しないと生きていけない状況が生まれたからであった。個々の領主や個々の村や町が、それぞれの自衛武装のためや収入の確保のために関所を新たに建てる。これ自身は、自衛のためのやむをえないことだったのだ。しかし商品の流通には不便この上もない。従って商人たちは、この不便を乗り越えるために、朝廷や有力な貴族・寺社の供御人や寄人・神人などとなって商売の特権と関の自由通行権を得たり、座という同業組合を作って貴族や寺社に座銭を払って商売の特権と関の自由通行権得ていたことは、「中世の批判」の商工業の項【19】などで説明した。
 関の乱立そのものが、中世の統一権力の不在という状況の反映だったのだ。
 したがって戦国時代となって各地方における統一権力である戦国大名が現われるにしたがって、その領国内における諸関は廃止され、防衛上の重要な個所を除いて関は廃止されていった。信長が諸関を廃止したというのも、何も目新しい政策ではなく、戦国大名として当然の政策だったのである。ただ彼の領国が広域にわたり、しかも畿内近国というもっとも商工業の発展した地帯であったために、与える影響が大きかったに過ぎない。
 信長は全ての関所を廃止したわけではない。防衛上必要な関所は残されたし、京都の四方の出入り口を固める京七口は存続した。これは内裏の修復のための銭の徴収を名目に建てられた関であり、その収入自体が皇室の化粧料とされていたことに関係があろう。

:教科書はまったく記述していないが、信長は自治都市を圧殺したと従来は考えられていた。その例としては信長が1568年に上洛して畿内を平定したときに、自由都市堺に対して矢銭を要求し、命令に従わなければ焼き払うと命令した。この命令に屈した堺には以後信長の代官が置かれた。そしてもう一つ、1573年に自治都市である京都上京を焼き払ったことが例としてあげられてきた。しかしこれは事態を理解しない誤解である。堺に矢銭が課せられ従わなければ焼き払うと脅したのは、堺の町が三好三人衆と同盟し、堺の都市の一揆はしばしば三人衆に加勢して戦闘に加わってきたからであった。信長の要求は、今後も三人衆に従うのか今後は信長に従うのかという要求だった。そして以後信長の代官が置かれたと言っても、堺の町の自治は、年寄りである納屋衆によって継続された。また、京都上京の焼き討ちは、その領主である将軍義昭が信長に叛旗を翻して二条城に立てこもったからである。義昭がその住民の安全を保証する義務がある上京を焼き討ちしたということは、領主としての将軍の権威に泥を塗り、その権威失墜を狙ったものであり、自治都市京都の町衆にたいして、将軍義昭につくのか信長につくのかを選択させる行動だったのである。事実このとき下京も焼き討ちをうけようとしていたのだが、事態を察した下京年寄り達が信長に矢銭を払って臣従を誓ったため、下京は焼かれなかったのである。そして以後も京都の町の自治は信長の代官である所司代の下で継続したのである。都市の自治は信長によっても圧殺されず、これは秀吉も、そして江戸幕府も継続した政策なのである。

05年8月刊の新版でも楽市・楽座、関所の記述はほとんど同じ誤りを犯している。

(4)信長の新しさはどこに?

 信長のやったことはほとんど戦国大名の多くがとってきたことの継続であった。しかしそれが畿内という日本の中心地方でなされ、その領国が比較にならないほど広いものであったために、この政策の与える影響が広範囲なものであったことに特徴がある。これまでに検討してきた、幕府を支える大名としての行動や、寺社を宗教的権威の範囲内に留める政策や、楽市・楽座令や関所の撤廃はすべてそうであった。またここでは詳しい事は記さないが、のちに秀吉によって全国規模でなされた検地もすでに各地で戦国大名が行ってきたことであり、信長もやっていた。では信長がやったことは全て旧来の戦国大名としての政策の継続であったのだろうか。

 そうではなかった。教科書の多くはまったく記述していないが、信長は、広域において戦争を継続し、しかも敵方は将軍の命を奉じて敵対してくるという事態の中で、それまでの戦国大名ではほとんど手をつけていないか、わずかにしか実行できなかった政策や、まったく新たな政策をとっていたのであった。

