「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー
〜この教科書から何を学ぶか?〜
「第3章:近世の日本」批判30
30: 世界中枢の転換へ!−近代への転換としての18世紀後半と日本の民族主義的対応
第4節「幕府政治の動揺」の
二つ目の項目は、「欧米諸国の接近」である。
そしてここでは、「欧米諸国の接近と異国船打払令」と題して、18世紀後半から19世紀前半にかけて日本にいつどこに西洋の船が来航したかを地図で示しながら、時代の変わり目における日本の対応を詳しく述べている。
前の項の「田沼政治」のところで見たとおり、18世紀後半には17世紀中ごろの寛永年間以来始めて、オランダ以外のヨーロッパ諸国の船が日本近海に現れ、日本に対して通商を要求し始めた時代であった。これは同時に、今まで中国・インド・中近東を中枢とする世界の西の辺境にあって、アメリカの金銀で中枢諸国の産物を手に入れていたにすぎない
ヨーロッパ諸国が、イギリスを先頭に、中枢諸国の産物で世界交易の中心を占める綿織物などの自給を果たし、さらに優れた工業技術を背景にした安価な綿織物を、強力な武力を背景にしてインド・中近東に販売し、この地域を自国のための原材料供給地であり製品の販売地域として、政治的には植民地と
し始めた時代であった。辺境諸国が中枢を支配し始めたわけで、この意味で18世紀後半は世界史的な転換点であったのだが、この世界の動きが日本の国内の動きと連動し始め、幕藩体制に極めて危機的な状況を生み出したのもまた、18世紀後半のことであり、これは江戸幕府の崩壊・明治維新という、近代日本に直接つながる時代の始まりでもあった。
「つくる会」教科書は、この時代の転換点について、以下のように2ページ使って詳しく記述している(p154・155)。
18世紀の末ごろから、日本の周辺にも、欧米諸国の船が出没するようになった。特にロシアは、16世紀後半からシベリアの征服を開始したが、18世紀末にはアラスカとカムチャ
ツカ半島に達した。ロシアは、酷寒の地シベリアを経営するための食料など生活必需品の供給先を、日本に求めようと考えた。そこで、18世紀末から19世紀はじめにかけて、使節を日本に派遣し、通商を求めた。 幕府がこれを拒絶すると、ロシアは樺太(サハリン)や択捉(えとろふ)島にある日本の拠点を襲撃したので緊張が高まった。小林一茶の「春風の国にあやかれおろし や舟」や、「初雷やえぞの果てまで御代の鐘」といった句は、このときの北方での国際緊張が、広く一般庶民にまで感じ取られたことを示している。幕府は、蝦夷の松前藩の領地を直轄地にしてロシアに備え、近藤重蔵や間宮林蔵に、樺太も含む蝦夷地の大がかりな実地調査を命じた。 また1808(文化5)年には、イギリスのフェートン号が、オランダの長崎商館の引き渡しを求めて長崎港に侵入するという事件がおきた(フェートン号事件)。当時、イギリスはフランスと戦争状態にあり、フランス側に属していたオランダの東洋各地の拠点を攻撃して獲得しようとしていた。 こののち、フランスのナポレオンがロシアへの遠征を開始すると、日本とロシアとの緊張はゆるんだが、このように、日本はヨーロッパの国際情勢の変化に影響されるようになったのである。 一方、北太平洋では、欧米の捕鯨船の活動がさかんになり、日本の太平洋岸にこれらの船が接近して、水や燃料を求めるようになった。幕府は、海岸防備を固めて鎖国を続ける方針を決め、1825(文政8)年には、異国船打払令を出した。その後、幕府は、浦賀(神奈川県)に日本の漂流民を届けにきたアメリカ船モリソン号を砲撃して打ち払った(モリソン号事件、1837年)。蘭学者の高野長英や渡辺崋山は、西洋の強大な軍事力を知って、幕府の措置を批判した。しかし、幕府は彼らをきびしく処罰した(蛮社の獄)。 |
(1)世界史的転換点という認識の欠如した偏狭な記述
簡潔に18世紀後半以後の主な対外的な事件を記述することを通じて、日本と西洋諸国との新たな関係を記述してある。ここで時代の転換をきちんと説明しておこうという意図は良いが、記述には大きな欠陥がいくつも存在する。
一つは時代の転換が、単に「ヨーロッパの国際情勢の変化」としてしか捉えられず、これが世界史的転換だという時代認識が希薄なことが問題である。
教科書の記述では、なぜロシアがシベリアの支配を進めて東進してきたのか。さらになぜフランスとイギリスが戦争をしていたのか。どうして欧米の捕鯨船が北太平洋に出没してきたのか。こうした問題がまったく触れられず、さらにはこうした世界情勢の変化の中で、17世紀初頭から今までアジア交易の主導権を握り、ヨーロッパの盟主であったオランダの国際的な地位がどうなっていたのかという大事な問題もまったく触れられていない。そしてヨーロッパ諸国がアジアに新たに進出してくるなかで、アジア諸国はどうなっていたのか。こうした問題もまたまったく触れられていないのだ。
要するに「つくる会」教科書は、18世紀後半における世界中枢の転換という世界史的転換を、ヨーロッパ諸国の中の主導権争いに矮小化し、しかもそれを個々の国の日本との接触という個別の問題に分解してばらばらに記述したにすぎず、全体としての視点が欠けているのだ。
また二つ目は、18世紀後半から19世紀初頭にかけて新たに日本と接触して大きな問題となったのは主としてロシアであるが、そのロシアとの関係の記述の仕方が、「ロシアが北方から侵略してきた」という、極めて扇情的な記述となっていることである。
のちに見るが、ロシアがカラフトとエトロフ島の日本の拠点を攻撃した背景には、日本が当初の交渉の中で通商の実現を匂わせておきながら、幕府閣僚内部での神国・夷戎
(いてき)排除観の拡大と「鎖国」祖法化によって開国路線が後退して、当初の「約束」を反故にしたこと。そしてロシアの出現を背景にして、日本と外国との境を従来の津軽海峡から、北は
カラフト・東はエトロフ島へと拡大し、本来異国である蝦夷島を日本国内化しようとする幕府の拡大政策が力を得て、蝦夷地各地に幕府や諸藩の番所が置かれたため、今まで
、千島列島のアイヌ民族を通じて行われていたロシアとの平和的な通商すらもできなくなった。こういう、日本の動きがロシアとの衝突を生み出した事実が、教科書の記述では完全に忘れ去られている。
このため教科書の記述は、ロシアが攻撃してきたため庶民にいたるまで危機意識が広がったという民族主義的記述となっている。
したがって三つ目になるが、1825年の異国船打払い令制定の背後にも、この独善的な日本=中華意識の成立があり、世界情勢の根本的な変化を認識しないこの対応は、日本を欧米の植民地にしかねない極めて危険なものであったことも充分には描かれていない。高野長英や渡辺崋山の幕府の姿勢に対する批判を記述しても、彼らの認識の背後にあった
ヨーロッパが世界中枢へと飛躍しつつあるという歴史事実を記述しなければ、幕府の近視眼的対応の危険さもわからないし、これを批判した蘭学者たちの世界観・日本観の広さも理解できない。
さらに四つ目には、神国・夷戎排除観の拡大と「鎖国」祖法化について記述しないことは同時に、蝦夷地内国化は蝦夷地が海外貿易の国産品の主な産地となったことが背景にあり、蝦夷地内国化は輸入品の国産化と相まって近代日本を形作る経済的活力となったとともに、これによってアイヌ民族が民族の独立の危機に瀕し、民族としての存在そのものの危機に陥っていったことがまったく度外視されるという、記述の根本的な欠陥にも繋がっている。
要するに「つくる会」教科書のこの記述は、18世紀後半が世界史的転換点であり、日本史においても、近代日本に直接繋がる転換点であるという根本的な認識に欠け、そのため近代日本形成につながる様々な問題について自覚的に記述するという視点に欠け、表面的なバラバラな記述に陥っているのである。
(2)世界史的転換点としての18世紀後半−ヨーロッパによる世界中枢の侵略・植民地化という時代の始まり
冒頭で簡潔に触れたが、この時期のヨーロッパ諸国の動きは、
世界史的には歴史的な転換ともいうべき動きであった。「つくる会」教科書はこの世界情勢の転換については、第4章「近代の日本」の第1節「欧米の進出と幕末の危機」において、「産業革命と市民革命」「欧米列強のアジア進出」の項を設けて詳しく説明している。しかしこの説明も、後に「第4巻上近代編1」で詳しく検討するが、この歴史的転換の意味と背景を十分には述べていない。
そこでここでは、18世紀後半以後の世界史的転換という状況について、近代編の冒頭の検討に基づいて、大まかに記しておきたい。
@世界中枢の移動−イギリス・フランスを中核としたヨーロッパのアジア侵略の開始
18世紀後半という時期は、世界史の転換点にあたっていた。それは大まかに言うと、次のような情勢の変化であった。
ヨーロッパ諸国は、日本と同様に、中東・インド・中国という世界システムの豊かな中枢から、その産物を交易によって手に入れる辺境地帯であった。
しかし当初は中枢の産物と交換に提供できる商品に乏しかったヨーロッパ諸国が、15世紀にアメリカを植民地として、世界の産出高のおよそ3分の1を占める豊かな金銀を手に入れるや、その金銀を元手に、中枢の地域から絹織物・綿織物・陶磁器・染料・砂糖・茶などの商品を大量に買い入れるようになった。
そしてこの過程でヨーロッパ諸国内の覇権は、ヨーロッパの金融と工業の中心であったオランダに収斂し、そのために16世紀から17世紀にかけて、アジア貿易はオランダの手に帰していた。といっても、ヨーロッパ諸国が中枢からの豊かな商品を輸入する辺境である状況に変わりはなかった。
貿易を通じて、富はヨーロッパから中東・インド・中国に移動していたからだ。
(a)イギリスとフランスの勃興と覇権争いの激化
この状況に変化が生じたのが、18世紀であり、それが顕著な動きとなってアジアに影響を与え始めたのが18世紀後半であった。
18世紀になるとヨーロッパの工業と金融と海運の中心は次第にイギリスへと移り、17世紀後半の市民革命によって強大な国家を手に入れたイギリスは、3度のオランダとの戦争を経て、ヨーロッパ市場とアメリカ・アフリカ市場をオランダの手から奪い取ってゆき、さらにアジア交易においても、オランダの独占を犯しはじめた。この結果、オランダは日本の要求に応えてインド更紗(綿織物)などの商品を十分に供給できない事態に陥り始めていた。
そしてイギリスは、インドから持ち込んだ優秀な綿織物とお茶をヨーロッパとともにアフリカやアメリカに持ち込み、アフリカからは大量の奴隷をアメリカに運んで、砂糖のプランテーションの労働力として供給し、こうして得た利益を元手に、アメリカからは砂糖をヨーロッパに持ち込んで大きな利益を上げていった。
しかしこの過程でアジア、特にインドからもたらされる優秀な綿織物は、ヨーロッパの主たる製品である毛織物工業に打撃を与え、イギリス毛織物工業にも深刻な打撃を与えた。
この危機を、アメリカの大プランテーションで栽培される安価な綿花と染料を元に、アジアからの主たる輸入品・綿織物の国産化を進め、産業革命によってインド産綿織物のコピー商品を大量に生産することを可能にしたイギリスは、次第にヨーロッパとアメリカの綿織物市場を席巻していった。だがこの過程でアメリカ植民地が独立してアメリカ合衆国となったことは、安価な綿花と染料(インディゴ)の供給地をイギリスから奪い、産業革命によって綿織物業において有利な位置を獲得しヨーロッパ市場を席巻していたイギリスに深刻な危機をもたらした。
この結果イギリスは、インド綿織物に高い関税を掛けてヨーロッパ市場から追い出すとともに、安価な綿花と染料、さらには自国の綿織物の市場を求めて中東・インドに進出してかの地の武力制圧を図った。しかしイギリスに続いて18世紀後半から19世紀初頭に掛けて市民革命と産業革命を成し遂げたフランスとイギリス
との間にヨーロッパの覇権を巡る争いが激化し、この端的な表現が19世紀初頭のナポレオンによる大陸征服とイギリスの封鎖、そしてイギリスとの対決に至る一連の戦争であった。さらには両国の争いは、アメリカ合衆国以外のアメリカ植民地とアフリカ・中東・インドの地の支配権を巡って、激しく行われていった。
この過程で中東地域やインドはヨーロッパに占領され、インドの綿織物工業は破壊され、インドはヨーロッパ綿織物工業のための綿花と染料の供給地であり、ヨーロッパ綿織物の市場としての植民地と化していったのだ。
こうして西の辺境であったヨーロッパは、中枢の中東・インドを植民地とし、この地域の豊かな資源と産物を独占的に売り買いする権限を手に入れたのだ。世界システムの中枢が、中東・インド・中国から、ヨーロッパへと移動し始めたわけである。
なお18世紀後半に独立したアメリカは、フランスやスペイン・ポルトガルのアメリカ植民地を併合しながら、西部開拓という形で、これらのヨーロッパ植民地の西部の内陸に広がる原住民インディアンの居住地域を侵略し、この地の豊かな台地と資源を手に入れる動きを示していたので、アジアには直接その動きは及ばなかった。
注:しかし中国はいまだ中枢のままであった。ヨーロッパはまだ中国に売りつけられる有力な商品を持っていなかったのだ。ヨーロッパの綿織物は細糸綿による薄手のものであったので、薄手の織物である絹織物を大量に産出する中国には受け入れられなかった。インド南部および中国・日本で普及していた綿織物は、太糸綿を基にした厚手の綿織物で、主として冬季の衣服であったからだ。従って 中国から大量の絹織物と陶磁器と茶葉を輸入するヨーロッパ諸国は、中国との関係では依然として輸入超過であり、交易によって手に入れた金銀を中国に吸い取られる状況であった。この状況を改善しようとしてイギリスが打った手が、インド産のアヘンを中国に密かに輸出し、手に入れた金銀で中国から絹織物や陶磁器や茶葉を買い入れるという方法だった。この問題については、第4章第1節の「アヘン戦争の衝撃」において詳しく見よう。
(b)ロシアの東方進出の意味
こうしたヨーロッパにおける覇権争いと中東・インドの植民地化の動きは、直接には日本にはまだ及ばなかった。
これは、オランダがインド産更紗を十分に供給できなくなるという状況や、ナポレオン戦争の最中に、オランダのバタビアを占領してオランダ東インド領を支配下においたイギリスが、長崎出島のオランダ商館を接収しようとして、イギリス船が長崎港に侵入するという形(1808・文化5年のフェートン号事件)で、間接的に現れていただけであった。
18世紀後半から19世紀初頭にかけて、ヨーロッパ諸国の動きを直接的に日本に及ぼしたのは、ロシアであった。
「つくる会」教科書が記述したように、ロシア船は18世紀後半からカラフトや千島列島に現れてアイヌと交易を始め、さらに松前藩に対して交易を求めてきたのである。
ではこのロシアの動きは、1771(明和8)年にロシアの脱獄政治囚・ベニョフスキーが知らせてきたような、蝦夷地を侵略しようとする動きであったのだろうか。
実はそうではなかったのだ。
産業革命の続く西ヨーロッパに対して鉄資源や穀物・毛皮を提供して利益を上げていたロシアは、さらにアジアの綿織物・陶磁器・絹織物を直接手に入れるべく南下していたが、清によって行く手を阻まれ、清との間で管理貿易に従事し、年に一度の交易で、絹織物や陶磁器を手に入れていた。従ってこの貿易は
年に一度の大変経費のかかる遠隔地交易であり、しかもロシアは中国に輸出できる有力な商品を持たないためロシアの輸入超過であり、西ヨーロッパとの貿易で手に入れた金銀を中国に吸い取られていた。
このためロシアは、西方においては黒海沿岸まで南下して、この豊かな黒土地帯を小麦畑にかえて西ヨーロッパ向けの穀物を手に入れると同時に、トルコとの貿易を通じて中枢の
産品を手に入れ、同時に清の領土の外の北東部沿海州からカラフト・アリューシャン・カムチャツカへと向かってシベリア地域を征服し、西ヨーロッパ向けの毛皮の獲得を図る動きをとった。しかしシベリアの地は農業にはむかず、この地で中国との交易や毛皮採取に従事するロシア人に供給する穀物
や野菜は、遠くヨーロッパロシアから陸路で運ぶしかなく、この地域に住むロシア人は深刻な穀物・野菜不足に陥り、病気のために多くの者が死んだ。このためロシアは、さらに南下して日本から穀物などの食料を手に入れ、同時に綿織物・陶磁器・絹織物を直接買い入れる方向を狙ったのだ。
だからこそロシア船はしばしば蝦夷地にも出没してアイヌ人と交易を行い、さらにロシアは南下して1778(安永7)年には松前藩に通商を要求したのだ。
ロシアの動きは蝦夷地や日本を武力制圧しようとするものではなかった。この意味で「赤蝦夷風説考」での工藤平助の認識は正しかったのだ。
こうして
ヨーロッパ諸国は市民革命によって手に入れた強大な国家の武力と、産業革命によって得た安価な綿織物を武器に、今までは世界システムの中枢であった中東地域やインドを武力支配し、さらには中枢の中国をも伺う態勢に移行していた。世界史の大いなる転換であった。
こうしたヨーロッパ列強の世界交易争奪戦の余波が、ロシアの北方からの南下という形で現れ、幕府の世界交易からの日本切り離し政策である「鎖国政策」に変更を求める動きが始まっていたのが18世紀後半であった。
A日本はどの程度世界史的な動きを理解していたのか
ここでこのようなヨーロッパ諸国の動きに対して日本がどう対処したのかという問題の検討に入る前に、日本がこのような動きをどの程度理解していたのかという問題を検討しておこう。
どうやら江戸時代の日本人には、上に述べたような世界史的な情勢の転換は、十分には伝わっていなかったようだ。
なぜなら江戸時代の海外情報は、人的な直接交流が制限されていたため、長崎出島オランダ商館に滞在する「オランダ人」からの直接情報と、バタビアのオランダ商館が「
阿蘭陀風説書」として送ってくる公式文書、それに長崎に来航する中国船商人からの聞き取りである「唐船風説書」など、極めて限られていた。
この唯一のヨーロッパ情報とも言える阿蘭陀風説書も、それほど詳細に亘るものではなかった。
阿蘭陀風説書は毎年オランダのバタビア政庁で編纂されたもので、長崎出島に来航する船で出島にもたらされて、オランダ通詞の手で翻訳されて2通作られ、副本は長崎に保管され正本は江戸に急送されて、老中の閲覧に供されて幕府の対外政策の参考にされたものである。内容は概ね三つに別れ、ヨーロッパの風説・インドの風説・中国の風説で、それぞれ主だった出来事を記してある。例えばヨーロッパの風説では、諸国間の戦争と和議の成立や、諸国王室間の婚姻の状況などが載せられ、大まかなヨーロッパ情勢は漏れなく通報されている。しかしヨーロッパ各国の詳しい政治・経済・文化情報を持っていない日本人にとって、風説書に記された事件の背景と意味を正確につかむのは容易で
