「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第3章:近世の日本」批判31


31: 貨幣経済の進展に翻弄される封建領主体制ー寛政の改革と改革政治の弛緩

 第 4節「幕府政治の動揺」の 3つ目の項目は、「幕府政治の改革」である。 この項目は「寛政の改革と大御所時代」「飢饉の発生と天保の改革」「雄藩の改革」の3つに別れ、近世後期の社会変動の中で、幕府や諸藩がどのように対応したかを論じている。

(1)封建領主体制維持に腐心した寛政の改革

 この最初の項である「寛政の改革と大御所」時代では、その前半で松平定信が行った寛政の改革について、以下のように教科書は記述している(p156・157)。

 18世紀末、田沼意次失脚のあと、松平定信が老中に就任し、田沼の政治を否定し、吉宗の政治を模範として改革に取り組んだ(寛政の改革)。定信の改革は、倹約の徹底、農村の再建、飢饉のような非常事態への備えの充実を柱としていた。そのため、農村では、米など主要穀物の生産を奨励し、都市に流出した農民を村に帰すことや、荒れた農村によそから農民をよび寄せることが試みられた。各地には、社倉や義倉とよばれる貯蔵庫を設け、飢饉に備えた。また江戸では、非常事態に備えての基金である七分積金を設置し、江戸石川島の人足寄場で無宿人(一定の住居と正業をもたない人々)の職業訓練を行った。
 寛政の改革は、おもに流通の発展にともなう農村の変化をおさえることを目指していた。また、この時代は、社会の変化によって、人々の多様な職業や生活の機会は増えたが、その反面、飢饉のような非常事態の場合は、物資を緊急にうまく配分することができなかった。交通網が発達しておらず、藩ごとに行政区画も分かれていたからである。そのため被害が大きくなり、農村では百姓一揆、都市では、下層民の生活が直撃されて打ちこわしがおきた。こうして飢饉への対策は、農村・都市を通じて不可欠のものとなっていったのである。
 しかし、定信の改革でもっとも重要なのは、やはり倹約の徹底であった。社会全般の華美な気分を引きしめるため、文化や風俗の取りしまりがなされた。ところが、定信のそうしたきびしい政策が、幕府の内部でも不評をよぶようになった。

@改革の目的が不十分にしか語られていない

 最初に寛政の改革の要目が、倹約の徹底・農村の再建・飢饉への備えの確立にあったと指摘してその詳細を記述し、このような改革が必要であった背景を説明する形の、比較的整った記述である。しかし残念ながら「つくる会」教科書のこの記述も、不十分なところが多く、かついくつか誤解も含まれたものである。

(a)崩壊しつつある社会を維持するための改革であったことが充分には語られていない
 一つは、全体としての改革の目的が把握されず、農村の再建と倹約の徹底という個々の政策の背景を説明しただけとなり、なぜ定信が先の3つの項目での改革を行わざるをえなかったのかが良く分からないことである。
 教科書の記述は農村の再建と飢饉への備えの確立が、記述の中心となっている。
 農村の再建については、対策としては米などの主要穀物の生産の奨励と、都市に流出した農民を村に帰すことや荒れた農村によそから農民をよび寄せることが記されているが、この背景は、「流通の発展にともなう農村の変化をおさえること」と説明されている。しかしここは、「貨幣経済の進展に伴って商業的農業が広がったことに伴う農村の解体をおさえること」と、明確にその目的 を記述すべきであろう。
 先にこの教科書が、「産業の発展と社会の変化」の項で、村にも「米以外の農産物の生産や副業」が広がり、これに「成功し、豊かになる人がいる一方、失敗して借金のため土地を失い小作となる人々も出た」と説明を試みたように、貨幣経済の進展に従って村における貧富の差も拡大し、これに領主層による年貢・諸役の増徴策が重なって、当時の村の中には、「江戸などの都市に出て零細な商人になったり、商家に奉公する人々も増え」 「地方では田畑が荒廃する地域も生じた」のが実情であったからだ。ここに深刻な凶作が襲うと、蓄えのない零細な百姓と都市の零細な商人や奉公人はその日の食べ物にも窮し、さらに村にも町にも藩や幕府に も凶作に備えた備蓄がないために深刻な飢饉を発生させた。
 この教科書は深刻な飢饉が起きた理由を、「交通網の未発達」「藩ごとに行政区画が分かれていた」ことだけをあげたが、根本的な原因は近世編2の諸章で見たように、貨幣経済の進展とともに百姓も金を借りて農業を行うようになり、飢饉に備えて食料を蓄えることすらしていなかったことと、藩も幕府も米などの産物をより有利な条件で売却することで収入を増やそうとしていたため、ここも飢饉に備えての食料の備蓄すらしていなかったことであった。
 定信が否定した田沼政治とは、このような状況を放置し、進展する貨幣経済に依拠しながら幕府の収益だけを増やそうとして、ますます村や都市の零細民の暮らしを追い詰めていったものであった。
 したがってこれの否定として発足した定信政権の改革とは、必然的に、貨幣経済の進展に伴う歪を正し、封建領主の経済基盤である村が貨幣経済の進展によって崩壊しかけた状況を立て直す とともに、飢饉への備えを村も町も藩も幕府も行うよう進めることだった。「流通の発展にともなう農村の変化」などというあいまいな表現を使うのではなく、「貨幣経済の進展」「商業的農業の拡大」に伴う「農村の解体状況」を抑えることが目的であったと明記したほうが良い。こうしてこそ、主要穀物生産の奨励が、一つは飢饉に備えた備蓄を促すためであり、もう一つは商業的農業の規制であったことが良く分かるし、都市に流出した人の帰村の奨励や荒れた農村によそから人を呼び込むことが、崩壊しかけた農村の建て直し策であることが明確になる。

(b)行過ぎた倹約令は時代錯誤であったことを指摘していない
 また、倹約の徹底の目的が、単に、「社会全般の華美な気分をひきしめる」ためとされたことは、この教科書の記述者が、寛政の改革の目的や背景を充分には把握していないことを示すものである。
 田沼が貨幣経済の進展に依拠して幕府の利益を図ろうとしたのも、定信が倹約の徹底をはかろうとしたのも、どちらも減少しつつある封建領主の収入を確保し、幕府の財政難と武士の生活難を解決しようとしてのものであった。そして幕府の財政難が起こる理由は、一つは収入の基本である米の価格の傾向的低落による収入減であり、もう一つは、武士を含めた社会全般の暮らしが華美になり、これに必要な品物を作るための商業的農業・商工業が発展し、百姓は米の生産を軽視して商品作物栽培に走り、その一方で華美と なった日常生活品はまだ生産が不十分なため価格が高く、幕府の支出や武家の支出が増大したことであった。簡略化して言えば、米価安の諸色高という現象が生まれて、幕府財政は困難となり、武士の暮らしも厳しくなっていたのだ。
 寛政の改革を主導した松平定信は、こうした問題の根本の原因を、武士も含めた社会全体の華美な傾向にあると判断し、質素・倹約を励行することで、この状態を改善できると判断したのだ。 さらに、彼は、幕府の利益だけを追求する田沼政治が跋扈した背景は、武士も華美な生活を好み暮らしが贅沢になったために家計が苦しくなり、ために民の平安を守るという武士本来の任務を忘れて、幕府の利益を増やすために民を苦しめる政治に走ったと、田沼政治の悪弊の根幹を理解していた。
 実際幕臣の多くが生活に困り、借金を多数抱えて内職に邁進する状況であった。また小普請組などお役につけない幕臣には暇をもてあまして、茶屋などでの遊興や戯作に耽り、上層町人の華美な生活と一体となっている者も目立っていた。
 従って質素・倹約というとき、その主たる対象は武士であり、武士は武士らしく華美な暮らしを辞めて御政道に精進しろということであったのであり、 これに伴って武士には武芸と学問に精進することが勧められ、その才能によって役人として登用する制度の整備が伴っていた。
 しかし寛政の改革での倹約令は、武士の華美な生活を規制するだけではなく、町人や百姓の華美な生活も規制の対象と したことにより、単なる武士の家計の収支を安定させる政策に留まらず、貨幣経済の進展に伴う経済活動全般を規制するという、極めて時代錯誤的なものとなっていた。
 そもそも、百姓・町人や武士の生活が華美となったから、社会の統治という任務を武士が忘れるとともに、武士の財政難が生まれたという定信の認識そのものが間違いである。
 貨幣経済が発展し、社会が豊かになるとともに、生活に必要なもののほとんどを貨幣で買うことが出来るようになった。このことが原因となって百姓・町人や武士の生活が次第に華美となり、武士の家計の財政難も生まれ、統治者としての任務を武士が忘れるという事態も生まれたのだ。 暮らしが華美になったのは貨幣経済発展の結果であり、貨幣経済の発展が武士の財政難を生み出していたのだ。従って華美な暮らしを規制するということは、それを促した貨幣経済の発展を規制することとなり、貨幣経済の発展を基礎に暮らしを成り立たせていた人々の暮らしを直撃することになる。
 質素倹約令が武士のみを対象としていれば、武士の家計の収支の安定に寄与するので大いに役立つ政策であるが、いまや武士の経済活動以上に社会的な役割を増大させていた百姓や町人の消費活動を規制することは、かえって武士もその財政基盤の一つとしていた貨幣経済を混乱に落とし込める誤った政策である。このような規制は、享保の改革において将軍吉宗によって最初に導入されたものであったが、この時も経済活動全般を不振に落とし込め、社会全体から厳しい批判が起こっている。しかし貨幣経済の進展によって生まれた華美な文化がすべての悪の元凶であり、昔に戻すことが改革の根本であるという定信の復古主義的政策の基調は、享保の改革におけるその失敗を省みることはなく、再び経済政策の失敗を招いた。
 しかも幕府は質素倹約令を徹底するために、市中に多数の隠密を放って違反者を取り締まり、このため宝暦・天明時代を代表した華やかな人間的な文化活動全般が規制され、経済活動全般も不活発となって社会全体を暗い空気が覆っていった。従って武士の生活だけではなく百姓町人の生活まで規制したことは、経済活動全般を規制したこととなり、かえって経済活動を不活発として社会の活力を削ぎ、とりわけ都市や村の下層の人々の仕事を奪うこととなったのだ。
 だからこそ定信のこの異常とも言える質素倹約政策が社会に様々な不満を呼び起こし、これに定信と将軍家斉の不和とが結合して、突然の定信の老中解任という形になったのだ。
 定信の改革に対する幕府内部の批判というのは、けっして華美な風俗や社会批判を規制したことに対する批判ではなかった。例えば幕臣で有名な戯作者であった大田南畝が「ぶんぶというて夜も寝られず」と改革政治を皮肉ったことなどがよくこの例として取り上げられるが、これはこの時代の自由な精神の発露としての単なる茶化しに過ぎない。
 たしかに実際に定信の政策に対しては、幕府内部でも異論があった。しかしそれは、倹約部分で言えば、幕府の財政支出を減らすために、田沼時代には積極的になされた小藩での河川普請を国役で実施することやその際での大藩の手伝い普請を辞めたことに対してであり、武士や百姓・町人に対して質素・倹約を求めたことではなかった。領主経済を守るための諸政策については、幕閣は一致してこれを遂行していたのである。
 むしろ批判は幕府外からであった。財政支出を減らすための公共工事の減少は、これに依存する口入稼業や材木屋や土建業には大きな痛手であったからであり、華美な役者絵や春画集などの出版統制は、これらの事業に依拠していた業者には痛手であったからである。 そして百姓・町人や武士の日常生活の、衣服や髪型から小間物や家具調度にいたるまでの過度な生活規制は、ある意味で社会の活力を支えており、それによって日々の生活を成り立たせている多くの下層のその日暮らしの人々が多数いる経済活動や、同じく単身者の男が多数集まっている都市にとって不可欠な遊女宿まで規制したことは、経済活動全般を不振に陥らせる時代錯誤のものであったことへの批判が噴出してきたのだ。そしてこれを背景にして幕府内部にも定信の政策に対する批判が噴出してきた 。
 だから寛政の改革以後も武士に対する質素倹約令は継続されたが、百姓や町人の生活規制は次第に緩み、都市全体に広がりつつあった遊女宿の規制も、豪華な浮世絵や春画の規制や社会風刺物の規制も次第に緩み、彼らの年中行事や様々な祝い事などは、法の規制対象外であることは、幕府も折に触れて布告していくこととなる。町人や百姓の華美な生活はすでに、江戸時代経済を回すに不可欠な需要創出機能を担っていたからであった。そして武士の華美な生活もまたその一端を担っていたのであり、寛政の改革の経済政策に対する批判は、それが有効需要を削減して深刻な不景気をもたらすという面においてのみ、批判されていたのであった。
 この点で、この教科書の執筆者たちは、定信の質素倹約政策の性格を誤って捉えていることがわかる。

(c)社会を維持するための思想の流布が語られていない
 さらに3つ目に、農村の再建・飢饉への備えの確立政策において、儒学に基づく仁政が具体的に行われたことと、財産の多い者はその分に応じて社会的貢献をしろという思想が背景にあったことも、きちんと記述すべきである。
 農村を立て直す時もっとも効果があったのは、公金や富裕者からの献金を基にして、子どもを養育できないような貧困者や農業を充分には展開できないような下層の百姓に対しては生活や営農の資金を援助したことであり、さらには公金と富裕者からの献金を基にして、農村の基盤整備としての堤や用水の建設や修理や荒地の開墾などが積極的に行われたことであった。さらに教科書でも記述された飢饉のための貯蔵庫に納め られた籾は、幕府や藩が負担した分と百姓がその持ち高に応じて拠出した分と、さらには富裕者の献金によって賄われていた。また江戸での七分積金とは、町の地主や家主などの富裕層が負担していた町行政に必要な費用を削減して、 削減した分の7割を飢饉対策の米穀を購入する資金にあてたものであり、いわば都市の富裕層の負担で、飢饉に対応した備えをなそうというものであった。
 民の平安を守る為政者としての義務を幕府や藩が遵守するとともに、村や都市の富裕者もまたその財力に応じて、社会の安定のために尽すことが求められたのであった。 いわば、社会安定のための保険の役割を果たす制度を、為政者や富裕者の負担で創設したのであった。そしてこれは、為政者や富裕者には、このようにして社会の安定を図ることが責務であるという思想の流布と一体であった 。
 この点においても寛政の改革は、吉宗による享保の改革において、飢饉に際して富裕者が施しをすることを奨励し、多額の施しを行った富裕者をリストにして出版し、社会的に賞賛した行為を、直接的に継承したものと言えよう。
 だからこそ武士に対しては朱子学を学び、為政者としての道徳を身につけることが奨励され たのだ。寛政年間に行われた林家の家塾を幕府学問所とし、そこでは朱子学以外の学問を教えることを禁じた(これは寛政異学の禁と呼ばれている)のは、武士に為政者としての心を取り戻させ、社会の安定を図るためだったのだ。そしてこれとともに、武士だけではなく、町人や百姓にも、それぞれの分に応じた生き方・心のあり方が流布される。儒学に基づいた分に応じた社会貢献を説いた石田梅岩の心学などの講義が人足寄場でなされたり、心学に基づく道徳論が幕府領の各所で、版本や1枚刷りの絵として流布され、質素・倹約と勤勉さが暮らしの維持の基本であることが広められたのだ。
 こうして見てくれば、寛政の改革とは、封建領主が主に村からの年貢によって暮らす社会体制の安定と維持をねらった改革であったことが明確に見えてくる。
 幕府は百姓からむやみに年貢や諸役をしぼりとるのではなく、その暮らしが成り立つように慈悲のある政治を行い、武士はこれに邁進する。そして村や町の富裕者も「徳人」として応分の社会貢献をなし、村や町の貧困者たちが凶作などに際して困らないよう援助しろ。こうしてこそ今の社会体制は安定し維持できるというのが、寛政の改革の理念であったのだ。
 寛政の改革は、危機に直面した領主経済を維持するためのものであった。

(d)内外の危機の連携が語られていない
 だが、この時幕府が直面した危機はこれだけではなかった。
 内政面では、打ち続く社会危機に無策であった幕府や藩の権威は地に落ちつつあった。この幕府や藩の権威をいかに上昇させるかは大きな課題であった。
 仁政を敷くということはこれに対する一つの答えであり、 一般には教科書ではまったく触れられることはないが、これと裏腹の関係にある施策として、出版統制に留まらず文化流行一般を幕府が先導する文化政策も大きな役割を果たしていた。もう一つは幕府統治の根源の明示としての朝廷との関係であるが、「つくる会」教科書は、この点について も一言も触れていない。
 また定信の時代はすでにヨーロッパ勢力のアジアへの侵出が拡大した時期であり、ロシアを先頭として日本に対して新たな通商を求める動きが活発化し、幕府は「鎖国体制」を見直すのかどうかが、大きな問題になっていた。
 「つくる会」教科書はこの問題については、前項の「欧米諸国の接近と異国船打払令」において、幕府がロシアの通商要求を拒絶しロシアと北辺で武力衝突を招いたことや蝦夷地直轄の動きを始めたことは記述しているが、 これと国内政治の建て直しが連動していたことはまったく記していない。そして諸外国との関係を新たに確立することも、【30】で見たように、ことはそう単純ではなく、幕府内部には、 国内政治の建て直しにおいても、重商主義派と重農主義派の対立が寛政の改革以後も続いたように、外交政策でも開国派と鎖国派の対立があり、鎖国派の中にも、穏便に通商を断りながらもヨーロッパの科学技術を取り入れて日本を変えていく派と、武力で外国船を打払う派の対立もあり、一筋縄ではいかない問題であった。
 さらにこの海外情勢の点についていえば、「つくる会」教科書の記述は、内政の危機と外交の危機とが一体となって進んでおり、当時の幕府為政者にもそう認識されていたことがまったく触れられていないことは問題である。定信を初めとした主要幕閣たちの認識としては、「国内が乱れれば、その間隙をついて、諸外国が日本へ侵略の手を伸ばしてくる」という、強い危機感が存在した。だからこそ、異常な熱心さで、領主経済の建て直しを新たな制度の創設だけではなく、人々の考え方の再構築という文化面にまで及ぼして進めたのだ。
 寛政の改革が行われた時期は、世界経済に構造的な変動が生じ、欧米列強が競ってアジアに進出し始めた時代であり、その流れが極東の日本にも及んできた時期であった。そして外国との貿易の面では、日本の銀や銅の産出量が激減し、世界に銀や銅を輸出する貴金属輸出国としての日本の地位が低下し、いまや貿易においては、海産物や陶磁器などの製品を輸出し、代わりに海外から銀や銅を輸入する構造に変化しており、日本に開国を求め始めていた欧米列強の要求も、日本に求めていたのは貴金属ではなく、植民地経営や日本近海での捕鯨業継続のために必要な、食料や衣料などの製品を供給することであった。 国家的に管理された制限貿易はなく、自由な貿易を求めていたと言い換えても良い。
 国内体制も貨幣経済の進展によって再編を余儀なくされていた時期に、外国との関係もまた構造的な再編を要請されていたのが、寛政の改革が行われた18世紀後期から19世紀初頭の時代であった。内外の危機が連動していた時代であったことも、もっと明確に記しておく必要がある。

A封建的社会政策と把握された寛政の改革とその実現度

 上に見たような、封建社会を維持するために、解体する農村や都市に滞留する膨大な貧困層の暮らしを守るために、暮らしに困る人々に対する社会的な援助を、為政者と財産のある富裕層の連携によって行うという定信が取った政策は、今日の歴史学会では、「封建的社会政策」と性格規定されている。
 これは、19世紀の末に、資本主義社会における厳しい搾取の結果として生まれた膨大な貧困層の存在が、社会を崩壊させる火薬庫として認識され、プロシアを初めとして、この貧困層に対する社会的援助こそが社会の安定にとって不可欠であるとの認識に基づいてとられた社会政策の性格規定に基づいて、これと同じことが封建社会の崩壊期にも行われたのではないか、という観点から生まれた ものである。そしてこのような認識は、封建社会が暗黒の多くの人を無権利状態におい た専制政治の時代という従来の誤った認識から脱却し、時代の様相をドクマで見ずに、ありのままの姿で見るという新たな歴史学が生まれた結果でもあった。
 こういう視点から歴史を研究してこそ、はじめて歴史の変化をありのままに見据えられるのであった。
 しかし問題は、松平定信がこのような観点から、封建社会を維持するために膨大な貧困層への生活支援を政権の最大の課題にすえて様々な政策を実施したとはいえ、これがどこまで実現しどこが実現しなかったのかを判定することが必要である。 だがこの問題は、結果として封建社会とそれを基盤とした幕藩政治が立ち行かなくなり、明治維新によってこの社会と政治制度の変革がなされたことに明らかなように、この時点での封建社会の建て直しの政策は失敗していることは明らかなので、この政策の実現度についてのつっこんだ研究はあまりなされていないようである。
 しかし少数ではあるが、この点に踏み込んでいる研究もあるので、それに基づいて以下に略述して置こう。
 結論を先に言っておけば、寛政の改革はそれ自体としてはわずか6年程度の短いものであったが、定信の老中退陣後も彼の同志たちの老中によって継続して進められ、一定の成果を挙げて、一時的にせよ社会の安定に役立っていたのである。しかしこの封建的社会政策の実施によって一時的に一息ついたとはいえ、貨幣経済の進展=資本主義的経済制度が社会全般を覆い尽すことによって、社会の分解と貧富の差の拡大、そして政治の機能不全はさらに進展したというのが実態であった。

(a)進まぬ食料の備蓄−幕府の説得で進みそれなりに機能はしたが
 飢饉に備えた籾の備蓄制度は、江戸を一部例外とした以外は、実際にはなかなか実現は大変であった。それは、この備蓄制度が、幕府が主導して行ったとはいえ、幕府や諸藩の財政負担は小さく、主としてこれを財政的に負担したのが、都市や農村の富裕層であったからである。これは言い換えれば、都市や農村の富裕層の間には、社会を統治する為政者としての自覚がまだ不十分であり、儒学的思考に基づく「仁政」思想は、為政者である武士のものだという観念が強く存在していた結果であった。
 籾の備蓄政策の実態は、以下のようであった。
 幕府は諸藩に対して、高1万石に対して毎年米50石を5年間備蓄することを命じ、幕府自身も諸藩と同じ割合で、浅草・大坂・京二条の幕府米倉や各地の城に設けた倉の城詰米を増やした。
 これらは飢饉に際して放出する公的な備蓄であり、幕府や諸藩の負担でなされていた。この政策がなされたのは、田沼政治の時代に、幕府の倉での米の備蓄は不経済であり、飢饉になったら公金でいくらでも食料は買えるという理由でほとんど備蓄がなされておらず、これらが天明の大飢饉に際して、まったく手が打てなかった背景であったからだ。
 そしてこの備蓄米は幕府の点検をしばしば受け維持された。そして後の天保の改革でも囲い米令が出され、この時には備蓄量が、高1万石に対して100石で5年間備蓄と拡大されている。またこの諸藩や幕府の籾の備蓄は、かなりの量に上っていた ようで、定信の著書の「宇下人言」によれば、御三家・御三卿と万石以下の旗本領を除いて、全国で40万石の備蓄が出来たという。
 これに対して、飢饉に際して、その現場の村ですぐに放出できる村の備えはどうだったのだろうか。
 幕府領の村に対しては、幕府から次のような布告が出されていた。
 1788(天明8)年には、村々でも稗の貯穀をすることとし、10ヶ村を目安として組合を作って郷倉を設け、年貢の稗1俵につき稗3合を集めて貯蓄することがまず命令された。そして翌1789(寛政元)年には、 米や麦の貯穀令が出され、郷倉の建設用材は幕府が負担することとし、村が前年に貯穀した量の20分の1を幕府も翌年から3年間下賜して蓄えることとした。おそらく諸藩の村や旗本領においても、これにならった布告が出されたものと思われる。
 しかしこの布告はなかなか実行されなかったようである。
 1790(寛政2)年には郷倉建設を4・5年以内にせよとの催促がなされ、貯穀量を飢饉に際して村人が半年間食いつなげる量と定め、これを越える分は村民に貸し付けて、その利息で郷倉の修理や倉の中で痛んだ米や稗を交換する費用にあてるように定めた。郷倉建設を催促したり、備蓄量を具体的に指示したりそれを維持する制度を指示したりしなければ進まなかったのであった。
 これは百姓上層の富裕層に、自分たちが為政者として、社会の安定のために尽すという思想が広がっていなかったからである。幕政や藩政に参画できない百姓たちは、村の統治機能の一部を自分たちで動かし始めていたとはいえ、飢饉に備えて社会を安定させる仕事は、為政者であるお上のすることだという意識がまだ強かったのである。
 そして寛政の改革での米穀の備蓄制度は、同時にこれまで幕府が行ってきた飢饉に際しての拝借金制度の廃止ないしは制限という政策と一体であった ので、百姓上層の反発を受けたのだ。
 拝借金は凶作や飢饉に際して、食料や種籾・道具代などを村が幕府から金を借りて処置する制度であるが、打ち続く凶作・飢饉のために、返金されない拝借金が累積し、幕府財政悪化の一因となっていた。このため貯穀令が出された1789(寛政元)年には、これまでの拝借金の返済を30ヵ年賦への変更がなされて、返済条件を緩和するとともに、今後は拝借金を簡単には認めないという布告が出された。
 凶作や飢饉への対応は、村の富裕者が中心となって常日頃から備えておけという方向に、幕府政治が方向転換したわけである。今流に言い換えれば、凶作や飢饉への対応は自己責任ということだ。
 政治制度が百姓の参加を認めない中で、彼ら百姓には為政者としての自覚が出来ていない段階での、自己責任論の押し付けである。幕府財政難の中でやむをえない措置であり、社会は相互扶助でなりたっているという原理からすれば正しい政策であったと思うが、あまりに急激な転換である。村方が対応し得ないのは当然であろう。しかも寛政の改革で打ち出された仁政の方針は、必ずしも幕府政治全般に実施されたわけではなく、実際に村方を治める幕府代官の政治姿勢に依存していた。そしてこれは諸藩の領地においても旗本の領地においても同様であったろう。

