「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第3章:近世の日本」批判32


32: 迫り来る西欧の侵略と格差社会の爆発に怯えた天保時代ー江戸後期の人々は内外の危機に如何に対処したのか!

 幕府の政治改革の項は、「寛政の改革と大御所時代」に続いて、「飢饉の発生と天保の改革」について記述している。
 この項は、最初に天保の大飢饉と大塩の乱を記述し、そのあとで天保の改革について記述してる。従ってここでは、教科書の記述に沿って、二つに分けて考察してみたい。

(1)天保の大飢饉と大塩平八郎の乱−天は悪政に怒って天罰を下した!

 最初の天保の大飢饉と大塩の乱についての教科書の記述は次のようなものだ(p158・9)。

 1833(天保4)年から6年間ほど、日本は凶作におそわれ、深刻な飢饉におちいった(天保の飢饉)。各地では、飢饉 に対する藩当局の対策を問題にして、百姓一揆や打ちこわしがおこった。大阪でも餓死者が出たが、陽明学を学んでいた大塩平八郎は、豪商が幕府の命令で米を買い占めて江戸に送っていたことに怒り、1837年、門弟や民衆をつれて豪商を襲撃した。暴動は一日で鎮圧されたが、大塩が大阪町奉行所のもと与力だったことが、幕府に大きな衝撃を与えた(大塩の乱)。

@問題の所在が明確化されない不正確な教科書の記述

 教科書の記述は簡潔にきちんとまとめられたもののように見えるが、実はそうではない。多くの欠落点を含む不正確なものである。
 どこが不正確かというと、一つは天保の飢饉の問題である。
 天保の飢饉からおよそ50年ほど前の天明・寛政年間に、老中松平定信の主導下で、郷や町毎に飢饉に備えた食料貯蔵庫が作られ、領主も住民もそれぞれ応分の負担をして、その運営の方法などが定められたことは、前項の寛政の改革のところで記されている。ではその食料の備蓄は、50年後の大飢饉に対して有効であったのか、そうではなかったのか。近年の学会で、封建的社会政策と認識されたこの政策が、有効に機能したのか機能しなかったのか。そして有効には機能しなかったのだとしたら、その原因は何なのか。ここを極めることによって、この時代の社会の抱える問題点にこの時代の政治制度が有効に対処しえたのかしなかったのかが明らかになり 、こうしてこそ封建制度という社会制度の限界点が見えてくるはずである。
 この視点が、教科書の記述からは完全に欠落している。
 後に詳しく検証するが、天保の飢饉は天明の飢饉とは違って何年もの間凶作が続いたもので、全国的には6・7年、所によっては10年もの間凶作・不作が続いたもので、数年間に過ぎなかった天明の飢饉以上の餓死者や病死者を出しても不思議ではなかった。しかし天保の飢饉での餓死者・病死者は、天明の飢饉でのそれの数分の1でしかなく、この背景には、50年前に設けられた制度がそれなりに有効であったことを示唆している。しかし実際には、天保年間においては飢饉対策の不十分さから、各地で一揆や打ちこわしが激発しており、50年前に設けられた食料の備蓄制度でも対応できないほど社会の矛盾が蓄積していたことが、ここからわかるのだ。
 村々は50年前以上に貨幣経済に飲み込まれ、村の中に蓄えをほとんど持たない極貧層を多数抱えていた。そのため備蓄倉庫の食料だけでは不足したし、しかも凶作が何年も続いたのだから、村々では食料が完全に底をついてしまった。そうなれば日々の糧を得るために飢えに苦しむ人々は、村の富裕層や領主に迅速なお救いを求めるしかないのだが、富裕層や領主に、松平定信が期待したような仁愛に満ちた為政者としての自覚が充分に育っていたわけではなかった。村の富裕層も領主も金儲けに汲々としていて、民の苦難を救うことなど眼中に無いものが多数居た。
 このため未曾有の飢饉が襲ったとき、対応が後手にまわった地域があったのだ。そして都市でも状況は同じだが、都市がさらに悲惨だったのは、50年前以上に大量の極貧層が流入し、都市人口の半数近くに至るほどの日々の稼ぎでやっと暮らす人々が、都市には大量に集まっていたのだ。その上、幕府は、天明年間の江戸での打ち壊しに懲りて、江戸の米価を下げることだけに汲々として、ために江戸への物資集散地である大坂には過重な江戸への廻米を命じ、上司の命令にのみ従って民の困窮を省みない町奉行が居たために、大坂では大量の餓死者を出し、打ちこわしまで起こしてしまったのだ。
 飢饉の発生を通じて社会の危機的な状況を描くのであれば、こうした社会状況の変化と政治の対応の様を正確に記さねば、時代の様相を正しく捉えることはできない。
 さらに教科書の記述の不正確さの二つ目は、大塩の乱の性格の問題である。
 教科書の書き方では、大塩平八郎は、豪商だけを襲撃したかのように受け取れる。そして大塩が怒ったのは、米の問題だけであったように受け取れる。
 たしかに実際に大塩が襲ったの豪商だけなのだが、計画では豪商らと組んで無謀な江戸廻米を実行する大坂町奉行を襲って殺害した上で豪商に「天誅」を加え、これによって幕政改革を促そうとするのが大塩の意図であった。後に詳しく論じるが、大塩が蜂起の直前に江戸の林大学頭の用人にあてて送り老中への転送を願った建議書が、近年になって幕府代官江川太郎左衛門の文庫から発見されている。それによれば、大塩は 、前の【31】項の「大御所政治」のところで指摘したような、大名らが違法な無尽講主催によって不正な利益を上げていた事実を摘発しており、この違法無尽に当時の幕府老中の多くが関っていた証拠を握っており、 この証拠を建議書に添付していた。そして民を省みないで不正を働く為政者の所業に怒った天が下した罰がこの大飢饉だとして、老中らの一新と幕政の改革を建策していたのだ。
 だからこの大塩の決起は幕府に大いに衝撃を与えたのであって、暴動を起こしたことだけが衝撃を与えたのではなかった。
 ここをもっと正確に記述してもらいたいものである。

A貨幣経済の発展と政治の無策によって生まれた天保の大飢饉

 では天保の飢饉とはどのようなものであったのか。その実態についてまず見ておこう。

(a)連年の凶作と大飢饉の実態
 この飢饉は、1832(天保3)年の凶作もしくは、翌1833(天保4)年の大凶作から数えて、1838(天保9)年の凶作もしくは、翌1839(天保10)年の秋の豊作によって持ち直すまでの、7年間ほど続いたものだと当時から認識された大災害であった。
 1832(天保3)年は奥羽の日本海側では凶作であったが、翌1833(天保4)年は関東や奥州の大風雨などの災害により全国的に大凶作となり、各地の収穫は平年より大幅に激減した。奥羽地方は平年の30%ほど、関東地方は平年の50%ほど、五畿内は平年の60%ほどしか収穫できず、他の地方も平年の40%から60%程度の凶作であった。
 翌1834(天保5)年は全国的に豊作で一息ついたが、再び1835(天保6)年には、全国的に平年の50%程度しか収穫できない凶作が襲い、さらに翌年1836(天保7)年は全国的に40%程度しか収穫できない大凶作が襲い掛かった。特にひどいのは、奥州の28%、ついで山陰地方の32%、さらに羽州(奥羽の日本海側)の44%、五畿内・東海道・東山道の44%であり、全国的に飢饉がおこり、とくにひどかった奥羽地方では、死者が10万人にも及んだという。
 そして天保7年の諸国大凶作によって飢饉は翌1838(天保8)年の春まで続き、村や都市で多くの餓死者を出してしまう。
 さらに凶作は一部の地域では続き、奥羽では1839(天保9)年も凶作が続き、秋田では平年の60%の収穫にまで落ち、再び奥羽地方では多数の死者を出したのであった。
 天保の大飢饉は、このように連年に渡って凶作が続いて飢饉が継続的に起きたわけであったが、それでも天明の大飢饉に比べれば、死者が少ないことに特徴があった。
 もっとも被害の激しかった奥羽地方で見ると、1783・84(天明3・4)年の大飢饉の餓死者は、弘前藩10万人余り、八戸藩3万人余り、盛岡藩6万人余り、仙台藩15万人余り、相馬藩1万人余りと記録されており、全体で30万人以上の人命が失われた。しかし天保の大飢饉では、弘前藩が3万人余り、秋田藩では5万人余りと記録され、奥羽地方全体で10万人前後あるいはそれを少し上回る程度と見られている。前後6・7年も続いた飢饉であったにも関らず、2年間の天明の大飢饉に比べれば死者は3分の1程度であったのだ。
 大規模で長期間にわたる飢饉であったにも関らず死者が少なかったのは、奥羽地方の各地に窮民を飢饉から救ったとして褒め称えられた幕府代官が多くいたことにも見られるように、郷村に蓄えられた備蓄穀物の配布や、すばやく幕領の山を開放して草木の根などを掘って食料を確保したり 、疫病に対処するために薬草を採取するなどの措置が取られたことが背景にあったと考えられている。

(b)各地で起きた窮民による打ちこわし
 しかし飢饉対策は一定程度の効果を見せたとは言え、連年の凶作は米価の急騰を生み出し、備蓄が少ないわりには窮民の多い町では多数の日々の食料に困る窮民を生み出した。そのため飢饉の当初から、町や商業的農業の発展した村々で多くの打ちこわしを引き起こしていた。
 1833(天保4)年には、8月に陸奥(青森・岩手県)雫石・日詰・青森・大迫・盛岡・毛馬内町で打ちこわしがおこり、9月には、播磨・丹波(兵庫県)両国の幕府・姫路藩領など加古川筋の窮民数万人が銀貸・酒屋などを打ちこわし(加古川一揆)、11月には若狭国 (福井県)小浜藩の百姓が、小浜町の商家を打ちこわし、下野国(栃木県)那須烏山藩の百姓が、年貢半減などを求めて城下へ強訴をしかけ、商家を打ちこわしている。また1834(天保5)年には、2月に讃岐国 (香川県)の高松藩の宇多津・坂出村の貧民が打ちこわしを起こして周辺町村に波及し、6月には大坂で米屋12軒が打ちこわしにあっている。さらに、1836(天保7)年になると打ちこわしは拡大し、7月には、陸奥国石巻・渡波町、武蔵国川崎宿 (神奈川県)、相模国(神奈川県)大磯宿、伊豆国(静岡県)下田町、信濃国(長野県)飯田町、加賀国(石川県)宮越・本吉・小松町、越前国(福井県)勝山町、伊勢国 (三重県)射和村で打ちこわしが起こり、8月になると、甲斐国(山梨県)の都留・山梨・八代・巨摩郡の幕府領らの窮民数千人が300軒あまりの商家を打ちこわし(甲州騒動・郡内騒動)、9月には三河国 (愛知県)の加茂・額田両郡の幕府領などの百姓1万数千人が、大規模な打ちこわしを行った(加茂一揆)。
 連年の凶作による飢饉の継続は、このような備蓄穀物の放出や救荒対策の実施では対処しえないほどの窮民を各地に生み出していったため6・7年に渡る飢饉の後半になればなるほど 、各地で打ちこわしや一揆が続発したのだ。
 そしてこの動きは翌1837(天保8)年2月の大坂での大塩平八郎の乱を引き起こし、さらに各地での一揆・打ちこわしの勃発へとつながっていった(以上、岩波日本史辞典所収「近世一揆・打ちこわし年表」による)。

(c)急速な格差の拡大と政治の無策が生み出した打ちこわし
 しかしこの全国的な打ちこわしの勃発は、単に凶作続きによる米価の急騰が原因であったのではなく、町に膨大な数のその日暮らしの窮民が流れ込んでいたことや、商業的農業の発展により、飯米の全てを市場に頼る百姓を生み出したことのような、この間の社会の急激な変化が背景にあった。そしてこれに加えて、 幕府や諸藩が、急激な社会の変化に対応した社会的な生活保障政策を実施せず、飢饉にあたって何の救済策を実施しないどころか、足元の町が窮民で溢れかえっているのに、利益を求めたり、幕命に従ったりして米を江戸に廻送して江戸の米価を下げることだけに汲々とした商人や役人の作為が背景にあったのだ。
 このあたりの状況を、1834(天保5)年の大坂の米屋打ちこわし、1836(天保7)年の郡内騒動と加茂一揆、そして1837(天保8)年の大塩の乱を引き起こした大坂での飢饉対策の実態を検討することを通じて見ておこう。

【天保5年の大坂の打ちこわしと奉行所の対応】
 1834(天保5)年の大坂での米屋打ちこわしは、米価高騰のために、5月になって貧民350人ほどが大坂三郷と村方の境にある玉造稲荷に集まって米屋を襲おうと計画し、役人になだめられて中止した事件であった。
 大坂は諸国から米が集まる場所であったが、幕府は江戸でも天保4年秋には1石(玄米で約150s)122.2匁(1両=銀64匁として、約22万8000円)と暴騰した米価高騰を抑えて将軍のお膝元での打ちこわしの勃発を抑えるために、大坂から大規模な江戸廻米を実施した。このため大坂とその周辺での米価は暴騰したのである。
 1833(天保4)年の8月の米価は、加賀米は1石85匁(玄米約150s=約15万7500円)、筑前米は1石92匁(玄米約150s=約17万2500円)、肥後米は1石105匁 (玄米約150s=約19万6800円)と従来の倍近くに高騰し、市中には不穏な空気が流れ、打ちこわしの流言や張り札がなされるようになった。
 この事態に対して大坂町奉行所は、米価抑制のために町々や自分持ちの囲い米の売り払いを奨励したり、酒造額を例年の3分の2に制限するなどの措置を講じたが、米価高騰はやまず、9月には大坂近辺の加古川筋の窮民数万人が5日間にわたり、米を買い占めた銀貸・問屋・酒屋など160軒を打ちこわした 。この時一揆勢は、「天下泰平我等生命者為万民」「為万人捨命」と記した幟を立て、自らの行為の正当性を主張したといわれる。
 このため、大坂でも打ちこわし予告の張り紙などがなされ 市中の空気はさらに不穏なものとなった。奉行所は、江戸への廻米を続けても大坂へ流入する米の量が増えれば、米価は安定すると見込んでいたのだ。
 この事態に町奉行所は、備蓄米2300俵を安価で払い下げ、その売り払い代金を低金利で貸付たり、富豪には自費で窮民への施しをするように促した。このとき飢饉対策にあたって、すでに町奉行所与力を退いていた大塩平八郎に対策を諮問しながら取り組んだのが、西町奉行矢部駿河守であった。

:米2300俵は籾米。1俵は4斗=0.4石。約1150石。玄米にすると575石。平年の1石70匁で売ったとすれば、629両、約7548万円。。

 しかしそれでも米価は安定せず、翌1834(天保5)年になっても暴騰が続き、その中で米屋打ちこわしが計画されたのである。
 大坂と周辺地域の米価暴騰は、江戸の米価を下げるための江戸への廻米実施が原因であったのだ。それでもこの時に大坂で大規模な打ちこわしが起きなかったのは、町奉行が周辺諸藩からの大坂廻米の増加に奔走したために秋には米価も安定したからであり、この年の年末には、年越しのための米112万3000余俵の蓄えもできて、大坂市民も落ち着いたのだ。

:籾米112万3000余俵は、44万9200石。玄米にして22万4600石。一人が1年生きていくに必要な米は、玄米約1.68石=約252sだから、342人の1年分。半年分として688人分。3ヶ月分として1376人分。1ヵ月分として4128人分。13万3690人の1年分。当時の大坂の人口は町方だけで41万人ほどだから、4ヵ月分ほどの蓄えがあったということになる。一人が1年生きていくに必要な玄米の量は、1842(天保13)年5月に、ときの江戸北町奉行の遠山景元が町会所の備蓄米の充実を説いた上申書の中の数字に依拠した。

【天保7年の郡内騒動】
 1836(天保7)年の8月に起きた郡内騒動の背景には、騒動がおきた天領の甲斐国郡内地方(山梨県の北・南都留2郡と富士吉田、都留、大月の3市)が山がちなために畑作地帯で、年貢はすべて金納で、百姓たちの多くは絹織物郡内織の収入と馬方、行商、日雇い、山稼ぎなどによる副収入で、峠を越えた国中地方(山梨県の甲府盆地と周辺の山ろく地帯)の米穀商から飯米を買ったり年貢を納めたりしていたという、この地方の特色があった。 しかも天保初年には絹の値段が下がり、絹価は従来1疋(2反・約21m)1両弱(約12万円弱)であったのが3分2朱(約10万5000円)ほどに下がり、逆に米価は凶作続きであったことなどから1斗 (玄米約15s)1両1分余り(約15万円余り)に暴騰した。
 さらにこの時、国中地方の米穀商は、江戸の米価暴騰に際して幕府がだした江戸廻米令に便乗して米の買いだめ売り惜しみを行い、郡内地方に対して「穀止め」を行ったため、食料を得られない貧しい住民を中心に多くの郡内地方の民が餓死したり疫病死したりした。郡内地方の人口6万7004人のうち、疫病死だけで1万7千余人にも上ったという。郡内地方の百姓らは、国中の米穀商に対して交渉したり代官所への嘆願を繰り返したがまったく効果はなかった。
 こんな状況の中で、1836(天保7)年7月17日に、郡内領谷村(やむら)(山梨県都留市・石和(いさわ)代官所の出張陣屋が置かれた)付近の百姓が、谷村の米穀商・両替屋などを打ちこわし、さらに甲州道中16宿とその周辺の村の百姓らは、8月20日に白野宿(山梨県大月市)の天神坂林に集まって頭取と綱領を決め、翌21日の暁方に笹子峠を越えて国中平野に押し出した。この過程で周辺の困窮した百姓らが多数合流し、一揆勢は総勢2・3千人に膨れ上がった。
 このため一揆勢は当初の目的としては米穀商に借米をする予定であったのが統制がとれなくなって、無差別の打ちこわしが始まり、斧・鋸・鳶口・竹槍などで武装した一揆勢が旗2・30本をうちたて、鉦や太鼓を打ち鳴らしてときの声をあげて乱入した。
 郡内の一揆勢は一揆の行動が当初の綱領から逸脱したため、翌22日には郡内地方へ引き上げたが、国中地方の百姓らは打ちこわしを継続し、日雇人、無宿者、浪人、神主、修験者、被差別部落民まで加わって、武装された甲府勤番士や、代官所の役人らと交戦してこれを退けて打こわしを続け た。 
 その後一揆は甲州全体に拡大し、多くの米穀商、質屋、酒屋、太物(ふともの)屋、大地主、豪農の居宅が打ちこわされたが、信濃(長野県)の高島藩、高遠藩、および駿河(静岡県)の沼津藩よりの出兵約900が出動し、鉄砲を乱射してようやく鎮圧された。打ちこわしにあった村数は118、打ちこわされた家数は319であったという。
 この一揆は、天領において未曾有の規模に発展した大一揆であり、貨幣経済に包摂された地域には膨大な貧困層が滞留しており、凶作が続いた場合には、これに備えた食料の備蓄や社会崩壊を防ぐための迅速な社会政策の実施が 肝要であることを広く知らしめ、多くの知識人に体制の危機と為政者の腐敗、さらに下民の怒りとその力の巨大さを知らしめたものであった。したがって、幕府は3年間にわたる探索の末に逮捕者は1100余人にも及んだが、処罰されたものは298人に過ぎず、一揆に参加した村からは罰金が徴収され、さらに富裕層からは冥加金を集めて困窮者の救済にあて、年貢を3年間大幅減額の処置をとって人々を慰撫するしか、収める手立てがなかった。

【天保7年の加茂一揆】
 1836(天保7)年9月に、三河国(愛知県)加茂・額田両郡で起きた大規模な一揆(加茂一揆)の場合も、状況は郡内騒動と似通ったものであった。この地方も畑作地帯であり、百姓は飯米を米穀商から購入しなければならない地域であって、この年の9月の米価は異常な高値であり、通常は1両 (約12万円)で1石(玄米で約150s)以上購入できるのに、1両で4斗5升(玄米で約67s)しか買えず、凶作続きによる米価上昇は即餓死を意味した。
  しかし米の異常な高値は、甲州と同様に、この年の8月に三河一帯を大暴風雨が襲い各地に甚大な被害を及ぼしたことによる凶作が原因であっただけではなく、この地域にも急速に発達した在郷町の商人らの買占めと、通常はこの地域に大量に米を出荷する隣国美濃国 (岐阜県)岩村藩の米が、同藩が米の高値を見越して津留を行い、事実上の買占めを行っているからでもあった。
 9月20日夜、加茂郡の九久平村・下河内村・松平村らの百姓らは村の代表を集め、米・酒・雑貨の安売りと頼母子(無尽)講の2年間休会を求めることに決したが、滝脇村の庄屋が百姓の集会への参加を阻止したため、集会参加者らはただちにこの庄屋の家を打ちこわした。これをきっかけにして一揆は、村々の米穀商や酒屋・庄屋宅を打ちこわしつつ加茂郡一体に拡大し、一揆参加者は1万数千人にも達した。そしてこの地域を領する挙母・岡崎などの藩や旗本・寺社などの領主に対して年貢の皆金納や蔵米の廉価払い下げなどを要求して 、この地域の中心的な在郷町・足助町などの多数の商家を打ちこわしつつ、24日には挙母藩の城下挙母町(現愛知県豊田市)に侵入しようとした。しかし、挙母・岡崎・尾張らの諸藩兵が矢作川右岸に待ち構えて鉄砲を乱射したために一揆は四散し、翌25日にはさしもの大一揆も鎮圧された。
 この一揆の背景にも凶作だけではなく、凶作による米価上昇に便乗した米穀商らの買占めや売り惜しみが存在するとともに、飢饉に備えた社会政策が充分に行われていなかったという政治の無策が存在した。
 事実この両郡の村でも、庄屋などの村役人層が凶作と米価高騰に鑑みて早めに自家に保存してある食料や村の蔵に保存してある食料を村人に分配したり、早めに領主に掛け合って年貢半減とともに救い米の給付を願出て村人に分配したり、同様の措置を早急に実施し、一揆勢からの一揆参加要請を拒否して家を焼かれた百姓には村の費用で保障するなどの政策を約束した村では 、一揆に参加する貧しい百姓はいなかったのだ。
 しかしこの地域は譜代小藩の領地の間に幕府領や旗本領が点在し、特に幕府領の村々は年貢の負担の重さから村人の貧富の格差が拡大している所へ、凶作を予想した村の指導者らが早めに幕府領を 治める代官所やその手代らに対策を講じることを進言したにもかかわらず、代官所やその手先が動かなかったことが、大規模な一揆を起こした背景にはあった。代官所やその手代の駐屯する所にも、飢饉に備えた食料の大規模な備蓄は無かったからだ。
 結局幕府領の村では、飢饉を予想しての村人への食料配布は、幕府の力に頼るのではなく、村役人らの自力や、彼らが各所から借金して米買い付け費用を捻出し、周辺の村々町々、さらに国境を越えて美濃国などへ直接出向いて米を買いつけ、それを村人に配るしかなかったのだ。
 またこの一揆の特徴は、その指導者が、「汝等よく聞け、金銭のあるにまかせ多くの米を買しめ、貧乏人の難渋を顧みず、酒となして高価にぞ、金銭をかすめ取たる現罰逃るべからず、今日只今、世直し神々来て給ふ。観念せよ」と呼はって富豪の家や蔵を破壊したと記録には記される(「鴨の騒立」)。また 一揆に襲われるのを恐れて防備の体制を固めた商家などに対しては、「こざかしい、其竹鎗は何にするのじゃ、世直しの神に向っては、ヨモ動く事はなるまい。此方共は喧嘩口論、人を害する所存かつてなし。願の筋叶へばよし、不承知なれば、其家に挨拶する斗り也。世直りの神を招待に出たか。もし防ぐ了簡ならば、現罰を与ん 」と唱えて一揆勢は吾先きに進み出たと記録されている(同上)。
 つまりこの一揆では「世直し」が主張されたと記録されたのであり、世直しとは世の為政者や富豪の腐敗によって現世が住みにくいものとなったと認識し、彼ら為政者や町村の有力者(有徳人)に頼って生活を立て直すのではなく、神仏の力を借りて彼らの悪政を断罪するという思想が示されていたのだ。
 これほどに窮民の目から見たとき、社会はあまりに腐敗していた。
 したがってこの一揆は、処罰されたものは1万1457人にも及ぶ大一揆であり、先の郡内騒動とともに、幕府・諸藩の為政者や知識人に「世の乱れ」の典型例として大きな衝撃を与え、水戸 の徳川斉昭や大塩平八郎らの幕政改革要求を生み出す背景となった。

【天保7年の大坂での米価対策】
 全国的に40%程度しか収穫できない大凶作によって起きた1836(天保7)年の飢饉は、大坂に深刻な危機をもたらした。
 この年の9月の米価は、中国米は1石152匁5分(玄米約150s=約28万5900円)、肥後米は1石162匁5分(玄米約150s=約30万4700円)、筑前米は1石130匁 (玄米約150s=約24万3700円)、広島米は1石145匁(玄米約150s=約27万1900円)と、前の年の1石84匁(玄米約150s=約15万7500円)平均に比べて大幅な上昇を示し、1833(天保4)年の飢饉の時の米価をもすでに大きく上回っていた。
 町奉行所は、8月末には将棊島(しょうぎじま)の囲米400石(約1000俵)のうちの300俵(籾米120石)を安売りし、9月中旬には川崎籾蔵を開いて一人あたり白米5合を42文と安売りした。

:120石の籾米は玄米にして60石。35人の1年分。一月分として420人の食料に過ぎず、飢饉で米価が高騰しているときに、万余のその日暮らしのものがいる大坂では、これでは焼け石に水である。白米5合は約0.675s。一人の1日分の食料。金1両(約12万円)が銭4000文として1文30円。白米5合が42文であるから、約1260円。中国米の玄米1s約1906円、筑前米の玄米1s約1624円に比べれば安価だが、余りに高価であり貧民には手が出せない価格。

 しかし余りの米価高騰に蓄えも底のついた大坂市民の多くがこの価格でも米を買えなかったのか、わずか10日後には安売りを中止し、無料払い下げに切り替えざるをえなかった。そしてこれでも行渡らない窮民のための食料調達のために大坂の豪商に施行を求めたが、10月に豪商たち84軒が応じた施行の総額は、総額金5両 (60万円)、銀10枚(1分銀10枚として約30万円)、銭1万5485貫348匁(1548万5348文、約4億6456万4404円)と、天保4年のそれの3分の2に過ぎない 低額であった。

:施行金の合計は約4億6546万4404円。一軒平均で553万円余り。一番安い筑前米を買ったとしても、玄米で1906石。1134人の1年分。半年分としての2268人分。3ヶ月分として4536人分。1ヵ月分としての1万3608人分の食料を買い入れられる量にすぎない。これでは焼け石に水だ。