はなかった。
海外情報を正確につかまねばならないと日本人に意識させたのは、18世紀後半以後の、度々の異国船来訪とそれへの応対を通じてであったろう。
(a)ロシア船の来航と日本人の北方問題への開眼
まず日本人の海外認識を深めさせたのは、ロシア人の来航である。
ロシア船が日本に最初に現れたのは、1739(元文4)年の6月であった。ベーリング提督の下に編成された北洋探検隊の一部が千島列島を経て日本に接近し、三陸海岸および房総や伊豆に現れ、上陸して薪水食料を求めたのが最初である。このときは幕府はロシア人が残した遺留物をオランダ人に鑑定させて、来航したのがロシア人であったと始め
てわかったが、ロシアに関する知識がなかったために、通常の異国船取り扱いの布告を出しただけであったと言われている。
その後ロシア人は、アラスカにロシア植民地を作るとともにカムチャツカ半島を南下して千島列島に到達し、18世紀半ばには千島アイヌとも交易を開始。
松前藩も1754(宝暦4)年にはクナシリ場所を開設して、アイヌ人を通じてロシア人がもたらした品物を手に入れている。この動きは、1768(明和5)年にエトロフ島をロシア人が占拠して以後はより活発になり、蝦夷地本島にもしばしばロシア人は来航し、彼らがもたらした薬種・砂糖・羅紗・猩猩緋・ビロード・更紗などの品物が日本人商人の手を経て大坂市場で公然と売買されるに至る。このことは松前藩は幕府には秘密にしていたが、交易を仲介する商人を通じて広まり、江戸でも、蝦夷地に「赤蝦夷」という真っ赤な服
(猩猩緋の服)を着た大柄な異人が出没しているという噂が広がった。
この噂の背景が明らかにされ、日本人にロシア問題を深く認識させたきっかけが、1771(明和8)年の、ハンガリー生まれのロシア政治囚・ベニョフスキーの来航と、彼が長崎オランダ商館長に当てた手紙であった。
当時のエカテリーナ2世治世下のロシアは、西の隣国ポーランドを保護国にしようと動いており、ハンガリー貴族であったベニョフスキーは
これに反対して、1867年のポーランド分割反対運動に参加し敗れ、仲間と共にカムチャツカに流刑となっていた。しかし、流刑囚仲間と蜂起してロシア軍艦を奪い、ヨーロッパへ帰国するためにマカオを目指して南下する途中、薪水を補給するために阿波(徳島県)と奄美大島に寄航し、この時にオランダ商館長あての手紙を託したのである。
この手紙には衝撃的な内容が書かれてあった。
「今年カムチャツカから3隻の船が日本沿岸を巡航し、明年以降松前および北緯41度38分以南の近隣の諸島のすべてに対して攻撃を企てる計画についての見通しを蒐集した。またこの目的に対して、カムチャ
ツカの近くの千島列島に要塞が建設され、すでに弾薬・大砲・倉庫なども整備されている」と。
この手紙は長崎に回され、オランダ商館長はドイツ語原文をオランダ語に翻訳させ、それをオランダ通詞が日本語にして幕府へ届けた。この年の秋の終わりのことであった。
しかしロシアがどのような国か分からないので、幕府は特に対策を練ったわけではないと言われている。
注:ベニョフスキーの手紙原本では、ロシア船の来航があるやもしれずと記しただけなのに、ドイツ語からオランダ語、オランダ語から日本語への翻訳の過程で誤訳が何重にも生じ、ロシアによる蝦夷地侵略という記述になったそうだ。
注:だがこれだけ具体的な内容の手紙である。幕府が、何もしなかったというわけはなかろう。ベニョフスキーの手紙を翻訳したオランダ商館長が江戸に参府したおりに、ロシアという国とその事情を聴くという方法もあっただろう。しかもこの時はすでに、8代将軍吉宗によって洋書の輸入と翻訳が奨励された後のことなのだから、蘭学者に命じて情報を集めることもできた はずである。幕府が特に対策を練らなかったという従来の理解は、対策をとったという公式記録が残っていないだけではなかろうか。 また1739(元文4)年のロシア人の初めての来航に対して、幕府が海防を厳しくしただけという理解も不審である。この時代は8代吉宗が漢訳洋書の輸入解禁をすでに行っていた時代であり、それなりにヨーロッパ事情も手に入れていただろう。しかもオランダ商館に問い合わせれば、ロシアという国の事情も分かるはずである。江戸に参府した商館長に尋ねる手もある。また吉宗がオランダ語文献を直接利用するために、儒学者・青木昆陽や本草学者・野呂元丈に命じてオランダ語を学習させたのは、この事件の翌年・1740(元文5)年である。これはロシア船来航と関連があるのではな かろうか。このあたりのことについては、後の注で もさらに詳しく検討する。
だがこのベニョフスキーの手紙は民間にも漏れ、多くの日本人が蝦夷地へのロシアの進出に関心を持ち、事態の背景を理解しようと、輸入されているオランダ語の諸資料にあたって、情勢を学び始めた。
その中に、後に「赤蝦夷風説考」を著した工藤平助(1734‐1800)と、同じく後に「三国通覧図説」や「海国兵談」を著した林子平(1738‐93)がいた。
仙台藩医師であった工藤平助は、阿蘭陀通詞の吉雄耕牛(1724‐1800)や蘭学者の前野良沢(1723‐1803)・中川淳庵(1739‐86)・桂川甫周(1739‐86)とも知己であり、一関藩の医師であった大槻玄沢(1757‐1827)の学識を見込んで彼を仙台藩医師に推挙したのも工藤平助であった。また彼はこれらの交友関係を利用して、オランダ渡来の商品を手に入れ、蘭学に関心の深い大名や富裕な商人に売りさばき、大きな利益を得ていた人物でもある。
彼は彼の養父・工藤丈庵が蝦夷地での稲の栽培を模索していたことが縁で早くから蝦夷地にも興味を持ち、蝦夷地にロシア人が来ている情報も元松前藩士やアイヌとの貿易に従事する商人から伝え聞いて知っていた。そしてベニョフスキーの情報を知人から聞いてロシア・北方問題に関心を持ち、ベニョフスキーがもたらした情報のことの真偽を確かめるべく、友人の蘭学者らにロシア情報の提供を受け、これに自分が元松前藩士や商人から聞いた情報を加えてベニョフスキー情報の真偽を判定し、併せてロシア問題への対応策を幕府への建白書として執筆したのが1783(天明3)年の「赤蝦夷風説考」であった。
そしてこの調査の過程で、すでにロシア人が1778(安永7)年には東部蝦夷地のアッケシにアイヌ人の案内で通商を求めてやってきており、その際にはアイヌ語通訳と日本語通訳をつれて来ていた。
そして、この日本語通訳は日本人漂流民の子孫で、イルクーツクには日本人漂流民やその子孫・教え子を教師とした日本語学校もあることなどを平助は知ることとなった。
「赤蝦夷風説考」は上下2巻からなり、上巻は赤蝦夷の風説とベニョフスキー情報の真偽を論じたもので、1783(天明3)年の正月に執筆された。この中で工藤平助は、
「1782(天明2)年の阿蘭陀風説書には、ロシアが日本に陰謀を企てているとの記述があったとのうわさも聞いたが、オランダとロシアは古くから付き合いもあり、すでに享保のころにロシア人がオランダ人の船長とともに日本近海を調査したよしが蘭書には書かれているので、ロシアは通商を望んでいるが日本との交易権を取られることを恐れたオランダがこれを妨害しようとしているのではないか。さきのベニョフスキーの件も享保のころのことと同類ではないか。ロシアは交易を望んでいる」と述べ、蝦夷地の開拓とロシアとの交易の開始を建白した
。また下巻は上巻の建白の論拠となったロシアとカムチャツカの歴史と現状を述べたもので、執筆されたのは1781(天明元)年である。そして天明3年のうちにこの書物は、老中田沼意次に献上され、田沼による第一次蝦夷地調査実施のきっかけとなった
。
この時彼が利用した蘭書は、1744年版の「ロシア誌−ロシア、ムスコビア帝国の過去と現状」であり、1769年版のドイツ人ヨハン・ヒュブネルが著した「ゼオガラヒー(地理学書)」であった。この
2種類の蘭書を基にして平助は、ロシアがオランダの東に広がる昔はモスクワを首都とした国であることを明らかにし、さらに蝦夷地・カラフト・千島・カムチャツカの位置関係を正しく認識し、
カラフト・千島の北に連なるシベリアの地が、遠くヨーロッパに本拠を置くロシアに征服された経緯とその意図を明らかにし、ロシアがカラフト・千島・蝦夷地に進出してきたのは、この地を征服するためではなく、日本との貿易を求めてのことであると断定したのである。「赤蝦夷風説考」は日本で始めて体系的にロシアの歴史と地理を明らかにし、その東方進出の経緯と目的を本格的に明らかにした書物であるが、建白書であったために公刊はされなかったが、工藤平助が使用した蘭書を翻訳したのは当代一流の蘭学者たちであり、ここに
示されたヨーロッパの歴史や地理についての認識は、当代蘭学者共通の認識であったと思われる。
「ロシア誌」は阿蘭陀通詞の吉雄耕牛が最初所有し、その後蘭学者でもあった福知山藩主朽木昌綱(1750‐1802)の手に渡り、そこから前野良沢に下賜されたものという。また「ゼオガラヒー」は、最初に入手したのが杉田玄白であり、門人の大槻玄沢
と桂川甫周が翻訳したものという。どちらの本も翻訳されたのは、平助の著書の下巻が執筆された1781(天明元)年以前の話である。
また林子平は兄が1756(宝暦6)年に仙台藩士となった関係で仙台に下ったが、彼自身は無禄で役にもついていなかったので学問修行のために度々江戸に出、さらにその間に、1775(安永4)・1777(安永6)・1782(天明2)年と3度長崎にも遊学している。彼がロシア・北方問題に関心をもったのは、長崎に遊学して、そこでベニョフスキー情報を耳にしてからであったという。
彼が情報を得たのは、江戸で知り合った工藤平助であり、また平助の周辺にいた蘭学者からでもあった。彼と交友があったのは、大槻玄沢・桂川甫周・森島中良(1754?‐1810? 甫周の弟)らで、甫周は彼の著「三国通覧図説」に序文を寄せ、工藤平助は「海国兵談」の序文を書き、森島中良は
この書の出版の後援者となっている。また長崎遊学中の1778年にはは当時のオランダ商館長のアーレント・ヘイトから世界地理の知識やロシア事情を聴いている。
子平が1785(天明5)年に著した「三国通覧図説」は、朝鮮・琉球・蝦夷の3国の関係図を著し解説を付したものだが、彼が力を入れて書いているのは蝦夷についてで、ロシアがカムチャ
ツカから千島に進出し、すでにラッコ島(ウルップ島)をとり、エトロフ島を取った上は蝦夷地の東北部に至るのは時間の問題と見て、蝦夷地開拓を急ぐべしと提言している。そして続いて1786(天明6)年から1791(寛政)年までかかって刊行した「海国兵談」では、ヘイトからヨーロッパの国々が植民地を獲得する方法は、最初は平和的関係を結んで、ついで領民を手なづけてゆくころから始まるとの教えを受けていたので、子平はロシア人の千島南下とアイヌとの交易の実施をロシアによるこの地の征服の兆しと認識し、ベニョフスキーもロシアの手先として日本沿岸を調査したものだと断定している。そして日本は海に囲まれた国であるので、外国の侵略を受けやすく、これを防ぐには海軍と大砲を持たねばならないと警告した。また近年韃靼や中国がヨーロッパ人とも交わっていると聴くので、彼らがヨーロッパ人に手なづけられてそそのかされ、彼らが日本に攻め込んでくる危険もあると警告した。この上で彼が提案したことは、今
は長崎港にだけ砲台を設けて手厚く警備しているが、海に囲まれた国である日本はこれでは外国の侵略を防ぐことはできず、特に江戸を控える安房・相模の海にはまったく備えがないことは、江戸からそのまま中国・オランダまで境なしの水路で繋がっていることになり、極めて危険であると警鐘を乱打している。
この「海国兵談」
はさきの「赤蝦夷風説考」が翻訳された蘭書を基礎にした正確な知識に基づいていたのとは違い、子平が蘭学者から聞きかじった知識を基にした極めて雑な書物ではあったが、日本において初めて、日本へのヨーロッパ諸国の武力侵略の危険があることを表明した画期的な書物であった。しかも出版された時期が、ロシア人が相次いで蝦夷地に来航する中で、1789(寛政元)年のクナシリアイヌの蜂起が起こり、この蜂起の背後にロシアの手があるのではないかと疑われた時期であったため、部数は少なかったが一般に販売された本書が、国防上の機密事項を明らかにし、しかも幕府の専権事項である外交に民間が口を挟んだとして禁書となった。そして
翌1892年5月に林子平が「海国兵談」出版を理由に処罰されたわずか4ヶ月後、ロシア皇帝の国書を持って交易を望む特使が長崎を訪れ、どう対応するか幕府が苦慮することとなったのだ(この件については、
後に述べる)。
こうして18世紀後半からの相次ぐロシア船の来航は、日本人をしてヨーロッパ情勢が風雲急をつげており、世界情勢をより詳しく知らなければならないとの意識が、日本人につよく認識され始めたのだ。
だが直接ヨーロッパを検分できたわけではなく、同じ蘭書の知識を基にしても、工藤平助はロシアは貿易を展開するとしてあまり危機感は持っていないのに対して、林子平はロシアが蝦夷地を攻めると危機感を持ち、さらにはヨーロッパ人に手なづけられた韃靼人や中国人が日本に攻めてくるという危機感もあり、江戸の防備も手薄であるとして、大砲と軍艦で備えるべしとした。
この林子平の危機感の背景には、オランダ商館長ヘイトから聞いたヨーロッパ諸国の他国侵略の手口の情報があるとともに、当時人口に膾炙し始めていた日本=中華意識と対になった外国人=夷戎(いてき・野蛮人)という観念が背景にあるのではなかろうか。特に彼が韃靼人や中国人がヨーロッパ人の手先となって日本を攻める可能性ありと判断した背景には、モンゴル帝国による日本侵略という歴史的事実を背景にした韃靼・中国敵視観が存在しているようにも思う。
平助と子平はほぼ同じヨーロッパ情報を基にしていても、その背後にある人間観が違ったために、これだけロシア認識に大きな差が出来たのであろう。
注:ここで興味深いことは、工藤平助や林子平が、1771年のベニョフスキー情報に接してロシア・北方問題に関心を持って周辺の蘭学者らから情報を蒐集したとき、その時すでに蘭学者らが、最新の地理学やロシア誌の書物を手に入れ、それを翻訳していたことである。上記の二つの 蘭書の翻訳は、ベニョフスキーの情報が入ってからわずかに10年以内のことである。1771年という年は、杉田玄白らが蘭学解剖書の「ターヘル・アナトミア」の翻訳を開始した年であり、草稿は早くも翌年に完成している。そして1773(安永2)年に玄白は、翻訳書出版の予告として「解体約図」を出版し、「ターヘル・アナトミア」の翻訳が「解体新書」として出版されたのは、1774(安永3)年8月である。この作業を通じて 初めて体系的なオランダ語をと日本語に翻訳するための辞書が作られたわけで、この渦中の1772(安永元)年には、翻訳にも携わった前野良沢が2度目の長崎遊学を果たしている。この時の長崎遊学で前野良沢がベニョフスキー情報に接した可能性がある 。しかし、そもそも解体新書翻訳に携わった人たちは、幕府中枢にも繋がる人々であったのだから、その筋からベニョフスキー情報が入った可能性もあるし、または幕府から非公式に彼らに対して、ロシア情報の翻訳依頼があったとも考えられる。杉田玄白は小浜藩の奥医師であり、桂川甫周は将軍家奥医師である。さらに興味深いことは、林子平が長崎でいろいろと教わったというオランダ商館長ヘイトは、桂川甫周ともすでに懇意であり、1772年4月に彼らは江戸で歓談している。 これはベニョフスキーの手紙が明らかになった翌年のことであり、歓談の中でロシア情報が交換された可能性は高い。また同じくオランダ商館に1775年に来日したスウェーデン人の植物学者・ツュンベリーが1776(安永5)年4月に商館長ヘイトと共に江戸参府をした折には、桂川甫周・中川淳庵(1739‐86)らが歓談している。このツュンベリーはあとに見るようにシベリアに漂流した伊勢の船頭大黒屋光太夫がシベリアにいたおりにはロシアのペテルスブルグの王立科学院で教えており、スウェーデンはロシアの隣国で同じスラブ族の国であるから、彼はロシア語にも堪能でありロシア情勢にも詳しかったであろう。そしてツュンベリーと歓談した桂川甫周には、大黒屋光太夫の帰国に尽力した博物学者ラクスマンからの手紙が託されており(ラクスマンはツュンベリーの友人であった)、桂川甫周は帰国した光太夫が1793(寛政5)年9月に将軍家斉に謁見 したおりに光太夫に様々な質問をした役人であり、後に彼のロシア滞在記を詳しく聞き取ってその見聞録を「北槎聞略」と題して本にまとめた当人でもあった。さらに同じく中川淳庵も解体新書の翻訳に関わった蘭学者であり、老中田沼意次と懇意にしていた本草学者・平賀源内と共に、1764(明和元)年にアスベストで出来た不燃布・火浣布を作った人物でもある。工藤平助や林子平にロシア情報を提供した蘭学者というのは、解体新書翻訳に関わった人物たちであり、彼ら自身が幕府や大名の奥医師であり、老中田沼意次ともかかわりのある平賀源内とも深く繋がった人物であったのだ。ベニョフスキー情報が幕府に入った1771年の秋という時期は、田沼意次は側用人兼務の老中格であり、翌1772年の1月には老中となり、幕政の中心にいた。1770(明和7)年には平賀源内を幕府の阿蘭陀翻訳御用に任じ長崎に送っている実績のある意次から、彼の周辺の蘭学者にロシア情報の翻訳依頼があった可能性は高い。ベニョフスキー情報に接した幕府は、ロシア人の来航に備えて、少なくとも情報収集を始めており、さらには通商を要求されたときには、どう対処すべきかも考えていた可能性はある。
