「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第3章:近世の日本」批判36


36: 内外の危機の時代が「新しい学問」を要請した

 第3章「近世の日本」の最後の項目は「39:新しい学問と思想の動き」である。
  この項目は「新しい学問の発展」と「対外思想の展開」の二つの項目に分かれているが、要するに近世江戸時代の後期に、次の時代につながる新しい学問と思想が生まれてきたことを扱う項である。「つくる会」教科書の構成は、まず時代の要請によって「新しい学問」が生まれ、それがやがて18世紀末の欧米諸国の接近という危機を背景にして、外圧への対抗思想へと発展し、それがその後の新しい時代を作ったとの考えから、二つの小項目に分けたものであろう。
 まず最初に「新しい学問の発展」を取り上げ、その記述を詳細に分析してみよう。

(1)「新しい学問」発展の背景を民衆の教育水準の向上にのみ矮小化した記述の誤り

 「つくる会」教科書は、この小項目で四つの新しい学問・思想を取り上げている。
 一つは、石田梅岩の心学であり、二つ目は本居宣長の国学とその社会的展開、さらに三つ目には「解体新書」の訳出事業に代表される蘭学とその社会的展開、最後に四つ目として、安藤昌益の思想と学問を取り上げている。
 それぞれの学問・思想の取り上げ方については別途詳述するが、最初に見ておきたいことは、これらの新しい学問・思想が生み出された背景を、「つくる会」教科書はあまりに狭く捉えていることである。
 教科書は次のように記述する(p164)。

 18世紀の諸産業の発展により、帳簿の整理や遠隔地との取引のために、民衆にも学問が必要となった。各地に寺子屋が多数つくられ、多くの子どもたちが読み書きやそろばんを身につけ、民衆の教育水準が向上していった。
 その結果、全国各地で、町人や農民の生活に即した新しい学問が花開いた。 町人たちに勤勉と倹約を説いた京都の石田梅岩の心学は、その代表的な例である。

 こう記述して、教科書はそのまま続けて本居宣長の国学の説明に入り、さらに行を改めて、蘭学の発展や安藤昌益の思想についての説明に入っていく。
 そして教科書は欄外の資料として、渡辺崋山の「一掃百態」から寺子屋の図を掲載し、注として「寺子屋の数は全国で1万ともいわれた」と記述した。
 しかしこう記述してしまうと、心学や国学や蘭学などが勃興してきた背景をあまりに矮小化した捉え方になってしまい、結果として新しい学問・思想が生み出された時代背景を全くつかめない誤った記述になってしまう。

@民衆にまで広がった高い教育水準−世界商業に繋がった日本近世社会の先進性の証明−

 たしかに日本近世社会は、支配階級だけではなく民衆にまで高い教育が普及していたことにその特徴の一つがある。

(a)「寺子屋」を通じた民衆教育の高さの実態
 読み書き算盤と呼ばれた教育は、早くも室町時代14世紀ごろには、自治的な都市や農村を束ねる勃興しつつある町衆などの商人階層や村における地主階層に広がっていた。彼らは商売や年貢の収納等において基本的な読み書きと計算の知識を必要としており、彼らの子どもたちが、寺に入って基礎的な学習を行い、読み書きと計算の知識を身につけて家に戻るということも、この時代に行われ始めていた。
 このような庶民階層への教育の普及を背景にして、15世紀後期には「節用集」と呼ばれる仮名引きの漢語辞書が生まれ、16世紀中ごろになると、「饅頭屋本」「天正十八年本」「易林本」と呼ばれる印刷本も作られて普及していたのだ。
 そしてこの傾向は江戸時代に入っても拡大を続け、17世紀・18世紀初頭の急速な商工業と商業的農業の拡大によって、庶民のための教育機関としての「寺子屋」は全国に次々と設立されていった。
 「寺子屋」の数は、宝暦年間から安永年間(1751〜81)にかけて急激な増加を見せ始め、天保年間(1830〜44)になるとその数は、安永年間(1772〜81)のそれに比べて47から100倍という急増ぶりであったといい、「日本教育史資料」によれば、その数は1万5000校にものぼったという。
 そしてその教育内容は、手習いと算盤であるが、手習いは初歩的な文字の学習に留まらず、実用的な知識や教訓に至るまでかなり高度な内容も含まれていた。
 最初はいろは文字や方角・数字を覚えると、次には教科書を用いた学習が入ってくる。
 「寺子屋」で使用された教科書はかなりの種類に及び、それらは総称して「往来物」と呼ばれた。。
 「名頭字尽」という源平藤原氏に始まる姓名を網羅した書物で漢字を学び、さらには、「村尽」「郡尽」「国尽」という書物によって、近在の村々や町の名、さらには全国68ヶ国の国の名を覚えると共に、「江戸往来」などの書物によってかなり広範囲の地理の知識も学ぶ。ここまでが大部分の子どもたちが学ぶ基礎的な範囲である。
 そして更に学習が進んだ子どもたちは、もっと実用的な知識や教訓を学ぶ。
 それは、手紙文を集めた「消息往来」によって書簡文の実際を学ぶことや、「古状揃」と言って歴史物語を集めたもの、さらには、「商売往来」や「諸職往来」といった、様々な職業に関する知識を集めた本から、「実語教」「童子教」といった、仏教や儒教の経典から様々な文を集めて漢詩仕立ての五言にして多くの教訓的な文章を集めたものを通じて、行儀作法や言行の戒めや、子弟のあり方から父母への孝養など、生きていく上での様々な仕来りや作法や教訓を学ぶものまで多岐にわたっていた。
 また塾によってはさらにこれに加えて漢学の素養を取り入れていた所もあり、「小学」や「論語」「孟子」「春秋経」「詩経」など、漢学の初歩まで学んだ庶民も多くいたのであった。
 こうした初歩的な教育機関に、多くの子どもが7・8歳で入塾し、13・4歳で退塾するまでの一定の期間を、それぞれの必要や家の財力によって年限の長短はあるものの通っていたのが、近世江戸時代であった。
 だからこそ江戸時代は、従来の通説とは反して、文化活動において、多くの庶民が活動していたのである。
 このことはすでに、近世編1の【20】において、江戸時代初期にすでに多くの百姓によって農業技術を記録した農書が出版されていたことや村にも能や狂言や歌舞伎、さらには仮名草紙・連歌・俳諧が流行していたこと、近世編2の【24】で松尾芭蕉の旅を支えた多くの門人俳人の中に、たくさんの商人や百姓が含まれていたこと、さらに【25】では元禄文化の高揚の背景には旺盛 な出版文化があったことなどを指摘してきたが、これらの活動の背景には、近世江戸時代初頭からの庶民への教育の普及が背景にあったのだ。
 実際、元禄期に一世を風靡した井原西鶴の好色本は、江戸時代を通じて何度も版を変えて流布したのであるが、次第に大坂と江戸のような遠隔地の本屋の合板になっており、これは書店どうしが連携して、大都市だけではなくその周辺の農村地帯にも出張販売を行っていたことを背景としたものであることが指摘されている。
 ではどのぐらいの数の子どもたちが「寺子屋」と呼ばれた学校に通っていたのだろうか。
 残念ながら全国的な統計は存在しないが、のちの女性史のところで言及するが、「三くだり半」と総称されるほぼ同じ書式を使った離縁状が全国的に行渡っていることから、庶民における識字率がなかり高く、「寺子屋」においては、全国的にかなり共通した教科書が使用されていたことが推測できる。また地域的に限られた研究ではあるが、近江五個荘町の手習い塾には周辺地域の90%の子どもが通塾していたことが確認されており、地域的にはかなり高い識字率になっていたことがわかる。
 さらに、1781(天明元)年に広島藩儒者に登用された頼春水(1746‐1816)は、藩体制が揺らぐ中で、その建て直しのためには、「正学」である朱子学によって藩士だけではなく民衆も含めて教育することで、民衆までも藩主を頂点とする秩序のなかに統合できると考え、藩校の下に、藩校と連携した藩校の分校としての郷学をもうけ、さらに寺子屋(手習い塾)の半公営化まで構想していたのだが、このことは広島藩域における寺子屋(手習い塾)の普及の程が、かなりの程度に及んでおり、大部分の百姓・町人の子どもたちがここで学んでいたことを示唆している。
 江戸時代の庶民の識字率はかなり高かったのだ。
 この意味で庶民の間に読み書き算盤の教育が普及していたことを指摘した「つくる」会教科書の指摘は正しい。

(b)民衆の教育水準が高い背景−重商主義時代の自治の社会の進展−
 ただしこの背景を、単に「
18世紀の諸産業の発展により、帳簿の整理や遠隔地との取引のために」庶民にも学問が必要となったとしたのでは、視野が狭い。
 これまで近世編1や2、そして本巻で指摘してきたように、近世江戸時代は、平和で商取引の活発な時代であった。
 幕府によって外国貿易には一定の制限が加えられていたものの、外国からは多くの文物が流入するとともに、それらの国産化や、さらには貿易による金銀の流出を抑えるために、外国への輸出品が積極的に開発された時代であった。それとともに、250を越えた諸藩はそれぞれ独立国として、藩の安定を図るためにも藩外からの流入品の国産化や藩の特産物の全国的販売にも力を入れており、この意味で近世江戸時代の社会は、世界交易に直結した重商主義の時代であった。
 そして長い間戦乱がなかったために、武士だけではなく百姓町人に至るまで、それぞれが家の存続を図ることができるようになり、それぞれの家の存続のための家職を確立していった時代であった。
 そして同時に近世江戸時代は、従来の通説に反して、農村と都市との人口移動がかなり自由であり、百姓と町人、百姓町人と武士との間の、身分間の移動も、実際にはかなり存在した。
 ある意味でこれは、個人がその才覚によって財を蓄え、身分を越えて出世できる社会であったのだ。
 だから人々は学問をした。学問をすることで社会をより容易く泳いでゆける、家を未来永劫にわたって存続していけるという観念が生まれていたからだ。
 と同時に近世江戸時代は、多くの天災が人々を襲った。
 そして江戸時代の人々は、近世編2の【26】の二宮尊徳で見たように、個人の勉励努力によってそれを乗り越えようとする傾向の強い人々であった。
 そのようにすることが道徳的もすばらしいことだとする儒学の教養が人々に行渡っていたことにも、それはあるだろう。
 この意味で江戸時代において庶民の間に教育熱が高まっていたのは何も18世紀以後だけではなかったのだ。
 むしろ18世紀は産業の発展が急速であったと同時に、その時代以後は飢饉に典型的なように、天災が次々と人々に降りかかった時代であった。この時代には、藩の経済も次第に立ち行かなくなり、武士の生活が窮乏化するとともに、藩における藩学の確立に見られるように、武士の統治自体を安定化させるために、統治者としての武士の意識の確立が叫ばれ、多くの藩において、武士の子どもたちを教育する藩校が次々と作られていった時代である。
 ちょうど時を同じくして、村や町でも「寺子屋」が数多く生み出された。
 この背景は、「つくる会」教科書が指摘した産業の発展が生み出した必要性だけではなく、百姓や町人も、武士による統治の強化と搾取の強化に対抗して、いかに自分たちの生活を守るかという意識から、子どもたちのより多くの知識と教養を身につけさせようとしたのではないだろうか。近世編2の【29】において、この時期に村の自治拡大の動きが広まり、従来村の地主層のみに任されていた村の自治を、小前百姓と呼ばれる小百姓にも開放するべく、村役人たちの会計帳簿の不正や年貢割付の不正が次々と暴かれ、村役人の選任が、本百姓だけではなく小前百姓も含めた広範な層による選挙へと変化していったことを見てきた。
 この動きは打ち続く天災と藩による搾取の強化に対抗した動きであり、村役人の不正を暴く力が小前百姓にもあったということは、彼らにも読み書き算盤の知識が広がっていたことを示している。
 こうした近世編2や本巻で見てきた危機の時代への突入と言う意識も、「寺子屋」の急激な増加という現象の背景にはあったに違いない。
 このことは先に見た寺子屋の増加傾向を示す数字において、天明の大飢饉と天保の大飢饉を経た天保年間の寺子屋設置数の増加の勢いが急激であることが証明している。
 民衆の教育水準の高さは、近世江戸時代の社会が世界商業網に直結した重商主義のなかにあったことと、その社会が武士による封建的支配で統治されていただけではなく、極めて強固な村や町の自治によってその封建的統治は支えられもし侵食されもしていたという時代の性格に起因していたのである。

:なお江戸時代における庶民の教育機関を「寺子屋」と呼ぶと言うのが通説であるが、こうした庶民向けの教育機関の教師は僧侶であることよりも、多くは神官・医者・浪人などの知識人であり、さらには百姓や町人であることも多く、一般的には「手習い所」と呼ばれ、生徒のことは「寺子」であるよりは、「手習子」とか「筆子」とかおばれていたことを付記しておこう。

:なお。05年8月刊の新版では、百姓町人への教育の普及の問題の記述のあとに、次のような一項が挿入されている。すなわち、「いっぽう、武士の子弟は藩の設けた藩校で、儒学などを学んだ」と。つまり教育の普及は、百姓町人だけではなく武士階層においても同じ傾向があり、それは藩の主導権下において計画的になされたということが記述されたのだ。これは必要な追加である。しかし藩校が設けられた背景は、単に「産業の発展」だけではなかったことは全くここでも記述されていない。藩校は早い藩では17世紀に遡るが、多くの藩で設立されたのは後の時代で、しかも一定の時期に集中している。藩校設立ラッシュの時期は、宝暦年間(1751-64)から天明年間(1781-83)の時期である。この時期には全国の多くの中・大藩で藩校が設立されたのだが、その背景は、藩財政の危機の克服と藩の再建を図る上で有能な官僚としての武士の養成が必要になったからである。そしてこの傾向は次の寛政年間(1789-1801)にも続き、この時期には朱子学に基づいた藩の施政方針である藩是が確立され、これに基づいた計画的な教育課程が導入され、藩校の確立が藩論の統一の手段として認識されていった時代であった。つまり藩の危機が深刻化する中で、国家としての藩の統一のためには、為政者である武士層の意識や知識の統一が必要とされ、そのためには計画的な国家による教育が不可欠であるとの認識が広まったのである。そしてこのことは本巻の【31】寛政の改革で見た、湯島聖堂・昌平坂学問所の確立へとつながる。さらにこの時期に、先に見た広島藩でのように、国家としての藩の統一のためには、武士層だけではなく、百姓町人までもがその担い手として統一した意識と知識の担い手として確立されねばならず、近代の入り口にあって国民意識の統一がなければ国家の確立はないという認識が広まった時期でもあった。これは要するに、明治維新において、国民国家日本の建設のためには、均質な意識と知識をもった日本国民の形成が必要であり、そのためには国家による計画的な教育が施されなければならないという認識で教育制度が次々と確立されたわけであるが、その先駆け的な意識と取り組みが、すでに天明年間に行われていたことを示している。そしてこうした国家としての藩の確立のために藩校建設が進められる傾向はされに次の時代・天保年間(1830-44)にも続き、この時期には小藩にも次々と藩校が建設されていった。ようするに武士層での教育の普及も、危機の時代への突入という背景があったわけであるが、残念ながら「つくる会」教科書の新版でも、このような次の時代につながる認識が希薄であることは残念である。

A新しい学問を生んだのは内外にわたる危機の時代への突入

 しかし庶民への知識の普及が直接的にさまざまな新しい学問を生み出したわけではない。むしろその背景となる基盤と言ったほうが正しい。
 詳しくは以下の諸項目に譲るが、「つくる会」教科書が扱った新しい学問の個々を検討してみると、それを生み出した直接の背景は危機の時代であったことは明白である。

(a)バブル崩壊と諸藩の財政危機を背景に生まれた石門心学
 石田梅岩(1685‐1744)の心学が生まれたのは、近世編2の【26】で見たように、1727(享保12)年から1744(延享元)年であった。この時代は江戸時代初期の経済成長絶頂期である「元禄バブル」がはじけ、これまでの官による公共投資に依存した商業からの脱却が図られた時代であった。
 諸藩は、幕府政治安定の課程で、それぞれの居城の周りに巨大な都市を建設すると共に、江戸や京都大坂につながる街道沿いに藩内の交通ネットワークを建設したり、荒地や海岸の開墾事業などを実施して領内の殖産興業をはかり、安定した収入の確立に努めてきた。しかし都市に集住し、行政官僚たる「公家」へと転進した武士層の生活は、次第に公家や都市の町衆の生活に染まってかなり贅沢となり、その上戦国期のままに膨大な家臣団を維持し続けたため、江戸時代初期の膨大な公共投資とそれに伴う借金と共に、次第に諸藩の財政は火の車になり、御用商人たちに用立てさせていた金子を次々と踏み倒していった。このため京や大坂の大商人の中には次々と破産し、身代を潰す者が出てきたのであった。
 だからこそ梅岩は、商人たちは大名に頼ることなく、自力更生によって商売を確立せよととき、商人の道徳として「質素倹約」「職分への忠勤」を説いて、商業を成り立たせてくれる人々への感謝に基づいた堅実な商いをすることを説いた のである。
 この意味で石田梅岩の心学の成立は、江戸時代初期の国家建設過程が一巡した後に起こった第一期の危機の時代が背景にあったわけだ。
 そして心学が、19世紀初頭には、69都町・28ヶ国に門弟が拡大し、その中には全国65の藩の大名まで含まれるほどさらに普及した背景には、江戸時代中期の天明から寛政の時期にいたる第二の危機の時代があり、心学が百姓町人への民衆教化の尖兵として利用されたことは、先に近世編2の【26】の石田梅岩の項への注(p220)で詳述し、本巻の【31】寛政の改革の項でも見たところである。

b)異国船の出没と飢饉の続発・尊王思想の興隆のなかで生まれた 反近代主義の「神国思想」・本居国学
 本居宣長(1730‐1801)が彼の学問を確立した時期は、彼の主著・古事記伝の中核的思想を述べた書である「直毘霊」(なおびみたま)を書き上げた1771(明和8)年であろう。
 のちの項で詳述するが、彼の国学は日本神国論に依拠する日本至上主義であり、現代的に言えば、要するに国粋主義である。
 日本は古事記・日本書紀の神代篇に書かれているように、天地を生み出した神の子孫である天皇によって統治されている神国であるというのが彼の思想であり、その神代の時代の精神・ 統治方法がその後も長い間継承されたのが日本国のありかただというものであった。しかし次第に中国の文化が移入されるに従って中国の精神(宣長は漢意・からごころと呼ぶ)に日本人は汚染されるようになり、それは近代江戸時代に於いて、中国の学である儒学が国家統治や民衆教化の基本となったことに極まって、今の時代はまさに漢 意に汚染された時代だというのが彼の現代認識であった。
 しかし宣長は、神代の考え方や人々の生き方が失われてはいないことは、今も天照大神の子孫が天皇として国土を統治してることに端的に現れており、日本は完全に漢意に汚染されつくしているわけではない。そこで神代の人々の考え方や生き方 、そして国家統治のあり方に学びなおそうというのが彼の主張であった。
 この意味で彼の国学は、反近代の思想であった。
 そして彼は日本の外交政策のあり方としては、「直毘霊」(なおびみたま)を書き上げた1771(明和8)年の7年後、1778(安永7)年に「馭戎慨言」 (ぎょじゅうがいげん)を著し、古代から秀吉・家康の時代に至るまでの古事記・日本書紀などの国内史書と外国史書によって日本と朝鮮・中国の関係史を「直毘霊」で表明した神国思想で読み直し、いかに日本は西方の野蛮人(中国)にこびへつらってきたかを明らかにして その現状を嘆き憂えるとともに、神君家康公が毅然として中国との国交を断ったことに見られるように、神国としてもっと毅然とした態度で接しよと説いたのだ。
 要するに彼の外交政策は、家康がとった鎖国政策の堅持であった。
 家康が決して鎖国政策をとったわけではなく、逆に積極的な海外進出策をとったことは、近世編1で詳しく見た所であるが、江戸時代後期の人々は、幕府がロシアの開国要求に対して、老中松平定信が、鎖国は家康以来の祖法であると言って断ったことに見られるように、鎖国政策が幕府草創当時からの政策であったとの「神話」を確立し、それで当面の諸外国の開国要求に対しようとしていた。宣長もまたこの流れに神国思想の立場から棹差したというわけだ。
 この「馭戎慨言」が公刊されたのはずっと後の1796(寛政8)年であるが、「直毘霊」「馭戎慨言」が執筆された時期は、本巻の【30】「欧米諸国の接近と異国船打払い令」で見たように、ロシア船が頻繁に日本近海に現れた時期である。
 「直毘霊」を書き上げた1771(明和8)年は
ハンガリー生まれのロシア政治囚・ベニョフスキーの来航と、彼が長崎オランダ商館長に当てて手紙を渡し、その来航の事情を説明した年である。そして彼の手紙は一部誤訳され、ロシアが「明年以降松前および北緯41度38分以南の近隣の諸島のすべてに対して攻撃を企てる計画についての見通しを蒐集した。またこの目的に対して、カムチャツカの近くの千島列島に要塞が建設され、すでに弾薬・大砲・倉庫なども整備されている」と、世間を驚愕させる情報となって、人々が危機を身近に感じたその年である。この情報が元になって危機の根源を探求し対策を提言する書として、工藤平助の「赤蝦夷風説考」が1783(天明3)年に書かれたことは先に見たとおりである。
 また宣長が
「馭戎慨言」を執筆した1778(安永7)年は、近世編2の【29】で見たように、そのロシアが初めて、松前藩に通商を要求してきた年であり、「鎖国体制」をいよいよ続けるのか開国するのかが問題になってきたその時であった。
 ようするにこの時期は、近世編2や本巻で縷々見てきたように、商工業の発展が封建的政治制度社会制度との軋轢を深めるとともに、西洋諸国のアジアへの侵出の波が日本にもおよび、諸外国が通商通交関係を拡大することを迫ってきた時期であり、内外にわたる政治的な危機の時代でもあった。
 本居宣長の日本を神国だとする国粋主義を喧伝する学問である本居国学は、後に見るように、直接的には彼個人の生い立ちと個の確立の過程に負う所であるが、間接的にはこのような時代背景をもとに 、人々が社会・国家の新たな構成原理を追い求める傾向に後押しされ、さらには、儒学を相対化する蘭学の発展によって生まれた新たな世界観の広がりに感化されて生まれたに違いない。 そして宣長の過激な思想が当時の多くの人士に受け入れられたのは、まさに時代がこのような危機の時代であり、人々が社会・国家の新たな構成原理を追い求めていたからであり、宣長の古代日本のありかたこそ理想とする思想が、まさにそのような社会・国家の新たな構成原理の候補として認識されたからである。

(c)異国船の出没と開国要求の中で発展した「洋化思想」としての蘭学
 さらに「解体新書」訳出に代表される蘭学の隆盛もまた、同じくロシアを中心とする開国要求が高まってきた時代であった。
 さきに本巻の【30】で見たように、、杉田玄白(1733‐1817)らが蘭学解剖書の「ターヘル・アナトミア」の翻訳を開始したのは本居宣長が「直毘霊」を書いた1771(明和8)年であり、、「ターヘル・アナトミア」の翻訳が「解体新書」として出版されたのは、1774(安永3)年8月である。
 彼らの翻訳事業そのものは純粋に学問的な、より優れた西洋の医学に学ぼうというものであったが、それまでは長崎の通訳官である阿蘭陀通詞しかオランダ語を体系的に学んでいなかったのを、前野良沢 (1723‐1803)が積極的にオランダ商館長に従って江戸に来た通詞にオランダ語を習ったり、さらに藩主に伴って帰国したおりに足を伸ばして長崎に遊学し、直接オランダ人や通詞に習って語学力を深めたのは、単に学問的な興味だけではなかったに違いない。オランダの医学書を翻訳するだけなら阿蘭陀通詞に翻訳を依頼すれば済む事である。それを自分でオランダ語を学んで直接翻訳しようとしたことの背景には、急いで西欧の文化を学びその事情を知ろうとした何かがあったはずである。
 そしてオランダ語を学びに長崎に行ったことにより、より正確な西洋事情もまた知ったはずであり、そのことで彼我の差も認識したことであろう。
 だからこそ以後蘭学者や彼らから西洋事情を知った人々が、積極的に幕政に対して発言するようになったのであ り、そのことは本巻の【30】のモリソン号事件や蛮社の獄、さらには【33】の天保改革におけるアヘン戦争への対策の項で見たところである。
 さらに幕府が蘭学を次第に重視し始めたのは、まさしくロシアを始めとする西欧の開国要求の高まりが背景にあったことは確実である。
 こう見てくると、蘭学の隆盛の元を作った吉宗による洋書解禁そのものは、輸入品の国産化などの殖産興業政策が背景にあったのであるが、蘭学が隆盛していった直接的な背景は、西欧諸国の接近と開国要求と言う、危機の時代への突入が背景にあったことは確実である。