@武士をその領地から引き離す

 信長の軍団の強さは、従来から「専業武士集団」であることが指摘されてきた。
 尾張を統一していく過程での信長の周囲には常時7・800人の常備軍とでもいう、かなり戦に習熟した専業の戦闘集団があった。通常の戦国大名の軍団は、その配下の国人領主や家臣となった惣村の地侍がその下人や百姓の武力を動員して成り立っていた。したがって彼らの軍団はその土地から離れられず、農閑期にしか戦闘に従事できないものであった。だが信長は当初から、国人領主や地侍の次男三男をその在所から引き離し、自己の専業的戦闘集団として組織し、これに惣村からのあぶれものや流浪のものを加えて軍団とし、これらは信長の収入の中から俸給として銭を与える形で扶持されていた。
 信長はその領国が拡大し、しかも将軍を奉じた敵に包囲された状態の中で、この軍団組織編成を拡大していった。
 つまり彼が尾張清洲から尾張小牧山、さらに美濃岐阜へと本拠地を移し、最後には近江安土に拠点を移すに従って、彼の直属軍団に組織された国人領主や地侍そして雇った足軽たちもその住居を移動することを強制され、その際、家族や下人までも全て引き連れることを義務化され、旧居は全て破却することが求められていった。またこのとき、その領内の百姓の移動は禁じられていた。武士の多くは領地を持つことを禁じられ、主人からの俸給で暮らすことを強制されたのだ。
 そしてこれは彼の直属軍団だけではなく、四方に広がった戦線の要所に彼の直属の国人領主や直臣を新たに大名として封じた場合にも、その新たな任地にはそれぞれの家族や家臣・下人に至るまで全て引き連れて転居することを命じ、さらに戦闘に敗北し、これらの信長臣下の大名に臣従した在地の武士に対しても、主家が新たな領地に転封するには際しては、家族・家臣・下人の全てを引き連れて転居することを要求した。こうして信長の家臣団は、その領国の拡大や戦線の移動に従って、信長の命令によって、どこにでも家族ぐるみ家臣ぐるみで移動しなければならない専業の武士集団・鉢植え大名となっていった。これは先祖伝来の領地でも戦功によって新たに得た領地でも、それを捨てて主人の命に従って新たな任地に移動させられることを意味した。
 これは武士にとって、その存在のコペルニクス的転換である。
 また信長は、敵対した大名の故地に配下を新たに大名として任命したとき、その領国内に巨大な信長直轄地・蔵入り地を設け、この管理運用を大名に任せた。これは征服戦争で手柄を立てた武士や、敵対した大名の家臣であってもあらたな大名に家臣として臣従することを誓った武士などに俸給として与えるための財源であり、新たな家臣を雇って兵を蓄えるための財源であった。つまり信長は、征服戦争を継続することで、多くの武士や足軽に立身出世を保証する体制をつくったのであり、このような方法で武士を統合することを大名たちに命じたのであった。信長の軍団はいわば組織された下剋上そのものであった。しかしこのような命令を聞かず、蔵入り地の財源を私して兵を養わず下剋上の軍団を組織しなかった大名は直ちに領国を没収され、追放された。1580(天正8)年の織田家宿老である佐久間信盛親子の追放は、この例であった。この意味でも大名は、鉢植え大名化されようとしていたのである。
 武士は昔から「一所懸命」と呼ばれ、その領地に根付きそこと一体の存在であり、先祖伝来の領地を守り、手柄を立てることで領地を広げることを本分としてきた。武士は土地と一体であり、それは百姓である地侍だけでなく、国人領主も大名ですらそうだったのである。
 しかしこの政策は、四面楚歌の中で戦闘を続ける必要が生んだものであったが、これによって信長軍団は農閑期・農繁期に関らず一年中戦闘を続けられるようになり、戦闘の習熟度も増して、周囲の大名を圧していく強さの背景となった。しかしこうして土地から離され戦闘に投入される武士にとっては、この政策は受け入れがたいものであった。このような急激な環境の変化は信長の家臣団に主人に対する不満を鬱積させ、相次ぐ有力家臣の離反も生み出すに至ったのであり、これがのちに述べる光秀の反乱・本能寺の変の伏線の一つであったと、今日では考えられている。