注:近世編2の【29】で注記した秋田孝季の田沼意次との書簡には、興味深い事実が伺える。 この文書の原文は「安永戊戌年(7年、1778)オロシア艦蝦夷地を偵察し松前殿よりその訴状度々政断あるべく催促是在り候 辛爾乍ら御貴殿長崎に在りて平戸和蘭陀商館に通訳の砌りオロシア語達弁なりとて平賀源(「内」を略す)より聞及び候に付き伏しこの田沼が此の度び願ひの儀是在り是状を三春殿に委ね仕り候 寛永癸酉年(10年、1633)以来鎖国令解ざるも貴殿を幕許にて山靼(海外)諸国の地情巡廻に役目を仕じ(任じ)候も諸藩に密なるの隠密使行処に候 今上(「当今」の意か)夏七月取急ぎ江戸城大番頭に登城あるべく申付候 右之意趣如件 安永戊戌年(1778)六月二日 田沼意次 華押 秋田孝季殿」である。孝季は若い頃オランダ商館に通詞として勤め、ロシア語にも堪能だと意次は平賀源内から聞いている。平賀源内は、1752年から53年に掛けて長崎遊学をなし、さらに1770年から71年にかけても長崎遊学を果たしている。さらに彼は1773年には秋田藩での鉱山開発に従事している。秋田孝季とは二度目の長崎来訪で知り合ったか。また興味深いことに、この当時長崎にはロシア語を理解できる外国人が滞在していた。スウェーデン人のツュンベリーである。彼は1775年に来日し、翌年江戸参府に同行、翌1777年に離日している。意次が孝季にロシアの蝦夷地来航を知らせ、外国探査を依頼したのが1778年であるから、孝季がロシア語を学びえたのは、 それ以前、ツュンベリー来日時の前後ではないのか。だとしたら彼がロシア語を学んだのも、ベニョフスキーの手紙がきっかけであったかも知れない。また意次の孝季への手紙には「寛永の鎖国令」という言葉も出てくるので、幕府はベニョフスキーの手紙でロシアの蝦夷来航を知って以来、新たな外国への対応策を検討していた可能性 もある。
(b)イギリス船の来航をきっかけとした、世界認識の変化
さらに、ヨーロッパにおける覇権のオランダからイギリスへの移行は、どう日本に伝わっていたのだろうか。
蘭学者・杉田玄白は、晩年のロシア情勢を論じた著作「野叟独語」でオランダとイギリスとの関係を次のように述べている。
「方々で、異国船が漂着することがあるが、その多くはイギリス船のようだ。しかしオランダとは、わが国は特別に条約を取り交わしていて、百年以上も前から、日本への来航を許しているのだが、人情が変わり、国力が盛衰することは、どこの国でも同じであるから、オランダが、百年前とすべてで同じであるかどうかは疑問である。数千里も離れた国のことで、しかも一方通行のことだから、どうもその点が疑わしい。ことに、最近オランダから運んでくる荷物は、前とはずいぶんちがっており、またその船の様子も変わっているということである。オランダの国が衰えて、イギリスなどに降伏し、オランダ人とイギリス人が入れ替わって、イギリスの船が港に入り、イギリス人も混じってやってきていたりするのではないか。そんな疑いがないわけではない。」と。
玄白がこの書物を書き終えたのは、1807(文化4)年のことである。
そして玄白がここで述べていることは、彼の日記である「鷧斎日録」寛政9(1797)年7月12日の状に記録された、この年の和蘭風説書の写しに基づいた、「ヨーロッパおよびインドで度々戦争があり、イギリスが諸国を乱し、オランダ商館を奪ったために荷物も少なく、その上、大船は軍用に用いられているため小船で来航し、新任の商館長も乗船できなかった」という記事を基にしている。
すなわち当時フランス革命によって成立した革命政権がオランダを征服し、そのためオランダバタビア植民地が独立してバタビア共和国を名乗っていたが、
バタビア共和国が1795年にフランスと和睦するや、イギリスは艦隊を派遣してオランダ沿岸を封鎖するとともに、オランダ植民地の征服を図り、バタビアは孤立してしまった。そのためヨーロッパからの舶載品もなく、北アメリカの小型船を雇い入れて日本に派遣したものであった。
そしてイギリスは、玄白が先の記事を書き上げた翌1808年に長崎出島のオランダ船接収行動に打って出た。すなわちイギリス軍艦フェートン号長崎港侵入事件である。オランダ国旗を掲げたフェートン号を出迎えた商館員二人を船に監禁したが、構内にオランダ船はいないことを確認し、幕府と交渉して商館員釈放を条件に食料と水の供給を受けて、長崎港から消えた。
この後1811(文化8)年年にイギリスはオランダのジャワ島制圧したのでバタビア共和国は崩壊し、オランダに返還されたのは、1816(文化13)年のことであった。こうしてバタビアのオランダ植民地もイギリスの手に落ち、ナポレオンによるヨーロッパ大陸侵略戦争の最中において、オランダ国旗が終始唯一はためいていたのは長崎出島
だけとなってしまった。このためこれまでアメリカ船などを雇って細々と続いていたオランダによる対日貿易も翌年1809(文化6)年以後途絶し、1813(文化10)年6月には、長崎オランダ商館接収のためのイギリスジャワ総督が派遣した使者が長崎に来航する事件も生じた。
オランダ船が次に長崎に来航したのは、ナポレオンがイギリスに敗れてオランダ王国が復活した1815(文化12)年の2年後、1817(文化14)年のことであった。1803(享和3)年に商館長として着任したヅーフは、1817年に交代するまで、一人長崎でオランダ国旗を守り続けたわけである。
玄白が1797(寛政9)年にであった事件は、このような一連のフランスとイギリスの覇権争いの一場面であったわけだが、阿蘭陀風説書にはこの状況が詳しく書かれていないために、玄白が理解できたことは、ヨーロッパで大規模な戦乱が起きており、その元凶はイギリスであり、ためにオランダの商館などもイギリスに
奪われているということだけであった。ヨーロッパの覇権を巡ってイギリスとフランスとの間で激しい戦争が起きており、オランダはその狭間で揺れる弱小国に成り下がっていたとは、風説書には書いてなかったのだ。ただ玄白は、オランダ通詞から聞いたオランダ船の様子の変化や新任の商館長も乗船していないことなどから、ヨーロッパにおける覇権がオランダからイギリスへ移ったのではないかと、背景を嗅ぎ取っただけだった。オランダ語の地理学書などを手に入れて門人たちに解読させていた玄白にしても、この程度の知識だったのだ。
しかしこれが1808年のフェートン号の長崎港乱入事件で表面化し、幕府はオランダ商館長ヅーフを江戸に召還して尋問したが、オランダは真実を知らせようとはしない。
この時商館長が幕府に話したことは、オランダ本国がフランスに占領されているということだけであった。
結局ことの真相が分かったのは、1811(文化8)年にクナシリ島で捕虜となったロシア軍人ゴロ−ニンに確認してからである。幕府はゴローニンからバタビアがイギリスに占領されたことを知り、オランダ
商館長は追求されてイギリスによるバタビア占領を認めた。
注:このゴローニンと幕府のオランダ通詞とのやり取りは、興味深い。幕府はゴローニンがかなり学識もあり情報通であることがわかるや、幕府が知りえた情報の可否を彼に問いただしている。その内容は、ゴローニンを捉えた原因ともなったロシア船による カラフト・エトロフ襲撃事件の顛末に留まらず、1792年のロシア使節ラクスマンの来航や1804年のロシア使節レザノフ来航の顛末にまで及び、さらにはこの一連のロシアとの交渉の過程でオランダから得た情報の可否についてまで、オランダ通詞はゴローニンに問いただしている。またゴローニンもまた積極的に、自分の知っている情報を開示し、オランダが流した情報に多くの虚偽が隠れていることを指摘している。 ゴローニンの所にロシア語を学びに来たオランダ通詞・村上定助がゴローニンに語ったところによると、オランダは、「ロシアとイギリスが同盟してフランスとその同盟国と戦争しており、イギリスはインドに支配権を及ぼし、ロシアはアリューシャン列島や千島列島を併呑したと指摘した。そして両国は同盟して日本にも迫ってきているのであり、その一つの現われが、1796年のイギリス人ブロートンによる日本沿岸調査だと言明した」ようである。ゴローニンはこれに対して、ブロートンの行動は純然たる海図作成にあり、その目的は将来日本と交易を開始するためであることを指摘し、オランダがことさらにイギリスとロシアの同盟を言い募り、これらの国が日本を侵略しようとする意図があると日本に吹き込むのは、オランダが対日貿易を独占する意図があるからだと指摘。さらにその証拠として、バタビアからアムステルダムに回航されたオランダ船をイギリスが拿捕したおりに、バタビア政庁からオランダ政府宛の報告書があって、そこには、オランダ人が日本人にロシアに対する反感をうまく吹き込み、ロシア人が2度と日本来航を思い立たないような返事を持たせて、ロシア使節レザーノフを追い返したと述べた一節があったことを開陳している (「日本幽囚記」上巻p371・372)。またゴローニンは、すでにオランダは独立国ではなくフランスの一属州に過ぎないことをロシア語の新聞記事などを示して教えたが、この情報に対してオランダ人は、長崎に入った情報によって、モスクワがナポレオンによって陥落 したとの知らせをもたらし、ロシアを牽制している (「日本幽囚記」中巻p176〜178)。ロシアとオランダとのすさまじいばかりの情報戦である。また幕府はオランダ通詞を通じて、さまざまな海外文献の日本語訳を提示し、その訳が正しいのかどうかをゴローニンに確認している。その中には、ベニョフスキーの「カムチャ ツカ脱走記」や「1799年露英連合軍のオランダ攻撃物語」「ロシア帝国誌」などがあった (「日本幽囚記」上巻p346)。さらにすでに作成中の露日辞典の草稿を示して錯誤を正したり、ロシア語文法について解説を依頼する(「日本幽囚記」中巻p137)など、幕府が1808年からオランダ商館員の助力でフランス語やロシア語の学習を始め、さらに1811年に幕府天文台に「蛮書和解御用」を設置して海外情報を積極的に輸入・翻訳していた成果を確認していることも注目される。露日辞典草稿を示し、ゴローニンにロシア語文法の解説を依頼したのは、オランダ通詞馬場佐十郎(1787‐1822)で、この文法書は1814(文化11)年に「魯文法規範」として出版されている。 なお、ゴローニンの日本幽囚記によると幕府は、1792年のラクスマン来航時にすでにロシア語辞典の編纂に着手していたようである(「日本幽囚記」上巻p253)。さらに馬場佐十郎はゴローニンの所に来る以前に、カムチャ ツカに漂流した後にロシアから送還された大黒屋光太夫からロシア語を伝授されている。1808年のことである。これらの事実は、ロシアが日本の北辺に現れる中で、幕府として手をこまねいていたのではなく、より正確な情報を収集するために、さまざまな手を取っていたことを示している。
オランダからの公式情報と書物による知識だけでは、世界の動きは詳しくは知ることができなかった。オランダからの公式情報と書物で得た知識だけでは、時々刻々と変化する世界情勢を
正確に掴み取るには限界があったのだ。だから幕府も、外国人による直接情報を求めたわけである。
ロシアの来航の意図を工藤平助は交易目的と断じたが、同じ頃に蘭学者の周辺にいた数学者である本多利明は、侵略の意図がないとはいえないとしていた。外国の実態を知らないということは、どうしても本で得た知識の解釈にも、さまざまな感情が介入するため、人によって異なった判断をする。
後に見るが、この時代には尊王意識が幕府によっても涵養されていたが、これによって尊王意識と表裏一体の関係にある日本版中華思想が日本人の間に喚起され、朝鮮や中国などを野蛮人として蔑視する傾向が生まれていた。このことが歴史的知識としての元寇の記憶などとも相まって、ヨーロッパ諸国が日本を攻めてくるという感覚を生み出し、さらには林子平のように、ヨーロッパ人の手先となって韃靼や中国が日本に攻めてくるという感覚をも生み出していた。
もちろんこのような感覚は、ヨーロッパの現状についての正しい知識に基づいたものではなく、この国々がアフリカやインドを侵略した経緯やそれを可能にした国力・武力の実態などを正しく知った上での危機感ではなかったが、このような感覚が外交政策立案にも大きく影響し、判断の違いを生むこととなる。
(c)アヘン戦争直前の日本人の世界認識
18世紀後期から19世紀初頭にかけて活躍した蘭学者やその周辺の人々の世界情勢認識は、以上のようなものであった。
オランダ語の諸文献の翻訳と阿蘭陀風説書だけでは、ヨーロッパ諸国が世界を征服し始めており、今や文明中枢である中国すらも危険な状況であることや、そのヨーロッパの覇権を握っているのはオランダではなくイギリスで、そのイギリスがフランスなどと激しい競争を演じながら、世界征服に邁進しているさままでは、正確につかんでいるとは言えなかった。
しかしこの状況は、イギリス軍艦フェートン号の長崎港侵入事件を直接の契機とし、上記のロシア海軍士官ゴローニンからの海外情報の直接聴取を通じて大きく変化し始めた。日本が海外との交通を制限している間に、世界は大きく変化し始めていることが、これらの直接接触を通じて直接感じられたからであった。
そして19世紀も半ばになると、日本人の海外認識は劇的に深まったものとなる。
杉田玄白らから一世代下の世代に属する、江戸後期の経世家であり、三河(愛知県)田原藩家老であった渡辺崋山(1793‐1841)になると、その認識した世界情勢と日本の置かれた位置の危機的な状況についての認識は、極めて正確なものとなっている。
彼がアメリカ船モリソン号を幕府が攻撃したとの情報を得て憤激して、1839(天保10)年に書いた幕政批判の書である「慎機論」には、すでに五大州のなかで、アメリカ・アフリカ・オーストラリアの諸州はすべてヨーロッパの支配下にあり、アジア州でも独立を保っているのは、中国・ペルシア・日本の3国に過ぎないとの認識が開陳されている。そして日本が長い間世界の激震に巻き込まれずに繁栄と平和を謳歌できた背景には、海に囲まれた国という条件があったのだが、ヨーロッパ諸国が航海の術と大砲を著しく進歩させた現在では、繁栄と平和を謳歌した基盤である海に囲まれた状況が、日本を
ヨーロッパ諸国の侵略の牙に直面させる危機の条件に転化していることを憂いている。また同じ時に書かれ、江川太郎左衛門(1801‐55)が同年に江戸湾防備方法を固めるための江戸湾巡察の知見に基づいて我が国の国防のありかたを建策した「巡見復命書」に付属史料として添えられるために崋山が執筆した「再稿西洋事情書」では、ヨーロッパ諸国が高緯度で気候も土壌も悪い中で強大な力をもった背景は、彼らが
物理学や化学など窮理の学を重視して科学技術を発展させただけではなく、
窮理の精神を人間社会のあり方にも及ぼし、社会のあり方も進んだものに改編した。すなわちヨーロッパでは、その学を進んだ教育制度を元に国民に広め、
大学教育を受けたものはには職業選択の自由が与えられ、したがって身分制度が存在しない。このような社会を基盤にしているからこそ進んだ科学が発展したのであり、ヨーロッパ諸国は進んだ科学技術と航海術を持って海外に雄飛して交易を行い、あわせて豊かな諸国を植民地にしてきたことが背景にあると喝破している。
注:また崋山に外国事情を教授した高野長英は、同じくモリソン号事件での幕府の対応に憤激して書いた「夢物語」の中で、イギリスと中国との貿易の事情について述べている。そこでは増大するヨーロッパでの良質の茶葉の需要に対して、イギリス領の南海諸島やインドやアメリカ産の茶葉は質が悪く、そのためイギリスは良質の中国茶を手に入れるためになんとしても中国との交易をしなければならない事情が語られている。しかしこの貿易ではイギリスは輸入超過であり、中国茶に対する対価として中国に輸出する有利な品物を持ってはいない事情については、長英は把握はしていない。実際にはイギリスはこの貿易における赤字を埋めるためにインド産のアヘンを中国に密貿易し利益を得ていたが、これを清朝が禁止したことからアヘン戦争は始まったわけである。一方崋山は同じく草稿として書いた「外国事情書」の中で、当時のイギリスと中国との貿易事情について述べ、公式の中国の書物ではマカオに来航するヨーロッパ船は10隻とされているが、ヨーロッパの書籍では、イギリス船89隻・アメリカ船30隻・デンマーク船8隻となっていることから、彼らは密貿易をやっているのではないかと疑っている。長英や崋山にしても、直接外国事情を見聞したわけではないから、書物には記されない裏の事情はまったく分からなかったわけである。
その上で崋山は、日本の政治の状況を憂える。
日本がヨーロッパ諸国に飲み込まれないためには、進んで開国してこれらの国々から学び、ヨーロッパの科学によって海防を厳重にすることが必要である。しかし日本の為政者は井の中の蛙であり、今だ世界の動きを注視しようとしない。世界はどんどん変化しており、古代において進んだ文明を生み出した諸国はすべて
ヨーロッパ人に征服され、文明の中枢である中国が夷戎(いてき・野蛮人)と揶揄したヨーロッパによって征服されつつある。なのに日本ではその自国を中華であると自称した中国の古代の聖人の学を後生大事に守っている儒学派が幅を利かせており、日本の為政者は聖人の学から離れて世界の実情を真摯に見つめ、ヨーロッパ諸国の勃興から学ぼうとしていない。古の中国の聖人の時代の夷戎と、今や科学と武器で武装した現代の夷戎とは大きく異なっていることを認識すべきだと。
渡辺崋山はこれらの書において世界情勢の激変を詳しく語り、世界の動きを見ようとしない儒学派が幕府において重きをなし、幕政のあり方を憂える人々の意見具申を阻害していると、当時幕閣に大きな力を持っていた林家の儒学を口を極めて非難している。
だが崋山の世界情勢認識は、当時の日本人の共通した認識ではなかった。
これは一部の蘭学を学ぶ者たちの間の共通認識に過ぎず、幕府や諸藩を動かす権限を持った人々の間では、この認識を持った者は少なかった。
崋山が世界情勢を知るにあたって多くの外国文献を翻訳した資料を提供し、そこで得た知見を彼に話して聞かせたのは、高野長英(1804‐50)、小関三英(1787‐1839)らの蘭学者である。
彼らが翻訳した書物は、1817年刊行のプリンセンの地理教科書第2版(これを1824年刊行の他の書物の記述で一部訂正)と、1821〜26年に刊行されたウェイク・ルーランスゾーンの地理学辞典のイギリス・アメリカ・ロシアの項、さらには、1820〜28年に刊行されたニューエンホイス学術辞典のうち33年刊行の補遺編を含めた中のイギリスに関する項であり、この時期でも刊行された辞典類が主な情報源であり、ヨーロッパで日々刊行されている新聞情報はまったく使われていない。このため蘭学者らの情勢認識も、どうしても現実より10年程度遅れていたのだ。
そして高野長英は仙台藩の陪臣の3男で一町医者、小関三英は鶴岡藩足軽の子で長じて医者となって岸和田藩医となった微禄の者。幕政にも藩政にも参加できない身分である。