:あとで見るように、寛政の改革以後、幕府領の各地で百姓から賞賛された名代官が輩出する。 従来の代官とは異なって、百姓の実情を汲み取った上で、村の暮らしが成り立つように援助したからこそ、百姓たちから名代官とたたえられたのであろう。この代官の新たな動きが、百姓自身の手で、村を飢饉から守る制度の創出に力を貸したことは想像に難くない。しかし代官の姿勢は、幕府の老中たちの姿勢の反映である。寛政の改革の後寛政の改革を実行した老中などが多数残っている間は、仁政を実施できる代官が多数存在した。しかし幕政が再び幕府自身の利益だけを目指すように変わると、代官の姿勢も変わる。後にみる大御所政治の展開により、文政年間にはまた再び年貢を搾り取るだけの代官が目だって出てくる。ましてや定信の仁政を実施しようとする姿勢は、すべての大名や旗本にまで広がっていたわけではない。将来の安定した生活が描けない現状の中では、百姓もまた、目先の利益だけを追って、結果として村を破壊してしまう方向に動いたことは、先に近世編2で見た、 文政年間に活動した二宮尊徳の例でも明白である。

  それでも幕府による粘り強い備蓄の催促は次第に実を結び、村々や郡単位では少しずつ蓄えができていったようだ。
 そのためであろうか、後の天保年間(1830年代)の東北地方での大飢饉は、凶作が続いた程度は天明の大飢饉と同程度であったにもかかわらず、餓死者の数は大いに減じており、菊池勇夫はその著書「近世の飢饉」において 、目先の利益に吊られて郷倉の備蓄米や郡の備蓄米を売ってしまった村や郡は飢饉で悲惨な被害を受けたが、そうではない村や郡では餓死者の数は天明期に比べて激減しているので、諸藩や幕府の備蓄米は、郷倉の備蓄と合わせて、それなりの効果があったと断じている。
 凶作・飢饉への対応を村の自己責任に帰した寛政の改革における貯穀令は 定信が構想した程度にはなかなか進まなかったが、村々の貯穀と郡や城での貯穀が全体として一つに機能し、村の備蓄米に併せて幕府米倉や城詰米や諸藩の倉の備蓄の放出で、かろうじて大飢饉から脱したのが実情ではなかったか。
 また都市での貯穀も同様な傾向を持っていた。
 天明の大飢饉の中で飢えに苦しんだ市民2万人が、毎日御所を囲み、御所を神社に見立てて千度参りを行い、お救いを祈願した京都では、幕府が当座の備えとして米3000俵と銀60貫(約1000両・約1億2000万円)を京の町に貸付、その返済を米で行って返済分は飢饉に備えるために貯蓄することとされた。さらに富裕な町人には、米穀や金銀の寄付が奨励され、これが京都での飢饉に備えた米穀の貯蓄の基とされた。
 また制度発足に際して最も大きな役割を果たしたのは、飢饉に際して不正な米買占めを行って財産没収の罪を得た近江屋忠蔵の欠所金2万3000両(約27億6000万円)が大きな役割を果たしている。そのうちの3000両(約3億6000万円)で貯穀のための倉が建設され、2万両(約24億円)が御救い金として富裕な町人に貸し付けられ、その利息の10分の9で貯蓄する米穀の購入が行われ、さらに利息の残金で倉の修理や事務費が負担された。都市京都でも、幕府の負担は制度構築の呼び水程度であり、実質は富裕な町人の負担であったのだ。
 もう一つの大都市、大坂では、幕府の負担で倉が建設され、幕府の負担で10年間米や雑穀を購入して蓄え、倉の修理費用や事務費も幕府負担とされた。
 しかし実際は、幕府の出費は京都と同様に呼び水程度で、大坂の富裕な町人にその財産に応じた米穀や金銀の寄付が求められており、これが大坂の貯穀の基本的な資金であったようだ。しかし1年目には寄付された金銀・米穀は4016両(約4億8192万円)に上ったが、2年目には701両(約8412万円)、3年目には74両(約888万円)と尻つぼまりとなっている。大坂の町人たちの間にも、一時的なお救いを行って社会的な賞賛を浴びることは是としても、恒常的に社会の安定のために働く為政者としての自覚はまだなかったのだ。
 では例外的に備蓄機能が働いた江戸での、米穀の貯穀はどのようになされたのか。
 江戸の米穀備蓄の原資は、幕府が当初用意した2万両(約2億4000万円)に併せて、江戸の町毎に、町内の家持・地主から徴収して町の行政費用にあてていた町入用を減額して、その減額分の7割を米穀の購入費用にあてるというものであった。備蓄の原資を富裕な町人の財力に求めるという点では、他の都市や村と同様であったが、富裕者の負担を減らして、減額した分で社会維持機能を立ち上げるという点が、新しい発想であった。
 当時の江戸の町1600余町の1785(天明5)年から1789(寛政元)年までの5年間の年間町入用総額は、15万5140両(約186億1680万円)もの巨額のものであった。この約2割強の3万7000両(約44億4000万円)を町法の改正によって町入用から減額し、その7割(2万5900両・約31億800万円)を積み立て、そのうちの1万両(約12億円)で米穀を購入し、2割(7400両・約8億8800万円)を地主に返還、1割(3700両・約4億4400万円)を町入用に編入という形にした。これは、地主や家持という都市富裕層の公的負担金を減額して彼らの収入を増やし、その減額分で米穀を毎年継続的に購入して蓄え、その維持費用なども減額分の蓄えで当てるという画期的な方法であった。
 従って江戸の米穀備蓄はかなりのものに上り、後の天保の大飢饉に際して威力を発揮し、天明の大飢饉のような窮民の打ちこわしの勃発を防ぐことができた。
 しかしこの江戸の制度も、江戸の富裕な町人の財力に依存している面は強く、実際に負担している地主たちの不満は強く、この制度の廃止を求める声は強かった。江戸でも町人の間に為政者としての自覚はまだ生まれていなかったと言えるだろう。それでもこの制度が持続し天保の大飢饉でも有効に機能し、1832(天保3)年に窮民30万6000人に施米を行ったのを皮切りとして、1833(天保4)年にも32万人に 2度の施米を施し、さらに1837(天保7)年には35〜41万人に2度の施米を行って飢饉による打ちこわしの勃発も防げたのは、この制度の趣旨と政治的意義を深く理解した江戸町奉行の説得とリーダーシップがあったからである。
 例えば少し後の例になるが、1842(天保13)年には、時の江戸町奉行遠山金四郎景元は、江戸町会所による囲米の意義を説き、当時の備蓄米が16万石でしかなく、これでは28万人余りと推定されている江戸市民の中のその日暮らしの者たちの食料としては、62日分にしか満たないことを取り上げ、逆にこのその日暮らしの者が390日暮らせる分だけの籾100万石(白米で50万石・7万5000トン)の備蓄を提案し、さらなる制度の拡大を提案しているくらいであった。豊かに備蓄されたといわれる江戸の囲米ですら、飢饉が長期に渡れば破綻する程度であったことをこの数字は示している。 
 ところで、富裕な町人の町の自治機能を支える公的負担を減らして、その減額分から貯穀を行うという発想は、村の百姓に も適用されていた。
 郷倉を設けて飢饉のために米穀を貯蓄する政策が実行されたことと平行して、百姓の負担を減らし、農村を立て直す一助とする政策も様々に実行されていた。例えばそれは、公的な伝馬の助郷負担の軽減であったり、村が自治を行うに必要な事務費用を負担する村入用の軽減であり、年貢米の幕府米倉への納入を代行し村々から事務手数料などを得ていた納宿を廃止し、年貢の納入は村が直接行うこととし、10ヶ村程度で結成された組合村で合同して幕府米倉への年貢納入を行わせた。
 これは当時百姓たちの間に権利意識が上昇し、村入用の公開やその予算化がなされ、会計監査が厳格になされるようになっていた傾向に沿って百姓の負担を軽減するとともに、村の自治機能を拡大するものでもあった。
 このように定信が行った飢饉への公的な備えの実現は、幕府単独の力で行うのではなく、町人や百姓もそれぞれの財力に応じた応分の社会負担を促すと共に、町や村の自治機能を拡大しそれに依拠して行うものであったのだ。
 飢饉への備えは町人や百姓の自己責任であるという大きな転換を定信は開始したわけだが、まだまだ主権者としての自覚の弱い町人や百姓の抵抗や反対にあいながらも、倦まずたゆまぬ説得を続け、町人や百姓の間に芽生え育ちつつある自治意識に依拠しそれを促進しつつ実施されたことは、特筆に価する。この際幕府が果たした役割は、制度創出の法的基盤を整備し、制度創出の呼び水となる財政援助も行いつつ、制度の意義を粘り強く説得するなど、行政が町人や百姓の自治の拡大を影で支えたという点も、注目に値する。

(b)帰農令に応じたのはわずか4人−帰農しても暮らせない農村の実情
 では米などの備蓄と共に布告された帰農令は、どのような効果があったのであろうか。
 帰農令は、1790(寛政2)年に、江戸に流入した膨大なその日稼ぎの人口を減らすために、旧里帰農令として布告され、帰郷を願出たものには、旅費や農具代として金3両(約36万円)を支給する制度であった。しかし初回の応募者はわずか4人であったという。
 この帰農令が効果を挙げなかったのは当然のことである。
 なぜなら多くの百姓が江戸に流入したのは、商業的農業の展開や飢饉の頻発により、多くの借金を背負って田畑を失い暮らせなくなったり、飢饉や風水害の続発で、農地そのものが荒れてしまい、独力では耕作が不可能となって、田畑を捨てて日々の食料を確保するために、日雇い仕事の多い都市に移住したからであった。単に帰国する旅費と農具代を支給すれば、村に帰って再び農業を再開できるという程度の甘いものでは、状況はすでになかったのである。
 しかも江戸に出てきて何年にもなっていた者たちは、日雇い仕事と言っても、それなりに定職を手にいれて生活を安定させており、しかも江戸は豊作が続けば物価も安く暮らしやすい所であった。とりあえずの安定した暮らしを捨てて、将来の安定した暮らしがしっかりと確保されてもいないのに、捨ててきた旧里に帰る百姓がいるはずはないのだ。
 帰農令よりもむしろ江戸の浮浪者対策として有効であったのは、人足寄場の設置であった。
 江戸に流入したもののまだ定職を得られず、菰を被って往来をうろつく人々が江戸には多数存在した。これらの野非人と呼ばれた無宿人に対して幕府は、身寄りや引き受け手がある者は出身の村などに引き取らせたが、引き受け 手もなく犯罪を犯してもいないものは、江戸石川島に設置された人足寄場に収容し、そこで様々な職に従事させて手に職をつけさせ、江戸の町で暮らせるように図った。
 ここでは収容者に大工、建具、塗物、紙漉(す)きや米搗(つ)き、油絞り、牡蠣殻灰(かきがらはい)製造、炭団(たどん)作り、藁(わら)細工などに従事させ、これらの作業に対しては賃金が支払われたが、その3分の1は強制的に積み立てさせ、出所時に生業復興資金として渡したものだ。そしてこの人足寄場の手仕事は大きな役割を果たしてもいた。例えばここでの紙漉きは、幕府の公文書の中で不要となったものを裁断し、それを再度紙として再生して、幕府の使用する事務用紙として再利用したものである。
 江戸に流入した窮民は、荒れ果てた村に帰すよりも、当面は江戸で暮らせるように援助するほうが有効だったのだ。しかしこれでは江戸の人口は増え続け、飢饉での打ちこわしを防ぐには、さらなる米の備蓄が不可欠となり、富裕な町人にも幕府にも大きな負担となる。ここに荒れ果てた村そのものの再建が、まず行われるべき必然性が存在した。

(c)名代官の出現−その土地にあった具体的な支援策によって再建された村々
 大飢饉による打ちこわしが生み出した寛政の改革のもっとも主要な問題は、荒廃した村の再建であった。
 では、この問題に対して幕府はどのような対策を取ったのであろうか。
 端的に要約してみれば、幕府は、農村が再建されその後も立ち行くように、積極的な財政的支援を行い、その基盤整備の役割を積極的に引き受けたのであった。しかもその際に、飢饉に備えた貯穀で行われたように、公的な財政援助だけではなく、町や村の富裕層に呼びかけて、積極的な社会的支援を行うよう促し、公的資金と民間資金を併せて、農村の再建のための基盤整備を行ったのであった。
 幕府がとった農村復興策は、具体的には以下のようであった。
 打ち続く飢饉や貧富の差の拡大によって荒れた農村を立て直すには、減少した農村人口を回復させるとともに、生産の基盤である田畑を復興することが急務であった。そしてさらに、農業が立ち行くように、放置され続けた川の橋の修復や農業用水のための堰の築造や修理、さらに川や用水路の護岸整備などが必要であった。
 人口を回復させるために取った方策は、概ね二つであった。
 一つは、村から村外に出て行った百姓を呼び戻すことであったが、これはすでに時がたって彼らが都市で生活基盤を築き上げたあとなのでむつかしく、実際に取られたのは、他国から人を呼び寄せる政策が主として取られた。
 人口が過剰な他国の農村から、次男・三男、さらには家族毎呼び寄せて新たな農家を立ち上げさせたり、跡継ぎのいなくなった農家に養子に入らせたりして農家を再建させている。その際に、農地だけではなく住居や種籾や農機具なども与えるという優遇政策を取り、農家の再建を助けている。幕府領の主だったところは関東にあったので、その周辺で人口の過剰な越後からは、多くの百姓が移住している。さらには、収入を得るために都市に出稼ぎに出ている者たちを村に戻すために、都市での仕事の給金を幕府が払って村に戻し、他国からの入百姓と同様な優遇策をとったり、不足する農家の使用人を補うために、江戸の伝馬町の牢にいた軽犯罪人を使用人として招いたり、不足する農家の嫁を得るために、宿場町の遊女などを百姓の妻に迎えたりと、あらゆる手を使って百姓の人口を増やそうとした。
 人口を増やすためのもう一つの方策は、子どもを増やし子どもを養育しやすい環境を作ることであった。
 幕府の代官が各地で創設した制度としては、「小児養育金制度」があり、子どもが増えるように、代官所が多方面に渡って援助をするものであった。
 具体的には、貧しい百姓が生まれた子どもを間引かないように、妊婦の届出を義務化し、妊婦の養生を村が援助するように申し付けるとともに、妊婦が出産した場合には子どもの生死を村役人が確認し、死産の場合は検視を行った上で代官所へ届け出るとともに、子どもが無事生まれたときには代官所に出生届けを出すこととし、その家族の貧富の程度に応じて子どもの養育料を1〜2両(約12万円から24万円)小児養育金から支給し、さらに困窮の激しい者には、お七夜過ぎに籾を2俵、1年後にも籾を2俵養育金から支給すると規定した。さらに極貧の者には、最高で金4両(約48万円)と籾4俵が支給されたのである。
 またこの小児養育金制度や荒地起こしのための資金や、その他の農業基盤整備のための資金は、幕府が支出した公金に併せ、当該の郡内の富裕者からの献金をあわせ、これらを近隣の大名領の富裕者に貸し付けて、その利息をこれらの農村建て直しのために使用したものであった。
 そしてこのために支出された幕府の公金は、寛政末年までで総額15万両(約180億円)にも及んでいた。
 このように寛政の改革とその後の時期に、各地の幕府領の村々で、積極的な農村復興政策が実施されたわけだが、ここで特筆すべきことは、これらの再建策が、幕府によって統一的に上からの政策で実施されたのではなかったということだ。これらの農村再建策は、寛政年間に新たに任命された代官たちによって、それぞれの任地の実情に応じて考案されて実施され、ある代官支配地の農村再建策が他の代官支配地にも順次採用され広がっていくという経過をとって実施された。
 農村の実情をつぶさに監察し、百姓の暮らしが成り立つような援助策を実施するという、寛政の改革が標榜した「仁政」を実地に実施した代官が、多数輩出したところに寛政の改革の特徴はある。
 実は寛政年間に、幕府領の従来からの代官の多くが罷免され、新たな代官が任命されている。
 幕府代官は1800(寛政12)年段階で58人いるが、1787(天明7)年から1796(寛政6)年の間に、そのうちの44名の代官が新たに任命された。そしてこの代官たちは、従来は代官を世襲する家柄から選ばれたのに対して、勘定所の役人 や御家人、さらには幕臣ではない代官所の手代や儒者などから選任され、禄高や地位や家筋に関りなく、代官に相応しい能力を持ったものが登用されている。この点は、後で見る武士の教育制度の改革や任用制度の改革とあわせ、寛政の改革が仁政を施しえた基盤として注目すべきであろう。
 そして寛政年間に任命された代官の多くは、従来の代官の多くが自身は江戸に住んで手代を任地に赴かせていたのを改め、実際に長く任地に住んで、百姓とともに村の再建と運営にあたった。さらに彼らの多くは、従来は数年毎に任地を交代していたのを改め、10年とか数十年の間同一の任地に勤務し、勤務地の実情を熟知した上で、百姓の暮らしが成り立つようにしたのである。
 しかし付言しておけば、このような荒れた農村の積極的な再建策がとられたのであるが、年貢の減免は一切行われなかったし、享保の改革の末年以後、田沼時代にも続けられた年貢の検見取り法も変わらず、年貢は厳しく取り立てられた。これとともに、幕府は、1788(天明8 )年に百姓の奢侈を禁じ、百姓が農閑期に商業に従事することや髪結床を村に置くことを禁じている。百姓にも武士と同様に質素倹約を命じるとともに、できるだけ商業や流行に触れないように意図したのだ。さらに1791(寛政3 )年には、灯油の原料になる菜種などを除き、それ以外の商品作物の栽培を制限し、米や雑穀を主に作付けするよう、幕府はお触れを出している。
 しかし、これらのお触れがどこまで実施され守られたかは疑問である。
 江戸時代の農業はすでに、商品作物栽培を主とした商業的農業になっており、米や雑穀も最も有利な商品作物として栽培されていた。そしてその他の商品作物の多くも、すでに江戸時代の人々の生活に欠かせない品々の原材料であった。
 当時の米以外の商品作物の代表的なものは、茶・桑・漆・楮(こうぞ)・麻・紅花・藍である。
 茶葉は武家や公家の文化に欠かせぬ抹茶の原料であり、茶道文化は公家武家だけではなく、町人や百姓上層にも広がった江戸時代文化の基本であった。そして江戸中期ごろから煎茶の風習も広まり、茶を飲むことは江戸時代の人々にとっても不可欠な日常文化となっていた。また桑は絹織物の原料の生糸をつくる蚕の餌であり、漆は様々な木器を保護装飾する工芸材料であるとともに、蝋を取ってロウソクをつくる原料でもあった。さらに楮は紙の原料であり、麻は夏物衣料の原料、紅花は織物を赤く染めるに不可欠の染料であり、藍も織物を藍色に染める染料であるとともに、伝統的な絵画の青色をだす顔料の原料でもあった。
 これ以外にも当時の人々の日常衣服が木綿へと転換するほど綿の栽培も盛んであり、ロウソクを作る原料である櫨(はぜ)の木や油の原料となる菜種や胡麻や柄ゴマ、さらには多くの果物など、江戸時代農業にとって、米以外の商品作物は重要な産物であり、江戸時代人の日常生活に不可欠な物産を提供する原材料であった。商品作物は江戸時代産業の基本であったことは、近世編2の【21】のp22で示した「近世各地の特産物」の多くが、これらの米以外の商品作物やその加工品であることを示しており、これは各地の富裕な百姓にとっても収入の糧であり、彼らからの年貢で暮らしている諸藩や幕府にとっても、その収入の基盤となっていたのだ。
 このように重要な役割を占めていた商品作物栽培を規制することが出来たであろうか。
 1791(寛政3)年の先のお触れは、幕府が、百姓町人や武士までもが利に走ることが体制の根本的な動揺を招いた根幹であると認識し、百姓の本来的な社会的役割は食料生産にあるという認識を持っていて、この原則を表明したに過ぎないと見るべきものであろう。そして村に髪結床を置かぬように指示したのは、髪結床が都市の流行をいち早く村にまで広げる文化伝播の拠点ともなっており、そこを通じて都市の華美な風俗が村にまで広がって、都市の奢侈な消費生活がこれ以上広がらないことを目指してのお触れであったろう。しかしこれすらどこまで有効に作用したのか分からないことは、後の天保の改革での都市での髪結床の制限や女髪結いの制限が、これらの仕事がすでに下層の日用稼ぎの人々の主な稼ぎ所となっており、需要も多いことから事実上禁止・制限できなかったことによく示されていると思う。
 村における贅沢の禁止や商品作物栽培の制限の布告は、寛政の改革の農村建て直しの主たる目的は、あくまでも封建領主に年貢を納める農村の再建と、その農村が再び商業的農業の展開によって崩壊しないように、出来るだけ商業から遠ざけようとした幕府の基本姿勢を示したに過ぎない。またこの目的が明確に示されたものとして、農村建て直しの過程においても、年貢が一切減免されなかったことにもあるだろう。