 秋になって諸国で収穫された米が大坂に廻米されると期待されたが、全国的な凶作のためにそれもわずかで、11月になると乞食の行き倒れが日に40人、多い日には乞食の餓死者が170人にものぼり、大坂城の堀に身投げするものがあとを断たないため、監視の番人を増やしたという。ついに9月24日の夜、高津五右衛門の雑穀屋が打ちこわしをかけられ、市中は騒然とした雰囲気となった。
 しかしこの事態に対して奉行所のとった対策は、ほとんど効果がなかった。
 大坂町奉行所は、大坂市中の米を確保するために大坂3郷から他所への米穀積み出しを例年の4分の1に制限したが、この措置では大坂の米不足を解消することはできず、かえって大坂から米の移入に頼っていた他の都市、京都・堺・伏見やそれぞれの周辺の村々の米不足を深刻化させ、京都の米価は11月上旬には米1石190匁 (玄米約150s=35万6250円)、下旬には米1石200匁(玄米約150s=37万5000円)と跳ね上がり、京都などの都市でも乞食の群れが大勢市中に徘徊するに至った。そしてこの大坂周辺の都市や村々の飢えた人々は大坂市中に潜入してわずかの米を買い出そうとしたが、奉行所の取り締まりは厳格で、買出しに来た窮民が多数逮捕され、中には処刑されたものまでいた。
 しかも、こうして大坂以外の都市や村々を犠牲にする他所への米穀積み出し制限をする一方で町奉行所は11月29日に、大坂3郷以外の村々で米穀を所蔵するものが、問屋であろうが個人であろうが、自由に江戸の問屋や個人に米穀を売買することを許可し奨励したのであった。これは全国的な凶作のために江戸の米価も急速に跳ね上がり、 秋には米1石197.8匁(玄米約150s=37万875円)と通常の倍以上に跳ね上がり、翌8年春には1石231.3匁(玄米約150s=43万3687円)にまで暴騰した。このままでは将軍のお膝元で大規模な打ちこわしが勃発しかねないために、幕府が大坂町奉行に対して江戸廻米を命じてきたからであ る。そして、12月になると幕府は、勘定所御用達の米商を大坂に派遣して、江戸へ送るための買米にあたらせた。大坂町奉行所は、表向きはこの買米に関係するなと人々に命じておきながら、裏では大坂西町奉行所与力の内山彦次郎に命じて江戸廻米に尽力させ、内山は米穀商と図って大量の米を買いつけ、江戸に送ったのである。
 このため大坂の米価はさらに高騰し、11月になると市中では乞食の子どもたちが1日に2・30人も餓死するに至っている。
 このように大坂町奉行は、幕府の命令を実行するために、大坂の豪商らと図って大坂の市民や周辺都市の市民・百姓を見殺しにしたのである。時の町奉行は老中水野忠邦の弟・跡部良弼であり、跡部は隠居した東町奉行所元与力の大塩平八郎の窮民救済嘆願も受け付けず、隠居の身で御政道に口を挟むのならば強訴の罪に処すると脅したと伝えられ、なんら窮民対策をとらなかった 。
 大坂市中の米不足は年が明けた1837(天保8)年になっても深刻で、米価は米1石に159匁(玄米約150s=29万8125円)と相変わらず高騰したままであった。市中には強盗が徘徊し、おりからの寒さのために、多くの餓死者・行き倒れが出たのだ。
 この飢饉にあたって大坂町奉行と豪商が結託して、大坂市中や周辺の都市・農村の人々を見殺しにした政治の作為が、翌2月に元大坂東町奉行所与力であった大塩平八郎が反乱を起こす直接の原因となった。

B貧富の格差が拡大した江戸後期の都市や村々

 以上のように、天保の大飢饉によって各地で起こった打ちこわしや一揆の背景には、都市や村において貧富の格差が拡大し、都市や村に、多くのその日暮らしの貧しい人々が大量に存在しているという社会の変化が背景にあった。そしてこの社会の変化に政治が対応していなかったことが大規模な打ちこわしや一揆を引き起こした直接の原因であった。

(a)貨幣経済の進展と過酷な年貢収奪で格差が増大した村の姿
 天保の大飢饉の前後の村の姿がどんなものであったのか。この点を加茂一揆の吹き荒れた地方でありながら、村役人らの努力で一揆に決起することもなかった三河国設楽郡稲橋村(愛知県北設楽郡稲武町)を例にとって検討しておこう。
 加茂一揆が吹き荒れた地方は、山がちで水田の少ない畑作地方であるにもかかわらず、年貢は田畑ともに米納であり、しかも山間部の米は質が悪いため、より質の良い三河米に、年貢を運び入れた港町で買い換えねばならず、年貢負担は百姓には過酷な地方であった。しかし、この地域は東海道の岡崎から信濃国の飯田に至る三州・飯田街道がその中心を走り、さらにこの街道は途中から分岐して、北は美濃国岩村を経由して中山道大井まで至る街道や、南は新城や豊川を経て東海道の吉田(豊橋)に至る街道、さらには西は足助から分岐して名古屋に至る街道など、多くの街道が行き交う交通の要衝でもあった。
 このためこの地方の百姓は、街道を通る人や物資を運ぶ中馬稼ぎで儲けたり、くつやわらじを作って街道で売ったり、機織に従事したりして、農業だけでは不足する収入を補っていた。
 稲橋村は、この飯田街道の宿場町武節町の隣村で、この村で飯田街道と中山道大井・東海道・吉田へ通じる脇街道が交差する場所にあり、人の往来と商品流通の盛んな場所である。このため、畑がちであるのに年貢納入には米をもってせねばならず、しかも年貢納入にはより質の良い米への買い替えが不可欠なこの村では、百姓の多くが商業に従事しなければ食べてはいけない、戸数40軒前後、人口200人前後の村であった。
 この村を商品経済の進展と度重なる飢饉が襲い、しだいに村の姿は変化していった。
 村一番の地主は多くの田畑を蒐集してたくさんの小作を抱えるとともに、醤油・酒醸造販売や金貸しなどの商業にも手を染めしだに豊かになる一方で、村の中層・下層の百姓は田畑を次第に失い、経営規模を縮小して貧農に転落するかし、この層はしばしば襲って来る飢饉に際しては暮らしてゆくことができず、一家で死に絶えたり一家で町に移住して出稼ぎしたりと、経済的には零落していった。
 村一番の百姓で庄屋を勤める古橋家の財産は、田畑持ち高総数では、1776(安永5)年・21石余り、1789(寛政元)年・35石余り、1823(文政6)年・39石余り、1843(天保14)年・43石余りと、年を経る毎に拡大し、これ以外にも村内だけではなく周辺の村々にも田畑を所有し、総持ち高は92石にも達し多くの小作人を抱えるようになっていた。そして農業の一方で日常雑貨や農具を売る金物店を経営し、酒の醸造や三州味噌の醸造を大規模に行うまでになった。またこの財力を持って新田開発も行い、この家の家計は極めて大規模なものとなった。家の支出は、天明年間 (1781〜1789年)には年80両 (約960万円)前後であったが、化政期(1804〜1830年)には年180両(約2160万円)前後と急激に拡大している。
 しかし村一番の地主が急速に富を集積する半面で、村の多くの百姓は田畑を失い零落していった。
 所有田畑の持ち高が1〜2石程度の極貧の百姓の数は、1776(安永5)年は、22戸19%、1789(寛政元)年・31戸26%、1813(文化10)年・35戸34%、1823(文政6)年・27戸22%、1843(天保14)年・33戸30%と、年と共に増大した。そしてこの層は、飢饉が来るたびに村では暮らせなくなり、一家を挙げて町へ離村した。天明の大飢饉の直後の1789(寛政元)年では、31戸中で12戸が離村中であり、1813(文化10)年でも35戸中9戸が離村中である。
 しかしこの1〜2石の極貧層だけではなく、さらに上の2〜10石程度の中・上層の百姓であっても、一度飢饉が襲えば暮らしは急迫する。天保7・8年の稲橋村の困窮家数は、代官所に提出した資料によると、43戸中25戸と60%に迫る家が困窮し、村人総数の189人のうち109人が食うや食わずの状態に追い込まれた。これは1〜2石の極貧層だけではなく、その上層の3石とか4石の百姓でも困窮したことを示している。

:高1石の田は、米の収穫が1石あることを示す。年貢率が3割であれば、0.7石の籾米(玄米にすれば0.35石)が百姓の収入。一人が1年生きるのに1.68石の玄米がいるとしても、これでは暮らせない。高2石の百姓でも、収入は1.4石。玄米にして0.7石。農業以外に収入の道を求める他はない。5人家族として年間に必要な食料は米8.4石。3人家族として米5.04石。これだけの収入を農業だけで得ようとすれば、所有する田は5人家族なら高6石、3人家族なら高3.5はいる。天保14(1843)年に高6石以上の田を持つのは地主古橋家と他の1軒だけ。稲橋村の当時の数字では高6石層以下は戸数は41戸(43戸中の)、高4石層以下は36戸で、平均家族数は3〜4人だから、ほとんどの村人は農業以外の収入を必要とする、もともと貧しい村である。ここに飢饉が襲えばひとたまりもない。

 そして稲橋村では庄屋古橋家が自家が持っている米穀を分配したり、代官所から金を借りて、美濃国岩村藩から大量の米穀を買い付けて村人に配るなどの処置をしたにもかかわらず、飢饉の影響は甚大で、1830(天保元)年の戸数50、人数183が、1839(天保10)年には空き家が24軒、奉公稼ぎや出稼ぎ者が53人のため、残った家は26戸、人数は102人と激減。さらに、村の田畑の22%が耕す者のいない荒地となってしまった。
 天保飢饉の時代の村は、天明大飢饉時代の村よりもさらに貧富の格差は拡大し、村の庄屋であり豪農である富家が、村の安全保障のために力を尽すこと無くして、村は解体を免れない状態になっていた。このことは、ここで例示した三河国設楽郡稲橋村だけではなく、しばしば世直し一揆の起きた武蔵国など、多くの地域で確認されている(稲橋村の例は、芳賀登著「世直しの思想」と長谷川伸三著「近世後期の社会と民衆」を参照した)。

(b)都市に集積する極貧層
 この時期、都市にも膨大な数の極貧層が滞留していた。
 少し後の時期の数字だが、1842(天保13)年5月に、ときの江戸北町奉行の遠山景元が町会所の備蓄米の充実を説いた上申書の中の数字を見ると、この月の江戸の町方と寺社門前町の町人人口は56万3689人。男女のうちわけは男30万6451人、女25万7238人であるが、この江戸町人人口の約半分28万1844人は「その日暮らしの者」「その日稼ぎの者」と呼ばれる裏店の借家に住む極貧層であることが示されている。天保期の江戸の町人の半数は、日々の稼ぎで日々の食料を手に入れるのに精一杯の層であり、一度大火事や疫病の流行、さらには飢饉の襲来に際してはたちまち日々の暮らしに困り、路頭に迷ってしまう人々であったのだ。
 しかし江戸の町の極貧層は、これだけではなかった。
 この数字に示された人数は、正式に江戸に居住することを許され、人別帳にも記された者たちである。だが、これ以外にも一度災害に会えば日々の暮らしが成り立たなくなる人々が多数いた。
 一つは、周辺の村々からの出稼ぎ人である。1843(天保14)年7月の人口調査では、出稼ぎ人は3万4201人。これも膨大な数であるが、これは届出を行って江戸に稼ぎに来ている他所者であり、これ以外にも全体統計はないが、多くの貧しい人々が江戸には流入していたし、生活に困窮して常住の家をうしなって非人の手下などになって乞食などをして暮らす者たちがいた。このような人々のことを無宿人や野非人と呼ぶ。
 この無宿人や野非人の全体的な統計はないが、飢饉続きの時には大量の流民が流入して江戸の治安も乱れることから、町奉行所が穢多頭に命じて、無宿人・野非人を狩りこんで、非人の手下になることを願うものは手下にし、そうではない者は本来の在所に帰るよう追い払う措置をとった。1839(天保10)年の3月末から9月始めまでに追放された無宿・野非人は、総数で5005人。一日に30人から90人程度の無宿・野非人が江戸から追放されたのだ。
 しかし追放といっても、街道筋に追い払うだけであったので、江戸の町を追い払われた彼らは、品川などの宿場に留まって物乞いをしたり、さらに江戸に立ち戻って江戸の各所にある下町の木賃宿に滞留して物乞いなどをして暮らしていた。江戸の無宿・野非人は、奉行所の把握できないほどの数に達しており、その数は数千人を越えていた。
 また無宿者などを収容して職業訓練などを施して江戸の町でも暮らしていけるようにする施設として人足寄場が設けられていたが、その収容人数は、1842(天保13)年から1844(天保15)年にかけての時期は、500人から600人と、それ以前の寛政年間や文政年間の100数十人という規模と比べると数倍に増大している。これなども天保飢饉の時における、江戸への流民の流入が如何に膨大であったかを示している。
 さらにこれ以外にも、非人の手下となって乞食・物乞いを家業とした人々も、江戸各所の門前町に、それぞれ数百人はいた。
 このように天保年間の江戸には、膨大な数の極貧層が滞留していたのだ。
 だからこそ天保飢饉の時に幕府は、町会所に蓄えてあった備蓄米をもって、1833(天保4)年には32万人に2度、翌1834(天保5)年には33万4000人に、さらに1836(天保7)年には35万人から41万人に2度と、度々大量に米を配ったり、他所、特に年貢米集散地である大坂やその周辺の町や村々を犠牲にしてまでも諸国から米を廻米したため、江戸では大規模な打ちこわしは防ぐことができたのだ。しかしこの度重なる施行によって、江戸の町会所の備蓄米は大幅に減少した。だからこそ1842(天保13)年に江戸北町奉行が、町会所の備蓄米を充実しろという上申書を老中にあてて出さざるを得なかったのだ。
 遠山は以下のように述べている。
 「備蓄米は籾で16万8948石しかなく、この量では28万人いるその日暮らしの者の62日分の食料にしかならず、大飢饉が再び起きれば救済できなくなる。これを籾にして100万石にまで増大させれば彼らを390日養える 」と。

:この数字を元に計算すると、28万人が365日暮らすために必要な米は、籾米で94万石である。したがって一人1年分の籾米が3.36石。玄米に精米すればこれは、1.68石である。そして玄米1石が約150sなので、これは玄米約252s。従って1日一人0.69s。当時普通には人が一日に必要な米は玄米5合と言われ、これが0.75sであるから、遠山が算定した基準は、少な目の数字であることがわjかる。それにしても一人1ヶ月で21s。肉や魚などの副食の多い現代人と比べ、江戸時代の人が、たくさんの米を食べていたことが、これでわかる。

 江戸に滞留した極貧層の問題は、深刻なものだったのだ。
 このため一度これらの人々の暮らしが成り立たなくなり、為政者が適切な対処を怠ると、彼らは為政者と米買占めをして人々を苦しめた商人などの犯罪を暴き立てるため大規模 な打ち壊しに参入した。
 約50年前の1787(天明7)年5月の江戸大打ちこわしは、参加者は数千人にものぼり、打ち壊された商家は、およそ1000軒。後に一橋家小人目付の調査で把握された511軒のうち、66%あまりは米屋・つき米屋であり、残り34%は、酒屋・金貸しなどであった。打ちこわし参加者は4・50名毎に頭に統率されて動き、米買占めを行った商家を打ち壊すと、家財道具などを路上に投げ出すと共に、買い占められた米を路上や井戸や川に投げ込んで使えなくし、彼らの犯罪を暴くとともに以後の商売を不可能にすることに専念した。さらに一味の者や 野次馬の中で路上に散乱した物を盗む者がいれば、それを捕らえて品物を元に戻すという、極めて統制の取れた行動をとっていた。
 参加者の内訳は、奉行所に逮捕され記録に残った30人で見ると、全員が借家人であり、棒手振り商人17人、職人9人、日雇い2人、無職と船乗りが各1人と、彼らがその日稼ぎの者たちであることを示している。
 こうして江戸においては、日に数百両(約2・3000万円)もの商いをする大店や大名や旗本などを相手にした金貸しなどの富裕層が集まり、吉原や芝居町を舞台に派手な文化活動や生活を繰り広げる一方で、数十万にもおよぶその日暮らしの極貧の人々が滞留し、飢饉や大火や疫病が流行れば、社会が崩壊する危機に瀕していたのだ。
 このことは詳しい数字は無いが、他の都市や町でも同様であったろう。

(c)社会解体の危機に直面しての「世直し」仕法の出現
 こうして都市や村において、社会は一部の特権富裕層と膨大な数の極貧層という形で、貧富の格差が増大し、極めて不安定な状況にと至っていたのだ。
 この状況を為政者である大名武士や町や村の指導層である豪商や豪農たちが認識せず、自らの利益だけを図る行為に熱中し日頃から貧困層を救済するための様々な措置を取らなければ、飢饉などの危機に際しては社会が崩壊する事態に直面していた。天保の大飢饉に伴う、各所での打ちこわしや一揆の勃発は、このような社会の危機を示していたのであり、社会の中の少なからぬ人々に、社会崩壊を阻止するための「世直し」の仕法を取る必要があることを痛感させた。
 たとえば加茂一揆の最中に自村を守るために一揆の中を突っ切って代官所などに交渉して村人に配るための米を得ることに奔走した、三河国稲橋村の庄屋・古橋源六郎のような人が輩出される背景には、上に見たような村の階層分化によって一旦天災に遭遇すると村が解体しかねない状況に直面し、それまでは豪農として自家の利益だけを図ってきた古橋家が、村の指導層として、村の暮らしを安定化させることに意を注ぐ過程があった。
 豪農古橋家はそれまでは、金貸しや金物屋・醸造業などで手に入れた財産を元手に新田開発を進めたり、零落した百姓の土地を買い入れたりして田地を拡大し多くの小作人を雇っていた。そして貨幣経済の拡大や凶作の連続の中で生活に困窮した小作人たちは小作料減免の戦いを始め、減免を認めなかった地主古橋家に対して小作料不払いの闘争に突入した 。これに対しては先代までの古橋家は、代官所に小作人を訴えてお上の力を借りて小作料を強制的に徴収したり、村の共有林の木材を勝手に伐採して利益を私するなど、自家の利益だけを追求する傾向が強かった。このため古橋家は庄屋としての村人からの信頼を失い、これに加えて凶作続きの中で小作人の中にも村を捨てて都市に逃亡するものも増え、貸した金の回収も出来ず小作地の多くも荒れ多くの借金を抱えるようになっていった。
 1831(天保2)年に古橋家6代当主となった源六郎暉皃(てるのり)は、金物業を辞め小作地の一部を手作り地に変更して農業経営と醸造業に専念しながら借金を返済するとともに、村人の生活を成り立たせるために、飢饉に際しては自家の総力を上げて村の極貧層に食料などを供給して助けると共に、村の共有林に自家の費用で大量の杉の苗木を購入して植林し、共有林の充実などの努力を開始した。また、村の貧しい百姓を助けるためにも、凶作が予想された時にはいち早く代官所にたいして、年貢減免のための検見を要求したり、年貢納入にさいしての米での納入割合の減免や、年貢自体の削減を要求する闘争に取り組んだのだ。
 このような活動を始めた時期に天保7年の大飢饉が襲ったわけだが、源六郎暉皃(てるのり)は、先にも見たようにいち早く村の困窮した家族に、自家の酒醸造量を削って都合24石を供給するとともに、代官所に掛け合って米を購入するための資金を出させ、隣国にまで出向いて大量の米穀を購入して村人に配るなど、村の指導者として村を守る先頭にたち、庄屋としての信頼を勝ち得たのであった。

:米24石は、玄米ならの14人の1年分の食料。3ヵ月分とすると56人の食料になり、当時の稲橋村の人口180人ほどの3分の1を養える。村人全体としても約1ヵ月養える量。

 そして飢饉の経験を積む中で彼は、1840(天保11)年に信州側の村と三河側の村との間で中馬訴訟が起こり、そのために信州側が稲橋村の貨物輸送を拒否した時に、稲橋村が街道の中馬輸送に携われるように足助の綿問屋などと組んで信州側の独占を打ち破る措置に取り組んだり、将来の飢饉に備えて籾43俵を寄付したりと、自家の農業に精を出すとともに村の暮らしの安定に心を尽した。さらにその過程で儒学を学び、人々に仁を尽すことの何たるかを身に着けるとともに、村人の風儀の善導にも心を尽している。
 このように天保の大飢饉を経過する中で、村の豪農層が、村の安定のために意を尽さねばならないことに目覚めたことは、何も三河国稲橋村の古橋家だけではなかった。
 先に、近世編2の【26】で見た、相模国小田原近在の村の百姓二宮金次郎の例でも、彼が独特の仕法を開発して自家の再建を成し遂げたのは、文化・文政時代にも続いた凶作や災害の中であったし、彼の村建て直しのための仕法が社会全体に脚光を浴び、幕府も幕府領の村の再建のために彼を幕臣に登用したのは、まさに天保の大飢饉を経過してのことであった。
 日本の各地で、村の指導層としての豪農たちが、単に自家の発展を図るだけではなく、自家の発展も、それを支える村の安定があってのものであることに気付き、様々な仕法を始めていたのだ。そして彼らのこの取り組みを支えたのが、伝統的な儒学の仁の思想であり、後には本居宣長流の国学や平田篤胤流の国学、さらには一部では蘭学であったことは注目に値する。
 これらの豪農層は後に、幕末の各所での国一揆の先頭にたって社会の解体を阻止するための政治を要求したり尊皇攘夷運動に加わり、明治維新を下から支える一翼を担った。そして開国以後はその一部はいち早く西欧伝来の民権思想を学び、維新後には「公儀輿論を実現する政体」の確立を求めて自由民権運動に加わったのだし、一方で各地での地場産業の発展にも尽くし 、新来の西欧の技術も取り入れて、やがて日本各地に輸出にも寄与する様々な産業を育て上げ、政府の上からの殖産興業政策と相まって、日本の産業革命を下から支えた層となったのだ。
 また天保の大飢饉と各所での激しい打ちこわしや一揆の激発を契機に、「世直し」を考えたのは、村の指導層としての豪農だけではなかった。
 藩や幕府の政治を司る武士や大名の中にも、社会が解体する危機感を持ち、藩政や幕政の改革を指向する人々が多く出てきた。その一人が水戸徳川家の徳川斉昭であったし、次に検討する、大坂町奉行所与力大塩平八郎であった。
 徳川斉昭は、先に見た郡内一揆や加茂一揆、そして大塩の乱とその後に各所で起きた蜂起事件を見て、これらは「下々にて上を怨み候と、上を恐れざるより起こり申し候」と幕政改革を促す建白書に述べ、国の内部が社会崩壊の危機に瀕しているまさにその時に、イギリス船が盛んに日本近海に出没し、中には上陸を試みて日本人にキリスト教の布教を試みる動きなどが見られることは大いなる危機であると認識し、幕政改革を強く要望した。
 この徳川斉昭の危機感は彼一人の物ではなかった。
 天保7年の大飢饉の翌年に大坂で決起した大塩平八郎の場合も、飢饉に際して餓死者が大量に出ていることにも目もくれず、自身の立身と利益追求に邁進するだけの役人と豪商の態度に激怒したという従来からの決起理由についての解釈 を越えて、こうした社会崩壊の危機を、このことに無自覚な為政者に対する天罰であると捉え、幕政改革を強く望むものであったことが、蜂起に際して彼が幕府老中に送ろうとして建議書の発見と研究によって明らかになってきている。

C腐敗した幕閣・役人・豪商に天誅を加えた大塩平八郎

 大坂で起きた大塩平八郎の乱も、社会が急激に解体することに対応せず、自らの利益だけを図るという腐敗した政治に危機感を感じた故の行動であった。
 では大塩平八郎の乱とはどのようなものであり、それは何を目指したものであったのか。以下に少し詳しく見ておこう。