また渡辺崋山は田原藩家老の末席に連なり、藩の海防係を兼ねるとはいえ、田原藩三宅氏は2万石の小大名で老中などの要職についたことのない弱小藩であったので、崋山は家老とはいえ幕政にはまったく口を挟める立場にはなかった。しかし高名な儒者で画家でもあり、蘭学の知識にも明るい崋山の周りには、多くの時勢を憂える儒者や幕臣・諸藩士が集まっていた。その中には、当時勘定吟味役の川路聖謨(としあきら)(1801‐68)や幕府領伊豆韮山の世襲代官である江川太郎左衛門ら、下役ではあるが蘭学の知識にも世界情勢にも明るく、この新しい知見に基づいて幕政を変えようとしていた人々がいた。
だからこそ渡辺崋山がこれらの人々を通じて、斬新な世界情勢認識と幕政改革案を幕府に建策し、幕政を動かすことを恐れた目付・鳥居耀蔵(1796‐1873)が、崋山らが無人島への渡航計画を密かに練っただとかアメリカへの渡航を企てているとかの無実の罪をでっち上げて蛮社の獄を起こし、江川太郎左衛門の復命書を通じて崋山の外国事情書が建白されるのを妨害したのであった。
この蛮社の獄をめぐる問題は後に見ることとするが、渡辺崋山の優れた認識は、彼が1839年の蛮社の獄で弾圧されて閉門蟄居の身となり、1841(天保12)年に自刃した後に、アヘン戦争の衝撃の中でこれらの
幕臣の手によって実現されることとなる。
(3)神国・夷戎排除観の拡大と「鎖国」祖法化−対ロシア交渉の国内的影響−
少し寄り道が過ぎたが、当時の日本人がどの程度海外情勢を認識していたかわかったことであろう。しかしこれとてまだまだ不正確であり現実とは多少のずれもあり、さらにはこの進んだ海外情勢認識にしても本の記述を元にしたものであって、現実にヨーロッパ勢力のアジア進出を目の当たりに見たものではないので、これらの情報から形成される対外観には、人によって異なるものとなることは、先に工藤平助や林子平、さらには本多利明らの例によって見たとおりである。
そしてこの対外観の差異が、ヨーロッパ船の相次ぐ来航と通商要求に対して、幕府の対応にも大きな温度差を生み出し、このことが日本全体にも激震を走らせることとなる。
その最も良い例が、ロシア船の来航とそれに対する幕府の対応の変遷である。 「つくる会」教科書が記した、ロシア船によるカラフトやエトロフ攻撃は、幕府政治にも、日本全体にも大きな振動を起こした。この事件の詳細とその背景について以下に検討しておこう。
@ロシア船による北方襲撃が放った戦争の危機の激震
1806(文化3)年9月11日、1隻のロシア船がカラフトのアニワ湾岸のオフイトマリとクシュンコタンを襲撃し、米や衣服などを奪って部落そのものを焼き払った。そして翌1807(文化4)年4月には
2隻のロシア船がエトロフ島のナイホを襲い、番人を含めて5名の日本人を拉致して部落を全滅させた。そしてさらに数日後にも他の湾の箱館奉行所役人と盛岡・弘前藩兵が詰めていたシャナにロシア船は来襲し、陸戦隊を上陸させて日本側と交戦し、日本側の大砲5門を捕獲して日本側守備兵を敗走させ、部落を焼き払った
(この大砲のうち2門はポルトガル製の古いもの、1門は日本製、他の2門は不明である)。その後5月にはロシア船は再度カラフトのアニワ湾ルウタカにも来襲し、居合わせた日本船4隻を焼き払い積荷米や塩・魚を奪い取り、魚を入れた倉庫3棟を焼き払って立ち去った。そしてさらに続いて6月には、礼文島沖で松前の商船を、また利尻島に停泊中の幕府船と松前の商船を襲ったのである。
またこの4月のエトロフ島シャナの襲撃に際してロシア側は、拉致してあった番人に、今回の敵対行動をとった理由を明記した手紙を持たせて釈放した上、利尻島を襲撃後立ち去る前には拉致した日本人のうち4名を釈放し、番所のあったソウヤに送還した。
この時のロシア側書簡には、「一昨年に長崎に日本人漂流民4人を送り届け、ならびに交易を願出る使者を派遣したが交易の願いは実現しなかった。その上、今後は日本人漂流民があっても送還するには及ばず、ロシアが日本に船を寄せた場合には、船を焼き払うとの布告が出され、このことについてロシア皇帝は立腹した。この際に力の及ぶ限り日本を焼き払うとの意見も出た。今回酒や米などの品物を奪ったので海賊かと思われたかもしれないが、これは通商の願いが叶わずやむを得ず出た行動であって、けして盗賊の営みではない。今後通商の願いが実現した暁には、奪った品物は返還し代金も支払う所存である」と今回の行動を弁明しているが、これに続くところでは、日本が今後も通商を認めないのであれば、多数の軍艦を派遣してさらに攻撃するとの脅しの文句も入っていた。
この暴挙を行ったロシア船は、ロシアの露米会社所有の商船であったが、これを指揮していたのはロシア軍人の、フヴォストフ中尉とダヴィドフ少尉であり、1804年の長崎での通商交渉に失敗したロシア使節レザノフがロシア皇帝アレクサンドル1世に送った日本の北辺に武力攻撃を仕掛けることで通商を実現しようという意見書に基づいたもので、皇帝の裁可が下りないままにレザノフが独断で、当時軍籍に属したまま露米会社商船に乗り組んでいた二人の軍人に襲撃を指示したものであった。
ロシア船の1806年のカラフト襲撃の報は翌1807(文化4)年の4月に松前に届き、ただちに松前奉行からの報告書が幕府に届けられた。そしてこれと相前後して、松前藩・
盛岡藩江戸藩邸からも報告書が届けられた。続いて5月にはロシア船がエトロフ島を襲撃した情報も届き、幕府を震撼させることとなった。
幕府は1807(文化4)年5月に盛岡藩・弘前藩、さらには秋田藩や庄内藩に蝦夷地への出兵を促し、盛岡藩972名・弘前藩800余名・秋田藩591名・庄内藩319名の計3000名近い兵力が蝦夷地に派遣され、
箱館・ウラカワ・アッケシ・ネムロ・クナシリ・福山・江刺・ソウヤ・シャリの各地に配置された。またこの厳重な警備は翌年1808年以後も継続され、盛岡・弘前両藩各250名と仙台藩2000名・会津藩1600名の体勢で警備が行われた。さらに幕府は、若年寄堀田正敦・大目付中川忠英・目付遠山景晋など対露関係の有力者を蝦夷地に派遣して諸藩の兵を指揮させるとともに、小普請方の近藤重蔵を西蝦夷利尻あたりまで、徒目付神谷勘衛門を東蝦夷
クンシリあたりまで派遣して、要害を置くべき地を巡察させ形勢を視察させた。
このような急激な動きを幕府はけして公表しなかったのではあるが、ロシアによる襲撃の報や幕府の動きは、諸藩の江戸留守居役による情報収集によってただちに全国の諸藩に伝わり、
箱館奉行所の幕府要員や蝦夷地に派遣された下役、さらには蝦夷地警備に当たっている松前・弘前・盛岡諸藩の目撃・体験情報も流布し、これに襲撃された会所や商船にいた商人からの情報も加わって、ロシア船が蝦夷地を襲撃し、幕府が大規模な軍隊を派遣したことはただちに人々に、尾ひれをつけて伝わったのだ。
江戸では6月ともなるとロシア船来寇のうわさが駆け巡り、すでにロシアと盛岡・弘前藩兵が戦闘におよび、ロシアの軍艦は数百艘で津軽海峡が封鎖されて松前は孤立し、箱館奉行は捕虜となり松前藩の家老の一人はロシア側に寝返ったなどの風説が飛び交った。そしてこの風説は鎌倉時代のモンゴルの来寇と比べられ、あの時は伊勢や石清水の神威によって元軍10万は海底に沈み事なきを得たが、今は神威もあまり頼りにもならず、ロシアの船は海城ともいうべき巨大のもので江戸は海に面しているので油断はできないなどと、今すぐにでもロシアとの戦争が江戸にまで拡大してくるかのような風説となって拡大し、鍛冶を生業とするものたちは武具を鍛え、古着のある家々は軒に陣羽織を掛けて戦に備えるなどの騒動が起こった。
このような風説は江戸だけではなく全国に及び、長崎のオランダ商館員の耳にも入り、あわせてエトロフ島襲撃の際には番所につめていた箱館奉行所役人や弘前・盛岡藩兵が総崩れとなって退却したことは日本開闢以来の敗北と受け止められ、日本の威信を守れなかった幕府に対する批判を生み出し、さらにロシアの通商要求を強硬に拒否した幕府の外交政策に対する批判まで噴出して、幕府は各地で雑説禁止令をださねばならいないほどの騒動となった。
幕府は1807(文化4)年6月にはあいついで3通の触書を出し、ロシアの襲撃の情報とその背景などを詳しく諸藩に対して報じた。
この触書には、ナイホとシャナでの会戦の折には番士がロシア人5・6人を撃ち殺したが防ぎきれずに撤退したと、手をこまねいてロシア人の襲撃を許したわけではないと釈明し、さらに襲撃したロシア船は2隻で人数も60人程度であることなど、幕府に入った情報を簡潔ではあるが公表した。そして幕府は同じ情報を、朝廷に対しても武家伝送を通じて伝えた。当時の光格天皇を中心とし
た朝廷が、天明の大飢饉や打ち続く外国船の来航などに国家の危機を感じ取り、古代において戦乱収束のお礼として始まった石清水八幡宮の臨時際や賀茂社の臨時際などを復興し、日本国の安寧を祈ることが朝廷の責務であると行動していたからである。そして同時に各地で雑説禁止令を布告し、悪質な噂を流したものを捕らえて罰するなどの処置を取っている。
この幕府の動きは、情報を秘匿した中で風聞だけが一人歩きして噂が拡大し、噂に基づいた幕政批判などが横行することは幕府の威信にも関り、世の乱れの元になると幕府が判断したからであった。
A対露政策を巡る幕府内の意見の対立
ロシア船による北方襲撃に際して幕府の外交政策に対する批判が出たのは、18世紀後期からの相次ぐロシア船来航に際して、幕府内部にも対応に温度差が生じ、対応が二転三転していたからであった。そしてロシア使節レザノフをしてフヴォストフ
に命じてカラフトなどを襲撃させた背景には、1804年の彼の来航時の幕府の対応と、1792年のラクスマン来航時の幕府の対応が大きく異なっていたからでもあった。
ラクスマン来航時には幕府は、ロシア使節を松前において丁重に遇し、ただちに通商を開始することは拒否したものの、将来長崎にロシア船が来航し通商を求めた場合にはそれに応じる用意があることを仄めかし、長崎来航の
許可証である信牌すら渡していた。しかしレザノフ来航時には幕府は、彼を牢屋ともいうべき施設に収監するとともに、彼が携えてきた皇帝の国書の受け取りも拒否し、今後ロシア船が来航した際には船を焼き払うと通告したのである。この幕府の対応の揺らぎが、レザノフをして、日本を攻撃して脅せば開国すると判断した基礎であり、今回の北方襲撃を引き起こした背景であった。
ではなぜ幕府の対露政策はゆれ動いたのか。このあたりの事情を少し見ておこう。
(a)対露通商開始・蝦夷地開発を展望した田沼意次
ロシアの通商要求に対する幕府の対応の揺れは、1778年に始めてロシアが松前藩に通商を要求したときの、幕府の対応に始まる。この時の幕府の責任者は、老中田沼意次であった。
1777(安永6)年、日本との通商開始を希望したロシアの豪商レーベジェフ・ラストチキンが派遣したイルクーツクの商人シャバリンが指揮するナタリア号はオホーツク港を出帆して千島列島のウルップ島に着き越冬。翌1778(安永7)年にシャバリンら34人は母船をウルップ島に残して、
クナシリアイヌの首長ツキノイを案内人に頼み、皮舟に乗って蝦夷地の根室半島にあるノマカップに至った。そしてこの地にいた松前藩請負商人の飛騨屋の手代に交易の希望を語り、松前藩との正式交渉を翌年に行うことを取り決めて一旦ウルップ島に帰着した。翌1779(安永8)年夏に再度交易用の毛皮などを積んだ皮船でアッケシに来航したシャバリンは、松前藩の役人と交渉したが、松前藩は鎖国政策が国是であることを理由にして交易を拒否した。
これがロシアが日本に対して通商を要求した最初である。
注:この時はこの交渉の経過は幕府には通報されていないように従来は理解されていたが、先述の田沼意次から秋田孝季あての1778(安永7)年6月の手紙によれば、松前藩は最初にシャバリンがノマカップに至って交易を願ったときにすでに幕府に通報し、対応の指示を仰いでいる。そしてロシア語にも通じた秋田孝季に依頼して、カラフト経由で黒竜江河口に至り、その地のロシア人の情勢などを調査して来ることを幕府は依頼し、孝季は依頼に応えて翌年黒竜江河口に渡り、この地域を視察している。さらに1781(天明元)年には二度目の巡察が決定され、翌1782(天明2)年夏に出立、 カラフトを経て黒竜江河口に至り、さらに中央アジアを通ってメソポタミアに至り、続いてエジプトやトルコやギリシア・地中海のクレタ島などを巡察し、帰路はまたペルシア・中央アジア・中国を経て中国揚州から船に乗り、肥前松浦・若狭小浜・秋田土崎へと帰着している。この2回に 亘る旅の目的は、シベリアや中央アジア地域におけるロシア進出の状況を視察することが幕命としてあったようだが、これに加えて孝季らが古代以来の津軽地方とアジア諸国との交流の歴史をも探索しようとの意図があったものと思われる。二度目の旅は公費1500両(約1億8000万円)を持って賄われ、随行員は21名であったという。途中黒竜江流域にはロシア人は住んではおらず、時々この地に測量にくるだけであるという孝季の田沼宛の報告が、1782(天明2 )年7月づけで発せられている。これらの記録は聞き書き資料や書簡などの集成である「北斗抄」に散見され、さらに「丑寅日本紀」にはこのたびの際の視察地域の状況を写した絵が多数掲載されている。田沼意次は人を海外に派遣して、ロシアがどの程度アジアに進出しているのかを調べ、これに基づいて対露政策を決定しようとしていたと思われる。なお孝季らが帰国したのは田沼失脚後のことであり、詳細な報告書が作られたが田沼から返却され、この調査の成果が幕政に反映されなかったのはとても残念である。なお「北斗抄」にはこの計画が、後の1785(天明5)年に溜乃間詰めとなる有力大名・松平定信にも田沼が諮って推進した旨が記されており興味深い。そして秋田孝季らのアジア巡察の事実が押し隠され、彼らは計画を実施した三春藩秋田氏からも藩籍を剥奪され、巡察記録が秘匿されたのは、田沼失脚に至る定信ら有力大名と田沼との政争があり、勝利した定信派による後難を避けるためであったことも「北斗抄」には記されており、とても興味深い。なお「北斗抄」「丑寅日本紀」などは、北方新社から「和田家資料1〜4」としてすでに公刊されている。
田沼意次が、ロシアの動きに対してどのように対したかは、公式には蝦夷地開拓のための調査団を派遣したことに示されている。
この調査は詳しくは近世編2の【29】に見たように、1785(天明5)年の4月から10月まで行われ、実際に東はクナシリ島まで、北は
カラフトまで調査が実施された。そしてこの報告は翌1786(天明6)年6月には老中田沼意次まで上げられ、翌1787(天明7)年春には第2次調査の準備のために調査隊員が再度蝦夷地に渡っていたが、この年の秋の政変によって田沼が失脚したため第
2次
調査も、報告書で示された蝦夷地開拓も沙汰止みとなった。
この時の第1次調査では、蝦夷地で行われている松前藩請負の商人とアイヌ人との間の交易はかなり不正なものであり、そこで行われているニシン・鮭・たらなどの魚を捕獲・加工する魚場での労働もかなり過酷なものであることがわかっていた。また噂されたロシア人と日本人との密貿易は事実に反し、江戸や大坂に運ばれたロシア渡りの品々は、クナシリアイヌとロシア人との間での交易で手に入ったものを日本人商人がアイヌ人との交易で手に入れたものであることも判明した。
しかしこの蝦夷地調査をしたきっかけである工藤平助の「赤蝦夷風説考」では、蝦夷地の金銀山や魚介類の開発によってロシアと交易をすることが提案されており、これを受けて老中に出された勘定奉行の提言でもロシアとの交易
の可否が検討されているので、勘定奉行所と老中の中には、ロシアとの交易開始が検討されていたものと見受けられる。
またこの第1次調査を基礎とした勘定奉行の上申書では、蝦夷地におけるロシアとの交易については、外国産品は長崎の貿易で足りており、蝦夷地で新たに貿易を始めると金銀銅の流出が増え、あまり得策でないとの理由で否定されている。ここでは新たに外国と貿易を行うことが国禁を犯したものという判断はなされず、単に貿易を開始することの損得だけが貿易の可否の判断材料になっており、この時期の幕府には、鎖国が祖法であるとの認識はなかったことを示している。さらに第
1次調査の報告では蝦夷地の新田開発が中心となり、政変でこれの実施が中止となった以後も、幕府勘定所と老中の一部に、国益のために蝦夷地を開拓しようとする一派が形成されたことは大事である。
(b)対露通商やむなしとしながらも、国防の観点でロシア問題をとりあげた松平定信
田沼意次の失脚によりロシア政策・蝦夷地政策は中断されたが、1789(寛政元)年5月のクナシリアイヌの蜂起と、1792(寛政4)年9月のロシア船来航によって再開された。そしてこの時の対露政策・蝦夷地政策の取り上げられ方は、国防問題としてのそれであったことが、田沼時代との大きな違いであった。
クナシリアイヌの蜂起はあとの項で詳しくみるように、蝦夷交易を松前藩から請け負っていた飛騨屋の過酷な収奪と非道な行いによって生活権を奪われたクナシリとメナシのアイヌたちが連携して起こしたもので、飛騨屋の手代など71人の日本人が殺された。
しかし、松前藩は蜂起の首謀者や参加者を殺してアイヌ人の動きを封じたあと、藩に恭順を誓ったアイヌ人首長らに山丹わたりの絹織物やロシア人から手に入れた着物などを着せ、顔にも大仰に化粧を施させて武器を持たせてその肖像画を描き(蠣崎波響の「夷酋列像」)、これを江戸に送ってアイヌ人はいかにも未開の野蛮人であるというような工作を行っ
た。これは蜂起の背景に飛騨屋の非道な振る舞いがあることを隠して、幕府の内部にすでに存在した、蝦夷地を幕府直轄地としてアイヌ人にも農耕や日本語を教え、日本人として遇しようという動きを牽制したものであった。
また蜂起の背後にはロシア人がいたのではないかという危惧が幕府にはあり、それゆえ幕府はこの事件を極めて重視し、盛岡藩・弘前藩・八戸藩に蝦夷地出兵の準備をさせ、さらに先の第
1次蝦夷地調査で東蝦夷地調査に従事した幕府普請役青島俊蔵を俵物御用の名目で、小人目付の笠原五太夫を商人に
変装させて松前藩・蝦夷地に潜入させるとともに、松前藩の家老や番頭や飛騨屋を江戸に召還して事件の詳細な取調べを行った。この調査の結果、事件の背景は飛騨屋が行う場所請負の交易と魚場での搾取が原因であり、さらに青島の報告によって、ロシア人はここ2・3年来航しておらず、
エトロフ島にもロシア人は住んでいない旨が知らされ、当初幕府が認識したような大事件ではなかったことが判明した。
しかしこの事件をきっかけにして幕府内部には、蝦夷地を幕府直轄として松前藩は東北に改易し、アイヌ人に農耕や日本語を教えて日本の公民と化し、蝦夷地を開拓して直接幕府の力でロシアの南下を防ごうという人々の勢力が増大した。