(d)打ち続く飢饉と民衆救済には無力な藩体制の中で生まれた反近代思想
 最後に安藤昌益(1703‐62)を見ておこう。
 彼が医者として八戸で活動したのは、1744(延享元)年から。そして1758(宝暦8)年には本家が断絶したので故郷の出羽国秋田郡二井田村(秋田県大館市)に戻り、安藤孫左衛門と称して本家を継いだ。しかしこの時故郷の村は宝暦の飢饉で疲弊しており、昌益は、酒食の費用がかさむ神事の停止など、村救済案を郷中に提案し実現している。そして彼が没したのは1762(宝暦12)年であった。
 彼の主著である「自然真営道」の刊本が出されたのは1753年(宝暦3)3月。その後も増補がなされ書き続けられていたようである。従って彼の思想が形成されたのは八戸時代から故郷へ戻る前の時代 、すなわち中心的には延享から宝暦年間である。
 昌益は、農耕こそ人の活動の基本であると説き、すべての人が直接自身で農耕を行って自分が生きるに必要なものは自分で作る「直耕」こそ、人のあるべき姿であると説いた。このため彼は、商人は最低限の物資の移動のためにしか必要ではなく、武士や大名、果ては公家や天皇すら、彼ら自身が何物も作ってはおらずただ消費するだけであるという根拠で、これらの人々は不要であると説いたのだ。
 彼の論は今日の言い方で言えば、極めて過激な農本主義であり、封建的社会・政治制度を否定する反近代の思想であった。
 残念ながら昌益がこのような思想に到達した背景は解明されていない。
 それは或いは医者としての彼の模索の中で生まれたものであるとか、彼より少し先の時期の中国で生まれた農本主義思想に感銘を受けたことがきっかけであったとか様々な説が行われている。しかし確実なことは、彼が自己の思想を明確な形で世に問うたのが、主著「自然真営道」を刊行した1753(宝暦3)年であったという事実である。
 宝暦年間の東北地方は毎年打ち続く飢饉で疲弊していた。しかも彼が町医者として活動した八戸を治める八戸藩は、飢饉が予想されたにかかわらず、江戸での米の値段の高騰に目がくらんで、郷内の米をかき集め、さらには城内の飢饉に備えた米すらすべて江戸に廻送して売り払ったのだ。従って八戸藩では、飢饉が到来したとき、藩内にそれに備えた食料はほぼない状態であった。そのため百姓町人に多数の餓死者を出しただけではなく、武士層にまで多数の餓死者を出したのであった。
 安藤昌益が「自然真営道」を刊行したのは、まさにその直後であった。
 彼がその思想を世に問うたのは、まさに為政者の間違った政治が、人々を飢饉という形で苦難に突き落としているその現実を見たからであった。
 こうして彼の過激な反近代の思想は、百姓町人の上層だけではなく、藩の重臣の中にも一定程度の共鳴者を見出して行ったのだ。
 安藤昌益の思想の広がりもまた、危機の時代を背景としていた。

 以上簡単に見てきたように、江戸時代中・後期の新しい学問の発展は、その背景に内外にわたる危機の時代への突入という時代背景があり、その中で人々が、社会・国家の新たな構成原理を追い求めている時代背景があったからである。
 この事実を見ようとしない「つくる会」教科書の記述姿勢には、おおいに問題がある。
 最後に一つ、なぜ「つくる会」教科書が、江戸時代中後期の新しい学問の発展の背景を、庶民の間での教育の普及という側面だけに限定したのかという問題を検討しておこう。
 それは、ここで取り上げた人物の多くが庶民の出であったからではなかろうか。
 すなわち、石田梅岩は百姓出身の木綿商人であり、本居宣長は木綿問屋の跡取り息子として生まれ、商人を継がずに医師になった。さらに伊能忠敬(1745‐1818)も問屋商人であり隠居してから学問をした人物。最後に安藤昌益もその来歴は百姓の家に生まれたが飢饉に伴って一家で村を捨てて町に出て、彼は百姓ではなく医師になった人物であった。このことから、「つくる会」教科書の執筆者たちは、新しい学問は庶民の間での教育の普及が背景にあると捉えたのではないだろうか。
 たしかにこの側面もあることは先に見たとおりである。しかし新しい学問の担い手は庶民だけではなかった。
 本居宣長はその家の遠い先祖が武士であり、尊王の念の篤い伊勢国司北畠氏に仕えた武士であったことから、血縁はないにも関らず先祖の名の本居を名乗ったものであり、彼は意識としては統治階級である武士であった。そして彼の門人は、当初こそ松阪の有力町人層に限られていたとはいえ、次第に彼の親族でもあった伊勢神宮の神官や、尾張や紀伊、そしてはるか遠くの諸藩の神官や武士にまで拡大し、彼の人生の晩年には有力大名も門人に加わり、彼自身が紀州藩の奥鍼医師として召抱えられ、武士身分を獲得している。さらに彼の学問の思想的側面を継承して国学を社会運動として拡大させた門人である平田篤胤は、秋田藩の武士の生まれであり、終生武士であった。彼の国学が本居宣長に欠けていた儒教や仏教ではない新しい宗教、それも当時の仏教の影響を受けた神道ではない新たな神道をその学問の根幹に据えていたため、彼の国学は武士層だけではなく、諸国の有力百姓 ・豪農層や有力町人に広がったに過ぎない。
 また蘭学者として著名な杉田玄白や前野良沢は武士身分であり、共に藩の奥医師であった。さらに平賀源内(1728‐79)も、もともとは讃岐藩の藩士であり、藩士を辞めて後は町人や医師などの蘭学者などと広く交友したが、彼の庇護者は時の老中田沼意次であり、彼自身が公儀や大名の依頼を受けて、様々な殖産興業のために、彼の蘭学や本草学の知識を生かして活動した人物であった。そして 商人の隠居であった伊能忠敬が測量術を学んだのは、幕府の官僚でもある学者からであり、彼が全国を測量して正確な日本地図を作成したのも、幕府の依頼を受けてのことであった。
 このように教科書に挙げられた人物を見ていくだけでも、新しい学問の担い手は庶民だけではなく武士層、それも大名までも含んでいるのであり、ここからみても新しい学問の発展の背景は、危機の時代に入ると共に、庶民や武士を問わず、新たな社会・国家構成原理を求めた活動が盛んになったことにもとめられるのである。

:05年8月刊の新版では、「新しい学問の発展」の背景に関る部分の記述が少し変更されている。すなわち、冒頭の、民衆の教育水準が向上した結果花開いた町人や農民の生活に即した新しい学問の典型として石田梅岩の心学を理解できるように、心学の紹介までの項の前段に入れ、心学の記述のあとで段落を改めている。つまり、本居宣長の国学や蘭学の発展、そして安藤昌益の学問などは、心学とは異なる背景から生まれたと理解できるように、文の構成を改めている。しかしなおこの版の記述でも、新しい学問の発展の背景には、内外に渡る危機の時代への突入という背景があったという認識は残念ながら示されていない。
 
 
(2) 古代の日本に理想を求め、現実社会を変えようと試みた本居宣長

 では、この新しい学問を一つ一つその性格や背景を検討しておこう。
 最初に、本居宣長の国学を検討してみよう。

:なお「つくる会」教科書ではその筆頭に、石田梅岩の心学を先のように挙げているのだが、この詳細な検討はすでに、近世編2の【26】の項でやってあるので、あえてここでは検討しない。近世編2の該当項目を参照されたい。

 教科書は次のように記述している(p164)。

また伊勢松阪(三重県)の医師本居宣長は、「古事記」など日本の古典の研究をとおして、儒教や仏教の影響を受ける以前の、日本人の素朴な心情を明らかにした。特に皇室の系統が絶えることなく続いていること(万世一系)が、日本が万国にすぐれてるゆえんであると説いて、国学を発展させた。国学は、平田篤胤によって町人や農民の有力者の間に広められ、尊王思想(皇室を尊ぶ思想)をつちかった。

 この記述には大きな間違いはない。大筋では正しいと言えよう。
 しかしそれでも以下のような幾つもの問題点を孕んでいる。

@宣長国学の背景も現実社会への影響力も見えない欠陥

 歌の研究を通じて古代人の考え方を探求しようとする国学は江戸時代中期からすでに広く行われていたが、本居宣長は、その始祖である契沖の学問の方法や、直接の師である賀茂真淵の万葉集に依拠した古代語の復元を通じた国学の深化の成果を踏まえて、古事記や日本書紀などの古代文献の研究を通じて古代人の考え方だけではなく、古代日本の国のありかたまで明らかにしようとしたところに、彼の歴史的な位置の一つはある。
 さらに彼はこれを明らかにするだけではなく、当時の為政者である、大名や老中、さらには公家や天皇に接近して、宣長の学問の成果を彼らに披露・論述講義することを通じて、彼の理想とする社会に現代をより近づけようと努力したことに見られるように、彼は単なる学者ではなく、社会思想家であり政治思想家として、現実社会の変革に実際に携わろうとした。その結果として彼の門人は先に見たように、町人だけではなく、諸藩の武士や大名、さらには公家天皇にまで及び、後世に大きな影響を与えたのであった。ここにも宣長の歴史的位置はある。
 この観点から見ると、「つくる会」教科書の記述は間違いではないが、幾つか欠陥が存在する。
 一つはこの記述では、なぜ皇室の子孫が続いていることが日本が万国に優れているのかがよくわからない。
 彼は天皇は、この世界を作った天地創造の神の子孫だと理解し、その神の子孫である天皇によって統治され続けた日本だからこそ日本は万国に優れているという思想、つまり神国思想を展開したわけだが、この点が明確でないのは問題である。ここを押さえないと、尊王思想が攘夷思想と結合していく後世のありかたが理解できないからである。
 「つくる会」教科書の執筆陣は、この教科書に古代において神話を重視し、天皇・皇室は天照大神の子孫であると強調しているのだから、それは説明するまでのことではないと考えたのであろうが、宣長が古事記神代巻に書かれたその神話を事実と信じていたということを明記しておかないと、その神話を信じていない現代人からは、宣長の思想の意味がわからなくなるからである。
 そして第二に、この記述では、宣長がなぜ儒教や仏教の影響を排除した古代に理想を求めたのかがよくわからない。
 これは次の第三の問題にも通じるのだが、彼が古代の日本を明らかにしようとしたのには、彼の生きた現代日本に対する鋭い批判・疑問があったからだ 。そして問題点が続出している現実社会の指導理念とされていたのが儒教(とその教学である儒学)と 仏教(とその教学である仏教哲学)であったので、宣長は儒教・仏教思想によるのではなく、それが入っていない古代人の心に添えと主張したのだ。宣長がいう「日本人の素朴な心情」とは、反儒学反仏教教学の考えに基づいて古典を読み解いて抽出した「古代の日本人」の心を意味している。
 こうしたことが度外視されると、彼の思想が現実社会に大きな影響を与えたことの背景も理解できなくなるからである。
 最後に第三には、ここが最大の欠陥だが、彼が現実の世の為政者に彼の学説を知らせ、現実の世の中のあり方を変えようと動いたことがまったく度外視されていることは問題である。またこの点においては、彼の門人が庶民だけではなく為政者に も及んでいたことを度外視したことで、まるで彼の門人は、彼の弟子の平田篤胤と同様に町人や百姓のような庶民であるかのような錯覚を読むものに与えかねない。もちろん篤胤の門人 の中核は、地方で財力を蓄え村政を掌握していた豪農層を中心としていたが、彼の弟子ももまた、宣長と 同様に、武士層にまで及んでいたことを度外視しているのも問題ではある。
 では、この観点に沿って、以下宣長国学について詳しく見て置こう。

A宣長以前の国学−和歌研究を通じた古代人の心の復元

 まず、宣長以前の国学のありかたを確認しておこう。
 学問としての国学は、契沖(1640‐1701)によって始められた。
 彼はそれまでの鎌倉時代の新古今和歌集を理想としてそれに倣うだけの歌学を脱して、万葉集に依拠して古代語を復元し、それによって古代人の心に倣った歌を詠もうとした。ここにおいて初めて、古典を研究することで、古代の言葉の意味や使い方を復元して古の日本に迫る学問として国学は成立したのだ。
 この時古代の日本を知る史料として重視されたのが万葉集であったが、その方法論は、儒学の古典を、これが成立した中国古代の時代に即して解釈し、その時代の言葉の意味や使い方をつかんでその意味するところを復元し、儒学で理想とされた聖人の世を、後世の解釈ではなく当代のありかたのままにつかもうとした荻生徂徠の方法が転用されていることは重要なことである。
 つまり国学も、17世紀後期から始まった考証学・歴史学の隆盛の傾向の中で生まれたのだ。
 しかし契沖の時代の国学は、歌の読み方として古代に戻るといったまでで、古代の日本の社会や国家のあり方を理想とするものではなかった。これは彼の活動期が近世江戸時代初期の安定・発展期であったことにもよるのであろう。
 この、後に宣長において体系化された、古代の日本の社会や国家のあり方を理想とする傾向を初めて見せたのが、賀茂真淵(1697‐1769)であった。
 真淵も和歌の研究に重点を置いていたが、より儒学批判の傾向を強め、「からの文」が渡来したことで日本人の心が失われているとし、それ以前の日本人の心をよく示すものとして万葉集が重視されたのであった。
 つまり真淵においては、万葉集を生み出した時代こそ、日本のあるべき姿だとする姿勢が強まり、社会や国のあり方として古代の日本を理想とする傾向が強まったのである。
 これは真淵の活動期が18世紀中期であり、世界経済の一翼として商工業が発展し社会が変容して封建制度に次第に合わなくなって様々な矛盾が噴出しつつあった時代に真淵が生まれおおせたからだといえる。
 だが真淵においては、古代の日本を描写した古典である古事記・日本書記の研究には着手されず、これは宣長において初めてなされたことなのであった。
 では宣長が生を受け成長した時代とはどのようなものであったのか。
 本居宣長(1730‐1801)が生まれたのは、1730(享和15)年5月7日。伊勢松阪の木綿商人小津家の跡取り息子としてであった。
 しかし彼が11歳になった1740(元文5)年7月に父親は病死し、家督は宣長の義理の兄が継いだ。このため彼は、母や妹や弟とともに小津家の隠居家に移り、父が蓄えてあった資金 を隠居が持っていた店に預けて利子をとり、それで細々と暮らした。

:宣長の父は小津家に婿養子に入り、妻が前の夫との間に儲けた息子を跡取りにしていたからである。宣長はこの妻が病死したあとにもらった後添えの妻との間の長子。

 彼が元服したのは15歳のとき、1744(延享元)年12月。
 家と江戸や松阪の店は義兄がすでに継いでいたので彼は翌年、江戸の叔父の店にいって商人修行をし、その後19歳のおりの1748(寛延元)年11月に伊勢山田の紙商人今井田家に養子に入り、紙商人となり独立した。
 しかし彼は商売人に向いていなかったようで、21歳の時、1750(寛延3)年12月に自ら申し出て今井田家を離縁され実家に戻り、翌1751(宝暦元)年2月、義兄の死によって家督を継いだが、商売に向いていないことを心配した母の勧めにより、翌1752(宝暦2)年、23歳のとき、医者になることを志して京都に上り、儒学・医学修行に入ったのである。
 そして宣長が一応儒学と医学を修めて松阪に戻ったのは、28歳のとき、1757(宝暦7)年10月のことであった。
 この京都遊学中に彼は、儒学者で師匠である堀景山より多くの儒学の古典を学ぶとともに、契沖の歌学にも触れ、契沖の古代語復元の方法を古事記・日本書紀解読に応用してみると、当時の儒者 や神道家たちのいう古代日本とは異なった姿が見出されることに感銘を受け、京都時代に古事記・日本書紀・万葉集を研究し、松阪に戻った時にはすでに一角の国学者となっていたのだ。
 宣長は松阪に戻った翌年1758(宝暦8)年、29歳の時から源氏物語の講義を始め、さらに1762(宝暦11)年には万葉集の講義を始めている。そしてこの間に賀茂真淵の書に出会いその学識と学問に傾倒し、1763(宝暦12)年34歳の時に賀茂真淵に入門して古事記研究に着手し、早くも翌1764(宝暦13)年には、古事記神代篇の講義を始め 、主著「古事記伝」の稿を起こしている。
 さらに彼の古事記研究が実を結び、彼なりの日本神国論の骨格が完成したのは、42歳になった1771(明和8)年10月に「直毘霊」を書き上げた時であった。
 彼が生を受け、一角の国学者として名を成していった時期は、18世紀の中頃から後半期。これまでの諸章で見てきたように、まさに封建的支配を強化しようとする幕府・藩と商業的農業の展開によって得た利益を守ろうとする百姓とが激突して諸国で激しい一揆が勃発していた時代であり、ロシアを先頭とする欧米諸国による開国要求が高まった時代、内外に渡る危機の時代の真っ只中であった。
 そしてだからこそ日本の社会や国のあり方が様々に模索されている時期であり、彼が京都遊学を終えた直後の1757(宝暦7)年には、京都で公家や天皇に日本書紀を講義し天皇中心の日本に戻れと主張した学者竹内式部の行動が幕府に問題視され、翌年彼は京都を追放されるに至っている。
 さらに宣長が生きた時代の後半には、1779(安永9)年に天皇家傍系の宮家から即位した光格天皇によって朝権の回復拡張を図る動きが起きており、このような動きがお上から起きていることは、宣長の日本神国論を喧伝し、世の中を理想とする古代により近づけようとうする動きに勇気を与えたことであろう(この動きについては、本巻の【31】で詳述した)。
 このような時代に国学を深めた宣長はやがて、彼の神国論に基づいて現実を変えていこうとしたのである。
 では次に彼の思想の特徴を見ておこう。

B天地創造の神の子孫が統治する神国日本−宣長の「信仰」としての神国思想

 宣長の思想の特徴は、主著古事記伝の中核的思想を示した「直毘霊」によく示されており、これを実際政治に生かそうとして大名に献上した「玉くしげ」には、彼の思想を実践し日本を変えようとする彼の方法論が示されている。さらに彼の思想を批判した同時代の国学者である上田秋成との論争書である「呵刈葭(かかいか)」には、彼が提唱する神国論は、科学的論証ではなく彼の信仰であることがよく示されている。
 ではこれらの書を概観することを通じて、本居宣長の思想を見ていこう。

(a)特徴的な神のとらえかた−天地創造の二神とその子孫の太陽神による統治
 宣長は、1787(天明7)年に紀州藩主徳川治貞に、その諮問に答えて政治のあり方を説いた書「玉くしげ」を献上した(これは出版されず、ずいぶん後になって出版されたので「秘本玉くしげ」と呼ばれてきた)。その際「玉くしげ」では宣長は、君主が古の日本の「道」に沿って政治を行うべきだとしてそのあり方を具体的に提言したのだが、その「道」そのものについて詳しく記した別本をともに献上した。これは、それ以前に、おそらく尾張藩士に藩主献上の書として道のあり方を示した書が欲しいといわれて書かれたものであろうが、こちらの方も「玉くしげ」と題されていた。
 この別本の冒頭で宣長は、天地の成り立ちについて、以下のように述べている。

 まず第一に、この世の中全体の道理をよく理解しておかなければならない。
 その道理とは、この天地も神々も万物も、皆ことごとくその起源は、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)・神皇産霊神(かむむすびのかみ)と申す二神の「産霊の御霊(むすびのみたま)」と申す物によって生まれ出たものであって、長い年月をかけて人類が生まれ、万事万物が生まれ出たことも、皆この御霊によらないものはないということである。だから神代の初めに、伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)の二柱の大御神が、国土・万物・多くの神達を生成なさったのもその本は皆、かの産霊の御霊によるものである。(現代語訳は、山口志義夫訳「玉くしげ−美しい国のための提言」による)

 この天地万物を生み出した神を二柱の神に求める宣長の見解は、当時の神道家の間でも特異な物である。
 なぜならば、宣長が依拠した古典である古事記神代篇には、高天原に生まれた最初の神としては、天之御中主神 (あめのみなかぬしのかみ)が記されているのであり、宣長があげた二神は、その次に生まれた神として挙げられており、この三神はみな「独神(ひとりがみ)」であったとされて、ある意味で並列に置かれた神であった。
 そして中世以後神道が、仏教などの影響を受けて、次第に一神教としての性格を強めたとき、諸神の上に立つ最高神として多くの神道家が崇めたのは、天之御中主神か天照大神であった。
 しかし宣長はこのような見解を排して、なぜか冒頭に書かれた神を除外して、その次の二神を対のような神として取り上げ、この二神がこの世の全てを生み出した神だとしたのである。
 この理由を宣長は説明していない。
 あるいはこれは、彼が古事記伝の各所で、この二神は同時に古事記のなかで現れることなく別々に出てくることから、「其の御名は異(かは)れども、唯同じ神のごと聞こえ」ると記していることから、二神で一つと考えており、その神の名に「産霊」とあることから、この神こそが天地創造の神であると考えたのかもしれない。
 こう理解すると宣長の神観念もまた、一神教の傾向を色濃く持っているといえよう。
 ここに宣長の、当時支配的であった神道が、儒学や仏教の影響を受けて歪められたものだとする立場がよく示されている。
 そして宣長が次に重視するのは、最初の三神に続く七代の神に続いて現われ、日本の国土を創生した神として記されている、
伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)の二柱の大御神であり、伊邪那岐(いざなぎ)が妻の伊邪那美(いざなみ)が死後行った世界である黄泉の国を訪れたあと、その穢れを禊で祓う中で生まれた太陽神・天照大 御神であった。
 そしてこの天照大御神は神々の世界である高天原の統治を、伊邪那岐大神から委任された諸神を越えた神であり、この天照大御神が其の孫に、地上の国である「葦原中国を統治せよ」と地上の世界の統治を任せたのがこの日本国の始まりであり、その神の子孫が今も続く天皇であると宣長は説いた。
 ここは多くの神道家の認識と変わらない。
 では、宣長の認識が同時代の神道家の認識と大きく異なった所は何か。
 それは、古事記神代篇に記された天地創造の神々を、文字通り全世界、この当時においては西洋の学術の流入によって世界は、従来の唐・天竺・日本という限られた認識から、地球儀・万国図に記された多くの国々からなる世界と認識されていたわけだが、この全世界を生み出した神であり、その神の直系の子孫である天皇が今もって統治を続ける日本国こそが、万国に優越した国であるという、日本神国論・日本至上主義を高く掲げたところにあった。
 宣長は、「玉くしげ」別本において、次のように明言する。

 さて皇国(みくに)は格別の子細があると申すのは、まず四海万国をお照らしになる天照大御神がお生まれになった御本国であるから、万国の元本太宗である国であって、多くの事柄が異国より優れて立派である。(中略)
 さてこのように本朝は天照大御神の御本国であり、その皇統の統治なさる御国であって、万国の元本太宗である御国なのだから、万国共にその御国を尊び仰いで信服し、四海の内が皆、このまことの道に依り従わないわけには行かない道理である。

 宣長は日本が万国に優れていることとして、稲を持っていることと天照大御神以来続く皇統が今もって不動であることを挙げている。そして後者の点については、日本は、その神国の由来を伝える古伝説が正しく継承され皇統による統治が続いていることにその優れたところが示されているが、他の国は、この正しいまことの道を見失ったために、それぞれの国の王統が続かず度々交代して無秩序になっているところに、これらの国が日本より劣っている証拠があると断じたのだ。
 そして宣長は古来以来の日本の社会は国のありかたはみな、この太陽神天照大御神の計らいによって成り立ったものであり、その神のみわざに従って国を治めていくのが日本古来の神ながらの道であると説いたのだ。
 宣長は、「直毘霊」において次のように言っている。

 千万(ちよろず)の御代の御末の御代まで、天皇(すめらみこと)は大御神の御子孫として、天上の神の御心を大御心とし、神代も今も変わることなく、「神の御心にままに安らかに治まった国」と言われる通り、穏やかに統治なさってきた大御国であったから、古の御代には「道」という言挙げもなかった。(現代語訳は、山口志義夫訳「玉くしげ−美しい国のための提言」による)

 そして宣長はこの本文を解説して以下のように言う。
 すなわち、「天皇ですら、何事についても、御自身の御心で利口ぶった御判断をなさることはなく、ただ神代の故事の通りに取り行われ、国を統治なさる。疑問に思われる事がある時は、御占いによって天上の神の御心をお問い合わせになって政治を行われる。・・・「神の道に随う」とは、天下を統治なさる御所為は、ひたすら神代よりそうであった通りに行われ、少しも利口ぶったお考えをお加えにならないことを言う。さてそのように神代のままに大らかに統治なさると、おのずから神の道が働いて、他に求める必要がないことを言ったのであった。」と説明し、天皇が行う政治それ自身が神の政治であり、万民はそれに随うべきものであると強調する。
 しかしこの正しい道理が異国の教えである儒仏の教えが入ってきて以来忘れられ、中には朝廷に敵対し天皇を悩ませた、北条や足利などの悪臣も現れたり、日本は中国などに臣下として臣従するなど、間違った態度をとって来たと宣長は、儒学や仏教教学による世界認識を非難し、いかに儒仏が入ってきてからの日本の外交が間違っていたかを詳しく論述したのが、先に示した1778(安永7)年に著した「馭戎慨言」 (ぎょじゅうがいげん)であった。
 そこでは、全世界を遍く照らす太陽神である天照大御神の子孫が統治する日本国を全世界が敬うのは当然であるとし、これを無視して世界の中心のように振舞う中国を征伐しようとした豊臣秀吉こそ、まことの道に適った統治を行おうとした人物であったとして、神国を汚す野蛮人である夷人を打払うことは当然であるとする攘夷思想をも鼓舞していたのであった。

b)蘭学の知識による中国の権威の相対化
 では宣長はなぜ中国の権威を否定し、中国伝来の儒学や仏教教学を持って日本の古代を解釈したりかの国の道に従って政治を行うことを否定したのか。
 これは先にも見たように、彼が活動した時代が、商工業の発展に伴って封建的社会政治体制とそれが衝突を始め、諸身分の利害が対立して各地で様々な軋轢が生じ、全国的に一揆や打ちこわしが頻発したことに見られるように、古い体制が音を立てて崩れ始め、新たな社会政治体制が求められていた時代であったことに起因している。
 これらの社会現象は皆、神国論を選択し神ながらの道に随えば世は静に収まると考えていた宣長にとっては、自身の神国論の正しさを立証する事象であると捉えられたことであろう。
 そしてもう一つ重要なことは、この時代に蘭学の知識が広がり、儒学に示された中国の認識が蘭学の知識によって相対化されたからである。
 宣長も処々において、西洋の科学を基準にして中国の認識を見ると、それがいかに時代遅れであるかを示し、かの国を「中華」として世界の中心として崇める儒学者の傾向を批判していた。
 例えば、「馭戎慨言」 (ぎょじゅうがいげん)においてすでに次のように述べていた。