B寛政の改革は商業・商人の力の暴走を統制しようとしたにすぎない

 従来は、寛政の改革は商業を抑えようとしたと受け取られてきたが、これは間違いである。
 たしかに寛政の改革においては、田沼時代のような積極的な株仲間の公認やさまざまな商品流通を統制する会所の設立などの政策は取られず、むしろ田沼時代に無秩序に公認されたこれらのものを廃止する政策が取られた。このことが田沼時代との大きな違いとして浮き上がって見えたので、寛政の改革は商業を抑えようとしたと理解されたに違いない。
 また1789(寛政元)年9月に出された札差棄捐令も、商業を抑える政策として理解されていた側面がある。
 札差棄捐令は、1784(天明4)年以前の借金は棒引きとし、1789(寛政元)年の夏までの残金は、年6%での年賦返済にと返済条件を変更し、札差から多くの借金をして暮らしが立ち行かなくなった旗本や御家人を救済することを目的とした法令である。またこの法令の布告に併せて、今後の金利は今までの年18%から年12%へと下げられていた。
 そしてこの結果江戸の札差は、総額118万7808両(約1425億3696万円)という巨大な損金を出すことなり、今後の金融事業に大きな障害を抱えることとなり、資金力の弱い札差は次々と店を閉めた。また、再び棄捐令で借金棒引きがなされることを恐れた札差が、旗本や御家人に対する新たな融資を渋ったため、旗本や御家人の生活は一時的には救済されたものの、年に2度しか支給されない浅草お蔵からの扶持米を担保にして、日々の生活資金を借りていた旗本や御家人にとっては、新たな融資の貸し渋りは、大いに生活を困らせる結果となったのだ。
 しかしこれは、武士が仁政を行う基盤として、困窮した旗本や御家人を救済するためにやむを得ずとった政策であって、札差を抑えようとしたものではない。札差の存在なくして、旗本や御家人は日々の暮らしに困るからである。事実幕府は、困窮した札差に対して、一時的に2万両 (約24億円)の金を貸し付けるとともに、浅草猿屋町に会所を設けて、この会所から困窮した札差に資金を融通する制度を創設している。そしてこの猿屋町会所の資金の出所は、幕府が江戸の豪商の中から選りすぐって幕府勘定所御用達に任命した、10人の豪商たちが出していたのであった。
 だがこうした札差を犠牲にした政策にも関らず旗本御家人の生活は改善せず、再び札差からの借金に頼った生活となり、幕府は1843(天保14)年に再び札差借財を無利子・永年賦としたため、札差は再び大規模な損金を抱えることとなり、次々と店を閉めていったのだ。御家人・旗本の暮らしは年貢収入に依存していたため、米価安諸色高の状態が続く限り、改善は難しかったのだ。
 このように幕府は旗本・御家人を救済するために札差を犠牲にはしたが、これは豪商全般の力を削ぐ政策ではなかった。幕府は、米価や銭貨の相場に介入するために、豪商の財力を積極的利用するようになっていた。
 先に見た勘定所御用達となった江戸の豪商10人に対しては、幕府はしばしば、幕府が米相場に介入したりする際の資金の提供を求めたり、銭相場に介入することの是非を諮問したりしている。米相場については、1789(寛政元)年には、低落しすぎた米価を引き上げるため にこれらの豪商に買米を命じ、1791(寛政3)年には、高騰した米価を引き下げるために、江戸に運び入れる米を買う資金の調達を命じている。
 幕府は、商人と商業を抑えようとしたのではなく、商人の力をも利用して、商業の力が暴走することをなんとか抑制しようとしたにすぎないのだ。
 また先に見た農村立て直し策においても、幕府が依拠したのは、都市や村の富裕層、つまり、都市の豪商たちや村で商業的農業や商業を展開している豪農たちであった。
 飢饉に備えた貯穀の資金を提供したのもこれらの者たちであったし、その米穀を管理したのもこれらの者たちであった。さらに農村建て直しのための公金貸付政策においても、この資金の大半 が貸し付けられたのはこれらの村の豪農や 都市の豪商たちであり、この公金を借りて事業を進めて利子を支払い、農村建て直し政策の公金貸付政策を支えたのも、これらの豪農や豪商であった。
 寛政の改革そのものが、発展しつつある商業に依存していたのであり、商業で力を蓄えてきていた豪農や豪商たちの資金力や彼らが進める村や町の自治に依拠していたのである。
 さらに、田沼時代において進められていた、大坂の経済的地位の維持のために、大坂の問屋商人と組んで彼らの商業特権を拡大しようとする政策もまた、寛政の改革時代を通じて維持されていた。拡大する貨幣経済を後退させることは出来ない以上、幕府も利益を上げるために豪商と結びつく他には策はない。定信がやったことは、無秩序に豪商との連携を行うのではなく、幕府の統制内にその動きを止めようと試みたにすぎない。

C時代錯誤の倹約令−貨幣経済の進展は阻止できない

 通説とはことなり、寛政の改革でも商人の力を幕府は利用しようとしていた。ただ田沼時代とは異なり、商業活動をより活発にすることで運上金をせしめようと言う積極的な経済対策は行わなかっただけであった。
 しかし先にも見たように、寛政の改革で行われた倹約令は、それが武士の暮らしを質素なものとするだけであれば、幕府や藩の財政事情を好転させるに大きな役割を果たしたことであろう。そして倹約の励行の中で、幕府の予算枠を厳しく冊立し、その枠内に収まるように運営されれば、幕府財政も黒字に転じることは明らかである。
 だが、定信の時代認識は、武士だけではなく町人・百姓の華美な生活が、武家の財政難だけではなく、統治者としての精神を忘れ、金儲けだけに走って国を崩壊させかねないまでに行ってしまったというものであったために、百姓や町人の暮らしまで厳しく規制し、経済活動全般を不景気に追い込んでしまった 。
 先にも指摘したように、人々の暮らしが華美になったのは、産業が発展し流通機構も整備されたために、贅沢品も手に入りやすくなっただけではなく、日常生活に必要なもののほとんどを貨幣で購入できるようになったからである。従って人々の華美な暮らしを排除しようとすれば、根本的には貨幣で暮らしに必要なものを手に入れるのではなく、大昔のように、必要なものは自給する生活に戻し、武士も村に住んで農業だけではなく商工業に従事し、足りないものは百姓や職人・商人から役として直接現物を徴収する中世鎌倉時代の生活に戻すしかなかった。
 だがこれは元禄〜享保のころに活動した儒者・荻生徂徠が指摘したように、貨幣経済が浸透してしまった状態の中では、ほとんど無理なことであった。それでも徂徠は、18世紀初頭のこの時代なら、まだ多少は貨幣経済の行き過ぎを止めることは可能であるとして、無役の武士たちの帰農や、職人・商人から武士の必要な物資の一部を役として徴収させることが必要と提言した。そして享保の改革を行った将軍吉宗は、徂徠のこの提言にある役としての徴収制度を取り入れ、江戸城を中心とする南関東の地域を、その現在の領主の別を越えて、江戸城に物資を献納する地域として再編し、百姓・職人・商人を将軍が直接統制する体制を築こうとしたが、これは貨幣経済が進展する中ではかなり無理なことであり、長続きはしなかった。

:荻生徂徠が提案した政策のうち、武士の帰農については、享保の改革では実施されなかった。これにはかなりな無理があったからである。しかし徂徠学が現実に対処する優れた学として普及していく中で、武士の帰農政策そのものを実施した藩もあった。詳しくは後の藩政改革の項で見ることとするが、弘前藩では武士の一部を帰農させ、弘前周辺の村に住まわせ、百姓とともに農業経営を行わせようと言う改革を実施した。しかし200年近くも都市生活者として暮らし、為政者として民に命令することに慣れてしまった武士が村に帰ってもかえって混乱を招くだけであった。農業の実情も知らずに百姓に命令だけする武士。そのくせ武士の身についた都市の華美な暮らしは次第に百姓の間にも広がり、特に博打が広がって問題となった。こうして問題だけを生み出した弘前藩での武士の帰農は中止されたのだ。後に見るが、寛政の改革でも一時、武士の帰農が課題として話題に上り、暮らしに困った下級御家人たちを鎌倉や甲府に移して農業に従事するとともに武芸鍛錬をさせるという案も出たが、これも時代錯誤として退けられた。

 この享保の改革の時に始めて、実際に法令を守らない者の取り締まりも含めた倹約令が実施された。
 吉宗は人々の服装や身を飾る装飾品、さらには家具調度、そして子供用の玩具や菓子類に至るまで、金銀の使用など華美なものの製造と販売を規制し、実際に役人を派遣して規制を守らぬものを処罰した。さらにそれだけではなく、大名家や裕福な町人を初めとする人々の日々の 暮らしの中での諸行事で行われる歌舞音曲や酒宴を贅沢として規制し、さらには、神社の境内でやる芝居や庶民の祭りまで規制し、幕府が許可した吉原以外の場所での遊女屋を禁止し、この禁止令を無視して営業したものは捕らえて3年の間吉原に送りそこで働かせるなどの規制を行った。
 しかし裕福な人々が行う歌舞音曲や酒宴、そして町の祭りや神社の境内などでの芝居興行は、人々の楽しみであるとともに、これらの行事に必要な物資を供給することで日々の生計を立てている、多くの日雇い稼ぎの人々の暮らしをも支える重要な経済活動となっていた。
 18世紀の初頭の時代においてすでに、都市の経済を支えていたのは、幕府や大名家の入用だけではなく、その過半は、富裕な町人たちや、普通の町人たちの日々の経済活動であったのだ。そのことはこの元禄から享保の時代にかけて、江戸の町では日常生活品を売り歩く多くの振り売りが生まれていたことや、現銀掛け値無しで庶民向けの呉服を売った越後屋が繁盛したことにもよく示されている。従ってこれらの日常の行事や祭りを贅沢だとして規制したことは、江戸の町の経済活動を根幹から揺さぶることとなり、町は閑古鳥が鳴き、多くの人々が暮らしに困ることとなったのだ。
 そして遊女屋が次々と各地に広がったのも、都市というものの特殊な性格によるものであった。
 江戸時代の都市は、村から出てきた多くの単身者によって形成されていた。
 大きな商店の奉公人の多くは独身の若い男性であり、彼らが所帯を持てるのは、数十年の奉公の果てに経験を積み金を貯めて独立した店を構えるときであった。また多くの小商人や職人や日雇い人足も村からの出稼ぎ者が多く、これも多くは独身の若い男であった。これに江戸はさらに、参勤交代で各藩の江戸屋敷に詰める単身赴任の武士が数多くいた。従って都市というものの人口構成は、男が多く女が少ないもので、特に大勢の単身赴任の武士を抱えた江戸の人口は、武家人口も町家人口も男性超過だったことは先に見たとおりである。
 また後に女性史の項で見るが、武士だけではなく都市の富裕な町人の家でも、結婚は家の存続のためのものとなり、当人同士の色恋とは無縁の、家と家とで決めるものとなっていった。従って都市の武士や裕福な町人の男たちは、自由な色恋を求めてさ迷うこととなり、これを需要として発展したのが、官許の遊女屋が集まった吉原であった。しかしここは格式も高く、金額も高いものであったので、通えるのは裕福な武家か裕福な町人であったので、村からの出稼ぎ人や貧しい武家などは通うことができなかった。
 この都市における女の需要に目をつけたのが富裕な町人たちであり、彼らは競って官許の場以外にも遊女屋を作って稼いだのであった。そして官許の遊女屋が集まる吉原だけではなく、都市の場末に広がった無許可の遊女屋に落ちる膨大な金が、遊女屋に必要な物資の供給を通じて、都市の貧しい人々の暮らしをも支えていた。
 贅沢・奢侈禁止の名の下に、これらの活動を規制してしまうことは、都市の経済活動の根本を破壊することだったのだ。
 従って享保の改革における倹約令も武士も含めて人々の間に不評であり、吉宗の死後は有名無実のものになった。
 これを松平定信は復活してしまった。
 寛政の質素倹約令の下で町人たちの生活の中で規制されたのは、一つには、その最も華美な風俗の代表である歌舞伎芝居とその豪華な役者絵の販売や、 同じく現代以上に自由な性風俗の中で広がった春画や豪華版春画集の出版と販売の規制があった。
 これは、歌舞伎やその役者、そして遊女を描いた豪華な浮世絵が、華美な風俗を人々に向けて発信する、情報発信の場となっていたからであった。
 しかし風俗の取り締まりはこれだけではなく、服や布地や身体を飾る装飾品の類や、さらに子どもの玩具や菓子や料理にまで及び、これらの贅沢品の製造販売が禁止された。また贅沢な衣服や髪飾りなどをつけている男女は、市中見回りの者が見つけ次第奉行所に連行し、厳しく取り締まると通達した。さらには、江戸の吉原などの許可を受けた遊郭地域以外に広がっていた遊女宿の規制や 、 江戸の女芸者や茶屋の茶立女や風呂屋の髪洗い女や宿場の飯盛り女も遊女と同様なものとされ、取締りの対象とされた。さらには、銭湯での男女混浴の禁止や女髪結いの禁止、そして小唄や浄瑠璃・三味線の女師匠が男の弟子を取ることを禁止したり、賭博や賭け事も厳しく取り締まられた。
 それも規制にあたる町奉行所の役人が賄賂を受け取って規制に手心を加えるからと言って、役人の行動を見張るための隠密を多数市中に放ち、さらにその隠密すら信用できないからと、隠密を見張る隠密を派遣するという厳しい方法で実施した。
 これでは江戸の経済活動は停滞し、人々の不満は鬱積するわけである。
 こうして寛政の改革における厳しい倹約令も、時代に逆行した時代錯誤のものであり、規制に規制を重ねることに見られたように、当初から厳しい規制なくして成り立たないものであった。従って定信が老中を解任され、さらに彼の 同志として改革を実行してきた老中たちが時を経る中で退任していくなかで、この規制もまた有名無実になったのである。
 それは11代将軍家斉が定信らによって規制されずに自由に治世を行った時代や、家督を息子に譲って大御所となって政務をとった、文化・文政の時代のことであった。この時代になるとともに人々の暮らしは再び贅沢な華美なものとなり、退廃的な文化・文政文化が栄えることとなる。貨幣経済の進展は止めようもなかったのだ。

:最近の歴史家の書物では、この倹約令が時代錯誤のものであったことはほとんど指摘されていない。著者もまた先の享保の改革のところで、教科書がこの問題に言及していないこととあいまって、倹約令の評価をしないで済ましてしまった。これは、近年享保の改革や寛政の改革が見直され、従来の封建制度を維持するためだけの反動的な政策であったという評価から一転して、時代の変化にそれなりに対応した政策で、幕府の延命にも役立ったし、町や村の自治の拡大にも役立ったという評価が確立したことによって、反動的な時代錯誤のものであった倹約令が軽視され、抜け落ちた結果であろうと思われる。近世編2の享保の改革のところで言及しなかったので、ここで改めて付言しておきたい。

D「仁政」の思想定着の困難さ−教育政策の成功と武士の暮らし建て直し失敗の矛盾

 寛政の改革での諸政策はさまざまな成果を挙げたが、どれもその効果は限定的であり、一時的なものであった。発展しつつある貨幣経済を抑制し、封建的土地支配に依拠した領主経済を維持しようとすることは、もはや無理だったのだ。
 数ある寛政の改革の諸政策の中で、もっとも大きな成果をあげ、その効果が持続したのは、教育政策であった。
 松平定信を初めとした寛政の改革を実行した幕閣たちは、百姓一揆の続発や打ちこわしによって政権が崩壊するさまは、下々の力がお上を上回り、体制が崩壊しかねない危機的状況と捉えられていたが、これは何もこうした危機的な場面においてだけではなく、日常生活においてもそうであった。
  幕府の家臣であり統治階級である旗本・御家人は、先に見たように、年に2度支給される給与としての蔵米を担保にして、札差から日々の生活に必要な金銭を借りていたが、旗本や御家人の当主が札差の店に出向いて借金を申し入れても札差の主人は現れず、手代まかせで交渉させ、しかもその態度は極めて無礼であったという。統治階級である旗本・御家人が、身を縮め腰を低くして頭を下げなければ借金すらできない状況となっていたのだ。
 また江戸を初めとした都市の豪商たちの暮らしは、現金収入の少ない武士に比べれば遙かに豊かであり、豪商の当主たちは家業を番頭や手代に任せて、日々遊郭や茶屋や芝居小屋などで豪遊し、さらに書画・俳諧・能などの芸能を楽しむ会も主催し、多くの浮世絵作家や戯作者を支援するパトロンとして江戸大衆文化を 領導していた。豪商たちの生み出す様々な流行が、武士をも含めた江戸時代の人々の暮らしを彩る文化となっていたのである。
 そして彼らの娯楽を支える絵師や俳諧師や能役者や戯作者の中には、数多くの才能あふれていながら家格が低くくお役につけない御家人や旗本などが含まれており、彼らはパトロンとしての豪商の風下にたち、彼らの庇護で活動していたのである。そしてこれらの大衆芸術家が生み出した作品はしばしば、豪華な色刷りの本として出版され、それを享受するのも主として都市の豪商たちであった。統治階級としての武士が、豪商たちのお抱え芸人、言い換えれば男芸者となっている現状も、下々の力がお上を凌いでいる状況と、定信らには捉えられていた。
 武士が町人階級の僕となり、幕府の閣僚すらが目先の利益に走る状況は、体制崩壊そのものと認識されていたのだ。
 この武士の堕落の根源はどこにあったと、定信らは認識したのか。
 その根源は、武士の貧しい暮らしと、利を求める暮らしが続く中での統治階級としての誇りの喪失にあると、定信らは認識した。
 だからこそ寛政の改革においては、領主経済の建て直しと並んで、武士が利を求める暮らしから脱却させるために贅沢を戒め質素倹約を奨励したのだし、経済活動には大きな打撃となりお上の威信すらも著しく低下させることを承知しながら、札差からの借金を棒引きすると言う暴挙すらあえてやったのだ。
 武士の暮らしの改善と、統治階級としての意識の再確立とその誇りの確立。これこそ「仁政」を掲げる寛政の改革において、その政治目標を実際に担う人材を育てるための大切な基盤だった。
 だが領主経済の後退の中で、武士階級、とりわけ収入の少ない下層旗本や御家人の暮らしをすぐに改善することは困難であった。そのため仁政を担う人材を育てる政策の当面の柱は、武士の教育制度の改革と人材登用制度の確立に置かれた。ここに寛政の改革において文武の奨励が武士に対してなされた背景があった。

(a)為政者としての誇りを取り戻させる教育課程の確立と人材登用制度
 寛政の改革の教育政策には二つの柱があった。
 一つは武士のための学校制度を確立するとともに、二つ目に、その教育教程を定め、そこでは利を求める諸学を学ぶのではなく、武士が統治階級としてあらねばならない意識を確立するために、武士のあり方を系統的に論じていた朱子学を武士のための学校の正規教程として定めたことである。
 この時期までの武士の学問として一世を風靡していたのは、荻生徂徠に始まる、実学的要素を強く持った徂徠学と、徂徠学と朱子学を折衷した学派、さらに同じく実学として継続してきた陽明学であり、ど れも経済を大事なものとして研究の対象としてきた。
 利益を増やし武士の暮らしを改善しなければならなかった諸藩や幕府においては、武士はこれら徂徠学派や折衷学派・陽明学派の私塾に通って、学問教養を身につけ、その素養に依拠して立身出世を図ろうとしていた。江戸時代初期において武士の正学として位置づけられた朱子学は後退し、幕府大学頭の地位にあった林家の主催する私塾と湯島聖堂は、閑古鳥が鳴き、幕閣の中にも、湯島聖堂の取り潰しという意見を持つものすらあったという。そしてこの状況は諸藩でも同じであり、すでに藩士のための学問所としての藩校を持っていた諸藩でも、主たる学問は徂徠学と 折衷学派と陽明学であった。
 寛政の改革を実行した人たちは、ここに武士が利に走る根源を見た。
 たしかに経済は大事である。幕府や諸藩の利益をどう増やすかということは、武士の暮らしを維持するに不可欠ではある。しかし利に走り、統治階級としての武士の義務、武士の暮らしを根本において支える百姓の暮らしを成り立つよう支えるという武士の義務すら忘れ、武士が目先の利益だけを目指して百姓らを収奪した結果が、天明の大飢饉と百姓一揆・打ちこわしの激発と言う体制危機を招いた根源であると、定信らは考えたのだ。
 幕府は、1790(寛永2)年に、湯島聖堂で朱子学以外の教育・研究をすることを禁じて、始めて朱子学を正学と定めるとともに、湯島聖堂に隣接された林家の私塾・昌平黌(しょうへいこう)を幕府学問所と定め、御家人・旗本に朱子学を講義する学校として位置づけた。そして幕府の文教政策を担い、幕府儒官として活動する林家を補強するために、柴野栗山(りつざん)・岡田寒泉・尾藤二洲(じしゅう)・古賀精里ら地方の諸藩で朱子学に基づいて藩政改革を担った優秀な儒者たちを湯島聖堂付の儒官に任命して幕臣への講義に当たらせ、さらに一旗本に過ぎない林家の家格を上げて権威を持たせるために、美濃岩村藩主松平乗蘊(のりもり)の子の熊蔵・乗衡(のりひら)(後の林述斎)を林家当主信敬没後の養子とし、林家を継がせた。

:柴野栗山(1736‐1807)は、讃岐(香川県)の百姓の子で、江戸で林家に学び、阿波徳島藩儒者となる。岡田寒泉(1740‐1816)は、旗本の出で、林家に対抗する朱子学派である山崎闇斎の門流をひく崎門学派に学んだ。後に幕府代官となり名代官と呼ばれた。尾藤二洲(1747‐1813)は、伊予 (愛媛県)の廻船業者の子で、最初は徂徠学を学んだが、頼春水や中井竹山と交わり朱子学に転じた。古賀精里(1750‐1817)は、佐賀藩士の子で最初は陽明学を学んだが後に大坂で頼春水や尾藤二洲と交わって朱子学に移り、佐賀藩に戻って藩校弘道館の設立に尽力しその教授となる。 頼春水(1746‐1816)は安芸(広島県)竹原の商家の出で、大坂で儒学を学び広島藩儒者となる。頼山陽の父。中井竹山(1730‐1804)は、大坂の町人が設立した儒学塾・懐徳堂の 2代目学主中井甃庵(しゅうあん)(1693‐1758)の子。

 こうして寛政の改革における教育政策の立役者たちは、改革を断行した老中たちが諸藩の藩主として体制危機の中で藩政改革に尽力して成功した諸侯であったと同様に、様々な出自を持つが、体制の危機を感じる中で朱子学を学び諸藩で武士のありかたを改革して藩政改革を進めた地方の人材であったのだ。
 また幕府はこれらの学者たちを、幕府が江戸市中に土地を提供して立てた「素読所」を任せ、これらも旗本御家人らの教育機関として認定して、朱子学の普及に努めた。
 そして朱子学の普及に努めると共に、湯島聖堂で学問吟味という名の試験を実施し、成績優秀者を表彰して、旗本・御家人らの学問意識の向上に努めた。この試験の成績優秀者が即幕府の役人登用というわけではなかったが、この試験の成績優秀者の中から、多くの優秀な幕府役人が補給されたことは事実である。
 こうして幕府主導で、武士のあり方を示しその教育機関と教育教程を定めたことは大きな影響を諸国に与え、優秀な朱子学者の私塾は多くの門弟を抱えて次々と優秀な儒者を輩出し、これらの新たな儒者たちが、郷里に帰って、各地に武士を対象にした私塾や、中には百姓や町人をも対象とした郷学を設立していった。また諸藩でも藩士の教育機関としての藩校の設立が盛んなり、これらの私塾・郷学・藩校からも、多くの優れた儒者が生み出され、諸藩での藩政改革に理論的支柱と人材を供給したのである。
 先にみたように、寛政の改革以後は、各地で百姓の暮らしを立ち行くような政治を行った名代官が輩出され、都市でも都市民の側に立って彼らの暮らしを援助した名奉行が生まれた時代であった。この背景は、寛政の改革が仁政を標榜して幕府が率先してそれを実施するとともに、仁政を実施する人材を育てる教育政策を強力に推進したことにあったのだ。

:ただし以前理解されていたように、これは「異学」の禁止令ではなかった。幕府学問所の正規教程は朱子学のみという規定に過ぎず、多くの藩校がこれに倣ったに過ぎない。徂徠学や 折衷学派や陽明学は相変わらず盛んであり、経済を運営することが藩や幕府にとって重要な課題となっていたのだから、徂徠学や折衷学派や陽明学の教養を持つことも武士にとって必須だったのだ。「つくる会」教科書が、寛政異学の禁を取り上げなかったのはこういう理由である。

:近世編2の【26】で文化・文政期に活躍した二宮尊徳の生涯とその思想を検討した際に疑問であったのは、なぜこのように武士の役割を統治者として民を慈しむべきものと捉え、自らが代官となって村の再建に尽力する固い信念をもった百姓が生まれたのかという問題であった。しかし寛政の改革を検討してみると、この改革によって統治階級としての武士のあり方が強力に再検討されたことと共に、同じく武士とともに村の統治権限を分有する百姓にも、同様な能力が求められていたことは、飢饉に備えて米穀を備蓄する政策の実施や村の建て直し の政策で明らかである。そして民を慈しむのが統治階級のありかたであるという考えが、官立の学校や私塾・郷学によって広がり、その広がりは武士に留まらず百姓町人に及んでいたことは、寛政の改革の文教政策を推進した儒者たちの出自が、百姓町人にも及んでいたことにも良く示されている。従って二宮尊徳を生み出した社会的背景の一つに、寛政期以後広がった国々村々での儒学の広がりが認定される。尊徳はまさに時代が生み出した子だった。