この意見を主導したのは松平定信の信任の篤い蝦夷地問題担当の老中の本多忠籌であり、久世広民・曲淵景漸らの勘定奉行、さらに勘定所の平役人にもこの見解を持つものは多く、この背後には田沼意次政権にも少なからず影響を与えていた蘭学の知識にも詳しい経世家・本多利明(1743-1820)とその門人ら(勘定所下役であった最上徳内ら)があったのだ。これは言い換えれば、田沼意次の失脚によって一度は頓挫した蝦夷地開拓を積極的に進めようという意見をもった人々が幕府の有力者の中にも継続して存在しており、この人々は国防の観点から再度蝦夷地開拓を進めようとしたのであった。
だが当時の幕府において老中首座であり将軍補佐役という大きな力を持っていた松平定信の意見は、これらの幕府多数派の意見とは大きく異なっていた。
彼は次のロシア使節ラクスマンへの対応に見られるように、ロシアとの通商の開始はやむなしとの柔軟な姿勢を持ってはいたが、蝦夷地に関しては開発はせず、今のままの荒地や森林や原野が広がるままにしておくことでかえってロシアに対する防壁の役割を果たせるので、当面は松前藩に蝦夷貿易を管掌させることとして、別途北方警備の問題は考えるという立場であった。彼にとっては蝦夷地とは日本ではなく、日本の外側に広がる夷戎の地であり化外の土地で、中華である日本の徳を慕ってその民が臣従し貢物を持ってくる地であるという、幕府創設当時からの国際的な枠組みは遵守すべしという考えであったからだ。
だが定信の蝦夷地・ロシア問題への対処の特色は、さらに具体的に北方防備策を立てたことにある。
彼の認識では、蝦夷地は広く、この地の防備を表高1万石程度の小大名である松前氏に委任している現状は極めて危険であるという点では、蝦夷地直轄・開発派と同様な認識を持っていた。だが彼にとっては、蝦夷地を幕府直轄とし幕府が北方防備を一手に引き受ける体制に変えることは、幕府成立以来の体制を変更することであるし、松前藩という独立国家を一方的に改易することは、幕府が蝦夷地の利益に目がくらんで大名の利益を無視したとの謗りを受ける恐れがある行為であった。この時代は幕府と藩・大名の利害が衝突を始め、田沼意次などの幕閣の多くは、大名家の利害を無視してでも幕府の利益を追求し、幕府の全国統治権限を強化すべしとの認識に立っていたが、定信はこれとは対極的な認識に立ち、あくまで
も幕府と諸藩との関係は、ともに公儀として日本国の統治権を分有するものと認識されていたからであった。
だから定信は、将来的には松前藩を改易し、蝦夷地を幕府直轄か東北諸藩による分割統治かに変更せざるを得ないとしても、それは松前藩から転封を願いださせるか、松前藩を処断する明確な理由が存在して処断するかのどちらかだと判断していたのだ。
松平定信は老中や奉行などに何度も蝦夷地・ロシア問題に対する提言を出させて論議させたが、幕閣の多数派は依然として蝦夷地直轄・開発論者であった。開発論者たちは定信の意見に妥協して蝦夷地直轄こそ撤回したが、これに替わる案として、アイヌ人の蜂起の原因は交易を松前藩から請負った商人の不正にあるのだから、これを防ぐためには、幕府が直々にアイヌとの交易に乗り出し、そこでは正当な価格でアイヌとの交易を行って、アイヌの生活を支えることを提案した。いわゆる「御救い交易」であり、これは翌1791(寛政3)年・1792(寛政4)年春に実施され、一行を率いた普請役の最上徳内は事件後の松前藩の蝦夷交易の実態が改善されていないことをつかみ、さらに奥地まで調査に赴き、千島列島ウルップ島にまで達している。
「御救い交易」を幕府が実施し松前藩に模範を示したところで、財政難で商人に多額の借金を抱え、その借金のかたに蝦夷交易を商人に請負わせている松前藩が、暴利を貪ろうとする商人を統制できるわけはなかった。このままではアイヌ人の再度の蜂起の恐れもあり、蝦夷地の平安を維持し北方防備を調えるためにも、松前藩の改易は不可避と判断されたのであろう。定信は、一橋家や御三家の当主の承諾を得た上で、1792(寛政4)年の春に蝦夷地担当そのものを定信の専権事項に変え、
8月には松前藩処断のため目付を急行させて松前藩主を国許で蟄居させ、嫡子を江戸に急ぎ出府させた。処断の理由はアイヌ人の蜂起を初めとした蝦夷地治政の不手際などであった。定信は北方防備と蝦夷統治策を確定すべく動き出したのだ。この動きがまだ確定していない矢先に起きたのが、1792(寛政4)年9月のロシア使節ラクスマンの根室への来航であった。
ロシア軍人であるラクスマンは、ロシア皇帝エカテリーナ2世の命令で、漂流してカムチャツカに至りロシアに保護され
、皇帝の友人である博物学者ラクスマン(使節のラクスマンはこの学者の次男である)の庇護の下にあった伊勢の船乗り大黒屋光太夫ら3人の日本人漂流民を送り届けるとともに、日本との交易を望むロシアのシベリア総督の親書を持参しており、江戸への回航を願出ていた。
北方防備が問題となる最中に、いよいよロシアの正式な通商要求が開始されたのだ。
定信は急ぎ老中間で対応を協議するとともに、3奉行らに対応策を建議させたがその意見は三つに割れた。
一つは、漂流民は受け取るが、江戸に来ることは拒否し、聞き入れなければ断固とした処置を取るというもの。二つ目は、外交は長崎で行うことになっているので、長崎に回るように諭す。三つ目は、ロシアとの通商を始めるならば蝦夷地で行えば良いというものであった。
幕府内の対応は割れていたのだ。鎖国を理由に交易を拒否したとしても、北方防備体制が整わない中でロシアが武力に訴えたら阻止できるものではない。といってただちに交易を開始するのでは、幕府内の意見もまとまらず、様々な問題が起きる。
幕府老中たちは協議の上で、定信が提案した案を採用した。その案とは、時間稼ぎの意味もこめて、ロシア使節には丁重に接待した上で鎖国が祖法であることを丁寧に説き、長崎回航を勧めるのが上策であり、長崎に再度来航したおりに交易の問題はまた協議するとロシア側に提案するものであった。
この当面の方針が固まるとともに、幕府は11月上旬にロシア使節との交渉にあたる折衝団を編成するとともに、松前警備のために盛岡・弘前両藩に出兵を命じた。
これと平行して定信は取り急ぎ北方防備体制についての私見をまとめ、12月に老中の評議に回した。
この時の定信の建議案は以下のとおりである。定信の北方防備案は、長崎における外国防備の体制にならったものであった。
すなわち津軽海峡を日本と夷域との境界線と考え、蝦夷地の防備については松前藩に任せ、蝦夷地の要地に松前藩士を土着させ大砲などを備えて防備に当たらせる。その上で松前藩の動きを背後から援助するものとして、前線である北奥羽の港町である青森か三馬屋
(ともに青森県)に北国郡代または北国奉行を置いて北方防備
と長崎からの輸出品である俵物の集荷を専管させ、その財政基盤として、俵物の販売利益の一部と弘前藩・盛岡藩領からそれぞれ3000石程度の領地を上知してその費用に当てるというものであった。さらに松前藩の軍事力だけでは対応できない事態に備え、北奥羽の弘前藩・盛岡藩・秋田藩・仙台藩などにも軍事力を割かせ、
北国郡代(奉行)に加勢させることとし、これに加えて幕府の財力で西洋式の軍船を4・5艘建造し、1・2艘は北国郡代に、残りは伊豆(静岡県)・相模(神奈川県)・上総
(千葉県)・下総(茨城県)の沿岸に設置する浦番所(海防奉行所)に配備して通常は海上警備にあて、時には蝦夷地に派遣して松前藩の仕事振りを監視したり、アイヌ人が商人の餌食にならないように、幕府直轄での御救い交易を行う際の物資を運ぶ乗船にするというものであった。また定信のこの構想には2・30年後のこととして、蝦夷地の松前委任が行き詰まった場合には、
盛岡・弘前・仙台・三春・白河などの東北諸藩に蝦夷地を分担して防備させることとし、蝦夷地からの収納の一部はこれらの諸藩に与えて残りは幕府のものとし、これを元に幕府の手で、蝦夷地の鉱山開発や田地開拓を進めざるをえないとの構想も示されていた。
松平定信の蝦夷地・ロシア問題への視点は、首都江戸の周辺の海岸防備体制を組むと共に、北奥羽に北方防備を専管する郡代または奉行所を置いて幕臣を派遣し、併せて北奥羽の諸藩に郡代(奉行所)および松前藩に助成させる体勢を組むという、優れて国防的観点からの対応だったのである。
そしてこの時とった暫定案は、蝦夷地松前委任という現状をすぐに覆すのではなく幕府と東北諸藩でこれを助成するとともに、将来的には蝦夷地の幕府と東北諸藩による分割統治に移行し、蝦夷地開発も進めるという、彼の持論と幕府内多数派の蝦夷地直轄開発論を折衷したものとなっている。
この定信の北方防備案は老中の同意を得、この北国郡代(奉行)を置く場所や上知地の適地の視察も、交渉団の任務として追加された。こうしてロシア側との交渉の準備が整い、交渉団が江戸を出発したのは、1793(寛永5)年1月、松前到着は3月のことであった。この時松前には、警備のための
盛岡藩兵が421人、弘前藩兵が317人に達し、ロシア使節応接という一時的な問題とはいえ、定信の北方防備案が一部実現した形になっているのは注目される。こうした準備がなった後に、幕府は根室にいたロシア使節に迎えを出し、結果としてロシア船を箱館まで回航させ、交渉は松前で行われることとなった。
ラクスマンと幕府側の交渉が開始されたのは、6月21日、交渉が終わったのは27日で、ロシア使節は7月16日に船で帰路についた。この時幕府がロシア使節に手渡した「国法書」(「異国人に被諭御国法書」が正式名称)が後に問題となる。
国法書の内容は、前半は鎖国を祖法として新たな国との通商を拒否する強硬な姿勢を示すものであった。すなわち、「通信・通商関係のない国の船が来航した場合には打払うか乗員を逮捕するのが古来の法であり、江戸に参府できるのは通信・通商関係を許可された国でも一部である」として、ロシア側の要求を拒絶した。そして国法書の後半では、今回は漂流民を護送してきてくれたので打払わずに漂流民を受け取るが、今後は漂流民送還の場合は長崎に来航することとして、長崎入港許可証である信牌を渡すとし、さらに、すでに通信・通商を認められた国以外にあらたに交易を許すことは困難であるが、それでもなお新たな通商を要求するならば長崎に行き、そこでの決定に従うこととして、新たな通商の開始に含みを持たせていた。
この国法書の前半で通信・通商関係のない国の船が来たら打払うという法があるというのは歴史的事実ではなく、寛永のころに一度ポルトガル船に発動されただけの臨時的な措置であった。これを古来の祖法としてことさらに強い姿勢を見せれば、ロシアは通商を諦めると幕府内の多数派が認識しており、それに従ったものである。しかし後半は長崎や蝦夷地での交易の開始を含め柔軟に対応するとの前半とは異なる立場が表明されており、どちらに重点を置くかで、今後の対応が変わってくる。このことが後で問題となったのだ。後半の柔軟な姿勢は定信個人のものであり、交渉にあたった目付に対する定信の指示書では、正式の交渉の場ではない歓談の場などで、長崎で交易を開始する交渉を始める用意がある旨を仄めかせとされており、実際に交渉にあたった目付はこの指示書に従って行動し、ロシア使節側
には、長崎入港の信牌の交付と併せて幕府が通商開始の意図を告げたものと理解された。
そして帰国したロシア使節が再度日を置かずに長崎に再来港して再度通商を要求し、そのときなお定信が幕府首班であったならば、ロシアとの交易は開始されたであろう。
しかし定信は交渉が終わったあとの7月に将軍補佐役と老中を辞任してしまう。これは彼に直接の失政があったからではなく、成人して自ら政務を取ろうとした将軍家斉との軋轢が背後にあったとも言われているが、定信が一橋家と御三家の支持を背景とした将軍補佐の地位を基盤に、
強硬にロシアの通商要求を拒否し蝦夷地を幕府直轄として開発しようとする幕府内多数派の意見を抑える体制は、定信辞任によって崩壊することとなった。
定信の老中辞任によってすでに具体的に動き出していた北国郡代構想は廃止され、定信の下で候補地の下見も行われ江戸湾の防備を固める施策も中止され、ロシアとの通商拒否・蝦夷地直轄開発が幕閣多数派の意見が幕府の公式な路線となっていくのであった。ここに1804年に再来航したロシア使節レザノフの悲劇の基盤があった。
(c)蝦夷地幕府直轄体制の実現とロシアの再度の通商要求
ロシアはすぐに日本に対する通商要求使節を送ってはこなかった。
当時ヨーロッパ情勢はフランス革命によって急を告げており、1793年には革命の拡大を防ぐために、オランダ・プロシア・オーストリア・イギリスの同盟が組まれ、戦火はヨーロッパ全体に広がりつつあった。そして1795年にロシアはプロシア・オーストリアとの間で再度ポーランドの分割に及んで、西方の防備を固めていた。
エカテリーナ2世治下のロシアは、ヨーロッパ情勢の急変に忙殺されていたわけだ。そのうえ1796年11月には女帝が脳卒中で死去し、あとをパーヴェル1世が継いだが、ますますヨーロッパ情勢は混乱し、拡大するフランスの勢力を阻止すべくイギリスを中心にヨーロッパの各王国が同盟を組み、革命の拡大を阻止しようと動いた。ロシアもこの波に翻弄されて、日本に使節を送るどころではなかったのだ。
しかし、1793(寛政5)年7月の松平定信老中辞任によって成立した新たな幕府政権も、北方防備体制をいつまでも確立しないままではいられなかった。
1796(寛政8)年8月から翌年にかけて、イギリス人のブロートンが室蘭に来航し、日本近海を測量する事件が起こった。
ロシアについでイギリスも日本に通商要求をかけてくるのではないかと恐れた幕府は、急ぎ北方防備体制を整備することとし、幕府に松前御用掛を置くとともに、弘前・盛岡の両藩に交代での蝦夷勤番を命じた。そして蝦夷地直轄化を視野に、1798(寛政10)年には軍事的要所や交易収納高・新田適地などの調査のため、調査団を蝦夷地に派遣し、調査団の近藤重蔵の一行はエトロフ島まで到達し、ここに「大日本恵登呂府」の標柱を立てた。千島列島も日本の領土であると宣言したのであった。そしてこの報告に基づいて、翌1799(寛政11)年1月、東蝦夷地の松前藩からの7年間の仮上知が命じられ、東蝦夷地の幕府直轄化が進められた。
そして1802(享和2)年2月には蝦夷奉行(後に箱館奉行と改称)が設置され、同年7月には東蝦夷地の永久上知が決定され、松前の地と西蝦夷地については幕府内に反対意見があったので従来どおり松前藩に統治を委任したが、東蝦夷地は幕府直轄となり、箱館奉行の指揮下で奥羽諸藩の勤番による軍事力を背景に北方防備を進めるとともに、東蝦夷地での蝦夷交易も幕府直轄となり
各地の港町に蝦夷交易賄いの商人を指定して蝦夷地商品の販売に当たらせるとともに、幕府御用商人の高田屋嘉兵衛に彼の持船で蝦夷地各地との交易商品の運搬に当たらせた。またこの過程で、エトロフでのロシア人とアイヌ人との交易も禁止された。
こうして1792年のラクスマン来航時とは異なって、幕府の方針は次第に交易の拒否と蝦夷地直轄化へと変化し、東蝦夷地の幕府直轄化が進んでいる中で、ロシアによる2度目の交易要求がだされたのであった。
この間にヨーロッパ情勢は、若干の変化を見せていたのである。
この時期ナポレオンに率いられたフランスは第1次対仏同盟を破る動きを見せ、イタリアを制圧してオーストリア軍を撃破し、エジプトにも遠征軍を送り、しだいに全ヨーロッパを手に入れる方向に進んだ。この動きに対してパーヴェル1世治下のロシアは1798年12月に対仏同盟をイギリスとの間に締結し、これにオーストリア・トルコなども加入し、対仏第
2次同盟が成立し、戦火はヨーロッパ中に広がることとなった。しかし1799年にナポレオンがクーデターによってフランスの実権を握るとパーヴェル1世はナポレオンンを反革命だとみなし、ロシアは次第に反仏同盟から離反し、フランスと手を組んでイギリスの植民地であるインドへの遠征を企てたり、さらには1801年にはプロシアと北欧諸国と組んで武装中立同盟を組んでイギリスと対抗した。しかし経済的にも深い関係のあるイギリスと対立したことなどから国内から皇帝に対する不満が噴出し、1801年3月に近衛将校たちのクーデターによって皇帝は暗殺され、息子アレクサンドル1世が即位した。
そしてアレクサンドル1世の即位以後のヨーロッパには、しばしの平穏が訪れた。優勢な戦いを進めたナポレオンはオーストリアと講和し、孤立したイギリスも1802年3月にフランスと講和を結び、第
2次対仏同盟は解消し、ヨーロッパでは一時的な平和が訪れたからだ。
ここに再び日本へ使節を送ることが可能となり、シベリアからアラスカにかけてのロシア領の開発に力を入れていた露英会社の有力な株主でもあったアレクサンドル1世は、シベリアの豪商たちの要請もうけて、シベリアやアラスカ植民地に食料を送るとともに帰路には大量の毛皮を積載して帰港する任務を帯びた世界周航船の派遣を決定し、あわせて日本へ通商要求を伝える任務も与えられた。この第
1回のロシア世界周航船は
、石巻から漂流してアリューシャン列島に流れ着いてイルクーツクで保護されていた津太夫ら4人の日本人漂流者をも乗せ、1803(享和3)年8月にロシアのクロンシュタット軍港を発し、南米のホーン岬を経て翌1804(文化元)年7月にカムチャ
ツカに到着。その後日本に向かって出向し、10月に長崎港に入港した。
しかし再度のロシア使節に対する幕府の対応は極めて冷淡であった。
ロシア使節は翌1805(文化2)年4月まで長崎に滞留し、幕府側と交渉したのであったが、その間の彼ら施設の住居は厳重な竹矢来で囲まれた牢獄に等しく、しかも幕府の回答は、完全に通商を拒否するものであった。
幕府は今回は漂流民を受け取るが、今後は漂流民があっても日本に送還するに及ばず、送還する場合はオランダ経由にせよとして、今回使節が持参していた長崎入港許可の信牌を取り上げ、日本が通信・通商を許しているのは中国・朝鮮・琉球・紅毛(オランダ)だけであり、新規の通信・通商は祖法により禁止されているとレザノフに回答し、今回の使節派遣の経緯と通商の開始を要請したロシア皇帝の国書も進物も一切受け取らず、ロシア使節を長崎から追い返した。
そして幕府はその翌年1806(文化3)年正月にはロシア船に関する布告を出し、長崎での交渉結果を報じるとともに、今後ロシア船が来航した際には丁寧に説明してお帰り願い、難船の場合には必要な物資を供給して帰らせ、けして上陸させてはならない。もし強いても帰らない場合には、打払えとの指示を諸大名に出した。