(a)乱の実際と幕府の処罰
 元大坂町奉行所与力であった大塩平八郎が決起したのは、1837(天保8)年の2月19日の朝8時頃であった。
 大塩は彼の自宅兼塾に集った与力・同心や大坂周辺の百姓からなる門弟や同志20数名とともに、向屋敷の与力朝岡助之丞宅へ大砲を打ち込み、自宅に火を放って市中へ繰り出した。
 先頭には「救民」の旗が掲げられ、続いて、右側には中央に「天照大神宮」左右に「湯武両聖王」「八幡大菩薩」と書いた旗を掲げ、左側には、今川氏の家紋五三の桐を染め抜いた旗を立て、一党の中ほどには、中央に「天照皇太神宮」左右に「春日大明神」「東照大権現」と書いた旗と、「南無妙法蓮華経」と書いた旗を立てていた。
 大塩の一党は、天満の奉行所組屋敷付近に手当たり次第に大砲や火矢を打ち放したり焙烙球(ほうろくだま)を投げ込んだりして天満一帯を焼き払った後、天神橋筋を南下して船場に出ようとしたが、天神橋筋はすでに奉行所によって固められており橋は切り落とされていたので難波橋を渡って船場に出た。この頃からかねてから「天満に火事あらばかならず駆けつけよ」と指示してあった (事前に配布した檄文にこう記してあった)周辺の村の民や都市の民が集まり始め、一党は数百人の人数に膨れ上がる。
 この時集まったのは、般若寺村の百姓ら100余人、尊延寺村の百姓数十人、守口村・猪飼野村の百姓100数十人らであった。
 船場は大坂の大商人が集まる場所であるが、一党は二手に分かれて進み、鴻池屋善右衛門・庄兵衛・善五郎ら鴻池一党の店、天王寺屋五兵衛店、平野屋五兵衛店、三井呉服店、岩城屋・升屋などの豪商の店に焙烙玉を投げ込み、火矢・鉄砲で焼きたてて進み、当日は西南の風が強かったので、船場一帯に火の手が上がった。
  奉行所は、前日の夜大塩一党の中から裏切って奉行所に駆け込んだ者がいたので事前に決起を知ってはいたが、学者であり民を慈しむ仁者として名高い大塩が武装決起するとは信じられ なかった。事実大塩は、与力在職中には、飢饉に備えて大坂で100万石の籾米を蓄えることを奉行に進言していたし、決起に先立つ2月6・7・8日の3日間、彼の蔵書全てを売り払って得た金で、困窮者に対して1軒1朱 (1両の16分の1・約7500円)づつ施行し1万軒に施行すると、施行を告げる札には記されていた。つまり用意された金子は総額625両、約7500万円であ る。これは、前年の秋に豪商84軒が出した一軒当たり平均553万円に比べても多額の施行であ り、実際に施行を受けたのは、大塩の乱後の届出によれば、摂津国東成郡・川辺郡・河内国茨田郡・志紀郡など33ヶ町村に及んでいた。
 このため奉行所は、決起当日の朝になって、檄文などの証拠を揃えて自訴したものが出てようやくに事実と知り、捕縛準備を始めた所に決起の知らせが届いたので、捕り方の出動が遅れた。このため、奉行所など捕り方が駆けつけたのは、大塩一党が船場を焼き払い、東横堀川を渡って内平野町に差し掛かったところである。
 奉行所は奉行所の防備を固める必要から、与力同心だけでは人手が足りないので、鉄砲奉行配下の鉄砲同心40名と大坂城を警備する京橋口・玉造口の定番の大名家中から、それぞれ与力2名同心30名の援兵を要請し、町奉行跡部山城守と堀伊賀守がそれぞれ率いて二手に分かれて大塩の一党と砲撃戦を演じた。
 この時堀伊賀守が率いる一党の砲撃に怯えて集まっていた百姓や都市民の多くは四散し、100名余りに減ってしまい、平野橋を渡って淡路町を南下したところで跡部山城が率いる一党に遭遇し、鉄砲同心の放った弾が大塩方の砲手に当たって負傷したため大塩方は砲撃が出来なくなり、武器を路傍に投げ捨てて大塩一党は四散した。時刻は夕方の午後4時が5時頃であった。
 こうして大塩の挙兵はわずか半日あまりで終結した。
 町奉行所側には負傷者はなく、大塩側は討ち死にが2人で2度の衝突で残りの全員は四散と、あっけない結末である。
 しかし乱の影響は大きく、特に火災は八方に燃え広がり、2日間燃え盛って、焼失町屋3千3百余軒、焼け出された世帯数を示すかまど数は1万2500余軒。 さらに寺院仏堂37と神社3、藩邸5、武家役宅135が焼失し、橋も5つが焼け落ちるという大災害となり、大坂三郷の5分の1弱を焼く大火となった。
 奉行所は逃げた一党の追捕に全力をあげ、2月下旬から3月上旬にかけて次々に逮捕されたり自殺したり自首して出たが、首謀者大塩父子はなかなか行方がわからず、父子の所在がわかったのは、乱後40日を経た3月27日。大坂油掛町の美吉屋五郎兵衛宅に潜んでいるのを見つかり、追っ手が迫ったのを知った大塩は火を放って脇差を咽喉に突き立てて自殺した。焼け跡からは大塩と養子の格之助 (現職の与力)の焼死体が発見された。
 奉行所は以後1年数ヶ月の吟味を経た上で、処罰を発表した。
 その裁許状には、「大塩は平素は謹厳実直・忠孝の道を説いていたが、養子格之助の妻みえと密通するなど不道徳な者であった」という事実無根の密通事件をでっち上げて大塩を貶めるとともに、「低い身分の者にも関らず御政道をみだりに批判して、諸民を惑わす檄文を配布して、奉行を討ち取り、大坂城をはじめ諸役所や市中を焼き払い、豪家の金銀を奪って窮民に分け与え、その上で一旦は甲山 (六甲山中の山)に立て籠もる」と計画したことは「反賊の所業」であると断じてあった。
 首謀者大塩平八郎とその養子格之助の遺体は塩詰めにされて保存されていたが、死骸を市中引き回しの上で獄門。同じく首脳陣 であった与力・同心の武士7人と百姓ら11人も塩詰め死骸を市中引き回しの上、磔。父子をかくまった美吉屋五郎兵衛他12人は引き回しの上で獄門。檄文を配布した上田孝太郎その他2名は死罪。叔父大西与五郎 (現職の与力)と大塩妻ゆうら4人は遠島。さらに大塩一党に率いられて挙兵に参加した百姓・都市民や一党の者の逃亡を援助した者や火薬や武具の調達者、檄文の版木職人など、挙兵になんらかの形で関った者750名余りが、手鎖、押込、逼塞、急度叱りなどの処罰を受けた。
 この一方で幕府は、大塩一党に加わりながら、その檄文を添えて奉行所に訴えでた与力の吉見九郎右衛門は譜代小普請入り(つまり無役の旗本身分)の抜擢を受け、この密告に加担し檄文を盗み出し た上で吉見九郎右衛門の密訴状を西町奉行に届け出た河合八十次郎と吉見英太郎は銀50枚(一分銀なら1両の4分の1・約150万円)の褒美をえた。彼らに先んじて2月17日夜に東町奉行に密告した与力平山助次郎(後 に自殺)の動きで大塩の決起が事前に漏れ知らされ、これにかれらの証拠品を添えての密告によって、大塩が当初計画していた2月19日の夕方4時か5時に与力朝岡助之丞宅に新任の奉行堀伊賀守と迎えの奉行跡部山城守が市中巡視を終えて到着したところを討ち取った上で市中に火を放つという計画が頓挫し決起が早められたことで、大塩の乱を小規模なものに押さえ込むことに成功したからであった。
 またこれと共に大塩の不義密通事件を捏造して大塩を貶めたことは、大塩の御政道批判が当を得ており、大坂市民や周辺の百姓らにも大いに頷けるものであったことを逆に示している。

(b)大塩は何を意図して挙兵したのか
 大塩平八郎の挙兵は従来から、大坂町奉行所が大坂の大商人と組んで、大坂の町人や周辺諸村・町の人々の間に多数の餓死者が出ていることをも無視して江戸への廻米に腐心したことに怒ってのものであると言われてきたが、そのような単純なものではない。天保の飢饉における大坂町奉行と大商人の所業が決起の直接のきっかけではあったが、彼らを誅することだけが目的なのではなく、もっと大きな世の中の改革・御政道の改革を目指してのものであった。
 このことは大塩が挙兵の前日・前前日に密かに周辺諸村に配布させた檄文に、きちんと示されている。
 檄文の冒頭にははっきりと、以下のように記されている。
 「『天下の人民が困苦窮迫すると、天の恵も絶滅終息するであろう』『小人に国家を治めさせたならば、災害は相次ぎ到来するであろう』と昔の聖人は、深く天下後世の民の君となり、臣となるものを誡めおかれたので、東照神君も、寄るべない人にこそ、最も憐れみを加えるのが仁政の基だと仰せおかれた。にもかかわらず、この2百4・50年の太平の間に、しだいに上に立つものは驕りをきわめ、大切な政治にたずさわる諸役人どもは、賄賂をおおっぴらに贈貰している。奥向き女中の手づるにより、道徳仁義もない卑劣なものでも立身して重要な役に登り、自分一家を肥やすことのみに智術をめぐらし、その領分の民百姓へ過分の御用金を課している。従来、過重の年貢、諸役に困苦する上に、このような無理無法を申し渡され、民百姓はつぎつぎに出費がかさみ、天下の民は困苦窮迫するようになった。このため、江戸表より一国中すべて、民は上を怨まぬものはないようになってきた。にもかかわらず、天子は足利氏以来、御隠居同様賞罰の権を失われたので、人民の怨みはどこへ告げ愬(うった)えるにも訴えるところのないようになってしまっている。ついに、人びとの怨みが天に達し、年々の地震火災により、山も崩れ水も溢れるなど、種々さまざまの天災が打ちつづき、ために五穀実らず飢饉と相成った。これらはみな、天が深く誡められる有難いお告げであるのに、上に立つ人はいっこうに気付かず、なおも小人、奸者らが大事な政治をとり行い、ただ下を悩まし、金、米を取りたてる手段ばかりに奔走している」と。
 この文に続いて、天保飢饉において大坂町奉行が、大坂の市民や周辺諸村町の人々が多数飢えているにも関らず、江戸廻米に奔走し、大坂に少量の米を買いに周辺諸村町から潜入した民を厳罰に処したり した、役人の悪行を非難し、さらに、この間大規模な利益を上げて大名からは家老・用人なみに遇せられて贅沢三昧をしている大坂の豪商は、飢饉に際しては餓死する貧乏人や乞食を救うために金銭・米穀を供出しようともしないと、豪商らの悪行を非難している。
 この大坂の役人と豪商の悪行の故に、まず諸役人を誅伐し、その後に豪商を誅戮して彼らが退蔵する金品を民に配分すると、決起の動機と目的を記したのが檄文であった。
 冒頭の文を中心にして読めば、大塩平八郎の決起の理由は以下のようになる。
 それは、国家を治める老中・大名らが民の犠牲を省みずに一身の利益だけを図っている悪行故に、彼らに対する民の恨みが天に届き、ために天災飢饉が相次いだ。相次ぐ天災飢饉は、国家を治める老中・大名などの諸役人に対する警告である。しかし彼らはこの天の警告をも受け止めず、相変わらず一身の利益だけを図っている。その一つの現われが大坂町奉行の諸民の苦難を省みないで江戸廻米に邁進する姿であるし、困窮する民に救いの手も差し伸べない大坂豪商らの所業だ。だから彼らを誅伐し、豪商が退蔵する金品米穀を困苦する諸民に分けるというのだ。
 では大塩挙兵の目的は何か。これも檄文に明白である。
 大塩は檄文の末尾に、こう記している。
 「この度の挙は、わが国の平将門、明智光秀、彼の国の劉裕、朱佺忠の謀反に類するものだというのも、もっともな理屈ではあるが、われわれは一同、心中に天下国家を奪いとろうという欲心より事を起こすのでは決してなく、これは日月星辰の神鑑に照らして明らかだ」と。
 これは決起を知らされ同心を要請された門人の中から、このような批判が起きていたからであろうか。
 そしてその少し前にも、次のように記している。
 「これは決して、一揆蜂起の企てと同じではない。追々年貢諸役までを軽減し、すべて中興の神武天皇の政治のとおり、心豊かな取り扱いをし、年来の驕奢、淫逸の風俗をすっかり改めて、本来の質素に立ち返り、天下の人々がいつまでも天の恩を有難く思い、父母妻子を養う事ができ、生きながらの地獄を救い、死後の極楽を眼前に展開し、尭・舜・天照皇太神の時代を再現できないにしても、中興の政治の姿には立ち返らせようと思うのだ」と。
 さらに檄文の最後には、「天命を奉じて天誅を致す」とはっきりと書かれている。
 大塩挙兵の目的は明白である。
 大塩は、民の苦難を省みず自らの利益だけを図っている諸役人・豪商を、天に代わって成敗するというのだが、これは単に大坂町奉行所の悪徳役人や悪徳豪商を誅伐し、金品・米穀を民に分けることではなく、これを通して、国家を治める老中・大名に警告を発し、幕政を民を慈しむ心に満ちた仁政へと立ち返らす。いわば幕政改革が目的であったのだ。だからこそ檄文の冒頭で、老中・大名の悪政を非難し、その悪政を天が怒って誡めたのが、昨今の天災飢饉であったと述べたのだ(以上檄文は、宮城公子著「大塩中斎」所収の宮城訳によった)。

(c)後に発見された大塩の幕府に対する建議書
 大塩が幕政改革を求めて決起したことは、彼が決起する前日に江戸の林大学頭の用人に当てて送った荷物の中にあった老中宛の建議書が後に発見されて学会に紹介されたことで、今ではすでに明らかである。
 では大塩の建議書は、どのような内容であったのか。
 この建議書はまず、現職の老中、大久保加賀守忠真・松平和泉守乗寛・水野越前守忠邦・松平伯耆守宗発・太田備後守・脇坂中務大輔の6人に宛てたものである。
 そしてその冒頭において、将軍家斉の元で老中水野出羽守忠成が腐敗した政治を行ったことは世間承知のことであるが、現職の老中はこれに対して決然と決別するのではなく悪政を行った故に、天下が乱れたのだと、老中たちの罪状を具体的にあげて糾弾する。
 大久保加賀守忠真は、京都所司代であったときに御法度の無尽講に手を染めて暴利を貪り、松平和泉守乗寛や松平伯耆守宗発も同様に、大坂で獄門となった八尾屋新蔵や自殺した大坂町与力弓削新右衛門らと組んで無尽講を企て暴利を貪った。また水野越前守忠邦も昨年、牧野権次郎や同心八田衛門らと組んで無尽講を企てたが、先の新蔵や弓削の事件を大坂町奉行所が摘発したことによって無尽講は中止になった。このように現職老中4人までが御法度の無尽講で暴利を貪るか企てたりしたというのに、この事件が摘発されても幕府はこれらの人びとを処罰しようとはせず、 大坂破損奉行の一場藤兵衛ら数名の下級役人の処罰だけで済ませたのは納得がいかないと大塩は述べ、この事件を摘発したのは自分であるからと、その時に押収した無尽講の資料と無尽講に関った全ての大名旗本や 寺社の名簿を資料として提出した。
 この諸大名らが無尽講を主宰し暴利を貪った事件は、先に【31】の後半「大御所政治」においてみた政治の腐敗の実例であげた事件であった 。この時平八郎は奉行高井実徳の命を受けて、1829(文政12)年の3月から1830(文政13)年4月にかけて詳しく調査吟味し、4月に幕府上層部に対して違法な無尽を行った武家の名前を記した「武家方宮方寺社無尽名前書」を提出し、幕府老中をはじめ多くの武士や公家・寺社が違法な無尽を行っていたことを告発したにもかかわらず、老中たちが隠ぺい工作をして、不正に関った下級役人のみ処断して、老中や諸大名・旗本などの罪は不問に付された。さらに大塩は、高井が病気のため大坂東町奉行辞任の後で、西町奉行の新見に違法な無尽の取調べ資料を全て提出し、この件を再吟味することを要請したが、ここでもこれは潰された。この建議書には、この「武家方宮方寺社無尽名前書」だけではなく、無尽の違法な仕組みについて解明した調書も付されていた。つまりここで大塩は、違法な無尽を隠蔽した老中や大坂町奉行らの不正も告発したのだ。
 さらに建議書の後半では、他の人々の罪状についても縷々述べている。
 すなわち、大坂城番を勤めた加賀守の同族の大久保出雲守教孝も同様に無尽講で暴利を貪っていること。さらに、勘定奉行の内藤隼人正炬佳は、大坂町奉行であった当時に前記の八尾屋新蔵や弓削新右衛門らと組んで過ちがあったし、大坂の油商いに介入して油の価格を引き上げて貧民の暮らしを圧迫するなど、幕府奉行に相応しくない所業があったと告発。また、当時長崎奉行の久世広正 が大坂町奉行であった当時、彼に罷免された家臣が、久世が町人から多額の賄賂をとったり法令違反の咎で欠所となった商人の財貨を私したりとお上に訴えたとき、この事件を取り調べた大坂町奉行の戸塚備前守忠栄が、久世が御側御用取次ぎの水野美濃守の親類であることを憚ってきちんと吟味せず、訴えの内容は全て事実ではないとした上で、訴えた家臣を磔にしたことは誤りであったと追求し、久世伊勢守が悪事を行ったにも関らず長崎奉行に出世したのは不当だと主張。さらに、勘定奉行矢部駿河守定謙は、大坂町奉行であった当時に、家禄を増やしたいと大坂城代土井大炊頭に便宜を図ってもらおうと、土井出入りの町人に便宜を図ったこと。また矢部は、奉行所同心の些細な間違いを城代に言いつけ厳しい取調べを行ったり自殺に追い込んだこと。さらには矢部は、西町奉行所の金銀を大久保加賀守の領地である摂津住吉村に貸し付けた際に、返納銀を与力が着服したにも関らずこれを厳しく吟味せず、この一件に関った町人だけを捕らえて牢内で殺させたと、矢部の人柄も幕府勘定奉行に相応しくないと告発する。
 そしてさらに矢部駿河守の腹心の与力であった内山彦次郎も悪者で、罪も無いものを犯罪者に仕立てて捉えて殺したりしたと告発し、この内山と矢部駿河守は天保4年の飢饉に際して、諸大名の年貢米を大坂に入津しないように計らったので、大坂の貧民を大いに難儀させたことが、駿河守の最大の犯罪であると告発している。
 このように大塩の建議書は、現職老中6人のうち4人までが不正な無尽講によって膨大な暴利を貪っていることを告発し、その他、勘定奉行や長崎奉行などの幕府要職にある人びとも、その職務に着くに相応しくない罪を犯したものであることを告発した。
 大塩は建議書においてこのあとどうしろとは何も言っていない。
 しかし建議書の内容は、先に検討した大塩の決起に当たっての檄文の冒頭に記された、「国家を治める老中・大名らが民の犠牲を省みずに一身の利益だけを図っている」と告発したことの具体的な罪状を挙げたものであることは明白である。そしてこの檄文では、老中大名らの悪行により、「彼らに対する民の恨みが天に届き、ために天災飢饉が相次いだ」のだと告発し、「これは決して、一揆蜂起の企てと同じではない。追々年貢諸役までを軽減し、すべて中興の神武天皇の政治のとおり、心豊かな取り扱いをし、年来の驕奢、淫逸の風俗をすっかり改めて、本来の質素に立ち返り、天下の人々がいつまでも天の恩を有難く思い、父母妻子を養う事ができ、生きながらの地獄を救い、死後の極楽を眼前に展開し、尭・舜・天照皇太神の時代を再現できないにしても、中興の政治の姿には立ち返らせようと思うのだ」と自身の決起の目的を述べているのだから、大塩が老中に対して建議書を提出した目的は明白である。
 すなわち老中を初めとして現職の幕府の要職にある多くの人びとは、国家の舵取りを任せるには相応しくなく、彼らを厳しく処罰した上で幕政から追放し、世の中から贅沢で浮いた風潮を除き、民が安心して暮らせるような聖賢の道に沿った政治に改革せよというのが、大塩の主張だったのだ。
 だから大塩は決起の失敗の後も潜伏して、幕府が彼の建議を受け入れて幕政改革をやるかどうかを確かめようとしたのだ。 
 実は大塩は決起の前の日、3月18日に、江戸の林大学頭述斎の用人に宛てて飛脚便を出した。この用人宛ての手紙には、同封の箱を林述斎から老中に届け、そして同封の水戸斉昭宛の書状を水戸家へ届けて欲しい旨が書かれ、箱の中には、老中宛の建議書と付属の資料そして、林述斎宛ての書状が入っていた。そして、老中宛て建議書の末尾には、林述斎宛の書状を述斎に届けて、彼が幕府内において累代聖賢の道を司り幕府に様々意見を申し述べる家柄にあることから、この件について林述斎に意見を聞いて欲しい旨が記されていた。

:大塩は先年に諸大名らの違法な無尽講を摘発する少し前に、諸大名と同様に、家政が困窮したことを解決するために大坂で無尽講を行おうと、仲介をしていた大坂町奉行所の同心の所に林家が依頼したことを聞きつけ、幕府の御政道を聖賢の道に従って諌める役柄の林家がこのような悪行に手を染めるのは良くないと、自身が塾の塾生などとして懇意にしてきた大坂近郊の在郷商人らに金1000両を用立てさせ、これを15箇年年賦で低利で返済出来るように計らった (文政10年・1827年10月。林家の借用証文の日付は、文政10年11月)。この時以来、大塩と林家の当主林述斎との間に親交が生まれ、親しく文を交わした り、1831(天保2)年の3月には密かに江戸に下向して林述斎の役宅を訪問し、直接親しく話している。これは融資の件の述斎の礼状に、参府の時には直接会いたいとの申し出に応えたものである。この老中宛の建議書に添えられた林述斎宛の書状の中には、この時のまだ返済が終わっていない借金の借用証書が同封されていたので、自分と同じく時勢を憂いているであろう林述斎に、この件について意見を述べさせるよう老中に進言 するとともに、進言のお礼として借金の帳消しをしたものと考えられる。また大塩と水戸家との関係は、天保5年に佐藤一斎を通じて大塩の著書を水戸斉昭に贈呈していることから、早くから大塩が徳川斉昭の言動に注目しかつ期待していたと考えられる。また伝承であるが、天保の飢饉のときに水戸藩でも米が不足したとき、大坂から大量の米を仕入れて難を逃れたのだが、このとき町奉行所与力であった大塩の尽力によってことは実現したと、水戸藩では伝えられている。おそらくこれは天保4年の飢饉の時であろうから、大塩と水戸藩との関係は、儒者佐藤一斎との関係を通じて、それ以前からあったと考えられている。

 飛脚便は8日ないしは10日の日数を掛けて江戸に届くように差配されたものであった。すなわち建議書が江戸に届くのは、2月26日か3月の初め。実際に幕府が大塩の決起を知ったのは2月26日であった。
 つまり大塩は、彼の決起によって大坂の町に大火が起こり2人の町奉行が殺されて豪商の家々が襲われて彼らが退蔵していた金品米穀が貧しい人に分け与えられ、大坂が大騒ぎになっており、幕府が乱の鎮圧とその影響拡大阻止に腐心しているまさにその時に、大塩が決起した理由と目的が書いてある書面が幕府老中に届くようにしかけていたのだ。だから彼は決起が失敗したあとも潜伏を続け、老中が彼の建議書を読んで彼の幕政への提案を取り上げるのかどうかを確かめようとしていたのだ。
 しかしこの書面が老中に届いたのは、乱からずっと後の、3月20日頃であり、幕府は彼の意見を取り上げることはなかった。
 建議書の到着が遅れた理由は以下の通りである。
 大塩の決起が鎮圧された後の2月21日になって町奉行所は大塩が江戸に宛てて飛脚便を出したことを知り、ただちにこれを取り返すべく早飛脚を江戸に向けた。このため江戸の飛脚問屋に届いた大塩の荷物は、3月2日に大坂に向けて返送された。しかしこの返送の途中、箱根から三島に至る途中で荷物が盗まれ行方知らずになる。連絡を受けた幕府の韮山代官所の役人および荷主が付近を捜索した所、3月5日になって、道端に荷物が散乱しているのが発見され、荷物の中身が老中宛ての大塩建議書であることがわかり、荷物はただちに韮山代官所が収納した。時の韮山代官は幕政に対して批判的な蘭学者・江川太郎左衛門である。彼は発見された書状などの重要性に気付いてただちにこれを全て筆写させるとともに、盗んだ犯人の逮捕に役人を向かわせる。そして犯人を逮捕したあともただちに幕府には報告せず、幕府にこのことが報ぜられたのは3月11日であった。幕府は事の重大性に気付きただちに書類の江戸搬送を命じたが江川太郎左衛門はなにかと理由を講じて引き伸ばしを図り、大塩の建議書など資料全て が幕府評定所に提出されたのは、3月15日から21日の間であった。
 大塩が計画したとおりに建議書が老中に届いておれば、乱の余韻さめやらぬ中で大塩父子などが潜伏中で次に何が起こるかわからない状況の中でこの件が審議されており、この審議に大塩の目論見どおりに幕政に批判的な水戸斉昭や林述斎が加わっていれば、幕府の対応はもっと異なったものになったかもしれない。しかし建議書などを手に入れた老中は、この内容も公表せずに審理を進め、水戸斉昭宛の書状や林述斎宛の書状も彼らに届けられることはなかったのだ。
 自身宛の大塩の書状があるとの噂を聞いた水戸斉昭は、その書状を受け取りたい旨を幕府に申し出たが幕府に断られ、その内容を知ることは無かっただけではなく、大塩と自身が繋がっていることを知った幕府がどんな咎めを課して来るか戦々恐々だったという。
 こうして大塩の建議書は闇に葬られ、建議書がありそれが途中で盗まれて江川太郎左衛門が取り返したということだけが噂として、関係者に流布しただけであった。
 だがこの書類は、1980年代から90年代初頭にかけて、江川太郎左衛門文庫の中からその写しが次々と発見されて学会に紹介され、今日ではその翻刻版とその解説書が市販され、一般の目にも触れられるようになったのだ。

(d)大塩挙兵の意図が誤解された理由
 大塩平八郎は、若い頃、大坂町奉行与力という家伝来の仕事に生きがいを見出せずにいた。なぜなら奉行所の役人は、様々な許認可業務や治安維持業務を通じて繋がった大坂の豪商や周辺諸村の庄屋・百姓と懇意になり、彼らから多額の賂を受け取って、大坂諸政に手心を加えていた。この役人の腐敗ぶりに嫌気が指したのと、大塩家が 今川家諸流であり、本来は三河以来の直参の武家で、先祖は家康の馬前で手柄を挙げ大いに賞賛されたという武家としての大いなる誇りを持っていたから、先祖に比べて自分は如何に卑俗なものだと考えたからであった。彼がこの障害を乗り切ったのは学問の故であった。
 大塩平八郎は、一般の武士と同様に儒学を学んだが、当時流行していた道徳を掲げるだけの朱子学には飽き足らず、現実の政治の中で、聖人君子の教え諭した理想の世の中を実現しようとする傾向の強い陽明学に次第に引かれていった。しかし当時大坂 ・京都周辺には陽明学を講じる学者はおらず、彼は独学で勉学に励み、陽明学の核心を会得したと考えた。そのため彼は現職の大坂東町奉行の与力である傍ら、自宅を塾として、陽明学の学習と心の鍛錬に軸を置いた学習教程を立て、塾生には厳しい戒律の遵守を命じて、儒学の仁に基づく世の中を実現するために、それぞれの場で仕事に励むべきことを説いていた。 彼の塾生は、武士の子息や奉行所の与力・同心、そして大坂周辺の村々の在郷商人である百姓らであった。
 さきに見た決起にあたっての檄文には、彼の陽明学者としての物の見方考え方が如実に反映されている。
 しかし残念ながら、彼が非難した人々の罪状は、大坂町奉行のそれと大坂豪商のそれとは明確に指摘されているが、国家を治める老中・大名については、極めて抽象的である。その上、為政者の悪政ゆえに天がそれを罰するために様々な災害を起こすというのは、儒学者に一般的な考え方であり、当時の知識人には当たり前の物の見方であった。先に江戸蘭学の先駆けであった杉田玄白が、天明の大飢饉を田沼一党の悪政に天が怒った故だと考えてきたことを指摘したように、天災を悪政に対する天の警告だとするのは、一般的なものであった。 そして老中らの犯罪を暴いた建議書は闇に葬られ、世人がこの内容を知ることはなかった。
 これゆえ、後の時代の学者らには、檄文の冒頭の一句はいわば枕詞のように解せられ、大塩の決起は大坂の奸吏・奸商を誅伐することにあったと理解され、彼の真の目的であった幕政改革は見逃され たのだ。
 しかし大塩の決起に遭遇した当時の人々にとっては、彼の檄文は何を意図しているのかは明白であった。
 彼が直接批判した、当時の幕府閣僚らにとっては、大塩が具体的には何を批判していたかがはっきりと分かっていたはずである。だからこそ彼の罪状に、「低い身分にも関らず御政道を批判した」と御政道批判をこそ、その罪状の筆頭に挙げたのだ。
 だが大塩の批判が的確であるということは、大塩の批判に沿った幕政改革を求める動きが今後広がる恐れがあり、そして大塩を支持し崇める動きも出てくるであろうことが予想された。事実乱後の大坂では、火災で家を焼かれたにも関らず、大塩を「大塩さま」と言って崇めるものも出ていたし、火事で 多くの家屋が焼けたために大規模な復興事業が起き、このために工事に携わった大工や日雇いの間には「大塩様のお陰」と言って喜ぶものもいたという。また周辺の村に配布された檄文を密かに所持し、それを手習いの手本にしてい た者もいたと言われている。
 だから幕府は、幕府批判が起きることをかわすために、大塩に在りもしない不義密通の罪をかぶせ、これを彼の家族縁者に証言させるとともに、決起参加者たちには大塩に暴力で脅されて参加した旨の自白をさせ、大塩平八郎の人物自体を貶めたのである。その上で、一党にはすでに獄中で死んだり自殺した者まで塩詰めにしてあった死体を磔・獄門にしたり、決起には直接関係の無かった大塩の妻や養子の妻、さらには大塩の叔父まで遠島にして、大塩の係累を断つという非道な処置にでたのだ。