 「世に天竺、もろこし、日本と並べて三国というようだから、もろこしは中である」と理解している人もいるだろうが、それはとりわけ愚かである。(中略)天竺の西にも国はまだたくさんあって非常に広いのだから、三つに限って言うべきではない。ましてやもろこしを「中」とはどうして決めることができようか。

 これはかの国が中華と自称していることを批判したものであるが、彼がここで依拠しているのは、蘭学によってもたらされた西洋の地理学の知識に基づいた、地球儀・万国図に基づいた世界認識である。宣長が中国を優れた国とする従来の理解を否定する際に使用する知識は、蘭学の地理学・天文学・医学の知識であった。
 彼は蘭学そのものは学んだことはないが、蘭学に基づいて書かれた書を読んでいたし、弟子の中で長崎に行く機会を持ったものたちを利用して、積極的に西洋知識を得ようとしている。
 こういう時代だからこそ、彼は漢学の中国中心の世界観や知識を否定することが可能だったのだ。
 
これが宣長の神国思想の特徴である。

(c)神ながらの道に随う統治を!ー「革命」を排して君侯に対する助言者に徹した宣長
 では宣長は、現代人がこの世に神ながらの道に随った政治を実現するにはどうしたら良いとしたのか。
 同時代の勤皇家である本巻の【31】で見た竹内式部や山縣大弐などは、朝廷を軽んじる幕府を放伐するといった革命論を提示していたが、宣長は、このような流れには組しない。
 そもそも彼は、徳川将軍家による統治を、天皇の委任を受けたものとして、神ながらの道に適うものとして肯定していたからだ。
 「玉くしげ」において宣長は、現代の政治を評して以下のように述べている。

 さて今の御代と申すのは、まず天照大御神の御計らいと朝廷の御委任によって、東照神御祖命(あずまてるかむみおやのみこと・徳川家康のこと)を始めとする御代々の大将軍家が、天下の御政治を広く行われている御代である。そしてその御政治をまた一国一郡と分けて、御大名達がそれぞれこれを預かって行われる。・・・だから民も国もまた天照大御神がお預けになっているものである。だから、かの神御祖命の御定め、御代々の将軍家のお定めは、取りも直さず天照御大神の御定め・御掟なのだから、特別に大切にお思いになり、この御定め・御掟に背くまい、廃れさせまいとよくお守りになるべきである。

 ここで宣長が述べている論理は、時の老中松平定信が将軍に述べた大政委任論とほとんど変わらない。
 だから宣長は、この世の事は良いことも悪いことも全て神のみわざなのだから、賢しらにそれを改めようとせず、今の掟に随いそれを守り、何事も先例に従って行う事が、それがそのまま神の御心にかなうことだと述べて、あくまでも天皇が委任した徳川や諸大名の統治に従うことが、臣下や万民の道であると説いたのだ。
 そして彼自身は、古典の研究から取り出したこうした神ながらの道を、君侯に説くことに徹し、彼らが天皇の委任にしたがって正しい政治をするようにとただ説くことだけに徹したのであった。
 しかし彼が具体的に「玉くしげ」で提言した政策は、同時代の儒学者などのそれと大きくことなっていたわけではない。
 彼の提言を箇条書きにしてみると以下の通りである。
 「大名や武士の生活が重々しくなり、極めて華美となっているので、身分相応の格式は大切だが、できるだけ質素にすること」
 「現在役目がない家中衆は、大小上下共になるべく多く農作をさせ、家内の婦人は手仕事に精を出す」
 「百姓への税が重いので、彼らに対するいたわりが大事」
 「百姓の生活も贅沢になっているので、なるべく質素にすること」
 「一揆の原因の多くは上に非があるから。非道の取り扱いをやめ、人民をいたわれ」
 「金銀財宝はとかく平等にはいきわたりがたいので貧しいものはますます貧しく、富めるものはますます富んでいる。富めるものが貧しいものを救うことをお上で褒めて励行せよ」
 「金銀の取引はなるべく減らし、現物で取引することが適当なものはなるべく現物で取引せよ」
 「大名の財政困窮にあたっては、家中の俸禄を年限を決めて減らすより策はない」
 「身分の低い者の意見にも耳を傾けよ」
 「一国の施政は、家老から下々の役人に至るまで皆一致するようでなければならない」
 「賄賂が国政を蝕んでいる。賄賂を受け取ることを禁止するだけではなく、賄賂を贈ることも厳重に処罰せよ」
 「訴訟はなるべく迅速に」
 「財政逼迫の根本原因は、無益の輩に俸禄や領地を与えすぎていること。無益な代々の召抱えの見直しを」
 「武士は日頃から武術をたしなみ軍談の書を読むこと」
 「朝廷を深く尊崇し、諸国の神社を盛大にまつるべし」。
 どれもすでに幕府や諸藩で実践されていることばかりである。最後の朝廷の尊崇と神社を盛大に祭れというところに、彼の日本神国論が表現されているだけである。
 このように宣長の治世論は、その大政委任論とともに、現状を追認した、多くの者にも首肯される穏やかなものであった。
 この点は、彼の同時代人で、幕府の放伐を主張した勤皇家の竹内式部(1712‐67)や山縣大弐(1725‐67)と好対照をなしている。
 すでに先の【31】の章で見たように、幕府の放伐を主張した彼らは、幕府から謀反の嫌疑を受け、山縣大弐は死罪、竹内式部は遠島(実施される前に病死)に処せられている。 そして宣長が漢意 (からごころ)を排除していることから、彼は放伐とか革命とかいうことは、正しい道が伝えられていない外国の習いにすぎず、古代以来神の子孫が統治を続けてきた日本には適わないあり方であると主張しているのだから、宣長が現状を追認する穏やかな主張を繰り返していたことは、論理的には首尾一貫していると言えよう。
 ここに宣長の現実に対するし方の特徴がある。

(d)現実社会を変えようと動いた宣長
 しかし彼は単なる学者として、古典に基づいて「復元」した古代の日本のあり方を理想として弟子達に示していただけではなかった。
 彼は積極的に、大名や老中や公家・朝廷にも彼の論を広めようとしており、彼らが神ながらの道に随えば、自ずから世の中は良くなると考えていたようだ。この点で彼は単なる学者ではなく、社会思想家・政治思想家として現実社会を変えようと動いた人でもあった。
 宣長の弟子は、諸国におよそ500人を数え、その中には彼が奥医師として仕えた紀州侯だけではなく、浜田藩主の松平康定や公家の芝山持豊などの有力公家も含まれていた。
 彼が積極的に諸国の武士や大名に自身の論を広めようと動いたのは、天明年間から寛政年間(1781〜1800年)のこと。彼が主著古事記伝を書き上げた50歳過ぎのことであった。
 おそらくその背景には、天明年間(1781〜88)の大飢饉と、それに対して無策な諸大名や幕府の対応であったろう。
 彼の日記は大部分は日々の自身のなしたことや身辺のことしか記さないのであるが、天明年間の大飢饉や災害の様は詳しく記録し悲憤慷慨すらしている。
 そしてもう一つ彼が積極的に大名などに関ろうとしたきっかけは、すでに門人となっていた尾張藩重役の横井千秋(彼は古事記伝の出版を後援しその資金を出すとともに段取りをつけて、宣長の主著が広く世間に認められるよう計らった有力な門人であった)が、1785(天明5)年に国学による藩政改革を志し、尾張藩主に建白するために宣長に国学に基づく治世論の執筆を依頼したことであったろう。宣長は此れに応えて、この年の冬に「臣道」という治世論の書と、その背景となる国学的世界観を述べた「玉くしげ」(此れが後に紀州藩主に別本として献上されたもの)を書き上げた。
 そしてこの時期以後、これまでの伊勢の国の有力商人や神官に留まっていた彼の弟子は空間的にも身分的にも広がり、尾張・石見・遠江・紀伊・筑前・京などの諸国に門人が広がり、その多くが諸藩の藩士であった。
 天明の大飢饉と一揆・打ちこわしの頻発に見られるような時代の社会崩壊の現象が、諸藩士の中に宣長の神国論をして、もう一つの日本の姿を示すものとして認識させていったのである。
 さらにこれらの動きは、同時代の天皇・光格によって、朝権の回復と拡大の動きが行われていたことにも連動していよう。
 この中で宣長は、積極的に諸国に自身の教説を広めようと動いた。
 1787(天明7)年には、紀州藩主に治世論を説いた「玉くしげ」を献上した。
 そしてこの時期以後、先の横井千秋は尾張藩主に宣長の治世論を献上して藩政改革をするには、幕府に対して宣長の論を認めさせることが先決と考え、宣長と同じく大政委任論に 立っていて幕政改革を積極的に行っている老中松平定信に宣長の書を献上しようと画策し、宣長もこの策に興味をもってその方法を千秋と協議している(このことは、定信が国学に冷淡であることをもって無理と判断されたが)。
 また1789(寛政元)年には、宣長は尾張に出張講義を行い、尾張藩士等多くの門人を得、以後二度にわたって名古屋出講を行って、総計で88人の門人を得ている。
 さらに宣長は、1790(寛政2)年に古事記巻1〜5が刊行されると、これをつてを得て妙法院の宮を通じて光格天皇に献上し、ちょうど京では天明の大火で焼失した皇居の再建がなって天皇の新皇居への遷幸が行われるのを期に、それの拝観をかねて上京し、京都で公家などに講義を行った。
 そしてこの京都出講は、以後、1793(寛政5)年と翌1794(寛政6)年、さらには彼の死の前年である1800(寛政12)年末から1801(享和元)年初にかけてと、都合3度行われ、京都にも20人の門人を獲得した。
 宣長もまた、光格天皇を中心とする朝権の回復拡大運動に結びつき、この動きに理論的な背骨を与えようとしていたのだろう。
 またこの間の1792(寛政4)年には、加賀藩が宣長を召抱える動きを示したことに対抗して紀州藩が宣長を御典医師(鍼灸)格5人扶持として迎え入れ、宣長は、1794(寛政6)年と1799(寛政11)年、そして1800(寛政12年)と都合三度の和歌山出講を行い、藩主に講義するとともに、総勢17人の門人を得た。
 さらにこの時期宣長は、かねてから宣長の門人となっていた家臣を通じて宣長に教えを請うていた石見浜田藩主の松平康定の参勤交代の途中、1795(寛政7)年と1796(寛政8)年の2度松阪で会い、親しく彼に講義を行った。こうした活動を通じて石見にも門人は19人を数えた。
 このように天明年間以後の宣長は死の前年まで積極的に、大名や公家にも自身の教説を広めようと活動していたのだ。
 これは彼が表面的には、現実社会のことはすべて神のみわざなのだから、賢しら心をもって変えようとするのではなく、現状を追認しつつも自身は神の教えに従って生きるべきだと述べていたことに反して、現実の国を動かしている君侯である大名や公家、そして老中までにも彼の教説を広め、統治者である彼らが、神ながらの道に従って皇室を重んじ、古代以来の日本の伝統に従って統治を行うように変えようと動いていたことを意味している。
 この意味で革命を否定した宣長は、被治者である百姓や町人による現実変革につながる一揆や打ちこわしを否定し、統治者である君侯、そしてその士大夫である武士による現実変革を志した儒学者や老中松平定信らと同じ社会観・国家観を持っていたと言えよう。
 実際紀州藩によって御典医師となった彼は、武士身分になったのであり、この意味で君侯の智恵袋手足としての士大夫である武士として、彼は積極的に国政に関与しようとした のである。
 このように見てくるとき、宣長の一見穏やかな治世論は、急激な革命を排して、漸進的な国学によろ改革を志したものと言えようか。そして彼の神国論・日本至上主義が社会に広く根を張ったとき、社会は自ずから変化する可能性を持っていた。
 なぜならば松平定信や宣長の大政委任論は、表面的には天皇家の権威で持って将軍家や大名の統治に権威を付与する役目を果たしているが、もしその将軍家や大名家の統治が、人々の意に適わぬ問題の多いものと多くの人に認定されれば、それを飾ったはずの天皇の権威によって、その統治そのものが指弾され、果ては 大政委任論に基づいて、彼らに対して朝廷に大政を奉還せよと迫る論理を内包しているからである。
 だから宣長の表面は穏やかな学者としての言動の裏側には、彼の神国論に基づく大政委任論を、諸大名や武士、そして朝廷の公家や町人・百姓たちに遍く広めることで、こうした現状への批判を支える大義名分を与える思想活動として、諸国の多くの門人に教えを垂れたり、彼に批判的な学者や思想家と激しい論争を行ったり、さらには求めに応じて、諸大名や公家などに、彼の説を講義したのであろう。そして彼は寛政の改革を実行し名君と詠われた松平定信にも建白書を提出しようと画策したのであり、さらには公家を通じて彼の著書を皇族や天皇に献上したりして、彼の教説を精力的に広めていたのであった。  

(e)信仰としての神国論
 しかし宣長の神国論は、学者として古典をじっくり研究し、そこから復元された歴史的事実としての神国論ではない。
 彼は明治以後、古文辞学者として、近代的な文献学者として高く評価されてきた一面があるが、彼は、いや近世の学そのものを、近代の学のような、客観的な科学的な学問と同列において論じることは間違っている。
 近世の学は、思想・信仰と学問が一体となっており、このことは宣長の学においても同様である。
 宣長の学が、かなり彼の思想・信仰によって裏付けられていることは、同時代の宣長批判者で、宣長と同じく賀茂真淵の国学を学んだ国学者の上田秋成(1734‐1809)との論争のなかに明確に見て取れる。
 二人の論争は、1786(天明6)年から翌1787(天明7)年に行われた。
 この論争は前後二つの内容に分かれており、前半は古代語における音韻の問題、主として「ん」の音が古代においてあったかなかったかの論争で、これは古代文献に基づいた極めて学問的論争である。後半は、京都の考古学者藤井貞幹が1881(天明元)年に著した「衝口発」という論文(これは日本古代の文物、制度の全てが中国朝鮮に由来することを論じた書)を読んだ宣長の門人で豊前の国中津の神官・渡辺重名が憤激し、師の宣長にこの本を送って反論を依頼し、宣長がこれに応えて書いた「鉗狂人」を秋成が批判したことから始まった論争である。
 この後半の論争はとても興味深い。
 中でも宣長が日本が万国に優れた国であると論じた論拠そのものを、秋成が批判したからである。
 論争の中心どころは、宣長が論争をまとめた「呵刈葭(かかいか)」によれば以下のようだ。

秋成
 宣長大人は、日の神が四海万国をお照らしになるといわれますが、それは如何なものでしょうか。日の神についての伝説は「神代紀」に「此の子(みこ)、光華明彩(ひかりうるは)しくして、六合(くに)の内に照り徹(とほ)る」とも、また「古事記」に「天の岩屋戸を閉ぢてさしこもりましき。ここに高天(たかま)の原皆暗く、葦原中国(あしはらなかつくに)悉(ことごと)に闇(くら)し。此に因りて常夜往きき」とも記されています。これらの記事から考えると、「六合」はもともと天地四方という意味ではありますが、ここでは日本国内のことに借りているのであって四海万国という意味ではないように思われます。(中略)あるいは、右にあげた例のほかに、日の神がわが国のみならず世界じゅうの異邦をもすべてお照らしになると記した伝説が、何かの書物にあるのでしょうか。
 (中略・ここで秋成は世界地図を取り出し、我が国はその中のちっぽけな小島であるという知識を持ち出す)
 そんなわけですから、いまもし外国人をつかまえて、この小島こそ万国に先立って開闢し、大世界に照臨される日と月とがまずここに現れた本の国である、だから世界中の国々はことごとくわが国の恩恵をこうむっている、だから貢物をもって臣下としてやってこいと教えたところで、一国としてその言葉に服するものはありますまい。そればかりでなく、何を根拠にそんなことをいうのかと反問されたとき、わが国の太古の伝説をもって答えようとしても、相手がそのような伝説は自分の国にもあり、あの日月は自国の太古に現れたままのものだと言い出して論争になったら、いったいだれが裁断を下して結論を出すことができるでしょうか。(後略)

宣長
 日の神のことを論じ申し上げるあなたの議論は、例によって漢意から出ているので、いまさら弁じたてるのも面倒なのですが、まあいささかは申し述べておきましょう。この天照大御神が、世界じゅうの国々をことごとくお照らしになるという伝説がどの書物にあるかというおたずねは、まったくの愚問であります。まず「日本書紀」に「六合に照り徹る」とある文章を、しばらくわが国のことに借りて用いているとあなたが曲解したのは許すにしても、「日の神」という御名はどうなのですか。これもやはりそう名づけたのだと曲解するのですか。「日本書紀」の一書に「天地に照らし臨ましむ」とあるのをあなたはどう解釈するのですか。シナやインドの天地は皇国の天地とは別なのでしょうか。(中略)あなたはインドの日月は皇国の日月とはちがうというつもりなのでしょうか。
 (中略・ここで宣長は世界地図は珍しくなく自分も見たといい、皇国が大きくないことぐらい誰でも知っている。しかし国の尊卑は大きさで決まるのかと反論)
 太古の伝説はたしかに各国にあるにはちがいないでしょう。しかし、外国の伝説は正しくありません。(中略)しかしわが皇国の古伝説は、もろもろの外国のそれとは類を異にする真実の伝説であり、今日の世界と人間のありさまは一つ一つが神代の趣に符合していて、その霊妙なことは言葉ではいえぬほどであります。
 しかし、上田氏はそれを外国の雑な伝説といっしょくたにしてしまい、その妙趣を悟ることができないようです。それはあの漢意という一点の黒雲がまだ晴れていないからです。それが晴れないうちは、どれだけ説明したところで、馬の耳に念仏でありましょう。
(日本語訳は、石川淳編集「本居宣長」による)

 日本書紀や古事記にある日の神に関する古伝説をどう理解するかという問題であるが、両者の理解は対極にあって水と油である。
 上田秋成は、この古伝説で日の神が照らす世界は、「六合」という天地四方を指すことばを使用していても、他ではそれは葦原中国という日本を指す範囲に限定されているのだから、日本国に限定して使っていると解釈すべきだと理解する。そしてこうした古伝説は世界どこにでもあるのであり、自国の古伝説の存在をもってわが国が世界万国に優れた国だとする宣長の理解こそが、賢しら心によって、古伝説を曲解したものだと、 宣長を非難した。
 秋成の論は、蘭学に基づく最新の地理知識や、今日で言えば比較文化人類学的な多元的価値観・文化相対主義をもって宣長を批判するものだ。
 対する宣長は、古事記・日本書紀に書かれた言葉を、言葉そのものとして受け取り、全世界を照らす日の神はわが国に最初に生まれたと理解する。その上で、日月に異国とわが国とで違いがあるか、天地に異国とわが国とで違いはあるかと、これまた最新の蘭学による地理知識でもって秋成の論を論難し、古伝説をそれとして真実として受け止められない秋成の態度そのものが漢意なのだと断じている。
 宣長の価値観は秋成の多元的価値観とは相違して、日本国は天地をつくった神とその子孫が君臨統治する神国であるが故に、万国に優越するという古事記・日本書紀に書かれた世界観そのものを真実だと受け取る、日本至上主義に確固として立っているのである。
 このため二人の論争は平行線をたどる。
 宣長の言を借りれば、宣長が日本至上主義という賢しら意を捨てない限り、秋成がいくら説明しても宣長は受け入れないのだ。
 このように宣長は、古伝説そのものを真実だと、とりわけ天武天皇が撰述させた古事記は神の言葉だと信じて、彼の説を立てているのであり、この意味で彼の神国論・日本至上主義は、彼の信仰にも近い信念であると言っても過言ではない。
 宣長の神国論が、彼の信仰にも等しいものであることは、彼が死の前年に書いた遺言書に記された、彼の墓所と葬儀の形態に見事に示されている。
 宣長は、1800(寛政12)年9月に、彼の墓所と葬儀などについて記した遺言書を書き、11月には彼の墓所を造営した。
 その遺言書には、彼の葬儀は表向きには菩提寺において浄土宗の形で行い、菩提寺の代々の墓所に彼の墓を建てることが示されていた。しかし彼の遺言では、菩提寺への紀州藩奥医師、すなわち武士の格式をもって行われる葬送の行列の彼の棺は空で送ることとされ、その前夜のうちに彼の遺骸は菩提寺ではなく、彼が墓所と定めた山室山の彼の墳墓に運び、そこで神式の葬儀を行って埋葬することが定められていたのだ。
 菩提寺における葬儀と菩提寺の彼の墓は、彼の真の思想をカモフラージュするものと宣長は定めたのだ。
 そして彼が生前造営した山室山の墓所は、伊勢湾と遠くに富士山を眺める絶景の山頂に築かれた古墳状のもので、大きさは神武天皇稜とされた墳墓と同じ大きさの高さ4尺ばかりの円墳状のもので、その塚の下に切り石で墓室をつくり、そこに遺骸を埋葬する形になっていた。さらにその墳丘の上には、彼の好きな桜の木を植えることが指示され、墳丘の前には墓標としての石碑を建て、そこには仏式の仏の名号や家の名、或いは戒名を記すものではなく、単に「本居宣長之奥墓」と記すことが指示されたが、その前に花台や焼香台など仏式の施設を作ってはならないと遺言されていた。
 宣長は、死の年(1801・享和元年)の春に最後に京都を訪れた際に、泉涌寺にある近世の天皇陵を訪れたとき、次のような歌を詠んでいる。
 それは、「神にます君が御はかを来て見れば 今はほとけにますぞかなしき」というものであった。
 つまり宣長は、天皇家すらが、自身の墓を仏式で建立装飾していることを、時の流れ・理由あることと認めつつも、内心では現状を嘆き、これを変えようとしていたわけだが、彼自身の真実の墳墓は、まさしく仏式ではなく、神武天皇のような古来の神式の墳墓にもどせと弟子達に指示していたのである。
 これはまるで、宣長自身を「ハツクニシラススメラミコト=初めてこの地を統治した天皇」と呼ばれた神武天皇になぞらえ、古代以来衰微した天皇親政国家を復活せんとした先達として、自身を神として葬れと弟子達に指示したに等しいものであった。
 ここに本居宣長の神国論が、彼自身の信仰とでもいうべきものであったことがよく示されている。

:宣長が1801(享和元)年9月26日に71歳で死去したのち、葬儀の形態は、紀州藩の松阪奉行所の介入によって、次のように改められた。すなわち山室山の墓所に遺骸を埋葬することは許されたが、山上の墓に遺骸を送るのは、菩提寺での仏式の葬儀が終ったあとにおこなったのである。遺骸のない空の棺をもって葬送と葬儀を行うことが、あまりに不穏当と思われたのだろうか。しかしこの変更があっても、宣長には二つ墓があり、菩提寺の仏式の墓には彼の遺骸は納められず、彼の遺骸が納められた真実の墓は、山室山上の墳墓であるという、彼の遺言はちゃんと守られたのであった。

C自己確立の基盤として選択された神国論-宣長思想の形成過程

 では古典によって古代語を実証主義的に復元し、それでもって古代人の心をありのままに示そうとしてきた実証主義的な古文辞学的な学者である宣長が、いかにして信仰としての日本神国論・日本至上主義を獲得するに至ったのであろうか。
 この点についてはいまだ学会においても定説はないようであるが、著者がさまざまな研究書や宣長自身の書いた物を調べて得た仮説を、ここに提示しておきたい。