また幕府は翌1807(文化4)年2月には松前藩の西蝦夷地も永久上知させることを決定し、翌3月には松前・蝦夷地一円を幕府直轄地とし、10月には函館にあった奉行所を松前に移して松前奉行所と改称し、松前奉行所の指示の下、東北諸藩に蝦夷地に勤番として出兵させ北方防備を図る体制に移行しつつあった。
この幕府の1792年の時とは打って変わった強硬な態度が、レザノフをして配下にカラフトや千島列島の日本の拠点を襲撃させて、脅しによって交易を開始させようと決意させたのであった。そしてこうして起きたフヴォストフらの攻撃は、防備体制を固めた番所を襲ったために番所につめた松前藩兵や
弘前・盛岡藩兵との交戦となり、日本は始めてヨーロッパの国と、大砲と小銃によって交戦し敗走するという事態を招いたのだ。
注:この交戦ではロシア側は商船ではあったが積載の大砲の射程距離が勝っていたため、日本側の大砲の弾はロシアの船に届かず、ロシア側の大砲によって日本の番所などは焼き払われたのだ。当時の日本人が、ヨーロッパ諸国の武器がはるかに進化したものであったことを 初めて認識した事件であった。このロシア側の大砲の性能が勝っていることは、後に日本側に捕虜とされたロシア 軍人ゴローニン少佐の乗船のロシア軍艦ディアナ号に対してクナシリの砲台が大砲で攻撃した際にも発揮され、日本側の大砲の弾がロシア船に届かないのに対して、ディアナ号の大砲は口径の小さいものであったが易々と届き、砲台を完全に破壊した。さらに後にゴローニンの釈放交渉のためにロシア側に捕虜となった高田屋嘉兵衛が、ディアナ号の臨時艦長リコルド少佐と話したおりに、 ロシア側の大砲の優秀さがしばしば嘉兵衛の口から語られている。しかしこの彼我の武器の差についての認識が、どこまで幕府の役人たちの共通認識になったのかは不明である。次の幕府内の議論の様子を見ると、実際に襲撃にあいロシア側と交戦した松前奉行所の役人や蝦夷勤番の諸藩士にはロシア船の大砲の優秀さが理解されていてロシア船を打払うことは不可能だと認識されていたようだが、幕府老中など江戸にいて事態に直面しなかった人たちは強硬にロシア船打払いを主張していることから、ロシア側の大砲の優秀さは、彼らにはそれほど認識されていなかったように思われる。
「つくる会」教科書はまるでロシアがエトロフなどを攻撃したがゆえに、幕府はロシアに備えて蝦夷地の直轄化を進めたかのような記述をしたが、事実は逆であった。ロシアとの交易拒否を貫き、蝦夷地を直轄化して防備を固める幕府の動きが先に進んでおり、このために千島でのアイヌ人との交易も遮断され日本との交易も拒否されたロシアが、交易を開始させる脅しとして日本の拠点を攻撃させたというのが真相であった。しかもこの攻撃はロシア国家の政策ではなく、使節レザノフとその配下の個人的な仕業であり、襲撃を実行した当人たちは、後にロシア官憲に逮捕され処罰されている。幕府の強硬な鎖国政策こそが、武力衝突を引き起こした原因だったのだ。
(d)激しい幕府批判の噴出と幕府の強硬姿勢
だが初めてのロシアとの交戦で番所の兵たちが敗走したことは、幕府の強硬姿勢とともに、激しい幕政批判を幕府の内外から招くこととなった。
幕府内部からは、蝦夷地の検分に赴いた若年寄堀田正敦や箱館奉行、そして対応策の諮問を幕府から受けた林大学頭述斎から、紛争を招いた原因はロシア国使でもないラクスマンに対する応対は丁重なもので、しかも長崎に来れば交易を始めるとの心証を与えて信牌まで渡したのに、国使であるレザノフに対する対応は一変して捕虜のような扱いをなし、国書も進物も受け取らず、交易も強硬に拒否して長崎入港の信牌まで取り上げるという、信義にも劣る間違った対応に原因があったとの批判が噴出した。特に林述斎はレザノフ来航時にも対応を諮問され、鎖国の祖法によって交易は拒否せざるを得ないものの、漂流民を送還してくれたことに鑑み、国書や進物は受け取って礼を尽くして交易をできないわけを諭すべしと進言していて受け入れられなかった経緯もあり、レザノフに対する強硬なしかも無礼な態度をとった老中土井利厚を厳しく批判していた。そしてこのような意見を持った人々
の多くは紛争の解決策としては、ロシア船を焼き払うといっても今の日本の武力では無理なので、ロシア側の暴挙に対する謝罪を前提として、それでも交易を要求するのであれば、蝦夷地での交易を容認しようとの意見を述べていた。
同様な批判は民間からも噴出しており、蘭学者の杉田玄白はその著「野叟独語」で同様な見解を吐露しているし、他にも諸大名に対して同様な意見を建白したものも見られた。
さらに同じく幕府から対応策を求められた前老中の白河藩主松平定信は建議書を提出し、そこではロシア船を打払えという強行策が強い世論に配慮して、それなりに武威を示してロシア側に謝罪をさせることを前提とした上で、蝦夷地でロシアとの交易を開始することが、武備の整っていない現状からしてもっとも穏当な解決策であることを建議し、ロシアに通商を許せば諸外国が次々と同様な要求をしてくることを恐れながらも、日本側の名分さえ立てば、隣国ロシアに交易を許すことは間違いではないと主張した。
しかし蝦夷地で幕府と諸藩の兵がロシアと交戦して破れたことは、先に見たようなすぐにもロシア船が江戸にまで迫ってくるかのような風聞を巻き起こし、世の人々を恐慌に落とし入れるとともに、交戦して逃げた幕府兵・藩兵に対する批判と外国の通商要求に対する幕府の弱腰を批判し、ロシア船を断固打払い、必要であればこちらから
カラフトやエトロフなどロシア側の拠点を攻撃すべしという激しい幕府批判まで飛び出し、世上の多数派は、この感情的な夷狄蔑視論に基づく武力による強行突破論であった。
幕府はこの世上の強硬意見に押されるように、1807(文化4)年8月にはレザノフへの対応の正当性を主張する通達を箱館奉行に出し、幕臣に北辺を巡視させるとともに、10月には
箱館奉行を松前に移して松前奉行所として直轄地である蝦夷地全体の統治と防備を管轄させ、12月にはロシア船打払い令を布告して強硬姿勢を内外に示した。そしてさらに松前奉行所への勤番として1808(文化5)年1月には
盛岡・弘前の2藩に東西蝦夷地を分割して防備させ、さらに12月には仙台・会津の2藩にも蝦夷地防備を命じ、北方防備体制を築いていったのだ。そして幕府はこれと平行して江戸湾防備体制の確立に向けて動き出し、江戸湾の砲台建設場所などの実地検分を実施し、1810(文化7)年2月には、白河・会津の2藩に相模・安房の海岸に砲台を築かせ、両藩に沿岸警備を命じた。
(e)通商拒否の態度を幕府がとった背景には何があったのか?
こうして幕府はロシアの相次ぐ通商要求を拒否し、北方や諸国の海岸防備を進めるとともに、首都江戸の前面である江戸湾防備体制も整備し、砲台を築き大砲も鋳造し、さらには海戦の方法を長崎のオランダ人に問うなどして、鎖国を祖法だとして新たな通商を強硬に拒否する姿勢を築いたのである。また幕府にこの強硬な姿勢を取らせた背景には、ロシアとの紛争が続く懸念がある中で、1808(文化5)年8月に、当時フランスと交戦中であったイギリスが、フランス領となっていたオランダの船の拿捕を目的に長崎港に
軍艦を侵入させ、オランダ商館員2名を人質にとって薪水と食料の提供を求め、要求が入れられなければ砲撃すると脅した事件があった。フェートン号事件である。この事件は要求どおりに薪水と食料を得たイギリス軍艦がそのまま退去したので交戦状態にはならなかったが、事件の責任をとって長崎奉行が割腹し、海岸防備の不備を幕府に痛感させたからであった。
そしてこの時幕府が新たな通商を拒否した理由として、日本は必要なものを産出する豊かな国であり、長崎などでの外国との交易は必要のない無駄な什器などを輸入して有用な銅を大量に失う無駄なものであるとの認識が示されていたことは注目に値する。近世編2の各項で見たように、17世紀後半から18世紀の全期間をかけて、日本は従来外国から輸入していた多くの産物の国産化に成功していた。すなわち綿花・綿織物・陶磁器・生糸・絹織物・砂糖・薬種などである。日本はこの頃までにインドや中国などの文明中枢の産品を輸入しなければならない状態ではなかったのだ。その上この時期には、銅の輸出も大幅に減り、俵物などの中国向け産物を輸出して、替わりに金銀を輸入する体制に移行していた。そして金銀以外にオランダから輸入するものは、近世編1の【16】の(1)で見たような西洋の医学器具や薬品そして画材や食器や調度品であった。これはいわば日本人の日常生活において不可欠の品物ではなかったし、幕藩制の危機とともに幕府が尊王意識を鼓舞したことによってそのメダルの裏側である日本=神国=中華意識が広がり、外国人を夷狄(いてき=野蛮人)として蔑む意識が広がり始めたことを背景として、これらのヨーロッパ産品は、蘭学に執心する変な人々(これを蘭癖とよぶ)が買いあさる無駄なものとの認識が広がっていた。だからこそこの時期に幕府は、外国との貿易など不要と言い切ることができたのであった。
そしてこの新たな貿易が不要という考えを強化したものが、鎖国は祖法であるという意識であった。
実際には幕府の当局者は、中国・朝鮮・琉球・オランダ以外の国とは交易を行わないと決定したことは一度もなかった。事態の成り行きでそうなったわけであり、これ以外の異国船が現れたときには砲撃して焼き払うという法などは存在していなかった。こういう法が幕府の当初からある祖法であるというのは、ロシアの通商要求を断る方便として松平定信政権が打ち出したものであった。しかしこれを祖法としたことが、その後の幕閣の意識を規定したのだ。
諸外国から相次いで通商要求が出されたにも関らず、18世紀末から19世紀初頭にかえて幕府が異国船打払い令まで出してこれを強硬に拒否したのは、高まる日本=神国=中華意識が背景にあったことと同時に、インドや中国などの古来からの文明中枢の産品を輸入する必要がないほど発展した日本経済の実態が背景にあったのだ。
しかしこの強硬な民族主義的な態度は、ヨーロッパ諸国の国力と日本の国力との差を科学的に認識した上でなされたものではなかった。このことは蝦夷地やカラフト・千島列島などや江戸湾周辺に配置された砲台とそこに設置された大砲が、従来のものであったことによく示されている。次にみる
千島列島測量のためにクナシリを訪れたロシア軍艦ディアナ号に対して、クナシリの番所の砲台は何度も砲撃を加えたがロシア艦には届かず、ロシア艦が自衛のために応戦して発砲した玉は日本の番所を完全に破壊して沈黙させたのである。
(f)対露休戦と蝦夷地直轄の中止
しかしロシアを主敵とした幕府の強硬姿勢と、国防の観点から蝦夷地を直轄化し開発するという幕府の政策は、長くは続かなかった。ヨーロッパでのフランスとの戦いは激戦を極めたのでロシアが再度通商を求めることはなかったことと、蝦夷地直轄と東北諸藩による勤番防備体制は、幕府にも諸藩にもますます財政を厳しくさせるほどの重い負担だったからである。
上に見たように幕府が海岸防備体制を固める中で、1811(文化8)年6月にクナシリ島に千島列島測量調査のために極東に訪れたロシアの第2次世界周航艦ディアナ号が現れて薪水を求め、警備に当たった幕府役人は、同号の艦長ゴローニン少佐以下ロシア人乗り組み員の一部8名を騙して捕縛し捕虜とした。この行動は、数年前に出されたロシア船打払い令
に反する行動だとの批判もあったが、クナシリ番所はゴローニンらを捕縛した後にディアナ号に対して砲台から発砲して打払おうとしたが、応戦したロシア艦の砲撃で砲台を破壊されて何も出来なかったというのが真実であった。これに対して
積載した大砲が小口径なために番所を完全に破壊することもできず、攻撃を加えることは捕虜の生命を危険にさらすと判断したディアナ号はクナシリを脱出し一旦カムチャツカに帰港して事態をロシア政府に報告するとともに、再度千島列島に出動して、翌1812(文化9)年8月にクナシリの番所と交渉しようとしたが番所側は交渉に応じなかった。そこで偶然エトロフとの交易ルートを開拓して交易に従事していた高田屋嘉兵衛の乗船をクナシリ沖で拿捕し、嘉兵衛ら5名を捕虜としたことでゴローニンらが無事に松前にいることを知り、対応を協議するためカムチャ
ツカに帰港した。そして
カムチャツカで、ゴローニンの釈放のためにはフヴォストフらの行為がロシア官憲の指示ではないことをロシア側が証明することが必要との嘉兵衛の進言に基づいて、その旨のカムチャ
ツカ長官の私信を手に入れたディアナ号臨時艦長のリコルド少佐は、その翌年1813(文化10)年5月にクナシリに来航し、高田屋嘉兵衛を介してゴローニンらの釈放交渉を開始した。
この時までに、フヴォストフらに連行されてカムチャッカに行き釈放されて日本に帰った番所の番人やゴローニンから、フヴォストフらの行動はロシア政府の命令によるものではなく彼らの私的行為であることを幕府は認識しており、来航したリコルドに対して、フヴォストフらの行動はロシア政府の命令にはよらないことを証明したロシア高官の公文書と、彼らが略奪した品物は帝国各地に移送されたのですぐには返還できない旨の公文書の提出を条件に当年中に箱館にてゴローニンらの釈放を約束した。リコルドはただちにカムチャ
ツカに引き返して必要な書類を調えて箱館に来航し、カムチャツカの長官の名において、フヴォストフらの行為は断じてロシア政府の命令ではなく彼らの私的行為であることを明記し謝罪した公文書などを渡し、日本側はこの時も日本人漂流民を送還したことを感謝するとともに、祖法によって新たな通商を開始することは出来ないことを述べ、お互いの捕虜を交換して、1813年9月に、1806年から続いたロシアとの交戦状態に終止符を打った。
ロシアは当時フランスと交戦中であり、この前年の1812年にはナポレオン指揮下のフランス軍は、ロシアの冬将軍に敗れて撤退したもののモスクワを包囲孤立させる所まで侵入しており、フランスとの戦いが継続している中では、極東のことに全力を注入することはできなかったからであった。そして1815年のナポレオンの敗北とヨーロッパの安定の後は、ロシアは黒海沿岸からさらに南下してバルカン半島・小アジア半島周辺に勢力を広げたことでのオスマン・トルコとの紛争やポーランド分割などに忙殺されており、さらに内政面でも様々な問題が生じたため、ロシアが再度通商要求を掲げて来るのは、幕末の1853(嘉永6)年のプチャーチン提督の来航までなかった。
こうして当面のロシアによる北方からの脅威は遠のき、北方防備にあまりに厳重な体制を敷いた状態を長く続ける意味が低下した。
1815(文化12)年には早くも、箱館・松前以外の守備兵を撤収することが決定され、1821(文政4)年には蝦夷地の幕府直轄制を廃止し、東西の蝦夷地を松前氏に返して盛岡・弘前両藩の兵も撤収された。蝦夷地の幕府直轄制は幕府にも重い財政負担となっており、東北諸藩にとって、寒冷な蝦夷地に多くの軍兵を出し続けることは、非常に重い負担であったからだ。
幕府が蝦夷地経営を直轄し、アイヌとの交易も直接幕府が行う方法は、幕府に多大の財政支出を強制し、直轄による財政赤字は巨大なものになっていた。1799年から1805年までの蝦夷地経営での赤字額は27万3000両
(約327億6000万円)にものぼり、あまりの赤字の多さに、幕府勘定所は蝦夷地経営の縮小を要求していた。そのため1807年に西蝦夷地も直轄に移行した際には、幕府直営の交易はとられず、各地におかれた交易の場所を商人に請負わせる体制が取られた。そして1812年には東蝦夷地の幕府直営交易も廃止されて、場所請負制に移行していたのだ。
このときの場所請負高は、すでに高田屋嘉兵衛によって請負われていたエトロフ場所を除いた19場所の合計で、年に1万7000両(約20億4000万円)の運上金納入であった。
また20年以上に亙って蝦夷地に兵を出し続けた弘前・盛岡両藩は、その多大な財政負担と寒冷地ゆえの人的被害の多さに苦しんでいた。
1799年に東蝦夷地が仮上知されると弘前・盛岡両藩は、重役2・3人と足軽をそれぞれ500名出して蝦夷勤番を勤めることを命じられ、1807年に東西蝦夷地の永久上知が決まると、東蝦夷地を任された盛岡藩は650人(うち250人が越年)、西蝦夷地を任された弘前藩は450人(うち250人が越年)を命じられ、箱館・ネモロ・クナシリ・エトロフ・松前・江差・リイシリ・ソウヤ・カラフトの各地に番人を置くこととなった。さらに秋田・庄内・仙台・会津の諸藩もロシアとの衝突事件がおきた1807・08の両年に臨時の出兵を要請され、クナシリ・エトロフ・ソウヤ・カラフトを中心に総勢3000から4000の兵の派遣を命じられている。
これらの諸藩の軍兵の派遣費用と番所の建設・維持費・兵糧弾薬費は、すべて諸藩の負担であった。
しかし寒冷地での蝦夷勤番は過酷な勤務であった。田畑の少ない蝦夷地は特に冬季には生鮮食料が不足するため、多くの兵が壊血病に苦しめられ多数の兵が病死している。例えば弘前藩の1807年から1808年のシャリでの越年では、100名勤務のうちの71名が浮腫病で死亡しており、1808年にクナシリに臨時に出兵した仙台藩では、越年しなかったにもかかわらず、4月から6月の間に、500名の兵のうち11名が浮腫で死亡し、病の重い140から150人の中の重病人45・6名を帰国させたが、それでもなお軽病のものを含めて200人あまりの病人を抱えていたという。そしてこれらの蝦夷地に動員された兵のうち、常時勤番を命じられた弘前・盛岡両藩の正規の足軽兵は3分の1程度で、あとは金で雇い入れた職人や町人・百姓であった。
蝦夷地勤番は命じられた藩にとっては大きな負担であり、財政をやりくりするために領内の商人から御用金を調達したり、領内の村に蓄えられている米の強制的買い上げ政策などが取られ、買米反対一揆すら引き起こすにいたっていた。しかし蝦夷地勤番の見返りとしての財政援助はほとんどなく、名目的な領地の石高を引き上げて大名家の家格を引き上げるという見返りしかなかったのだから、蝦夷地の幕府直轄制と大名家による蝦夷勤番体制は、早晩中止せざるをえなかったのだ。
こうしてロシアとの紛争が沈静化するとともに、北方防備体制としての蝦夷地幕府直轄制は中止され、蝦夷地は再び松前藩が管轄する体制に戻った。
だがこのロシアとの紛争を通じて、外国との新たな通商を祖法としての鎖国制によって拒否する姿勢が幕府に確立され、あわせて従来は日本の外の異国であった蝦夷地とカラフトとエトロフ・クナシリなどの千島列島南部が日本の領土と意識される体制が出来たことは、幕末や明治維新後に繋がる北方政策の基盤となったこと