(e)大塩の乱の与えた影響
 幕府は大塩の批判を黙殺した。
 しかし配布された檄文を見聞きしただけでも、当時の人にとっては、大塩が何を告発してきたかは明白なことであった。だから幕府が大塩の人格まで貶めて彼を犯罪者に仕立て上げても、彼の行動に共感した人はたくさんいた。
 先に見たように、大坂の貧しい職人たちは、大塩の決起で町が焼けたことで仕事がたくさんできたことを感謝していた。またこれは大坂だけの現象ではなく、「京・大津あたりの下々の者は、大塩様のように世のためを考えて行動されたことはありがたいと申すものは8分通りだ」と大坂城代土井大炊頭に仕えた鷹見泉石(1785‐1858、蘭学者で土井大炊頭の家老で大塩捕縛の指揮を執った。彼 もまた幕政に対しては批判的であった)は日記に書いている。また乱の後にも、「大塩平八郎未だ死なず。当所の奉行を勤める身分にありながら、所の餓死するのもかまうことのない奉行や与力は早く江戸へ引き取れ」と大書した赤紙を着けた草履を奉行所に投げ込んだり、「二代目の大塩平八郎が筵を立てて堂島を焼き討ちにする」との落書きが貼られ、高騰する米価を下げて欲しいと言う庶民の願いが示されてもいた。
 また江戸でも、大塩は死んではいないとの噂が流れ、1838(天保9)年3月に江戸城西の丸より出火したのも、彼らが紛れ込んだか同調者の仕業かという噂も流れたという。
 そして実際に乱後に、大塩に同調した者たちによる打ちこわしや一揆が各地に勃発した。
 1838(天保9)年4月には、備後三原(広島県三原市)で「大塩平八郎門弟」と旗を立てた800人の打ちこわしが起こり、5月30日に越後柏崎(新潟県柏崎市)では、上州館林(群馬県館林)の浪人・平田篤胤(ひらたあつたね)の元塾頭である国学者生田万(よろづ)や尾張(愛知県浪人)鷲尾甚助、水戸浪人鈴木城之助、さらに出雲崎代官所支配の源八新田村・山岸嘉藤、新発田(しばた)藩蒲原(かんばら)郡荻島(おぎしま)村名主・小沢佐右衛門、同大島村名主次男古田亀一郎らが8人の村人を率いて、「奉天命誅国賊」「集忠臣征暴虚(墟) 」の旗を掲げて桑名藩柏崎陣屋を襲った。ただしこの決起は、多くは斬り死にや鉄砲で撃たれて死んで直ぐに鎮圧されたが、これも天保の飢饉の惨状を憂い、大塩らの決起に共感しての行動であった。
 さらに、1838(天保9)年6月下旬から7月上旬に摂津の国・能勢(大阪府能勢町)で騒動が起こる。
 「徳政大塩味方」と書いた大幡を掲げた1700から2000人の百姓が、「連年飢饉につき、一国惣有米を人数平均に割渡すこと、貸借関係の廃棄を京都の朝廷から諸国地頭に触れるべきこと」を記した廻文を回し、簑笠(みのかさ)を着、竹槍・鉄砲を携えて豪商や豪農を襲って金銭・米穀を出させ、不承知とあれば打ち壊した。この一揆は、大坂で鍼治療・薬屋を営み、町人相手に剣術や柔術を教えていた山田屋大助らに率いられたもので、前後5日間にわたって周辺を騒がし、近隣の諸藩兵・大坂代官所の役人たちに狙撃されて壊滅した。
 しかし一揆のあとの大坂では、能勢一揆の首謀者山田屋太助は大塩の軍学の門人であったとか、一揆勢が配った札の中に大塩の手跡のものが4枚あったとか、一揆の首謀者の一人は、大塩の乱に参加して行方をくらました者であったとかの噂が流され、民の大塩への共感が続いていたことが示される。
 日本各地で、大塩平八郎が糾弾した政治の腐敗は事実だと受け止められ、共感する人は多かったのだ。
 このため幕府が大塩の建議を無視したとはいえ、幕政に対する影響もまた大きかった。
 時の老中首座大久保加賀守忠真は、乱後の混乱の中、3月19日に死去している。
 これは病死と届けられてはいるが、切腹したとも伝えられている。この老中の死去の日付は、老中の悪事を糾弾した大塩の建議書が幕府に届けられた3月15日から21日の日時に見事に符合する。あるいはこの乱の責めを負って自害したものか。
 ともかくこれによって長い間将軍家斉に仕え、将軍腹心の水野忠成とともに幕政の中心にいて幕政を腐敗させた張本人と指弾された人物が幕政の中心から去った。そしてこれは当初から予定されていたことではあったが、1837(天保8)年4月に将軍家斉が隠居して、子息の家慶に将軍を譲って西の丸に隠居したことは、彼がその後も大御所として腹心の部下を通じて幕政に関与し続け隠然たる力を持ったことは事実だが、老中の体制が一新され、幕政改革を志していた老中水野越前守忠邦が老中首座となり、やがて1841(天保12)年1月の前将軍家斉の死によって家慶の親政が始まり、それとともに天保の改革が行われた地ならしとなったことは確かである。

:この将軍隠居のことは事前に幕府内には知らされており、大坂町奉行が大坂周辺の民の困難をよそ目に江戸廻米に腐心した背景には、江戸の米価を下げる目的以外に、将軍代替わりに際しての儀式費用などを捻出することもその目的であったと言われている。大坂町奉行所元与力であった大塩は、この天保9年春の将軍代替わりの情報を、現職与力である息子や門人から聞いており、あるいはこの機会を狙って決起することで幕政改革を促そうと考えていたのかもしれない。

 またこの幕府の天保の改革を促した要因には、1838(天保9)年8月に、水戸藩主徳川斉昭が幕政改革を要求する建白書・「戊戌封事」を将軍家慶に提出したことも寄与しているが、斉昭はこの書の中で、内憂外患が深刻であることを指摘し、とくに内憂の最大のものとして困窮する下民の蜂起と武備の衰えをあげ、「近年参州・甲州の百姓一揆徒党を結び、又は大坂奸賊容易ならざる企て仕り、なお当年も佐渡の一揆御座候は、畢竟下々にて上を怨み候と上を恐れざるより起こり候」と、大塩とまったく同じ状況認識を示していることは注目して良い。
 大塩平八郎の時代認識は、けっして彼一人の物ではなかった。
 先に見たように、天保飢饉の惨状を見て、社会の底辺から村共同体の自助機能の再建を目指す仕法を行った多くの豪農たちも、大塩や徳川斉昭のように、幕政や藩政やその末端に関った有意の人々にとっても、社会があまりに貧富の格差が拡大し、政治がそれに応えて救済策を講じるものになっていないことが、社会解体の危機であると認識されていたのだ。
 この格差社会の拡大に対する危機意識と、同時に【30】で見てきたような、西欧列強のアジア進出の脅威という、当時のグローバル経済の波がひたひたと日本に押し寄せてきているという危機の認識とが相まって、大塩の乱の後、各藩や幕府において、天保の改革が行われていく。天保時代とはまさに、このような内外の危機が同時に進行した時代であったのだが、大塩の乱は、その内政の腐敗と社会解体の危機を白日の下に晒した事件であったのだ。

(f)大塩が天誅という暴挙を行った不思議
 最後になぜ元大坂東町奉行所筆頭与力という重職を勤め、しかも諸国にその名を知られた高名な学者が、天に代わって奸賊を討つと称して、大坂町奉行を殺し豪商の家に火を放って奪った金品・米穀を貧民に与えようと企てたのかを、検討しておきたい。
 なぜなら大塩が塾で教えた儒学・陽明学の教えには、武力で役人や豪商を誅し、貧民に呼びかけて武装蜂起を行うなどということは全く無く、むしろその教えに反していたからである。
 事実大塩から武装決起を知らされ同心を呼びかけられた門弟たちは、大いに動揺し、その中から奉行所へ密告したり事前に逃亡を図ったりした者もでていた。その門弟の中で、大塩を諌めて、決起の直前に切り捨てられた門弟がいた。大塩の学を正しく受け継いだ門弟で、大塩の学問の成果を記した「古本大学刮目」の訓点を任されていたほどの高弟であった、彦根藩家老宇津木総の弟・宇津木靖。当時29歳である。
 彼が師匠大塩平八郎を諌めた言葉が残されている。
 「図らざりき、先生此言を出すや。夫れ災を救ひ民を恤(すく)ふは官自ら其の人あり。況や豪戸を屠って之を済ふ、是れその民を救ふ所以は、即ち民を災いする所以なり。其れ乱民と為らざる者幾んど希なり。苟(いや)しくも余の言にして聴かれずんば、則ち師弟の義永く絶たん。安くんぞ乱民の為に従はんや」と。
 すなわち、「災いに窮している民を救うのは奉行所の仕事である。それを促し支援するのならともかく、豪商を殺し財を奪って、それで民を救うとは。これはかえって民を災いに巻き込む所業であり、天下を乱す反乱者の行為である。この私の諌めをお聞き入れなさらないときは、師弟の関係は永遠に断絶させます。天下を乱す行為には従うことができません」と宇津木は諫言したのだ。
 大塩が摘発した諸大名・老中の違法な無尽講のことは、門弟の宇津木はおそらく知らなかったであろう。しかし大坂や近在の民が異常な米価高の中で難儀していることを見捨てて江戸への廻米に腐心する町奉行の悪行を怒る気持ちは、宇津木も同様であったに違いない。だから大塩が決起の前に、所蔵する書籍のすべてを売り払い、困窮する民を救おうとしたことは、大塩が単なる学問の徒ではなく、実践を重んじる儒学者としては当然の行為として門弟の目には映ったことであろう。
 しかしだからといって、民の苦難を省みない町奉行を殺して豪商の店に火をつけ金品・米穀を強奪して民に分ける武装蜂起を企てるとは。しかもこの決起に大坂周辺の百姓や都市の貧しい民たちに同調して加わるように呼びかけるとは。これは大塩が年来最も憂いていた、百姓一揆・打ちこわしの類であり、多くの民を犯罪に引き入れる行為で、とても高名な徳の高い学者の行為とは思われない。
 なすべきことは、先生の学問の力・世間への信用の力を持って、幕政に関る人々の中で心ある人士に役人の腐敗と時勢の窮迫とを告げ、速やかに民を救う施策を施すとともに、そのような仁愛に基づいた幕政に転換するよう申し入れ、人々を動かすことではないか。これが大塩から武装決起の決意を聞かされた時の、多くの門弟の心情であったと思う。大塩の心根は理解できる。大塩が政現状を憂い社会の現状を憂う気持ちは理解できる。その批判は正しい。しかし大塩が取った方法・手段は間違っていると。決起とその意図を知らされた大塩の周辺の多くの者は、こう考えたに違いない。先生は憤激のあまりに血気にはやり過ぎだと。
 しかし大塩は門弟のこの諫言をきかず、蜂起の朝、諫言した門弟・宇津木靖を、門弟に命じて斬り殺させ、家に火を放って武装して町に出て行った。
 大塩は当代に名の知れた学者であった。
 彼の門弟は、大坂町奉行所の同僚やその師弟、さらには仕事を通じて知り合った大坂周辺の在郷町の商人やその師弟だけではなかった。彼の学者としての名声は広く知られており、その縁で、諸国の武士や豪農も彼の門を叩き弟子となったものもいた。また当時の高名な学者たちとの親交も厚かった。その中には高名な儒学者で「日本外史」の著者・頼山陽や大坂を代表する儒学者・篠崎小竹(1781〜1851)や京都の蘭方医・秋吉雲桂(1786〜?)、大坂の町人天文学者間確斎(1786〜1838)(父の間長涯は、寛政年間暦の改定を幕府から命じられた高名な天文学者)、高名な農学者の大蔵永常(1768〜?)とも親しく交わっている。この、大蔵永常からは、1830(天保元)年には、小笠原の無人島開拓計画への参加を求めれて、大坂の豪商とは金を出してもらうほどの付き合いはないと断っている。さらに高名な儒学者で後に江戸の林家の塾昌平坂学問所の儒者ともなり大塩も敬愛した佐藤一斎(1722〜1859)には、自著を送って批評を請うなど、当代随一の学者たちや、さらには畿内周辺の諸藩の儒者や家老たちとも親交があり、諸藩主に招かれて講義することもあった。
 さらに先の建議書のところで見たように、幕政に大きな影響力を持っている幕府大学頭林述斎や、水戸藩主徳川斉昭とも親交があり、彼らを通じて、幕府老中や諸大名の犯罪を直接将軍の耳に入れ、幕政改革を行うよう進言してもらうことも可能だったと思われる。事実後の幕府の天保改革のきっかけは、12代将軍となった徳川家慶に対して、斉昭が建白書を提出したことであったと言われている。大塩が武装決起をすると同時に老中らの悪行をあばく建議書と不正の資料を幕府に直接提出するのではなく、もっと前にこれを徳川斉昭や林述斎に渡して吟味を願い、彼らから代替わりしたばかりの新将軍に幕政改革の進言をしてもらい、その際に、現職の老中や閣僚がいかに大きな犯罪に手を染めているかを示す動かぬ証拠を添えてあれば、幕政改革はもっと早期に行われたかもしれない 。ただしこれは、その幕政改革が社会の崩壊現象を食い止めるに有効なものであるかどうかの問題とは別であるが。
 なぜ大塩平八郎は、このような合法的な手段を講じて幕政を改革しようとしなかったのか。
 唯一実現可能であった方法を捨て、幕末の尊王攘夷派の志士のように、自らの政治路線の実現の障害となっている老中や役人を、直接天に代わって誅殺するという天誅を実施する。この短絡的で自分だけを天が選びし者と自惚れる血気に逸った行動に、すでに45歳という壮年に至っていた高名な陽明学者が手を染めることは信じられない所業である。しかも多くの門弟や家族を道ずれにしただけではなく、決起の真の目的も知らされないまま、多くの百姓らが決起に参加させられ、その中には死罪となったものも多数いる。
 あるいはこれは、彼が奉行所与力の職を通じて、例えば飢饉の備えとして100万石の籾米の備蓄を進言して容れられなかったことや、諸大名・幕閣の要人までも不正な無尽講に手を染めていることを摘発したにもかかわらずこれを握りつぶされたように、今の幕府の要人たちに対しては、自分の利益しか追求しない小人に期待することはないとの深い絶望に囚われてのことであったかもしれない。しかし完全に絶望したのなら蜂起と同時に不正の証拠を添えて老中に建議書を提出したことは理解に苦しむ。大坂に大きな混乱が起き、これが自らの犯罪に起因しているという明白な事実を突きつけられれば、犯罪者と言えども、為政者たる老中は前非を悔い改めると、心の底では一縷の望みを託していたのだろうか。
 大塩平八郎がなぜ無謀な企てに身を投じたのか。これは彼自身のその心情を語る日記や供述調書などが残されていないので、詳しい事情は永遠の謎となるに違いない。しかしほとんど同じ時代を生き、同じく儒学を深く独力で学んだ人である同時代人二宮尊徳の、絶望に陥ることなく、同時に無為無策の為政者を声高に非難することもせず、たゆまぬ努力によって自分の周囲に彼の思想に同調し、社会の底辺から社会の解体を防ごうと努力する多くの武士や百姓の仲間を作り出した行動と大塩平八郎の行動とを対比したとき、そのあまりの落差に愕然とする。百姓として地に足をつけて日々農作物という生き物を育てて恵みを生み出す仕事に従事してきた尊徳の人を見る目と、奉行所与力として日々民の所業を裁いてきた平八郎の人を見る目との、生まれと立場の違い、そして日々の仕事と学問の相互関係の違いによって形成された人間性の差なのであろうか。
 それはともかく、 厳しく自分を律し己の心にある利己心を克服して万民に仕える資格を得た自分だからこそ天に代わって悪を誅することができるという、大塩が手を染めてしまった天誅の思想と行為は、大塩の思惑を超えて、この後の世界に大きな影響を及ぼしてしまった。幕末以後流行する天誅思想は、大塩の決起に始まり、それは現実に対する絶望に基礎を置くということは、記憶するに値する問題だと思う。

(2)西欧に対抗できる強い国家の建設を目指した天保の改革

 「つくる会」教科書は続いて、老中水野忠邦が主導した天保の改革について、次のように記述している(p158〜159)。

 1841(天保12)年、家斉が死去すると、水野忠邦が老中首座となった。忠邦は、幕府の財政を改善し、大塩の乱のような都市騒動に備え、さらに外国船の来航に対処するため、改革を開始した(天保の改革)。忠邦は、まず徹底した倹約令を出し、歌舞伎や華美な風俗や大衆向けの文芸を厳格に取りしまった。そして、農村を再建するため、農民が商業をいとなむことを禁止し、農民の都市からの帰村(人返しの法)をはかった。また、物価抑制のため株仲間の解散を命じた。忠邦は定信以上に徹底して、農村再建と商業抑制に取り組んだ。
 また、アヘン戦争で清が敗北したとの情報を得た忠邦は、欧米諸国の軍事力が強大なことを悟り、異国船打払令をゆるめ、漂着船には水や薪を給付することを命じる一方、西洋式砲術を採用して軍事力を整えた。さらに、上知令を出し、江戸と大阪周辺の旗本や大名の領地を幕府の直轄地にして、江戸湾(現在の東京湾)や大阪湾の海防を強化しようとした。加えて、外国船が江戸湾を封鎖する場合に備え、房総半島の銚子(千葉県)から利根川を経て江戸へいたる水路を開くため、印旛沼工事を行った。
 しかし、忠邦の改革は商業を犠牲にして農村の再建をはかるものだったので、流通が激しく混乱した。上知令が出されたことへの大名たちの反発が強まり、忠邦は老中職を追われた。こうして幕府の政治は行き詰まり、大名たちへの権威もゆらいでいった。

@比較的良く整理された改革政治の性格付け

 この教科書の天保の改革についての記述は、比較的詳しくかつよく整理された記述である。
 まず一つには、華美な風俗の抑制と商業的農業の抑制や人返しの法、さらには株仲間の解散が一つながりの政策であり、発展する商品経済を抑制して農村を立て直して幕府の財政をも立て直すために、徹底して商業を犠牲にしようとするものであったことがきちんと示されていること。また二つ目には、異国船打払い令の緩和と西洋式砲術の採用、さらには江戸・ 大坂周辺に対する上知令の発令、そして印旛沼工事が一連のものであり、これらはみな、迫り来る欧米諸国に対抗して、江戸湾や大坂湾という、当時の政治的経済的な中心地の海防を強化しようとする政策であったことがきちんと示されていること。
 この二点は、最近の天保の改革研究進展の成果を良く吸収し、天保の改革が、国内体制の危機と迫り来る欧米諸国との衝突の危機という二つの内外の危機に同時に対処しようとした改革であることをきちんと示し ている。
 ただし、冒頭の「家斉が死去すると、水野忠邦が老中首座となった」との記述は誤りである。
 彼が老中首座になったのは、それよりも1年ほど前の、1839(天保10)年12月のことであり、彼はそれ以前から将軍家慶が世継ぎであった時代からの側近であったので彼の信用も厚く、1837(天保8)年の4月に家斉が将軍を辞し9月に家慶が将軍位につくや、後の天保の改革の先駆けともいえる政策を実施しはじめ、旗本に対して三ヵ年の倹約令を出したり、江戸の町人に対して身分不相応な華美な風俗に流れることを戒め禁令を出したりしていた。しかしこの時期は西の丸に退いた前将軍家斉が大御所として権勢を振るい、彼の側近たちの幕政における発言権が強かったため、忠邦の政策は完全には通らなかった。
 1841(天保12)年の閏1月に大御所家斉が死去したことで初めて忠邦は幕政改革に乗り出すことが可能となり、彼の政策に反対するであろう家斉側近勢力を4月には罷免して全権を掌握し、その後5月に天保改革令を将軍家慶の名で発令したのだ。

A「近代中央集権国家形成の先駆け」の視点が欠落した記述

 しかし一方でこの教科書の記述には、天保の改革の性格を歴史的に正確に位置づけるためには、まだまだ大きな欠落点も存在する。
 その一つは、天保の改革が結局のところは、従来の幕藩体制といわれた既存の体制の擁護にすぎない、封建的な後ろ向きの改革であったかのように記述されているところである。これは商業を抑制して農村を建て直し、幕府の年貢収入を確保しようとしたり、物価を抑制して幕府の支出を減らすためにも株仲間を解散し、大商人を犠牲にしようとしたという記述あたりに良く示されている。
 たしかに農村立て直し策は寛政の改革とも共通した時計の針を後ろに戻そうとするかのような政策では有るが、 後に見るように、従来の村共同体を拠点とした百姓と幕府の妥協によって成り立っていた関係を清算し、近年の農業発展で拡大した生産量に見合った年貢を取ることで、百姓の余剰の収奪によって幕府財政を強化しようとする積極的な側面も持っている。また、株仲間の解散は、 これも従来の特権的商人との協調的政策を清算しようとしたものであり、倹約令とあわせて考えれば、商業が衰微しても構わないから、物価を安定させて幕府財政を安定させようとする強固な意志が見え隠れする。さらにこれは、封建権力と癒着した特権的大商人の流通・生産支配を打破して、商工業の自由化を図ることを意味し、この教科書は記述していないが、この株仲間の解散の直後に命じられた諸藩による藩専売制の禁止とあわせると、のちに明治維新によって行われた商工業の自由化政策の先駆けと考えられる。
 つまりこの政策は、単に商業を犠牲にするという封建的な後ろ向きの改革ではなく、諸藩という独立した国家が商工業を統制することを禁止し、これと同時に特権的大商人集団が商工業を統制することも禁止する、極めて近代的なものだったのだ。これを突き詰めれば、諸藩の解体と商工業の自由・職業の自由に繋がる。
 こう考えてくると、農村立て直し策も株仲間の解散や倹約令もすべて、従来の百姓や町人との協調的な関係を清算して、より強力な幕府を築こうとする点で、次にのべる内外の危機に対応した強力な政権の確立という、極めて近代的な側面を持っていたと言えるであろう。
 また、西洋式砲術の採用にしても、これは単に幕府が採用しただけではなく、諸藩にも採用を促したものであり、さらにこれは従来の騎馬武者中心の軍事体制から、足軽を主体とした大砲鉄砲部隊への軍事体制の転換を意味するのだが、この軍事力のありかたの転換が持つ体制の根本的な転換の意味はきちんと示されていない。この西洋式砲術を主体とした軍事体制への転換は、後に明治維新によって行われた身分制の解体と国民皆兵制に道を開く政策だ。
 さらに上知令にしても、これを単独で取り上げると、単に江戸・大坂周辺を幕府直轄地にすることで、旗本や諸大名を犠牲にして幕府の勢力を強めようとするものにしか見えないが、教科書は記述していないが、この上知令と同時に、諸国の譜代大名領や家門大名領内に点在している幕府領をも整理して、幕府直轄地の一元化を図ろうとしており、これは同時に、分散化していた諸大名領をも一元化しようとするものであり、総じて、幕府を中心としての諸大名の連合政権のそれぞれを強化することを目指したものであることが見失われている。

:西南雄藩や東北雄藩などの外様の国持ち大名領の多くは、江戸時代初期を除いて幕府によって長らく改易がおこなわれていないため、その領地は分散化せず、一国を一円支配する体制が維持されていたことは、幕府直轄地や譜代大名領や 親藩(家門)大名領と対照的であった。だからこそ江戸中期から所領が分散化した幕府直轄地や譜代大名領・家門大名領では、統一的な水利事業ができず、しばしば大洪水に見舞われていた。これゆえ享保の改革以後の幕府は、これらの地域の水利事業を幕府の主導下で行うとともに、国持ちの外様大名に手伝い普請を命じて、大規模な統一的水利事業を行おうとしていたのだ。しかし領地を幕府が一円的に支配していないなかでの統一的水利事業の推進は、諸大名や旗本の資金を幕府が立て替えることとなり、これが幕府財政の悪化の原因ともなり、しだに放棄されていたことは、すでに見たとおりである。

 そしてこの大規模な領地の付け替え政策は、これらの幕府を越えて諸大名にも促された、従来の幕藩体制と言われたものを根本的に改編しようという意欲的な改革を幕府が主導し、従来手をつけることができなかった大名領地の根本的な再編すら主導して改革を進めることを通じて、中央政権としての幕府の統制力をより強化する、幕府を中心とした中央集権国家の建設に向けた一歩であった。
 こうして天保の改革は、明治維新にも繋がる近代的な性格をもったものであると、最近の研究は示しているのだが、このような成果には、「つくる会」教科書も含む多くの教科書はまったく目をつむっている。
 したがって二つ目に、以上のような天保の改革の性格がきちんと把握できていないということは、この改革が破綻した原因とその結果の把握にも問題を生じさせている。
 株仲間の解散はかえって流通を混乱させたと記述されたが、 たしかに諸問屋株仲間に代わる諸国から江戸への物資移入のルートが確立されないなかでの「素人直売買勝手次第」は、過度の競争と物資流通の混乱を招いたことは事実である。しかし、近年の研究によれば、藩専売制の禁止ともあわせて、これによって江戸に流入する商品の量が増大し、物価は 一時的にせよ下がっていることが示されている。株仲間解散によって流通が混乱したという従来の研究は、天保の改革が主として大名の抵抗によって潰れたのちに、再度特権的な大商人と結びついて町奉行所を中心として株仲間が再建される際に、再建の理由として特権的大商人の主張をそのまま無批判に取り入れた奉行所の言論を鵜呑みにしたものだったのだ。
 また上知令に大名たちが反対したのは、これが従来の大名改易の慣例を無視したもので、何の落ち度もないのに領地を改廃されることへの怒りに端を発したものであり、 特に日本の経済の中心地であり生産力の高い大坂周辺に飛び地で多くの領地を持っていた御三家などの家門有力大名や老中などの譜代大名が、改革政治の動きを、 もっとも年貢諸役収入の大きな大坂周辺の彼等の領地が取られることは、彼等の既得権益を侵害するものと見なしての行動であった。
 しかし上知令とこれにともなう措置は、後に明治政府がとった、版籍奉還・廃藩置県政策の先駆けを成すものであり、改革推進派のほうが時代の動きを見据えた先進的な観点から動いているのであり、上知令に反対した大名のほうが、時代の動きを見ない、既得権益擁護の時代遅れの対応であったことはすでに明らかである。
 したがって天保の改革失敗の原因は、それが旧来の体制の根本的な改編の性格を持ち、幕府が強大な権力を行使しなければ実行できないものであったことに由来する。しかし江戸幕府は、近世編1以来縷々見てきたように、従来考えられてきたような集権的な絶対主義政権ではなく、諸大名の合議に基づく連邦国家だった 。
 大名の改易にしても、笠谷和比古の研究によれば、無嗣断絶を除けば、その大名の治世の不備を放置しておくと、天下に大きな混乱が生じると判断した場合に限られ、しかも改易するに際しては、関係する多くの大名に審理の過程がすべて分るような半公開の場で審理が行われ、さらに関係諸大名にも意見聴取がなされて審理され、改易が決定された場合にも、関係諸大名にも理由が詳しく開陳されるという体制をとっていたのだ。そして幕府の政治決定機構そのものも、老中 ・若年寄などの譜代大名や諸奉行を勤める上層旗本の合議に基づいており、けっして将軍や老中首座の号令一つで動くものでもなかった。
 従って大名領地の大幅な付け替えを含む上知令は、外様だけではなく、幕閣内の大名の反対や家門大名などの反対で潰れたし、株仲間の解散も有力商人とも結びついた町奉行所の激しい抵抗に会い、上知令失敗で改革が頓挫するや、町奉行所の主導の下で、株仲間は再建されたのだ。 さらに、年貢増徴を中心とした改革は、実際に百姓と向き合う代官たちのボイコットや百姓等の強力な反対に直面し、農村建て直しのための都市へ流入した人々を村へ帰そうという試みも、実施不能という町奉行所の反対にあって頓挫したのだ。
 幕府の天保の改革は、当時の日本の国家社会体制の根本的な組み換えを意図していた。だからこそ旧構造に基づく幕府の政治機構の力では実施することはできず、後に明治維新という革命的な激動を通じてしか実現できないものであった。
 この点が、諸藩が同じ時期に行った、諸藩の個別の権力機構と財政機構の再建をもくらんだ諸藩の天保改革とはその性格が根本的に異なる。
 したがって幕府の天保改革の失敗がもたらしたものは、「つくる会」教科書が描いたような、諸大名に対する幕府の権威の低下ではなく、中央集権的な統一国家を作るのか、それとも従来のままの連邦国家のままで行くのかという国家のありかたをめぐる政治闘争の激化であり、さらにはその主導権を巡って、将軍が中央集権的国家の主権を握るのか、有力諸侯が徳川氏とともに中央集権的国家の主権に参与するのかという争いをも生み出し、これが鎖国を続けるのか開国するのかという従来からの対立ともあわせて複雑化し、国のありかたをめぐる激しい政治闘争の時代を生み出すこととなったのだ。
 また、将軍・幕府を中心とした統一国家という構想が天保の改革で潰えたわけではないことは、後の大老井伊直弼の動きや、15代将軍慶喜の動きによくしめされている。
 天保の改革以後の日本政治史の課題は、誰が日本国家の権力を握るのかという問題であり、幕府の権威が低下したというよりも、この流れの中で幕府・徳川氏も多くの有力諸侯の一つとして、その主導権争いの中に参入するしかなくなったということなのだ。
 このように「つくる会」教科書の天保の改革破綻の捉え方は、他の多くの教科書と同様に、改革破綻による幕府の権威の低下を直接そのまま 、天保の改革を成功させた西南雄藩の主導下での明治維新における幕府の軍事的解体に結びつけ 、それが必然であったとする、明治以降に新政府によって流布され、さらに戦後にマルクス主義史学によって強化されたものの見方に立つものであり、大きな時代の流れの中に位置づけた歴史的評価とはとうてい見なされないものであった。
 要するに天保の改革は、日本の国家社会を根本的に変えようという時代に即した新たな性格の改革であり、 その改革が同時代の人の意識をはるかに先駆けたものであったために多くの反対を招き、しかもこの改革の実行には、統一国家権力としての幕府権力の強化という改革の目的となることが実施の前提にあったために、必然的に失敗するしかなかったのだ。