A天皇の権威の積極的利用

 そしてもう一つ、戦国大名がやっていなかった政策を信長は必要に強制されて編み出していった。それは天皇による停戦命令という天皇の権威の積極的利用であった。

 天皇の権威が戦国大名によって利用されていたことは、「中世の批判」の応仁の乱【24】・戦国時代の項【25】で述べたとうりである。しかしそこでの天皇の権威の利用は、治罰の綸旨という朝敵討伐の命令による対向者の圧伏であり、国主としての大名の地位を飾る権威としての利用であった。
 信長もこれを利用してきたが、四面楚歌の状況で、しかも敵が足利将軍であるという状況の中で、将軍を上回る権威である天皇の権威を、停戦命令という形で彼は利用した。天皇の停戦命令の初見は、1570年の第1次石山合戦のときである。本願寺と一向一揆の蜂起と浅井・朝倉・六角・延暦寺・三好三人衆に包囲された信長は袋のねずみとなった。信長は本願寺に対して勅命講和を準備したが、戦況の悪化のため勅使が本願寺に行けず、このときは結局天皇の命で動いた将軍義昭の調停で停戦し、「天下のことは浅井・朝倉に任せる」という屈辱的条件を飲んで信長が帰国したため、初の天皇による停戦命令は不発となった。
 天皇による停戦命令が最初に使われたのは、1573年の将軍義昭との和睦の際である。武田信玄が徳川軍を破って上洛に向かって進軍していると思った義昭は京都二条城に立てこもり、挙兵した。二条城を包囲し京都上京を放火して焼き払った信長は、天皇に要請して勅使を派遣してもらい、二条城の開城と講和を義昭に認めさせた。結局この講和は義昭によって破られ再び挙兵した義昭は信長に敗れ、京都追放となったのであるが。
 次に停戦命令が使われたのは1574年の第2次石山合戦のとき。本願寺を攻めあぐねて背後に敵を抱えた信長は、ここでも天皇の停戦命令を発動して本願寺と和睦し、危機を脱した。そして1576年に始まり1580年まで続いた第3次石山合戦は、本願寺を支えた紀州雑賀一揆を制圧し、さらに海路によって本願寺を支えた毛利水軍を信長が撃破したことによって、信長有利に進んだが、信長は天皇による停戦命令を使って講和交渉に入り、抵抗を止めて大阪を退去し、諸国の一揆も収めるならば、本願寺の所領も安堵し本願寺の所領である加賀の国も返還することを条件にして交渉を進め、1580年、大阪本願寺を開城させることに成功した。この講和は将軍義昭の命を奉じて徹底交戦を叫んだ教主の子息教如の行動によって頓挫しかかったが、教主顕如の必死の説得工作によって諸国一揆の大部分は鉾を収め、最後まで抵抗した加賀一向一揆も教如派と顕如派に分裂したため、信長軍団の被害は最小限に留められ、ここに畿内の大部分は平定されたのであった。
 こうして信長は天皇の権威を「天皇による平和」という形でつかうことで畿内を平定し、他の戦国大名に対して卓越した力を備えたのであった。そして遠国の大名の多くとも好を通じ、抵抗するのは東国の武田、西国の毛利・長宗我部のみとなり、このような状況で、九州の大友・島津に対する停戦命令が出されたのであった。信長の命令は今や天皇の命令に等しい意味を持ち、抵抗はかなり厳しくなった。
 やがて信長は1582年には甲斐の武田勝頼を滅ぼし、四国の長宗我部、中国の毛利攻めを敢行するまでに至ったのである。

 この意味で「つくる会」教科書が、「信長は、京都の荒廃した内裏の修理をするなど、朝廷の心をつかんだ」と記述したことは、極めて意味のあることだったのである。禁裏御料(天皇領)の多くが戦国大名によって横領され、さらに朝廷を支える幕府の力が衰微した結果、朝廷は日常の諸費用すら充分に賄うことができず、内裏の築地塀は壊れたままで御所の建物が壊れてもなかなか修理できないありさまであった。そして天皇の即位儀礼さえも費用がないことを理由に延期され、はては、死去した天皇の葬儀を出す費用すらなく、遺骸が数ヶ月も放置される事態すら起きていたのである。朝廷は官位を欲しがる諸大名からの献金によって、細々と維持されていた。だから信長が足利義昭を奉じて上洛し、畿内を平定するや、朝廷は信長を重く用い、ときの正親町天皇は、信長の戦争の戦勝祈願を積極的に行い、彼の求めに応じて停戦命令すら出しつづけた。そして天皇が信長の祭司を勤めることと引き換えに、禁裏御料も少しずつ回復され、朝廷の諸行事は復活されたのであった。
 ただこの教科書は天皇・朝廷と信長が緊密に結びついたことを匂わせながら、その背景やその効果を全く記述しなかったため、意味不明のものとなってしまったことは残念である。

 だが信長にとって天皇の権威を使わねば対抗する将軍義昭を中心とする勢力に打ち勝てなかったという事実は、権威と権力との関係のありかたについて、大きな怖れを抱かせたに違いない。現実的な基盤はかなり限定されているのに、天皇の権威は絶大であり、将軍の権威も大きなものがあった。また本願寺・一向一揆との戦いを通じて、現世と来世における安寧を願う人々の強烈な願望の強さと、それを吸収し、その力を背景として領地的支配を確立すると同時に、人々の心まで動かしてしまう宗教的権威の強さも実感したに違いない。そして天皇の権威は、本願寺教主の持つ宗教的権威と同質のものがある。
 ここから信長は、将軍や天皇、そして宗教的権威を利用するだけではすまず、これらの権威を自己の権力の中に組みこみ、自己に敵対することなく、自己を飾る権威として存在し続けるような体制の確立の必要を感じたに違いない。信長が右大臣兼右近衛大将の官位を帯びたのちにこれらの官を辞任し、朝廷の官位を一切帯びなかったことにこの想いが現われていよう。天皇・朝廷の権威や将軍の権威を超越した所に自己の権力の基盤を据えなければならないという、かの足利義満が抱いた想いを、信長も共有し始めたということであろう。

(5)織田信長の優位性の背後にあるものは

 では、なぜ織田信長は危険な上落戦をやりとげ、畿内地方の大部分を統一できたのであろうか。「つくる会」教科書は織田信長が台頭した原因をその冒頭の記述で、「中部地方の豊かな生産力と、京都に近いという地の利」と表現した。この内実はなんであろうか。