(a宣長はいつから神国思想を抱いていたのか
 まずこの点を確認しておこう。
 これまでの学者による研究で確認されたものでは、それは京都遊学中であった。
 すなわち1752(宝暦2)年3月、23歳の時から、1757(宝暦7)年10月松阪に戻った28歳のとき、この時期に宣長はすでに日本は神国であるという思想を抱いていたことが確認されている。
 それは一つは、この時期に書かれた友人宛ての手紙に、「上古の時、君と民と皆、その自然の神道を奉じて、これによって身を修めずして身を修め、天下を修めずしてこれを修める。礼儀自ずから有ると存ずる」と 、後の神ながらの道と同じことを記していたことに見られる。
 またもう一つは、宣長はこの京都遊学中に皇居を参拝する機会を得、そのときの感激を彼の在京日記に記していることだ。
 すなわち1756(宝暦6)年正月13日の条である。
 「禁裏へまいって御修法の壇場を拝み奉った。たいそう尊き紫宸殿に上り奉って、拝み奉ること、たいそう恐れ多いことと思った。(以下内裏の中の様子を詳しく記したあと)公家門の前にてしばし休んでいた折に、公卿殿上人、あまた御所に上りたもうありさまを見たが、常には見慣れぬ風情で、とても尊く、昔の盛んなりし御世の内裏のさまが思いやられて、立つことも忘れてしばらく休んでいた。雲の上人のありさまは、とても優雅で尊く見え奉る」(現代語訳は筆者)。
 これは宣長が京に上って5年目のこと。儒学や医学を学ぶと共に、契沖の歌学に触れて、その方法論をもって古事記や日本書紀を読み始め、彼が彼自身の神国論を確固としたものにしていたちょうどその時期。
 すでに27歳の宣長はひとかどの尊王論者・国学者となり、皇室を尊崇する心はさらに深いものとなっていたことを示す逸話である。
 では宣長がすでに京都遊学中には神国思想を抱いていたことは確実であるが、それ以前においてはどうであったのか?
 彼の日記は、1748(寛延元)年19歳の年に、宇治山田の今井田家に養子に行った頃から後のものしかのこっていないが、これから先の内裏参拝までの日記の中には、皇室を尊崇する神国思想を吐露した個所は見られない。
 しかし彼が詠んだ歌を記した記録(石上稿)には、彼が歌を学ぶことを志した1748(寛延元)年からすでに、宣長が皇室を尊崇し、日本を神国として崇める思想をもっていたことを示す歌が、彼の死の年まで毎年のように記録されている。筆者が数え上げた限りではそのような歌は、総数で168首。宣長が生涯で詠んだ歌は1万首にも上るといわれているが、けして少ない数ではない。多い 年には年に10首ほども詠んでいる。
 その最初の歌は、1748(寛延元)年4月から、彼が始めて京都へ上った折、7月に天満宮に奉った、19歳の時の歌である。それは、
 「君が代をまもる心を筑紫より 移り北野に瑞の玉かき」 である。
 宣長が正式に歌を学び始めたのは、この年の11月に宇治山田の今井田家に養子に行った翌年、1749(寛延2)年のことだから、この歌は、彼がみようみまねで詠んだ歌であり、初めて京都に上って感激した彼の偽らない心情が吐露されているものと思われる。
 そして宣長が伊勢山田の今井田家に養子に行った後の歌にもまた、素朴な皇室尊崇・神国崇拝を詠ったものがある。
 1749(寛延2)年の夏頃、「葵」の題を受けて詠んだ、20歳の折の歌は、
 「神山のあふいのかつら千世かけて 治る御代を猶祈也」
 そして翌年1750(寛延3)年の夏頃、「神祇」の題を受けて詠んだ、21歳の折の歌は、
 「神路山さかゆく御代も明けらけく 天照神のあらん限は」 
であった。
 これらもまた、伊勢神宮の鎮座の地である伊勢山田で詠まれたに相応しい、素朴な皇室崇拝・神国崇拝の心を素直に詠ったものと言えよう。
 そしてこの傾向は、翌々年1752(宝暦2)年春に京に遊学してからも続く。
 内裏を参拝して感激した年である宝暦6年にはなぜかこの類の歌が詠まれていないので、その前年の1755(宝暦5)年の、26歳の折の歌を二首あげておこう。
 「神祇」の題を受けて詠んだ歌は、
 「萬世にたえすそあふく岩戸出し むかしも遠き天津日つきを」
 そして「祝」の題を受けて詠んだ歌は、
 「にきわしきかまとの数も君か世も かきりしられぬ秋津国民」
である。
 これら宣長の若き日の歌は、彼がその後契沖の歌学の方法を古事記・日本書紀などの古典の解読に応用して取り出した古代日本の神ながらの道の姿に彼自身が確信を深め、 ひとかどの国学者として世に出で、多くの人士に彼の神国論・日本至上主義を授けて受け入れられた時期に詠った歌と比べれば、きわめておとなしい素朴な心情を詠ったものであることがわかる。
 1793(寛政5)年。すでに紀州藩奥医師として藩主に国学を講義する身分となり、さらに京の公家や宮家にも講義した、65歳の宣長が詠んだ歌は、
 「よもやまに国は多けと敷しまの 倭しま根そ八十のおや国」 
 「国ごとに君はあれとも高ひかる 吾日の御子そやもの大きみ」
 「国々に道はしあれと天照す 神の授けし道そまさ道」
であった。
 まさに、宣長の神国思想・日本至上主義を素直に表現した歌といえよう。
 こうしてこれらの歌を根拠とすれば、宣長はすでに19歳の折には、皇室を尊崇し日本を神国と崇める思想を持っていた 。そして京都での儒学学習と契沖・賀茂真淵との出会いを経て国学者となり、古典に基づいて古代の神ながらの道を彼なりに明らかにしていく過程で、その素朴な心情が、より確固とした思想へと進化していったことが、彼の歌にも反映しているといえよう。
 そして宣長が生涯の最後に詠んだ皇室を尊崇し日本を神国として崇める歌は、先に見た
 
「神にます君が御はかを来て見れば 今はほとけにますぞかなしき」 
であった。

  では何故彼は、このような思想を若き日に選択したのであろうか?
 この背景には、一つは彼の幼少期の環境が極めて神仏に対する尊崇の念に満ちた環境であったことと、二つ目には、彼自身が神の申し子であると自認していたと言う彼自身の「出生の秘密」、そして三つ目に、商家の跡取りに生まれた彼が商人には向かず彼自身の存在の意味をもとめて、「皇室の守り」としての歴史を持つ本居家の跡取りを選択したこと、この三点の、彼の個人史にまつわる特色に、宣長神国思想の基盤はあったように思う。
 以下この三点について、少し詳しく述べておこう。

(b)神や仏、そして天皇の功徳の世界に耽溺した幼少期−神国思想を育む文化環境の中で育った宣長
  まず最初に、彼の生家である伊勢松阪の木綿商人・小津家が、とても神仏に対する尊崇の篤い家であったということがある。この点については、宗教学者で自身も熱心な宗教者である松本滋が詳しく論じているので、彼の著書によって見ておこう。
 彼の家は代々熱心な浄土宗の信者で、父定利も誠実な浄土宗信者であり、母のお勝も、同じく熱心な浄土宗の信者である村田家から嫁いだ人で、母の長兄は幼時に出家し浄土宗の僧侶となっていたし、彼女の妹たちもまたそれぞれ晩年には剃髪している。そしてお勝自身も、1763(宝暦)12年に息子宣長が結婚した年 に信州の善光寺に詣でて剃髪している。
 このため宣長も幼少の頃より仏に帰依し、熱心に信仰していた。
 そして1739(元文4)年10歳のときに浄土宗の血脈を受けて「英笑」の法名を受け、さらに1743(寛保3)年14歳の秋には法然の伝記を筆写し、翌1744(寛保4・延享元)年には、「融通念仏百反之日課」および「十万人講ノ日課百反」を修し、念仏を熱心に行っている。そして1748(寛延元)年19歳のときには、浄土宗の重要な伝法の儀式である五重相伝に同行衆16・7人と共に列し、「伝誉英笑居士」の法名を定められているのだ。
 このように宣長自身が、熱心な浄土宗の信者であった。
 そしてこの浄土宗は多くの民間宗教を取り入れる傾向が顕著であり、行においては様々な神仏を礼拝の対象としている。
 宣長が伊勢山田の今井田家に養子に入っていた時代(1748〜1750年)に記した「日々作勒記」によると、毎朝天照皇太神宮・豊由気皇太神宮を始めとして八幡大菩薩などの諸々の日本国中の八百万の神の報恩を感謝して礼拝し、そのあと、阿弥陀仏・釈迦仏を礼拝し、南無阿弥陀仏を10回唱えたり、命日の仏菩薩や当家代々の先祖などに対して10度念仏を唱え、父母兄弟ならびに故郷の母や兄弟親類などの安楽と往生極楽を祈念するとされている。
 このように、宣長の幼少期からの家の環境は、極めて神仏に対する尊崇の念に満ちた宗教的環境だったのだ。
 これに加えて宣長は8歳のとき、1738(元文3)年から手習いを始め、12歳の時、1741(寛保元)年からは本格的に、様々な手習いの教科書だけではなく、「小学」「大学」「中庸」「論語」「孟子」などの漢籍も習い始めているが、注目すべきは、この12歳の時から謡曲を習っていることだ。
 従来はこのことは、宣長のような上層町人の家ではごく普通のことであり、上層町人の商家の主として世間を渡っていく時に必要な教養を身につける過程として理解されたり、せいぜい、これが後年の「王朝文化」への憧憬の基盤になったのではないかと注目された程度ある。
 しかし謡曲の多くが伊勢物語や源氏その他の古物語に依拠して作られていることを、とりわけ平家物語に多く依拠して作られていること 、さらには神仏の霊験の深さを称えるものであることを、宣長の神国思想形成との関連で、もっと重視すべきであると思う。
 なぜなら平家物語は、通常の軍記物という文学の範疇から連想される、武家の文化を描いたものという観念で捉えられるものではなく、中世編の【11】で見たように、この物語自身がその標題に反して王家の物語であり、日本は神国であり、古来神の子孫である皇室が治めて来た国であり、日本には皇室は不可欠の存在であり、武家はその皇室の権威や権力を犯そうとするものの武力からそれを守るためのもの、すなわち皇室の守りとして生まれたものであるという考え方を、平家の興亡の物語を通じて、物語を読み・聞きする人々の脳裏に焼き付けようとして作られたものであった。
 平家物語そのものが、神国思想で成り立っているのである。
 まして後に詳述するように、自身の存在価値をもとめて、平家末流である本居の姓を名乗った宣長である。平家由来の謡曲に浸った幼時は、彼の思想形成に大きな影響を与えたに違いない。
 では実際に宣長が幼少期に習った謡曲が、どのような内容のものであるか確認してみよう。
 1741(寛保元)年、宣長が12歳の年の7月から11月まで習った曲は、「猩猩」「三輪」「楊貴妃」「東北」の四曲。そして翌年1742(寛保2)年、宣長が13歳の年の1月から8月の間に習った曲は、「江口」「采女」「弓八幡」「竹生島」「羽衣」「竜田」の6曲、後半の9月から12月までに習った曲は、「源氏供養」「野宮」「井筒」「蟻通」「国栖」「田村」の6曲であった。さらに、1743(寛保3)年、宣長が14歳の年の春から12月までに習った曲は、「兼平」「頼政」「高砂」「養老」「柏崎」「桜川」「三井寺」「百万」「班女」「東北」(再習)「八島」「小塩」「海士」「「忠度」「白楽天」「松風」「千手」の17曲。最後に宣長が謡曲を習ったのは、1744(延享元)年、彼が15歳の年の1月から12月まで。この年に習った曲は、「杜若」「誓願寺」「葛城」「西行桜」「羽衣」(再習)「朝長」「二人静」「「白鬚」「老松」「「賀茂」「呉服」「小鍛冶」「通盛」「清経」「敦盛」「実盛」「融」の17曲であった。
 全部で習った曲は51曲。実数は49曲である。
 内容を見てみると、平家物語に題材をとったものは、主君義仲の霊を祭ろうと現れた家臣今井四郎兼平の亡霊を描いた「兼平」、平等院の源頼政が自害した場所に現れて自分の霊を祭って欲しいと頼んだ源頼政の亡霊を描いた「頼政」、八島の浦に現れた源平の合戦の様を語った義経の亡霊を描いた「八島」、須磨の浦にて藤原俊成の家人であった僧の前に現れた平忠度の亡霊を描いた「忠度」、囚われて鎌倉に護送された平重衡を慰めた千手の前の心を描いた「千手」、吉野の明神の前に霊となって現れた静御前の亡霊を描いた「二人静」、鳴門の 浦に現れた平通盛と小宰相の亡霊を描いた「通盛」、都に残った妻の前に現れ、自分の無念の最期を語った平清経の霊を描いた「清経」、一の谷に現れて自分が討った敦盛の霊を慰めようとした熊谷直実の前に現れた平敦盛の亡霊を描いた「敦盛」、加賀の国の篠原で説法していた僧の前に現れた自分の回向を頼んだ齋藤実盛の霊を描いた「実盛」 の10曲。
 以上の10曲が、宣長が習った謡曲の中で平家物語に直接取材した謡曲である。
 この10曲の謡曲は数としては宣長が習った曲の5分の1に過ぎないが、その内容の多くが、二つに分かれて覇を競った王家のために戦って死んだ源平の兵とその妻たちの、満たされぬ悔しい思いを詠った内容であることに注目すべきであろう。即ち彼らは、王家の守りとして命を懸けて戦ったにも関らず、その死後は懇ろに供養されることもなく放置されていること の悔しさを、亡霊となって後の世の人に訴えたというものだ。
 これこそまさに日本は神国で、神の子孫が治める国であり、武家とは王家の守りであるという、神国思想を物語ったものなのだ。
 そして平家物語ではないが、平治物語に題材をとり、平治の合戦の後に討ち死にした源朝長の亡霊を描いた「朝長」も、先の10曲と同様の内容である。
  またこの11曲の平治物語・平家物語に取材した謡曲を習ったのが、宣長が彼の存在の価値について深く悩んでいたと思われる14歳から15歳の時であったことは重要である。
 さらに残りの38曲の多くも、神の恵みや、王朝人の亡霊を慰める曲であることも、これを学んだ宣長の心に深く刻まれたものであろう。
 すなわち、神の恵みを描いたものは13曲あり、三輪明神の霊験を詠った「三輪」、八幡神すなわち高良の神の霊験を詠った「弓八幡」、竹生島明神の霊験を詠った「竹生島」、竜田明神の霊験を詠った「竜田」、蟻通明神の霊験を詠った「蟻通」、天皇を守護する蔵王権現の霊験を詠った「国栖」、住吉明神の霊験を詠った「高砂」、養老の山神の霊験を詠った「養老」、 下賀茂社の霊験を詠った「班女」、住吉神の霊験を詠った「白楽天」、近江の白鬚明神の由来・霊験を詠った「白鬚」、室明神と加茂明神の由来を詠った「加茂」、稲荷明神の神通力を詠った「小鍛冶」である。
 そして残り25曲のうちの13曲は仏の功徳を詠ったものである。
 それはすなわち、江口の遊女を成仏させた普賢菩薩の功徳を詠った「江口」、芭蕉の精の成仏を詠った「芭蕉」、采女の亡霊を成仏させた「采女」、紫式部は石山観音の化身であったと観音の功徳を詠った「源氏供養」、清水観音の霊験の由来を詠った「田村」、離れ離れとなった母と子を会わせた阿弥陀如来の功徳を詠った「柏崎」、同じく離れ離れの母娘を会わせた仏の功徳を詠った「桜川」と離れ離れの母と息子を会わせた清水観音の功徳を詠った「三井寺」、清涼寺釈迦堂の釈迦の功徳を詠った「百万」、法華経の功徳を詠った「海士」、在原業平が愛した杜若(かきつばた)の精の成仏を詠った「杜若」、和泉式部の霊を成仏させた仏の功徳を詠った「誓願寺」、葛城の神を不動明王の呪縛から解いた呪法の法力を詠った「葛城」である。
 さらに残り12曲の中では、和泉式部の霊が登場する「東北」、源氏物語の六条御息所の霊が登場する「野宮」、在原業平の「妻」の紀有常の娘の霊が登場する「井筒」、在原業平の霊が登場する「小塩」、さらに業平が愛した松風の霊が登場する「松風」、源融の霊が登場する「融」など6曲は、歌物語の主人公などの霊が多く登場し、「西行桜」では西行の愛した桜の精が登場したり、「老松」では、菅原道真の愛した老松の精が登場するなど、残り12曲の大半も不思議な話で成り立っている。
 最後の4曲は、中国や日本の古伝説を詠った「猩猩」「楊貴妃」「羽衣」「呉服」であり、このうちの「楊貴妃」は殺された楊貴妃の霊魂のありかを玄宗皇帝が探すものがたりであり、これも霊魂を描いた作品である。
 このように宣長が幼少時に学んだ謡曲を詳しく検討してみると、多くは神や仏の霊験功徳を描いた作品であり、平家物語や平治物語、さらには源氏物語や伊勢物語などに取材した作品も、物語の登場人物の霊を登場させて、物語では充分に語られなかったこれらの人々の思いを、霊魂に語らせる形をとっており、これも先の神や仏の霊験功徳を描いた作品の変形と言えよう。
 能の謡曲はこういう性格を持ったものであるが、 これは中世編の【22】で見たように、新古今派に代表される摂関期・院政期の貴族の生活を理想として(=雅)、その風情を強調することなくそこはかとなくかもし出す(=幽玄・優艶)傾向を是とする時代の傾向が、南北朝期のバサラ、何物にも囚われず思いのままに行動することを是とする傾向が交じり合って出来た「風雅」の文化を背景として、世阿弥とその娘婿金春禅竹の時代に出来たものである。
 この謡曲の性格が、もともと神仏に対する尊崇の念の篤い家に育ち、しかも自身の存在価値について悩んでいた宣長の精神形成に大きな影響を与え、日本を神国であり万国に優れたものであるという後世の宣長の神国思想・日本至上主義思想形成の基盤をなしたものと言えよう。

(c)神の申し子を自認していた宣長
 だが従来は、宣長が愛した謡曲や平家物語が、彼の思想形成に与えた影響はほとんど無視されてきた。
 それは謡曲や平家物語を受容する現代人の心性をそのまま投影させたものであったと思う。なぜならば神や仏の功徳を真剣には信じない現代人にとっては、これらの作品が受容した人の思想形成に大きな力を発揮するとは思えないからである。そしてここから、商工業の発展により、神仏より貨幣の力が大きな影響を発揮している江戸時代においては、すでに神仏の力は低下している現実を見るとき、謡曲や平家物語を学んだ者がすなわちその影響を受けて、神や仏の功徳を信じ、日本を神国であると信じるとは思えなかったからである。
 これはおおむね江戸時代の人々には当てはまる傾向である。
 謡曲や平家物語、そしてそれを琵琶を詠った平曲は、上層町人や武家の教養に過ぎず、彼らの遊芸であったからである。
 しかし本居宣長は、次に述べる二つの意味で、通常の近世人ではなかった。従来はこのことが看過されていたと思われる。
 では宣長が普通の近世人とは異なっていた面とはいかなることなのか。
 一つは彼自身が、彼を「神の申し子」として深く信じていたという事実である。
 この点は、岩田隆が的確にまとめているので、これによって記述しよう。
 宣長の父の小津三四右衛門定利と母お勝との間には長く子ができなかった。夫婦の間には養嗣子として、定利の先妻が先夫との間になした一人息子・宗五郎定治がいたが、やはり実子が欲しかった。そこで当時子宝に恵まれるといって評判の高かった、吉野の水分(みくまり)神社に願を祈願し、その結果生まれたのが、富之助(幼名、後に弥四郎・栄貞と改める・後の宣長)であった。このとき父は36歳、母は26歳であった。
 つまり宣長は、子宝を恵む水分明神に祈願して授かった「神の申し子」であったのだ。
 このことを後に知った宣長はこれを深く心に刻んだのであろう。19歳になって、13歳以来の事を書き記した日記の見返しに、この祈願と誕生の由来を書き付けている。
 これによれば、父定利は「子無きことを嘆きて、嗣を和州吉野山の子守明神に祈り、『若し男子を生みて、その子13歳に至らば、即ち自ら供ないて、其の子をして参詣せしめん』と、願望虚しからず、室家妊めることありて男児を産む、然れども誓う所を遂げずして、父早く逝きぬ、児13歳に至りて、亡父の宿誓に随いて、彼の神祠に参詣し賽謝しぬ」という。
 おそらく母お勝は息子に父のこの誓願のことを繰りかえし話し、そして息子が13歳になったとき、神の恵みへお礼をするために、息子をはるばる吉野水分明神(子守明神)に旅立たせたのであろう。宣長は1742(寛保2)年7月に下僕二人を伴って吉野にまいり、水分神社に参詣して、その後大峰山・高野山・長谷寺に参詣して松阪に戻った。
 この旅は宣長にとって始めての遠出であり、初めての霊山・霊寺への参詣の旅であり、己の「誕生の秘密」を確認する旅であった。
 そして宣長は、吉野水分神社にはこの後二度参っている。
 二度目は1772(明和9)年43歳の時の3月。
 この時の旅を記した「菅笠日記」には、宣長が、自分の誕生についての昔の物語を聞いて、神の恵みのありがたさを思い、毎朝水分神社に向かって遥拝を繰り返していたさまが記述されている。
 そして三度目は、最晩年の1799(寛政11)年70歳の時。和歌山藩まで講義に行った帰り、2月のことである。
 またこの時の感激を彼は和歌にして残している。その幾つかを挙げれば、
 「みくまりのかみのちはひのなかりせば これのあが身はうまれこめやも」
 「ちちははのむかし思えば袖ぬれぬ みくまり山に雨はふらねど」
 「命ありて三たびまゐきておろがむも 此水分の神のみたまぞ」
 宣長は、自身が神への誓願によって生まれた「神の申し子」であることを深く自覚し、そのことに感謝していたのである。
 また国学者である宣長は、水分明神と言われるように、「神名帳」にも見える古い水の分配に関る神を祭るこの神社が、なぜ子宝を授ける神社となったかを古文献を渉猟して探求している。そしてその結論は、古来の「みくまり」の呼称が「みこまり」「みこもり」と訛って、「御子守」すなわち「子守大明神」となって諸人の崇敬を集めるに至ったというものであった。
 宣長は自分が「神の申し子」であることを自認し、それに深く感謝し神の恩寵に日々感謝していたのである。