(b)困難を極めた武士の暮らしの建て直し
 しかし為政者としての誇りを武士に取り戻させ、社会制度を維持する仁政をしくためにもっとも大事なことは、武士の暮らしの建て直しであった。
 だがこれこそ最も困難なことであり、寛政の改革においても、ほとんど策はなかったのである。
 この改革で試みられたことは二つあった。
 一つは旗本御家人の借財を減らし、当座の暮らしを確立することであった。このために取られたのが旗本御家人の札差からの古い借財を帳消しにし、さらに近年の借財の利子の引き下げと返済方法の年賦への変更を決めた棄捐令であった。
 しかしこれも先に見たように、かえって旗本御家人の暮らしを苦しくする結果に終わった。
 なぜならば棄捐令は札差に膨大な損金を押し付け、財力の弱い札差を倒産に追い込むとともに、再びの借金帳消しを恐れた札差が旗本御家人への借財を控えたため、旗本御家人は当座の暮らしに必要な現金を調達できず、暮らしにこまったのであった。これは現金収入がなく、年に 2度のお蔵での扶持米の給付を担保にして旗本御家人は、当座の生活費を札差から借金していたからであった。これを解決するためには旗本御家人の給与を現金にする必要があるが、それには元になる年貢を現金納入にせねばならず、これには商品として常に価格が変動する米麦と現金との換算率をどう定めるかと言う難しい問題があり、現に畑の年貢を現銀で納入していた畿内地方では、比較的安価に設定されていた換算率を高めに設定しようとする幕府と、これに反対する百姓との間に、頻繁に紛争が勃発していたのであった。
 従って旗本御家人の給与は今までどおり扶持米で給与せざるを得ず、傾向的な米価低落の現状では、旗本御家人の収入は低落し続け、彼らの生活は常に厳しい状況であり続けたのだ。
 そして二つ目にここで特に問題であったのは、家禄の極端に少ない御家人たちの存在であった。
 彼らはあまりの給与の少なさと仕事が必ずしも割り当てられない状況の中で、家屋敷や衣服・刀まで売り払い、住所不定の無宿人同様の暮らしをしているものが多数いた。そしてこのような小禄の御家人は、全部で200人ほどいると見積もられていた。
 この住所不定の御家人対策としては、幕府の軍事拠点である甲府と駿府に長屋を建て、そこに全員収容して幕府の監視下に置くという案と、鎌倉に土着させ、この地に武芸学問所を置いて教育するという案が出され、土着しかないという考えから後者に賛成する幕閣が多かったが、結局実施はされなかった。
 戦乱に備えた足軽として大量に抱えられた御家人は、太平の世となるとともに、幕府でも諸藩でも無用の長物となり、もてあまし者になっていたが、だからと言って彼らを武士身分のままで村に土着させても、問題は大きかった。この武士土着論は、近世編2で見たように、早くも元禄の頃から熊沢蕃山や荻生徂徠らによって唱えられており、岡山藩や弘前藩で藩政改革にともなって実施されていたが、実施すればかえって多くの問題を起こし、これら諸藩でも廃止されていた策であった。
 そしてこうした下層の武士であっても学問や武芸を磨くことが奨励されはしたが、その見返りとして能力によって立身出世できる人材登用制度が制度化されたわけではなく、あい変わらず家格と上司の覚えによって登用される制度が続いたために、仁政を行うための人材育成の教育政策の効用も限定されたものであった。
 武士の暮らしが確立されなければ、為政者としての誇りなど、生まれるはずがなかったからである。
 こうして寛政の改革において比較的成功した政策の一つである教育政策の効果も、今ひとつ限られた効果しかあげえなかった。

E幕府は文化メディアの主導権をいかにしてとろうとしたのかー将軍の権威をあげるための努力 (1)

 寛政の改革が行われた18世紀末期から19世紀初頭の時代は、封建領主とその政権である幕府・諸藩にとって、その存在そのものが問われた時代であった。
 すでに近世編2で見てきたように、商品経済が列島全体を覆い、武士や百姓や町人の暮らし全体が商品経済に組み込まれた現状の中では、封建的領主権を背景に、百姓から年貢を収奪し町人からも諸役を徴収するという封建領主経済そのものの基盤が破壊されつつあったからであった。
 そして商品経済の進展は武士と百姓・町人たちの互いの闘争を激化させ、武士の利益を増やそうとする藩や幕府は百姓・町人と衝突することが多くなり、次第に為政者としての彼らの権威は低下していったのであった。その上、独立国である諸藩と幕府との間でもその利益をめぐるぶつかり合いは激化し、幕府がしばしば諸藩を犠牲にして幕府の利益をあげるや、諸藩と幕府との対立が激化し、ここでの幕府の権威は低下の一途を辿っていたのであった。
 このように諸階層の間の闘争が激化し、その中で為政者の権威が低下するという「下勢上を凌ぐ」状況の中で、幕政の建て直しと幕府の権威の建て直しを課題として登場した松平定信政権にとって、この低落しつつある幕府の権威をいかに向上させるかということが焦眉の課題であった。
 だからこそ幕府は、仁政を標榜し、為政者は民百姓の暮らしを守るのがその責務であるということを武士階層に徹底させるとともに、百姓や町人の有力者にも応分の負担を促して仁政を実施し、社会の安定を図って幕府の権威を向上させようとしたのだ。
 しかし幕府が、その権威の向上のために尽したのは、何も人々の暮らしを守る行政部門においてだけではなかった。
 これは、幕府の権威そのものの由来である対朝廷政策において、危機の時代に対応できない幕府を批判する根拠としてしばしば朝廷の権威が持ち出されていた時代にあって、朝廷の力を如何に統制しかつ幕府の権威を挙げるかという問題であったし、太平の世と豊かな世が続く中で成立した多くの文化メディアとそれを担う知識人が、しばしば幕府批判に転じる傾向を持つ中で、人々の意識に大きな影響を与える文化メディアの主導権をどう幕府がとるのかという問題でもあった。
 寛政の改革での文化政策は、従来はこの教科書が取り上げたように、質素倹約政策の実現のための華美な風潮の取り締まりや、幕府政治に対する批判を封じ込めるという面に限られてきた。 しかし文化メディアが発達した江戸時代においては、人々の意識はメディアを通じて形成される面があるので、メディア統制は、それを通じて人々の意識に働きかけようと言う側面を持ち、それはなにも質素倹約と言う生活道徳の面だけではなく、権威に対する姿勢をも幕府が統御しようと言う側面を持っていたと言えよう。

(a)出版統制の意味−生活感覚や権威への感覚をどう導くかという問題
 1790(寛政2)年5月に、幕府は書物問屋仲間に対する町触を出した。これが寛政の改革において出された出版統制令である。
 この法令は最初に、1722(享保7)年11月の享保の改革における出版統制令を継承する旨を宣言し、その骨子である「新規出版において典拠不明の勝手な新説の出版の禁止」「すでに出版されたものの中で好色本の類の出版の禁止」「新規出版本には作者・版元の明記の義務」を継承し、その他、享保の禁令で出された儒書・仏書・神書・医書・歌書などの有用な書物以外の出版を禁じた。そして新たに定める禁令として、「時事的な事柄を1枚絵にして出版すること」「時事的な事柄を昔の話のようにして子ども向きの絵本にして出版すること」「時事的な事柄を写本のままで貸本にすること」「華美にして潤色を加えた豪華本を出版すること」など定めたものであった。
 要するに時事的な政治向きの批判書を発行することと、豪華本を発行することを新たに禁じたということだろう。
 享保の改革で無用な書として発行が禁じられたのは、人々の家系に関する臆説や、とりわけ徳川家に関する記述であった。
 この時代の大名家の多くは、徳川将軍家がそうであったように、由緒のない低い身分から実力で成り上がったものが多かった。その人々の家系を詮索することは、大名家や将軍家の権威に関ることだったからである。この意味で、享保の改革以来何度もだされた出版統制令は、幕府の権威を守るためのものでもあった。
 そして寛政の出版統制令で新たに定められた時事的な事柄の1枚絵や絵本というのは、田沼時代の末年に田沼政治批判の意味を込めて盛んに出版された1枚絵や黄表紙本のことで、政権が進める様々な政策を皮肉ったり笑い飛ばしたりしたものであった。そしてこの傾向は田沼の退陣・定信の老中筆頭就任後も続き、その多くは定信政権への期待に満ちたものであったが、お上の進める政治を笑いの種とした性格のものであることは代わりがなかった。しかもここで健筆を振るった作家の中に直参旗本や御家人がいたのだから、武士は武士らしく統治者として責任を果たせとする新政権は、これを看過できなかったのだ。この意味でこれも政権批判を押さえ、幕政の権威を高めようと言う狙いがあったと言えよう。 お陰で多くの戯作者が筆を折ったのだが、これは黄表紙本などの洒落本に代わって、話の筋や物語の面白さに重きを置いた、あらたな読本の登場に道を開いた。
 さらにここで禁止された豪華本とは、本屋蔦屋重三郎が浮世絵師歌川歌麿を起用して一世を風靡した、豪華な狂歌本や春画集であった。これは絵の登場人物に豪華な衣装や流行の髪型や装飾品をつけさせており、この書物を通じて華美な服装や髪型などが、裕福な町家を初めとして武家にも広まり、それを通じて華美な風俗が一般の町人や百姓にも広がる元であったので、奢侈禁止の観点から規制されたものである。この意味でこれは、好色本を規制したのと同じく、それぞれの家業に精を出すのではなく、色恋や派手な生活にうつつをぬかし、華美で浮ついた生活態度を広めるものとして、質素倹約奢侈禁止の観点から規制されたのに違いない。
 この政策も、蔦屋の浮世絵独占状態の崩壊や浮世絵師の流罪・入獄など波紋を呼んだが、派手な浮世絵を規制したことで、逆に俗の絵である浮世絵を芸術の域に高めようと言う傾向を促進し、これが後の葛飾北斎や歌川広重などの、優れた風景画や静物画が生み出される基盤を作った。
 こうして寛政の出版統制令を見ると、人々の生活や意識に大きな影響を与えていた出版メディアを規制し、そこを通じて人々に広まる道徳や生活感覚をも、幕府があるべき姿に導くという政策であったと言えよう。
 ただこの政策も幕府が闇雲になんでも禁止した、権力的な暴挙と見るのは誤りだろう。
 幕府が規制したのは、一般書の中では、教養書ではなく浮世草子・好色本と言われる通俗本であったし、学術書では、林子平の「海国兵談」のように、国防と言う第一級の政治問題を、充分な根拠もなく出版することでいたずらに人心の混乱を招くと判断されたものだけであり、さまざまな軍事政策・軍事技術に関する本や、外国事情に関する本 や一般の学術書、さらに蘭学書は規制されることなく出版されている。
 また先に見た新しい文芸活動登場の基盤を作ったと言う点も見ておくべきだろう。
 さらに出版統制といっても幕府が直接行うのではなく、書物問屋仲間という同業者組合の自主規制を通じて行われていたことに留意しておくべきであろう。
 実際の規制は、幕府の町触に基づいた書物本屋仲間の内規に基づき、問屋仲間に提出された出版伺いを問屋仲間の月行事が点検して出版元と協議して進めるというものであった。「典拠のない浮説」の出版を禁止するといってもその判断の根拠は明確でないので、これに基づいて出版を規制された例はない。規制され処罰された蔦 屋重三郎の本の場合は、問屋仲間を通じず、問屋仲間の月行事も無視して出版されたものであったために、厳しい処罰が出されたのだ。
 出版統制令の中でむしろ大事なのは、出版元と著者名を必ず明記するという規定で、これによって出版株という著作権が発生し、著者や版元の了解を得ない海賊版の出版が規制され、出版をすることが一つの営利事業としてなりたつ基盤を作ったことにも、留意することが大事であろう。

(b)異学の禁の意味−統治者・被治者の意識のありかたをどう導くかという問題
 寛政の文化政策が人々の意識の統制、人々の意識をあるべき姿に導こうというものであったという観点から見るとき、寛政異学の禁として、幕府学問所で講義する学問を朱子学にのみ制限した政策も、朱子学に見られる諸身分の役としての役割を自覚させるという、人々、とりわけ統治階級である武士身分に対する意識統制、あるべき統治者としての意識に導くという政策であったことは明らかである。
 1790(寛永2)年5月、幕府は湯島聖堂の幕府大学頭の林家の私塾において朱子学以外の学問を抗議することを禁止し、朱子学を幕府の正学に定めて幕臣教育教程の中心にすえた。そして湯島聖堂を朱子学のメッカとするために、諸藩や民間の名だたる朱子学者を招いて講義させ、さらには林家の家格を上げてその権威を高めるために、林家の当主の死後、その跡継ぎとして美濃岩村藩主松平乗蘊の 子熊蔵を据えたことは、先に見たとおりである。
 さらに1792(寛政4)年には湯島聖堂で旗本・御家人を対象とした試験を実施し、その学問の程を確かめて成績優秀者を表彰して、武士が勉学に励むことを奨励した。そして1797(寛政11)年には湯島聖堂の林家の私塾を幕府直轄の学問所に改組し、翌年には校舎を拡張して、官立学校としての体裁を整えた。
 これがかつて学会において寛政異学の禁と呼ばれて、朱子学以外の学問を禁止したと受け取られたものであるが、実際には朱子学以外に当時盛んであった、経済学・政治学としての徂徠学や、徂徠学と朱子学とを折衷した折衷学派や、さらには伝統的な儒学の中の実学である陽明学も栄え、多くの儒者が私塾を構えて多くの弟子を出していたし、さまざまなこれらの派の書物も出版されていた。また外来の蘭学も同時にこのころ栄えて、次第に多くの学者が輩出されていた。
 朱子学はかつて近世編2の【25】で見たように、統治者としての道徳を説いた学であり、武士に統治者としての心構えを教える学問であった。
 経済学や政治学、そして蘭学も含めた様々な実学は、実際に世の中を動かしていくには必要な学であり、この時代も大いに重視されたのだが、利に走る傾向が強まるとともに、武士が統治者として、百姓・町人の暮らしを成り立たせる政治を行うことがその義務であるという教えが忘れられていったことに田沼時代の政治の誤りの根本があったと定信ら寛政の改革を推進した人々に認識されていた以上、武士の政治道徳としての朱子学の重視は必然の結果であった。
 従ってこの禁令は幕府の学問所に対するものであったが、諸藩もこれに倣い、藩校でも主な教育教程は朱子学に定められていった。
 しかも朱子学は、単に統治者としての武士の政治道徳を説いただけではなかった。朱子学は、諸身分それぞれが、天からその身分に沿った役割(役)を与えられており、諸身分一体となって、天から天下の統治を任せられた天子を補佐せよという道徳を説いた学問でもあった。それゆえ朱子学の世間への流布は、被治者である百姓・町人身分にそれぞれの分を守らせるにも必要なことであった。とりわけ朱子学は、それぞれの身分がその役を果たすためには、華美な生活を慎み質素倹約に努めなければならないことを説いていたことは、武士だけではなく被治者である百姓・町人の暮らしを変えるためにも有効であった。
 江戸時代は諸身分の自治を基盤とした社会であった。
 だから武士は統治階級であるといっても、実際の社会の運営は、それぞれの身分の共同体に任されており、この意味で朱子学の天から諸身分に与えられた役としてそれぞれの義務を果たすことが、天下の統治を進める基本だという主張は浸透しやすいものだったのだ。
 従ってこの時代には、朱子学やそれから派生した儒学諸派の主張に基づいた一般教養書の類も、数多く出版されたのだ。朱子学から派生した町人学者石田梅岩の心学が、幕府や諸藩によって、百姓・町人向けに本にされたり講義されたのはこういう理由だった。 

(c)歴史考究の意味−権威の由来としての古典と古式の探求
 さらに19世紀初頭のこの時代は、さかんに歴史が考究された時代であった。そしてこの歴史考究においても、幕府は積極的にこれに関り、それを主導しようとさえした。
 詳しくは後の国学運動のところで述べるが、江戸時代が、中国における外夷である満州族による清王朝の成立によって、世界の中心としての中華の滅亡と取られられた東アジア世界が流動する中での日本の統一の時代であったことにより、その中華の継承であるとともに、古の日本の王朝時代への復古の姿勢で思想的には成り立っていた。従って江戸時代の当初より、王朝貴族の教養である歌とそれを極める歌学は江戸時代の教養人にとっては必須の学であったし、同時にその背景たる日本国の成り立ちを極める歴史の学も、大事な学問であった。
 だが現実政治が、中国伝来の儒学に基づいて行われたことで、現実の学としての中心は儒学であり、歌学や歴史学は、周辺的な教養の学としての意味しか持たなかった。
 この状況に変化が生じたのが、18世紀であった。
 すでに各章において縷々見てきたように、18世紀は、貨幣経済の進展によって、封建的領主権に基づく武家の支配が、経済的にも政治的にも解体され弱体化された時代であった。そして世の中を支配する力を失いつつあった武家は、それが手にする政治権力をもとに貨幣経済を統制し、貨幣経済の発展によって力を蓄えた豪商や豪農の富を、様々な役の賦課や流通税の新設や年貢の増徴政策によって吸収しようとして、豪商や豪農だけではなく、貨幣経済の進展に生活の基盤を置いた百姓・町人の根強い抵抗に直面するようになっていた。
 このことは反面、人々の精神の面で見れば、儒学と儒学思想によって意味づけられ統制されていた社会が成り立たなくなり、新たな社会統治のための思想が模索される必然性が生まれた時代であることを意味した。だから儒学の側でも、貨幣経済の進展の中で発展した徂徠学や折衷学派、そして陽明学に代わって、忘れ去られていた政治道徳としての朱子学を正学として強調する動きが生まれたのだ。
 従って18世紀は、社会を支配してきた儒学・儒学思想からの脱却とその克服を求める動きの現れた時代であった。
 中華たる中国の思想から脱し、日本独自の思想をどう打ち立てるかの問題である。
 この思想傾向に強力な武器を提供したのが、儒学の一派である徂徠学であった。
 荻生徂徠は中華の思想の真の核を求めて、朱子などの後世の儒学者の知見に基づくのではなく、古代の聖人の事跡に学ぶことを提唱した学者であった。聖人の道の探求である。従って彼が依拠したのは、四書五経と呼ばれる中国の儒学書の古典であり、その古典の意を理解するために彼は、古語の意味を究明し、さらに古語の意味を究明するために、中国古代の政治制度や社会制度などを考究する歴史の学を重視した。彼の学派が古文辞学と呼ばれた由縁である。この動きは、本草学などのより実用的な学が究明されて発展した17世紀後半の傾向を代表したものであり、物事を実際に即して探求する科学的精神に基づいたものであった。
 この方法を他の古典に適用した人々が多く現れたのが18世紀であった。
 一つは大坂の町人儒学所であった懐徳堂学派の人々。とりわけ富永仲基(1715‐46)であった。
 彼は古文辞学の方法を儒学だけではなく、仏教哲学や道教・神道学にも及ぼし、それぞれの学はその学の始祖とされる人の主張そのものではなく、後世の人々によってその主張の上に新たな主張が付け加えられて一体化したという説を述べた。加上の説である。そしてこの考えにそって儒学や仏教の古典を究明する中で、様々な古典のベールを剥がしていく先に、儒学や仏教学や神道を越えた「誠の道」があると主張した。
 他のもう一つは、歌学に古文辞学の方法を持ち込み、古来の歌書の言葉を古のその時代の言葉として理解するために、日本の歴史書を古代の言葉の意味をさぐるテキストとして利用した人々であった。
 その代表的な人物が契沖(1640‐1701)であったが、その弟子たちの中から、賀茂真淵(1697‐1769)が現われ、古来の歌書や歴史書のなかに日本人本来の心が見出されるとし、日本人が中国の思想や制度を学ぶ中で、この日本人本来の心は失われたとして、儒学と儒学思想にのみ依拠する姿勢を批判した。そしてこの流れは富永仲基の「誠の道」と相まって本居宣長(1730‐1801)らに継承され、儒学に対抗し、それからの脱却の道をめざす国学運動が生まれたのであった。
 従って18世紀後半から19世紀初頭の寛政の改革の時代は、新たな社会統治思想を求めて、その根拠である古の日本を復元する傾向が強まる中で、その典拠となる歴史を考究することが流行し、さまざまな資料が収集されることとなったのだ。
 幕府もこの流れの中に身をおいて、それを主導しようとさえした。
 1791(寛政3)年に幕府は諸大名やお目見え以上の幕臣に対してその家の家系を提出するように求め、御三家・三卿・一門を除く諸家の系譜を編纂しはじめ、武家だけではなく、医師や茶人に至るまで武家身分の家の多くの系譜を 究めた書の編纂に着手した(完成は1812年・文化9年)。また、1801(享和元)年に幕府は林大学頭述斎の建議に基づき、歴代将軍の事歴を中心に幕府の指示通達や法令などを集めた 歴史書である徳川実紀の編纂を開始した(10代家治の代までの分は1843・天保14年に完成)。そして将軍治下の地域の地誌の編纂を1810(文化7)年から始め、当該の地域の地形から物産・戸数・寺社の由来やその地の伝承など詳しく書きとめた地誌を作り上げていった(新編武蔵風土記稿は1830・天保元年完成、新編相模国風土記稿は1841・天保12年完成)。
 幕府は幕府開闢以来の歴史と、幕府に従う主な武家身分の家々の歴史や、将軍治世下の諸地域の歴史や現状をまとめ、幕府の統治の歴史とその権威のありかを見定めようとしたのだ。

(d)古の日本の再現−古文物の収集と古の姿の再現
 また幕府はこの一方で、歴史や地誌を明らかにするための諸資料の編集にも力を尽した。
 幕府は儒学者・柴野立山や絵師・谷文晁らに命じて、諸国の古い寺社などの宝物を調査させて、1792(寛政4)年には「寺社宝物展閲目録」を編纂させた。
 宝物の現状を文章や絵で書き止めるとともに、その由来などを考究し、古の日本の姿を再現するための資料を集めたのだ。
 さらに、1793(寛政5)年に幕府は、湯島聖堂の中に設けられていた和学所を改組し、その学頭に本草学者・地理学者でもあった古川古松軒(1726―1807)を招き、諸国の地誌の調査などに従事させた。
 また同じく1793(寛政5)年幕府は、当道座の検校である国学者の塙保己一(1746‐1821)の建策に基づき和学講談所を設立し、そこで諸史料の収集と編纂とともに、日本の古典の研究や学者の育成を行わせた。
 この施設が編纂した成果の一つが、江戸初期以前の古書を収集・校訂して翻刻した、群書類従・正編530巻665冊・続編1150巻1185冊であった(完成は、正編は1819・文政2年、続編は未完)。塙保己一は検校就任後、1886(天明6)年以来高利貸しとしての自己資本を元手に国学探求のための国書の収集を始めていたが、ここに幕府の援助を得て、この仕事を拡大完成させたものである。
 こうした国学や和学といわれる学問は、日本古来の姿を明らかにするためのもので、国学が儒学を排斥して日本の古典にのみその典拠を求めるものであるのに対して、和学は日本の古典だけではなく、古来から日本に伝来した中国の古典や文化をも含めるという違いはあったが、どちらも古の日本の姿を考究し、そこに日本という国のあり方や日本人の心のありかたの典拠を求めようとしたことは同じである。
 この意味で、18世紀後半から19世紀初頭の日本は、復古の時代でもあり、古の日本の姿の考究だけではなく、古の日本の姿を出来る限り復元する動きもまた始まった時代であった。
 この分野でも松平定信を筆頭とする幕府は、主導権を発揮しようとした。
 1888(天明8)年1月の京都大火は、京都の町の10分の9を消失するという大規模なものであった。焼けたのは201の寺と37の神社、そして一般の住居は36797戸であり、消失した建物の中には、京都御所全部と二条城天守閣も含まれていた。
 火は京都の中心市街地のほとんどを焼き尽くしたため、中心部で焼け残った大建築は、相国寺本堂と東寺本堂と五重塔だけであり、あとは外郭部にあった千本釈迦堂本堂と三十三間堂と方広寺大仏殿(しかしこれは10年後の1798・寛政10年の落雷による火事で消失し、20mの高さの木造大仏も消失した)であった。また豊臣秀吉と北の政所の御霊屋がある高台寺もかろうじて焼け残っていた(しかしこれも翌年1789年の火事で消失)。応仁の乱(1467〜77)で焼け残り、豊臣秀吉によって再建され、江戸時代初期を通じて復興した京都の町は、ここに地上から消えうせたのだ。
 この京都再建は幕府にとっても大きな課題であった。
 なぜなら幕府の権威の淵源としての朝廷の権威向上に努めていた幕府にとって、朝廷の権威の可視的な場としての御所と京都の町が消失したことは、幕府の権威の淵源そのものがこの世から消えたに等しかったからであった。幕府は火災後速やかに、膨大な費用を費やして京都の町の再建に乗り出した。そしてその際に再建の基本的な構図は、できるだけ古の姿の京都を復元することにあった。
 後に見るように朝廷からの要望で御所の主要な建物は平安時代の物と同規模に再建され、かの時代とおぼしき内部装飾が行われた。さらに消失した堂塔の再建も順次行われ、この時に再建された堂塔の中に、源氏物語の作者である紫式部の邸宅 跡とされる庭園も含む廬山寺(現上京区寺町)もあった。そして江戸中期の商業的拡大の中で京都市街地中心部に進出していた商家や遊女屋などを市周辺部に移し、遊女屋は官許の歓楽街である島原一つに集約された。
 現在の京都市街の旧来の景観は、この火事のあとに再建された、復古された江戸初期の景観なのだ。
 この時に再建された寺社の襖絵などに健筆を振るったのが、当時奥絵師として権威を持っていた狩野派の形式主義的に堕していた絵に代わって登用された、写実を重んじる丸山応挙 や、狩野派の中で形式主義を批判して、写実的な絵画を模索していた一派であり、このような革新的な「復古」派の絵師を推挙したのは定信であった。
 応挙の絵は、狩野派のように典型化され手本を忠実に写すだけの絵ではなく、古い絵巻を参照したり古物語を精読したりしてできるだけ忠実に古の風景や文物を再現する手法(これを「 写生」とか「写真」とか呼んだ)をとったものであり、これも復古を旨とする時代風潮に沿ったものだった。
 こうして幕府は文化一般にまで手を出し、学芸においても古の手本にそった権威あるものを作り上げようと腐心していたのであり、そこで復元されるべきものは、源氏物語に代表される王朝文化に示された、天皇・朝廷の権威だった。