@商品の全国流通の結節点としての尾張・美濃・近江

 「中部地方の豊かな生産力」とはあまりに抽象的な記述である。
 ではそのヒントはどこかに書かれているのか。
 第2章の中世の項で、「中世の特産品」と題する地図が掲載されている(p101)。この地図で信長が基盤とした尾張の地域を見ると、そこは「米の生産地」として特筆されているところである。さらに尾張の北の美濃を見ると、そこは同じく米の生産地として特筆され、さらには絹織物・刀剣・紙の産地であることが明記されている。また尾張の東にある三河はどうか。ここも米の産地であるとともに、木綿の産地と明記されている。さらに信長が後に領国とした近江は、米の生産地であり麻布・胡麻油の産地とされ、一応この資料によって織田信長の基盤とした地域が農業・商工業の盛んな地域である事はわかる。
 だがこれだけの資料では、この地方が全国統一の基盤となった豊かさを備えた地方であるという教科書の主張を裏付けるには、あまりに不充分であろう。

 尾張の国は古代からかなり豊かな国である。肥沃な低地と台地が混在する濃尾平野は、中世にはおいては、皇室領や摂関家領、さらには有力な寺社などの荘園が多数置かれ、畿内有数の米の産地であるとともに、麦の産地でもあり、深く侵入した遠浅の伊勢湾を抱えるために塩の産地でもあったことは、「古代の日本の批判」の東アジア交易網の項【30】でも示したところである。そしてここは同時に、鈴鹿山脈を近江から越えてくる東海道が伊勢桑名から海路で尾張熱田へ、そして海路・陸路をつかって尾張津島へと連なる交通の要衝でもあり、さらには尾張北部の犬山から信濃越えでの中仙道が交差する地域でもあった。さらに産業としては古くから、知多半島の常滑の陶器は全国に運ばれており、後には瀬戸の陶器も有名となり、全国に流通した。さらに農産物では、ごまが栽培され、東に接する三河とともに、戦国時代には綿の産地ともなり、この地は農業・商工業の一大産地となっていたのである。そして信長が併合した美濃は古くからの紙の産地であるとともに、室町時代には京都の西陣と並ぶ絹織物の産地でもあり、古来関においては優秀な刀剣が製造されており、鉄の産地も抱え、戦国時代には鉄砲の製造も可能な地だったのである。
 尾張とその近国は豊かな産業の栄えた土地であり、海陸の交通路を利用して諸国に産物を運ぶ廻船人や商人が多数おり、各地に大きな市も抱えて諸国からの商人の往来の盛んな土地であった。これゆえ諸国の情報も大量にすばやく伝達されるし、国内の市から上がる税は守護に豊かな銭を供給したのである。信長が当初基盤とした尾張勝幡城や清洲城は近くに大きな市を抱えており尾張の商工業の中心であった。そして信長は父から、尾張での最大級の港であり市であった津島を相伝し、津島牛頭天王社門前の市からあがる莫大な銭を相伝したという。

 信長の力の背景は、この豊かな産業とそこからあがる莫大な銭であったのだ。この銭を使って信長は、専業の戦闘集団を組織したのであった。信長の旗印が当時もっとも珍重された永楽銭であった所以でもある。
 「つくる会」教科書が「中部地方の豊かな生産力を生かし」と記述したことは、その内実を知る資料が不足しているとはいえ、正しい記述だったのである。

:05年8月刊の新版では、p81に「室町時代の各地の特産品」という地図が掲載されている。ここでは信長が基盤とした地域が紙・刀剣・陶器・木綿の産地であるとともに、尾張は東海道、美濃は中山道、近江は北国街道が通っていて共に京都への道筋であることを示し、この地域が「主な問丸の所在地」であることも図示しており、交通の要衝であったことも示されている。これは信長の力を考えるによい参考資料となる。

A有力大名の育たない畿内地方の特色

 では「京都に近い」という条件の意味するところは何であろう。
 これは地図を見ればすぐにわかることである。信長が拠点とした尾張や美濃は近江を通れば数日で京都に達することができる。通常の旅でも京都から伊勢山田まで4日の旅、駿河府中でも12日で到達することは、「中世の日本批判」の室町時代の文化の項【23】で示しておいた。ましてや騎馬の軍団である。京都の間の道の安全さえ確保できれば数日で拠点と京都の間を往復してしまい、留守中に背後から敵の大名に突かれてもすぐ対処できるし、京都が危うくなればすぐ出動できる利点を持っている。
 しかしこの地の利点は、京都までの近さだけではない。
 畿内は延暦寺の例でも分かるが、有力な寺社の荘園が集中しており、広大な荘園と万を数える僧兵を抱える大寺社の勢力は、並みの大名をはるかに越えるものがある。しかもこの大寺社は聖なるものという権威を持っており、これらの荘園自身が聖なる領域として捉えられ、この土地を横領でもしようものなら、その巨大な軍団との合戦と、朝廷からの罰を覚悟しなければならない。そしてそれぞれの地の村や町は、領主である天皇や貴族・寺社の権威を背景として自衛武装し、国人領主や大名による荘園の横領に対抗してきた。
 したがって畿内地域には、遠国のような数カ国を領する大大名はほとんど成長することが出来なかったのである。畿内の大名はせいぜい一国か半国を領するもので、動員できる兵力は5・6000であったのだ。
 だから信長がその畿内の一番東の外れで尾張・美濃という大国を2国領有し、さらに南の伊勢半国を平定し、東の三河の徳川氏、さらには近江北半国の浅井氏と同盟を組むや、彼の兵力は数万の規模となって大寺社をも上回り、畿内では単独で彼に対抗できるものは、なくなっていたのである。だから彼は1568年足利義昭を奉じて易々と上洛を果たし、河内(大阪府)・摂津(大阪府と兵庫県の一部)・山城(京都府)などの畿内主要部を制圧して義昭を将軍につけることができたのである。また、浅井氏に裏切られ、その上六角氏と同盟していた延暦寺に攻められ、従来からの敵である三好三人衆らに包囲されても、軍団を一点に集中して突破すれば容易に岐阜まで帰ることができたのであり、敵を一つ一つ各個撃破していけば、やがて道が開けてくるのであった。
 京都に近いという信長の有利さには、こういう側面があったのである。