(d)自分は何をなすべき人間として生まれたのか?−葛藤の中で選択された皇室の守りとしての神国思想
 しかし神への誓願で生まれたと信じる人物は、現代ならいざしらず、江戸時代ならかなりの数いたことであろう。まだまだ神仏への信仰の篤い時代であったのだから。
 だがそうした神への誓願で生まれたと信じた人物がみな、日本は神国であり万国に優れた国で、外国はみな我が国を尊崇し従うべきだという過激な神国論を抱き、それを鼓舞したわけではない。
 宣長がこの過激な神国論者となった背景には、もう一つ決定的な深刻な問題があったのであり、この点で宣長は他の近世人とは異なっていた。
 この点を初めて明らかにし、詳しく論じたのが先にも見た松本滋であったので、彼の論に従って以下に論じておこう。
 本居宣長は、1752(宝暦2)年3月23歳の時に、医学を学ぶために京都に上るや、その姓を小津から本居に変え、さらに在京中の1755(宝暦5)年に、名を栄貞から宣長と改めている。これが「本居宣長」の誕生である。
 実はこの本居という姓は、彼の家の先祖の姓であって、彼自身は本居の血筋は引いていない。
 彼の家は、伊勢国司北畠家の家臣であった桓武平氏の流を汲む本居武秀が主家滅亡のあと浪人し、新しい国主の蒲生氏郷に仕えて新任地の会津に赴き、その地での奥州九戸の乱鎮圧の戦で戦死したあと、後家となった身ごもれる妻が元の伊勢に戻ったものの、本居本家には戻れず、松阪の近くの小津村に住む商人・小津源右衛門の家に厄介になり、そこで男児を産んだ。その後松阪に出て木綿業を営んだ源右衛門とともに母子は松阪に移り、その一子が長じた後、源右衛門の長女と夫婦となって分家し、商売を継いで出来た家である。
 その先祖の名は、小津七右衛門。
 しかし彼は自分が武士の子であり、主家蒲生家はお腹の子が男子であれば、家臣として召抱え家が成り立つようにしようと約束したにも関らず、腹に胎児を宿した若い後家が動揺して故郷に戻ってしまい、商人の妻となって息子を商家の跡取りとしたことを知らずに育ち、長生して ひとかどの木綿商人となった。だが晩年母の死後、久しく胸に抱えていた自身の出生についての疑問を、年来の下僕であり本居武秀の家臣であった老僕を問いただして、自身の「出生の秘密」を知ってしまった。
 しかもそこで知ったこととして、彼の父・本居武秀は戦いに出陣するおりに、お腹の大きい妻のことを家に残した二人の従者に「もし我等が討死したら、おまえたちは奥を介抱し、安産の上、もし男子出生のときは、我等が家名を相続せしめよ」と遺言して行ったということであった。
 なんと父の遺言は実行されなかった。
 だが小津七右衛門はすでに50歳にもなっており、父の遺言を実行することはできず、この知りえた家の由来を文書にして子孫に残したのである。
 この本居武秀の息子小津七右衛門に始まる小津家は、三代後になって跡とりを失い、本家小津に嫁に行っていて一子をなしたが後家となっていた娘を呼び戻し、そこに小津本家の次男を娶わせて家を継がせた。これが宣長の父の三四右衛門定利である。しかし定利の妻・きよは早世し、定利は親族村田家から嫁をもらい、先妻の子宗五郎定治を跡継ぎと定めた。
 つまり宣長の義兄にあたる定治こそが本居の血筋を引いた最後の人物であり、1751(宝暦元)年に彼が40歳で死んだことで、本来の本居武秀の血筋は絶えたのである。
 このように本来は血がつながっていない本居の名を宣長が継いだことに隠された意味があったと、松本滋は論じている。
 それはこうだ。
 宣長は本来、木綿商人小津家を継ぐことを期待されて生まれた人物であった。しかも彼の父定利は、1740(元文5)年7月に江戸店で死去する前の5月に、松阪の妻勝に宛てた手紙の中で「私が死去した後には、健康に気をつけて子どもを育て、御先祖跡相続できるようくれぐれも致されたい」との遺言を残していた。
 小津家の跡取りとされていた宗五郎定治は義理の弟富之助(後の宣長)が生まれた後家を出て小津家の相続人を辞退する意思を示し、すでに江戸で自分の店も構えており、定利はこのことを承認していた。したがって小津定利は、富之助改め弥四郎(後の宣長)が成人した後に、彼の店を弥四郎が継ぐことを期待してこのような遺言を残したのである。
 小津家の跡取りと期待されて神への誓願によって生を受けた宣長は、いまだ11歳の時に父が病死し、その父が将来宣長に店を継がせよとの遺言を残したことで、亡き父と先祖からの期待、そして養育してくれている母からの期待と、何重もの重い期待を背負わされたのであった。
 しかしどうやら宣長は、商人になるよりは、学問をしたいという欲求が幼少時より強かったようだ。
 というのは、宣長は、1744(延享元)年12月に15歳で元服した後、翌年1745(延享2)年の4月からその翌年の1746(延享3)年の4月まで、江戸にある叔父の源四郎の店で商人修行をしているのだが、この一年間のことについては、後年 の1798(寛政10)年彼が69歳のとき、主著「古事記伝}を完成した1ヵ月ほどあとに書いた、自分および小津家・本居家の来歴を述べた「家のむかし物語」の中では一言も触れていない。さらに彼は1748(寛延元)年11月19歳のときには、伊勢山田の紙商人今井田家に養子に入り、独立して紙商売を営んだのだが、その2年後の1750(寛延3)年の12月には、自ら今井田家と離縁して、故郷松阪に戻ってしまっている。そしてこのことについては、「家のむかし物語」の中では、「寛延元年には、ある人の子になりて、山田にゆきて、二年あまり有りしが、ねがう心にかなわぬ事有りしによりて、同三年、離縁してかえりぬ」と、その離縁の理由を彼自身の心に「ねがう心にかなわぬ事」が有った故に、彼自ら離縁を申し出たと説明している。
 これ以上詳しい説明は宣長はしていないのだが、松本滋は、宣長はすでに15歳の頃より学問の道に入りたいと願っていたのだが、母の願いに押されて江戸に商人修行に行ったものの一年で戻り、さらに伊勢山田の今井田家に養子に入って紙商売を始めたものの、やはり学問の道に入りたいとの強い願いがあって、商人に徹しきれずに家に戻ったものだと推測した。
 この推測には傍証がある。
 というのは宣長は、江戸に修行に行く1745(延享2)年の少し前、1743(寛保3)年14歳の時から様々な書物を書写しはじめ、翌年1744(延享元)年には、様々な系図を書写したり、「神器伝授図」「中華歴代帝王国統相承図」という、中国歴代帝王の継承図などを書き著し、次の年の1745(延享2)年、すなわち江戸店に商人修行に行く直前の2・3月から、「経籍」という「神道書」「儒書」「仏典」など様々な書物の名前を書き上げたものを作り、膨大な書物を書写して学問するという決意を示していた。そしてこの作業と平行して、天皇家や将軍家系図や「松阪勝覧」という松阪の地誌などを書写するなど、学問に余念が無かったのである。
 さらに江戸店での修行から戻った1746(延享3)年4月の翌月には、日本国六十余州の詳細な地図の作成に取り掛かり、この作業はおよそ4年かかった1751(宝暦元)年12月に、ようやく完成するに至っている。つまりこの詳細な日本全図は、江戸店から戻ってから、伊勢山田の今井田家に養子に行って紙商人となった時期もずっと続けられ、完成したのは、今井田家を離縁して家に戻った翌年、京都遊学に行く直前であったのだ。
 またこの一方で宣長は、江戸店から戻った年1746(延享3)年の7月には、「都考抜書」という、京都の詳しい地誌・歴史を記した書物を作り始めている。
 これは、「古今集」「伊勢物語」「宇治拾遺物語」「平家物語」「徒然草」などの古典から該当の個所を抜書きして成したものだが、引用された書物としては圧倒的に平家物語が多い。そしてこの書物は、翌年1747(延享4)年の11月に三冊目が出来上がって終っている。
 宣長は14歳の頃から、猛烈に独力で学問の道に自ら入り込んでいたのであり、このことから、宣長自身は、商人ではなく学問の道に入りたいと強く願っていたことがわかるのだ。
 しかしこうなると、宣長は、父の遺言にも母の願いにも背くことになる。
 しかも宣長自身は、父母が商家小津家を継ぐ跡取りとして神に願って生まれた子であるのだから、神が許した商家の跡取りという道にも背くことになるのだ。
 松本滋は、こうして宣長は14歳のころから、学問をしたいという自身の願いと、商家を継がせたいという亡父と母との願いの板ばさみになり、自分は何のためにこの世に生まれ、何を成すべき人間として生を受けたのかという、深い自問に囚われるようになったのではと推測している。
 そしてこの深い悩みに光明を照らし、自分の進むべき道を指し示してくれたのが、宣長が小津家のどこからか見つけ出した、家祖小津七右衛門が自分の「出生の秘密」と家の来歴を記した書類であり、そこには先に見たように、小津七右衛門自身が本居武秀という武士の子として生まれ、彼は本居家の家督を継ぐべきものとして父の遺言を受けて生まれてきたという事実が書き記されていた。
 さらにこの書の重要なところは、小津七右衛門自身がこの事実を知ったのが50歳にもなったときで、すでに木綿商人として世に出ており、家族や使用人を抱えた身であったため、父の遺言を実現できないという事実を記してあったことである。
 宣長はこの家祖の書類に出会い、本居の姓を継ぎ、家祖が果たせなかった武士としての本居家を再興することに自分が邁進することで、商人となって亡父や母の願いを実現することに代わる、新たな自分自身の存在の意味を獲得したのではないか。
 これが松本滋の仮説である。
 では、宣長がこの家祖の書を見たのは何時であったか。
 残念ながら宣長自身はその時期について何も語っていない。しかし傍証はある。
 それは、先に見た「都考抜書」の中の2巻に「洛外」の項目に対応した地図があるのだが、この地図には、「延享3年丙寅十月廿七日 本居真良栄貞」との署名が付されていることである。
 これはすなわち、1746(延享3)年11月、宣長が17歳の時すでに、彼自身が「本居」姓を自称していたことを示し、これが本居姓を宣長が使用した初見であることから、おそくとも17歳の 秋には宣長は、家祖の書を読み、本居姓に復したいとの強い思いを抱いていたことを示している。
 そしてこれ以後も宣長はしばしば、彼の読んだ歌を記した「石上稿」などの書類に、「本居栄貞」の署名を自書している。
 こうして14歳の頃から自分が何を成すべきか悩んでいた宣長は、商人として修行を行う傍ら、家祖の書を見て、武士としての本居家再興を自分の生きる道として密かに願っていた。そしてこの願いは、1751(宝暦2)年に義兄定治が死去したために彼が小津家の家督を継ぎ、翌年1752(宝暦3)年に、息子が商人には向かず学問をすることを願っていることに気付いた母の後押しで京都に医者になるために遊学したとき、その第一歩を記したのである。
 だから彼は京都遊学にあたって小津から本居へと姓を変更し、さらに京都遊学の末年、契沖の学を知ってそれを古典を解読する方法に使用したとき、従来の神道家や儒学者が言っている古代の日本とは異なった姿が見えてきて、神国日本への確固たる信念が裏付けられ始めたとき、彼は名前を宣長という、王朝貴族風の名前に変更して、学者としての道に入って行ったのだ。
 さらにもう一つ、これは松本滋も指摘していないことなのだが、宣長が本居姓を選択するとき、この家が桓武平氏の流を汲んでいたということも重要である。
 本居家は桓武平氏の流を汲む本居県判官平建郷を祖とし、その四代目の左馬助直武から8代にわたって、伊勢国司北畠氏に仕えた武士であった。
 ということは、本居氏は桓武天皇の血をひく武家であるとともに、伊勢国司北畠氏という、南北朝の騒乱に当って、南朝天皇家を支えるために自ら伊勢に下ってその地の豪族を集め、北朝・室町幕府に対抗する勢力として長く伊勢に覇を張った尊王の家に仕えた武家であった。
 要するに本居家は、天皇家の御守りなのである。
 この事実は、幼少時から神仏に対する尊崇と皇室に対する尊崇の環境の中で育ってきた宣長には、神の啓示と思えたのではないだろうか。
 「神の申し子」として商家小津家を継ぐために生を受けた宣長。しかしこれを願っていた亡父と母の願いに背いて学問の道に入ろうと悩んでいた宣長にとって、この道を選択することは、父母の期待に背くだけではなく、自分をこの世に送り出してくれた神の恩にも背くものと意識されていたであろう。この宣長の前に、天皇家の血筋を受け、天皇家の御守りとして戦ってきた武士・本居家の当主となるべく生を受けながら、それを果たせずに商人となった家祖・小津七右衛門の遺言とも言える家の伝えを記した書が現れ、宣長に対して、「本居家を継げ」と呼びかけている。
 なんと彼は、幼少時から謡曲を通じて親しんできた平家の血筋を受けた家の跡取りとして生まれたのだ。
 宣長が、「延享3年丙寅十月廿七日 本居真良栄貞」と、主として平家物語に拠って作った京都の地歴書である「都考抜書」の中の地図に署名したとき、彼の脳裏には、天皇家と天皇家を中心として栄えた古の日本、とりわけ王朝時代への強い憧れとともに、彼自身がその天皇家の御守りである平家の血筋を受け継ぐものとして世に出られる可能性に、胸打ち震えていたのではなかろうか。
 ただし武家としてではなく、古典から抜書きしたことで明らかになってきたように、近年衰微している天皇家を中心とした世の中のあり方を、学問を通じて明らかにすることによって、天皇家を守り、神国日本を守る可能性に。
 そして後年功なり遂げて宣長が、紀州藩奥医師と成り武家身分となって、藩主に治世論を講義することになったとき、宣長のこの青年の日の夢である皇室の御守りである本居家の再興は、まさに実現したのであった。

:宣長は、1792(寛政4)年に紀州藩奥医師格となったときは5人扶持、1794(寛政6)年の初めての御前講義を終えた後に加増され、10人扶持となった。微禄とはいえ、武士身分になったわけである。

 この事実もまた宣長にとっては、神徳の成せる技と思われたことであろう。
 このように見てくるとき、宣長にとって、日本は神の子孫である天皇家が今も統治する神国であり、それゆえ日本は万国に優越するという神国思想・日本至上主義思想の選択は、彼自身の存在の意味と不可分のものである信仰にも似たものであったと言えよう。
 この意味で彼が幼少時に平家物語に多く題材をとった謡曲を学び、さらに平家物語などの古典によって京都の地誌をまとめようと作業するかたわら、同じころから和歌を学び、その中で神の恩寵に感謝する歌を作ったり、さらにはよく知られているように、京都遊学中に宣長が、儒学の師である堀景山を通じて平家琵琶を習っていたということは、彼の神国思想の形成とその深化に関ることであったことがわかる。

D宣長以後の国学の展開

 では最後に、本居宣長の死後、彼が草創した皇朝の学としての国学はどうなったのか。このことについて簡単に見ておこう。
 本居宣長の日本神国論は、その治世論としての表面的な穏やかさの裏側に、徳川将軍体制を根源的に批判する思想的機軸が隠されていることを、同時代の人々も鋭く嗅ぎ取っていた。
 このことは、尾張徳川家の用人・人見弥右衛門が、同僚である宣長の門人(おそらく
横井千秋)が「古事記伝」を主君に献上しようと画策したときこの企てに反対し、結局はこれに賛成するにあたって、この書の冒頭に次のような一節を書き加えることを条件にしたことによく示されている。
 それは、「此書古訓の吟味は明細に御座候へ共、此主意を御厚信御座候而は、大に御政事の害になり申候間、其思召に而御覧可被遊」という、宣長国学の危険性を指摘する文章であった。
 そして宣長が死去したことを聞いた、時の幕府大学頭林齋も、「近頃、和学者の蕣庵(春庵・宣長の通称)…などもよき時分に死し申候。さもなければ大事に成可申候。」と述べたと、平戸藩主松浦静山の「甲子夜話」に記録されている。
 大政委任論に仮託されて世に流布された宣長国学が解く神国論の反近代の思想は、確実に徳川将軍家体制を根源的に批判する爆薬・毒薬ともなることが理解されていたのだ。またそうだからこそ、現実の体制に批判的な人士に、「もう一つの日本」として、宣長が描く神ながらの道に沿った神国日本のありかたが、多くの人に受け入れられたのであった。
 では宣長死後、国学はどのように展開したのであろうか?

(a)広く民衆にまで自身の生き方の問題として神国観を広めた平田国学
 本居宣長の国学は、直弟子で約500人。多くは伊勢周辺の有力町人と各地の武士・大名であった。
 しかし彼らの多くは、歌学派として古代風の歌を詠むために古典に依拠して古語を明らかにするという、宣長の古文辞学者としての側面を継承し、彼の思想家としての側面を受け継いだものはほとんどいなかった。
 この宣長の社会思想家・政治思想家としての側面を受け継ぎ、国学を広く普及させたのは、宣長死後の門人の一人である平田篤胤(1776‐1843)であった。
 秋田藩士の子に生まれたが幼少期以来貧しい苦しい生活をした篤胤は、20歳の時江戸に出奔し、様々な肉体労働に従事しながら、独学で国学や儒学や蘭学まで学び、独自の境地を開いた。そしてその熱心な学究的姿勢に感心した松山藩士で軍学者の平田藤兵衛篤穏の養子となり家を継いだ。
 そして彼の国学は宣長よりもっと多くの人に受け入れられ、広く日本社会に広がった。
 しかし篤胤自身は生涯不遇であり、尾張藩に一時三人扶持で迎え入れられたが、幕府に彼の学説が疑惑を持たれたことで、その扶持も剥奪され、さらに水戸藩にも仕官を求めたが断られ、生涯貧窮に喘いだ。そして晩年の1841(天保12)年。篤胤66歳のとき、幕府の命によって秋田藩から、以後の著述の禁止と江戸を退去して秋田に戻ることを命令され、そのまま1843(天保14)年秋田で68歳で病に倒れ死去した。
 だがその門人は、篤胤の生前にもすでに553名を数え、死後の門人は、1876(明治9)年までに3700人を越す大勢に上っていった。
 この彼の多数の門人の多くが、名主や村役人として村政を握っていた村に住む豪農・在村商人であり、彼らをして政治的主体として幕末に行動せしめたところに、平田篤胤の国学の特徴はある。
 この点で「つくる会」教科書が、篤胤の門人が「
町人や農民の有力者の間に広められ、尊王思想(皇室を尊ぶ思想)をつちかった」と記述したのは正しい。
 この在村の村役人であり、手作り地主かつ手工業者・商人として村の指導者であった豪農は、村一番の知識人でもあり、彼ら自身の手で村に郷塾を構えて村人達を平田国学によって教育するだけではなく、中には幕末期において、尊皇攘夷をかかげて行動する草莽の志士となり、倒幕運動に寄与したものもいたのだ。
 この先駆けとして、本巻の【32】で見た、大塩平八郎の乱に呼応して、1838(天保9)年5月に、越後柏崎(新潟県柏崎市)の桑名藩陣屋を襲った、生田万(1801‐37)がいる。彼は豪農ではなく武士ではあるが、国学に基づく藩政改革を志しそれが頓挫するや浪人し、私塾で町人や豪農に国学を教えていた人物であった。
 ではなぜ篤胤の国学は、宣長のそれと違って、豪農層に広がり、彼らをして、自ら世の中のあり方を変える行動へと誘ったのか。
 それは篤胤の国学は、宣長のそれとは異なって、一人一人の生き方の問題として、その行動の指針としてその教説を展開したからであった。
 これに反して師匠の宣長は、国学を学びそれを信奉する一人一人は、直接世の中を変える行動にでるのではなく、一人一人が古代の日本人の心に沿って静かに生きることを説き、多くの人が彼の教説に従えば、神の子孫である天皇が治める神国日本は、自ずから神が定めた方向に向くと説いていた。
 では篤胤は自身の教説を如何に説いたのか。
 彼の国学は、宣長の古事記に依拠した日本神国論・日本至上主義に立っており、この点では篤胤は、師の説を継承していた。
 しかし彼の教説は、師の説をさらに押し進め押し広げたものになっていた。以下、彼の著書「古学大意」などによってみることとしよう。
 篤胤は、日本人は皆、神の子であるとする。
 それは天地万物を作った産霊(むすび)の神の子はたくさんあって、すべての神はその子孫と言っても良く、天照大御神の孫をして地上の国を治めさせた時に添えて降ろした神もみな、この産霊の神の子なのだと。そしてこの多くの神の子孫が橘だとか藤原だとかその他諸々の姓を賜って土着し、さらに天皇の子孫も、源氏だとか平氏だとかの姓を賜って土着し、こうした神々の子孫がみな我々なのだからであると。我々の姓を見れば、その祖先の神が誰であるかはわかると。
 こうして篤胤は、神国においては、それを統治する天皇だけが神の子孫なのではなく、民もまたその天孫に仕える神の子孫なのであると、極めて注目すべき論を展開する。
 だから篤胤は、神国の民は、生まれながらにして産霊の神が定めた神ながらの道を体に備えており、神の意思に従って生きる道を知っているから、外国のように、なになにの学とか何々の教えとかいった形で、人の生き方を説く道が存在しないのだと言う。
 それゆえ神国の民はみな、その存在そのものとして、産霊の神の教えに従って、正しく生き、天孫の政を助けることができるのだと。
 つまりこれは、百姓なら農作物を作ることをもって、職人なら有用な物を工作することをもって、そして商人なら様々な有用な物資を流通させることをもって、その家業そのもので天皇を補佐することができると言ったに等しい。これは儒学において、君子を助けて国を治める道は武士だけではなく、百姓や町人もその家業をもって、君子を補佐する任務(=分)が天によって定められているという教説を、篤胤が取り入れたものである。
 そしてさらに篤胤は、神国の民は正しい神の教えに従った生き方をしているから、死後霊魂となっても黄泉の国に行くことはなく神となり、眼に見えないが現世の側に存在する幽冥界に行って、子孫の無事と繁栄を祈念し、子孫を見守っているのだと、篤胤は説いたのだ。
 この点については宣長は、人は神ながらの道にそって良い行いをしても、それが現世においてよい評価を受けるとは限らず悲惨な生涯を送ることもあり、また死後はみな、汚い汚濁に満ちた死後の世界である黄泉の国に行くしかないと説いており、これも皆神の計らいなのだから従うしかないと言って、人の心の救済には心を払わなかったことと、大きく異なる点である。
 しかし篤胤の先にみたような教説の展開は、これと全く異なり、民の心の救済に意を注いでいる。
 人は皆神の子孫であり、生まれながらにして神ながらの道に沿って正しく生きる術を心得ている。それは産霊の神がおつくりになり定めた、人々が生きるための様々な産業に熱心に従うことであり、それがそのまま天孫の政を補佐するものなのだ。そしてそうして正しい生き方をした民は、死後は神となって、子孫の傍らに居て、子孫の無事と繁栄を祈りそれを助けている。
 これが篤胤が提示した、神国の民の生き方であった。
 こう考えてくれば、この神国の民には、百姓も町人も武士も大名も区別はなく、みんな神の子として、天の神の子孫として政を行う天皇を補佐して、この世を動かしていくことができるのだ。
 篤胤の教説は、なんと西洋の天賦人権論と似ていることか。
 ここにおいては、天皇以外は全て平等となる。
 そして産霊の神のイメージは、民が日々祭って祈ってきた、村や町に鎮座する彼らの祖霊や地域に鎮座する産土(うぶすな)の神のイメージと重なり、古来民の間にある、祖先の霊はいつも自身の側にいて守ってくれるという信仰にも似ており、民の生活そのものが、神の意思にかなったものとして、彼らに生きる自信を与えたのだ。
 また篤胤は、大和心・大和魂とは、神国の民が生まれながらに持っている神ながらの道に沿って生きるこころと解釈した。そして、本来は「自分は山桜が好きだ。自分は山桜そのものだ」という意味にしか過ぎない宣長の有名な歌「しきしまの大和こころを人問わば、朝日に匂う山桜花」を、「大和心とはどんなものかと問われたならば、春の山桜がたんと美しく咲いているところに朝日がさしのぼり、きらきらと輝いているようなもので、私の心もそのとりですと答える」と解釈し、神ながらの道に生きることを、宣長の歌で美化し、皇室を尊崇して生きることを人々に鼓舞した。
 この篤胤の解釈は、桜のようにぱっと咲いて散るのが大和魂だとする、後年の大東亜戦争に突入する時期の大和魂解釈に道を開いた。
 これが篤胤の国学が、広く民衆の間に、とりわけその指導者の間に広まった理由であると考えられる。
 この点で篤胤の神国思想は、天賦人権論に基づいて国会を開設し、議会制民主主義を進める方向を内包していると同時に、天皇を民の親として、天皇親政国家日本に包摂する臣民の道に進める方向をも内包している。そしてこれは共に明治維新後において、神である天皇が臣民に与えた権利を元にした立憲君主制の日本国家のありかたと、他方で天皇を臣民の親としてあがめ臣民は親に奉仕することを説く教育勅語体制と憲法が定めた神聖な天皇がもつ国権としての天皇大権によって国民の参政権に依拠した立憲君主体制を制限解体する動きとして、相互に矛盾しあう二つの体制として結実することになる。
 さらに篤胤は、日本が神国である理由を、宣長のように日本の古伝説だけに止めない。外国の古伝説すら神国論を補完するものとして利用した。
 彼は外国の古伝説も、神国の古伝説が誤って形を変えて伝わったものだとし、中国では日本の天つ神は「天」と呼ぶし、インドでは「梵天」と呼ばれて、人々を長く治めてきた。従って儒教の説く教えの中にも、日本の神ながらの道が反映されているとして、先の分に基づいた儒教道徳を肯定する。しかし釈迦の教説は、この梵天を家来としてしまうほどの力のある仏という神がその上位を占めるように改編されたものであり、日本の神ながらの道にはあわないと否定する。
 また篤胤は、蘭学の知識も応用し、オランダ人の言説までも、日本が神国である証拠だとして援用する。
 たとえば、江戸時代初期の元禄の頃(1690・元禄3年来日。以後二年間滞在)にオランダ商館医師として長崎に居たケンペル(1651-1716)が著した「日本誌」の末尾の一節をオランダ通詞の志筑忠雄(1760‐1806)が、1801(享和元)年に翻訳して「鎖国論」と題して出版した書を援用し、日本が外国との交わりを絶って鎖国をできたのは、ちょうど地球の最も温暖な緯度のところに日本があり、外国に頼らなくても生活に必要なものは全て産出できることや、絶海の孤島であるが故に、大国の侵略に会わなかったからだなどという教説を引用して、これこそ神のはからいが働いた国であることをオランダ人すら認めていると説いて、日本は外国に優越した国であると説いたのだ。
 こうして平田篤胤の国学は、封建制度と発展した諸産業に依拠した百姓町人の力が衝突して社会が不安になっていた時代、それと同時に、西洋列強による開国要求に揺さぶられ、政治体制が極めて不安定となっていた時代に生きた人々に、一人一人がどう生きるべきか、そして日本国はどうあるべきかの道筋を、確固として示しえたのだ。
 だから、本居宣長が創始した神国としての日本の国の在り方を探求した国学は、平田篤胤によって、神国の民の生き方のありかたまで明らかにした、もう一つの日本を示す有力な教説となり、広く人々の間に受け入れられていった。
 この平田国学の門人たちが、幕末から明治維新期において草莽の志士として活動し、明治維新を下から支え明治国家を作っていった様は、島崎藤村の「夜明け前」などによく描かれている。

(b)国学による皇国思想が「天皇親政国家」を実現し、かつそれを崩壊に導いた
 本居国学と平田国学は以上のような違いはあったが、両者相まって、日本国中に尊王思想を広めることに寄与した。このため、宣長が使用した「皇国」という概念は多くの人に受け入れられ、本来は大政委任論に基づいて将軍家の統治を補佐する思想であった水戸学にも大きな影響を与え、幕末においてこれを、過激な尊皇攘夷思想へと転化させていった。
 そして国学によって培われた尊王思想がやがて、明治維新となって、それが吹聴した「天皇親政国家」を実現したことはよく知られた事実である。
 しかしこの尊王思想はやがて国粋主義思想となって、欧米国家に対抗する統一した国民国家日本を建設するためには、欧米に習った憲法に基づく立憲君主制の議会制民主主義の国家を作らねばならぬとする、欧米に学んだ政府や在野の明治指導者たちの構想とするどく対立することとなる。このため国粋主義思想と、在野の天賦人権論に基づく自由民権運動の挟撃を受けた明治政府は、双方の主張を取り入れてそれを包摂する体制として、神である天皇が国民に国のありかたや国民の権利を定めた憲法を授けるという形で立憲君主制を作らざるを得なくさせた。
 従って大日本帝国憲法においては、国民に参政権を認めて国会を開設し将来はその国会で多数を握った政党が内閣を組織する道を定めながらも、統治権は神聖な存在である天皇が保持するがゆえに、内閣を組織させるのは天皇であり、天皇は内閣や国会にその統治権を分有させそれを補佐させると定められたのだ。
 この憲法体制を作った人たちにとっては、神聖な天皇が持つ天皇大権は、それ自身が憲法によって制限され、彼の統治権は、国会や内閣や軍や裁判所の補佐によって遂行されることによって、自ずとそれらによって制限されると捉えられていたのだが、やがてその天皇大権に依拠して軍が内閣から半ば独立した地位を占め、内閣の動きを統制したりそれを飛び越えて突出したりする道をつけてしまい、統治機構の統治意思の混乱を招く原因を作ってしまった。これが後に日本が英米などと対立して大陸侵略を進め、大東亜戦争に突入して敗北し、明治国家体制を崩壊に導いてしまったことは、周知の事実である。
 言い換えれば、先に平田国学の項で見たような、国学による神国思想が内包する異なる傾向の相互衝突が、国学の神国思想に基づいて作られた明治国家体制を崩壊に導いたともいえるだろう。
 このあたりは、近代編・現代編において詳しく見ることとしたい。

:05年8月刊の新版の国学についての記述は、おおむね旧版と同じである。ただし国学が「町人や農民の有力者」に広がったのが平田篤胤によるものである事実は削除され、「やがて・・・広がった」という形の記述になってしまった。これによって、本居宣長の国学と平田篤胤の国学との違いを契機として、国学運動とその思想に、様々な方向につながる異なった傾向が孕まれていたことを掴み取る契機は失われた。これは国学とは単なる国粋主義だとする、従来の狭い捉え方に戻ったものと言えよう。

(3)蘭学の発展と社会的に有用な新たな自然科学としての認知

 次に教科書は蘭学の発展について以下のように記述している(p164・165)。

 また、吉宗がキリスト教と関係のない西洋の書物の輸入を認めてから、ヨーロッパの学問を学ぶ蘭学が発展していった。杉田玄白と前野良沢は、オランダ語の解剖書を苦労の末、翻訳して「解体新書」をあらわした。平賀源内のように蘭学を学び、みずから工夫して発電機をつくるような人物も出た。そのほか、民間の人々の間で、様々な活動がみられた。下総の佐原(千葉県)の伊能忠敬は、全国を測量して初めて正確な日本地図(「大日本沿海輿地全図」)をつくった。