B強烈な対外危機に裏付けられた天保の改革

 しかし天保の改革の歴史的性格を考えるときに、まず第一に強調して於かなければならないのは、この改革が直接的には、迫り来る欧米 諸国の圧力に呼応してなされたものであり、だからこそ強烈な危機感に基づいて、従来なしえなかった根本的な改編に手をつけようとした という点だ。

(a)アヘン戦争情報到来に連動した天保諸改革 
 このことは、天保の諸改革とアヘン戦争情報到来とを時系列的に並べてみると良くわかる。

アヘン戦争情報 天保改革の諸政策など
1839(天保10)年夏。3月に清国が広東でイギリス商人からアヘン2万余箱を没収し、化学処理の上で廃棄し、アヘン厳禁の方針を明示したことを、オランダ船が伝える。  
1840(天保11)年6月オランダ船。1839年11月(天保10年9月)の広東港外川鼻沖でのイギリスと清国との海戦の模様を伝える。大砲で唐船一艘が吹き飛ばされ二艘は撃沈。アヘン戦争勃発。  
1840(天保11)年7月中国船。同じく川鼻沖海戦を詳しく伝える。  
  1840(天保11)年9月。長崎町年寄高島秋帆が西洋式の火砲と船艦中心の武備に改めよとの提議を幕府に提出するも却下。
1840(天保11)年12月中国船。寧波府定海県が44艘のイギリス船に襲われイギリスは定海県を占領を伝える。  
1841(天保12)年3月中国船。イギリスによる定海占領と広東へイリス船100余艘来襲を伝える。 1841(天保12)年閏1月。大御所徳川家斉死去。4月、家斉側近勢力罷免さる。5月。高島秋帆が幕命により西洋砲術の演習を行う。幕府天保改革開始を布令。
1841(天保12)年6月中国船。広東一帯での戦闘の様子を伝える。イギリス人は強く昼夜を問わず攻め立てている。 1841(天保12)年6月。倹約令を出し、質素倹約を命じる。
  1841(天保12)年9月。町奉行に帰農策の検討を命じる。
  1841(天保12)年10月。町奉行に芝居座所替の検討・床見世の調査を命じる。
  1841(天保12)年11月。町奉行に寄席禁止の検討を命じる。
  1841(天保12)年12月。株仲間など全ての問屋仲間・組合の解散を命じる。江戸歌舞伎三座の所替を命じる。
  1842(天保13)年2月。江戸市中の寄席を15軒に制限する。
1842(天保13)年6月オランダ船。イギリスが清国との戦闘の終了後に、通商要求のために日本へ軍艦を派遣する用意があることを伝える。 1842(天保13)年6月。すべての書物の出版を町奉行の許可制とする。為永春水・柳亭種彦・市川海老蔵を処罰。高島秋帆が自由に砲術を教授することを許される。
  1842(天保13)年7月。異国船打払令を撤回。薪水食料などの給与を許す。
  1842(天保13)年8月。川越・忍両藩に 相模と房総沿岸の警備を命じる。旗本御家人救済に猿屋町会所の低利の金を貸す。寺村静軒著「江戸繁昌記」絶版処分。
  1842(天保13)年9月。諸大名に軍備の増強を命じる。百姓に倹約を命じ、農間余業を抑制する。
  1842(天保13)年10月。諸大名が自国・他国の産物を専売することを禁止。代官に在陣令を出す。
  1842(天保13)年12月。下田奉行を復活し羽田奉行を新設。
  1843(天保14)年3月。諸国に人別改の強化を命じ、江戸より人返しをはかる。
  1843(天保14)年4月。将軍家慶日光に社参。町人百姓の贅沢な家作を禁止。幕府は蒸気機関車と蒸気船の輸入をオランダ商館に商会する。
  1843(天保14)年5月。旗本御家人救済のため馬喰町御用屋敷貸付金の半額を棄損し、半額を無利息年賦返済とする。幕府鉄砲組を改組し大筒組を新設。
  1843(天保14)年6月。江戸・大坂十里四方上知令を出す。印旛沼掘割工事を開始。新潟を上知し新潟奉行を新設。御料所改革を始める。
1843(天保14)年7月オランダ船。イギリス軍艦サマラング号が日本に測量のため来航すること、イギリスが香港を占領したこと、1842(天保13)年8月に、英・清間に南京条約が締結され、上海など5港の開港と、香港のイギリス領有などが決まったことを伝える。 1843(天保14)年7月。大坂・堺の町人に百万両の御用金を命じる。

 

 

  1843(天保14)年8月。水野忠邦、上知の断行と飛地領の整理を命じる。
  1843(天保14)年閏9月。上知令を撤回。水野忠邦老中罷免。


 これによると、1839(天保10)年夏に伝えられたアヘン戦争勃発の原因になったアヘン没収とアヘン厳禁令の情報には、幕府は何も反応していない。そして次の1840(天保11)年6・7月にもたらされた清国敗戦の情報は幕府内外を大きく震撼させ、長崎町年寄高島秋帆が西洋式の火砲と船艦中心に武備を改めるようにとの提議も、幕府内に武備の西洋化に反対する勢力があったため、結果的には却下された。
 この状況に大きな変化を与えたのが、1840(天保11)年暮れから1841(天保12)年初頭の中国船がもたらした、アヘン戦争の始まりとイギリスの優秀な火器の前ために清国が劣勢であることを伝えた情報 であり、1841(天保12)年5月の幕府改革令は、この衝撃の下で開始されたのだ。
 もちろん改革開始は、この年の1月に大御所家斉が死去したことによって幕府内で将軍家慶・老中水野ラインの動きを邪魔する可能性の高い勢力を排除できたことが、改革開始を可能にした国内的要因で有ることは忘れてはいけないが。
 そして改革の最初に行われたのは、最新式の西洋砲術の採用であったことは、天保の改革が、清国を飲み込みつつある西洋列強との衝突に備えた改革であることを如実に示している。
 改革はこのあと、矢継ぎ早に行われるが、1841(天保12)年中に行われたものは、倹約令の徹底的な実施である。
 これは改革の大きな目標の一つが、大商人の犠牲の下で商品経済の発展に伴う華美な生活習慣を追放することで、幕府の支出削減と旗本御家人の生活再建を図るものであったことを示している。強力な国家を作るにしても、まず財政の確立がなければならないからである。
 そしてこの動きの末に、年末の株仲間など全ての問屋仲間・組合の解散が出てくる。
 これは当時問題になっていた江戸周辺の物価高騰の原因の一つが、株仲間に結集する大商人の商品流通の独占であったことにたいする対応であり、物価を下げることで、幕府財政や御家人旗本の生活再建を図ろうとするものであった。またこの約1年後には、江戸周辺の物価高騰のもう一つの原因である、諸藩やそれと結びついた商人による物資の藩専売制も禁止される。これは流通経路が自由ではなく、株仲間商人と藩と結びついた特権商人との独占争いによって江戸への商品の流入量が減ったことが、江戸の物価高騰の主たる原因でもあったからである。
 そして1842(天保13)年の6月に、イギリスが清との戦争の終了後に通商要求のために日本に軍艦を派遣することが伝えられた直後 に、1842(天保13)年7月の異国船打払い令の緩和が行われる。これは、直近の時期に、へたすれば日本とイギリスとの間に戦争すら勃発しかねないという危機感の下で行われたのだ。
 これ以後の1年間は矢継ぎ早に、沿岸警備の充実や軍備の充実が布令され、印旛沼掘削工事の開始によってイギリスと日本とが戦争になった場合に江戸湾が封鎖されて江戸に経済危機が起こらないように準備するなど、イギリスとの戦闘の準備を図るとともに、一方で従来の慣例を無視してでも、江戸・大坂十里四方上知令と飛地整理が布告され、幕府の統治権限の強化と諸藩の統治権限の強化策が図られ、幕府を中心とする強力な国家の建設へと邁進する布告が次々と出されていった。
 そして、これらの幕府強化策が諸大名の反対で頓挫しかねない状況の最中の1843(天保14)年の7月に、イギリス船が来航することと、アヘン戦争における清国の敗北と強制的に開国され香港がイギリスに奪い取られたことが伝えられたのだ。
 天保の諸改革が、アヘン戦争情報の到来に伴って起きた危機感に急き立てられるようにして、矢継ぎ早に行われたことがよくわかる。

(b)守旧派の巻き返しで頓挫した天保改革
 
しかしそれにも関らず1843(天保14)年閏9月の上知令の撤回とともに老中水野忠邦は老中を罷免され、天保の改革はここに中止された。
 旧来の慣行をも無視して、幕府や諸大名の統治権限を強化しようとした天保の改革は、それ自身が諸大名や大商人の既得権益の解体再編を伴うものであったために、後に見るように、既得権益を守ろうとする守旧派の激しい抵抗を招いた。そしてこの抵抗は、上知令によって改革断行を推進してきた老中の一部の領地をも収公の対象としたために、改革推進派内部にも足並みの乱れを生じたために大きくなり、結果として老中水野忠邦の解任に帰結した。
 これによって上知令や幕領・大名領の飛び地整理や印旛沼掘削による水路の確保や、株仲間・組合などの解散や諸藩による専売制の禁止など、幕府大名の権力の強化と経済活動の自由化など、日本を中央集権的に強化する方策の多くは中止または廃止に追い込まれた。
 水野忠邦など改革を積極的に推進した者たちはどれだけ歯軋りしたであろうか。
 日本と欧米列強との衝突は目の前に迫っている。しかしこれに対して日本を中央集権的に強化する方策は諸大名の反対で頓挫し、改革の中止も余儀なくされた。このままでは日本はどうなるのか。
 そして改革の中止後も欧米列強の日本への接近は進む。
 1843(天保14)年10月には、イギリス軍艦が琉球八重山諸島を測量し、翌年1844(天保15)年3月にはフランス軍艦が琉球に来航して通商を要求。この危機の継続の中で 再び国防体制の強化の必要が生じて、6月に水野忠邦は再びこの任務を帯びて老中に返り咲くが、老中阿部正弘以下の幕閣多数派は諸大名と協調しながら、欧米の開国要求には応じない路線を選択し、1844(天保15)年7月にオランダ国王から出された開国を勧告するとともに日本の近代化にオランダが協力する旨の国書に対しては、これを拒む返書を1845(弘化2)年6月に送ってしまう。
 幕閣の多数派は、武備の強化などは受け入れたが、体制の根本的な変革は拒否し、根本的な変革のために開国して西欧文明を取り入れることは拒否したのだ。そして9月には水野忠邦は再び老中を解任され、その領地は削減転封され蟄居させられてしまう。
 こうして幕府の天保の改革は頓挫し、幕府を中心とした中央集権国家の建設は幻となったのだ。

 残念ながら「つくる会」教科書も含めた多くの教科書は、アヘン戦争に伴う危機感に追い立てられるようにして改革が進行したことが、まったくといってよいほど記述されていない。
 これはアヘン戦争の記述事態が、次の近代の章で記述されていて、天保の改革を促した世界情勢の変化がここではほとんど触れられていないことにも関係はしている。日本における近代の始まりを、ペリーの来航と日本の開国に置く従来の史観に依拠して教科書の多くが記述されているからであろう。
 日本における近代の始まりはむしろ、アヘン戦争の勃発に置くべきであり、この戦争の勃発と清国の敗北によって醸成された危機感が、天保の改革という、日本最初の中央集権国家形成の試みを突き動かしたのだ。
 この意味で天保の改革は、近代の章の冒頭に、アヘン戦争とそれへの対応とその頓挫という形で記述されるべきであろう。

C天保改革の経済政策−諸身分との関係の見直しによる幕府財政再建策−

 では続いて、天保の改革の諸政策を順次検討しておこう。
 まず最初は、その経済政策である。
 一見すると、天保の改革の経済政策は、異質なもののアマルガムのように見える。 
 一方は、株仲間などの問屋・組合の禁止と藩専売制の廃止に見られる、商工業の自由化につながる近代な政策。他方は、倹約令の徹底や都市での人返し令、さらにはこの教科書ではまったく記述されていないが御料所改革という、幕府直轄領における年貢収奪の強化など、商工業の発展を規制して封建的な収奪を強化しようとする政策。この二つが並存している ように見えることに特徴がある。
 しかし先にも少し触れたように、これらの政策は、経済の実態を握っている百姓や町人との関係を根本的に見直し、従来は諸身分との協調によって成り立っていた政策を根本的に改め、経済の実権を百姓や町人の手から取り上げてその利益を吸い上げ、幕府の財政を安定化させようとする意図であったと見るべきであろう。

(a)江戸衰微をも厭わず断行された倹約令
 
まず改革の先鞭を切って行われた倹約令を見ておこう。
 この倹約令は徹底したものであった。あらゆる「贅沢」を禁止し、しかもそれが守られているかどうか、二重三重に監視するものであった。そしてこの倹約令は主として、町方に対して出されたものだった。
 最初に出されたのは祭礼緊縮令であったが、これに続いて次々と禁令の範囲は拡大していった。贅沢な菓子・料理や雛人形・能装束などに金銀を使用することを禁止し、婦女子の衣服や櫛・笄(こうがい)・簪(かんざし)類の材料・代銀にも制限をした。しかもこの統制は消費者だけではなく、生産販売をする職人や商人にも及んだ。
 そしてお上によって贅沢として禁止あるいは制限されたものは、生活全般に及んでいった。
 金銀具の所有や売買、初物の売買、違法な建築や華美な庭園、賭場や富くじ、銭湯の混浴や女髪結い、さらには、身体に彫り物をすることや異風の頭巾で顔を隠すことや、娘義太夫や矢場女・隠売女の禁止、そして凧に彩色など手の込んだ絵柄を施すことまで禁止されてしまう。はては、庶民の娯楽にまで、禁令や制限は及んだ。
 江戸庶民の夏の楽しみである花火は火災の危険があるからと禁止され、店先で碁や将棋をすることすらも往来の邪魔と禁止。そして、庶民が入場料銭36文(約1080円)と安価で楽しめ、 町奉行支配地で211軒、寺社奉行支配地で22軒にまで増えていた寄席まで水野忠邦は全廃を指示した。これは結果として、庶民のささやかな楽しみを奪っては不満が鬱積すると反対した町奉行所の抵抗によって廃止は免れたが、営業許可は古い順に町奉行支配地で15軒、寺社奉行支配地で9軒に制限され、演目も、神道・心学・軍書の講義と昔話に制限されてしまった。
 さらに上層町人など財力のある人々の楽しみなどは、「贅沢」として目の敵にされた。
 花会と称して様々な派手な会合を開くことや、彩色や絵柄の手の込んだ合巻絵草子や人情本と称する絵入りの読本、さらには、歌舞伎や芝居。特に歌舞伎や芝居は、贅沢な風俗はこれらのものから流行したと幕府の要人たちは考えていたのだから、1841(天保12)年10月に、江戸の芝居三座のうちの堺町・葺屋町の芝居町が焼失したとき、老中水野忠邦は、三芝居町の取り潰しか移転を命じた。
 これに対しても町奉行所からは、芝居が禁止されてはそれで食べている様々な職業の町人の生活がなりたたないと反対が出て、結果としては、芝居三座を一箇所にまとめて移転する事が決定され、贅沢な風潮を撒き散らす芝居は、吉原などの遊女の集まる所を「悪所」と呼んで隔離したように、江戸市中から離れた浅草山之町が移転先とされて「芝居くるわ」となって市中から隔離された。
 そして江戸の町人が禁令をきちんと守っているかどうかは、江戸町奉行所の同心らに見回らせるだけではなく、江戸の町組織を再編成し、町名主31人に市中取締りを命じて、担当区域を1番組から21番組に分け、月番を決めて取り締まりにあたらせた。さらに担当の同心などが手心を加えないように、取り締まりにあたる同心や名主の行動を見張る隠密まで放たれたという。
 こうして江戸町人のありとあらゆる「贅沢」が禁止又は制限された結果、これに次にみる株仲間などの同業者組合の禁止によって市中に商品やサービスが出回らなくなり、江戸の商人街は、閑古鳥が鳴いてしまったのだ。
 倹約令が出されたのは、1841(天保12)年5月であったが、その一月後には、深刻な不景気が江戸の町を襲い、呉服商越後屋本店は6月の売り上げが前年比で約40%減となり、白木屋では70%減となったほどだったという。

 ではなぜこれほどの厳しい倹約令が断行されたのか。
 上に見たように、当時町奉行を勤めていた遠山景元(南)・矢部定謙(北)らが、水野忠邦の倹約令には激しい抵抗を見せている。
 彼等町奉行の主張は、「贅沢な風潮の原因は町人ではなく武士の奢侈にある」「町人の奢侈を禁じては江戸の町が衰微する」というもので、厳しい禁令は主として武士を対象とし、町人にたいしてはなるべく制限に止め、江戸の町人の正業を保護しようとしている。しかしこれを水野忠邦を筆頭とする幕閣は無視し、町人に対しても厳しい倹約令を命じたのだ。
 彼等の主張は、「社会にあらゆる贅沢な風潮を撒き散らしている本元は大都市江戸であり」「奢侈な生活や華美な風俗を徹底して取り除かない限りは、幕府や諸藩の統治の衰微を救うことはできない」という、当時の多くの為政者に共通した危機感に立っていたのであり、「厳しい倹約令の結果として江戸の町が衰微してもかまわない」から断固として厳しい倹約令を実行しろというものであった。
 長く民政を担当してきた町奉行所はその日暮しの下層町人も含めた町人の生活の安定と彼等の既得権益の擁護を主眼としており、西洋列強の侵略の危機という焦燥に駆られた幕閣は、100年あるいは200年まえの江戸初・中期の質素な生活に戻して幕府や諸藩財政を確立し、西欧の侵略に備えた強力な中央集権国家の建設のためには、あらゆる既得権を打破するという観点に立っていたために、互いの主張は非和解的な対立を生んだのだ。
 この対立は上知令などで改革が、諸大名の既得権益に手をつけるまでは、水野を中心とする「改革」派の勝利に終り、水野は抵抗する矢部を勘定奉行時代の職務怠慢の咎をでっちあげて処分し、目付あがりの腹心の部下で徹底した洋学派嫌いの鳥居輝蔵を北町奉行に据え、遠山はその功を 賞する形で大目付という大名を監察する閑職に排除して、「改革」を推進した。
 この結果倹約令違反の咎で、人気作家の為永春水・柳亭種彦などが処分され、彼等の本を出した版元も処分。そして歌舞伎役者市川海老蔵も贅沢な暮らしを理由に江戸所払いとされたのだ。
 

 注
:もちろん旗本であった柳亭種彦の場合は事情が少し異なる。実名は高屋彦四郎という200俵取りの旗本であった彼は、その代表作の「偽紫田舎源氏」が風俗淫乱の書として処断されただけではなく、旗本が いかがわしい仕事をして金を稼いでいたという「武士にあるまじき行為」も問題にされていたのだ。

 しかしこの強権的な倹約・奢侈禁止令は、町人だけではなく、町奉行所が反対した事に見られるように、武士や大名の間にも不評であった。人為的な不景気の現出は、かえって江戸のその日暮らしの人々の生活を破壊し、治安を悪化させるだけではなく、富裕な商人からの貸付に頼って生活している武士や大名の暮らしをも直撃する。
 したがってこの政策は、改革を推進した老中水野忠邦が失脚すると共に次第に緩和され、もとに戻っていった。

(b)都市流民の強制的排除による農村立て直し策
 
都市の町人に対する倹約令の徹底は、一方では、江戸など大都市を衰微させることで、大都市に流入した農村からの大量の流民を強制的に農村に帰させて農村を立て直そうとする政策の一環でもあった。農村から都市へと大量に人々が流入する原因の 一つが、都市の繁栄と、簡単に職と住居とが見つけられる自由さにあると、当時の幕府代官の多くが指摘していたからでもある。
 従来は、出稼ぎや奉公稼ぎのために村から都市へ出ることに対しては、何の規制も行われていなかった。そのため、村で生活できなくなった百姓たちも勝手に「欠落」という形で都市へでてきたのだ。
 そして常に人手不足に陥っていた都市では、周辺の農村から流入する人口を労働力として当てにしており、例えば江戸の場合で言えば、それぞれの街道の江戸への入り口である千住や板橋や内藤新宿や品川の宿には、村から都市へ職を探して出てきた人を武家奉公人として受け入れる口入稼業である人宿の手先が出張ってきており、宿の入り口では、村から職を求めて流入したと見られる人を見かけると声を掛けて誘い自家の寄子とし、直ちに住むための裏長屋と仕事を斡旋することが日常的に行われていた。当時人宿が武家から請負っていた奉公人の総数は3万5143人という膨大なものであった。
  そして江戸に住めば、武家奉公人以外にも多くの仕事があった。米つきや大八車などで荷物を運送する車力。さらには、銭湯の雑役や、水汲みや町の木戸の番人や土方人足や駕篭かきなど。これ以外にも、天秤棒で商品を担いで売り歩く棒手振りなどの日雇い稼業がたくさん労働力を求めていたので、仕事にあぶれることはなかったのだ。
 老中水野はここを改めようとした。
 1843(天保14)年3月に「人返しの法」が出され、江戸への出稼ぎや奉公稼ぎはその在所の領主の許可状を携帯することとし、さらに今後新規に江戸の人別帳に記載することを禁じて、江戸の人別改めを春と秋との2回実施することとした。今後新たに村から江戸への移住を禁止し、出稼ぎや奉公稼ぎの場合には領主の許可を必要としたのだ。
 しかし公的な出稼ぎや奉公稼ぎは規制できても、勝手に行われる「欠落」まで規制はできないし、それを受け入れる体制を規制できなかった。さらに当初水野が企画した人返しは、町奉行の反対で骨抜きにされ、近年江戸に来てまだ妻子も居ないものだけを帰村させ、江戸に来て商売を始めたものや妻子がいるものはそのままとされたのだ。