 この意味で、「つくる会」教科書が戦国時代の項において、各地の大名の領国の広さを示す地図を掲載していないことは、信長による畿内統一の背景を読み取ることをできなくしている。この点は改善されるべきであろう。

:この戦国時代における大名領国の広さを図示した資料が掲載されていないという欠点は、05年8月刊の新版でも改善されていない。

補論:本能寺の変の背景

 最後に教科書には触れられていない本能寺の変の背景について概略を記述しておこう。「つくる会」教科書はこの事件については、きわめて淡々とした記述であり、その背景はまったく描かれていない。教科書は次のように記述する(p117)

信長は旧来の政治勢力や社会制度を徹底的に破壊し、新しい時代への道を切り開いた。しかし、中国の毛利氏を討つ途中で、家臣の明智光秀にそむかれ、京都の本能寺で自害した(本能寺の変)。

 従来はこの光秀の反乱は彼の個人的な遺恨に基づくものであるとの説が流行っていた。しかし先に述べたような、信長が家臣の武士団を土地から切り離し、信長の必要に応じて全国各地に移転させて戦闘に従事する集団へと変貌させようとしていることへの不満が、信長家中に広まっていたという事実や、信長が常に将軍足利義昭が組織する反信長同盟との戦いに苦心していたという事実。さらには、信長が、天皇・朝廷や将軍の権威を超えたところに自己の権力の基盤を据えようと考え始めていたのではないかとの説が出されるにつれて、本能寺の変のもつ歴史的意味や背景の捉え方が大きく異なってきている。

(1)天皇や将軍も超越した権威を帯びた体制を構想していた信長

 近年、信長の居城である安土城跡の発掘や城の天守閣の図面の発見などによる安土城の復元作業は、信長の恐るべき政権構想の姿を浮き彫りにしつつある。

@宇宙の中心に座する信長

 安土城は、琵琶湖の内湖であった大中之湖に突き出た標高200mの安土山の山頂に作られた。そして山頂の天守閣が異様な構造を持っていたのである。
 天守閣の高さは、その礎石の上面からでは32.5m、石垣の下から計ると46mと、大仏殿をも凌ぐ高さを持っていた。構造は外観は5層。最上階の5層は4角形で、外面は総金箔塗りで内部には儒教的色彩の絵画で飾られていたという。京都金閣を模したものであろう。屋根の上には伝統的な鳳凰はなく、壁には遠目も鮮やかに鯱と飛龍が描かれていた。その下の4層目は、8角形で柱は朱塗りで白壁に格子窓は緑、法隆寺夢殿に似た構造である。ここも内部には、仏教的色彩の絵画で飾られていた。3〜1層目の外観は木部は黒漆塗りで、壁は漆喰の白壁。4層目と5層目の隅木の先には12個の風鐸がぶら下げられていた。豪華華麗な外観である。
 しかし異様なのは内部構造だ。地下1階から地上3階まで、都合4階分の巨大な吹き抜け空間が置かれ、その中央には、巨大な多宝塔が建てられ、この塔の真上の3階部分に信長の御座所と謁見の間が置かれ、御座所には「盆山」と呼ばれる神聖な石が祭られていた。
 この天守閣の構造は、当時の神国思想の基本を形作った天道思想そのものである。
 当時の神国思想では、世界の中心には須弥山という高い山がそびえ、その天空に上から順に梵天・帝釈天・四天王の住む世界があり、その下に日本の神々や中国の道教の神が存在すると考えていた。そして日本は、その世界の中心である須弥山からはるか離れた辺境の小島で、そこに宇宙の中心である仏が、末法の世で苦しむ日本の民を救うために、神々の姿を借りて降臨した。だから日本は、仏が仏陀という生身の人間の姿を借りて降臨した天竺(インド)や、孔子や老子という生身の人間の姿を借りて降臨した唐(中国)よりも、仏に選ばれた神々の国だと考えていた。
 この神国思想・天道思想に照らし合わせて見れば、安土城天守閣の中心にある多宝塔は世界の中心である須弥山を指し、その上部に存在する信長の御座所や8角の御堂・4角形の建物は、さしづめ宇宙の中心である仏や諸天の住まう世界ということになる。従ってここに住む信長は、その仏や天の化身。彼の御座所にある盆山という石は、神としての信長の御神体を意味しているわけである。しかもここを発掘した秋田裕毅によれば、安土城建設時には、1万人もの人数で3日3晩かかって山頂に引き上げたという蛇石という巨大な石があり、現在それが地表には見えないことから、この石は天守閣の真下に、神の宿る磐座(いわくら)のように埋められているのではないかと推定されている。