 これも概ね正しい記述だが、多面的に発展した蘭学のさまとその社会への影響があまりに個別的羅列的であるなど、いくつもの問題点が存在する。以下に詳しく論じておこう。

@蘭学の発展の背景や社会的影響が無視された羅列的な記述

 「つくる会」教科書の蘭学についての記述は、先の国学でみたのと同質の、いくつもの欠陥が存在する。
 その一つは先に見たように、蘭学が発展した背景をきちんと記述しておらず、単に8代将軍吉宗の時代に幕府が洋書輸入を解禁したことだけに理由を求めていることだ。たしかにこのことは蘭学が発展する切っ掛けではあるが、なぜ18世紀初頭の幕府がこれを許可したのかという、時代背景がまったく視野の外にあることは問題である。
 これは先に近世編2の【28】で見たように、一つの背景は、商工業の発展によって幕府財政が逼迫し、それとともにあまりに外国からの輸入が拡大したために基本通貨である金銀が大量に海外に流れ出し、産業の発展の阻害物になりつつあったことである。
 さらに二つ目には、行過ぎた国土開発が各地で自然の逆襲である自然災害を招いており、これに幕府や諸藩の年貢の重税化政策が相まって、各地で百姓一揆が頻発し始めたのもこの時代であった。このため農業生産を拡大して国富を増やすことで、こうした問題の解決を図る ためにも、中国や西洋の科学を導入して輸入品の国産化を進める政策が行われたのであった。
 また次の点は近世編2の【28】では指摘しなかったが、この1720(享保5)年の漢訳洋書輸入の解禁以後に、18世紀の初期にすでに、ロシア船の来航が見られた。すなわち、1739(元文4)年にはロシアの探検船が陸奥・安房沖に現れたので幕府は海防を厳しくしており、吉宗政権における洋書輸入の解禁は、結果として本編の【30】で詳しく見たような、これ以後のロシア船の来航やイギリス船の来航による、これらの国々 の通商要求に対応する知識を日本が備える準備をしたことになるのであった。
 こうした背景で8代将軍の時代に蘭学発展の基礎が据えられたのだが、その成果が花開いたのが、18世紀末の田沼時代であったことは、近世編2の【29】で見たとおりである。教科書が書いている平賀源内の活動はまさにこの時代であり、杉田玄白(1733‐1817)や前野良沢(1723‐1803)らがオランダ解剖書の翻訳を志してそれを成し遂げたのもこの時代である。
 こうして蘭学が解禁され発展した時代は、まさに近世江戸時代の危機の始まりの時代であり、蘭学の普及そのものがこれへの対応であったことはきちんと記述されるべきである。
 さらに二つ目の欠陥は、この時代の蘭学の発展に、阿蘭陀通詞だけではなく、長崎オランダ商館に在住したオランダ人などの西欧知識人が蘭学発展に果たした役割が完全に忘れ去られてることである。良く知られたシーボルトだけではなく、彼の前に商館に医師として赴任した人たちは、日本の蘭学者や蘭学に関心を持つ人々に大きな影響を与えている。
 また三つ目の欠陥は 、18世紀初頭に事実上の解禁となった蘭書の講読を契機にして、特に江戸においては、蘭学に携わるものや蘭学に関心のある者達によって「蘭学サロン」とでも呼ぶべき緩やかな団体(当時の文芸の世界では「連」とよぶ)が出来、彼らが情報交換を行って集まる場所としては、オランダ商館長の年一回の江戸参府の際の定宿である長崎屋や個々の蘭学者の家が、その役割を果たしていた。この蘭学者などの緩やかなネットワークの存在が、18世紀後期の田沼時代における蘭方医学や博物学などの発展をもたらし、その一つとして平賀源内(1728‐79)の活動や解体新書の訳出があったのだ。
 さらに四つ目として、蘭学の発展を更に確固とした活動が、「解体新書」訳出事業であったことがまったく描かれず、様々な分野での蘭学の発展の羅列的な一側面となっていることである。
 実は彼らの翻訳活動が始まるまでの蘭学は、長崎の幕府阿蘭陀通詞がその職業上で見聞きして得た知識を本にして著した書物や、彼らの語学知識を生かして蘭書を部分翻訳した書物を見た人々が、それを受容するという段階に過ぎなかった。 阿蘭陀通詞の語学力は、オランダ商館を通じた世界情勢情報である阿蘭陀風説書の翻訳に、公的には限られており、彼らは西洋の科学に通じてはいなかったからだ。
 しかし「解体新書」を訳出した人々は通詞ではなく、通詞から学びつつも独力で翻訳したのであり、 しかも彼らはそれぞれ、江戸初期以来伝わった紅毛医学の知識や漢方医学の知識を深く体得した専門の医師であり、語学的にはまだ初歩の段階にあったとはいえ、医学知識においては当時の日本の最高峰のそれを持っており、オランダの医学を十分理解しえる専門家であった。だから 「解体新書」の訳出そのものが、日本の科学者自身による西洋の科学の直接の受容過程の始まりであったのだ。そして「解体新書」出版によって西洋医学が優れていることが誰の目にも明らかになることで蘭方医学が急発展するとともに、オランダとその背景にある西洋の科学・学問の優秀さが世に知 られ、医学以外の西洋の学そのものへの関心を、広く社会一般に促す契機となったのだ。
 さらにもう一つ忘れてはならないことは、「解体新書」訳出の過程で初歩的な蘭日辞書が作られたことだ。そして「解体新書」訳出の中心人物であった前野良沢は阿蘭陀書物翻訳の専門家と目されることになり、彼の もとへ蘭書翻訳依頼が殺到するとともに、オランダ語そのものを学ぶことを目的として彼の下に入門するものまで現れ、これらの門人の中から後に、本格的な蘭日辞書が編纂され、広く日本人がオランダ語の書物を通じて西洋の科学やその背景にある西洋の社会・政治制度・思想を学ぶことを可能にしたのだ。
 この活動によって、オランダ語を学び、オランダの書物を読み翻訳することで西洋の学を学ぶ作業は、阿蘭陀通詞の独占から、広く蘭学に関心のある人々の手へと広げられた。以後蘭学は飛躍的に発展し、それは医学だけではなく、天文学や化学や地理学も発展する。伊能忠敬(1745‐1818)の測量はこの延長線にある。
 だから「解体新書」訳出・刊行は、蘭学発展の第二の契機と言って過言ではない。
 最後に五つ目の欠陥は、このような蘭学の発展が、この教科書の記述ではまるで諸個人の力だけで成し遂げられたように捉えられかねず、その背後には、陰に陽にそれを支援した諸大名や幕府の活動があったことが完全に視野の外に置かれていることである。
 すでに近世編2の【29】で見たように、平賀源内の活動の背景には商人とも密接に結びついた伝統的な本草学者と蘭学者のネット・ワークが存在しただけではなく、それを支え援助した「蘭学好き」の諸大名や、幕府老中田沼意次の存在があった。そして伊能忠敬の全国測量はまさに、ロシアの開国要求とロシアとの武力衝突、そしてイギリス船の長崎武装侵入など直接的な対外危機が勃発したなかで幕府の事業として行われたのだが、この教科書の記述では、これもまったく度外視されている。
 こうして社会を挙げて積極的に蘭学の吸収を図った結果として、身分を越えて蘭学を学ぶものも輩出し、さらには次の【37】項で見るように、日本の政治や対外政策のありかたにまで蘭学に基づく知識は拡大し、やがてそれが鋭い社会・政治批判となっていったのだ。
 そしてさらにいえば、こうした動きを背景として、幕府によって長崎にオランダ語だけではなく、英語やフランス語やロシア語を学ぶ機関が設けられたことは、後の幕末の時代における蛮書調所における翻訳事業や辞書の編纂、さらには諸科学の研究に道を開き、これが明治時代の開成学校・東大の設立につながる動きであることも忘れてはいけない。

A吉宗時代の蘭書輸入解禁がもたらした影響

 では1720(享保5)年の漢訳洋書輸入解禁は、日本人が西洋の学を学ぶ上で、どのような影響を与えたのであろうか。
 一つはこのことによって、 中国で漢訳された西洋の天文学・暦学の書など、すなわち「暦算全書」や「西洋暦経」などが輸入され、この吉宗の時代に始まる暦改定事業に、西洋の天文学の知識が大いに利用されたことである。
 二つ目には、広く分野を問わず蘭書を購入してこれを翻訳し、もって西洋の学を学ぶことが事実上公認されたことである。
 これまでは蘭書の輸入は分野を厳しく限られ、長崎出島に来航するオランダ商館員にたいしても、持参する書物の内容に制限が加えられていた。それは、「医薬・外科・航海に関する書籍以外は持ってきてはならない」というものであった。従ってオランダ商館の側でも、来航した船員の持ち物検査をして全部船長に引渡して古壷に密閉して船中に隠し、次の出港時まで開けないという厳重な自己規制を行うほどのものであった。
 したがって一般の日本人が蘭書を手に入れるのは至難の業であった。
 しかし幕府要路のものは、かなり自由に蘭書を手に入れていたことが知られている。
 それは、直接軍事に関る戦争や武器に関する書物だけではなく、医学の解剖書や動物書や本草書などの学術的なものまで含まれていた。しかしこれらが輸入されても、オランダ語を解するのは阿蘭陀通詞だけであり、しかも彼らは科学の専門家ではないので、せいぜい訳せても部分に留まっていたのである。
 従って出島のオランダ人から見よう見まねでオランダ医学、とくに外科を学んで紅毛流医学を唱えて幕府医官や諸大名の奥医師となっていた諸家も、その実態は、西洋の医学書を系統的に学んだのではなく、見よう見まねでの実技を多少知っている程度であって、これを漢方の流儀に加えた程度のものであった。
 だが将軍直々のお声掛かりにより、殖産興業のためとはいえ、オランダの科学を積極的に学ぶことが公認された影響は大きかった。
 吉宗自身が、すでに江戸城の書庫に所蔵されていた蘭書・ヤンヨンストンの動物書を持ち出して、江戸を訪れたオランダ商館長やその随員にその内容を照会するように命じたり、様々な器物や書物、それは天文・地理・医学・武器・船舶・時計など多種多様なものの輸入を命じていたことは、将軍家の周辺に居るものも同様なことを積極的に行う風潮を生み出すきっかけとなった。 その結果、蘭学に興味を抱いた大名などが蘭書の輸入をオランダ商館に依頼したりしてそれを阿蘭陀通詞に翻訳依頼したりするようになり、こうした日本人の間での蘭書重視の傾向を見てオランダ側も、積極的にこれらの人々に接触して、彼らが望むであろう蘭書を日本に持ち込んで販売したのである。かの「解体新書」の元になった「ターヘル・アナトミア」と通称された解剖書も、こうしてもたらされた書物の一つであった。
 そして吉宗がオランダ語の学習を青木昆陽(1698-1769)と野呂元丈(1693-1761)の二人の学者に命じたことも、オランダ語学習熱を生み出すもととなった。
 すなわち、青木・野呂の二人は、1740(元文5)年以来1764(明和元)年までなんと20年以上もの年月をかけて、毎年のように江戸を訪れるオランダ商館長とその随員および阿蘭陀通詞についてオランダ語を学んだ。そしてその結果青木昆陽は、「和蘭文訳」という全10巻にもおよぶオランダ語文法書を元にして翻訳した、全部で1206語に及ぶ蘭日単語集を作り上げたのだ。
 これは系統的に選び抜かれた単語ではなく、文法書の例文に掲載されていた単語を羅列したに過ぎず、これをもって一書を翻訳するにはあまりに不充分なものではあるが、阿蘭陀通詞以外の日本人の学者が、オランダ語そのものを学ぶ目的で作り上げた最初の単語集であり、これを門人となって学んだ前野良沢が、この知識をもとにさらに長崎に留学して直接阿蘭陀通詞からオランダ語を習い、こうして得た知識をもとに「解体新書」を 訳出する元になったものとして注目される。
 一方元丈はオランダ語を学んだのちに、ヨンストンの動物書やドドネウスの本草書を研究して阿蘭陀通詞に翻訳を依頼し、その一部を「阿蘭陀禽獣虫魚図和解」「阿蘭陀本草和解」としてまとめ あげている。西洋の本草書の初めての日本語訳である。
 また二人がこれらの成果を挙げるには、毎年のようにオランダ商館長一行が宿泊する長崎屋を訪問する必要があった 。
 これはすでに将軍の許可により、幕府の医官で紅毛流外科である桂川家が毎年江戸城でのオランダ商館長の将軍拝賀に陪席して様々な医学上の問題を質問した後に、この席では十分ではないので、長崎屋を訪ねてさらに質問を行っていたことを拡大したものであった。この結果、彼らが商館長らを来訪するに際しては、幕府の医官で紅毛医学を修したものや 、さらには大名家の医官なども陪席して問答が行われたので、以後商館長らが江戸参府の折には、長崎屋が蘭学サロンとしての役割を果たし、オランダ語やオランダの科学を学ぼうとする人々が、つてをもとめて参席する場となるきっかけを作ったのだ。
 そして二人はオランダ語を学ぶ過程で、何度も長崎の阿蘭陀通詞にわからないことを手紙で照会し、確認と教示を求めた。
 このことも、これまでは長崎でのオランダとの貿易事務を執り行い、さらにオランダのバタビア商館からの外国情報を受け取って阿蘭陀風説書を作成する係りに過ぎなかった阿蘭陀通詞が、オランダ語やオランダの学問を学ぶための教師の役を、公的にも認められる契機となったのである。このため彼らの元には様々な蘭書の翻訳依頼が殺到するともに、オランダ語を学ぶために長崎までわざわざ彼らを来訪するものまで現れることとなり、阿蘭陀通詞が蘭学を学ぶための重要な役割を果たす背景ともなったのだ。
 なお、吉宗の命令でオランダ語を学んだ二人は、これ以前にオランダの学は学んだことはない漢学者であったが、彼らもまたその専門の学においては、日本や中国の学に通じた高名な学者であり、オランダの学の優秀なことを実感できる立場の人であった。。
 青木昆陽(1698-1769)は、江戸の魚問屋の息子に生まれ、学問好きが高じて22歳のときに伊藤東涯(1670‐1736)門下となった漢学者で、師の東涯の学風を受け継いで、儒学の教義よりも実学に長じた学者である。彼が幕府に登用されるきっかけになったのは、1725(享保10)年28歳のときに開塾したのが江戸町奉行所の与力加藤枝直 (1692‐1785)の地所であり、加藤も歌人であるとともに賀茂真淵門下の国学者であったことである。加藤は昆陽の学問に対する真摯な態度に打たれて上司の町奉行大岡忠相に推挙した。その推挙に当って昆陽が提出した論文が、飢饉にそなえてサツマイモを栽培することを中国の書籍に基づいて説いた「蕃藷考」であった。1735(享保20)年のことである。そしてこれを読んだ忠相が、飢饉対策に頭を痛めていた将軍吉宗に昆陽を推挙したのである。こうして昆陽は幕府の下で、諸国の文書調査など に従事していたのだが、この過程でオランダの書物にも強い関心を示し、これが認められてオランダ語学習を命じられたのだ。
 また野呂元丈(1693-1761)は医師・本草学者で、伊勢の国の医者の息子に生まれ、京都で医学を山脇玄修(1854・宝暦4年に最初の科学的な人体解剖を実施した山脇東洋1705‐62の養父)・本草学を稲生若水 (1655‐1715)に学んだ。彼が幕府に出仕するきっかけは、師の若水が編纂した本草学の未完の大著「庶物類纂」を完成させるために、将軍吉宗が薬草園をつくったり、諸国を調査して薬草を中心とした物産調査をしたことであった。吉宗は若水の門人であった丹羽正伯 (1700‐53)らとともに元丈を江戸に呼び寄せて諸国物産調査をさせ、丹羽らは、1738(元文3)年に、師の若水が編纂した362巻の後編として638巻を編纂し、さらに増補54巻を作って、諸国の物産全3590種の詳細な記録を完成させた。この翌年、1739(元文4)年に元丈は幕府御目見得医師となり、その翌年、青木昆陽とともに オランダ語学習の命を受けたのである。

Bオランダ商館員・阿蘭陀通詞が与えた影響

  長崎出島とそこに置かれたオランダ商館に勤務する商館長以下のオランダ人は、江戸時代において唯一直接に日本人に、西洋文化を伝えられる立場におり、幕府も彼らの知識や技術に大いに頼っていた。 また彼らと日常的に接触し外国貿易事務を執り行ってしだいにオランダ語に熟達した阿蘭陀通詞たちも、オランダ人の持つ知識を日本人に伝える役割を果たして行った。
 このことは、8代将軍吉宗が積極的に西洋の学を学ぶことを進めた以前から、すでに行われていたことである。

(a)吉宗以前の商館長以下のオランダ人が与えた影響
 特に江戸時代初期から、幕府はオランダ人から砲術と医学については、その知識をおおいに活用していた。
 オランダ人の持つ大砲の威力の大きさは、島原の乱の鎮圧に悩んだ幕府がオランダ商館に依頼して、1637(寛永14)年、その船を島原に回航させて反乱軍の立て籠もる原城を砲撃させたことでよく知られている。そして乱平定後の1638(寛永15)年にオランダから送られた臼砲が優れていたのでこれの鋳造を平戸藩主に許可し、平戸藩によって鋳造された臼砲を持って、翌1639(寛永16)年に商館長カロンが江戸参府を果たして江戸郊外で試射を行い、その威力を確認した幕府は、臼砲献上を謝するとともに、平戸藩にさらなる臼砲の鋳造を命じた。さらに翌1640(寛永17)年にカロンが再び参府した際には、彼に随行した火薬係が、牧野信成の家臣に臼砲の弾丸の製造法を伝授した。
 そして1643(寛永20)年にオランダ船が奥州南部に漂着して救助されるという事件がおき、その謝恩のための特使が1649(慶安2)年に江戸に商館長と共に参府したが、その随員の中に臼砲の砲手が居たので、彼ら一行が1650(慶安3)年3月に長崎に戻るに際して、砲手ユリアン・スヘーデルと医師カスパル・スハンブルヘル、さらに商務員ウィレム・バイレフェルト、伍長ヤン・スミットの 5名を10ヶ月間江戸に残留させ、砲術測量術などを幕府の専門家に伝授させた。
 なお一行の中の医師スハンブルヘルはすでに長崎において4人の日本人に医学を教えており、江戸に10ヶ月滞在している間にも、多くの日本人に医学を教授したり幕府大官の診療にもあたっていた。
 オランダ商館に勤務する医師が、日本人の求めに応じて医学を伝授することは、これ以後も恒常的に行われており、彼らから医学を手ほどきされた日本人医師は、多くは外科であるが、紅毛流を名乗って幕府や諸大名に仕官して治療に当っていた。
 このように幕府は貿易を制限しはしたが、オランダを通じて西洋の優れた科学を取り入れようとする姿勢は持っていたのである。
 だがこの時代が吉宗以後の時代との大きな違いは、オランダ商館員と医学や砲術を学ぶ日本人の間にたってそれを通訳したのは、商館に勤務してその事務に世襲的に従事する阿蘭陀通詞だけであり、その彼らも系統的にオランダ語を学びその学術を理解する程度のオランダ語を駆使していたわけではなかったので、オランダ人から伝授された砲術や医学と言っても、それは見よう見まねで伝授できる範囲に限られていたのだ。
 1663(寛文3)年に参府した商館長ヘンドリック・インダイクは、将軍家綱にヨンストンスの動物書を献上した。この書は、後にこれを見た8代将軍吉宗が興味を持ち、オランダ商館長や通詞に内容を照会したり、さらにこれが契機となって青木昆陽と野呂元丈にオランダ語の学習を命じたことで、後世に大きな影響を与えることとなった。
 しかし、オランダ人を世界の情報や西洋の科学をを知るための重要な手づるとして積極的に利用しようという動きは、5代将軍綱吉や次の6代将軍家宣の時代に始まり、それを殖産興業政策のためにさらに拡大したのが8代吉宗の時代であった。
 1691(元禄4)年、5代将軍綱吉は、参府したオランダ商館長に随行して謁見の間に伺候したオランダ商館医師でドイツ人のエンゲルベルト・ケンペル (1651‐1716)に対して医学のことを質問し、シナの医師が数百年行ってきたようにそなたらも長寿の薬を探しているのではないかと尋ねた。これにたいしてケンペルは、高齢になっても健康を保つことの出来る秘術を研究していると答えたが、綱吉はさらに、長寿薬の有無や入手法を質し、次の船で持ってくるようにと指示したという。この事実は、将軍個人の話ではあるが、日本人、それも将軍自身が積極的に西洋の医学を利用しようと動いたことを示す興味深いエピソードである。
 さらに積極的に彼らを世界情報を知る手づるとして利用したのが、6代・7代の二代の将軍に侍講として仕えた学者新井白石(1657‐1725)であった。
 白石は、1708(宝永5)年に薩摩の屋久島に潜入して捕らえられて江戸に送られたイタリア人宣教師シドッチ(1668‐1714)を翌年12月親しく尋問して、シドッチの口から、多くの西洋情報を得て「西洋紀聞」「采覧異言」の二著をあらわしたことはよく知られた事実である。しかしその際に彼は、シドッチの語ったことの裏を取るために、前後4回にわたって参府したオランダ商館長に一つ一つ問いただしたことはあまり知られていない。しかもその際に彼は、オランダ語学習の意欲を抱き、シドッチの尋問に立ち会った通詞今村英生からオランダ語の単語を約340語習得していることは注目に値する。
 なおこの通詞今村英生は、2度にわたって江戸参府を行い、帰国した後に日本の地理や歴史や現状を詳しく記した「日本誌」を著した前期のケンペルの仕事に積極的に協力し、資料収集やその翻訳に従事した陰の人物として知られている。
 こうして18世紀初頭には、オランダ人を通じて、世界のそして西洋の学問・科学を積極的に取り入れようとする機運が生まれていたのだ。