F定信が腐心した対朝廷政策ー将軍の権威をあげるための努力( 2)

 しかし、朝廷の権威を上げることで、これから政務の委任をうけている幕府の権威をあげるという政策には、多大な困難が待ち受けていた。
 なぜならばこの時代にはすでに、朝廷からの政務の委任という事実を基盤にして、朝廷の権威を後ろ盾にして幕府の施政を批判しようとする動きが広まりつつあり、これに応じて朝廷の側からも、幕政批判の波にも乗りながら朝廷の現実政治への直接参加の道を模索しつつ、同時に朝廷の権威をあげようという動きが始まっていたからである。
 幕府の権威を上げるために朝廷の権威を称揚しその権威を上昇させることは、朝廷の権威を後ろ盾にした幕政批判に追い風を吹かせるとともに、幕府が設立当初以来腐心してきた、朝廷を統治の権威に祭り上げ現実政治には関与させないという対朝廷政策に 、根本的な矛盾を生み出したのだ。
 ではここで定信が如何に対朝廷政策に腐心したかを見る前に、江戸幕府の朝廷政策の動きを振り返り、それがどう時代とともに変化したのかを見ておこう。

(a)江戸時代初期の朝廷と幕府との関係
 江戸に幕府を開き日本国を統治する徳川氏の権限の根拠は、近世初頭に幕府が成立して以来、京都の朝廷・天皇からの統治の委任に依拠していた。このことは近世編1の豊臣政権の成立や江戸幕府の成立の諸章での検討に明確に示されている。
 しかし全国統一・統治を全面的に天皇による停戦命令・天皇の平和に依拠し、天皇の書記官としてその命令を実行するという立場を取ることで、自身の成り上がりの過去を隠蔽し、諸大名に君臨した豊臣政権とは異なり、実力で豊臣氏から全国統治権限を奪取した徳川氏・幕府は、一方的に朝廷の権限に依拠していただけではなかった。
 これは、 2度の大坂の陣において豊臣氏こそ全国統治者であるとの認識に立って豊臣氏と徳川氏の争いを調停しよ うとした朝廷の動きを家康が拒否したことによく示されていたし、その後、禁中並びに公家諸法度をつくり、朝廷が実際の統治行為に口を出すことを制限し、天皇と公家の位置は、幕府の統治権限の根拠となる古代的な権威を維持する文化活動にのみ制限され、しかも朝廷の運営は、幕府と摂関家との協議で行うこととして、天皇および朝廷が、幕府から相対的に自立して政治権限を行使することを厳しく制限しようとした。
 このため幕府成立の当初においては、朝廷の動きを制限しようとする幕府とこれに抵抗しようとする朝廷との間にしばしば紛争が起こったが、徳川和子の入内による天皇家と徳川家の一体化の動きが頓挫し、同時に幕府の援助によって天皇・公家の暮らしや往古の朝廷の儀式を数多く復活する経済的基盤も確立し、徳川氏による全国統治も安定する中で、17世紀の中ごろ以後は、朝廷と幕府との関係は安定し、両者の間の紛争は陰を潜め ていった。
 そして幕府が朝廷を封じ込めようとする動きの頂点に、5代将軍綱吉の動きがあった。
 この時期の朝廷の長であった霊元上皇が大嘗祭の復活を企て幕府がしかたなくそれに応じた時にも、即位した天皇が鴨川に行幸して禊(みそぎ)をすることは許されず、幕府は天皇が権威として京の町の人々の目に触れることを極力避ける態度を堅持し続けたことに見られるように、幕府は朝廷を封じ込める政策を採り続けていた。しかし綱吉はさらにこれを押し進めて、自身を清浄なる国土を統治する聖君主になぞらえ、江戸 をその清浄なる首都と仮託して実施した生類憐みの令を出し、朝廷から全国的な統治権限を、その神聖性も含めて吸収しようとしたことは、近世編2の【27】の(2)で詳しく見た通りであった。

(b)危機の時代に突入する中で勃発した幕府と朝廷の対抗関係
 しかし17世紀後半以後領主経済の衰退に根拠を置く武家の地位の低下と、度重なる将軍位継承をめぐる騒動の勃発に従って、幕府は再び幕府の統治権限の根拠としての朝廷の地位の称揚を行っていったことは、近世編2の【27】や【28】で見たとおりである。
 すなわち朝廷の吸収をも図った5代将軍治世下の幕府は近世初頭と同様に、朝廷の権威の称揚を始め、往古の朝廷儀式の復興に意を注いでいた朝廷に歩みよって、その復興を手助けした。 そして7代将軍治世下の幕府は、幼少の将軍の権威を高めるために、7代将軍家継と皇女八十宮の婚約を進め、将軍家と天皇家の一体化を図ろうとした。 さらに8代将軍吉宗治世下の幕府も、大嘗祭の再興や新嘗祭の再興、さらには甲子の年の伊勢神宮などへの奉幣使派遣も復興するなど、朝廷諸行事を復興して、幕府の権威の源泉としての朝廷権威の向上にも意を注いだ。
 しかも同時にこのころ、幕府や水戸藩において、幕府こそ日本国の正統な政府であるという観点での日本史の編纂が広く行われたが、古来日本国は天皇と朝廷の統治下にあり幕府はそれから統治権限の委任を受けたという観点から、そこで描かれた歴史は、天皇・朝廷を中心とした歴史像であったことは、近世編2の【25】の(2)で見たとおりであった。
 従って17世紀後半から18世紀という近世中期において朝廷・天皇の権威は次第に上昇し、同時に幕府が行う全国統治にほころびが見えてくるや、幕府に統治権限を委任した朝廷に頼って幕府の政治を改めようという動きや、直接的に幕府に代わって朝廷が全国を統治するべきだとする動きが生まれてくるのも必然であった。
 この動きは早くも、享保の改革の末年以後において具現化し、幕府の心胆を寒からしめた。
 その最初は、1745(延享2)年に、摂津・河内・和泉・播磨の百姓約2万人が京都の代官屋敷および京都町奉行所に押しかけて年貢増徴に反対し、代官や町奉行が動かないとわかるや、代官所手代の示唆を受けて内大臣近衛内前邸や武家伝奏の屋敷に押しかけ、幕府に年貢増徴の撤回の斡旋を依頼したことであった。
 この事件は、近世編2の【28】の(2)で詳しく見たように、幕府財政を立て直すために、それまでの百姓に有利な年貢徴収条件を定めることで百姓の事業意欲を掻き発たてて収穫を増やし同時に幕府収入も増やすと言う百姓に妥協した政策を幕府がかなぐり捨て、あらゆる方策を行使して、百姓の利益を奪い取ろうとする政策に転換したことへの百姓の反発が原因であった。しかしこの政策転換は幕府老中の一致した合意に基づいたものであったために、百姓の抗議に出先機関である代官所も畿内の幕府領を統治する京都町奉行所も動かず、策に窮した畿内の村々の代表達が、代官所手代の示唆に基づき、幕府より上級の権威である朝廷の重職たちに訴えて、統治権限を委任した幕府に対して、その統治を改めるよう指示してほしいと訴えたのであった。
 事態の急変に驚いた幕府は、強訴を組織した名主らの役儀取り上げと強訴に参加した村々への罰金という形の処分を発動するとともに、今後もこのような大規模な強訴・一揆が起こることを懸念して、従来はお上の側に原因のあった強訴・一揆は処分しないという方針を改め、1750(寛延3)年に、強訴・徒党・逃散を禁ずる法令を出し、今後は理由の如何を問わず、強訴・徒党・逃散を行った村々に対しては厳罰で臨む旨を布告し、強権的な対応に転換したのであった。そしてこのとき、百姓らに朝廷への強訴を示唆した代官所手代は、その行為そのものが幕府の権威を危うくするという理由で死罪となったのだ。
 そしてこのように幕府より上級の権威として朝廷を捉え、朝廷の権威を動かして幕府政治を改めさせようという動きは、以後次第に社会的な広がりを見せていった。
 その一つが、朝廷の権限を拡大し、幕府の動きに掣肘を加えようと言う動きの勃発である。
 1758(宝暦8)年。朝廷の尊王論者であった竹内式部が、国家支配のための礼楽は天子から出るべきだとの説を立て、この説が朝廷の中に一定の力を持ったために、これを危惧した関白などが幕府に事態を訴え、幕府が竹内式部や彼の説に賛同する公家を処罰する事件がおきた。宝暦事件である。
 越後の町医者の家に生まれた竹内式部は、上洛して公家の徳大寺家に仕え、そこで儒学・垂加神道を学ぶ中で一角の学者となり、主家徳大寺公城(きみき)、正親町(おおぎまち)三条公積(きんつむ)、烏丸光胤(からすまるみつたね)、西洞院時名(にしのとういんときな)などの公卿を弟子とし、その門弟は7・800人にも及び、朝廷にも大きな力を有するようになった。竹内式部の説は、垂加神道に儒学や国学を折衷したもので、君主は有徳者でなければならないという見解を元に朝廷の現状を批判し、朝廷に政権を取り戻すための心構えを説いたものであった。そしてこの説に多くの若い公家たちが共鳴し、建武の中興を夢見て軍学や武芸に励む者も現れるとともに、竹内式部の門弟である徳大寺公城らが、若い桃園天皇に式部の学説に基づいて日本書紀を進講するに至った。
 この動きが朝廷と幕府との間の紛争に発展することを恐れた関白近衛内前や前関白一条道香らが、徳大寺らの官を止めて永蟄居として天皇の周辺から遠ざけるとともに、竹内式部らを京都所司代に訴え、幕府はこの訴えに基づいて、式部を重追放に処したのが、宝暦事件であった。
 またこの事件の余波はその後も続き、1767(明和4)年の明和事件として姿を現している。
 この事件は、江戸で家塾を開き、尊王斥覇の思想を説いて幕府政治を批判していた儒学者・軍学者の山県大弐の門弟であった上野の国小幡藩の家老吉田玄蕃が、用人松原郡太夫によって失脚、監禁される事件が起こり、これがあたかも山県大弐が謀反の計画を企てており、吉田玄蕃もその一党であったかのような説が流布され、これを伝え聞いた大弐門弟の浪人桃井久馬、医師宮沢準曹らが、自分にも処罰が及ぶのを恐れて、幕府に大弐の倒幕陰謀計画を訴え出たことに端を発する事件であった。
 しかし、山県大弐が謀反を企てたというのはまったくの捏造であり、事件そのものは小幡藩の内紛に過ぎなかったことが明らかとなったが、山県大弐がその著書の中で、尊王の志のない覇者を討伐することもまた、民のための仁政を実現する道であるなどと唱えたり、天皇が囚人同然であると門弟に語ったり、1764(明和元)年の日光東照宮社参に伴う伝馬役増徴に反対した上州伝馬一揆を、兵乱が起こる兆しであると述べるなどの不穏な言動をしていたとして、幕府は、山県大弐とその門弟でかつて京都で竹内式部とともに公家衆に軍学を講じていて宝暦事件に連座して江戸に下っていた藤井右門を取調べ、山県大弐は死罪、獄死した藤井右門は獄門に、そして伊勢に隠棲していた竹内式部も捕らえて、八丈島に遠島となった。
 この二つの事件はいずれも具体的な紛争とはなっていないが、神道や国学として尊王の思想が流布され、幕府の統治権限そのものが朝廷からの委任に基づくという論が一般的となっていたことを背景にして、現実の社会不安と結びついて起きていたことが重要である。
 幕府の統治体制の弛緩とともに、朝廷の権威が上昇し、その朝廷の権威を元に幕府政治の批判が行われる道筋が準備されていたことを示していた。
 そして松平定信政権を直接的に生み出した天明の大飢饉の中でも、朝廷の権威を後ろ盾にして、幕府政治をかえようという民衆的な動きが起きていたことも重要である。
 すなわち、1787(天明7)年6月から数ヶ月間続いた、多数の民衆が京都御所の周りの築地塀の周りを何度も回る「千度参り」を行い、飢えの苦しみからの救済と五穀豊穣を祈るという未曾有の事件であった。
 天明の大飢饉の中で米価が暴騰した大坂や京都でも、困窮した人々を救うため町名主などが大坂町奉行所や京都町奉行所に御救い米の実施を申し入れていたが、町奉行所は動かず、多くの人々が明日の食料すら手に入れるに困難な状況となっていた。
 その中で、1787(天明7)年6月7日。どこからか老人が一人来て、御所の周りを回る「御千度」参りを行い、それに従う人がちらほらと現れ、その日御所での「御千度」を行ったのは、およそ4・50人であったそうな。それが次第に数を増し、3日後の6月10日には、1日で1万人とも3万人とも言われる規模に拡大し、さらには、6月18日の前後4・5日間には、1日に7万人を越える人々が御所の周りにあつまって「御千度」参りを行うまでに広がった。
 この動きは以後次第に鎮まっては行くが、およそ3ヵ月後の9月にもまだ続いていたという。
 そして御所の「御千度」参りに集まったのは、最初は主に京の町人であり、始めは思い思いに参加したのが次第に町単位で打ち揃って参加するようになったという。そしてこの京都での動きは噂となって近国に広まり、多くの人が御所に参集した。特に他国からで多かったのは大坂からの参加者で、大坂では我も我もと京を目指したので、大坂から伏見まで淀川を通う淀船の経営者が、船賃を通常の164文(約4920円)を半分の80文(約2400円)にした施業船を仕立てて運んだという。
 また御所の「御千度」参りを行う人々に対しては、他にも多くの施行が行われた。仙洞御所からはリンゴが振舞われ、御所に隣接する有栖川宮家や一条家、さらには九条家や鷹司家からは、茶 や握り飯の施行が行われた。
 このありさまは、民衆が村や町単位に熱狂的に参詣する様や、その沿道の人々が参詣者に施行を行うことで伊勢参詣に結縁しようとするさまなど、数十年に一度勃発する伊勢おかげ参りの状況と酷似しており、都市や村の共同体構成員が多様化し、町や村の産土神との繋がりが緩む中で、都市およびその周辺の村において時々に霊験のある新興の神が信仰され、熱狂的な参詣が繰り返されたのと同様な現象と見られる。
 この御所「御千度」参りは、京都御所とそこに住まう天皇が、神社と神に見立てられて参詣されたわけであり、京都近国の飢饉に困窮した人々は、米価高騰の煽りで生活に困窮する人々を放置したままの幕府に代わって、より上級の権威である朝廷・天皇に信心という形で救済を求めたものであろう。
 このような動きに対して幕府や朝廷はどう動いたのか。
 幕府は最初は「迷惑であろう」と朝廷に対して群衆の取締り実施の伺いを立てたが、天皇から「信仰に基づく行動ゆえ苦しからず」とのお達しがあって取り締まりは実施されなかった。
 さらに、「御千度」参りの熱狂が高揚する最中の6月12日、関白鷹司輔平が武家伝奏の油小路・久我の両名をよび、光格天皇と後桜町上皇からは飢饉によって多数の餓死者が出ていることに心を痛め、京都所司代に対して、何か方策を実施できないか談判に及べとの指示があったと命じた。この時天皇・上皇から出た案は、朝廷が窮民救済として塩や米を施すことや、幕府が御救い米を実施することであったという。そして2日後の6月14日に京都所司代戸田忠寛を御所に参内させ、武家伝奏は所司代に対して窮民救済に関する天皇と上皇の意思を口頭で伝え、窮民救済を幕府に申し入れた。
 これ以前から所司代の申し入れによって米500石を窮民救済に使うことを決めていた幕府は、この朝廷からの異例の申し入れを受けて、京都所司代は朝廷からの申し入れを幕府に報じるとともに、7月8日には京都町奉行所に対して、御救い米500石の放出を指示している。そして老中は所司代の報告を受けて協議し、追加措置が必要であればさらに実施するよう所司代に命じ、所司代は8月5日に1000石の御救い米の放出を京都町奉行所に命じている。
 また朝廷からの申し入れに対して幕府が応えるまでにはおよそ一ヶ月の月日を要しているが、その過程で朝廷は所司代に対して窮民救済を催促すべく8月1日には御所に再び所司代戸田氏を参内させ、所司代を関白鷹司邸に出頭させて関白による直談判すら申し入れている。
 朝廷は長らく現実政治には口を挟むことはな かったのだが、この時期の朝廷は積極的に動き、従来は武家伝奏が所司代屋敷に出向いていたのを所司代を参内させるなど、従来の先例を破って、朝廷の方が幕府より上位にあるということを交渉形式においても実現しようと動いていたのだ。
 こうして近世において異例の、朝廷による幕府政治への口出しによって、京都の窮民救済は実現した。
 そしてこの動きは、朝廷から窮民救済を行えという天皇の綸旨が出されて幕府がそれに従ったという噂が流布され、光格天皇の綸旨なる文書すら偽造されて出回っていた。そしてこの年の11月に光格天皇の即位大嘗祭が古式に則って挙行されたのだが、その際に天皇が詠んだとされる「身のかいは 何を祈らず 朝な夕な 民安かれと 思うばかりぞ」という和歌が流布され、万民の安穏を祈り行動する聖天子としての天皇像が形成されていった。
 この御所千度参りに伴う天皇綸旨の偽作や大嘗祭での御製の歌(おそらく偽作)は、一般的な噂などではなく、噂の流布に乗じて朝権の回復を狙う尊王論者の動きがあったと思われるが、幕府が民の平穏を守れなくなっている現状は、朝廷・天皇の権威をいやがうえにも増し、朝廷の権威をもとに幕府政治を批判する回路が形成されつつあったのだ。
 松平定信が老中首座に就任したのは、1787(天明7)年6月19日であった。まさにこの御所「御千度」参りの高揚が頂点に達する中での就任だったのだ。  
 こうして老中に就任した定信の前には、封建体制の危機の時代を迎える中での幕府権威の低下と朝廷・天皇権威の高揚という難題も突きつけられていたのであった。

(c)天皇を中心とした積極的な朝権回復運動の展開と幕府の対応
 この時代の朝廷が積極的に朝権の回復に努め、幕府政治にすら口出しし始めたのには、時代の様相とともに、光格天皇という、数百年ぶりに傍系から天皇位についたという特異な存在が背景にあった。
 光格天皇は、14世紀の伏見宮家から天皇位を継いだ後花園天皇以来300年続いた家系が、1779(安永8)年10月29日に、22歳の後桃園天皇が後嗣もなく死去したことにより絶えて、期せずして分家の閑院宮家の第6王子から9歳で天皇になったという異例の天皇であった。
 宮家というのは近世においては、朝廷での席次は低いものであった。
 天皇・皇太子・院は別格として、その下に摂政・関白・太政大臣、左右の大臣が連なり、宮家はその次の席次であった。つまり天皇一族であっても臣下の扱いを受けていたのだ。
 しかも光格天皇となった祐宮(さちのみや)は、東山天皇の孫にあたる閑院宮典仁親王の第6王子で、彼の上には、後に閑院宮家を継ぐ美仁親王や門跡を継いだ兄たちがおり、彼自身は将来は聖護院門跡を継ぐために出家することが決められ、それに備えて家に待機している状態の身の上だった。彼が天皇に選ばれたのは、本家の後を継ぐ男子が絶えたことと、その本家に最も血筋が近い宮家の中で、すでに出家したり官についていない王子は、彼しかいなかったからであった。傍系から選ばれた上に、彼が積極的 に選ばれたというより、彼しか適当な候補がいなかったというのが実情である。
 しかも彼は臣下待遇の宮家の末男から位に着いたので、朝廷の公家たちからは何とはなしに軽く見られていたので、そのためもあろうか、光格天皇は、他の天皇にも増して学問に励むとともに、神武天皇から連綿と続く天皇家の当主としての意識が強く、11歳で元服して後は、時の摂政・関白が老齢や病気で政務を取ることが出来なかったため、自らが朝廷の中心として政務を取るという異例の経験もして、後退している朝権を回復させようとの意識の強烈な天皇であった。
 このような異例の天皇が、封建制度の危機の時代に登場したのである。
 だからこの時代の朝廷は、朝廷の権威の高揚と朝権の回復に積極的に取り組んだのだ。
 具体的には以下のようなことを次々と行った。
 1787(天明7)年には復古的な形式で大嘗祭を行い、1788(天明8)年の火災で焼けた御所再建に当たって、朝廷儀式にとってもっとも大事な建物である紫宸殿と清涼殿とを平安時代と同じ規模に復古させた造営を行わせたこと、さらには、1790(寛政2)年には、御所新造の時に行われる紫宸殿にての旬の行事(1日に天皇が紫宸殿に出て親しく政を聞き、群臣に酒宴を賜る儀式)である新宮の旬の再興を行い、1791(寛政2)年には、新嘉殿を御所内に再興して、ここで天皇が親祭しての形式に復古して新嘗祭を行い、1801(享和元)年には、伊勢神宮臨時奉幣使を派遣するにあたって、公卿勅使を復興し、その際伊勢神宮のお前で読み上げる宣命を天皇自身が書くことも復興した。さらに1808(文化5)年には太政官印を復興し、1813(文化10)年には石清水八幡宮・賀茂社臨時祭を380年ぶりに再興するなど、この時代の朝廷は、次々と朝廷の儀式などを、平安もしくは室町の応仁の乱以前の朝廷の権力がまだ強大であった頃の姿に戻そうとした。
 これ対して幕府は、費用の面などを理由に様々に反対したが、儀式の簡素化による費用の削減などが図られた他は、ほとんど朝廷の圧力に屈せざるを得ず、天皇が意図した朝儀の復興は次々となったのである。
 このもっとも良い例は、1788(天明8)年正月の京都大火によって消失した御所再建問題であった。
 この際朝廷では、御所を新造するのであれば、なるべく平安時代の規模に戻そうと、公卿全員への天皇からのことの可否を問う勅問が下され、公卿の賛成を得た上で、古文献などの研究成果に基づいた再建案をいち早く策定し、幕府に対して交渉を始めた。
 この時天皇の意思として伝えられたことは、せめて紫宸殿と清涼殿とを平安時代と同規模に復興させるというものであった。
 これに対して幕府は幕府金蔵の蓄えも底をつき、このままでは収入が100万両も不足する恐れがあるほどの財政難の折からこれは無理であり、消失前のものと同規模での再建を主張したが埒が明かず、結局5月に、老中首座の松平定信自身が上京し、関白鷹司輔平と直接交渉に及んだ。
 定信は朝廷の要望どおりに御所を再建するには幕府の財政は不如意であり、これでは大名に費用の負担を命じなければならず、その結果は飢饉で零落した百姓にさらに負担を転嫁することとなり、御所造営は人民の血を絞り取ってなされたと非難されるなどと脅して、御所再建案の撤回修正を求め 、当面は仮普請で御所を再建し、時間をかけて消失前と同規模の御所を再建するよう申し入れたが、朝廷側は受け入れなかった。朝廷の言い分は、すでに御所全体の平安復古は財政難のおりゆえ断念し、紫宸殿と清涼殿のみの平安復古に再建案を縮小したのだから、これ以上の縮小は認められないというものであった。
 結局幕府は、この朝廷の御所再建案を全面的に認め、さらに幕府の学者を動員して古式に従った御所の造営に努めたり、焼けた御所の焦土などを運び出して新土を入れて地固めする仕事などは、通常は業者に請負で実施するのに、京都の裏店の老人や10歳以上の子どもたちにやらせるという、より費用の掛かる方法を選んでいる。御所の盛大な新造は朝廷権威の向上と幕府の威信の高揚のため益するし、再建事業に当たって京都の窮民に仕事を与えることも幕府権威の向上に役立つと考えたからであろう。
 通常はこういう場合は朝廷交渉の役である所司代を通じて行うのを、わざわざ老中首座が所司代交代に伴う事務引継ぎにかこつけて上洛し、朝廷のトップである関白と直接交渉に及んだのだが、幕府は押し切られてしまった。
 幕府の統治が緩み、幕府によっては万民の暮らしの平穏が保たれない状況の中で威信の低下が悩みとなっている幕府にとって、財政難の折でも天皇の臣下としての礼をとって大規模な御所造営を行うことは、朝廷の権威を向上することで幕府の威信を上昇させるので、交渉の過程で朝廷側はこの幕府の弱みを見事に突いたのであろう。この時代の幕府と朝廷との関係を見事に示す例であった。
 この御所新造に関して全面的に朝廷に譲歩せざるを得なかったことは、定信にとってはよほどの屈辱であったのだろう。定信は京都所司代に対して、以後の朝廷からの新例については所司代にて固く断るようにとの訓令を出している。