(c)増大した余剰の収奪を画策した御料所改革
 
天保の改革においては、百姓と幕府との関係にも大きな変更が加えられようとした。
 天保の改革の農政については従来、奢侈の禁止や百姓を農業に専念させるために農間余業の制限をおこなったりしたことが主に取り上げられてきた。改革期間において村にたいしても、倹約と奢侈禁止が厳しく強制され、副業調査もごく零細なものまですべて書き出させるようになり、その中で居酒屋や湯屋・髪結床・研師などの業種が禁止され、農村と商業との関係を出来るだけ切ろうとしたことは確かである。
 しかしすでに200年ほど前の元禄時代から商業との関係を密接にし、田畑の作物を売るために栽培する商業的農業に移行していた農村を商業から完全に隔絶することは無理であり、交通と情報の発展によって村にも都市の風俗がすぐに流行する関係になっていたところで、倹約や奢侈禁止がどれだけ効果をあげたかた疑問である。
 むしろ天保改革における農政で特徴的なのは、享保の改革以後特徴的であった、大幅な年貢増徴策を抑制し、農業の発展による百姓の取り分が増えることを容認しつつ、百姓との協議と協調によってできるだけ増えた余剰を収納しようとする漸進的な政策が転換され、この間に増えた生産力の実態を徹底的に調べ上げ、その生産力の増大に見合った年貢の増徴を強行的に実施しようとしたことに注目すべきである。
 改革が始まった直後から幕府は、各地で年貢収納の可能な空き地や中小河川の堤防内側の川敷・寄洲・中洲などを百姓たちが細々と開墾して耕地化して来た場所にたいして検地を行い、年貢を徴収しようと動いていた。そのため1842(天保13)年10月には、近江国 (滋賀県)の甲賀・野洲・栗太三郡の300余村の百姓4万人が立ち上がり、検地に来ていた幕府勘定所役人を襲って「検地10万日日延」の証文を書かせて、検地を中止させる事態にも至っていた。
 しかし幕府はなおも年貢増徴策を図り、1843(天保14)年6月には、全国の幕府領を対象とした御料所改革に乗り出した。
 これは一村ごとに、起返地・見取場・反高場・流作場や切添地・切開場などと呼ばれた小規模な開拓地に石高をつけて年貢を賦課することや、新田畑の年貢率を引き上げること、そして年貢率が固定されている定免村については作物の生育状況を検分して実際の収穫量を調査し、これらの調査結果を帳面に記録することなどを代官などに命令し、それがどの程度実施されているかを、8月には九州を除く全国に勘定所役人が村を回って調査し、実際に作物の生育状況を検分して年貢率が適正かどうかを検査することを通告したものであった。
 これは検地は実施してはいないが、代官などにそれと同等の調査を命じたものであり、事実上今まで年貢が課せられなかった田畑を含め、すべての田畑を調査して年貢を増徴しようとするものであった。
 しかもこれが実施された1843(天保14)年は近来希に見る豊作になると予測されていたのだから、この豊作年の収穫を基準として年貢が決められたのでは百姓はたまったものではなかった。
 だから実施に当たっては多くの代官もこれに反対し各地の百姓も猛烈に反発し、実施を様々な理由をつけて免れようとしたが、幕府は強権的に勘定所役人の廻村を実施し、反対を無視して強圧的に高い年貢率を強制していった。
 従来の農政は、百姓の圧力によって、定免制の下で年貢率を長期に渡って固定化し、起返地・見取場・反高場・流作場などの新田畑の年貢は低率に固定し、切添地・切開場などの堤防内側の川敷・寄洲・中洲などの耕地には年貢をかけてこなかったわけだが、こうした百姓との協議による協調的な農政を全面転換し、農業の発展によって増大した余剰の全てを幕府が年貢として収納しようとする方向に転換しようとしたのだ。
 このあまりに無謀な政策も、老中水野忠邦の失脚後には中止となり、各地で改革の白紙撤回を掲げる百姓と代官所の攻防が続いた。
 天保時代の農村は、先の天保の飢饉の項で見たように、進展する貨幣経済による貧富の格差の増大と強権的ではないにしても継続的に年貢率をあげようとする幕府の政策により、極めて疲弊していた。一度大規模な凶作が起きれば飢饉となり、多くの人が餓死したり、暮らせなくなって都市へと逃げていったのだ。
 したがってこれも先に見たように、社会として崩壊しかけていた農村を立て直すためには、村共同体として貧富の格差を縮小する社会政策を実施して村共同体の力を強め、村として暮らしを立て直す改革「仕法」が様々に実施されていた。そしてこの改革「仕法」が実施される過程においては、先に近世編2の【26】で見た二宮尊徳の例が典型的なように、領主自身が生活を質素にして出費を減らし、百姓から収納する年貢を増やして贅沢な暮らしをするのではなく、年貢の余りを増やし、それを農村自身が拡大再生産を可能にするような社会的投資を行うことが要求されていた。
 このような社会状況を見たとき、天保の改革における御料所改革は、一方的に年貢収納率を上げようとする強権的な、時代の風潮に逆行するものだったと言えよう。百姓だけではなく幕府代官からも実施に反対が出るのも道理であり、改革中止後には、御料所改革自体が中止されるわけである。
 だが歴史の針を先に回して考えてみれば、これは明治維新によって生まれた統一権力が、全国の土地生産力を直接くまなく調査して地価を定め、この地価に対して一定の割合で恒常的に税を百姓から徴収しようとした地租改正条例の先駆けと言え る。また同時にこれは、地租改正政策の強行によって一定程度百姓の階層分解を促して大量の労働力を都市に追い出して工業化の基盤を生み出すとともに、権力から自立した村共同体を解体して、権力の意思を容易く広めるための統治機構の一環へと村共同体を改編しようとする政策の先駆けと言えよう。ただその必要性を認識しかつそれを強力に推進する官僚機構 と全国統治機構とが出来ていない情況の中では、この政策が実行できるわけもなかった。

(d)強権的に物価下落を狙った流通機構改革
 このように幕府の町人や百姓に対する政策は、従来の協調的なものから強圧的なものに転換され、商人や百姓が衰微することを厭わず、彼等から徹底して富を収奪したり、彼等の豊かな生活そのものを禁止しようとし、そのことによって幕府の財政を立て直そうとする強権的なものであった。
 この点は、天保の改革を特徴付けている物価下落を狙った流通機構改革においても貫かれていた。
  天保の改革においては、これまで江戸への物資流通を担ってきた諸色株仲間の解散や様々な商品の小売価格を具体的に指示して実際にその値段に引き下げられたかどうか点検するなどの、強制的な物価引下げ政策が次々と打ち出された。飢饉の年を除けば比較的安価に安定していた米価に対して、その他の商品の値段は高めに推移していたことが、幕府財政の危機や武士の生活危機を生み出してい ると考えられていたからであった。
 このため幕府は、1841(天保12)年12月に、不正な談合によって価格を吊り上げているとの理由で、江戸の菱垣廻船積問屋仲間(十組問屋)を解散させ、十組問屋が1813(文化10)年以来幕府に上納してきた冥加金1万200両 (約12億2400万円)を免除すると共に、すべての問屋仲間・組合を解散させ、 諸藩が産する「諸家国産」の品も含めて全ての商品の仲間以外の一般の商人の自由売買を認めた。
 幕府は享保の改革以来、米価に比べて高騰しやすい諸色物価を抑えるために、諸色を扱う問屋が仲間を結成することを許可し、彼等の市場支配力に依拠して物価高騰を抑える政策を採ってきたが、この伝統的な流通政策を放棄し、以後は「素人直売買勝手次第」として問屋の特権的な市場支配を禁止し、自由な取引を容認することで物価が下落することを狙った新たな政策を取ったのである。
 問屋に属さない大坂近辺の在郷の新興商人が、生産者の百姓と組んで問屋の独占的権益の廃止と自由売買を求めて大規模な国訴に出たり、例えば内海船などの新興の廻船問屋や江戸周辺の在郷の新興商人と組んで大坂から江戸へと新たな流通経路で物資を運ぶ動きが拡大 し、一方では財政難に苦しむ諸藩がそれぞれの国産の産物を藩が集荷して、それを大坂・江戸の問屋商人を通さず直接に藩と結びついた商人の手を経て江戸に売りさばく中で、菱垣廻船積問屋仲間(十組問屋)の市場支配力は低下し、利益の減退に苦しんでいた問屋仲間は幕府に莫大な冥加金を納めることで自らの特権的市場支配を認めてもらい、幕府の公権力を持って新興商人の進出を阻止しようとしていた。この動きに対して幕府は問屋仲間から莫大な金を取ることで財政を少しでも補うとともに、問屋仲間の市場支配力を強化して大坂から江戸へ流入する物資を確保して江戸の物価を下げようとしていたわけだ。
 しかしついに問屋仲間市場支配力の低下に業を煮やした幕府が、彼等の特権を奪い取り、自由な市場競争を促すことで、物価が低落すると考えて、従来の流通政策を全面的に転換するに至ったわけである。
 だが1841(天保12)年12月の解散令に対する世間の受け取り方は様々で、これは十組問屋の解散を命じただけで他のものは関係ないと営業を続ける問屋仲間が相次いだ。このため幕府は 、 翌1842(天保13)年3月に改めて全国の株仲間や業者の組合に解散を命令し、以後は問屋の名称を使うことも禁止するとともに、これまでは物価に関係がないので認められてきた湯屋や髪結床の仲間も弊害があるとして解散させた。つまり全国津々浦々の仲間と称する同業者組合の全てを解散させ、あらゆる分野の自由取引・自由営業を認めたのである。
 しかしこれでも物価は下落しない。
 なぜなら諸色問屋の独占的権益が廃止されたために、問屋商人以外の商人が多数参入して商品の買占めに走ったために、かえって流通する商品量が少なくなったからであった。
 そこで幕府は次々と物価引下げのための法令を出し続ける。
 同じく1842(天保13)年3月に幕府は、江戸町奉行所に諸色掛をもうけて江戸の町名主の中から人を選んで物価を監視させるとともに、諸物価値下げを命令。ここでは商品毎に細かく小売価格が公定された。たとえば豆腐の場合で言うと、縦1尺8寸横6寸の箱で作った豆腐を9丁に切ることとし、1丁の豆腐の値段は48文 (約1440円)とする。そして、焼豆腐は9丁を120に切って一つ4文(約120円)、油揚げは1丁を22に切って一つ5文(約150円)で売るなど、細かに大きさまで指定して価格を設定した。
 さらに4月には、江戸の地代・店賃・職人や日雇いの賃金の引き下げを命令し、地代や店賃は3・4%から20数%引き下げられた。また職人・日雇いの賃金も公定され、大工左官は飯料ともで1日に銀4匁2分(銭で453文 ・約1万3590円)、石工は飯料ともで銀5匁(銭540文・約1万6200円)、普通の日雇いは銭200文(約6000円)などと決められた。そして次には、貸金・質物の利子も引き下げられた。
 寛政の改革のときに一度は検討されたが町人の反対によって撤回された公定価格の制定による物価引下げ策が、ついに強行されたのである。
 こうして江戸の物価はこの時を境にして次第に低下し始める。
 さらに幕府は、1842(天保13)年の8月には銭相場を金1両に対して銭6貫500文と定め、銭相場が高く設定されたのだからと、商人は小売価格を安くして商売するように命じた。そして諸色掛名主に対して、それぞれの品物についてどれだけ価格が下げられたのか調査するように命じ、調査書を差し出させ、定めたとおりの価格で売られているかどうかを確かめた。
 そして同じ年の10月には、諸大名が、自国や他国の産物を専売にすることも禁止された。
 この結果江戸の物価はかなり低落し、この年の秋には、米や醤油や味噌は前年秋に比べて10ないし20%近くまで下落し、塩に至っては34%の大幅な低落を示すにいたった。
 だがこの物価低落効果は、改革が続行している期間だけのことであった。
 人為的に公定価格を決めても、商品経済の世の中においては、商品の需給に応じて商品価格は動くものだし、公権力の力で諸物価を決めることには無理があった。
 しかもそもそも江戸の物価が高い理由の過半は、新興商人や藩と結んだ商人によって直接産地から江戸に諸商品が運ばれるために大坂に入る商品の量が減退し、そのため諸色問屋を通じて江戸に入る商品の量が減少したために、諸色問屋が値上げしたことに大きな理由があった。また相次ぐ幕府の通貨改定によって銀貨に比べた金貨の価値が低下したために信用取引の下では大坂の諸色問屋の利益が減るために、大坂の諸色問屋が江戸への商品の廻送を抑えたことにも原因があったのだ。
 要するに流通網の多角化と金貨の価値下落のために江戸諸色問屋商人の購買力が減退し、それを補うための諸物価値上げであった。
 幕府の新たな流通政策は、物価が値上がりした根本の原因に手をつけずにおいて、しかも諸色問屋を通じた流通機構に代わる、例えば今日のような公営卸売り市場の設立などの新たな機構整備をすることもなしに問屋流通機構を解体し、その上に強権的に人為的な公定価格政策を取ったのだから、一時的な物価下落を成し遂げたとはいえ、かえって流通全体に混乱を招くだけであった。
 実際には、株仲間解散令の実施状況は地域によって様々であった。
 解散を命じられた諸色問屋が反対するだけではなく、幕府の直轄都市の中にもこの政策に反対する奉行は従わず、大坂では株仲間が解散したためかえって競争が激化して、例えば大坂の主要産物である綿の値段が高騰したために、町奉行所は、在郷商人 (村に住む百姓身分の商人)による綿売買を取り締まり、大坂の問屋の扱い量を増やすという株仲間解散令に逆行する政策をとった、さらに兵庫や堺・奈良では株仲間解散令すら発せられなかったのだ。また、国産や他国産の品物を国内の諸色問屋と組んで藩専売制の下で売りさばいていた諸藩の多くも、自らの利益のために幕府の法令を無視した。
 新しい全国流通網が存在しない中で、諸国の新興の在郷商人が幕府からは自立した諸藩や諸国の廻船問屋と組んで、自立して流通に介入して利益を上げている現状では、幕府の強権力にも限界があった。しかも金貨の価値を上昇させて江戸の問屋商人の購買力をあげるにしても、通貨改鋳での利益が 年貢収入をも上回る幕府収入の主なものになっている現状では、収入が減るどころか逆に幕府の持ち出しとなる貨幣改鋳(悪貨を改鋳して良貨に改める)を実施するわけにもいかず、ここに幕府の物価引下げ政策は、一方で強権的に物価引き下げを行う一方で、次々と通貨 改鋳を行って金貨の価値を減らすことで江戸への物資流入量を減らして物価上昇圧力を高めるという矛盾した状態になっていたのだ。
 これでは斬新な流通機構改革を伴っていたとはいえ、改革推進者が失脚してしまえば、幕府の新たな流通政策そのものが吹っ飛んでしまうわけである。
 1843(天保14)年の秋閏9月に老中水野忠邦が罷免されるや、屋敷前に町人が群集して大騒ぎとなったのだが、その後諸物価は再び上昇に転じて行った。
 そして改革の頓挫とともに、株仲間再興の動きも加速し、江戸町奉行所はこの動きに応えて再建の意見書を幕府に提出する。
 結局株仲間は1851(嘉永4)年に再興されるのだが、このときには幕府に冥加金を納めもせず、幕府から株札を受けもしない、極めて独占力の低下した形で復活した。すでに株仲間の市場支配力は低下して全面的な価格調整機能は失っていたわけだから、幕府は諸色流通機構の一つとしてのその役割を認めて再興を容認したのだ。江戸の流通機構は多角化したままで、物価を低落させ安定させることはできなかったわけだ。

(e)唯一可能な財政政策としての豪商への御用金の付加
 こうして幕府財政を安定しようとする政策は、次々と反対にあって頓挫した。
 こうなると残るは貨幣改鋳で膨大な利益を上げる(平均して年に約84・5万両)しかないが、これは東国の通貨である金の価値を下落させて一層江戸の購買力を低下させ、江戸の物価高騰の原因の一つともなるので使えなくなっていた。したがって残るは、伝統的な、豪商に対する御用金の付加しかない。
 1843(天保14)年5月に、大坂町人に対する100万両(約120億円)の御用金付加が決定され、7月には申し渡された。しかしこれに対する大坂町人の反発は激しく、12月には中止となり、町人が請負った金額での御用金賦課へと変更された。
 この御用金の使用目的はよくわかっていない。
 勘定奉行自身が、「この年の5月に出された旗本御家人救済のための貸付金に当てるためとされているが、それは25万両もあれば足りるのだが、この件を担当した羽倉用九が左遷されて小普請組入りしているので詳細が分らない 」と述べているそうな。つまり大坂町人への100万両もの御用金付加の政策自体が、勘定奉行の手を経ずに、勘定吟味役である羽倉がおそらく老中水野と諮って独断で実施されようとしていた可能性が指摘されている。
 こうした経緯を見るとこれはおそらく、膨大に膨らんでいる海防体制の整備や軍事力の近代化に必要な経費を、町人への御用金付加で切り抜けようとするものであったろう。
 しかしこの窮余の一策もまた、当事者の反対で進まず、改革推進者の罷免によって中止とされたに違いない。

 こうして天保の改革における経済政策は、その中に様々な新しい近代的な芽を内包しながらも、それまでの諸身分の関係を大幅に変更して人々の暮らしを破壊しかねない性格を持っており、しかもそれを実行する幕府権力そのものが脆弱であり内部にも不統一を抱えているために、町人や百姓だけではなく、諸藩の反発をも招き、さらに幕府の役人である代官や奉行の反対すら招いて改革政治そのものの崩壊にと導いていったのだ。
 近世編1以来度々見てきたことだが、幕府や藩の財政難の根本的な原因はいくつかあった。
 一つはそれの収入が米などそれ自身が価格変動を起こす商品である収穫物に頼っていて、収入が不安定であったこと。
 さらに二つ目には、武士自体の人口が、幕府や藩の役職に必要な数以上に多く、それはおよそ3倍にも達していて、これが幕府や藩に膨大な人件費の圧力をかけていたこと。
 また三つ目には、武士自体が行政官僚としての公家化しており、これは武士の貴族化であったために、その世襲化した上層部分の生活は必然的に貴族的になり豪奢の贅を尽したものにならざるをえなかったこと。
 これらの解決には、一つは、百姓の場合なら田畑の収穫高の正確な実数を全国的に把握し、統一的基準で通貨で税を課すことや、税を課していない町人に対しても、その正確な収入を把握する仕組みをつくりあげ、ここにも統一的な基準で通貨で税を課すように体制を改める必要があった。さらには流通する商品の実数を調べ上げその流通そのものにも税をかける必要があった。
 さらに二つ目には、上の2・3を解決するためにも、武士人口の大幅なリストラが不可欠であった。そして大幅な人員削減に止まらず、この解決のためには、貴族身分としての土地に対する封建的領主権を持った武士を解体し、純然たる給与生活者としての官僚に変える必要があった。
 天保改革における幕府の財政難対策が失敗したことは、次にみるより中央集権的国家建設を狙った上知令が失敗したこととあわせてみると、ここに見たような体制の根本的な転換が歴史的には求められていたことを示している。そしてこれを解決したのが、後の明治維新の変革であった。 

Dより強固な中央集権国家形成への試み−上知令に見る政権構想とその頓挫−

 最後に上知令を中心としたより強固な中央集権国家形成へとむけた国家再編政策について見ておこう。

(a)上知令−幕府・大名の支配体制を強化し対外的危機に対処できる国家体制を確立しようとの試み−
 上知令とは、1843(天保14)年の6月1日に「取締りのために江戸城最寄一円を御料所とする」として出され、続いて6月15日には「大坂城最寄一円も御料所とする」との法令が出されたものを指している。
 当時の江戸城と大坂城の周辺の地域は、幕府領と旗本領、さらに諸大名の領地が入り組んでいたのだが、このうちの江戸・大坂城の10里四方の旗本領・大名領を幕府領に編入し、これらの領主に対しては、他の地域にある幕府領から、幕府が通常新たに領地を支給する際の基準である100石について35石の年貢が収納できる土地を替わりに支給するという政策であった。そしてこの上知令に対する反対が激しくてなかなか実施できないなかで幕府は再度8月に上知令断固実施を布令し、あわせて江戸大坂以外で諸大名に預けられていて事実上の大名領と化していた幕府領の整理と直轄化と、諸大名の飛地領も整理し大名の居城に付属した城付領化すると布令したものである。
 この上知令の対象となった中で特に反対の強かったものは、大坂城周辺の21家の大名と76家の旗本と御三家紀州藩付家老の領地、あわせて26万8257石と、全国に分散して大名に預けられていた飛地の幕府領、27家の大名に預けられていた合計73万5000石の所領であった。
 この政策は当時は「取り締まりのため」としか説明されておらず、当時流れた噂としては、江戸・大坂周辺特に大坂周辺の土地は生産力が高く年貢収納率もおよそ100石に対して60〜70石と高率のため、これらの地域の旗本・大名領をもっと年貢収納率の低い幕府領と交換することで幕府の財政を豊かにしようとするものであるというものが広く流布していて、これが大名等がこの政策に反発した理由の一つであった 。このため、従来はこの政策は、豊かな江戸・大坂周辺の土地を幕府領とすることで、幕府の財政を安定化させようとするものという説明がなされることが多かった。
 たしかにこのような面も無いとは言えない。
 しかしこの政策は、当時も「取締りのため」と明確に説明されている。そして、当時の対外的な危機に敏感に反応していた洋学者や彼等と親交の熱い幕府官僚たちもしばしば江戸・大坂周辺の上知を検討しており、この政策の立案者は、老中水野忠邦の側近であり勘定所の役人であった羽倉用九や篠田勝四郎らと目されており、彼等は洋学者と親交の深い田原藩家老渡辺崋山と親しい官僚であるから、対外的危機を念頭に置いた政策だと考えられる。
 この天保時代は先に【30】でも見たように、しばしば江戸湾周辺に外国船が出没しており、江戸湾防備体制の確立が急務とされていた。その中ですでに江戸湾の浦賀と富津を結ぶ線の南の海岸防備を川越藩・忍藩に任せ、これより北側の海岸防備を新設された羽田奉行を中心として幕府自らが行う体制が作られつつあった。
 海岸防備とは海岸の要所に砲台と陣所を築き、そこに外国船に対応できる洋式の大砲を備えて常時警備すると共に、外国船到来の際には、警備の藩や幕府の兵を動員して戦う体制を整えつつ、異国船到来の目的が薪水の給与や漂流民の送還など平和的なものであれば打払わずにこれに対応し、平和裏に退散してもらうというものであった。そしてこの防備体制を確立しかつ維持するということは、砲台や陣所を作るために大勢の人足を所領の百姓らから徴発したりそのための特別税を課したりすることであり、江戸湾周辺が多数の異なる領主の所領となっていては、防備体制の確立も維持もし難いものである。
 幕府が上知令発令に際して出した「取締りのため」とは、このような対外的な危機に対処するものと考えるのが妥当であろう。
 そしてこの時、特に江戸と大坂が取り締まり強化の対象とされたのには理由がある。
 江戸は首都であり幕府政治の中心。ここを外国に占領されては国家は立ち行かない。しかも江戸はその膨大な人口を養う食料を西国と関東北部や東北からの移入に頼っており、外国船が江戸湾に侵入し江戸湾入り口を封鎖してしまえば、どちらからの食料も入らなくなるため危機に陥る 。このため、この危機を回避するために、利根川と印旛沼、印旛沼と江戸湾の間に水路を開削し、北からの食料船は銚子から利根川に入り、印旛沼を経由して江戸湾に到達できるようにするための印旛沼掘割工事がすでに進められている程大事な所である。
 また大坂は、当時の日本の主要な工業都市・交易都市であり、ここに集められた物資が大量に江戸や諸国に運ばれて、各地の人々の生活を維持する日本の経済の中枢であった。
 この二つを取られたら日本は麻痺するのであるから、アヘン戦争の教訓をもってすれば、この地域の防備体制を強化するために幕府直轄化が構想されたのも頷ける。
 また上知令に伴って実施されようとした、全国に分散する幕府領をまとめて直轄化し、さらに同じく分散している大名領もまとめていくことは、幕府や大名の所領支配を強固にし、全国的に対外的危機に際しての防備体制を強化するためにも有効な政策であったに違いない。
 江戸時代の幕府や大名の領地支配は、外様雄藩と呼ばれるいくつかの大名のように、領地を一国とか数国単位で一円的に支配して居るとことは少なく、多くはあちこちに飛地を持っており、飛地の中には、一つの村を複数の領主が支配することによってかえって領地を統一的に支配する こと が困難な場合が多かった。所領支配関係が入り組んでいるために、 一国の河川の水系に沿った統一的水利事業が出来ないことは享保の時代以来問題であり、だからこそ幕府が領主関係を超えて一国単位に課税して幕府が諸領主に代わって水利事情を行ってきたのだ。しかしこれが幕府の財政難を加速させていたことは先にみたとおりである。さらに領主関係が複雑であることは、勘定所−代官−村役人という支配命令系統が機能せず、しばしば、年貢収納なども当該の村共同体任せとなっていて、領主は所領支配を貫徹できなかった。
 この大名領の飛地化は、江戸時代初期に行われた大名改易を通じて幕府領の飛地化と平行して増えたのだが、中期になると特に、幕府の要職を歴任する譜代大名に多くなった。
 譜代大名は関東や東海地方に所領を持っていることが多いのだが、彼等は、老中に就任する前に必ず大坂城代や京都所司代などを経るため、その役職をこなす費用を捻出するために、大坂・京都周辺に領地の一部を付け替えて役職に必要な費用を賄ってきた。そのため譜代大名の領地はもともと小さい上に、大名の居城に付けられた領地に匹敵する規模の他国に分散した飛地を持つことが常態になった程であった。さらに幕府開闢以来の歴史を持つ外様・ 家門(親藩)大名の多くは、江戸や大坂周辺に将軍警護や宮中警護の任を果たすための費用を捻出するためや遠路はるばると江戸まで参勤交代するための費用を賄うために江戸や大坂周辺に飛地領を持っており、これ以外にも、大名が次第に財政難になるとともに、生産力の高く年貢収納量の多い大坂周辺の畿内地方に所領を持つことを希望する大名が増えたため、大名領は飛地化したのである。
 この分散した幕府領・大名領を整理し一円支配力を強化することは、対外的危機に対処するために西洋式軍備を整えて沿岸警備を充実させていく上でも重要であった。
 そして、実際に歴史の針を先に進めて考えてみれば、この上知令は、幕府と百姓町人との間にある藩を解体することはしていないが、明治維新における版籍奉還・廃藩置県に見られるような一円的支配力を強めることでより強固な統一国家日本を作り上げる政策の先駆けと見られる。 いやむしろこの上知令が諸大名の反対によって失敗したことにより、国家の一円的支配力を強化しより強固な統一国家を作るためには藩という存在の廃止が不可欠であることを明らかにしたともいえ、明治維新の版籍奉還・廃藩置県に直接繋がる政策であった。
 上知令は単独で見るのではなく、印旛沼掘割工事や江戸湾防備体制の強化、さらに大名も合わせた洋式軍備への転換と強化などの対外的危機に対処して政策全体の中で捉えている「つくる」会教科書の見方は正しい。