(b)吉宗以後、日本人に大きな影響を与えたオランダ商館長以下のオランダ人
 吉宗の時代に西洋の学を積極的に学ぼうとする機運が生まれて以後、毎年のように江戸参府を行うオランダ商館長と商館員は、西洋の学を学ぼうとする人々にとって、格好の教師となった。そのため歴代の商館長や商館員(書記や医師たち)は、日本人の質問に積極的に答え、さらに彼らの持てる知識を開陳して、日本人に西洋の学を教えた。そして一部のものは日本人とも深い親交をむすび、帰国後も彼らと手紙をやりとりして、さらなる学的 交流を行ったのだ。
 このようなオランダ商館長・商館員の中から、特に日本人に大きな影響を与えた人々を以下に抜き出しておこう。
 商館長を5回勤め江戸参府も4回行った(1772・74・76・78)アレント・ウィルレム・フェイトは、杉田玄白・中川淳庵(1739‐86)・桂川甫周 (1754‐1809)らと接触した。つまり彼は「解体新書」を訳出中の彼ら3人から翻訳にあたっての疑問点を質問された人物の一人である。また彼は、本巻の【30】で見たように、1778(安永7)年に長崎遊学中の林子平 (1738‐93)に世界地理やロシア事情などの知識を与え、のちに「海国兵談」を著して日本の国防上の危機を説いた彼に大きな影響を与えた人物であった。
 このフェイトが1776(安永5)年に江戸参府したおりに医師の資格で随行したものとして、スウェーデン人のC・P・ツュンベリー(1743‐1822)がいた。彼は世界の植物を新たな方法で分類して近代植物学の基礎を築いたC・フォン・リンネ(1707‐78)の高弟で、彼の後継者であった。
 ツュンベリーはオランダ東インド会社の医師の資格で動植物を探検調査・採集しながら、アフリカの喜望峰をまわってバタビアを経て、前年に長崎に到着していた。彼は長崎周辺の植物を出来る限り採集するとともに、江戸参府旅行の行き帰りにも自身の手で、あるいは日本人の協力者によって多くの植物を採集し、800種を超える標本を持ち帰っている。そして帰国後には、「日本植物誌」「日本植物図譜」をまとめ、さらにヨーロッパ・アフリカアジア探検旅行記をまとめ、その中には「日本紀行」も含まれ、これらの書物は先にみたケンペルの「日本誌」とともに、ヨーロッパ人の日本認識に大きな影響を与えたことで知られる。
 この彼の江戸滞在中に、中川淳庵と桂川甫周は毎日のように長崎屋の彼を訪ね、ツュンベリーとの間で互いの植物学や鉱物学・動物学の知識を交換し合い、甫周は標本を持ち込んでこれの和名を示し、ツュンベリーはこれのラテン名やオランダ名を示したり、さらにはヨーロッパ人にとって未発見の日本の植物に名称をつけたりして、師リンネの分類法も甫周に伝授したという。このツュンベリーによって甫周らに伝えられたリンネの分類法は日本の本草学者に大きな影響を与え、後にリンネやツュンベリーの著書が翻訳出版されて、日本本草学が本格的な植物学や鉱物学動物学へと発展していくきっかけを作った。さらにツュンベリーは将軍家侍医である甫周らに、医師として高度な医学的知識も授けている。彼らの交流は、ツュンベリーが故国へ帰ってからも続き、互いに標本を交換しあうなど、学的交流は続いた。またツュンベリーは【30】で見たように、ロシアのペテルスブルグの王立科学院で教えており、ロシアの日本認識にも大きな影響を与えた人物であった。
 さらに、1780(安永9)年と1782(天明2)年に江戸に参府した商館長イサーク・ティティング(1744-1812)は、ロシアの南下政策の情報を伝えるとともに、蘭学者や蘭学に興味のある大名等と深い親交を結び、彼らに多くのことを伝えた。彼と親交のあったものは、蘭学者では前記の中川淳庵と桂川甫周らがいたが、蘭学に造詣の深い前薩摩藩主島津重豪 (1745‐1833)や蘭学者の前野良沢から蘭学を学んだ丹波福知山藩主の朽木昌綱(1750‐1802)らもおり、この人も彼らと帰国後も親しく手紙をかわしている。
 またオランダ本国がフランス占領下にあった間も長くオランダ商館長を勤めたヘンドリック・ヅーフ(1777‐1835)は、1812(文化9)年阿蘭陀通詞たちを指導して、ハルマの蘭仏辞書第 2版によってオランダ人のための日本語辞書作成に着手した。この辞書編纂は幕府の長崎奉行に認められて援助を受け、彼が1817(文化14)年に離日してからも通詞たちの手によって編集が続けられ、1833(天保4)年に完成し た。これが多くの蘭学者の手によって転写されて、幕末の蘭学隆盛の基礎を作ったことはよく知られていいる。彼が編集した蘭日辞書は、「長崎ハルマ」と呼ばれ、収録語数は約5万語にも上る本格的な辞書である。
 このヅーフの後任として商館長となったヤン・コック・ブロンホフは、1809(文化6)年7月30日に長崎に着任した。この年の2月25日に幕府によって阿蘭陀通詞に英語兼修の命令が出ていたためもあってか、彼は阿蘭陀通詞に系統的に英語を教えた最初の外国人となった。この英語教育は彼が長崎を離れて帰国した1813(文化10)年まで続けられたが、彼の下で英語を学んだ阿蘭陀通詞の手によって、本木庄左衛門の「諳厄利亜興学小筌」(1811・文化8年)、吉雄六次郎らによる「諳厄利亜言語和解」(1810‐11)、本木 庄左衛門らによる「諳厄利亜語林大成」(1814・文化11年)となって結実し、日本における英語学習の基礎となったことは良く知られている。また彼は多くの蘭学に関心をもつ学者や大名等と親密な付き合いを持つとともに、オランダ医学を学ぼうとする日本人が商館医師について医学を学ぶことを許可し、商館医師チューリンフによって日本人医師立会いのもとで 初めて種痘を実施するなど、日本へのオランダ医学普及にも貢献している。
 このヅーフ、ブロンホフの2代の商館長が築いた日本の蘭学者側・幕府側との交流・人脈を生かして、さらに大きな文化的交流をなしたのが、商館医師として着任したドイツ人医師・博物学者のシーボルト(1796‐1866)である。
 彼はオランダ政府から「日本の総合的科学的研究」の任務を託されて、1822(文政5)年に長崎に着任した。彼のこの任務については、オランダのバタビア東インド総督から幕府に対して知らされ、この任務遂行のための便宜を図るよう依頼されていた。このため幕府もこれに応じて、彼に植物採集のために自由に長崎郊外に出ることを許可したり 、病人を診察したり日本人医師に講義したりすることを許可したので、彼は来日の翌年、1823(文政6)年には長崎の郊外の鳴滝に塾を設け、ここで患者の診療を行うと共に、全国から集まった蘭学を志す若者達に対して医学・博物学教育を行った。
 そして彼は1826(文政9)年の江戸参府に際しては、長崎−江戸の旅程やその周辺の植物採集や情報収集のために、通常は59人という随員の規定を大幅に超過した107人の大人数で旅行し、道中の下関・大坂・京、そして江戸の滞在時における多くの日本人との交流と情報交換のため通常の滞在日を大幅に伸ばし、通常はオランダ商館長の江戸参府は90日程度で終るものを、なんと143日間の長期間に延長したのであった。この長崎・大坂・京・江戸での滞在の日々には、多くの蘭学者と面談・交流・講義を繰り返し、その期間は61日にも及んだ。このため彼の塾から育ったものや、江戸参府旅行などで教えを受けた著名な蘭学者は50名以上に及び、幕末期の日本における蘭学隆盛に大いに寄与したことはよく知られている。
 しかし1828(文政11)年の彼の帰国に際して、彼の持ち物の中から海外持ち出し禁止の伊能忠敬測量による日本全図などの禁制品が多数見つかったことから、彼の日本調査に協力したり教えを受けた多数の蘭学者が逮捕されて、蘭学隆盛に冷水を浴びせたことはよく知られている(シーボルト事件)。彼はこの事件によって、1829(文政12)年、国外追放となった。 だが、シーボルトが幕府の便宜をえて日本調査を実行したり日本人に医学や天文学や植物学など、多くの西洋科学を教授できたことは、この時代にはすでに蘭学を通じて西洋の学を学ぶことが、幕府 に許された公許のものとなり、これなくして日本や西洋の脅威に対抗しえないことが、多くの人に理解されていたことを示している。
 なおシーボルトは帰国後、「日本」「日本植物誌」「日本動物誌」などの著書を刊行したが、このなかの「日本」は、これまでの西洋人が記した日本についての著書の中で最も詳細で系統的に資料が集められて著述されたものであり、日本の動植物だけではなく、その気候や地理風土、そして人々の暮らしや社会・政治の仕組みなどその記述は多岐にわたっており、西洋人の日本認識を大きく前進させたことはよく知られている。
 こうして19世紀初頭においては、蘭学は日本にとっては無くてはならないものになり、これはアヘン戦争以後、とりわけ幕末期のアメリカ使節ペリー来航以後はますます重要性がまし、幕府がオランダの協力をえて海軍創設のために軍艦操練所を建設したり、系統的に西洋医学を学ぶ医学所を建設したりすることにつながっていく。
 このように蘭学の発展のために、長崎のオランダ人たちは大きな寄与をしたのであるが、この事実を完全に抹殺してしまった「つくる会」教科書の記述は、日本人が積極的に西洋の脅威に備えるために西洋の学を学んだ事実を消し去るとともに、その西洋の学の普及のために、多くの外国人の力が寄与していた事実をも消し去り、江戸期における西洋と日本との文化交流の事実を歴史から抹消するという、きわめて排外主義的な民族主義的しわざであり、改められるべきところである。

 :05年8月刊の新版では、シーボルトの事跡について、次のような記述が見られる。すなわち、「長崎で医学の塾を開いたドイツ人のシーボルトは、多くの医者や学者を育てた」と。しかしこの記述では日本人による蘭学の発展の陰に多くの外国人の協力があった事実が消し去られているので、シーボルトの事跡は、孤立したエピソード的なものとなってしまい、日本と西洋との文化交流の滔滔とした流れは無視されたままである。

(c)蘭学興隆に大きな役割を果たした阿蘭陀通詞
 以上に見た西洋人と日本人との学的交流は常に、彼らの間を通訳したり情報交換を媒介した、阿蘭陀通詞の存在なくしてはありえなかった。
 そして初期の阿蘭陀通詞は貿易実務をこなし、オランダバタビア商館を通じてもたらされる海外情報である「阿蘭陀風説書」の翻訳者に過ぎなかったが、次第に通詞の中には西洋の学やオランダ語そのものにに興味を抱いて専門的に勉強し、西洋の学術書を翻訳したり、オランダ語の文法書や辞書編纂に携わり、一般のものがオランダ語を通じて西洋の学やその社会・政治・思想に目覚めていく手助けをすることとなったことも、蘭学の隆盛過程を知る上で、欠かすことができない。
 阿蘭陀通詞は、総勢120〜140人程度であった。
 彼らの多くは通詞を家の職として伝承する者たちであり、幾つかの職階に別れてその任務を遂行していた。
 最も上位の通詞は、通詞全体を統括する通詞目付で、その下に、大通詞4人、小通詞4人、稽古通詞8人程度がおり、彼らは、20数家の世襲の通詞であり、時代が下って職務が増えるに従い、大通詞助役、小通詞並、小通詞末席、小通詞末席見習、稽古通詞見習などの職掌が置かれ、人数も増えていった。
 さらにこれ以外に、オランダ人に付き添って貿易業務などを補佐した内通詞と呼ばれる通詞が数十人おり、その代表が内通詞小頭12人であった。
 彼らのオランダ語学習方法は、通常以下のようであった。
 まず、「アベブック(AB Boek)」というABC25文字の読み方と書き方を示した入門書と「レッテルコンスト」という文字学習書を使って、オランダ文字の読み方・書き方・つづり方を学習する。その次に、「サーメンスプラーカ」という会話書で会話を学習し、最後に「ヲップステルレン」という作文練習を行い、通詞業務に従事するにいたるのだ。この時彼らは、オランダ語の発音をカタカナで表記したので、これが以後蘭学学習における通例となった。そのほかにも、日常用語や地理植物用語を暗記するための小冊子などもあり、これを暗記して業務に従事していたのだ。
 このオランダ語学習法を見ると、オランダ語と日本語の関係を説いた辞書が存在しないことと、オランダ語の文法書がないことが目に付く。
 つまり通詞の通常のオランダ語学習法は、貿易実務と阿蘭陀風説書解読作成業務に必要な範囲でのオランダ語学習であったのだ。従って少し専門的なことになると通詞では理解ができず、通訳が不能となることはしばしばであった。このためオランダ人の方が日本語を学ぶことを幕府に許可を求めることとなる。
 だが次第に、西洋の学の必要性に気がつくに従い、専門的に西洋の学を学んだりオランダ語研究を行う通詞が出てきた。
 その主な人物を、以下に挙げておこう。
 まず先にみたケンペルの日本調査に協力した今村英生(市兵衛)(1671‐?)がある。
 彼は新井白石によるシドッチ尋問に立会い、白石の記した西洋事情の書物などの成立に大いに貢献した。また彼は8代将軍吉宗による西洋馬導入にも関り、馬の医療法を記した「西説伯楽必携」などの訳書がある。
 さらに同じく吉宗の時代に活躍した通詞として、本木良意がいる。
 彼は医学に関心が深く、人体解剖模型図の説明文を訳し「阿蘭陀経絡筋脈臓腑図解」を出している。
 また同じく医学に関心の深かった通詞楢林鎮山は、オランダの外科書に彼が見聞きしたことや工夫したことを加えて、「紅夷外科宗伝」を1706(宝永3)年に出している。この書は広く読まれたようで、様々な紅毛流医学書はこれの記述を写したものだ。
 また同じ時代の通詞に吉雄幸左衛門(耕牛)(1724‐1800)がいる。
 彼は、青木昆陽や野呂元丈にオランダ語を教えた通詞として有名であるが、「解体新書」に序文を寄せていることから、前野良沢・杉田玄白・中川淳庵 (1739‐86)・桂川甫周(1754‐1809)らと交流して、「解体新書」訳出の過程で彼らの質問を受けたり、彼らの翻訳を校訂したりしたことが伺われる。さらに彼が交流した人物としては、平賀源内・司馬江漢 (1747‐1818)・林子平(1738‐93)らがおり、これらの著名人に多くの西洋情報を与えたことが知られる。 耕牛と平賀源内との関係でいうと、源内が1770(明和7)年に2度目の長崎留学を果たしたさいに、耕牛にドドネウスの本草書の翻訳を依頼し、その一部は完成したのではと言われている。
 さらに同じ時期の通詞に、本木栄之進(良永)(1735‐94)がいる。
 彼は天文学や地理・物産の学に通じており、「翻訳阿蘭陀本草」「和蘭地図略説」「阿蘭陀地球図説」「平天儀用法」「天地二球用法」「太陽距離暦解」「阿蘭陀永続暦和解」「阿蘭陀全世界地図書訳」など多くの翻訳書をなし、前野良沢・杉田玄白の弟子で蘭学を興隆に導いた蘭学者大槻玄沢 (1757‐1827)が彼の長崎の家に寄宿してオランダ語を学んだことでも知られる。また彼も多くの文人や蘭学に関心の深い大名等と交流し、彼らの依頼で蘭書を翻訳したり、西洋の情報を与えたりしていた。 彼は先に見た平賀源内の依頼にもとづき、源内が持参したスウェールツの花譜の一部を翻訳した成果が先にあげた「翻訳阿蘭陀本草」だと言われてる。
 また同じ時代の通詞に西善三郎がいる。
 彼も大きな役割を果たした人で、杉田玄白と前野良沢にオランダ語学習の困難さを説いたことで有名であるが、その晩年において、マーリンの蘭仏辞書によって蘭日辞書編纂を企て、これは完成を見ずに終ったのだが、後の大槻玄沢・稲村三伯 (1758‐1811)による蘭日辞書「江戸ハルマ」成立に大きな影響を与えている。
 さらにもう少し時代が下った19世紀前半になると、諸学に通じた阿蘭陀通詞が現れる。
 一人は、志筑忠雄(中野柳圃)(1760‐1806)である。
 彼は裕福な商家に生まれたが通詞の養子になり、1776(安永5)年に稽古通詞となった。しかし翌年通詞を辞めて旧姓の中野に戻り柳圃と号して、以後は蘭書の研究に集中した。彼は多くの分野を研究し、その一つの天文学の分野では、ニュートン学説の注釈書の蘭訳本の部分訳を行い、そこではケプラーやニュートンなどの地動説・万有引力・天体の楕円運動などの説を紹介するとともに 、彼自身の宇宙論を展開した「暦象新書」を著した。さらにオランダ語の研究にも取り組み、オランダ語の文法を研究して、「和蘭品詞考」などの著作を著し、それ以後の系統的なオランダ語学習の道を開いた。さらに彼が生きた時期はロシアが南下してきてカラフト・蝦夷地で日本と衝突を繰り返した時期であったので、世界地理方面の研究にもとりくみ、「魯西亜志付録」などを著した。またケンペルの「日本誌」の一部の幕府の貿易制限政策に同情的な見解を示した部分を翻訳した「鎖国論」は、西欧諸国の通商要求に揺れる幕政に大きな影響をあたえ、「鎖国は幕府の祖法である」との論や国粋主義的な神国論の普及に大きく寄与した。
 最後にこの志筑忠雄の弟子である阿蘭陀通詞・馬場佐十郎(1787‐1822)について触れておこう。
 優れた語学力を示した彼は、1808(文化5)年わずか22歳の稽古通詞の身分で幕府に召しだされ、幕府天文方に属して、様々な蘭書の翻訳に従事するとともに、阿オランダ語の研究においても、師の志筑忠雄が遣り残したことを完成させ、天文方としての勤務と平行して文法に基づいた新しい教授法でオランダ語を教えるとともに、地理・物理・化学・天文・医学などの多くの分野の蘭書を翻訳して時代の要請に答えた。その中には露西亜語の文法についての研究や英会話の研究、さらにはロシア語の「牛痘書」の翻訳も含まれており、窮迫する西欧列強による開国要求に揺れる幕政を語学と学問の双方から助ける役割を果たすとともに、日本医学の発展にも寄与した。 
 このように職掌としてオランダとの貿易や情報交換に従事していた阿蘭陀通詞であるが、彼ら以外に専門的にオランダ語を学んだものはいないことから、それ以外の人々がオランダ語や西洋の学を学ぼうとする際に、彼らはオランダ人以上に格好の教師の役割を果たすとともに、次第に彼ら自身もオランダ語の専門家を自認し、オランダ語の研究や西洋の学の研究者として、大いに社会に貢献して行ったのである。

C蘭学サロンの果たした役割

 以上のように日本の蘭学の発展には、長崎でのオランダとの貿易に従事したオランダ商館員とそれを補佐した阿蘭陀通詞らが大きな役割を果たしていた。
 この意味で日本の蘭学のメッカは長崎であったが、先に見たように、8代将軍吉宗の時代以後幕府が積極的にオランダを通じて西欧の学問の移入に努めた結果、年に一度のオランダ商館長の江戸参府の際の宿泊所・長崎屋において、幕府医官の中で紅毛流と称してオランダの医学を学んでいた医師たちによるオランダ人及び阿蘭陀通詞への聞き取り作業が活発となった。このため江戸の長崎屋がオランダの学を学ぶサロンのような役割を果たすようになり、幕府からここを定期的に訪れることを許可されていた幕府医官が、この蘭学サロンの中心をなすようになり、江戸にも次第に蘭学の活動の場が出来て行ったのだ。
 この江戸蘭学サロンの中心をなしたのが、幕府医官で紅毛流外科を称していた桂川家であった。
 桂川家の初代甫筑(1661-1747)は、長崎出島のオランダ医師に医学を学んだ平戸藩の侍医嵐山甫安(1633-93)に師事してオランダ流の外科を学んだ京の医師である。そして師の甫安と桂川甫筑は京において近衛家・一条家・八条宮家などを診療しており、近衛家の娘が後に将軍となった徳川綱豊(6代家宣)の妻になった縁で、甫筑は綱豊の侍医と なった。そして綱豊が将軍となって江戸城に入ったことにともない、彼も江戸城に入り、将軍家侍医として 初めての紅毛流医官となり、6代・7代・8代・9代の4代の将軍侍医として仕えた。そして彼が多少ともオランダ語とオランダ医学を解する将軍家侍医として将軍のオランダ商館長謁見に 陪席じ、さらに商館長の宿所長崎屋を訪問してオランダ医学やさまざまなことについての疑義を正すことを許可されて以後、桂川家にとって、毎年春のオランダ商館長一行を訪問することは年中行事となったのだ。
 この桂川家の2代甫筑・国華(1697-1781)と3代甫三・国訓(1730-1783)の時代、桂川家は江戸における蘭学の中心となり、この家には多くのオランダの学や文化に関心を寄せる学者や文人たちが集うこととなった。
 特に3代甫三・国訓は青木昆陽にオランダ語を習った人物であり、彼が将軍家侍医となった1760(宝暦10)年から、彼が亡くなった1783(天明3)年の時代は、商工業が発展し江戸を中心に文化が栄え、オランダの学問が中国のそれ以上に優れた面があることが認識された時代であり、後に田沼時代と称された江戸文化が最も栄えた時代であった。このため江戸における蘭学の中心となった桂川家には多くのオランダの学に関心のあるものが集い、桂川家の屋敷が江戸の蘭学サロンの中心となったのだ。
 この時期、この家に集った著名な人として本草学者平賀源内がいる。
 平賀源内は1756(宝暦6)年に江戸に来て本草学者田村藍水(1718-76に)入門し、同時に林大学頭にも入門して湯島聖堂に寄宿しながら、江戸で多くの本草学者や蘭学 者や文人らと交わっている。この田村藍水は幕府の命によって朝鮮人参の国産化を図った人物で、幕府医学館の教授も勤めていた。この田村が桂川家にしばしば出入りし、桂川の門人と称してオランダ商館長らとの会談の場に出入していた。この関係で源内も桂川家に出入し、1760(宝暦10)年には、オランダ商館長や医師との会談の場に参じ、ここで彼の博学な知識を披露することとなったのだ。この源内が後に秋田藩の鉱山調査に赴いて知り合い彼の西洋絵画の知識を伝授した人物・小野田直武(1749-80)が「解体新書」の解剖図を描いた画家である。
 さらに桂川家に集い、桂川とともにオランダ人を訪問した人物としては、小浜藩の医師の杉田玄白と中川淳庵がおり、さらには豊前中津藩医師の前野良沢がいた。
 つまり「解体新書」訳出チームの中心の3人は、桂川家の蘭学サロンに集う人達であり、このサロンに集う人脈を基礎として「解体新書」訳出はなったのだ。そしてこの作業には高齢となった桂川家 3代甫三に代わってその子息で桂川家4代となった甫周(1754‐1809)当時19歳が加わった。
 さらに桂川家に集う文人として著名な人物に、丹後宮津藩の儒者で理念的道徳的な儒学を批判して、実学としての儒学を開拓した海保青陵(1755-1871)と 次の【37】で見る経世家・和算家で、重商主義的な開国論を説くこととなった本多利明(1743‐1820)がいた。
 この2人の活動の背景にも、桂川家の蘭学サロンで得た西欧の知識が大きく寄与していたのである。
 このように長崎屋と桂川家につどう蘭学者と蘭学愛好家たちのグループは、蘭学の発展だけではなく、日本の産業の発展に大いに寄与した本草学の本格的な博物学への発展などに寄与したのである。

D「解体新書」訳出の歴史的意味

 こうした江戸時代中期のオランダの学を積極的に学ぼうという雰囲気とそれを担う人々の連携によって、「解体新書」訳出はなったのである。

(a)「解体新書」訳出・出版の経緯
 「解体新書」の元本は、「ターヘル・アナトミア」と呼ばれるオランダ語の人体解剖書である。
 しかしこれは元はドイツ語の本のオランダ語訳であり、「ターヘル・アナトミア」はその本の正式名称ではなく通称である。正式名称を和訳すると、「解剖学の表、図譜及び解説付、人体の構造とその各部の機能の図解と説明」となり、1732年にドイツのクルムスが著した解剖図譜をオランダ人のディクテンがオランダ語訳したもの。この本は解剖学の初歩的な知識を教科書風にまとめたもので、18世紀のヨーロッパでは広く利用された本で、オランダの外科医の間でも評判の本であったという。この本が「ターヘル・アナトミア」と呼ばれた理由は、本の扉にタブラエ・アナトミカエというラテン語が印刷されていたのを阿蘭陀通詞が訛って「ターヘル・アナトミア」と呼んでいたものがそのまま正式名のように理解されたものだそうな。
 この本は本文に豊富な脚注をつけ、さらに詳細な図譜でそれを説明したものであるが、その本文のみを訳出して漢文で書き出し、図版を写して添えたものが「解体新書」である。
 「解体新書」が訳出され出版された経緯は大体以下のようである。
 訳出グループのプロデューサー役を勤めた杉田玄白が「ターヘル・アナトミア」に出会ったのは、1771(明和8)年春のことであった。玄白と同じく小浜藩の医師である中川淳庵が長崎屋を訪れたところ、「ターヘル・アナトミア」「カスパリョス・アナトミア」の 2冊の「身体内景図」を示され「望む人あらば譲るべし」とのことで一旦持ち帰り、後日これを杉田玄白に見せた。玄白はオランダ語は出来なかったがその図の精妙さに引かれ、藩の家老に相談して「役に立つのなら」ということで藩費で 2冊とも購入することとなった。
 その後の3月4日に千住の骨ヶ原で罪人の解剖が行われるという情報が江戸町奉行所の役人からもたらされ、玄白は仲間にその旨を知らせて解剖に初めて立ち会うこととなった。玄白は以前、同僚の小杉玄適が京都の山脇東洋の門人となって人体解剖に立ち会ったときの経験を聞いており、東洋が著した「蔵志」も見ていたので、かねてから人体解剖に立ち会ってみたいという願望を持っていたし、ちょうどオランダの解剖図譜を持っていることから、これは格好の機会であった。
 当日仲間と落ち合って玄白は解剖に立ち会ったのだが、知らせを受けた仲間の一人の前野良沢は、玄白が持っているのと同じ解剖書を持参しており、二人してオランダ解剖書と解剖された人体を実際に確かめる機会を得たのだ。そしてオランダ解剖書が実際と寸分違わぬものであることを確認した玄白は、帰途仲間に、「医術の基本ともいうべき人体の真の形態も知らずに今まで医業を務めて来たのは、面目ない。なんとかしてこの本の一部なりとも翻訳すれば、治療に大いに役立つであろう。通詞の手を借りずになんとか翻訳できないか」と言った所、仲間もすぐに「ターヘル・アナトミア」の翻訳を行うことに同意し、翌日、中津藩邸内にある良沢の家に玄白と淳庵が集い、こうして「解体新書」訳出の作業は始まったわけだ。
 この日以後彼らは、月に6・7回の会合を持って翻訳作業を進めること3年半ほどかけ、この間江戸参府した阿蘭陀通詞にも疑問点をただし、訳稿を改めること11度に及び、1774(安永3)年8月に、「解体新書」4冊・付図1冊として刊行 した。この本はただしに、幕府奥医師桂川甫三・国訓の仲介で将軍家にも献上され、さらに玄白の従弟の吉村辰碩が京に住んでいたので、この人の推薦で関白九条家や近衛家さらに武家伝送の広橋家にも同様に献上され、幕府老中にもそれぞれ一部ずつ献上された。
 こうしてオランダ語の解剖図譜が翻訳され、人々の手に渡ったのだ。