 この安土城天守閣の構造は、宇宙の構造そのものであり、信長は天そのものを体現している存在だということになる。彼がこの建物を「天主」と呼んでいたこともうなずける。

A天皇の御座所を見下ろす神としての信長

 安土城の特異な構造はこれだけではない。この天守閣の下にある本丸部分からは、天皇の御座所である清涼殿とほとんど同じ規模・構造の礎石が存在し、ここに天皇の御座所を建設したらしいことがわかる。そして当時の記録を見ると、まさにここは天皇の御座所で内裏の構造そのものの建物群を建設し、信長は「天下平定」のみぎりには、天皇の行幸をあおぎ、天下平定を諸国に知らせる一大イベントを挙行するつもりであったという。そうなれば、この天皇の御座所を見下ろす天守閣に座する信長は、天皇をも自己の足下に据えた超越的権威であり天の化身であると、諸国・諸国民に宣言することとなったに違いない。
 さらにもう一つ、安土城の特異な性格は、その城郭の内部、安土の町を見下ろす尾根上に、信長を御神体とするハ見寺が建立されていたことである。
 この寺は近江の古寺・古社の由緒ある建物を強制的に徴発して移転して建てた七堂伽藍をもつ大規模なものであるが、この寺は神としての信長を祭る寺であり、諸人に参詣させ、神・信長に参拝させる意図があったと、秋田裕毅は「神になった信長」で推理している。それは、宣教師ルイス・フロイスがその著書「日本史」に記述したように、この寺に参詣すれば富者はますます富み、貧しきものや賎しきものが参詣すれば同じく富み、子孫なきものは子宝に恵まれ、病は平癒し長生きは間違いないという現世利益をも約束するものであった。そしてそれを保証するものとして、惣見寺の本堂の2階の扇掾閣(せんえんかく)という2間4方の真っ暗な部屋に神・信長の御神体としての盆山石を収め、本尊として琵琶湖の竹生島弁才天を勧請したのであった。この弁才天こそ、さきのフロイスの記述にある様々な現世利益をもたらすものとして広く人々に信仰されたものであった。

 信長は儒・仏・神道の神々に守られて自身を神として人々に崇めさせ、その下に神国日本において中心的位置を占めつつあった天皇をもその司祭として取り込む事を考えていたものと思われる。

B天皇も将軍も超えた権威を中心とした信長の政権構想

 以上の信長の居城安土城の構造は、信長の政権構想全体の中において見るとどうなるであろうか。信長自身がいかなる政権構想を抱いていたかは、直接これを示す資料が存在せず、彼が道半ばで倒れたために確定的なことは言えない。しかし近年、安土城の発掘復元成果をもとに、諸資料でわかる彼の政治行動全体を整合的に組み合わせてみると、そこには驚くべき信長の政権構想の姿が浮かび上がってきたのである。

 信長は1578(天正6)年に右大臣・右近衛大将を辞任して以後は、朝廷の官には何も付こうとしなかった。また、再三就任を促す朝廷に対しては「顕職は以後は嫡男の信忠に」と断っていた。そして嫡男信忠を総大将として甲斐武田氏を滅亡させ関東にまで攻め入った1582(天正10)年5月には、朝廷から「信長を関白・太政大臣・征夷大将軍のいずれかに推任」させ、しかもその回答を保留している。つまり関東を制圧した信忠に征夷大将軍に任官させ、自分は3職の何れにも任官せず、朝廷からも幕府からも超越した地位に、信長自身はつこうとしたのではないかと、秋田裕毅は「神になった信長」で推理している。
 では、安土城に設けた天皇の御座所の意味は何か。
 信長は上洛以後、正親町天皇の唯一の男子である誠仁親王(さねひとしんのう)に対して元服の儀の費用を負担するなど何かとその暮らしの面倒を見、1579(天正7)年11月には自身の京屋敷である二条家旧宅を誠仁親王に献上し、親王はあわただしく新御所に移り、摂家以下主だった公家衆に対面の儀式を行った。以後親王の二条御所は下の御所と呼ばれ、天皇の上の御所とならんで諸公家が詰めて、官位の叙任なども下の御所で決めてから天皇の上の御所へ持って行くという形で、事実上の御所として親王が政務をとるようになったのである。そして信長はこれ以後再三再四正親町天皇に譲位を迫り、天皇がこの要求に屈しないと、1581(天正9)年には2度にわたって上の御所近くに作らせた広大な馬場で信長軍団が勢ぞろいした馬揃えを行い、譲位に向けて圧力を行使し続けた。また信長は誠仁親王の五の宮を自分の養子として養っていたことから、安土城の天皇御座所は、正親町天皇譲位後に即位した誠仁親王とその五の宮に安土行幸させ、やがては養子にした五の宮を即位させ、まさに信長が天皇と将軍の二大権威を子どもとして足下に控えさせるという、壮大な政権構想を示していたものと思われる。