(b)大名・百姓等の激しい反対で頓挫した上知令
 だが上知令は激しい反対にあい、これが命取りとなって老中水野忠邦は罷免され、天保の改革が頓挫する直接の原因となった。
 有力外様大名は連名で幕府に伺い書を提出し、上知令の対象となった大名にいかなる咎があったのかを説明しろと要求し、何の咎もなく先祖伝来の由緒ある領地を上知することは慣例違反であると反対した。さらに大坂や江戸周辺にある飛地領は、宮中を警護するためや参勤交代をするために特に与えられたものであり、これを取られては朝廷を守ることも出来ず、この政策を強行するのであれば、断固参勤交代を拒否するとまで強硬な反対姿勢を示したのだ。また上知令に反対したのは有力外様大名だけではなく、 家門(親藩)大名の尾張徳川家や紀州徳川家も外様大名と同様な理由で反対を表明した。
 そしてこの上知令反対は、大坂周辺に飛地を持っていた老中や譜代大名にまで広がったのだ。
 老中の一人の下総(茨城県)古河城主の土井利位は、最初江戸周辺の上知には賛成していたのだが、大坂周辺の上知が出るや反対派に鞍替えし、以後上知令反対の中心となって動いた程であった。
 彼は古河の城付け領地7万5000石余の他に、畿内の摂津(大阪府)・播磨(兵庫県)に2万4000石余の飛地を持っており、その内の摂津の住吉・西成・島下・菟原・八部の5郡1万2884石余が上知の対象になっていた。この地域が幕府に上知されることを知った村々では、土井利位が大坂城代や京都所司代在勤中に工面した調達銀をこの際に全額返還して欲しいと藩の役所に願出、藩がはっきりした答えを出さないと、幕府の代官屋敷に訴え出たのであった。困った藩は、村方維持資金にと当座の資金130両 (約1560万円)を出して収めようとしたが村々は納得せず、さらに調達銀は替地が決まってからそこの年貢で分割返済するとしたが、これも村々は納得せず直ちに返済するよう要求した。
 このような動きは何も古河藩の飛地だけの事情ではなかった。河内(大阪府)の八上・丹南・丹北3郡の43ヶ村2万7000石を飛地に持つ上野(群馬県)館林藩の場合には、村方三役が連署して上知反対の嘆願書を提出していた。さらに同様な動きは関東の江戸周辺でも起こり、百姓たちは領主たちに対して、先納金や御用金などの返済を迫る訴訟を起こし、領主の借金が返済されないかぎり新領主にたいする年貢収納を延期するという態度を取ったのだ。
 大名や旗本は、豊かな生産力を持つ領地の村々に対して多くの借金を抱えていたのであり、江戸や大坂周辺の豊かな地域は、財政難に苦しむ大名や旗本にとって、暮らしを維持するに不可欠な財産だったのだ。そして百姓たちも、領地替によって領主が変わることによって年貢が増徴される危険を本能的に感じ取り、領主の借金の返済を優先せよとの名目で、上知令反対に動いたのであった。
 こうした従来の大名国替えの慣例やその領地の由緒を楯にしての諸大名の反対に対して、水野忠邦などの上知令推進派が対置した論理は、「諸大名の領地は上様から預けられたものであり、その処分は、当代の上様の意思による」というものであり、将軍は、大名の領地の改廃を独断的に決定する権力を保有するとの強硬な姿勢であった。
 しかし近世編1や2で縷々見て来た様に、これは江戸幕府における将軍と大名の慣例となっていた関係に、根本的な変革を加えようとしたものであった。
 たしかに建前の上では大名領地は将軍が一時的に預けたものに過ぎず、大名領地の改廃は将軍の専権事項であり、大名への相談やその承知を前提とはしていなかった。しかし将軍と大名との実際の関係は、近世編1の【11】 で見た大名改易が典型的なように、将軍が大名領地の改廃を行うには、当該の大名が誰の目にも明白な領主としての資格を欠く所業を行ったとみなされた場合に限られており、その場合ですら、公開の場での審理によって大名の非が明らかにされ、大名の処分の理由が諸大名に通知され了承されて始めて実施されていたのだ。
 こうして対外的危機に対応して、幕府や諸藩の統治力を強化しようとした上知令は、これが慣例となっていた将軍と大名との関係を根本的に変えることを意味していたために、幕府内外からの強硬な反対に直面し、幕閣の多くも上知令反対に動き、これを断固として推進しようとした老中首座水野忠邦は孤立した。
 そして反対派は将軍家慶を動かして、1843(天保14)年閏9月には将軍の命によって上知令を撤回させて老中首座水野忠邦は老中を罷免され、上知令を建議したとされる羽倉用九も勘定吟味役の役職を追われ、ここに天保の改革は頓挫した。

(c)軍政改革にみる天保改革の国家構想の分裂
 最後に、天保の改革で行われた軍制改革を検討することを通じて、改革推進者がどのような国家を構想していたかを考察しておきたい。
 アヘン戦争情報がもたらされるや、水野忠邦は直ちに幕府の軍政改革へと動き出した。
 1840(天保11)年9月に長崎町年寄の高島秋帆が西洋砲術の採用を勧める意見書を幕府に出していたのだが、幕府はこの年の12月に秋帆を幕臣に登用し、彼が勧める砲術を検分するために江戸出府を命じた。そして翌年1841(天保12)年5月に秋帆は、武蔵国徳丸原において門人を指揮して、オランダから輸入した大砲や剣付銃を使用した軍事演習を披露した。この時の秋帆の門人たちはオランダ式の筒袖の上下の服を着て、号令はオランダ語であったという。
 このオランダ式砲術の採用に対しては幕府内からも反対があったが、幕府は秋帆の所持する大砲類の買い上げを命じるとともに、高島流砲術を幕府公認の砲術へと組み込み、7月には、幕府代官江川太郎左衛門一人が秋帆の砲術を学ぶことを許可した。この時点での幕府の方針は、高島流砲術を幕府が独占するというものであり、これは幕府内に進んだ西洋式砲術が諸大名の間に広まることを懸念する意見が強かったからであろう。
 そして1842(天保13)年6月にはさらに進んで前年の高島流砲術幕府独占方針を撤回し、秋帆が自由に砲術を教授することを許可し、諸大名にも西洋式砲術の普及を解禁した。
 続いて幕府は、7月に異国船無二打払い令を撤廃して薪水給与令を出すとともに、幕府はオランダに対して大砲を注文するとともに、海岸部を領地に持つ大名に対して海防体制の強化を指示し、さらに9月には海岸部に領地のない大名にも場合によっては援兵を要請するとして、異国との戦争を想定した大砲を備えるように指示。さらに同日に諸大名に対して戦争の方法が異なる外国との戦争を想定して、江戸屋敷に武器を蓄えておくように指示した。
 そして11月には、水野以下の4名の老中が江川太郎左衛門に西洋式の大砲の鋳造を依頼し、翌1843(天保14)年には、水野・堀田・真田の老中3名と若年寄の堀田が、それぞれ剣付銃をオランダに注文した。さらに幕府は既存の鉄砲組2組に加えて新たな大筒組を3組創設し、それぞれ与力20騎・同心70名、与力15騎・同心50名とした。また江川太郎左衛門を大筒組の一つを指揮させるとともに鉄砲方も兼務させ、幕府内に西洋式軍隊を創設したのだ。
 この時の西洋式軍隊の規模は、鉄砲方が総勢180人、大筒方が195人とまだ小規模ではあるが、近代式軍隊の創設として注目に値する。
 ここに幕府は、幕府が率先して西洋式の軍備を取り入れるとともに、諸大名に対して西洋式の砲術を採用し、武器を蓄えることを指示したのだ。
 この幕府の軍政改革の動きを見ていると、幕府内には、新たな洋式砲術を採用する際に、諸藩にはこれを許さずに幕府が独占することを目指す見解があってかなり有力であったことがわかる。だがこれが結局退けられて諸藩も新たな洋式砲術を採用して武備を固めることになった背景には、 アヘン戦争で清が敗北して開国させられ領土も取られたという現実と、さらにはイギリスが日本に軍艦を派遣するという情報が到来し、幕府だけが強力に武装しても武装した外国船との衝突の危機は日本全国どこの海岸でもあるのだから、これを防ぐことにはならないという現実があったと思う。日本は島国であり、長大な海岸線で囲まれているからである。
 この現実の前に、幕府だけが新式の洋式砲術を独占する考え方は後退する。
 一方、西洋列強の浸出に備えて新式の大型外洋船で武装する面はどうであったか。
 1843(天保14)年4月に幕府はオランダに対して蒸気機関車と蒸気船の入手を打診した。これに対してオランダ商館は、蒸気機関車は日本では使いにくいので不要、蒸気船はバタビア経由で本国に照会すると回答した。
 この時に幕府が打診した蒸気船の大きさは、長さ150フィートで、大筒1挺と通例の大砲を6挺備えたもので、浅い日本の港にも対応できる喫水の浅いもの。しかもこの蒸気船を輸入する際には、航海士を2人、大筒取り扱い者を6人、蒸気機関機械方を1人、蒸気機関に火入れする者1名の計10名のオランダ人を雇い入れることを申し入れている。つまり幕府は、最新式の蒸気船を輸入するとともに、これを運用するに必要な知識をオランダ人教官から日本人に伝習させる計画であったことが分る。
 こうして最新式の海軍を幕府に創設するとともに、これと諸藩との関係はどう考えていたのか。
 この時期にはすでに、松代藩士佐久間象山は藩主で老中の真田幸貫に上書して、西洋式の大砲と軍艦をすぐに備える必要があることを論じて、日本全体の安全のためにも、諸藩にも西洋式の大船の建造を許可すべしと主張していた。また同じ時期に、親藩水戸徳川家の徳川斉昭も再三にわたって幕府に大船建造の解禁を申し入れていた。
 先のオランダに蒸気船輸入を打診していた同じ4月に、幕府はこの斉昭の建白に回答を与えた。
 ここで幕府は、「軍艦を広く造作することを許すという提言の弊害は大きい。西国(の外様大名)などの国持大名らがいろいろ工夫して大規模な軍事力を保持すれば、武家諸法度を制定した本旨に照らし合わせて極めて危険である」との理由で、斉昭の提案を拒否した。ここには先の西洋式砲術普及に関して見られたのと同様な、幕府が進んだ軍事力を独占することで、諸大名に対して優位を維持しようと言う思想が見て取れる。
 だがこの見解が、改革を推進した老中水野忠邦らの見解かどうかはわからない。
 むしろ先の砲術の問題では、諸藩への普及を図ろうとした水野に対して、幕府内から強力な反対が出て、そのため諸藩への普及は一時頓挫したのが実態であった。このことから考えてみるに、水野らは、蒸気船の普及もまた日本全体の安全に鑑みて、諸藩にも許す考えであったろう。しかし老中も含めて、幕閣内に強力な反対意見が存在し、このため幕府は斉昭の建白を拒否したに違いない。
 結局この幕府内の積極的に西洋に学ぶ傾向に反対する人々(この人々がまた同時に進んだ軍事力を幕府が独占することで幕府の優位性を保とうすとる)の力で、蒸気船輸入の一件そのものが、1843(天保13)年 閏9月の水野忠邦失脚と同時に沙汰止みとなっている。幕府も諸藩もこの時には西洋式の蒸気船で武装するには至らなかった。
 幕府が諸藩に対して大船建造の禁を解除したのは、1853(嘉永6)年の6月にアメリカ使節ペリー、7月にロシア使節プチャーチンの艦隊が相次いで来航して開国を迫った後の、この年の11月のことであった。
 進んだ武備を幕府が独占するという姿勢は、こうして西洋列強の脅威の前に吹き飛んでいくこととなる。

E天保の改革を巡る対立の構図
−強固な中央集権国家を指向した改革派・従来型の連合国家を維持しようとした反対派−

 最後に天保の改革を全体としてまとめて見ておこう。

(a)諸身分との関係を含め国家のあり方の根本を変えようとした天保改革
 先に見てきたように、天保の改革は、百姓・町人・大名と幕府との関係を根本的に改めようとするものであった。
 すなわち、百姓との関係においては、百姓を出来るだけ田畑の耕作に専念させて商業との関係を切り離し、都市に出ていた百姓までも村に帰して耕作に専念させるとともに、近年の田畑の生産力の向上の実態を把握して、これによって生まれた余剰を出来るだけ多く幕府が収納しようとしたものであった。これは幕府開闢以来、幕府が如何にしても把握できなかった実際の田畑の収穫量を把握し、百姓の努力によって生まれたどんな微細な田畑に至るまで検地帳に記載して生産高に見合った年貢収納を図ろうという、強硬な年貢収納策であった。
 また町人との関係においては、町人の贅沢な派手な暮らしを徹底的に取り締まることで武士にも広まった奢侈の風俗を断ち切り、それによって幕府の財政難を緩和しようというものであった。そしてこの徹底的な質素倹約令によって町人の暮らしが立ち行かなくなり、たとえ首都江戸の町が衰微したとしてもそれは仕方がないという、徹底したものであった。
 さらに経済活動との関係においては、従来は諸商品の流通を担っている諸色問屋組合を通じてその価格を統制しようとしてきた政策を一変させ、市場占有率の低下してきた諸色問屋組合の流通独占権を否定して、諸商品の売買の自由化を図ることで、物価の低落を狙ったものであった。
 そして上知令は、合議と納得によって成り立っていた幕府と大名との関係をより集権的なものにして幕府の指導力を強化するとともに、分散化した幕府や大名の領地を統合することでそれぞれの統治権限を強化しようとするものであった。
 つまり全体的にみると天保の改革とは、対外的危機によりすみやかに対応できるより強固な国家に日本を変えようとするものであり、これまでの幕府と百姓・町人・大名との関係を根本的に改編し、将軍を頂点としたより中央集権的な国家に作り変えようとするものであった。
 だがいずれの政策も、従来の慣例を守り、百姓や町人や大名等のそれぞれの暮らしを従来どおりに維持しようとした人々の反対にあって頓挫した。

(b)国家指導層の分裂
 この天保の改革の頓挫の際にとりわけ大きかったのは、国家の指導層である、大名・旗本・武士層の分裂であった。
 改革派の中核は、アヘン戦争を初めとするヨーロッパ列強のアジア侵略の流れに敏感に対応し、これに対抗しうる国家に日本を直ちに変えなければいけないと意識していた。そして改革派のリーダーである老中水野忠邦は、大名層の中でもとりわけこの意識の強固な人物であった。
 彼は浜松藩という東海地方の海浜の藩主であったが、彼はいち早く蘭学の成果を学んで自藩の軍備を洋式に改編し、海防体制を強化しようとしていた。だからこそ彼はこの政策を幕府全体や諸藩にも進めようとしたのだが、彼は老中を罷免されて後も、自藩の軍備の洋式改革に熱心に取り組み、江川 太郎左衛門に雷管式の最新の銃の試作を依頼して最新式銃の国産化を試みるとともに、蘭学者に依頼して西洋兵学書を翻訳させて、洋式に編成された騎兵・歩兵・砲兵の戦略的な展開方法を取り入れようとしていたのだ。
 忠邦に兵学書の翻訳を依頼されたのは、田原藩医師の鈴木春山であり、依頼された書物は、プロシアの参謀本部付将校が著した「歩騎砲三兵戦術書」をオランダの王立陸軍大学校教官が蘭訳し、1837(天保8)年に出版された最新の兵学書である。そして、この本を忠邦が手に入れたのは彼が老中在任中であった1842(天保13)年であり、翻訳を依頼したのは彼が老中を解任された前後のことと推定されている。
 さらに鈴木春山の翻訳を助け、彼が翻訳完成前に死去したあとその事業を引き継いで翻訳を完成させ「三兵答古知幾(タクチーキ)」と題して出版したのは、蛮社の獄で囚われた後当時脱獄していた蘭学者・高野長英であった。
 この本が完成し写本として売られて諸藩の軍政改革に多くの影響を与えたのは、忠邦が二度目の老中を解任されて浜松の領地を失った1845(弘化2)年から2年もあとの1847(弘化4)年であったが、忠邦の事業は後の世に大きな影響を与えたのだ。
 また忠邦が改革に登用した人物の中には、多くの蘭学者やその周辺にいて蘭学の知識に明るく、世界の情勢に明るい幕府の下級官僚層が居た。いち早く洋式砲術を学び大砲を鋳造したりしてそれを広めようとした長崎町年寄高島秋帆、さらに同じくいち早く西洋式砲術を学び大砲を作るための反射炉まで建設した幕府代官の江川太郎左衛門。そして世界情勢の変化にいち早く気付いて多くの蘭学者から情報を集め貪欲に学んで海防体制を強化しようと動いていた田原藩家老渡辺崋山の同人グループに、江川とともに関っていた幕府の勘定所の下役人であった羽倉用九や川路聖謨など。
 この水野忠邦を頂点とした改革派は対外的な危機に敏感に対応しており、その危機感も強かった。
 この分彼等の対応は性急であり、彼等の力以上に動いて従来の慣例をも改編させようと動いた。
 しかし当時の幕府閣僚の多くはこの域にはまだ達してはおらず、危機感も多様であったしそれへの対応も多様であった。
 西洋列強のアジア進出の危機と一揆打ちこわしなどの多発を結びつけて根本的な変革が不可欠と判断しているものもいた。しかしその対応は様々で、西洋式に国を作り変え西洋に対抗した強力な国家を作るために外国貿易に積極的に進むべしというものもいた反面、それは単に武備を整えるだけでよいのであり、国家の根本的改編をする必要も貿易の拡大の必要もないとするものまで多様であった。また国家の改編と言っても、将軍権力の強化を一方の極に、他方の極には、幕政への外様雄藩の参加を含めた改革と、これも多様であった。そしてそれは対内的な問題にも言え、諸身分との関係や経済問題でも意見は多様であった。
 水野忠邦が登用した人物についても、その中には先に見たような蘭学にも明るい人々が居たかと思うと、蘭学の影響が広がることに反対で蘭学者の弾圧に血眼になった鳥居耀蔵のような、保守的な人物もいた。
 このため天保の改革については、幕府の内部に統一した見解の一致や改革の青写真がそもそもなかったと言えよう。 従って幕政に直接関与できない家門(親藩)大名や外様大名においては、さらに統一した理解や見解の一致がないのも当然であった。

(c)幕府による情報統制が生み出した「国論」の更なる分裂
 そもそも天保の改革に統一的な理解が幕府内部ですらなく、さらには諸大名の間にもないのには、幕府の取ってきた情報政策にも原因があった。
 アヘン戦争の勃発がオランダ長崎商館や中国船によって伝えられ、清帝国がイギリスの優秀な海軍力の前に屈服した事態が伝わったことは日本に大きな衝撃を与えた。しかしこのアヘン戦争情報は、公式には その時々の幕府閣僚内部に止め置かれ、アヘン戦争の情況について記されたオランダ風説書が、諸大名の手に渡ることはなかった。幕府は情報を独占し、対外的危機の切迫を押し隠しながら、それに対応した改革を幕府主導で行おうと言う戦略であったと言えよう。
 だが実際にはオランダ風説書や中国船からの聞き取り書は、今後の政策検討のために担当老中などが祐筆に書き取らせて写しを取っており、それがさらに写し取られて様々なネットワークを通じて幕府外に流出し、18世紀末以来の世界の動きに敏感に反応していた人々の間に出回っていたことは、先に 【30】見たとおりである。
 しかし結果としてみれば、対外的危機の情報を幕府が独占しようとしたことは、 対外情報へ接する程度の濃淡を生み出し、対外的危機の認識の差を広げる結果となった。このため、日本の国家のありかたを根本的に改めようとして企画された天保の改革に対する充分な支持を幕府内や諸大名の間に醸成することを失敗し、改革に対して多くの人々を懐疑派ないしは反対派に追いやる結果となったことは皮肉なものである。
 このアヘン戦争情報などの対外的危機の情報を幕府が独占しようとしたのには理由がある。
 それは先に【30】見たように、18世紀後期以来の日本への諸外国の接近の中で、それにどう対応するかについて幕府内に深刻な対立が生じていたからである。
 世界の情況をつぶさに情報を通じて検討した人々は、いずれは日本も自由貿易体制に移行せざるをえず、西洋列強の侵略に備えるためには、西洋から技術に留まらず国家のあり方まで含めて西洋の優れた面を学び取り、日本を変えなければならず、外国の文物を積極的に取り入れるためにも貿易を拡大しなくてはならないと考えていた。この一派には、先に見たように田沼意次や松平定信らの老中首座経験者も含まれていた。
 しかし幕府内には一方で、幕府が江戸初期の寛政期以後に取った海禁政策と言う貿易の国家管理政策を教条主義的に受け取って、外国との貿易は一切禁止すべきものであり、それこそが鎖国政策という幕府開闢以来の一貫した対外方針だと声高に叫ぶ人々がいた。この人々は新規にロシアやイギリスなどとの間に貿易を開始することを拒むだけではなく、オランダとの貿易も打ち切るべしと叫び、日本に近づく外国船は直ちに理由の如何を問わず砲撃し撃沈すべしと主張していた。
 このような対外政策の両極的な分裂は、18世紀後半以降、幕閣内部にも深刻な分裂を生んでいたのであり、先に【30】においてみたように、ロシア船との対応を通じて幕府の方針が、無二打払い⇒漂流民の受け取りと薪水給与⇒無二打払いと二転三転したことに見事に現れていた。
 従ってアヘン戦争情報が幕府にもたらされたときもすでに、幕府がこれまで取っていた無二打払い令を継続すべきかどうかについて幕府内に深刻な分裂を生んでおり、1842(天保13)年の6月に幕府がこれまでに無二打払い令を廃止して、薪水食料などを給与する新たな法令を打ち出した際には、これは幕閣全体の合意によって実施されたのではなく、老中首座水野忠邦など3名の独断専行によって行われたと伝えられているのである。
 幕閣内部にすら深刻な対立がある。このためアヘン戦争を中心とした対外的危機の情報が幕府外に流れたときには、この対立は外様大名や親藩大名をも含めた全国的な深刻な対立となり、この対立は確実に幕府と諸大名との関係も含めた根本的な改革要求となって吹き荒れて、幕府の主導権は失われると思われたに違いない。
 このことはすでに家門(親藩)大名である水戸の徳川斉昭が再三再四幕政改革を建白していることにも示されており、彼はアヘン戦争の危機を知る中で、幕府が諸大名に対して大船建造を禁止した法令を廃止することを建白し、諸大名も含めて西洋列強の脅威に対抗するべきであると進言していた。
 しかしこの建白は幕府の主導権を維持しようと考えている人から見れば、諸大名に幕府に対抗できる軍事力を持たせることを意味するので、受け入れがたいものであった。
 幕府内にも今後の国家構想は錯綜していたのだ。
 こうした幕府内の対立と、忠邦が上知令布告において「諸大名の領地の改廃は将軍の専権事項である」と考えていたことに鑑みると、水野忠邦らの幕府内改革派 とそれに反対する人々との間で共通して考えていた国家構想は、幕府が諸大名を従わせてそれを主導する、将軍を頂点とするより中央集権的な国家であったと言えよう。
 この国家構想を実現するには、対外的危機の情報は、できるだけ幕府が秘匿するのが良いと判断された。
 だが外国船が頻繁に日本に接近していることは多くの人の目に触れた事実であり、鎌倉時代の元寇のように外国船が大挙襲来してくるのではないかという強い危機感が19世紀初頭以来日本全土にいきわたっていた現実の中では、対外的危機の情報を幕府が秘匿することには無理があったのだ。
 情報は様々なルートを通じて流出し、幕府政治に対する批判を生み出していた。

(d)天保改革挫折が与えた影響
 従って水野忠邦が、上知令のように大名自身の権限にまで慣例を破って踏み込んだとき、旧来の慣行や権利を守り、幕府と諸大名との緩やかな連合国家の現状を維持しようとする諸大名とともに、彼等自身も一個の領主であった幕府の老中や高級官僚たちさえも忠邦の政策に反対し、彼の失脚へと手を貸すこととなったのだ。
 こうして将軍家慶の支持を失った水野忠邦は、1843(天保14)年閏9月に老中を解任され、天保の改革は終った。
 さらに対外的危機が拡大した翌年1844(天保15)年6月に忠邦は再び老中首座に再任され、同年のオランダ国王による開国勧告に対しては忠邦は開国を主張したが、現状維持を図る他の老中によって反対されて頓挫し、彼は病気を理由に翌年1845(弘化2)年2月に老中を辞任する。そして彼に代わって老中首座となった阿部正弘によって同年の9月に忠邦は蟄居謹慎させられて2万石を没収され、あとを継いだ嫡子忠清は浜松から出羽山形に国替えとなり、忠邦が心血を注いできた浜松藩の軍政の洋式への改編と海防体制の強化まで雲散霧消してしまった。
 上知令での諸大名の猛烈な反対にあった幕府は、江戸城修理への諸大名の出金すら拒否され、以後幕府の姿勢としては、将軍権力の強化ではなく、有力諸大名との協調路線をとる事となる。
 忠邦を幕閣から追い出して老中首座となった阿部正弘のもとでは、後に近代編1で見るように、外様や家門(親藩)の雄藩と幕府との協調路線が指向され、アメリカ使節ペリーの開国要求に際しては、諸大名や旗本全てに対して意見を求めて評議の上で対応を決めようとするなど、従来以上に合議を尊重する姿勢に転換し、さらには外様雄藩や有力 家門(親藩)の幕政参与が画策されることとなっていったのだ。
 この以後の影響を含めてみても、天保の改革は、アヘン戦争を契機とするアジアの危機の高まりに直接対応したものであり、アヘン戦争と天保の改革は、日本における近代の始まりとして、近代編の冒頭に記述すべきであったろう。

:「つくる会」教科書は賢明にも記述していないのだが、よく天保の改革では出版取締りが以前のものよりより強化され、 思想統制が行われたと述べられることがある。これまでは本屋組合仲間が自主的に内容を点検して出版していた形を改め、本を出す場合には本屋はまず草稿を担当の町年寄を通じて町奉行所に差し出し、問題がないと分った時点で出版を許可する形に改められた。そして 本を出版するものは、本屋であろうと、販売を目的としない武家や素人であろうと、草稿を学問所に差し出して内容を精査して許可された上で版木をつくり、刊本も一部学問所に提出する形に改められたことが指摘されている。 つまり本の内容の精査は学問所が行ったわけだ。そして幕府が洋学を嫌う儒者林家が主催する学問所を使ってあらゆる出版物の内容を精査させたことは、思想統制の強化が目的であったと指摘されることが多いのだが、これは誤りであろう。なぜならこのような新しい方法が出来たのは、株仲間解散令によってこれまで出版物を自主規制してきた書店仲間組合が解散させられたからであった。これは思想統制ではなく、贅沢禁止令の一環であり、物価下落のための経済政策の副産物と言えよう。株仲間解散令によって書店仲間組合なくなって出版物を規制する仕組みがなくなり、代わりに名主−奉行所ラインで規制することとしたものの、内容がわからず、学問所に点検させたというのが実情ではないか。事実は、解散させられたはずの書店仲間組合が内部自主規制の形で重板・類板を取り締まっており、結局株仲間が再建された1851(嘉永4)年に、書店仲間組合が公認され、従前どおりに自主規制することが許可された。書店仲間組合を通じてあらゆる出版物を規制する政策自体、これが定められた目的は、内容統制よりは、出版物には必ず奥付をつけ、ここに出版社と著者を明記させることで版権を確立させ、違法な重板や類板を規制することにあったという文化史家の指摘を重視すべきである。出版統制というとすぐに思想統制であると断定しがちな政治史家の悪い癖であると思われる。

:05年8月刊の新版での記述は、天保の飢饉や大塩の乱の記述は旧版とほぼ同じだが、天保改革についての記述は旧版とは大きくことなっている。冒頭の家斉が死んで水野忠邦が老中首座となったとする記述の誤りは訂正され、「老中首座として実権を握った」と正しく記述された。しかしその他の記述は、旧版の優れた部分が全面削除され、極めて通俗的な酷い内容になっている。すなわち、冒頭の「幕府財政を改善し、大塩の乱のような都市騒動に備え、さらに、外国船の来航に対処するため、改革を開始した」という天保の改革の性格を正しく記述した一文は完全に削除され、改革の目的がわからない記述に後退している。更に決定的な改悪は、忠邦がアヘン戦争情報に接して、異国船打払い令の撤廃や西洋式砲術の採用、さらには上知令の実施や印旛沼の水路工事を行ったことなど、西洋列強の危機に対処して日本の国のあり方を変えようとした記述全体が削除されたことである。これでは天保の改革は、商業抑制による農村再建や株仲間の解散および徹底した倹約令のみになり、封建的な後ろ向きの反動的改革という性格付けになってしまい、この改革を歴史的に正しく位置づけることが不可能になってしまう。その上旧版では印旛沼工事を、外国船による江戸湾封鎖に備えて、銚子から利根川を経て江戸へ至る水路を開くための工事と、その性格を正しく記述していたが、本文外の資料は誤って「印旛沼干拓のようす」と記述していた。しかし新版では、この正しい記述が全面削除された上に、「印旛沼干拓のようす」という絵図資料の解説にわざわざ「忠邦も田沼意次と同様に、印旛沼の干拓事業を行った」と、まったく間違った注記を入れてしまった。こうして新版は、旧版が持っていた近年の天保改革についての研究の進展した成果を踏まえた進んだ記述を全面削除して、旧来の反動的で封建的な改革という性格付けに後退してしまい、「幕府の天保改革は失敗した反面薩長両藩の天保改革は成功しこれが明治維新における倒幕へと繋がった」という、明治維新以後、そして戦後に流行った間違った見解に組する方向に後退したのだ。