(d)朝幕の激突−尊号事件
 こうして起きた朝廷と幕府の争いは、幕府が高位の公家を処罰するという一つの事件に発展した。
 それは、光格天皇の実父である閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈りたいという朝廷からの提案に関するものであった。
 先にも見たように、宮家の地位は低いもので、摂政・関白や大臣の下座に着くものであり、光格天皇はこのことに心を痛めていた。そして朝廷は、1789(寛政元)年8月に太上天皇の尊号を贈りたいという天皇の内意を幕府に伝え、天皇になっていないものに太上天皇の尊号が贈られた先例を二つあげて、幕府に実施を迫った。
 しかし老中首座松平定信はこれに異論を唱え、この2例はいずれも戦乱時の異例の処置であって、太平の世の先例にはならないと主張し、結局幕府は彼の説に基づいて、朝廷に再考を求めるという形で、要求を拒否した。
 たしかに、その一つの例である後堀川天皇の実父の守貞親王に太上天皇号が贈られたのには、幕府と朝廷とが戦うという歴史的な背景があった。
 それは1221(承久3)年の承久の乱に関った後鳥羽上皇を初めとする3上皇がみな流罪に処せられ、幕府がこの3上皇に連なる皇族が天皇位につくことを嫌い、 後鳥羽上皇の父の故高倉院の実子ですでに出家して行助法親王となっていた守貞親王を還俗させて太上天皇の号を贈り、天皇家の家長としての高倉院として院政を開始させ、流罪となった順徳上皇の実子の仲恭天皇を廃位して、守貞親王の第3皇子茂仁を即位させ、朝廷の体制を一新させた という事情を背景にしていた。
 つまり天皇になっていない守貞親王に太上天皇号が贈られたのは、これによって朝廷と幕府の激突 という政治的に不安定な状態を収拾し、朝廷の体制を幕府との融和派に一新するという異例の処置が前提となっていた。まさに戦乱時の異例の処置である。
 そして2例目の、後花園天皇の実父の伏見宮貞成親王に太上天皇号が贈られたのも、 これによって政治的に不安定な状況を克服したからであった。
 すなわち時の称光天皇が後継もないまま1428(正長元)年7月に28歳で死去し、天皇家が途絶える危機が生まれ、北朝天皇家の嫡流の系統に当たる伏見宮家から彦仁王を称光天皇の実父の後小松天皇の養子として親王宣下もないまま即位させ(後花園天皇)、ようやくにして天皇家を存続させたという異例の事態が背景にあった。
  当時は60年余りにおよぶ南北朝の戦乱がようやく終結したばかりであったが、南北朝統一の条件である北朝・南朝交互に天皇位につくという約束が、1412(応永19)年に北朝天皇の後小松天皇が実子に譲位したことからその約束が破られ、各地で南朝の皇族を奉じる勢力の蜂起が相次ぎ、 しかも1425(応永32)年2月に5代将軍義量が後継者を定めないまま死去し将軍位が空位となり、その中での称光天皇の死、つまり南北朝の対立が再び激化する中での北朝天皇家の廃絶という危機が生じ、北朝天皇家の権威を背景に全国統一を図った室町幕府の権威も地に落ち、再び戦乱が起きかねない状況が生まれた。
 これを救ったのが後花園天皇の即位であったため、後の1448(文安5)年にその父の伏見宮貞成親王に、太上天皇の尊号が贈られ、その死去後に後崇光院と贈り 名された。
 この2例ともに、その背景には、統一権力として全国に君臨しようとする鎌倉幕府・室町幕府にとって、その統治権限の源泉としての天皇家の存在が不可欠であり、その中での異例の処置として取られたものであった。
 朝廷側がこの二つを先例として取り上げたのは、天皇になっていないものに太上天皇号が贈られたのはこの2例しかなかったからであるとともに、光格天皇の存在そのものも、全国統治体としての幕府の権威が低下し、否が応にも天皇家の権威に幕府がすがらざるを得ない状況の中で、皇位断絶の危機を救っての即位であったという、状況の類似もあったに違いない。
 しかし松平定信は、にもかかわらず強硬に朝廷の要求を跳ね除けた。
 これ以上の朝廷の力の伸長は幕府にとって危険であるという認識がその裏側にはあったであろう。
 だが幕府の強硬な拒否姿勢は、かえって朝廷の強硬姿勢を強化させただけであった。
 朝廷は尊号問題に消極的であった関白鷹司輔平を更迭して幕府に反感を持つ左大臣一条輝良を関白とし、さらに武家伝奏久我信通を更迭して、これも幕府に反感を持つ前大納言正親町公明を当てて、天皇の意思を幕府に押し付けやすい体制を築いた。さらに朝廷は1791(寛政3)年12月には「尊号宣下あるべきや」やという勅問を41名の公卿全員に下し、36名の圧倒的支持を得て朝廷の体制を固め、再度幕府に尊号宣下を迫ったのだ。
 しかしこの時も幕府の応諾はなく、痺れを切らした天皇は、1792(寛政4)年11月上旬を目途に尊号宣下を実行すると宣言し、幕府の承認なく強行する道を選んだ。
 このたび重なる朝廷の強硬姿勢に只ならぬものを感じた松平定信は幕閣を動かし、尊号宣下の見合わせと、武家伝奏正親町公明と天皇の腹心の議奏中山愛親らの江戸召喚を朝廷に申し入れた。つまり朝廷が強行するなら、事態を詳しく調査し朝廷の責任者の関白の罷免をも視野に入れて厳しく罰するという姿勢を幕府は見せたのだ。
 この幕府の絶対に引かない態度にようやく朝廷も軟化し、1792(寛政4)11月12日には尊号宣下の中止を決め、幕府が江戸召喚を求めた3人の公卿のうち、武家伝奏正親町公明と議奏中山愛親の江戸召喚に応じた。そして幕府は、混乱を生じさせた責任をこの 2人の公卿に取らせ、閉門・逼塞の処罰を下し、武家伝奏と議奏の官は朝廷が剥奪すべきことを命じた。
 従来は公家を幕府が処罰する場合には、まず朝廷がその官を解いて平人とするよう幕府が働きかけ、その上で幕府が処罰するという形で行われており、朝廷の官吏である公家の立場は、幕府が直接処罰できる大名などよりも一段上に置かれていた。今回の処罰は 幕府が当該の公家の解官を朝廷に願出て平人とした上の処罰ではなかったため、その公家の特権を剥奪したわけであり、これも定信が朝廷と幕府との融和を妨げるとの他の幕閣の意見を退けてのもので、彼の強硬な姿勢が目につく。

(e)大政委任論に依拠する幕府の弱い立場の露呈
 結局この尊号宣下問題では幕府の強硬な態度で朝廷の要求を押し戻しはしたものの、これで朝廷がかつての朝権を回復しようという動きを辞めたわけではなかった。
 朝廷に対して強硬な姿勢を見せた老中首座松平定信が1993(寛永5)年7月に老中を退任した後のことではあるが、先に見たように、これ以後も様々な朝廷儀式の復興が進められ、しかも現実政治への朝廷の関与も強まっていく。
 1801(享和元)年3月に伊勢臨時奉幣使が発せられ、その際に奉幣使に公卿が任ぜられ天皇直々の宣命が読まれた例は、なぜこの時にわざわざ臨時奉幣使が派遣されたのか伝えられていない。
 しかしその内容を検討すると、その際に伊勢神宮の別宮である荒祭宮に奉納されたものが、金銀一対の獅子形であり、荒祭宮に獅子形を奉納することは、10世紀の平将門の乱に始まり1281(弘安4)年の2度目の元軍来寇の際にも行われていることから、内乱や外冦を治める意図があったものと思われる。
 時はちょうどロシアが南下して日本との通商開始を要求したが幕府に入れられず、再度のロシア船長崎来航が噂され、千島列島を巡ってロシアと日本の領有権争いが生じたり、イギリス船が来航して沿岸を調査したりするなどして、対外関係に動揺が生じていた時期である。外国の船団か大挙して日本近海に押し寄せるとの噂も流布していた時代である。あるいはこれらの問題に対応するものであったか。
 現実政治に強い関心を寄せ、これに関与することを通じて朝権の回復を夢見ていた光格天皇率いる朝廷が、敏感に反応した可能性はある。
 そして、1804(文化元)年にロシア使節レザノフが長崎に来航して通商を要求した際には、幕府大学頭林述斎らがこれに対する幕府の処置について朝廷に報告し、後の1806(文化3)年に通商を拒否されたことをきっかけに、実際にロシア船がカラフトや千島の日本側番所などを襲い、小規模ではあるが日本とロシアとの武力衝突が生じ、ロシア艦隊の北方からの大挙襲来の噂が立ち世情に混乱が見られた際には、幕府は実情を武家伝奏を通じて朝廷に報告するに至っていることは、前項【30】で見たとおりである。
 こうして内政の危機と対外危機が同時に進行する中で、従来は現実政治には関与しなかった朝廷が、近世初頭以来久しぶりに政治に関与し、自身の見解を伝えたり幕府に対応を報告させたりするようになったのだ。
 またこれ以後も朝廷の失地回復は進んでいる。
 1837(天保8)年ごろからは、天皇の御前でしきりに勉強会が催されるようになっていた。光格天皇が1817(文化14)年に譲位した仁孝天皇の下であった。そしてこの時の勉強会のテキストは、日本書紀に始まる六国史であった。半世紀ほど前の宝暦年間に尊王家による日本書紀の天皇進講が問題となって公卿が多数処罰された (宝暦事件)のとは大いに状況が変わり、朝廷の現実政治への関与が進んだ結果であろう。
 そして1840(天保11)年に上皇が薨去すると、朝廷は「光格天皇」という尊号を贈った。
 これは従来ならば院号が贈られるところを、院号ではなく忌み名である諡号(しごう) と天皇名を併せた尊号を贈るのは、なんと887(仁和3)年の光孝天皇以来のことであった。
 これも古代の天皇制への復帰を望む天皇の意思を踏まえて、公卿全員で事の可否を審議して幕府に申し入れて実現されたものであった。
 こうして18世紀末から19世紀初頭にかけて、内政の危機と外交の危機とが同時進行する中で、朝廷の現実政治への関与と、古来の儀式が多数復活し、全国統治の実権は持ってはいないものの、その背景となる権威としての朝廷は確実に復興して行ったのだ。
 しかもこの過程は、幕府の抵抗はあったものの、しぶしぶ幕府が認めるという形をもって進行していた。
 なぜ幕府はこの朝廷の動きを抑えることができなかったのか。
 これはすでに繰り返し見てきたように、一つは朝廷の権威の向上は、それから日本国の統治を委任されている幕府の権威の向上に繋がるからであった。
 幕府政治の建て直しに努めた松平定信その人も、1788(天明8)年3月に将軍補佐となった後、16歳の将軍家斉に対して「将軍家御心得15ヶ条」を8月に出しているが、そこでも「天下60余州は禁庭より預かったもの」であり、将軍自身の物ではないこと、そして「将軍が天下を治めるのは御職分である」と述べている。
 これは儒学に基づき、将軍以下の諸身分はみな天から与えられたそれぞれの職分を果たすものという考えに基づくものであり、同時に日本60余州が禁庭(禁裏・朝庭か。天皇・朝廷を示す)から預かったと表明することで、将軍に日本統治権を与えた天と天皇・朝廷を同列において日本という国の特色を考える、近世初頭からの神国論に沿った考えの表明である。またこの考えは、将軍の統治権限は、本来的にそれを保持してきた天皇・朝廷からの委任に基づいているというこれも近世初頭以来の考え方を再確認しており、この時代以後、「大政委任論」として、朝幕だけではなく一般的にも合意された朝廷幕府論を表明したものであった。
 幕府の全国統治が弛緩し、様々な矛盾が噴出している中でその政治を立て直し、民を慈しむ仁政を施そうとする定信の考え方からすれば、仁政の基本である天からの委任と、その天の日本における具体的体現者である天皇・朝廷の存在を高く掲げることは不可欠の問題だったのだ。だからこそ朝廷の現実政治への関与の拡大や権威・権限の拡大に問題を感じ、これを統制しようとした定信でも、朝廷の意向を全く無視することはできず、上に見たように妥協するしかなかった。
 また朝幕の交渉過程を見てきた中で特徴的なことは、朝権を押し広げようとする光格天皇は、幕府と結びつくことの多い摂関家だけに頼らず、公卿全員に対する勅問という形で公卿全体を巻き込み、朝廷内の意見を統一して幕府に対していたが、これに対して幕府は、近世初頭以来絶えてなかった諸問題の勃発に際して、幕閣内の意見はしばしば分裂しがちであった。
 尊号問題の処理において実際に動いた公家を幕府が直接処分しようと定信が主張した際に、これに公武融和の観点から真っ向から反対したのが、定信自身が老中に登用し、右腕として起用してきた老中松平信明であった。
 先に【30】項において外交政策についてみたように、幕府の一つ一つの政策が、幕府政治のその本来のあり方に照らして問い直されざるをえなかったこの時代においては、どの問題においても幕閣の意見がおいそれとは一つにまとまるものではなかった。これは朝廷政策においても同様だったのだ。幕府が公家を処分するなどは、近世初頭以来耐えてなかったことだった。朝幕関係に緊張が走ることを恐れた幕府は基本的に公武融和を進め、朝廷の首班である摂政・関白と手を携えて進むこととし、朝廷内の問題は朝廷内で処分するように進めていたからだ。このことは先に見た宝暦事件での処罰の仕方にも見事に貫かれていた。
 しかし尊号問題では、先に見たように朝廷は、積極ではなく幕府よりだった関白を罷免し、朝権を伸張させることに熱心な人物を関白に据え、朝廷内の意見をほぼ統一してことに当たっている。
 こうなると従来の公武融和路線では対応できない。
 だからこそ定信のように、公家も武家も天皇の臣下であることには変わりはないのだから、将軍は武家を直接処罰できるように公家も直接処罰できるという新しい論理を持ち込んで、処罰を強行するしかなかった。だがこれは逆に公家もまた天皇の臣下として現実政治に関与できるという幕府にとって危険な論理を生み出す危険性もあり、定信の処置は先例もなく朝幕関係に亀裂をもたらしかねないのだから、幕閣の意見の不一致を生み出したのだ。
 そして何事も原則に立ち至って自分の頭で考えて対応する定信が去ったあとの幕閣では、従来の公武融和を尊重する派が多数を占めたのであろう。まして朝廷は幕府権威の向上にとって不可欠の玉である。
 こうして定信以後の幕府は、次々と朝廷に譲歩を重ねていき、朝廷の現実関与はますます進んだのだ。ここに大政委任論に依拠するしかない幕府の弱点が見て取れる。
 幕府権威を上げるための朝廷儀式の復興や朝権の回復という幕府の伝統的な政策は、両刃の刃だった。定信の苦闘にもかかわらず、この矛盾は最後まで解消できなかったといえよう。

G寛政の改革とは何であったのか−まとめ

 以上詳しく寛政の改革について見てきたが、最後にその性格について簡単にまとめておこう。
  寛政の改革は、1787(天明7)年6月に松平定信が、御三家などの強力な推薦を受けていきなり老中首座となり、さらに翌年3月に老中首座とともに将軍補佐役を勤め、幕閣の多くを彼と志を同じくする譜代小大名で固めてはじまったものであった。これは失政を理由に老中筆頭の田沼意次が、1786(天明6)年8月お役御免となって以後も田沼派による幕政が継続していたが、天明7年5月の江戸での大打ちこわしの勃発を受けて、緊急避難的に、幕政の交代がなされたものであった。
 以後この改革は松平定信の強力な指導力の下で、幕閣の緊密な論議と御三家などの支持を得て推進されたが、定信は1793(寛政5)年7月に突然老中を辞職する。これは倹約を強制された大奥の巻き返しと、次第に権限を強める定信の動きに不安を強めた御三家や、父の一橋治済を大御所に据えようとして、将軍職についていない人の大御所就任はありえないと定信に反対された将軍治斉と定信との軋轢が原因ではないかと言われているが詳しいことは不明である。
 しかし定信が老中を去ったあとも老中首座には盟友の松平信明(1763‐1817)が老中首座につき、基本的には彼の同志が幕政を運営しており、定信もまた一大名でありながらもしばしば意見書を提出するという形で幕政に影響を与えているので、改革は以後も基本的に継続された。
 寛政の改革の基本的な終点は、松平信明が老中首座のまま病没して、幕閣から寛政の遺老と呼ばれた人々がすべて去り、将軍治斉腹心の部下たちが幕閣を担うことになった1817(文政14)年である。
 寛政の改革は、一言で言えば、幕府政治をその本来のあり方に戻すというものであり、復古の改革であった。
 そしてその目的は、貨幣経済の進展によって侵食・解体されつつあった封建領主経済を立て直すことを中心として幕府による全国統治を立て直すことであった。
 そのために経済面では荒廃した農村の復興と行過ぎた商業資本の介入を是正して、村からの租税の献納を中心とした幕府経済の建て直しをすること。そして武家道徳としての朱子学を中心とした武家の教育教程と官立学校を設立することで、百姓や町人の暮らしを成り立たせる本来の仁政を復活する基盤を整備し、幕府政治を立て直すことであった。 そして質素倹約奢侈の禁止も、貨幣経済にまだ完全に染まっていない時代への復古であった。
 またこのためにも日本の本来のあり方を極め、そこから日本の国のありかたや人々の心のありかたを考究しようという、そこには幕政批判の傾向も秘めた動きに対して積極的介入し、幕府は本来的に日本国の統治権限を持っている天皇・朝廷からの委任に従って日本を統治してきたという事実を、学問・文化の統制や朝廷政策を通じて実現しようとしたものであった。
 ただこの時の復古とは、古の姿そのままに戻すというものではなかった。
 ここで探求されたのは、ありうべき姿として復元されたものへの「復古」であった。
 この点がもっとも鋭く示されたのが、ここではあまり考察しなかった外交と貿易に関ることであった。
 前項【30】で見たように、松平定信は、1792(寛政4)年のロシアの新たな通商要求に対して、幕府開闢以来の外交の基本を考察し、国交を結ぶのは朝鮮だけであり、通商関係を結ぶのは中国・朝鮮・琉球そしてオランダの4国だけに限ることが、幕府開闢以来の方針であり、これ以外の外国が通商を要求し船を派遣した際には、外国船を打払い、乗り組み員は皆殺しにするのが、幕府の祖法であったとした。
 これは中華・明帝国の崩壊と西洋諸国の進出と言う中で、東アジアの国際的秩序が崩壊し、日本が再び国際的な戦乱の嵐に巻き込まれかねない中で、キリスト教と西洋諸国の勢力に飲み込まれないための緊急 避難として取られた「鎖国」政策を、外国との付き合いを限ることが目的とされたと改編したものであった。
 そしてこれは、現に通商を新たに要求し、蝦夷地周辺に進出しつつあったロシアの勢力拡大を阻止し、通商要求を断る便法だったのだ。通商要求を断ることが目的として先にあり、そのためのあるべき論理を歴史に求め 、歴史を都合良く改編したというのが実情であった。
 しかしここで定信が「鎖国は幕府の祖法」であると定めてしまったことが、以後幕府の対外政策を縛ることとなり、現実を見て開国し西洋に学ぶべきだとする人々に対し、幕府閣僚の多数派は、祖法としての鎖国を護持し、異国船は打払えと言う強硬な態度をとり、幕府が世界情勢に対する幕府の柔軟な対応を取ることを不可能としてしまったことは、前項【30】で見たとおりである。
 また同じく外交面であるが、江戸開府以来、対等な外交関係として続けられてきた対朝鮮外交において、朝鮮は古来日本国に服属してきた外夷の国であり、それと対等の礼で接せるのはおかしく、また外夷を日本国の中枢近く引き入れるのは国防上での危険であるとして、松平定信は、1789(寛政元)年に予定された朝鮮通信使の応対は江戸ではなく、出先の対馬府中ですべきだとし、対等の儀礼の廃止とあいまって、朝鮮側の激しい反発を招いている (このためこのときの通信使派遣は中止され、20年にもおよぶ交渉の末、通交関係を続けることが必要と判断して朝鮮側が折れたため、1811・文化8年の11回目の通信使は、対馬の藩主館で接待された)。
 これは日本書紀などの史書に表明された建前としての日本=中華論、朝鮮=属国論を事実として誤認し、それをもとにして現実の外交関係をあるべき状態に「復古」しようとする動きである。
 そしてこれは同時に、オランダに対しても諸経費削減を理由として、商館長の江戸参府の回数を削減することに繋がった。
 以前は毎年1回 だったのが後に4年に一度に変更され、その4年に一度の最初として1790(寛政2)年に商館長が参府してみると、次回からは5年に一度へと削減され、 これは1790(寛政2)年にオランダ船は年に1隻・貿易規模は銅60万斤へと貿易規模が削減されたことも含めて、フランスやイギリスとの抗争によって世界貿易の中枢としての地位を失いつつあったオランダ側の激しい抵抗を受けた が、実施を強行した。
 定信の外交政策で貫かれたのは、日本を神国とし、日本を中華として、周辺諸国は日本に服属し、その恩恵としての貿易に浴するというあるべき姿への復古の姿勢であったのだ。
 しかし内外の情勢は、復古政策で押し止められるものではなかった。
 質素倹約奢侈禁止の下に、貨幣経済の進展を出来るだけ止めようと言う政策は、幕府自身がその貨幣経済の進展に依拠して収入を伸ばすしかなかったが故に頓挫し、強力に規制を強めようとする定信とその同志の老中が退任するに伴って、変更され後退するしかなかった。 また幕府財政を補うために国役普請による河川改修に国持ち大名などの手伝い普請を実施して大名に負担をかけた田沼の政策を定信は変更し、手伝い普請をなくしたが、これはそのまま国役普請の縮小へと繋がり、単独では治水事業を継続できない譜代小大名の不満を招くこととなった。そして質素倹約令によっても幕府財政は好転しなかったため、定信の老中退任後のことであったが、1801(享和元)年には私領での国役普請の制限実施の内規が勘定所によって出され、さらにこれは1811(文化8)年には法令化されて、幕府は次第に弱小大名領での国役普請を放棄する方向に動いていく。

:やがてこれは 将軍治斉腹心の部下が政権を担った時代のことではあるが、1824(文政7)年には、国役普請万石以上停止令となって、大名領での幕府や国役による治水工事は完全に放棄され、大名を幕府が援助することは廃止されたのだ。これは幕府の全国統治権限の放棄である。

 そしてまた、危機に伴う朝廷権威の向上は、逆に現実政治への関与を阻止し形式的な象徴の地位に止めて置きたかった天皇と朝廷の現実政治への関与の増大と権威の上昇を招き、やがて幕府自身が天皇・朝廷の権威に依存しなければ何もなしえない状況へと追い込まれた 。
 さらに外交政策においても、相次ぐ通商要求をただ拒否するだけではすまず、拒否するためにも西洋諸国に学び、その優れた科学技術と諸制度の導入に踏み切らざるを得ず、このことが余計に、統治階級内部に、開国か鎖国の継続かという深刻な対立を生み出していったのだ。
 寛政の改革は、仁政の実施とそれを担う人材の育成という面では一定程度成功して おり、社会の安全のために富裕層も応分の負担をするという思想や村や町の自治を進展させるという役割を果たしたことなど後の新しい社会を作る礎を築いた面もあったが、 基本的には、社会と世界の変化には対応できない、単なる復古の改革だったと言えよう。