(2)信長の急激な体制再編に危惧を抱く人々の連携

@時代を先駆けすぎた政権構想

 信長が必要によって編みだし、未完のままに終った新たな政策はある意味で、これまでの封建的体制を再編成し、それを強化しようというものであり、後の江戸幕府の体制の先駆けとも言える、先進的な性格を持っていた。
 武士の争いを辞めさせ、武士をその領地から切り離し、大名といえども将軍からその土地を預かって統治するにすぎず、必要があれば新たな任地へ家臣団ごと移動しなければならない体制は、豊臣秀吉の政権も徳川幕府もとった政策であった。また天皇や諸公家・寺社もまた領地から引き離され、その収入は幕府より支給されることになり、天皇・公家・寺社の権威は、幕府の統治の正統性を支える権威に限定され幕府の統制に服すことになったのも、信長がとろうとした体制の継承策であった。
 数百年続く争乱の時代は、客観的には、権力の一元化と法の下における統治による平和な秩序ある社会の建設を要請していた。信長がやろうとしたことを客観的に評価すると、相争う領主階級を統一して権力の一元化を進めて世の平安を確保し、その統一権力の正統性を支える権威として朝廷や神仏の権威を動員・統制しようとするものであったと評価できよう。

 しかしこの政権構想はあまりに時代を先駆けすぎた。将軍義昭による信長包囲網と戦い勝ちぬくためという現実の圧力に基づいて作り出された政権構想であったがために、その構想の正統性は、まだ多くの領主階級にとっての共通認識とはなり得ておらず、おそらくその賛同者は、信長の構想立案に参画した少数の知識階級に過ぎなかったに違いない。そして信長の政権構想に危惧を抱く信長旗下の大名の中で将軍義昭とのパイプを持つものが信長打倒に向けて組織され、その義昭と朝廷を結ぶものも現われて、朝廷・鞆幕府・信長政権内不満派の共同行動として本能寺の変は決行されたに違いない。
 信長政権の中で義昭と太いパイプを持つ大名であり、自身清和源氏美濃土岐氏の流れを汲む明智光秀は、将軍奉公衆であり長く京都奉行を務めたこともあるので、朝廷内の主だった公家とも入魂であった。そして彼と義昭そして朝廷とを結んだのは、義昭の従兄弟でもある前関白近衛前久であったろう。

A1582(天正10)年6月2日の意味は?

 明智光秀による信長暗殺は、1582年6月2日の早朝に決行された。
 この日付には意味があった。
 中国の毛利攻めにはせ参じるため少数の近習のみつれて上洛した信長は、6月1日に本能寺で茶会を催し、主だった公家衆を集めた。そこで信長が切り出した話題は、かねてから朝廷に要請していた暦の変更であった。朝廷の暦は不正確であるとの理由で、彼は尾張の暦に変更することをかねてから要請していた。その回答を翌日の参内の時に求めたのである。
 暦を選定する権限は、天皇・朝廷の専権事項である。これすら奪いとられて天皇・朝廷の権威は何処にあるのか。天皇・公家の信長に対する疑心は極まった。そして翌日の参内では、かねてから朝廷から信長に要請していた、関白・太政大臣・征夷大将軍のいずれかへの任官についての信長の回答が予定されていた。
 6月2日は、信長の政権構想が明るみにでるその日であった。
 そしてその翌日6月3日は、大阪に終結していた神戸信孝を総大将とする四国長宗我部氏討伐の軍隊が出陣する日であり、やがて四国は信長の次男神戸信孝を総帥とする信長近習から抜擢された大名の統治する国となる。
 信長は中国攻めに進むに際して、明智光秀が領していた近江坂本城・近江南部の数郡と丹波一国を召し上げ、光秀には中国攻めと出雲への進駐が命ぜられていた。また近江長浜と近江北半国を領していた羽柴秀吉に対しても領地召し上げがなされ、秀吉もまた中国地方への国替えが予定されていたという。四国攻めと中国攻めが同時になされ両地域が信長の下に統合されるや、あらたな地域に信長の大名たちは移転させられ、畿内近国は全て信長と彼の一族、そして近習たちによって統治される形の、安土(または大阪)を幕府所在地として新たな体制が発足し、多くの大名は「鉢植え大名」となる体制が確立するのであった。