(3)幕藩体制の動揺と身分秩序ー政治としての差別の強化という「差別観」の限界ー
 

 「つくる会」教科書は、天保の改革の最後に、体制の動揺と身分秩序の問題を次のように論じている(p159)。

 幕藩体制が動揺してくると、幕府や藩は統制を強め、その動きは身分秩序にもおよんだ。各地で、えた・ひにんとよばれる人々への身分差別が強化されたが、差別支配に抵抗する動きも出た。

@あいまいで間違いだらけの教科書の記述

 この記述では、「えた・ひにん」へ身分差別が強化されたといっても何のことかよくわからず、さらに支配に対する抵抗といっても具体的には何も記述がないのだから、これも良く分からない。
 この部分は他の教科書では具体的に記述されている。
 私が授業で使用してきた清水書院の教科書(平成11年版)では、次のように記述されている。

 幕藩体制が動揺してくると、ふたたび身分統制は強められ、支配の強化がはかられた。しかし、渋染一揆のように、こうした差別支配に抵抗するうごきもおこった(以上本文)。

 渋染一揆
 岡山藩では、農民に倹約令をだし、それを徹底させるため、えたとされた人びとにたいし、あい染や柿の渋で染めた以外の衣類を着ることを禁じた。1856年、えた身分とされた人びとは「農民とおなじように年貢を納めているのに、差別をうける理由はない」と団結して、この政策を実施させなかった(以上コラム)。

 この記述のほうが良くわかる。
 「ふたたび身分統制は強められ」と書かれたように、幕藩体制が動揺するまでの間には、身分統制が緩められた一時期があったということなのだ。ただこの教科書も残念ながら、どう統制が緩んだのかは記述していない。
 しかし江戸末期になって体制が緩むに従って統制が強まった例として岡山藩の例が述べられ、これに対する抵抗の実例も示されたことで、何が起きていたのかは、「つくる会」教科書よりは鮮明である。
 だがどちらの教科書の記述も、実は大きな誤りがある。
 それはこれらの記述は、近世編1【17】で見たように、身分差別は権力が作ったものだという間違った考えにたった記述だからである。
 江戸時代の身分は、えた・ひにんも含めて全て「職業の別」と言っても過言でないほどの違いに過ぎなかった。
 もちろんそれぞれの身分の仕事はその身分の特権であり他の身分がそれを侵害することは許されず、この身分の特権に伴った差別が存在したが、個々人の段階においては、身分を越えた養子縁組や婚姻によって、身分を越えた交流も行われていたのだ。
 そしてこれも近世編1【17】で見たように、えた身分への差別の拡大も権力が行ったのではなく、百姓町人身分とその家の確立による自意識の向上が、同じ地域社会に暮らす他のより卑賤と見られた身分への差別の拡大として生じ、それを正当化するために領主に対して身分統制令を出させるという形で進んだのだ。

:近世編1【17】で見たように、えたという呼称そのものが差別の拡大の中で生まれた。本来はかわた・皮多やちょうり・長吏などその職業に基づいた呼称だった。

 したがって産業の発展で、身分相互間の垣根が低くなれば、身分統制もまた緩まるのが当然であった。
 そして教科書がここで記述した身分統制の強化もまた、権力が行ったのではなく、後に詳しく見るように、地域社会の変化によって身分間の軋轢が増大し、身分統制を強化しろという地域社会の要請によって領主の側が統制の強化に動いたに過ぎないのだ。
 教科書は江戸後期におけるえた・ひにん身分へ再び身分統制が強められた背景を、「幕藩体制の動揺」に求めている。
 この幕藩体制の動揺とは、何であったのか。
 それは、農村で貧富の階層分解が激しくなり、都市への大量の流民の流入によって、都市にはその日暮らしの貧しい層が大量に滞留したこと。さらに村と町にこうした貧困層が大量に滞留したことで、深刻な凶作が起き て領主の政治の不行き届きで物価の暴騰などが起こると、村も町も不安定になり、一揆や打ちこわしが頻発するなど、幕府と藩を中核とする社会統治機構が揺らいできた状態をさしている。
 だからこの揺らいだ幕藩体制を強化するために権力は、えた・ひにんへの身分統制を強めようとしたというのが、従来の歴史学の認識であった。
 しかしこの認識は誤りである。
 事実は、えた・ひにん身分の力の増大によって百姓・町人とこの身分との垣根が低くなったことや、えた・ひにん身分と百姓・町人との経済的利害対立が深刻化し、両者がぶつかるようになったことが、この身分統制強化の背景にあることが、近年の歴史研究の成果として明らかになっている。 身分の垣根が壊れてくること自体が、近世封建社会の解体過程そのものであるのだ。

Aえた・ひにん身分の力の増大と他身分との軋轢の増大

 江戸時代中期における地域社会の変化からまず見ておこう。

(a)身分の垣根が緩んだ近世中・後期
 江戸時代中期の産業の発展に伴なう都市の拡大と、都市的生活の全国への波及によって身分の垣根が低くなった。
 えた身分の独占的権益であった皮革製造・履物製造や織機の筬の製造などの産業は大いに需要が拡大したために発展し、えた村・部落の方が、他の村々よりも暮らしが良くなった。

:ここで「えた村・部落」と記述したのは、後にえたとされた人々の住む地域は少人数で小規模であったために、実際は独立した村落であるのに独立村としての扱いを受けられず、他の身分が住む村の一部である部落や枝村として扱われている所の方が多かったからである。このためえた部落には庄屋は置かれず、有力者が年寄として本村の庄屋の差配に下に置かれた。

 他の村々の発展は、都市の成立と新田開発などの拡大による消費物資の拡大による需要増を背景として、村方人口の増大や生活の向上などという形で、近世中期までに現れた。しかしその都市や新田開発の拡大が止まることで、近世中期後半には村の人口の増大は一般的には終了した。
 しかしこの頃から逆に、えた村・部落の人口は急速に拡大した。
 この人々の独占的稼業である皮革製造は、おもに武士の持ち物である、刀や鎧や鞍などの武具に必要なものであり、それらを装飾するに不可欠な材料である。従って武士たちの暮らしが派手になるとともに、彼等は本来は武具であるこれらのものを必要以上に装飾するようになった。
 さらにこの時代の高級履物である雪駄(竹皮であんだ草履の裏に牛革で補強をした履物)の需要も、武士だけではなく百姓町人の暮らしが豊かになり派手になるにつれて、人々の間に広く使われるようになった。
 江戸時代初期には武士や公家の間でしか使用されなかった雪駄が、世の中が豊かになるにつれて普通の町人や百姓まで履く様にな り、近世後期には、町の商家の使用人や水呑百姓まで雪駄を履いたのだ。
 その他に人々の暮らしが贅沢になるに従って煙草入れなどの小物にも皮革が使われるようになったが、これらは近世初頭にはおもに海外からの鹿皮の輸入に頼っていた。しかし、幕府の貿易制限によって輸入が途絶え、これとともに硬い牛馬の皮を特殊な技術でなめして柔らかい皮革に変える技術が播磨高木村で始められると、国産の皮革が使われるようになった。
 このため、全国的に皮革の需要が高まり、えた村・部落の皮革製造業は栄えた。
 西国では、大坂の渡辺村が皮を集める特権を持ち、西国中のえた村・部落から原皮が集められ、この皮の加工場として発展した播磨の高木村へと送られて皮なめしされ、再び渡辺村に戻されて全国に出荷されていった。近世後期に渡辺村であつかった皮の枚数は、10万枚にものぼったという。 
 また生活が豊かになると共に、従来は麻などの粗末な服を着ていた人びとまでが、普段着にも木綿の着物を使用し、晴れの日には紬などの絹織物を使用するに至ったのだ。このため全国的に織物産業が急発展し、この織物産業の発展も 、えた村・部落の独占的権益であった織機の筬の需要を増大させたのだ。
 こうして他の村や町の人口増加が止まった近世中期後半に、えた村・部落の人々の暮らしは急速に改善され、人口も急増した。
 このため羽振りが良くなったえた村・部落を見て、周辺農村や都市の貧しい階層の人々が次々とえた村・部落に居所を移動し、履物産業などの労働者として暮らすようになった。
 つまり牛馬の死骸処理に伴う特権としての皮革製造はえた村・部落の独占産業だったのが、産業の発展によって百姓や町人がえた村・部落にも流入し、普通の百姓・町人とえた身分の区別がなくなってきたということなのだ。
 またえた村・部落の方でも、本来履物の販売は都市の問屋商人のものだったのが、需要の増大に伴って直接都市へ製品を持ち込んで直接消費者に売るという行為も拡大し、えた村 ・部落の人びとのほうから積極的に他の村や町に出かけて、他の町人や百姓身分と交わるようになったのだ。
 このため都市や村の酒場や遊郭で、えた身分の人々と町人・百姓が同居する場面も増えて行った。
 この結果、本来別の身分であった百姓町人とえた身分の区別が薄れ、身分を越えて結婚したり養子縁組をしたりする者も出てきたし、産業の発展によって富を蓄えたえた村 ・部落の庄屋格の家は、集積した資金をもって土地を買い集め、大規模に農業を営むものも出てきた。そのため領主などが領地の有力者に献金を要請したときには、百姓でもあり商工業者でもあるえた村 ・部落の庄屋格の者のほうが、他の百姓の庄屋などよりも多額の献金をすることも可能となったのだ。
 例えばその例として、西国の皮革集散所である渡辺村の太鼓屋又兵衛という商人は、その財産が80万両(約960億円)にも上ると噂され、全国にその名を知られる大商人となっていた。
 こうしてえた身分の人々の中の裕福な人びとは、他の百姓や町人以上に贅沢な暮らしをし、日常の服装も木綿ではなく、絹を多用するようになったのだ。
 さらにえた身分の人々に対しては、領主のほうから、中世以来の非人役としての治安維持の仕事が押し付けられ、大都市とその周辺では、町奉行所の配下として都市の非人・えた村の元締め(長吏とよぶ)を通じてこの人々が目明しとして組織され、犯罪者の探索や逮捕、さらに犯罪者を収容する牢屋の管理や犯罪者の処刑などの業務に携わり、えた・ひにん身分の物が、百姓・町人より上に立ち、場合によってはその生殺与奪の権限をすらもつようになった。
 江戸と関八州におけるえた頭弾左衛門配下のえた・非人が、江戸町奉行所や関東取締出役(いわゆる八洲廻り)の配下として治安維持に当たったり、大坂のいわゆる四ヶ所と呼ばれる天満・天王寺・道頓堀・鳶田のえた部落の長吏に指揮されたえた・非人が、大坂周辺を中心として大坂町奉行所の配下として治安維持にあたり、やがてこの権限がおよぶ範囲が拡大され、畿内全体から西国にまで拡大されたことがその具体像である。またそれ以外の諸藩でも、領内のえた頭にえた・ひにんを指揮させ、郡奉行や町奉行配下の目明しとして治安維持に当たらせていた。
 そしてこのような非人役をつとめるえた・ひにんの頭である長吏は、武士と同様な名前を名乗り同様な服装をしていた。事実上武士身分といっても間違いはなかったのだ。 さらに彼等の配下である目明しも、百姓身分や町人身分以上に高価な綿織物や絹織物の服を着用し、そこに奉行所などの紋所を染め上げて、自分たちが権力の末端に連なっている事実を誇示するようになっていった。
 これが江戸時代中期から後期のえた・ひにん身分の人びとと他の身分の人々との関係の状況であり、身分統制が緩んだ状態であった。

(b)えた・ひにん身分と他身分との軋轢の増大
 しかしこのようなえた・ひにん身分の力の増大と、彼等の一部が権力と連なっていく事態は、えた・ひにん身分の人々と他の身分の人々との間に、様々な軋轢を生み出していった。
 酒場や遊郭での接触の増大は、酒の上でのいざこざを生み出し、そこに身分差別観念が介入することで、しばしば激しい暴力沙汰となり、奉行所の差配をうかがう事件を多発させた。
 またえた村・部落の経済的な力の上昇は、えた身分の富者とそこから金を借りた他の身分の者との間の、貸金をめぐる紛争も頻発させ、さらにこうした富者の生活は他の村や町の住民の羨望を招き、彼等が法度に違反して 贅沢な服装をしたり、町人や百姓と養子縁組や婚姻を行っていることを奉行所に訴え、その処罰を求める事件も頻発した。
 さらにまたえた村・部落の人々の経済活動の拡大は、他の村や町の商人・百姓などとの軋轢をもたらした。
 本来は販売を許可されていない雪駄などの履物を、えた村・部落の人々が直接他の村や町に売り歩く行為の増大は、その当該の地域で商売をしてきた百姓や町人の利害とぶつかり、えた村・部落の人々が、他の村や町で履物を売り歩いたり、履物を修理することに対して、他の村や町に出入りするな、他の村や町の家々の軒先で商売するななどの訴えを奉行所に、百姓や町人が訴えることにもなり、さらに場合によっては、直接百姓や町人がえたの人びとに暴力を振るって排除する事件までも生み出した。
 このような皮革産業を背景として発展したえた村・部落を他の村人が襲った例としては、1831(天保2)年に起きた長州藩での天保大一揆がある。
 この一揆は長州藩が藩専売制を施行して、藩内の特産物を全て藩の産物会所に収めさせ、その利益を藩が独占している体制に対する抗議として起きたものだ。瀬戸内地方の豊かな商業的農業の広がる地域から広がった一揆は、参加した村数が100ヶ村を越え、参加人数は13万人を越えると言われた大一揆で、藩の産物会所や、それを取り仕切る村に居住する藩士の家や会所と結びついた商人である村名主などの家を襲って打ちこわし、専売制の廃止と自由売買などを要求した。
 この際に一揆勢が襲った場所として、長州藩の最大の産物である長門皮を生産するえた村・部落があった。一揆勢がえた村・部落を襲った場合には、他の場合とは異なり、火をかけて焼き討ちして村を打ちこわし、大勢を打ち殺したという。
 これはえた村・部落が藩の産物会所と組んで大きな利益を上げていることへの反感とともに、皮革にまつわるこの地域の迷信のためであった。
 この地域では、秋の収穫の前に皮革を運ぶと凶作となるという迷信があり、密かに牛馬の皮を剥いで運び藁で蛇の形をした物を作ってこれに皮を被せて海に沈めると大暴風雨が来ると信じられていた。このため、豊作が予想される年には会所が買占めていた米などが値下がりして多大な損害がでることを防ぐために、藩の役人がそうしたことをすると人々が信じたためであった。
 藩の役人がこうしたことをしないように、藩内の村々は各地に皮番所を設けて秋の収穫前の皮の運搬を阻止しようと動いていたところに、その番人たちが藩の御用商人の荷物の中に皮革を発見し騒ぎになったのが、この大一揆のきっかけだといわれている。
 この例は、経済的対立と不浄観に基づく差別が一体となって、村々とえた村・部落とが対立した例である。
 またえた村・部落における農業の拡大と人口の増大は、えた村・部落の下層民・小作民らが、生活に必要な肥料や薪などを求めて、他の村や町の河川敷の草原や山林に立ち入る事態を生み出し、そこを所有する町や村の住民と衝突する事件を頻発させた。
 えた村・部落は近世の国制の成立時点においてはその人口が他の村や町に比べて少なかったために、そこに割り当てられた河川敷や山林の面積は少なかった。このためえた村・部落の人口の急速な増大は、生活に必要な物資を求めて、他の村や町が所有する河川敷や山林へ進出して物資を略奪する行為までも生み出したのだ。
 また先に見たような、えた頭・ひにん頭を通じて彼等が奉行所などの手先として犯罪を取り締まったり、犯罪者を処罰したりすることが拡大した事態は、彼等のような卑賤視された人びとが、百姓・町人を権力的に威圧する場面が多くなったことを意味し、百姓・町人身分の反感を高めることとなった。
 このようにえた・ひにんの力の増大と他身分との軋轢の増大は、しばしば暴力を伴った実力排除を生み出し、このような事件は奉行所の採決に持ち込まれるのだが、奉行所の差配は、地域社会の差別観・排除観の増大に押されて、えた・ひにん身分に対しては一歩的な高圧的なものにならざるをえなかった。
 この結果が、えた・ひにん身分に対する統制の強化という形へと結実したのだ。

B強められる身分統制とそれへの抵抗の高まり

 こうした身分間の対立の激化は、百姓町人の側から藩や幕府に対して、えた・ひにんに対する統制を強化せよという要請となり、藩や幕府が、様々にこの人々に対する身分差別令を布告することとなった。

(a)身分の区別の明確化とそれを越えたものへの処罰の強化
 近世後期に藩や幕府は、次々と被差別民への身分統制強化の法令を出している。
 たとえばそれは、えた身分の人々が町に出る際には、腰にその部落名を明記した布を下げるように強制したり、体の前に五寸四方の皮を下げろとか家の前にも同様な皮を下げろと強制したり、さらには、特定の髪型を強制し、長州藩のように男はまげを結わずに紐で束ねただけの茶筅髪とし女は折りわげという、後ろに髪を束ねて高く結う型を強制したり、幕府のように、散切り頭とし、被り物は一切してはならないという法令を出したりした。
 また同様に衣服も規定して、他の身分と識別できるように強制した。
 布地は木綿麻に限り、さらにそれには紋を染めてはならず、着用するときには浅黄色の襟を付けろとか、渋染・藍染以外の着物は着てはいけないなどの規制であった。
 この渋染の衣のみ着用という統制に対して抗議した動きが、1856(安政3)年の岡山藩の渋染一揆であった。
 さらにえた・ひにん身分の物が他の百姓・町人と婚姻を結んだ場合などでは、百姓と結婚したえた身分の女には手鎖50日の処罰を下し夫の百姓はえた身分に落としたり、夫婦ともにその鼻を削ぎ、夫婦のうちえた身分でないものやその家族もともにえた身分に落とすなどの厳しい処罰も頻繁に行われるようになった。
 また打ち壊しに参加した百姓を処罰する際に、えた村・部落の住人の方が、他の百姓よりも厳しい処罰を課すなど、藩・幕府は被差別民に対して統制の強化と、それを越えたものには過酷な処分をするなど、差別を強化する判断を下したのだ。

(b)差別に抗議する戦いの高揚
 こうした差別の拡大と身分統制の強化に対して、被差別民は戦いを行っていった。
 そもそも彼等は、近世初頭からの藩や幕府による、治安維持や牢番などの番役や城や城下町の掃除役にたいしても、「われわれは年貢を納めている百姓である」という理由で拒否していたのだが、藩や幕府の強圧的姿勢に抗せず、しかたなく受け入れていたものであった。
 また足袋の使用の禁止など服装統制なども近世初頭からあったのだが、「われわれも人間であり、寒暖を感じないわけはない」と拒否する戦いを組んでいたのだ。
 従って彼等の経済的な力の増大を背景にして起きた諸身分との軋轢と差別の拡大にたいしても、彼等は黙って従ったわけではなかった。
 たとえば1843(天保14)年に武蔵の国で起こった鼻緒騒動は、入間郡長瀬村のえた身分の辰五郎と同郡越生今市町の日野屋喜兵衛との鼻緒売買をめぐる衝突事件であるが、喜兵衛の差別的扱いに抗議した辰五郎らは、日野屋に押しかけ店内を荒した。そして喜兵衛の訴えによって辰五郎らの捕縛に向かった関東取締出役の手先に対して、集結したえた身分のもの数百人が手先を取り囲みそれを阻止しようとしたのだ。
 この事件は結果としては逮捕者97人を出し、そのうちの49人が牢死するという悲惨な結末を迎えたが、えた身分の人々は差別的対応やそれを強制しようとする権力とも敢然と戦ったのだ。
 また1856(安政3)年の岡山藩での渋染一揆は、藩政改革に伴う倹約令において、藩側がえた身分の人々に対して、無地の渋染・藍染の着用や下駄をはくことの禁止などの触書を出し、理不尽な統制を行おうとしたことに対する抗議の強訴であった。
 この服装統制にたいして藩内のえた部落の代表が寄り合いを行い、この触書を撤回するよう藩の郡会所や村の庄屋にたいして嘆願書を出したが郡会所や庄屋はこれを受け取らず、かえって村々の庄屋や目明しを使って、触書に従うことを強制した。えたの人々は、渋染の着物を新調するとかえって高くついて倹約にならないことや、渋染の着物では目明しなどの番役に支障をきたすことや、渋染の着物は借金のかたにならないなどの理由を挙げて藩に触書の撤回を求めたが、出先機関である庄屋や郡会所は一切要望を受け取ろうとはしなかったのだ。
 このためえた部落の代表たちは再度寄り合いを開き、嘆願書を藩の家老に直接手渡すことを決め、藩政改革に批判的であった筆頭家老の伊木若狭邸に対して強訴を行うこととし、日時場所を決めて15〜60歳の男を集めることを各部落へと通達した。
 こうして集まった千数百人が家老伊木若狭邸に向けて出立したのだが、途中でこれを聞いて駆けつけた伊木若狭の武装した軍勢千数百人と遭遇し、一晩かけて夜を徹して交渉して、ついに嘆願書を受け取らせた。この時立ち上がったえた部落は、藩内53ヶ村のうちの20数ヶ村と言われている。
 この結果岡山藩はこの服装などを定めた触書を実施できなくなったのだが、反面強訴に対する取り締まりは過酷なもので、参加者のうちの代表格の者12名に対して入牢が申し渡され、そのうちの5人が獄死するに至った。

 以上が近世後期における差別の拡大とそれに対する戦いの実相である。
 社会の急激な変化に対して藩や幕府という既存の体制が対応できなくなっている状況の中で、経済的利益の対立や差別観の拡大によって被差別民とその他の身分との対立が激化していたのだが、藩や幕府は、被差別民と対立する地域社会の要請によって、差別を強権的に拡大することで、被差別民を屈服させて対立を鎮めようとしていた。これはこの時期に頻発する百姓一揆や打ちこわしに対しては、首謀者の処刑などの厳しい対処をする一方で、一揆や打ちこわしが起きないような政治を指向していたのと好対照である。
 これは元禄時代の生類憐みの令によって、仏教的な生き物や草木に至るまですべて仏性という考えに基づいて生類を殺す行為がご法度とされ、生き物を殺す行為そのものが不浄であり仏法に反することという観念が強まったことにより、死体の処理に従事させられたかわた身分の者などが、えたと蔑まれ差別されるような観念が全国的に広まっていったことの反映であろうか。それまでは皮革業者である彼等は、武器などの需要に応じて必要な牛馬を屠殺して皮を得ていたのだが、生類憐みの令で牛馬の屠殺を禁じられ、それまでは個々の百姓が行ってきた病気などで斃死した牛馬の死体処理を請負わされ、穢れを一身に背負わされてきたのだ。これは非人役などと言って中世以来の牢番や犯罪者の取り締まりや処刑された犯罪者の死体を処理することを強制されたりしてきたことと同様な理不尽なものであった。
 こうして彼等に背負わされてきた不浄観が、経済活動の発展に伴う貧富の格差の増大と村や町社会の分解に従って拡大され、一方で商工業者であるために多くの富を集積してきたえた身分の人々と他の身分との軋轢が拡大し、他の身分の地域社会の要請によって藩や幕府権力が、被差別民をさらに統制しようとしたのが、近世後期のこの時期であった。
 近世後期の差別の強化を教科書に記述するのであれば、その背景までもきちんと記述すべきであったろう。

:05年8月刊の新版では、この近世後期における差別の拡大の記述自体が全面的に削除されている。この新版が近世における武士・百姓・町人の3身分の区別は「職業による区別」であるとまで言い切り、近年における身分制についての研究の進展の成果を取り入れて記述されているのとは好対照である。えた・ひにんに対する身分差別は近世の社会の中で作られ強化されてきたことを理解する上で、近世社会の解体再編期である近世後期に差別が拡大したことを正確に記述することは、従来の武士が他の身分を支配してきたという間違った封建社会観を改め、より実相に近づくためには極めて大事である。ここの記述を改めるのではなく全面削除してしまったことは、残念である。

:この項は、 田中彰著「幕末の長州−維新志士出現の背景」(1965年中央公論新書刊)、北島正元著「幕藩制の苦悶」(1966年中央公論社刊・日本の歴史代18巻)、 南和男著「江戸の社会構造」(1969年塙書房刊)、芳賀登著「世直しの思想」(1973年雄山閣刊)、宮城公子著「大塩平八郎」(1977年朝日新聞社刊・2005年ペリカン社再刊)、 鈴木敏夫著「江戸の本屋 上下」(1980年中央公論新書刊)、 宮城公子著「大塩中斎」(1984年中央公論社刊・中公バックス日本の名著27)、藤田覚著「天保の改革」(1889年吉川弘文館刊)、仲田正之著「大塩平八郎建議書」(1990年文献出版刊)、 松岡英夫著「鳥居輝蔵」(1991年中央公論新書刊)、藤田覚著「幕末の天皇」(1994年講談社選書メチエ刊)、 鈴木浩三著「江戸の経済システム」(1995年日本経済新聞社刊)、深谷克己著「18世紀後半の日本−予感される近代」(1995年岩波書店刊・日本通史第14巻近世4所収)、藤田覚著「19世紀前半の日本−国民国家形成の前提」 ・大口勇次郎著「国家意識と天皇」(1995年岩波書店刊・日本通史第15巻近世5所収)、 佐藤常雄・大石慎三郎著「貧農史観を見直す」(1995年講談社現代新書刊)、市村佑一・大石慎三郎著「鎖国=ゆるやかな情報革命」(1995年講談社現代新書刊)、 斉藤洋大石慎三郎著「身分差別社会の真実」(1995年講談社現代新書刊)、藤本清二郎著「近世賤民制と地域社会−和泉国の歴史像」(1997年清文堂出版刊)、菊池勇夫著「近世の飢饉」(1997年、吉川弘文館刊)、 片桐一男著「開かれた鎖国−長崎出島の人・物・情報」(1997年講談社現代新書刊)、佐藤昌介著「高野長英」(1997年岩波新書刊)、長谷川伸三著「近世後期の社会と民衆−天明三年〜慶応四年、都市・在郷町・農村−」(1999年雄山閣刊)、 奈良人権部落解放研究所編「日本の中の被差別民」(2001年新人物往来社刊)、藤田覚著「近世の三大改革」(2002年山川書店刊・日本史ブックレット48)、藤田覚著「近代の胎動」(2003年吉川弘文館刊・日本の時代史第17巻「近代の胎動」所収)、 相蘇一弘著「大塩平八郎書簡の研究1〜3」(2003年清文堂出版刊)、藤野保著「江戸幕府崩壊論」(2008年塙書房刊)、 山本尚友著「史料で読む部落史」(2009年現代書館刊)、小学館刊の日本大百科全書・平凡社刊の日本歴史大事典・岩波歴史辞典の該当の項目、岡山県人権教育研究会サイトhttp://www.urban.ne.jp/home/okadokyo/sibuzome/index.htm などを参照した。


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