:05年8月刊の新版の寛政の改革の記述は、旧版に比べて整理され、より簡素でわかりやすいものに改められた(p118)。すなわち改革の第一の目的が農村の再建にあったことが明確化され、旧版にあった、前の田沼時代と重複する貨幣経済の進展にともなう農村の解体状況や、幕府諸藩の収奪に対して百姓一揆や打ちこわしが多発した状況についての記述は削除された。しかしあまりに単純化した結果として、農村の建て直しと同時に、都市に流入した大量のその日暮らしの人々を飢饉から守るために都市でも穀物の貯蔵がなされたことは削除され、質素倹約政策も武士だけではなく、百姓町人にまで及ぼされたもので、社会の華美な風潮を改めようとしたことも完全に削除された。ようするにこの改革は、進展する貨幣経済に対抗して、昔の貨幣に頼ることの少ない時代に戻そうとする復古的なものであったことが教科書の記述からは削除されて、改革政治の性格がきわめて単純化されたのだ。従って上の批判で見た、為政者としての武士のあり方を見直し、武士の教育制度や教育教程、そして人材登用制度を見直したことや、村や町の自治を基礎として貨幣経済に対抗しようとしたことなど、次の時代につながる改革の積極的な側面を記述することも、視野の外に置かれた。旧版の混乱はしていたが、より広い視野で歴史を見られる可能性をもった記述の良い面も削られ、まったく無味乾燥な機械的な記述に戻ってしまっている。

(2)元の田沼に−貨幣経済の拡大に棹差した大御所時代−

 教科書は、寛政の改革の記述に続いて、11代将軍家斉が権勢を振るった大御所時代について、次のように記述している(p157)。

 定信が老中を辞任すると、将軍家斉が権勢を振るうようになった。そして将軍職を家慶にゆずったあとも大御所として政治の実権をにぎった。この時期は、ぜいたくにより、ゆるんだ気分がただよい、大御所時代とよばれた。幕府は再び財政難におちいり、しばしば貨幣改鋳を行った。このため物価高を招いたが、一方で好景気をよびおこし、江戸の町人を中心に化政文化が栄えた。

@間違いだらけの誤解に満ちた記述

 「大御所時代」と今日に歴史学で認識される時代は、寛政の改革の復古的な政策では結局立ち行かないことがわかって、元の田沼時代と同様に、幕府が幕府自身の利益を追求し、貨幣経済の進展にあわせて利益を拡大することに邁進した時代である。しかし
歴史教科書において、この歴史学において「大御所時代」とよばれた時代を記述することは、あまり行われず、通常は寛政の改革に続いて天保の改革に記述が移り、幕政改革は結局失敗に終わったという形になるのが普通である。
 だがこれだと、なぜ続けて二度もほぼ同じ内容を持った復古的な改革が行われたかがわからなくなるので、「つくる会」教科書が、大御所時代の記述をしたことは、この点で正しいと思う。
 しかしその記述は残念ながら、多くの間違いと誤解に満ちた歪んだもので、その結果再び元の田沼時代に戻ったことの必然性が分からない記述になっているのだ。

(a)寛政の改革は定信辞任後も長く行われた
 教科書は大御所時代を、松平定信が老中を辞任したあとと記述しているが、これは間違いである。
 定信が老中を辞任したのは、1793(寛政5)年の年始めのことであったが、11代将軍家斉が権勢を振るい、これまでの寛政の改革の政策の多くが打ち捨てられるようになったのは、ずっと後のことある。
 なぜなら定信辞任の当時は、将軍自身がまだようやく20歳になったばかりで、自身で政治判断をするほど経験を積んでおらず、しかも幕閣は、定信が辞任したとはいえ、彼自身が同志として選任した老中や若年寄はそのまま留任しており、老中首座には、定信の腹心の部下で同志である、松平信明がついていた。したがって将軍は、これらの「寛政の遺老」とよばれた幕府重鎮たちを重用せざるを得ず、定信が主導した寛政の改革は、定信辞任後も続いたのだ。
 また大御所時代とは、家斉が将軍を退いて大御所として政務を取った時代に限るものではない。
 家斉が将軍を退いたのは、1837(天保7)年であり、彼はその後1841(天保12)年1月に死去するまで、大御所として君臨し続けた。この5年間ほどは、江戸城西の丸に退いた家斉が彼の寵臣を通じて事実上権勢を振るい、12代将軍家慶と彼の側近もそれを牽制することができず、家斉とその寵臣たちによる情実に満ちた乱れた政治が行われた時代である。しかし家斉と彼の寵臣が政治の実権を握って、その政治の様がまるで田沼意次の時代に戻ったようだと世の人々の噂されたのは、家斉が大御所となる以前からのことである。
 では、大御所時代とよばれる時代は、いつからのことであったのか。
 それは「寛政の遺老」とよばれた幕府重鎮の最後の人物である松平信明が老中首座のまま病没し、さらに信明と同じく1788(天明8)年以来30年にも渡って幕府勘定奉行を務めた加納久通が勘定奉行を退任した1817(文化14)年である。これによって将軍家斉の寵臣で側用人であった水野忠成が側用人のまま老中格になり、同時に幕府財政を管轄する勝手係り老中に就任し、家斉の意思を制限する者が誰もおらず、彼の意思が色濃く幕政に反映出来るようになったのだ。
 大御所時代とは、1817年から、家斉の死の1841年までの25年ほどを指しており、田沼時代が10代将軍家治を側用人と老中を兼ねた田沼意次によって補佐・差配された時代であったように、側用人と老中を兼ねた水野忠成が11代将軍家斉を補佐・差配した時代であった。

(b)歴史の必然としての利益政治への回帰
 また「つくる会」教科書は、大御所時代を「ぜいたくにより、ゆるんだ気分がただよった時代」と否定的に捉えているが、そうなった理由はまったく記述していないため、寛政の改革のような厳しい質素倹約と改革政治こそが正しい政治であったと捉えているかのように見受けられる。
 しかし「大御所時代」のぜいたくでかつ活気に満ちた時代の始まりが、「寛政の遺老」と呼ばれた頑固な復古主義者の閣僚が次々と幕閣を去ることによって始まったことに見られるように、寛政の改革という復古的な政治こそが理想主義的で現実には合わないものであったのだ。寛政の改革は、超緊縮財政を行い、武士に仁政を強制することで、時代を貨幣にそれほど頼っていなかった江戸開闢の昔に戻そうとするものであった。いわば時計の針を元に戻そうとする無理な人為的なイデオロギー的な政治だったのだ。
 当然これには無理を伴う。
 先の寛政の改革のところで詳しくみたように、百姓・町人にまで質素倹約を強制し、幕府の公共投資も厳しく削減したその政策は、異常なほどの不景気を生み出し、幕府の財政の均衡は形だけは取れたが、武士をも含めた人々の生活は暗く沈滞し、経済活動の沈滞によって、多くのその日暮らしの人々の暮らしを圧迫 した。
 だからこのような復古政策を声高に叫び、これに反する政策の実施を阻止してきた閣僚が居なくなれば、幕府政治のあり方が元の田沼時代に戻るのは必然だったのだ。このことは松平信明の死去の直後に、側用人政治が復活していることに如実に示されている。
 従って大御所時代とは、幕府が再び貨幣経済の進展に棹差す政策に戻り、莫大な財政支出も行ったので、経済活動は再び活発化して未曾有の好景気を生み出し、世の中も活気に溢れた明るい時代だったのだ。だからこの時代に化政文化と呼ばれた華やかな文化活動が花開いたのだ。
 ただしこの裏で、幕府の深刻な財政難が再び進行していたが、すでに幕府にはこれを解消する有力な策もなく、結局貨幣改鋳によって利益を生み出す悪政に手を染めたことで、 様々な経済混乱という形で世の中に混乱を招いたことは忘れてはいけない。
 しかしこの悪政とて、家斉寵臣の恣意によるのではなく、それしか方策がなかったと評価すべきである。

A将軍家斉の贅沢な放蕩な生活

 さて大御所時代とそれ以前の寛政の改革の時期との大きな違いは、幕府が質素倹約を旨とした緊縮財政から、積極的な財政政策へと転換し、幕府の利益を狙って次々と大量の新通貨を発行して市中に膨大な貨幣を撒き散らしたり、江戸城御蔵の金銀を次々と貸し出したり、さらに将軍家斉とその後宮・大奥の贅沢な生活や、これらの人々が信奉する僧侶に対して次々と大規模な寺院を造営するなど、膨大な貨幣をばら撒いたことにある。
 いいかえればこの時代は、幕府が積極的な経済政策に転換して、インフレと経済の拡大を伴う未曾有の好景気を生み出した時代であった。
 この転換の背景にあったものは、幕府の年貢収入が一貫して低下する中で財政難が進行していたために、幕府収入を増やそうと思えば、貨幣経済の拡大に依拠した積極的な経済政策を取る以外になかったことと、寛政期からの北方防備に膨大な支出を強いられたことと、将軍家斉の豪奢な生活により、その財政難がより深刻になったことであった。
 11代将軍家斉は、歴代将軍の中でも取り立てて贅沢で放蕩三昧を尽した将軍であった。
 彼の実父である一橋治済も、質素な生活をしたその父8代将軍吉宗とは異なって、極めて派手な生活をした人であったが、家斉もその血を引いたのであろうか、派手な生活をしていた。
 こんな逸話が伝えられている。
 あるとき将軍は生花を楽しんだあと、側近の小姓たちにありあわせの老木や竹根などで作った花活けを一つずつ与えたのだが、一人の小姓だけが貰えなかったので、御用取次ぎがその旨を知らせると、家斉は、無造作に床の間に飾ってあった白金製の花活けを取らせて与えたという。豪華な生活をしていた彼にとっては、白金製の花活けなど、どうということもない日常の生活用品だったという逸話である。
 また家斉は迷信深いたちで、下総中山法華経寺の智泉院住職日啓という祈祷僧に深く帰依し、1827(文政10)年には法華経寺の境内にある徳ヶ岡八幡の地に若宮八幡を建立し、その別当寺として守玄院を建て日啓を別当とし、さらにはここを幕府祈祷所として、歴代将軍の位牌なども移した。さらに、1833(天保4)年に池上本門寺の住職日満が、元禄の幕府の弾圧で廃寺となった谷中感応寺の再興を申し出た際には、敷地3万坪と本堂・書院・庫裏・五重塔・釈迦堂・鎮守堂・宝蔵などの建物や、山門・中門・惣門などを含む大規模な伽藍を建立7させて、これを将軍家の祈願所としたのだ。
 こうしたいくつもの社寺建造も、彼の豪奢な生活とあわせて、幕府財政を圧迫した元であった。
 さらに幕府財政を追い詰めたのは、膨大な数に上る、家斉の子女の嫁ぎ先や養子縁組の選定であった。
 家斉には正妻以外に側女が多数をおり、正妻と併せて40人ほどもいたと言われ、その内の17人から、55人の子が生まれた。そのうちで無事成長したのは28人であったが、これらの子女が大名家へ輿入れする際には膨大な持参金を持たせ、さらには縁組先の大名には、当時幕府は財政の厳しい大名に対する貸付金を給与することを原則としては辞めていたのに、縁続きになった大名にはそれを許し、さらに子息を養子とした大名にも、養育経費として数千両、その成人後の将軍お目見え経費としてさらに数千両が追加され、さらに財政窮乏を理由とした数万両の援助がなされたのである。
 こうして家斉と同じく将軍吉宗の孫である松平定信によって開始された幕府の緊縮財政は家斉親裁とともに一掃され、上の豪奢な生活は下にも感染し、大名武士らの生活は、再び田沼時代の豪奢なものに戻って行ったのだ。

B積極的に御益の増大を図った幕府

 幕府財政はこうした将軍の贅沢な生活と、寛政以来続いた北方警備や沿岸警備の費用の増大によって、再び苦しいものとなり、年貢増徴が出来にくい中では、貨幣改鋳によって利益を図ったり、株仲間などからの運上金の増加や、幕府金蔵の金を貸し出したりして、幕府の利益を図るしかなくなっていった。
 しかし松平信明らの「寛政の遺老」が老中首座や勘定奉行についているなかでは、これらの政策は田沼時代の悪しき政策への回帰として厳しく退けられ、採用されることはなかった。
 1817(文化14)年2月に、寛政以来30年間勘定奉行の職にあった加納久通が奉行を退任し、さらに8月には同じく30年来老中を務めてきた老中首座松平信明が死去したことは、幕府の政策に大きな転機となった。そしてこのとき勝手係り老中として幕府財政を一手に握ったのは、将軍側用人である水野忠成 (ただあきら)であった。
 彼は家斉がまだ江戸城西の丸にいて将軍家世継ぎであった時代に彼の小姓となり、その後側用取次ぎ・側用人となり、側用人兼帯のまま老中となった人物であり、経歴からも田沼意次とそっくりの人物である。また彼の腹心には、田沼意次の次男の田沼意正がおり、忠成に接近して1819(文政2)年には西の丸若年寄りに出世し、父の旧領遠州相良に転封されている。
 大御所時代を担った幕府閣僚には、こうした人物がついていたのだ。

(a)出目を狙っての貨幣改鋳と経済ー物価高騰は起きてはいない
 この年、新任の勘定奉行からは、翌1818(文政元)年には、大幅な財政赤字が見込まれることが報告され、局面打開の方策として貨幣改鋳が計画されていた。また元文以来貨幣改鋳がなかったため資金繰りに苦しんだ金座・銀座支配からも、貨幣改鋳の働きかけが再三なされていたが、寛政の遺老たちは、これを「国家の恥」として許さなかった。
 この年の夏の幕閣の交代は、貨幣改鋳を阻止した要因を排除し、ここに元文以来80年ぶりの貨幣改鋳が行われることとなり、1818(文政元)年の真文二分金に始まり、翌1819(文政2)年の小判・一分金の改鋳、1820(文政3)年の丁銀・小玉銀改鋳、1824(文政7)年の二朱金・二朱銀改鋳、1828(文政11)年の二分金改鋳、同じく1829(文政12)年の一朱金改鋳、さらに1832(天保3)年の二朱金の改鋳と、この14年間に次々 と貨幣改鋳がなされていった。
 この貨幣改鋳は、元文以来80年間も改鋳がされていないので、元文金銀の磨耗が激しくて人々が難儀しているというのが表向きの理由であったが、真の狙いは、貨幣改鋳による金銀の含有量の変更による金銀の出目(差額)による幕府収入の増大を狙ったものであった。
 文政元年に発行された真文二分金は、これまでの元文小判の金の含有量が66%であったのにたいし、金は56%しかないのに、元文小判と等価で交換された。この金の差額が幕府の儲けになるのだ。
 ちなみに、文政2年の小判・一分金の金含有量は56%、文政7年の一朱金は金含有量12.5%、また、文政11年の二分判は48%、天保3年の二朱金は29% と、金貨の品位は一貫して低下した。文政11年以降の金貨は、金の含有量が50%を下回っており、これは金貨ではなくほとんど銀貨であった。 特に文政7年の金貨は異常で、「贋金」と世に呼ばれた。さらに銀貨も、文政3年の丁銀・小玉銀の銀含有量は、元文銀の銀含有量が46%であったのに対して、36%へと引き下げられ、以後の銀貨も銀含有量は36%で、これはほとんど銅貨であった。これらの品位の低い金銀貨幣が、旧来のより品位の 高い貨幣と等価で交換することを強制されたのだから、その差額が幕府の儲けだ。
 1818(文政元)年から9年間の金貨の改鋳益金は、184万4540両(およそ2213億4480万円)。年平均にして20万両(およそ240億円)余り。1820(文政3)年から15年間の銀貨改鋳益金は、383万8567両(およそ4606億2804万円)。年平均にして25万両(およそ300億円)あまり。合計した益金は、568万3107両(およそ6819億7284万円)。年平均にして45万両(およそ540億円)余りである。
 幕府の年貢収入を金貨に換算すると、1730(享保15)年には50.9万両ほど、1843(天保14)年には60.3万両ほどである。天保の金額は、文政から天保初期の貨幣改鋳の結果として米価が上昇した結果であることを考慮すれば、貨幣改鋳の益金は、幕府の10年間の年貢収入に匹敵する金額となる。幕府財政はこの巨額の改鋳益金によって、かろうじて赤字となることを避けえた。貨幣改鋳は、まさに打ち出の小槌であった。
 しかしこれは、幕府にとっては目先の利益があったわけだが、貨幣を元として動いている経済活動にとっては、深刻な影響を与えた。
 まず一つは、多量の通貨が出回ったことによるインフレである。
 文政年間に新たに鋳造された通貨は、金貨が481万7870万両と銀貨が22万4981貫に上り、これ以前にくらべて通貨の流通量が46%も増大した。当然それだけ貨幣価値が低下したのだから、諸物価が高騰するわけである。ただし単純計算でこのまま物価の高騰に繋がるわけではない。実際には新通貨の流通を商人、とりわけ両替商が拒否し、より品位の高い旧通貨の退蔵も同時に平行して行われるわけだし、公共投資の増大に伴う経済発展によって膨れ上がった商品量の増大が通貨の増大に伴う貨幣価値の下落を補うので、物価がこのまま高騰したわけではない。次に見るように金銀通貨の交換比率でも金貨の価値は8%弱程度の下落であり、それも再び1823(文政6)年以降は元に戻っているから、諸物価高騰も、これを上回らない数%のゆるやかなものであったろう。
 江戸の米価で見ると、1804年から1817年までの文化年間の米価は、1石の値段が平均で0.970両と、その前の寛政年間平均の1.097両に比べて12%も下落していたのが、1818年から1830年の文政年間は、平均で1.004両と再び3.5%の上昇に転じている。一方大坂の米価で見ると、文化年間の米価は、平均で1石の値段が銀で62.1匁で、寛政年間の平均の65.2匁に対して5%下落していたが、文政年間の米価は61.6匁で、かえって1%下落している。
 なお文化年間と文政年間の米価の変遷を、それぞれの年間の米価の最高価格と最低価格、つまり不作の時と豊作の時とを除いた平年作の平均を取って比較すると、江戸は、0.952両が0.999両と5%上昇し、大坂は、61.7匁が60.6匁へと1.8%下落している。つまり貨幣改鋳に伴う物価上昇は急激なものではなく、横ばいか緩やかな上昇であり、江戸の物価上昇の方が大坂より激しかったのだ。
 さらに通貨改鋳に伴う金銀の含有率の変化を見るとわかるように、銀貨よりも金貨の金含有率の低下が著しい。ということはそれだけ金貨の価値が銀貨に比べて低下したことを意味する。
 従って金貨と銀貨の交換比率が、金安銀高に動き、金1両銀64・5匁で推移してきた金銀相場は、改鋳の翌年文政2年から5年にかけて、金1両銀60匁程度に下落した。このため、金貨を基本通貨にしている東日本の購買力を低下させるために、江戸周辺での上方渡りの諸商品の品不足を招き、江戸の物価は上方以上に高騰することとなった。また江戸大坂間の商売の決済を金貨で受け取る大坂商人は、その分だけ損失を蒙ることとなり、これが江戸上方間の商品流通の停滞をもたらし、さらには幕府も大坂商人から莫大な借金をしていたわけだが、これを価値の下がった金貨で支払えば、大坂商人は大損をし、幕府は借金を減額したに等しくなる。
 ただし膨大な通貨の投入は、物価上昇をもたらしたとはいえ、経済活動を活発化させ未曾有の好景気を生み出したこともわすれてはならない。
 「つくる会」教科書は先に見たように、貨幣改鋳によって物価高が生じ人々を苦しめたかのように記述した。そしてこれは多くの歴史家もまた同様なのだが、実際には数%程度の緩やかなものであり、増大した通貨流通量を増大した商品生産量が吸収したのが実態であった。このあたりは、歴史家が実態を調べないで、品位を落とす貨幣改鋳は悪いものであり、元禄の改鋳と同様に物価高騰を招いたに違いないと言う思い込みで記述していたのであろう。
 物価高騰が酷くなったのは、文政年間ではなく、1830年から1843年の天保年間である。
 この時期の江戸の米価は平均で1石が1.113両と、文政年間に比べて10%も上昇し、大坂の米価も平均で1石が86.1匁と、39%も上昇している。しかしこれは7年近くも続いた天保の大飢饉のためであって、貨幣改鋳のせいではない。
 「つくる会」教科書や多くの歴史家の貨幣改鋳に伴って物価高騰を招いたという言説は、文化年間と天保8年まで続いた貨幣改鋳と、天保年間の物価高騰を単純に結びつけた誤解であろう。
 文政期の幕府の経済政策は、次にみる投資の増大や専売制の施行などとともに、ゆるやかな物価上昇を生み出すことで、経済活動の拡大と幕府の借金の事実上の低減化を狙った、今日の意味でのインフレ政策と見ることができよう。貨幣改鋳に伴う経済混乱としては、金貨の価値の下落による、幕府のお膝元の江戸も含む東日本の購買力低下に伴う、東西流通の遅滞と、江戸の上方産品の品不足に伴う諸物価高騰であったろう。

:この部分の米価や金銀交換比率の比較は、1999年発行の岩波日本史辞典に付属した「近世米価・金銀比価変遷表」に基づいて考察した。

(b)御用金の貸し出し−幕府も高利貸しを行った
 しかし貨幣改鋳による益金は、一時的利益であり、これを大規模に行うと、先に見たように様々な混乱を伴うものであった。
 文政年間以後の「大御所時代」の幕府が、寛政改革時代と異なって積極的に幕府の利益をあげるために行った恒常的な事業としては、江戸町年寄りを通じた幕府資金の貸付のほうが重要である。
 この方策は田沼時代の1766(明和3)年に1万両(約12億円)の規模で始められたもので、翌1767(明和4)年にも1294両(約1億5528万円)、さらに大奥資金の2000両(約2億4000万円)などが加えられ、またさらに、1771(明和8)年12月の幕府資金5万両(約60億円)を貸し付けて、合計、約6万9000両(約82億8000万円)に上った。これは資金を江戸町年寄りに貸し付けて年利10%で運用させて町人に貸し付けさせ、そこから上がった利子の5〜10%を事務経費として町年寄りの取り分とし、残りを幕府の利益として収納するものであった。
 この幕府貸付金は当初は、家質を取ったうえで年利10%として設定されて町年寄り側に提示されたが、町年寄り側は、家質を取る場合には、通常は年利4〜7%なので利子が高すぎて借り手がいないと批判し、年利10%ならば家質を取らずに、借受人の信用保証を取る形に変えることを提案して、幕府がこれに従って実施されたものである。また、この貸付は幕府が利益をあげる目的以外に、町年寄の業務助成や市中への通貨供給、さらに、この時代に新たに鋳造された南鐐2朱判の通用促進など、さまざまな目的を持っていたが、町年寄りを通じて幕府が銀行業務を行うということに、この時代にいかに貨幣経済が浸透していたかを示すとともに、資金需要が高かったことをも示している。
 田沼時代の幕府はこの貸付を償還期限が過ぎても更新し、貸付総額が10万両(約120億円)になるまで増やすことを構想していたが、田沼意次の失脚と松平定信政権の成立とともに中止され、市中に運用されていた幕府資金は回収された。
 この田沼時代の資金貸付政策が再び大規模に復活したのは、1819(文政2)年であり、1万両(約12億円)が新たに投入され、さらに、1821(文政4)年の1万両(約12億円)、1824(文政7)年の5万両(約60億円)、1826(文政9)年の1万両(約12億円)、1829(文政12)年の1万8000両(約21億6000万円)余りと矢継ぎ早に資金が投入され、これは次の天保年間も継続されて、1850(嘉永元)年には、貸付残高19万4000両(約232億8000万円)余りの規模に達した。
 この時期は前に見た通貨改鋳が続いた時期であったから、世間に不評でなかなか通用しなかった新たに鋳造した貨幣の市中流通を図る目的もあったであろうが、これだけの資金需要が江戸にあったということである。
 幕府は拡大する貨幣経済に依拠して、すこしでも余裕のある資金は遊ばせずに貸付、幕府の利益を上げることを目指したのだ。
 なお、江戸町年寄りを通じて貸し付けられたのは、幕府の資金だけではなかった。
 町年寄りが扱った資金には、京都の青蓮院や宇治の平等院、さらには深川霊運院や寛永寺などの門跡寺院や有力寺院が、寺の資金を元に利殖を行う場合の資金も含まれていた。それだけ江戸市中の資金需要は巨大なものだったのだ。