 6月2日という日に信長の暗殺が決行されたことは、信長の急進的な政権構想がまさに実現に向かうその日を狙ってなされたクーデターだったと、藤田達夫は「謎とき本能寺の変」で推理している。そして光秀が信長を確実に討てるように、信長の家臣大名たちは、そのとき所在していた土地に縛り付けられるよう周到な準備がなされていた。秀吉は備後高松で毛利軍と睨みあったままであったし、北国で上杉氏と対峙していた柴田勝家に対しては、領内の一向一揆の決起が計画されており、事実本能寺の変の直後、勝家は一向一揆との戦いに多忙で動くこともできなかった。そして大阪に四国出陣のために在陣していた神戸信孝と与力の大名たちに対しては、背後の紀州・和泉の一向一揆の決起が計画され、また本能寺の変の直後も、その動きを恐れてこの軍団は動けなかった。徳川家康は畿内見物のため近習のみで堺におり、これも動く力はなかった。まさに本能寺に宿泊する信長の周辺で、唯一大軍を動かすことができるのは中国攻めに参陣するはずの明智光秀しかいなかったのである。藤田はこれらを仕掛けたのは備後鞆にいる将軍足利義昭に違いないと推理している。

(3)本能寺の変でも歴史の流れは変えられなかった

 信長の足かせの下に統制されようとしていた天皇・公家の朝廷勢力にも、信長の下に統合されようとしていた武士階級にも、信長の構想は理解されなかった。そして信長政権の内部に、「狂った」主人に対する怨嗟の怒りは蓄積していった。
 信長の天皇・朝廷の権威そのものをも相対化しようとする試みは、将軍が組織する諸大名・寺社勢力に包囲されるという、彼の政権の弱さから発していたのであり、それを乗り越えるための方策であった。しかしあまりに急進的な改革であったために、彼の下に統合されようとする旧勢力にも下剋上を勝ちぬいてきた武士階級にも理解されないものであった。この意味で信長の政権構想は、かつての後醍醐天皇の建武の新政のように、時代を先駆けすぎてそれを実現する基盤のない構想だったと言えよう。そしてこれはかつての足利義満の王権簒奪構想とも極めてよく似たものであったが、その基盤の脆弱さから発していた構想である点は共通していたが、義満が持っていた「順徳天皇5世の孫」という天皇家を相対化できる「神の子孫」という血の権威も信長は持ち合わせてはいなかったし、何よりも天皇を支える公家勢力の支持という基盤がまったくないという大きな違いがあった。彼に朝廷や幕府を超越した権威を与えるものは、この世には何も存在しなかったのである。
 だから彼は実力で神の座に上りつめ、自らが神であると宣言することしかできなかった。万人にこれを認めさせる手段を彼はもたなかったのである。これゆえ彼の政権構想は彼の暗殺という手段によって頓挫させられたのだといえよう。
 しかし本能寺の変によっても時代の流れは変えることはできなかった。「主君信長を討つことによって時代の流れを押しとどめようとした明智光秀。本能寺の変は光秀の歴史に対する謀反であった。しかし、信長によって動きはじめた変革の歯車はけっしてとどまることなく、時代は中世から近世へと大きく移りかわっていくのである」と、朝尾直弘はまとめている。ただし信長も光秀も、彼らの行動が歴史の歯車に合致しているのかいないのかという視点は、持ち合わせているはずもなかった。それぞれ自分の利益と必要に応じて動いていたのである。当時の領主階級の多くに、歴史の歯車の目指すものが理解されるには、秀吉政権の成立と解体、そして江戸幕府の成立とその安定というおそらく100年にも及ぶ時間が必要であった。その意味で信長の行動は、時代を先駆けていたのであり、光秀の行動は、時代の動きを押しとどめようとしていたと、後世になってはじめて評価できたのである。

:05年8月刊の新版の本能寺の変についての記述は、ほとんど旧版と同じである。

:この項は、藤木久志著「天下統一と朝鮮侵略―織田・豊臣政権の実像」(2005年講談社学術文庫刊・1975年小学館刊「日本の歴史大15巻:織田・豊臣政権」の再版)、津本陽・朝尾直弘構成「光秀謀反―新説本能寺の変」(1991年角川書店刊「歴史誕生6」所収)、今谷明著「戦国大名と天皇―室町幕府の解体と王権の逆襲」(1992年福武書店刊)、秋田裕毅著「神になった織田信長」(1992年小学館刊)、今谷明著「信長と天皇―中世的権威に挑む覇王」(1992年講談社現代新書刊)、堺屋太一・脇田修構成「織田信長の世紀―戦国末を駆け抜けた革命児」(1993年角川書店刊「歴史誕生15」所収)、朝尾直弘著「16世紀後半の日本―統合された社会へ」(1993年岩波書店刊「岩波講座日本通史第11巻「近世T」所収)、神田千里著「信長と石山合戦―中世の信仰と一揆」(1995年吉川弘文館刊)、神田千里著「戦国乱世を生きる力」(2002年中央公論新社刊「日本の中世11」)、谷口克広著「織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで」(2002年中央公論新書刊)、藤田達夫著「謎とき本能寺の変」(2003年講談社現代新書刊)、前掲・佐藤弘夫著「神国日本」などを参照した。


目次へ 次のページへ HPTOPへ