に注目したい。また、このロシアとの交渉の過程には、のちにアヘン戦争の衝撃によって開国か鎖国かで揺れた日本の諸々の意見が全て現れており、ヨーロッパの大砲が当時の日本のものよりもはるかに優れたものであることを認識していたのは、幕閣の中では極少数であったことも注目に値する。
ロシアとの紛争と交渉の経過を詳細に教科書に記すことはできないが、この過程で生まれた日本側の対応や世界認識の特徴は、きちんと記述しておく必要があったと思う。
(4)アヘン戦争直前の時期の日本の国防政策をめぐる対立
19世紀始めにロシアとの和平がなった後、替わって日本に現れたのはイギリス船であった。そしてこのイギリス船に対する対応を巡っても、幕府の内外において激しい意見の対立が続いていた。そのため幕府の外国船に対する対応は、ここでも二転三転する。
@異国船打払い令発令の真の狙いは海防費用の削減にあった
1825(文政8)年正月、幕府は異国船打払い令を諸大名に布告した。この布告は通信・通商を認められていない異国の船が日本近海に近づいた場合は有無をいわせず砲撃して打払うというものであり、難破船であろうと日本人漂流民を送還してきた船であろうと事情のいかんを問わず、異国船をすべて打払うという極めて強硬なものであった。
幕府のこれまでの異国船に対する対応は、1791(寛政3)年9月に出された布告を基本的に踏襲しており、新たに通商を求めて来航した異国船に対しては、懇ろに新たな通商はできないと説明して帰国させ、その際に薪水や食料を求めた場合にはこれに応じる。またこれ以外に難破や様々な理由で日本近海に近づき、日本側に対して薪水や食料を求めてきた異国船に対してもその要求に応えて帰国させるという、極めて穏便な対応を決めたものであった。もちろんこの後にロシア船による北方襲撃が起こり対外関係に緊張が走った折には、ロシア船に対しては打払い令が布告されたことがあったが、他の国の船に対しては適用されておらず、1791年の異国船対応令で基本的に穏便に対応する姿勢が保たれていた。また、ロシア船に対しても打払い令は実際には適用されておらず、ロシア船打払い令は、ロシア船による北方襲撃という例外的な事態に対する強硬な対応を原則的に示したに過ぎなかったのだ。
この意味で1825年の異国船打払い令は、幕府のこれまでの異国船に対する対応を180度転換したものだったのだ。
では何ゆえここで幕府は、異国船に対する対応を急激に転換させたのか。
従来はこの転換を、幕末の尊皇攘夷運動の先例として高く評価した水戸藩儒者会沢正志斎の言説がそのまま採用され、幕府は、「海岸防備を固め鎖国を続ける方針を固めた」ものと判断されており、「つくる会」教科書は、この判断に基づいて記述されている。しかし近年、この布告が立法された背景とその経過が詳しく検証されたことにより、従来の評価はまったくの間違いであったことが判明している。
この布告が検討されたきっかけは、「つくる会」教科書が記述したように、あいつぐイギリス捕鯨船による薪水給与要求と捕鯨員による不法な上陸であった。
1822(文政5)年4月にイギリスの捕鯨船サラセン号が浦賀に入港し薪水の給与を求めたことに象徴されるように、1820年以降イギリスやアメリカの捕鯨業の魚場は太平洋が中心となり、常陸や陸奥沖を欧米の捕鯨船が頻繁に航行し、日本の漁船と遭遇したり、港に立ち寄って薪水の給与を要求するようになった。そして1825年の打払い令が幕府において審議されるきっかけとなったのは、1824(文政7)年5月にイギリス捕鯨船2隻が常陸多賀郡大津浜(茨城県北茨木市)に渡来し、上陸した船員12名を水戸藩が捕らえた事件と、同じく7月にイギリスの捕鯨船が薩摩藩領の薩南諸島宝島に渡来し、乗組員が上陸して牛などを奪い取り、内1名が同藩の目付に射殺された事件とであった。そして同様な例は頻発しており、仙台千才浜に上陸して野菜などを強奪した事件や、弘前藩の雇船を襲って積荷の米を強奪した事件、陸奥釣師浜における漁船への書物投げ入れ事件など、各地で起きていた。
この事件を契機として林大学頭述斎や天文方の高橋景保・勘定奉行遠山景晋らから相次いで国防体制を組みなおすべしとの上申書が出されて幕府は審議に入ったのだが、そこには二つの異なる見解が表明されていた。
一つは比較的国際情勢に通じていた高橋景保や実際に国防の現場などを担当してきた目付・大目付に代表される意見で、これは海岸防備体制を強化するという意見であった。この意見では日本の各地に砲台を新たに建設するとともに、首都江戸近郊で防備の必要の高い房総近辺には、上総・下総の海岸は10万石程度の大名2名に、外房総・内房総は10万石程度の大名4名に海防を担当させ、それぞれその地に3万石程度の領地替えをして藩兵を常駐させ、さらに上総富津を海防の拠点としてここに海防奉行所を新設し、さらに安房・上総・下総の海岸3ヶ所に「御備御番所」を新設して常時幕臣を詰めさせ事に当たらせることを計画した。しかしこの海防体制整備案での異国船に対する対応は従来どおりであり、穏便に対応し、それでも言うことを聞かない場合は大砲で威嚇するというものであった。
対するもう一方の意見は勘定奉行が典型であるが、海岸防備体制は従来どおりとし、海岸を領地としてもっている藩がそれぞれの裁量で防備を担当するという、防備体制は強化しない策であった。しかしこの意見の特徴は、異国船がしばしば日本近海に現れるのは、これまでの薪水を給与し穏便な処置を講じた対策が仇をなしたもので、今後は異国船が現れた場合には有無を言わさず大砲で撃ち払うとし、前の意見に比べれば極めて強硬な姿勢であった。
また林大学頭は、異国船来航の目的をまず究明し、日本人漂流民を送還してきた場合には打払ってはいけないとの意見書を出して、来航目的を調べて穏便に対応することを求めていた。
そして三奉行や老中がなんども評議して決定した策は、海防策は従来どおりの体制で特に強化はせず、しかし異国船が現れた場合にはその事情の如何に関らず大砲で撃ち払うというものであり、対立する意見のうちの勘定奉行の意見がほぼ全面的に採用されるに至ったのだ。この意味で
「つくる会」教科書が「海岸防備を固めて」と記述したのは誤りである。
ではこの時幕府が、すべての異国船を理由の如何を問わず打払うとしたのはなぜであったのか。
この強硬な異国船打払い令の背後にあった国際情勢認識は、「ヨーロッパでは和平がなり、同盟してフランス・オランダと戦っていたイギリスとロシアが今後は協力して日本に軍勢を派遣してくる可能性があるとのオランダ商館長の警告もあるが、実際に日本近海に出没する異国船は漁船のみであって、これは不足する野菜などを求めてのことであって侵略の意図を有しない。そもそも蛮夷といえども数万里の波濤を経て戦争を起こし他国を侵略することは、そもそも理にかなわない」という勘定奉行遠山景晋の判断に典型的なものであった。しかし漁船といえども乗り組み員はみなキリスト教を信じるものであり、上陸を許すと日本の漁民などにキリスト教を布教する恐れもあり、さらに前年の常陸大津浜での事件の際には、日本人の漁民は大いに捕らえられたイギリスへ捕鯨船員に同情の念を禁じえなかったことと、以前のロシア仕官ゴローニンの釈放交渉で来航したロシア船に対しても箱館の人々が極めて親愛の情を示し、ゴローニンらと交友した幕府役人すらいたことを挙げて、異人と日本人との接触を極力排除するためにも、異国船は見つけしだい大砲で撃ち払うとしたのであった。
つまり異国船打払い令の背後には、イギリスは日本には戦争を仕掛けてはこないという楽観的な国際情勢認識があり、異国船を打払っても戦争にはならないという情勢判断があったのだ。そして異国船を見つけ次第に打払う理由は、異人と日本人との接触を極力防ぐという観点だったのである。ここにも、ロシアとの交渉の過程で見え隠れしていた、神国日本観とそれを汚す蛮夷という、日本版中華思想が垣間見えることは特徴的である。
しかしこれが1825年の異国船打払い令発令という、幕府の突然の政策転換の理由ではなかった。
この法令の審議過程でしばしば勘定奉行などの勘定所役人の口から発せられるのは、長期にわたる異国船防備体制は、これにあたる諸藩の財政をますます逼迫させ、諸藩の民をも疲弊させるということであり、この動きによって触発される不満が、打ちこわしや一揆となって噴出することを恐れる発言であった。
実際に異国船が現れると、担当する藩の軍船だけではなく、周辺の浦々の漁船も多く駆り出され、たった1隻の異国船を数百艘の軍船・漁船が十重二十重に取り囲むという、異常なほどの警備体制が敷かれたのだ。そしてこの厳重な警備体制は、異国船が退出するまで際限もなく続けられる。また軍兵を出すのは当該の藩だけとは限らなかった。1824年の常陸大津浜の事件では、警備のために出兵したのは水戸藩兵だけではなく、大津浜の北・陸奥小名浜港に置かれた幕府小名浜代官所を助ける義務のあった白河・棚倉・磐城平藩なども出兵したのだ。まさしく異国船警備は、かつての北方問題で蝦夷地に長期にわたって軍兵を送った弘前・盛岡藩が警備のために疲弊し、幕府から拝借金を借りて警備について豪商からの借金を重ねたように、担当する諸藩にとっても大きな負担であり、警備に動員される魚民だけではなく、警備費用を捻出するために年貢・諸役が強化され、百姓・町人にも大きな負担となっていたのであった。
近世編2の各項で見たように、貨幣経済の進展は領主経済の疲弊を招いており、近世中期以後幕府や諸藩は、百姓や町人・商人の持つ富力を、様々な方法で奪取し、疲弊する領主財政の建て直しを図っていた。しかしこれは百姓や町人の既得権を侵す行為であり、幕府や諸藩と有力商人が結びついての新たな流通政策の実施は、かえって諸物価の高騰を招き、百姓や町人の生活権をも犯す行為であった。このため18世紀中ごろ以後、全国的に一揆や打ちこわしが相次いでおり、これは飢饉の時だけの例外的なことではなく、年貢や諸負担の強化で領主財政を立て直そうとする領主階級に対する庶民の怒りは沸騰していたのだ。
こんな時代に外からの圧力として現れたのが、相次ぐ異国船の渡来であり、新たな通商要求だったのだ。
従って最初から、異国船の渡来と通商要求は、国内での百姓・町人による一揆・打ちこわしの頻発という危機と一体のものとして認識されており、このことを強く認識して危機を乗り切るべく老中に就任した松平定信の寛政の改革以後の幕政を担う人々には、特にこの認識が深かったのである。
1825年の異国船打払い令は、打払っても戦争にはならないとする情勢判断と、従来の異国船警備体制を続けると諸藩や百姓・町人に多大の負担をかけるという判断から、海防体制費用を削減することを意図して出されたものだったのだ。
Aイギリスのアジア政策の急転換− 中国・日本の自由貿易市場への組み込みを意図す−
この幕府の国際情勢認識は、当時としては当を得たものであった。イギリスとロシアが協力して日本に軍艦を派遣してくるというオランダ商館長の警告は、ある意味では対日貿易の独占を図ろうとするオランダの利害に基づいたものであり、かならずしも事実を示したものではなかった。
ロシアは当時は黒海沿岸の経営に専念しており、トルコとの戦いに忙殺されており、極東に大規模な軍隊を派遣する力も意図ももたなかったことは、先に見た通りである。
また当時のイギリス政府も、日本との貿易の開始には積極的ではなかった。19世紀初頭のイギリスのアジア政策を動かしていたのは、国策会社である東インド会社であった。そしてイギリス東インド会社は、かつて17世紀初頭において日本貿易を巡ってオランダとの競争に負けて撤退した歴史を背負い、日本市場を低く評価し続けていたからだ。
しかし、イギリスのアジア政策は徐々に変化をきたし始めていた。
それは18世紀後期においてアメリカ植民地が独立して一時的に打撃を得、さらにはナポレオン戦争を戦い抜いたことによって多大な軍事費を負担した国債を背負い、イギリス政府の財政は火の車であったとは言え、イギリスはその卓越した海軍力を背景にして、今や、アメリカ・アフリカ・ヨーロッパ間の大西洋貿易も、インド・中国・ヨーロッパ間のアジア貿易もともに、イギリスの独占状態にあったからである。そしてイギリス貿易の主力品である綿織物は、その原料の全てを海外からの輸入に頼っており、生産した綿織物の約5割は海外に輸出しており、アジアはその主な輸出市場として注目され始めていた。従ってイギリスにとって、ヨーロッパ・大西洋市場において強力なライバルであったインド綿織物を駆逐し、併せてインド市場をもイギリス綿織物の市場として解放させ、インド綿花をもイギリス綿織物工業の原料として獲得することが焦眉の課題となっており、このためにはインドをイギリスの独占的な植民地として支配し、インド綿織物業を破壊することが必要であった。
また茶葉の需要が拡大して中国からの茶葉の輸入が増大し、イギリスの対中国貿易赤字が拡大したことは、中国の朝貢貿易を辞めさせ、中国をも自由貿易体制に組み込むことも焦眉の課題となってきていた。
なぜならば従来であればイギリスに入ってくるインド綿織物に高関税を掛けて排除すれば良かったのであるが、高関税政策はイギリス人に必要な輸入穀物の価格を引き上げて労働者の賃金を押し上げ、産業資本を圧迫するとともに、イギリスに輸入される原料綿花やサトウキビなどの価格も引き上げ、イギリス産業全体を圧迫し兼ねなかったからである。イギリス産業の発展は、イギリス政府の主な財源である関税と国内消費税の引き下げを激しく要求しており、高関税の象徴である穀物法の廃止を要求していた。
このような必要性を背景にイギリス政府は、自由貿易競争を掲げながらも、国家の総力を挙げてインドの植民地化に手を染め、インド貿易とともにインドの領土的支配権すら握っていた東インド会社を次第に国家統制によってコントロールする動きを強め、インド総督や主だった役人をイギリス政府とイギリス議会に責任を置くものとして東インド会社社員以外から選任するように体制を改め、1814年には東インド会社のインド貿易独占権を奪い取った。アジア産の茶の需要が拡大し、綿花や綿織物がイギリス貿易の主力となるにつれて、
アジア貿易の独占権を握る東インド会社は、自由貿易を阻害する要因に転化していたからであった。こうしてイギリスは、インドにおけるイギリス植民地を拡大していったのだ。
このようなイギリスのアジア政策の変化は、中国貿易においても始まりつつあり、1834年には東インド会社は中国貿易の独占権を奪われて、事実上解散した。
このイギリス東インド会社の貿易独占権の廃止に伴い、インドとともに中国における貿易もイギリス政府の監督下に置かれ、これに伴ってイギリスのアジア政策、ひいては対日政策も急転換
を遂げたのである。イギリスにとってアジアは重要な原料供給地であるとともに重要な輸出市場であり、インドに続いて中国・日本の自由貿易市場への組み込みが焦眉の課題となったのだ。
こうしてイギリスのアジア政策・日本政策は1830年代に急激な転換をとげ、イギリス政府は中国における東インド会社の独占権廃止に伴って広東に派遣された貿易監督官に対して訓令を発し、「日本およびその近隣の国々と商業上の関係を設定する可能性」の調査を命じている。そして貿易監督官が広東に派遣されてまもなく、貿易拠点として小笠原諸島の占領が計画され、1837年6月にはイギリス艦ローレライ号が派遣されている。また同じ時期に、マカオのアメリカ商社支配人のチャールズ・キングが、マカオに在住する日本人漂流民の送還を口実にして日本との通商を計画し、自社の船モリソン号を派遣しようとした際には、イギリス貿易監督官付の日本語通訳ギュツラフを同乗させて日本視察を命じ、日本貿易におけるイギリスの権利を確保しようと動いていた。
幕府が異国船警備費用の削減を狙って、理由の如何を問わず異国船を打払う布告を発した直後、これまで対日貿易にはあまり関心を見せなかったイギリス政府がその政策を転換させ、中国を自由貿易市場に組み込み、日本をもその橋頭堡として確保しようとする姿勢に転換していたのだ。これは、理由の如何を区別せず異国船は全て打払うという幕府の方針が、イギリスの政策と激突し、イギリスとの戦争を引き起こしかねない状態を生み出したことを意味している。
Bモリソン号事件と対外政策を巡る幕府内外の激突
1837(天保8)年6月に浦賀に入港したアメリカ船モリソン号に対して、幕府浦賀奉行所は異国船打払い令に基づいて砲撃を加えたので、モリソン号はやむなくマカオに引き返した。同船の来航の背景には、上に見たイギリス政府の対日政策の急転換と、それの先を越そうとするアメリカ商人の動きがあったのだが、幕府はこの時は、これがアメリカ船であることも、その来航目的が何であるかも知らずに打払ったのであり、事態の緊急さを知ったのは、翌1838(天保9)年6月に長崎に来航したオランダ船が機密文書をもたらしてからであった。
この機密文書はシンガポール発行の英字新聞に基づいて、モリソン号来航の目的は日本人漂流民の送還を口実に通商を要求する目的であったことを説いたたものであったが、アメリカ船ではなくイギリス船と誤って伝えていた。そしてこの機密文書を受け取った長崎奉行は、オランダに国外にいる日本人漂流民を機会があれば送還するように申し渡すべきか否かについての老中に対する伺い書を提出した。
この機密文書と長崎奉行の伺い書を受け取った勝手係り老中の水野忠邦は異国船打払い令の再考の必要を感じ取り、勘定奉行や林大学頭・大目付・目付などに伺い書を下して対応を評議することを命じ、それぞれの意見を付して、9月には評定所(寺社奉行・町奉行・勘定奉行)に下げ渡して評議を開始した。しかしここでの対応は見事に分かれた。評定所は漂流民の送還をオランダに申し渡すことを不可とし、断固として異国船打払い令を遵守することを主張したが、勘定所と目付・大目付・林大学頭は長崎奉行の意見に賛成し、オランダへ日本人漂流民送還を申し渡すべしと主張した。
この背景には1825年の異国船打払い令発令に際して、林大学頭に代表されるように、来航目的の如何に関らず異国船を打払うのではなく、まず来航目的を確認し、漂流民を送還した場合には打払わずに懇ろに対応すべしという、有力な反対意見が
幕府内に存在し、オランダの通告によってモリソン号が漂流民送還を目的としていたのに打払ったことは問題であるとの意見が、幕閣の中にも存在したからであった。そして老中水野忠邦がオランダの機密文書を受けてただちに行動した背景には、彼の回りには江川太郎左衛門ら蘭学に通じた幕臣が数多く存在し、彼らがすでにイギリスによる小笠原諸島占領計画を事前につかんでおり、日本の海防政策を変える必要があることを認識していたためであった。