(c)商人仲間の独占権の強化 
 さらに幕府の利益を図る政策はこれだけではなかった。
 実は寛政の改革によっても、田沼時代に行われた幕府領での専売制とでもいうべき、天下の台所大坂の経済的特権を強化する政策は継続されていたのだが、大御所時代になるとさらにそれは強化された。
 近世編2の【29】「御益・国益の田沼時代」で論じたように、この時代の幕府は、年貢増徴ではなく、発展する貨幣経済に依拠して幕府の利益を図ろうとして、その強力な財政基盤でもある大坂の経済における特権をより強化しようとしていた。この政策は寛政の改革時代においても継続されていた。
 田沼時代の幕府は1766(明和3)年には諸国の菜種栽培の百姓が自家消費以外の目的で菜種油を絞ることを禁止し、自家消費以外の分はすべて大坂に送ることを布告し、大坂の油絞業の独占権を強化していたが、1770(明和7)年にはこれを緩め、摂津・河内・和泉 3ヶ国での絞油業を認めた。しかし、寛政の改革の最中の1797(寛政9)年4月、幕府は、摂津・河内・和泉3ヶ国の村々の絞り油屋に対して、百姓から直買いした種物で絞った油を直小売せず、すべて大坂出油屋へ送り、百姓の日常使う油は村々の絞り油屋から直買しないで、大坂油仲買から買うように命じた。これは大坂油仲買の小売権を大坂市中だけではなく摂津・河内・和泉 3ヶ国にまで拡大させようというもので、大坂仲買株仲間の独占権を強化することで、幕府に入る運上金の増加を狙ったものであった。
 寛政の改革の項で見たように、この時代の幕府もまた、商業活動を抑えたのではなく、その活動を自己の掌中に収めることで幕府の利益の拡大を図っていたのだ。
 この政策が取られた結果、油の小売価格は暴騰し、種物との価格差が拡大したために百姓の経営が圧迫され、寛政9年11月には、摂津豊嶋郡41ヶ村の百姓は、請願を行い、菜種売買の自由とともに油直小売の許可が要求された。
 幕府が絞油仲間や油仲買仲間と組んで油絞りと売買の独占権を強化しようと動いたことは、すでに菜種栽培と油絞りと販売とを一貫した工程として握り始めていた、在郷商人と栽培農家の利益と直接ぶつかったのだ。 この政策を大御所時代の幕府もまた継続した。
 同様なことは、綿栽培と加工についても、幕府は行っていた。
 田沼時代に大坂の綿問屋仲間は、その繰り綿購入・加工販売権を、大坂市中から大坂近在の村々に広めようとして、幕府と結託して独占権を握った会所を設立しようとしたが、大坂近在の百姓の頑強な抵抗によって、その野望が挫かれたことは、近世編2の【29】で見たとおりである。しかし大坂三所綿問屋は寛政年間にも幕府と結んで自己の独占権の拡大をはかり、綿物の買い付け・販売を大坂市中だけではなく近在の村々や摂津・河内・和泉 3ヶ国にまで広げ、仲間以外の商人がこれらの地域から綿物を直接買い付け・販売することを出来なくしてしまった。
 このためこの地域には大坂商人以外が入り込まなくなったので、この地域の綿栽培農家は、その綿を大坂商人に売るしか道がなくなり、大坂三所綿問屋に価格も販売権も支配されるようになっていた。
 この大坂の問屋商人の特権を強化する政策は、大御所時代においても継続され、さらには強化もされたのだ。
 また菜種油については、1822(文政5)年7月、幕府は、これまで寛政3年の法令によって、大坂へ積送りを禁じられ兵庫への廻送を命じられていた安芸・周防など13ヶ国の菜種の兵庫廻送を禁止し、以後は大坂に廻送することを命じた。このため、兵庫菜種問屋と西宮灘目油江戸直廻問屋は休業に追いやられた。そして同時に改めて、諸国の菜種栽培百姓に対して、手作り・手絞りにことよせて他から菜種を買い取り油を絞ることを禁止し、自家用以外の油は勝手に売り払わず、大坂出油屋へ廻送することを命じた。
 これは菜種油の製造販売権を大坂の仲間組合一手に独占させようというもので、大坂の組合に対抗して、西国の菜種を購入して油を製造し、兵庫港から直接江戸などに販売して利益を収めていた兵庫港を拠点とする油商人を潰し、それと結びついて諸国菜種百姓を統制して、大坂油仲間の独占権を強化しようとするものであった。
 この動きに対しては、翌年1823(文政6)年6月に、摂津・河内・和泉の1107ヶ村が訴願を行い、油の自由販売などを要求したが幕府はこの要求を退け、百姓らはさらに1824(文政7)年には、摂津・河内・和泉3ヶ国の村の75%強にあたる1307ヶ村を組織して再度幕府に油の自由販売などを要求したが、これも幕府に却下され頓挫した。こうして幕府は、大坂周辺の村々や在郷商人だけではなく、諸国の在郷商人や菜種栽培百姓の犠牲のもとで、大坂の油問屋商人の独占権を強化し、幕府の財政基盤を強化しようとしたのだ。
 ただし綿については、1823(文政6)年の、摂津・河内2ヶ国の786ヶ村による綿自由販売要求の国訴が行われ、幕府は綿栽培農家の度重なる要求に屈して、大坂三所綿問屋の独占権を廃止して、綿の自由販売を認めざるをえなかった。
 また田沼時代には多くの独占権を持った会所がその経済効果や問題点をよく検討もせず設立されていたが、 寛政の改革時代においてはこの傾向は弱まり、問題の多い会所は廃止されたが、会所そのものを廃止したわけではなかった。そして寛政改革期の末年には再び低落する米価を上げるためにも大商人の仲間の力を借りようとし、例えば、菱垣廻船が新興の 問屋商人と組んだ新興の廻船に押されて衰退するなかで、再び菱垣廻船の独占権を拡大しようと図っていた江戸十組問屋と組んで、彼らへの特権の付与を反対給付として、十組問屋の財政運用所として設立された三橋会所を、買米の拠点と利用するなどの動きを拡大していた。この動きの頂点に、1813(文政10)年の江菱垣廻船積問屋仲間の結成があった。
 これは従来の10組問屋に所属しない新たな問屋集団をもその中に組み込み、65組の仲間・1271軒の問屋を連合した大株仲間であり、この仲間に下された1195の株を持たないものは、菱垣廻船での物資運送に新規に参入できないようにした独占体であった。そしてこの独占体結成によって幕府は、毎年、1万2000両 (約14億4000万円)の運上金をせしめたのであった。しかしこの政策は、上方から江戸へ下ってくる物資をこの仲間が独占することで、下り物の価格高騰に繋がるため江戸庶民には不評であり、菱垣廻船に対抗して兵庫と神奈川とを拠点として活動していた新興の廻船やそれと組んだ江戸周辺の新興の問屋商人からは、たびたび菱垣廻船仲間の独占権の廃止の訴えが、町奉行所へ出された。
 ある物品の特選販売権を握る会所や仲間の設立は、自由な商品の流通を妨げ、諸物価高騰を生み出すもとであったのだが、大御所時代の幕府は再び、積極的に会所設立を許可して独占権を与え、運上金を増加しようとした。
 たとえばそれは、1824(文政7)年の水戸産のコンニャクの独占販売権を持つ、蒟蒻問屋仲間の結成の商人などである。幕府はあいかわらず株仲間が市場統制機能を持つものと認識して、彼らの特権を認めることと引き換えに運上金をせしめるとともに、株仲間を通じて、商品の流通量や価格を統制しようとする田沼時代の政策に戻っていったのだ。

C大名も不正を行って財政窮乏から逃れようとした

 しかし商業の自由を規制して特定の団体に独占権を与えるという行為は、自由な商品流通を妨げて物価騰貴を起こしやすいし、拡大する商品生産に依拠して次々と商工業に参入してくる新興商人や百姓にとって、都市の問屋の独占行為は許すことはできない。従ってこの時代にも、こうした独占行為とそれを許す幕府の政策に対しては、厳しい批判 が起き、都市周辺の村々の連帯した力に依拠した訴訟運動によってしばしばこの政策は修正を余儀なくされた。
 このこともあって幕府は、貨幣改鋳による不正な利益獲得に動いたのだ。
 しかし通貨発行権を握っている幕府はまだ良い。通貨発行権を事実上持っていない諸藩は、幕府のような打ち出の小槌はないため、窮迫する財政難を回避するために他の手を打たざるをえなかった。諸藩においても江戸中期以降各藩で行われていた、藩の特産物の藩専売制という、藩の御用商人と藩のみが特産物の売買をする権利を有する独占体制の構築も、幕府の同様な政策に対する広範な反対運動と同様に、このころになると厳しい批判にさらされるようになっていた。
 このため諸藩が手を付けた方法が、違法な無尽講を主宰して、これによって莫大な不正な利益を上げるという方法であった。
  無尽講というのは、本来は金を相互に融通しあう互助組織であったが、しだいに富籤のような博打の要素が加わっており、違法とされていた。また大名は本来の互助組織としての無尽を行うことも幕府の法によって禁止されていた。
 しかし財政の苦しい諸藩は、これに手を染めていたのだ。
 これは諸藩の領地内で行われる場合も多かったが、諸国の産物が集まり、諸藩の蔵屋敷もある大坂で行われることも多かった。
 1829(文政11)年末から1830(文政12)年春にかけて、大坂で大がかりな違法な無尽講が次々と摘発され、そこに多くの大名家や旗本が関っていることが明らかにされた。これを明らかにしたのが、時の大坂東町奉行の高井実徳に指示されて摘発に動いた、大坂東町奉行所与力の大塩平八郎であった。
 この時大塩が摘発した不正無尽講に関ったものは、後に彼が蜂起した時に幕府老中に宛てて送った建議書に添えてあった資料によると、大名が三河西尾藩松平家(6万石)・若狭小浜藩酒井家(10万3千石)・丹後宮津藩松平家(7万石)・遠州相良藩田沼家(1万石)・美濃加納藩永井家(3万2千石)・相模荻野山中藩大久保家(1万3千石)・常陸牛久藩山口家(1万石)・日向延岡藩内藤家(7万石)・美作勝山藩三浦家(2万3千石)・出雲広瀬藩松平家(3万石)・上野館林藩松平家(6万1千石)・河内丹南藩高木家(1万石)・越後椎谷藩堀家(1万石)・伊予小松藩一柳家(1万石)・備中新見藩関家(1万8千石)・摂津尼崎藩松平家(4万石)・近江膳所藩本多家(6万石)・大和芝村藩織田家(1万石)・摂津麻田藩青木家(1万石)・伊予今治藩松平家(3万5千石)・備中足定藩木下家(2万5千石)・摂津高槻藩永井家(3万6千石)・大和新庄藩永井家(1万石)・伊勢苽野藩土方家(1万1千石)など25家 。他に御三家紀州藩の付家老・紀州田辺安藤家(3万8千石)、同じく紀州藩付家老・紀伊新宮水野家(3万5千石)、さらに尾張藩付家老・尾張犬山成瀬家(3万5千石)の大名並みの家臣と旗本が40家ほどが摘発されていた。
 この時摘発された不正無尽講は頼母子講とも呼ばれ、次のような仕組みになっていた。
 大塩が摘発した調書の筆頭に掲げられていた、相模荻野山中藩大久保家の場合を例にとって見てみよう。
 大久保家では3つの講を主宰していた。その一つは、90人を一組とした三組270人で構成されていた無尽講で、講に加入した者は毎月金一分(約3万円)を講元に3年間支払い (年36万円、3年で108万円)、3年間に年3回・合計9回の会合を開いて、そのつど籤を引き、当たり籤を引いたものは、掛け金以上の金子が戻ってくる仕組みになっていた。当たり籤は、 初回が、2両(約24万円)の籤27本と、5両(約60万円)の籤1本、それに13両(約156万円)の合計30本。2回目以降は、13両から20両(約156万円から240万円)の籤 1・2本と5両の籤が各1本と2両の籤が30本の計33本で行われ、9回の会合合計では、籤は294本となっていた。 また9回を通じても籤に一度も当たらなかった者には200両補填するなど、一件公平を期するかのような様相を見せているが、当たり籤を引けばすごい儲けであり、博打の要素を持った無尽講で、これが目当てで講の仲間に入った者は毎月掛け金を払い続けるのであった。3年間の講中で支払われた金は総額2430両余り(約2億9160万円)で、その内会毎の当たり籤で返金されたものが、1713両3分(約2億565万円)。従って講を主宰した講元の大名は、706両1分(約8475万円)の利益を上げる仕組みである。
 大久保家はこれ以外に2つの無尽講を組んでおり、それの儲けを加えると、講を主宰しただけで3年間で、2254両(約2億7048万円)の儲けがある仕組みになっていた。ぼろ儲けである。
 こうして諸大名や旗本は大坂で大規模な違法な無尽講を、無尽講のプロの商人とこれを仲介する奉行所役人と組んで行い、莫大な利益を、大坂商人や大坂周辺の在郷町の新興商人や百姓らから巻き上げていたのだが、大坂東町奉行所がこれを摘発しても、不正無尽は一向に止まなかった。
 なぜならば幕府は、大塩が調べた調書を闇に葬って諸大名の犯罪を不問に付し、内々に将軍から無尽禁止の沙汰を出して、以後大坂では無尽が行われないようにしたのだが、諸大名がそれぞれの国許で不正な無尽講を行うことは黙認された。そして大坂で摘発された犯罪の処罰としては、無尽講を主催した旗本で、大坂の破損奉行であった一場藤兵衛 他2名の下級役人を処罰してお茶鬼越し、実際に無尽講の運営にあたった一人である妓楼主人の八尾屋新蔵を 、無尽講を仲介した大坂町奉行所与力弓削新右衛門と組んで、市中の犯罪者の取締りを行う非人頭らとの間で不正を行い蓄財を行ったという別の事件で立件し獄門に処しただけであった。なお彼と組んで無尽講を行っていた 大坂町奉行所与力弓削新右衛門は犯罪を暴かれて自殺している。
 こうして諸大名や旗本の不正は見逃された。

D内外の危機の連動にも無関心な腐敗した政治の出現

 こうして大御所時代が始まるとともに、幕政の基本は、かつての田沼意次政権の時代と同じく、拡大する貨幣経済に依拠しながら、新興の商人に対抗して独占権を拡大しようとする旧問屋仲間層と結びついて、幕府の御 益を拡大しようとする政策に戻って行った。
 ではその結果はどうであったのか。
 積極的に幕府の御益の拡大を図った田沼時代の幕府は、諸藩や新興の商人・在郷商人・商業的農業を展開する百姓らと利害が競合し、彼らの激しい抵抗を受けたし、幕府が積極的に貨幣経済の拡大に手を貸したことは、社会の階層分化も加速して社会を極めて脆弱なものにしていった。そしてその脆弱化した社会の様は、天明の大飢饉において露呈し、幕府は膨大な数の流民の江戸流入と、激しい一揆・打ちこわしに直面し、これが田沼政権の崩壊に繋がったことは、先に近世編2【29】で見た通りである。
 大御所時代の幕府も結局田沼政権と同じ状況に陥るのだが、この点は「つくる会」教科書が、次の「飢饉の発生と天保の改革」の項で記述しているので次の項で論じることとし、ここでは田沼時代と同様に賄賂が横行して、次第に幕政の公平さが失われていったことと、大御所時代は、再び社会の分解の危機が深まる時代であったとともに、平行して対外関係の危機が進み、内外の危機が再び連動するのではないかと言う恐れを、人々にもたらしていたことを記してまとめとしたい。

(a)大御所まで賄賂を要求した腐敗した時代
 田沼意次の時代は、下の要求や提案を汲んで幕府行政を円滑化し幕府の御益を上げようと言う政策を幕府がとったため、幕府の要職についている人々にはこれまでにもまして、様々な政策立案を提案した人や自己の立身出世を図る人々から多くの賄賂が贈られ、これが田沼政治の悪弊とまでいわれた事は、先に近世編2の【29】で見たとおりであった。
 松平定信が老中首座になると、彼は幕府の有力者に贈賄することを禁じたが、彼が老中首座を退任し、さらに彼の同志である寛政の遺老たちが幕閣を退任し、将軍家斉とその側近が権力を握るようになると再び、賄賂が横行するようになった。
 そして大御所時代の一つの特徴が、将軍を初めとした諸大名が朝廷の与える官位の上昇をはかり、それによって家格の上昇を競ったことであった。大名といえども新たに領地を獲得してそれによって家の格を上昇させることは不可能な時代であったから、朝廷官位の上昇を競ったのである。その頂点として、将軍家斉が、1827(文政10)年3月に、現職の将軍としてはじめて太政大臣についた事態があった。将軍すら官位の上昇でその権威を競ったということだ。
 従って将軍にならって諸大名も官位上昇に励み、そのため先例を無視した官位上昇を実現するために、幕府有力者に賄賂を贈って官位上昇の斡旋工作をすることが流行った。
 1816(文化13)年に岡山藩主池田氏が少将に任官したとき、そのお礼として総額で約800両(約9600万円)が幕府有力者に贈られた。内訳は、将軍実父の一橋治済に100両(約1200万円)、将軍側近の御用取次ぎ2名それぞれに100両(約1200万円)、側用人の水野忠成に50両(約600万円)、老中首座の松平信明には100両(約1200万円)という具合であった。またこの時岡山藩が同様な例でいかほどお礼を配ったのかを問い合わせた広島藩浅野家の回答は、総額2000両(約2億4000万円)で、老中首座松平信明に200両(約2400万円)、御用取次ぎ2名それぞれに250両(約3000万円)、側用人水野忠成に200両(約2400万円)と水野家家老に200両(約2400万円)などと回答があったという。
 さらに1838(天保9)年に秋田藩主佐竹氏が少将に任官した際には、事前事後のお礼として2877両(約3億4524万円)使っている。内訳は、事前運動として大御所家斉に盆栽の松と500両(約6000万円)、側近の中野石翁に50両(約600万円)などを贈り、事後のお礼としては、大御所家斉に500両(約6000万円)、中野石翁とその家臣に350両余り(約4200万円)、小納戸頭取と御用取次ぎにそれぞれ200両(約2400万円)、さらに老中首座の水野忠邦に200両(約2400万円)贈っている。なんと大御所家斉自身が1000両(約1億2000万円)も秋田藩からせしめているのだ。
 賄賂の横行はこうした官位昇進の場合だけではなく、老中への就任を求めたり、財政の窮迫に苦しむ大名が幕府から拝領金を願出た場合など、幕政のあらゆる場面に及んでいた。こうして幕府の有力者へ贈られた賄賂は皆、諸藩の百姓や町人が納めた年貢や諸役の納入金が元であり、藩財政の危機に苦しむ藩主自身の家格上昇だけに、これだけの賄賂が惜しげもなく使われたのだ。そしてその結果としての藩財政の危機は、さらなる年貢増徴や藩の特産物の藩専売制などで、百姓や町人の利益を無視して藩の利益を図る政治によって埋め合わせされたわけだ。
 将軍や幕府閣僚との縁故関係や賄賂の多寡によって政策や人事が決められるようになれば、幕府政治は公平さを欠き、幕府政治自身が歪んだ偏ったものとなっていくのはあたりまえのことだ。

(b)深まる対外危機
 大御所時代は、寛政の改革期の末年の文化年間に深まったロシアとの軋轢も一応解決し、北からの脅威も薄らいだ時代ではあったが、イギリス船の来航と開港要求の高まりによって、寛政の改革期以上に対外的危機が深まった時代であった。
 1817(文化14)年9月には、イギリス船が浦賀に来航し、さらに翌1818(文政元)年5月には、イギリス人ゴルドンが浦賀に来航して、貿易を要求したように、中国を国際交易に引きずり出す動きとともに、日本をもまた国際交易に引きずり出そうと言う動きは加速していたが、幕府はイギリスの通商要求を拒否し、鎌倉で大砲の試射をしたり、1819(文政2)年1月には浦賀奉行の定員を2名に増員したり、1820(文政3)年12月に江戸湾防備を会津藩から浦賀奉行管轄に移す等沿岸防備体制を強化した。
 また通商要求と平行して、イギリスの捕鯨船が来航して食料・薪水を求める事件があいつぎ、沿岸の漁民がイギリス人と交易を行い始めたことは、キリスト教の拡大の恐怖とともに、幕府・諸藩を震撼させた。このため、1824(文政7)年7月に、常陸の国(茨城県)大津浜にイギリスの捕鯨船が来航し、上陸して薪水を求めた際には、水戸藩は、捕鯨船員12人を捕らえ、捕鯨船と交易を繰り返していた漁民300人を捕らえて処断した事件や、同年の8月には、薩摩領の宝島にイギリス捕鯨船が着岸し、捕鯨船員が上陸して略奪をする事件も勃発した。
 こうした状況の中で幕府は、1825(文政8)年1月には異国船打払い令を出して、異国船を見かけたら有無を言わさず打払うことが諸大名に命令された。通商要求の拡大と異国船との接触の増大に対して、幕府は鎖国を祖法として維持する攘夷主義的な強攻策を取った。この背景については、前項【30】で詳しく見たとおりである。
 この政策は極めて危険であり、欧米列強との激突をも生みかねないものであるのだが、大御所時代の末年の1837(天保8)年6月に、イギリス船モリソン号が通商を求めて浦賀に入港した際には、浦賀奉行はただちに異国船打払い令に従って打払い、モリソン号来航の目的が1年後にオランダから報告されるや、この事実が、蘭学者ら異国との関係に深い関心を持つ人々に漏れ伝わり、異国との対応を巡って、幕府内外で激しい論争が行われるに至った。
 この中で幕府は江戸湾防備の新たな体制を築くために西洋砲術家で蘭学者である幕府代官江川太郎左衛門らに相模湾などを巡視させる政策を取る一方で、この報告書の提出を巡って、田原藩家老渡辺崋山や蘭学者の高野長英らが、幕府の外交方針を批判した咎で捉えられる蛮社の獄と呼ばれる疑獄事件がおきた。これも幕府内の開国派・鎖国派相互の主導権を巡る争いの結果であったことも、前項【30】で見た通りである。
 時はまさに、イギリスが中国清王朝と戦争をはじめ、中国沿岸の港を占領し、中国を無理やり国際交易に引きずり出したアヘン戦争の前夜にあたっており、日本をめぐる諸外国の状況も風雲急を告げていた。そして、幕府の内外で、外交政策を巡って幾つもの異なった見解が表明され対立を深め、幕府の対外方針も二転三転するようになっていったのだ。
 大御所時代とは、次の項で見るような内政の危機と並んで、このような外交の危機が深まり、日本国家のありかたが鋭く問われる時代になっていたにもかかわらず、幕政は将軍・大御所家斉とその側近を中心とした、縁故関係と賄賂で動く、極めて硬直した状況になっていた時代だったのだ。
 この点で「つくる会」教科書が大御所時代を記述し、寛政の改革のような復古主義ではすでに封建領主体制の維持はできないことを示唆したことは優れたものであるが、残念ながらその記述は、先に見たような極めて主観主義的なものであるとともに、この時代が内政の危機と外交の危機が連動し始めていた時代であったことも全く記述しないと言う欠陥を持っていた。この点が改められる必要があろう。

:05年8月刊の新版は、寛政の改革に続いて大御所時代を記述したが、その記述は旧版よりもさらに後退し、「ふたたびぜいたくな気分がただよい」としか記述しないものになってしまった。新版では寛政の改革についての記述で、その改革の要として質素倹約政策があったことは全く記述しないものになっていたため、両者あわせて、寛政の改革の復古主義ではすでに立ち行かない時代であったことを示唆する記述は、まったく影を潜めてしまった。

:この項は、 北島正元著「幕藩制の苦悶」(1966年中央公論社刊・日本の歴史代18巻)、 鈴木敏夫著「江戸の本屋・上下」(1980年中央公論新書刊)、藤田覚著「松平定信ー政治改革に挑んだ老中」(1993年中央公論新書刊)、 笠谷和比古著「「国役普請論」(1993年吉川弘文館刊・笠谷著「近世武家社会の政治構造」所収)、中野三敏著「十八世紀江戸文化」(1993年中央公論社刊・日本の近世第12巻「文学と美術の成熟」所収)、桑原恵著「古典研究と国学思想」(1993年中央公論社刊・日本の近世第13巻「儒学・国学・洋学」所収)、藤田覚著「幕末の天皇」(1994年講談社選書メチエ刊)、 鈴木浩三著「江戸の経済システム」(1995年日本経済新聞社刊)、深谷克己著「18世紀後半の日本−予感される近代」(1995年岩波書店刊・日本通史第14巻近世4所収)、藤田覚著「19世紀前半の日本−国民国家形成の前提」 ・大口勇次郎著「国家意識と天皇」(1995年岩波書店刊・日本通史第15巻近世5所収)、 佐藤常雄・大石慎三郎著「貧農史観を見直す」(1995年講談社現代新書刊)、菊池勇夫著「近世の飢饉」(1997年、吉川弘文館刊)、大石学著「吉宗と享保の改革」改定新版(2001年東京堂出版刊)、 藤田覚著「近世の三大改革」(2002年山川書店刊・日本史ブックレット48)、タイモン・スクリーチ著「定信お見通し−寛政視覚改革の治世学」(2003年青土社刊)、藤田覚著「近代の胎動」(2003年吉川弘文館刊・日本の時代史第17巻「近代の胎動」所収)、小学館刊の日本大百科全書・平凡社刊の日本歴史大事典・岩波歴史辞典の該当の項目などを参照した。


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