さらにモリソン号を巡る幕府の論議のありさまは民間にも流出し、大きな波紋を作ることとなった。
1838(天保9)年10月に行われた紀州藩儒者遠藤勝助が主催する新知識交流会である尚歯会の席で、幕府評定所の下役芳賀市三郎が、モリソン号渡来の機密文書とともに、今後も異国船には打払い令を適用すべしとした評定所一座の答申案を示した。この会に参加していた高野長英と渡辺崋山はこの答申案を幕府の最終方針を示すものと誤認し、すでにイギリスによる小笠原占領計画も知っていてイギリスの対日政策が変わったことを認識していた彼らは、長英は幕政批判の「夢物語」を執筆して各方面に配布し、崋山は同じく幕政批判の「慎機論」を著したもののこれは公開せず、幕府の有力者などに働きかけて反対運動を展開した。この動きが後に蛮社の獄を誘発することとなる。
幕府は、12月に漂流民送還をオランダに申し渡すとともに、江戸湾防備体制を作り直すために、目付鳥居耀蔵と代官江川太郎左衛門に江戸湾巡視を命じた。またさらに代官羽倉用九に伊豆諸島ならびに無人島の調査を命じた。老中水野忠邦は、イギリスの対日政策の変化に対応して、海防体制を改めるとともに、異国船打払い令の再検討に動いたのである。
しかし水野忠邦のこの動きは実現しなかった。
水野が蘭学者らの意見を採用して、海防体制を変えることに危惧感を抱いた目付鳥居耀蔵が、水野の周辺にいた蘭学者らの疑獄事件をでっち上げて告発し、逮捕・監禁におよび、幕閣内の対立に火に油を注いだからであった。蛮社の獄である。
ことのきっかけは、1839(天保10)年3月に江戸湾巡視を終えた江川太郎左衛門が、渡辺崋山の助力を得て江戸湾海防計画を立案し、
巡視復命書と共に提出される江戸湾防備計画書に併せて付属資料として、崋山に広く海外情勢を説かせた文書を幕府に提出しようとしたことであった。渡辺崋山は、
先に見たように、三河(愛知県)田原藩家老の末席に連なり、藩の海防係を兼ねるとともに能力による役人の採用などの藩政改革を推進している経世家である。彼は、幕府学問所の林家の有力な門人たちにも学んだ儒学者であるとともに、海防係りとしての必要から
高野長英らの蘭学者に蘭書の翻訳をさせ、広く海外情勢について情報を収集し、ここに基づいて儒学のみにとらわれて広く海外に目を開かない態度を批判していた。このため崋山の周囲には彼の影響で蘭学に対する関心を深めた多くの儒学者や、蘭学に関心の深い幕臣や諸藩士が集まり、活発な情報交換が行われていた。この中に江川太郎左衛門や羽倉用九もおり、当時勘定吟味役であった川路聖謨もいた。この縁で江川が、江戸湾海防計画書立案にあたって崋山の助力を求めたのであった。
林大学頭述斎の4男に生まれた鳥居耀蔵は、儒学者でありながら蘭学に傾倒する渡辺崋山に批判的であり、彼のような諸藩の士が蘭学を通じて幕臣と懇ろになり、幕政に介入することを嫌ったのである。鳥居は小人目付に崋山の身辺を探らせ、
崋山は水戸領の僧らが計画した小笠原渡航計画にも参加し、さらにこれとは別に無人島に渡航しアメリカに渡ろうと計画したり、高野長英らと蘭学を講じる中で幕政を批判したと指摘し、崋山の周囲には
江川・羽倉・川路ら多くの幕臣が集って外国事情を講じ、さらに崋山は大塩平八郎とも通じている疑いありとの告発状を作って老中水野忠邦に提出した。
結局この告発の大部分は虚偽であり、告発状で名を挙げられた幕臣の多くは無人島渡航計画とも無関係であることがわかり、水野忠邦の命で町奉行所は1839(天保10)年5月、渡辺崋山と高野長英、さらに無人島渡航計画を立てた僧ら6名を逮捕した。
しかし無人島渡航計画も秘密裏に行われたものではなく、水戸藩に上申したが不採用となり、改めて幕府に願出て実施しようとするものであり、なんら犯罪に問うべきものではなかった。しかし、この捜索の過程で崋山の自宅から激しく幕政を批判した「慎機論」や江川の復命書に添える資料となる「西洋事情書」の草稿などが見つかり、12月には幕政批判書を書いた渡辺崋山は国許で蟄居謹慎となり、幕政批判の書である「夢物語」を書いて配布した高野長英は永の入牢、江川太郎左衛門が企画した江戸湾国防計画書の付属資料としての崋山の外国事情書の幕府への上申は中止された。
蛮社の獄は結局多くは鳥居のでっち上げであったが、蘭学者への批判的言辞は幕閣の中でも多くの支持者を得ており、外国が日本に攻めてくるなどの言説は蘭学者がでっち上げたことだとの意見を吐くものもおり、江川の立てた江戸湾防備計画は不採用となり、長英や崋山の批判した異国船打払い令は、そのまま堅持されたのである。
アヘン戦争が勃発したのは、この翌年1840(天保11)年であり、中国がイギリスに打ち負かされて南京条約を結ばされ、上海など5つの港を開港させられるのはさらに2年後の1842(天保13)年のことである。この風雲急を告げる時期において、幕府の対外政策はまとまっていなかった。イギリスのアジア政策・日本政策が転換したことを知って異国船打払い令の緩和と海防体制の整備を図ろうとする人々と、外国が攻めてくるというのは蘭学者らのでっち上げで断固打払い令を継続すべしという人々との間で鋭い対立が続いていたのである。
この中で後者の意見を幕府の見解と誤認した渡辺崋山と高野長英は、この立場が井の中の蛙であり、異国船打払い令の継続はアジア政策を転換させ強大な軍事力をもったイギリスとの軍事衝突を招く危険があると批判したのであり、同じ認識を持った者は、老中水野忠邦を初めとして、幕府の中にも
少数だがいたのだ。結局彼らが罰せられたのは、直接的には幕政批判の咎であり、その進んだ対外認識の故ではない。蛮社の獄は、幕府内部に国際情勢と海防計画をめぐる鋭い争いがあり、蘭学の知識に基づいて幕政を改革しようとする開明派を蹴落とそうとする保守派の策動だったのだ。そしてこの対立は、アヘン戦争の情報が入った後の天保の改革を巡っても鋭く対立し、さらにはそのまま幕末のアメリカ使節ペリーの来航を巡る対立にもつながっていく。
「つくる会」教科書のこのあたりの記述は、ロシアとの交渉・紛争の時と同様に、国際情勢認識と海防政策を巡って幕府内部にも鋭い対立があることをまったく記述しておらず、何ゆえ幕末において国際情勢認識と海防政策を巡って鋭い対立が、幕府内外に起こるのかを考える視点を提供していない。ここに同書の記述の大きな問題点が存在する。
(5)蝦夷地の内国植民地化−近代日本を作った経済力の形成とアイヌ民族の危機
最後に、18世紀末から19世紀初頭にかけて、蝦夷地が幕府の直轄領となるなかで、アイヌ民族はどうなっていたのかについて見ておこう。
蝦夷地を幕府の直轄領とする直接のきっかけは、1789(寛政元)年の、クナシリとメナシのアイヌの蜂起であった。
クナシリアイヌの蜂起は、クナシリと対岸のメナシ地方のアイヌ人が連携して起こしたもので、蝦夷貿易を請け負う商人の運上屋が襲われ、クナシリでは22人、メナシでは49人の日本人が殺された。殺された日本人は、この地の交易を請け負う飛騨屋の支配人や通詞や番人といった出稼ぎ人と飛騨屋の船の船頭や水主(かこ)、さらには松前藩の足軽も一人含まれていた。松前藩はただちに260人余りの鎮圧隊を編成し、キイタップ場所の運上屋が置かれた根室のノカマップにまで陣を進め、クナシリやノカマップやアッケシのアイヌ人首長を通じて蜂起した人々を説得させて投降を促し、クナシリ41人・メナシ89人の計130人を捕縛した。そしてクナシリではマメキリら14人とメナシのシトノエら23人のアイヌ人が、蜂起の頭取または直接の下手人として死罪と決められ、処刑対象者が騒ぎを起こすと、一斉に牢屋に鉄砲を打ち込むなどして37人全員を殺害した。
この事件の原因は、クナシリ場所と対岸のキイタップ・メナシ場所での蝦夷交易を松前藩から請け負っていた飛騨屋の過酷な収奪が原因であった。自由な交易が飛騨屋・松前藩によって奪われ、アイヌ人の男たちは飛騨屋が経営する魚場の労働者として、ニシンや鮭やたらを捕獲する厳しい労働に従事させられ、
飛騨屋は、雪の降る季節まで労働に従事させながらただ働き同然の給金しかあたえなかった。少し後の資料によると、釧路の場所では日本人支配人の給与は越年金を含めて31両3分
(約381万円)、番人などは越年金も含めて10両(約120万円)程度、さらに奥地のクナシリ場所では、支配人だと40両2分(約486万円)ほど、番人でも14両1分
(約171万円)にもなった。これに対してアイヌ人の場合は、釧路では月に344文であり、一年間働きづめでも2両(約24万円)程度にしかならず、実に日本人番人の5分の1程度の低賃金だったのだ。さらに、この魚場に東北地方などから流れ込んだ日本人はしばしばアイヌの女たちを辱め、アイヌの人々は人として生きていく権利を奪われる状態となっていた。この事態に対してクナシリアイヌとメナシアイヌが共同して蜂起したのが、今回の事件であった。
この事件以後、幕府は紆余曲折はあったが、蝦夷地の直轄化に踏み込み、東蝦夷地は1799(寛政11)年に、西蝦夷地は1807(文化4)年に上知され、松前に置かれた奉行所の指揮の下で蝦夷地は統治され、アイヌ人との交易は幕府の直轄となった。
幕府が蝦夷地を直轄地とした理由は、松前藩の統治下で藩に多大の貸金をしていた商人たちにアイヌ人との交易が請負われ、そこで過酷な収奪が行われた結果、アイヌの暮らしが衰微し、このまま放置すると、北千島列島のアイヌ人がロシア人に手なづけられたのと同様に、蝦夷地のアイヌ人までもロシア人に手なづけられ、蝦夷地までもがロシアの領土と化してしまうというものであった。そのため、アイヌとの交易は商人請負ではなく幕府が直接行い、アイヌコタンに幕府役人が出向いてそこでお互いの産物を交換する本来の形に改めアイヌ人の暮らしを守るというのが、幕府の言い分であった。この際特徴的なことは、従来日本の外にある蛮夷の国と認識されていた蝦夷地が日本の領国と考えられるようになり、「日本人と同祖」であるアイヌ人の生活習慣を日本人のものに改めさせて日本人化し、日本の領民と同じく、キリシタン禁制と海外渡航禁制の下に置くという政策が、実際に行われたことである。すなわち日本人のような髪型や衣服こそが文明化された風俗であり、そうではないアイヌ人の風俗は野蛮なものと観念され、風俗だけではなく言語も宗教も生活様式も産業も全て日本人に同化させるという、日本=中華の思想に立った政策だったのだ。
しかし蝦夷地直轄制は、絵に描いた餅であった。
アイヌコタンまで幕府役人が商品を携えて交易に出向く直捌き制では、諸経費が嵩んで幕府は赤字となり、幕府財政に重い負担となったことは先に見たとおりである。そして蝦夷地の産物は上方を中心に高値で取引され、日本の産業や貿易を支える根幹となっており、蝦夷地で産するアワビ・ナマコなどは皆、長崎などを通じた重要な輸出品として高値で取引され、さらに蝦夷地で産するニシンは貴重な蛋白源として、そして油を絞ったあとのニシン〆粕は、商業的農業を推進する上で不可欠な肥料として高値で取引されていた。すでに蝦夷地産品は、アイヌ人との等価交換で交易されていた近世初頭の量をはるかに上回る品物に対する需要が全国的に存在しており、これは請負商人たちによる不等価交換と魚場における奴隷労働を通じて流通していたのだ。
従って幕府によるアイヌ交易は直ぐに行き詰まり、西蝦夷地での交易は1807年の直轄化の時も商人請負が継続され、東蝦夷地の交易も1812年には商人請負制に戻った。
しかし幕府直轄制下の商人請負制は、松前藩統治下の商人請負制とは性格が異なっていた。
従来の商人請負制での請負い場所は商人の私的な商いの場であったが、幕府直轄制下の請負場所は運上所が会所と名称が改められるとともに、会所の支配人や番人は単なる商人の手代ではなく幕府権力を背景とした公的な役人と同様な権力を持ち、アイヌ人の首長といえども、この会所の支配人を通さずに幕府役人と交渉することは出来なくなり、会所の支配人や番人は、アイヌ人の生活のあれこれについてまで命令できる存在になったのだ。従ってこの会所が運営する魚場での給金は幕府が定めた公的なものとなり、これに文句を言うことは、幕府に対して文句を言うのと同様な性格のものとなり、魚場での支配は以前よりも強化されたのである。このため会所支配下の魚場での労働は以前よりも過酷なものとなり、支配人や番人の横暴も以前と変わるものではなかった。
そしてこの体制は、1821(文政4)年の蝦夷地の松前藩領への復帰後も続けられた。
アイヌの人々は、幕府による強制的な風俗の日本人化は拒否し、民族としての独立は維持したものの、日本人との交易権は事実上奪われ、商人請負場の魚場の労働者としてしか生きる道がなくなったのだ。さらに千島のエトロフでの千島アイヌやロシア人との交易は禁止され、この交易を生活基盤としていたエトロフアイヌやメナシアイヌもまたこの地域の魚場の労働者となり、またソウヤ地方のアイヌ人も、カラフト南部での山丹人との交易権を幕府・松前藩と請負商人に奪われ、彼らもこの地域の魚場の労働者として生きるしか道はなくなった。このため今まで以上の過酷な労働条件と、魚場への今まで以上の日本人出稼ぎ者流入による疫病の蔓延などでアイヌ人の人口は急激に減少した。蝦夷地はすでに、日本の内国植民地と化していたのだ。
アイヌ人の人口は、1807(文化4)年の東蝦夷地1万3192人・西蝦夷地1万3064人、合計2万6256人から、1822(文政5)年の東蝦夷地1万2054人・西蝦夷地8938人、合計2万992人とわずかの間に急激に減少した。さらに他の統計では、1822(文政5)年の2万3563人から1854(安政元)年の1万7810人へ、または、1822(文政5)年の2万3720人から1854(安政元)年の1万8805人へといろいろあるが、近世後期の商人請負制の下で、アイヌ人の人口が急激に減り、民族の存在そのものが危機に陥っていたのだ。アイヌの人々の生活と文化は、明治維新後の北海道開拓によって危機に瀕したのではなく、すでに近世後期に蝦夷地産品が日本の産業を支える重要な商品となるなかで蝦夷交易が商人請負制となり、この請負制の支配下で深刻な危機に陥っていたのだ。明治維新による北海道開拓とアイヌ人の日本人化は、これに拍車をかけ、民族の危機を生み出した。
こういった近代におけるアイヌ人の受難の基盤となった近世後期の事態も、教科書にきちんと記述しておく必要があろう。
注:05年8月刊の新版でも「欧米諸国の接近」の項の記述は基本的には変わらない。従って上に見た旧版の問題点はそのまま踏襲されている。なおこの項の挿入位置が新版では変わり、寛政の改革と天保の改革の後ろに移されている。この配列だと、幕政改革の時代が、内政の危機とともに外交の危機の時代であったことが分かりにくくなり問題である。しかし一部記述に変化が出ている。それはロシア船によるカラフト・クナシリ襲撃によって生まれた緊張感を現す小林一茶の句が注に移り、旧版で注にあった間宮林蔵の業績が本文に挿入されたこと。また資料として異国船打払い令の部分と、高野長英の幕府批判である「夢物語」の一部が掲載され、より事態を正確につかめるような工夫がされている。しかし異国船打払い令に関する幕政批判を掲載するのであれば、高野長英よりも渡辺崋山の一文を載せる方が賢明だと思う。なぜなら長英の批判は、極めて道徳主義的であり、彼我の国政や教育・文化などの差を明確に示したものではないからである。なお新版では19世紀になって日本近海に来航した捕鯨船をアメリカの捕鯨船としているが、これは誤りである。イギリスとアメリカの捕鯨船とする旧版の記述の方が正しい。
注:この項は、 ゴローニン著「日本幽囚記」上中下(井上満訳・1943年岩波文庫刊)、杉田玄白著「野叟独語」(芳賀徹編「杉田玄白・平賀源内・司馬江漢」(1984年中央公論社刊「日本の名著」22所収)、渡辺崋山著「慎機論」・「再稿西洋事情書」・「外国事情書」・高野長英著「夢物語」・工藤平助著「赤蝦夷風説考」・本多利明著「西域物語」・佐藤昌介著「経世家崋山と科学者長英」(佐藤昌介編「渡辺崋山・高野長英」1984年中央公論社刊「日本の名著」25所収)、杉本つとむ著「江戸の博物学者たち」(1985年青土社刊、2006年講談社学術文庫再刊)、 今井宏編「イギリス史2近世」(1990年山川出版社刊「世界歴史体系」のうち)、村岡健次・木畑洋一著「イギリス史3近現代」(1991年山川出版社刊「世界歴史体系」のうち)、大石慎三郎著「田沼意次の時代」(1991年岩波書店刊、2001年岩波現代文庫再刊)、 松岡英夫著「鳥居耀蔵−天保の改革の弾圧者−」(1991年中央公論新書刊)、片桐一男著「オランダからの風説書と舶載品」(1992年中央公論社刊・日本の近世第6巻「情報と交通」所収)、沼田哲著「世界に開かれる目」(1993年中央公論社刊・日本の近世第10巻「近代への胎動」所収)、 I.ウォーラーステイン著「近代世界システム1600〜1750−重商主義とヨーロッパ世界経済の凝集」(1993年名古屋大学出版会刊)、菊池勇夫著「アイヌ民族と日本人−東アジアの中の蝦夷地」(1994年朝日新聞社刊)、 深谷克己著「18世紀後半の日本−予感される近代」・菊池勇夫著「海防と北方問題」(1995年岩波書店刊・日本通史第14巻近世4所収)、 藤田覚著「19世紀前半の日本−国民国家形成の前提」(1995年岩波書店刊・日本通史第15巻近世5所収)、 市村佑一・大石慎三郎著「鎖国 ゆるやかな情報革命」(1995年講談社現代新書刊)、 柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編「フランス史2-16世紀〜19世紀なかば」(1996年山川出版社刊「世界歴史体系」のうち)、片桐一男著「開かれた鎖国−長崎出島の人・物・情報」(1997年講談社現代新書刊)、 佐藤昌介著「高野長英」(1997年岩波新書刊)、 I.ウォーラーステイン著「近代世界システム1730〜1840s−大西洋革命の時代」(1997年名古屋大学出版会刊)、山下恒夫著「大黒屋光太夫−帝政ロシア漂流の物語」(2004年岩波新書刊)、 藤田覚著「近世後期政治史と対外関係」(2005年東京大学出版会刊)、土井康弘著「本草学者 平賀源内」(2008年講談社刊)、小学館刊の日本大百科全書・平凡社刊の日本歴史大事典・岩波歴史辞典の該当の項目などを参照した。