(b)訳出に携わった人々
 「解体新書」訳出に関った人は、前記の3人が中心であるが、これ以外にも数人、桂川家に集う医師らが加わっているようである。杉田玄白の言によると、訳出は遅々として進まないので、途中で諦めて抜けたものもいるし、途中から訳出の業を聞きつけて新たに加わったものもいるという。
 しかし訳出グループの中で常にプロデューサー役を務め、日々の訳出作業の成果を書きとめて草稿をつくり、その草稿をいろいろな人に見せてさらに訂正して、出版に値するだけの内容に仕上げて行ったのは杉田玄白であった。
 杉田玄白(1733‐1817)は、若狭小浜藩の医師で、彼の父甫仙もまた同様であった。
 玄白は紅毛流外科を称していた幕府医師西玄哲にオランダ外科を学んで医師業を行っていたが、長崎に留学したこともなくオランダ語は解せず、彼が行う紅毛流外科というものは玄白の言によれば、漢方の医学に西洋流の膏薬を加えた程度のものであるといい、玄白自身若いときから、漢方外科の書物を学んで抄訳したり、すでに人体解剖を行っていた山脇東洋の著書を読むなどして、自身の医学をさらに向上させようとしていた 。このため玄白は、「解体新書」訳出後も、診療医師として人生を全うした。またその傍ら彼は私塾「天真楼」を開き多くの門人を育て、優れた蘭学者を世に出している。この塾の門人は全国にわたり104人とも言われ、この中から大槻玄沢・宇田川玄随など著名な蘭学者が輩出している。
 もう一人の小浜藩医で、前述のように杉田玄白と「ターヘル・アナトミア」を引き合わせた中川淳庵(1739‐86)も蘭方医で、同じ小浜藩医師の中川仙安の息子である。
 彼の医術がどの流派に属するのか不明だが、彼は若いときから本草学・博物学に詳しく、田村藍水や平賀源内と親しく交わっている。そして源内とともに火浣布(石綿製の不燃布)を作ったり、源内が1763(宝暦13)年に行った物産展の出品物・全360種の解説を行った著書「物類品隲」には校訂者として名を連ねている。このためオランダ語への関心は強く、「解体新書」訳出以前にすでにオランダ文字を習うなどをし、長崎屋でのオランダ人との会談の常連でもあった。彼は「解体新書」訳出の過程でオランダ語学力を急速に向上させ、先に見たように、オランダ商館長のティチングや医師・ツュンベリーなどと親しく交わり、オランダ語で書簡を交わしたりした。
 また前記の訳出グループ3人以外に、彼らを援助した幕府医師桂川甫三・国訓の長男で、当時19歳であった桂川甫周・国端(1754‐1809)も、訳出グループの重要な一員としてあげておく必要があるであろう。
 彼は、父甫三に蘭学を学び、1769(明和6)年に奥医師となった人物であるが、若くして「解体新書」訳出に加わったことで急速にオランダ語学力を向上させ、彼も中川淳庵とともに、オランダ商館長のティ ティングや医師・ツュンベリーなどと親しく交わり、ツュンベリーの著書によって西欧に「日本人でよくオランダ語を解する人物」として淳安とともに知られた人物である。彼は【30】で詳しく見たように、後にロシアに漂流して帰国した大黒屋光太夫の尋問に携わり、光太夫から聞き知った事実に自身が蘭書を翻訳して手に入れた知識を加えて、ロシア事情を詳しく記した「北槎聞略」を著した人物として知られることとなる。
 しかし訳出グループの中で最もオランダ語に優れ、「解体新書」訳出を事実上主導したのは、前野良沢(1723‐1803)であった。
 彼は豊前中津藩医師前野氏の養子となって藩医を継いだ人物であるが、医師としては主として漢方の系統の古医方を学んだものである。しかし好奇心に富み向上心に富んだ人であったので、同僚に蘭書 を見せられて「同じ人間が書いたものを読めないはずはない」として、40歳にもいたる頃に青木昆陽に入門してオランダ語を学んだ。そして1769(明和6)年には藩主に従って豊前中津に赴き、その翌年1770(明和7)年には長崎に遊学して100日ほど滞在し、阿蘭陀通詞の吉雄幸左衛門や楢林栄左衛門などに師事して昆陽に習ったオランダ語の知識を訂正し補ってかなりオランダ語を解するようになる。彼が解したオランダ語は、700余語とも1100語とも言われている。そしてこの長崎滞在の折に、彼もまた「ターヘル・アナトミア」を購入して持ち帰ったことが、同じ書物を持つ杉田玄白とともに「解体新書」訳出を始めるきっかけになったのだ。この前野良沢は「解体新書」訳出後は、医師業よりも蘭語学習と蘭書 翻訳に精を出し、多くの翻訳書を出した。その主なものとしては、「和蘭築城書」や、ロシア東部のカムチャッカについて記した「柬砂葛記」「柬砂加志」などがあり、緊迫するロシアとの状況に対応した。前野良沢が育てた数少ない門人としては、杉田玄白の門人でもある大槻玄沢がある。
 このように、「解体新書」訳出に携わった人々は前にも記したように、幕府奥医師桂川家に集う人々であり、桂川に随従して長崎屋にオランダ人を訪ねていた常連の医師たちであった。 

(c)「解体新書」訳出の歴史的意味
 では改めてこの書物が訳出そして出版されたことの歴史的意味を確認しておこう。
 まず第1に「解体新書」の訳出は、これまでに阿蘭陀通詞の手によって様々な蘭書の部分訳が出されたのとは異なり、中国や日本の医学に通暁した専門の医師の手によって訳出されたことに意味がある。
 そしてこのことによってオランダ語の医学専門用語が、同じ意味の単語が中国・日本の医学用語の漢語にあればそれに置き換えられ、また漢語の中に同じ意味の単語が無い場合には、新しく漢語が造語されて翻訳された。また医学専門用語以外の単語も同様に、従来の漢語や新造語の漢語に置き換えられたため、「解体新書」は、オランダ語をまったく解しない人が読んでも十分に理解できるものになったのだ。
 しかもこの本は印刷・出版されたため、これまでの手書きの本を手書きで書写した場合とは異なり、広くオランダ医学に関心のある人の下に直接本が届くことにより、オランダ医学の優れた面を、人々に広く知らしめる役割を果たしたのであった。
 また「解体新書」が訳出された第2の意味は、これによって阿蘭陀通詞が業務遂行のために従来書き記してきた辞書類とはことなり、医学用語を中心として多くの一般語を含む数千のオランダ語が、新たに学問のある日本人が慣れ親しんできた漢語に置き換えられたことであった。つまりこれは医学書以外の他の蘭書を翻訳する際にも使用できる、一般的な辞書が作られたことを意味する。
 「ターヘル・アナトミア」は四六版249ページで1ページに34行、一行にオランダ語が5・6語しか含まない小本で、全冊でもおよそ4万数千字。ここから脚注や述語類を除くと、訳出すべき新語は2・3000語だという。訳出の中心となった前野良沢が知っていたオランダ語が700とも1000とも言うが、多くの単語が新しく、従来の漢語や新造語の漢語に置き換えられたということだ。
 このため「解体新書」訳出の過程で出来た「辞書」と訳出者の知識を利用すれば、他の蘭書の翻訳が従来以上に容易くなったことを意味している。
 実は「解体新書」訳出と同じ時期に、幕府天文方では、オランダ語を学んでオランダの天文学の知識を直接学び、幕府の改暦事業に役立てようとする動きが起きていた。そして先に【30】 で見たように、「解体新書」訳出作業が始まった1771(明和8)年は、ロシアから脱走してきたベニョフスキーによるロシア情報がオランダ商館を通じて幕府に伝えられ、ロシアがカラフトや千島に要塞を築き、その勢力を南下させて、蝦夷地や日本に及ぼそうとしてきていることが人々に知れ渡り、大いなる不安を引き起こすとともに、ロシアの国情を中心とした海外情報の充実が希求された時期であった。
 従って「解体新書」が訳出出版されたことにより、訳出グループの人々の下には、オランダ語を学びに来る人が多数集まるとともに、蘭書の訳出依頼が殺到したのであった。この結果彼らはこれらの要請 に応えるために、蘭学塾を開いてオランダ語を解する学者を養成したり、自ら蘭書の翻訳に取り組むことになった。
 こうして最初はオランダ医学の精髄を導入することで日本の医学を発展させようとした医者たちによる蘭書訳出作業であったのが、次第に医学以外の分野の学者や、オランダ語それ自身を学ぶことで海外情報を直接手に入れようとする人々にオランダ語が理解されることによって、オランダ語を通じて海外の主として西欧の情報を取り入れる学問(玄白らが蘭学と名づけたもの)が成り立ち、それ自身を生業として暮らす人々すら生み出すこととなったのだ。
 このように、「解体新書」訳出は、単なる医学書の翻訳に留まらず、日本における蘭学発展を具体的に進めた一大壮挙であり、日本人が自力で、西欧の情報を知りその学を学ぶことで、西欧列強の 侵出の脅威に対応できる知識と実力を蓄える基を築くことになったのである。

(d)「解体新書」以後の蘭学の発展
 先に見たように、「解体新書」訳出グループの下から、多くの有能な蘭学者が育ってゆき、彼らの下からさらに多くの蘭学者が育成され、日本各地に蘭学は広がっていった。そして同じく先に見たように、長崎の阿蘭陀通詞の中からも専門的にオランダ語とオランダの学を研究するものが現れ、こうして長崎や江戸に限らず、日本各地に蘭学の拠点が生まれて行ったのだ。
 「解体新書」訳出グループ以後の著名な蘭学者とその業績を以下に簡単に見ておこう。
 まず前野良沢と杉田玄白両者の弟子である大槻玄沢(1757‐1827)である。
 玄沢は奥州一関藩医の玄梁の子で、杉田玄白と医学問答を交わした漢方医で一関藩医の建部清庵(1712‐82)に師事して医学を学び、1773(安永2)年に江戸に出て、杉田玄白と前野良沢に蘭学を学んだ人物である。その後1785(天明5)年に福知山藩主の朽木昌綱の後援を得て長崎に遊学し、オランダ語を本木良永や吉雄耕牛らの阿蘭陀通詞に習い、翌年一関藩の本藩の仙台藩医となった。彼の私塾を芝蘭堂といい、入門者は総数で100人を越えるといい、その中から稲村三伯や宇田川玄真らの高名な蘭学者を輩出している。玄沢は1794(寛政6)年以後、 4年毎に参府するオランダ商館長らと桂川甫周らとともに懇談し、前記のヅーフやブロンホフさらにはシーボルトらとも歓談し、多くの知識を得ている。
 大槻玄沢の業績としては、「解体新書」の誤りを正して増補した「重訂解体新書」と蘭学入門書の「蘭学階梯」、さらには1811(文化8)年に幕府が天文方に「蛮書和解御用」を設立した際にこれに招請されて馬場佐十郎らとともに、オランダの百科辞書のシュメールの家庭用百科辞書を部分翻訳し、「厚生新編」として完成させたことがあげられる。
 また彼の弟子である稲村三伯(1758‐1811)がマーリンの蘭仏辞書の翻訳を企てて師にはかり、阿蘭陀通詞石井恒右衛門の協力の下で、宇田川玄随ら多くの蘭学者の協力も得て、収録語6万語あまりの蘭日辞書・「ハルマ和解」として1796(寛政8)年に完成出版したことは、特筆に価する。
 この稲村三伯は鳥取藩医であったが、1806(文化3)年に京に移って蘭学塾を開き、多くの蘭学者を育てた。
 さらに杉田玄白の弟子の宇田川玄随(1755‐97)は、美作津山藩医師で、最初は漢方を学んだが、桂川甫周や大槻玄沢・杉田玄白から蘭学を学び、10年の歳月をかけてオランダのゴルテルの内科書を翻訳し、「西説内科撰要」として1793(寛政5)年から1810(文化7)年にかけて刊行した。これはオランダの内科学の専門書としては最初の翻訳である。
 また大坂には豪商で天文学の研究者でもあった間重富(1756‐1816)の援助で江戸の大槻玄沢の下で学んだ橋本宗吉(1763‐1836)がいる。
 彼は、大坂に戻って糸漢堂という私塾を開いて診療・教育に当ると共に、医学や天文学の書を翻訳している。
 間重富は1795(寛政7)年に幕府の改暦事業のために江戸に招聘され、弟子の高橋至時とともに江戸に赴き改暦に大きな役割を果たした人物であるが、彼が橋本を援助して江戸に蘭学を学ばせたのは、彼自身の天文学の研究の必要上から、オランダの天文学を学ぶ必要があってのことであった。橋本宗吉の訳書としては、電気実験を記した「阿蘭陀始制エレキテル究理原」や、オランダの治療法を記した「蘭科内外三法」がある。
 この間重富が江戸に伴った門人の高橋至時(1764‐1804)は、そのまま幕府天文方に採用され、「ラランデ暦書管見」などを著して、西洋天文学を広めた人物であ り、伊能忠敬に測量術などを教えた人物としても知られる。また、後にシーボルトに伊能忠敬測量の日本全図を渡した罪で獄死した幕府天文方役人・高橋景保(1785‐1829)は至時の息子で、伊能忠敬の全国測量を管理し世界地図などを作成した人物として知られる。
 さらに長崎では、前記の阿蘭陀通詞本木栄之進(良永)(1735‐94)や志筑忠雄(中野柳圃)(1760‐1806)、さらには馬場佐十郎(1787‐1822)らが現れ、オランダ語の研究に努めてオランダ語文法の書を著して、文法に基づいた系統的なオランダ語教育法を編み出したり、天文学書や地誌などを翻訳し、さらにはロシア語なども研究して、窮迫した対外情勢に対応していったことは、先に見たとおりである。
 こうして最初はオランダ医学の外科書の翻訳から始まった蘭学は、次第に他の学問、医学だけではなく本草学・博物学、そして天文学や暦学、さらには西欧の軍事技術や西欧諸国事情の翻訳にまで広がり、各地に多くの蘭学塾と蘭学者を生み出していき、日本に開国を迫る西欧列強への対応に頭を悩ませた幕府・諸大名の要請に応えて、政治・軍事などを整えていく実用の学として、蘭学は定着していったのだ。
 だが一般には蘭学の効用はやはり第1に医学の分野にあり、蘭学者の多くが医者であったことからも、蘭学塾に入門するものの多くもまた医者であり、全国の都市部だけではなく農村部にも、蘭法医学を学んだ医者が数多く輩出し、地域で診療に当っていくこととなる。それとともに第 2に一般に流布した蘭学に基づく情報は、世界地図や地球儀に代表される地理的情報であり、世界には唐・天竺・日本の3国だけではない多くの国々が存在することや、これに例えば医学においてはオランダに示される西洋の学は、中国のそれと比べても優れたものであることが知られ、これまで大きな影響を与えてきた中国の学である漢学の相対化を生み出した。このことが日本主義を掲げる国学の生成に大きな役割を果たしたことは、先に見たとおりである。

E幕府や諸藩の蘭学興隆に果たした役割

 最後に蘭学隆盛に幕府や諸藩が果たした役割を見ておこう。
 「つくる会」教科書は、8代将軍吉宗の時代に洋書の輸入を認めたということ以外は全く幕府の対応を記述しておらず、これではまるで幕府が西洋列強の脅威に何の対応もしなかったように受け取れる故に問題がある。

(a)田沼時代の幕府の蘭学を利用した積極的な「開国」政策
 8代将軍吉宗の時代に幕府は積極的にオランダから西欧の学を学びそれを殖産興業政策に利用しようとしたことは先にも見たが、この政策はその後も幕政においても継続した。このことは10代将軍家斉の時代、すなわち老中田沼意次が執政として幕政を動かしていた宝暦から天明年間の時代についてとくに顕著であり、この点については、近世編2の【29】で詳しく見たところである。
 すなわち幕府は、蘭学の知識と、これと関連しつつ発展した本草学の知識を利用して殖産興業政策を推進した。
 これは本草学者田村藍水を中心として、朝鮮人参やサトウキビなどの国産化を進めたことや、藍水の門人であり蘭学者でもあった平賀源内を起用して西欧の鉱山学などの知識を利用して新たな鉱山を開発したり、既存の鉱山の再開発を進めたことに良く示されている。
 またこの時期幕府老中の一部には、積極的に海外との交易などを盛んにし、そのことで日本の富を豊かにしようとはかり、そのためにも西欧の造船技術などを取り入れて大型の外航船を建造しようとする動きもあったことも、すでに見たとおりである。そしてこのような政治傾向の一つの結果として、田沼時代の末期に蝦夷地開発のための探検が成されたこともすでに指摘した。
 このような田沼政権における「開国」的政策傾向の存在は、彼らと接触したオランダ人の側も記録に留めている。
 1779(安永8)年から1784(天明4)年にかけて3度オランダ商館長として長崎出島に在任したティティングによると、この時期の幕閣には、外国人を国内に入れても損失はないばかりか、すぐれた科学・芸術(技術)を学ぶ機会を得ることが出来ることを知り、外国人を国内に入れる考えがあったという。また若年寄の松平ツノカミは、船舶の建造を許して日本人が他国に航行することを容易ならしめ、同時に外国人を日本に誘致しようという提議をしたが、この執政が死んだため実行に移されなかったという。
 この記述はそれ自身としてはここに示された執政が誰なのか比定することが出来ないが、ティティングがしばしば当時長崎奉行であった久世丹後守と接触し ていた事実から推測することができる。
 丹後守からはバタビアから船大工を連れてきて日本人に造船技術を教授してくれとの提案があったが、当時オランダはこの要請には応じることができないので、日本人をバタビアの造船所に派遣して教育してはどうかと逆提案したが日本人の海外渡航の禁令に触れるため実行できず、結局ティチングがバタビアに帰国した際にオランダ船の模型と作らせて必要な説明書をつけ再び長崎に持ち帰るということになり、1784(天明4)年にこの約束は実行された。しかし若年寄の田沼山城守意知が横死したのでこの計画は水泡に帰したと、ティ ティングはその著書「日本風俗図説」に記している。この事実と先の話は酷似しており、松平ツノカミというのは、若年寄田沼意知の名前と老中田沼の主殿頭(とのものかみ)とを混同し、しかも将軍家縁戚の大名が拝領する松平の姓と混同したものと考えられる。
 このように田沼時代の幕府は、積極的に蘭学を活用し、それを基に「開国」的政策を実行しようとさえしていたのだ。
 だからこそ江戸においてオランダの学を学ぼうとする機運が高まり、その中で幕府奥医師桂川家に集う人々の手によって「解体新書」が訳出され、蘭学隆盛の端緒が開かれたに違いない。

(b)ロシアを中心とした開国要求の嵐に対応した寛政〜天保の時代の幕府 の蘭学への対応
 田沼時代の幕府の積極的な「開国」的政策は、田沼の失脚と彼の政敵が政権についたことで、一旦は否定された。
 しかし幕府は、ロシアによる2度にわたる開国要求を表面的には拒否しながらも、その後のカラフトや蝦夷地でのロシアとの武力衝突やイギリス船の長崎武装侵入などの動きに対応して、幕閣内部に鋭い意見の体対立を孕みながらも、その一部の将来は開国せざるをえなくなる情勢が到来することをも予見した人々の主導の下で、これに備えて沿岸警備を強化したり、蝦夷地をロシアに対する防御拠点とみなして北方警備を強化するなどの政策をとり、これを幕府独力ではなく諸藩にも応分の分担をさせて実施することで、幕府および諸藩に、蘭学の成果を応用してこれらに対応する傾向を生み出したことは、先に本巻の【30】で見たとおりである。
 そしてこの過程で一時期蝦夷地の管理を松前藩から取り上げて幕府直轄として、北方諸藩に蝦夷地の防備を分担させる中で、さらに田沼政権の下で企画実行された蝦夷地調査が蘭学者の提議などを受けて再度実施され、その動きはさらに北方に伸びて、カラフトや千島列島にまで伸びていった。このような流れの中で、最上徳内(1755‐1836)や近藤重蔵(1771‐1829)による千島列島のエトロフ探査やカラフト探査が成されたのであり、1800(寛政12)年から1816(文化13)年にまでわたる伊能忠敬の全国測量が実施され、その成果を元にした初の科学的測量による全国地図「大日本沿海輿地全図」が完成されたのだ。この伊能忠敬は幕府天文方の高橋至時に天文暦学を学んだ人物で、彼の全国測量の背景には、これを示唆援助した至時の息子で天文方役人の高橋景保の動きがあったことも良く知られている。また伊能忠敬の全国図を完成させたのもこの高橋景保であった。
 このように田沼政権で試みられた積極的な「開国」的政策は、その後の寛政・文化・文政時代においても、形を変えて推進されていたと言って間違いないであろう。
 すなわちそれは、「鎖国」を祖法として堅持してロシアやイギリスの開国要求を当面は拒否しながらも、彼らの侵攻を防ぐために積極的に蘭学の成果を取り入れて、北方警備や首都江戸近辺と全国の海岸防備を強化するという形で行われていたのだ。
 またこのように防備を固めるという形での西欧列強の侵出に備える動きは、アヘン戦争によって中国が敗退したことで、さらなる危機感が日本に生じたことにより、日本の国家体制を変革する必要性の認識へと変化した。
 この認識に基づいて行われた初めての幕政改革が天保の改革であったことについては、本巻の【32】で詳しく見たところである。
 すなわちこの改革では幕府は、西洋式の大砲と鉄砲で武装された西洋式軍隊を創設して軍制を改革するとともに、西洋式の大砲で武装した外洋船も多数導入しようと企画して、アヘン戦争での中国の敗北から学ぼうとした。そしてさらに、沿岸防備を強化するために、江戸・大坂のそれぞれ十里四方を幕府直轄地とすることで、幕府を中心とする中央集権的国家建設に踏み出そうとしたのである。
 この改革は、江戸大坂という日本の経済的中心地に所領を持つ多くの譜代大名や親藩大名の所領の削減を伴うものであったために彼らの強力な反対に会い、途中で頓挫してしまうが、幕府そのものの重役の中にも、蘭学の知識を応用して、西欧列強の侵出に対抗すべく国のありかたを変えようとさえ考えていた 人物がいたことを示し、注目に値する。
 そしてこの時代、蘭学の成果を幕府が積極的に利用しようとしていたことは、幕府天文方に蛮書和解御用を新設して、オランダ語に通じた阿蘭陀通詞や蘭学者を招聘して蘭書を組織的に翻訳させたことや、長崎通詞にオランダ語だけではなく、英語やフランス語、さらにはロシア語を学ばせて、積極的に対応しようとしたことによく示されている。
 すなわち天文方への蛮書和解御用の設置は1811(文化8)年であり、多くの蘭書が翻訳されている。
 ここで翻訳された書物として先にみた家庭用百科辞典の翻訳が挙げられるが、それ以外の時局対応的な主要なものを挙げれば、地理書「與地志」(1813・文化10年)・ゴロウニンの「日本幽囚記」を訳した「遭厄日本紀事」(文政8年)・クルーゼンシュテルンの世界周航記を抄訳した「奉使日本紀行」(1828・文政11年)・「海上砲術全書」(1843・天保14年、のち越前大野藩から1854・安政元年に28巻で出版)などがある。
 前3書はロシアの開国要求に対応した情報を翻訳したものであり、後1書は、アヘン戦争の勃発に対応したものである。
 この蛮書和解御用の役割はその後30年間以上も継続して行われて、開国後の1856(安政3)年の蕃書調所設置につながり、これがその後、洋書調所⇒開成所⇒開成学校と改称・組織発展され、明治の東京大学へと発展していく基となった。
 また阿蘭陀通詞への英語やフランス語などの教授が開始されたのは1809(文化6)年であり、これは1813(文化10)まで続けられ、その後の系統的なヨーロッパ語学習へと道を開いた。

(c)蘭癖大名たちの出現と蘭学の藩政改革への応用
 8代将軍吉宗によって積極的なオランダの学の導入がなされたことは、田沼時代と呼ばれる一時期には、大名の間にも蘭学に関心を寄せる多くの人々を生み出し、た。
 この人々はオランダの生活様式を取り入れ、オランダ渡りの品物で身辺を飾って暮らす異国趣味のものが多かったが、その中には、自らオランダ語を学んで西洋の学を自分のものにしようとした人物も含まれる。この人々は当時「蘭癖大名」と呼ばれた。
 この人々に含まれる人物としては、薩摩藩主島津重豪(1745‐1833)、さらに丹波福知山藩主の朽木昌綱(1750‐1802)と平戸藩主松浦静山(1760‐1841)などがいる。
 島津重豪は先に見たようにオランダ商館長らを長崎屋に訪問してオランダ談義に自ら耽り、身辺をオランダ渡りの品物で飾るとともに、オランダ語も多少駆使できて、私信のなかに他人には知られたくないことを書く場合にはオランダ語で記すほどの人物であった。また藩校造士館や演武館を作って藩士教育に力を入れるとともに、医学院や薬草園を設けて、諸学の新興にも努めた人物でもあった。またこれと同時に彼は、藩学の中に蘭学を導入している。
 朽木昌綱も長崎屋のオランダ商館長らを親しく訪ねて蘭学談義をした人物であるが、前野良沢にオランダ語を学び、自ら蘭学者の協力を得て西洋地理書「泰西輿地図説」を1789(寛政元)年に刊行するほどの蘭学者であった。また先に見たように大槻玄沢の長崎遊学を援助したことでも知られ、同時に古銭の収集家でもあって、西洋の古銭を集めた「西洋銭譜」を出している。
 松浦静山も自ら藩校を開いて藩士の教育に尽力した人物であるが、同時にたくさんの洋書を収集したことでも知られる。
 さらに前野良沢を庇護し、彼の翻訳業を助けた蘭学に理解の深い大名として、豊前中津藩主の奥平昌鹿とその養子で、島津重豪の子息・奥平昌高も挙げておこう。
 奥平昌鹿は、藩医の良沢が医師としての仕事もせず、藩邸に出仕もせずに蘭学研究に没頭していることを咎めた同藩重役に対して、良沢はオランダ人の化け物だからと、彼の行動を擁護したことで知られる。このため良沢は号を「蘭化」と称したという。
 また昌鹿の養子となって中津藩主を継いだ昌高も蘭学に秀でた大名で、彼は1810(文化7)年に、天文・地理・時令など19の類語に分類した蘭日対訳辞典書「中津辞書」を出した人物として知られる。
 しかしこれらの蘭癖大名の蘭学は、蘭学に理解を示し蘭学を学ぼうとするものたちに援助を与えて蘭学の勃興の基礎を築く上では貢献したが、それ自身としては藩の体制を変革する上にはほとんど影響を及ぼしていない。島津重豪の場合でも彼の多彩な活動は藩財政に深刻な危機を引き起こしただけで、直接継承はされず、薩摩藩が積極的に蘭学を導入して国のありかたを変えるに及んだのは、彼の曾孫の島津斉彬(1809‐58)の時代になってからである。
 結局これは蘭学を導入して国のありかたを変えないと日本が藩が立ち行かないという危機感が存在するか否かが問題なのであり、蘭癖大名が活動した田沼時代には、まだそのような切迫した危機感がなかったのだから当たり前であったといえる。
 諸藩が蘭学の成果を利用して藩体制を変革し始めた最初は、天保の改革を実施した水野忠邦(1794‐1851)の浜松藩であろう。彼はオランダから大砲や小銃を輸入して西洋式軍隊に軍制を改革するとともに、蘭学者高野長英をして砲術書を翻訳させたり、オランダから洋式外洋船を購入して海軍を創設しようとするなど、積極的に藩政改革に蘭学を応用しようとした。しかし天保の改革が反対派の圧力で頓挫するとともに彼が隠居させられた上に浜松を取り上げられて出羽山形に転封されたことで、浜松藩の軍制改革は頓挫した。
 だがこうした動きはこれで止まったわけではないことは、本巻の【33】で見たとおりである。
 幕末期において、とりわけアヘン戦争とペリーの来航という危機の中で多くの藩が積極的に蘭学を導入したことにより、全国的に蘭学学習熱が巻き起こり、諸国に蘭学塾が数多く設立され多くの蘭学者が生まれていった。
 その中の主な物を挙げると、江戸には、シーボルトに蘭医学を学んだ佐賀藩医・伊東玄朴(1800‐71)の塾・象先堂、宇田川玄真に蘭医学を学んだ長州藩医・坪井信道(1795‐1848)の塾・日習堂、眼科医で広島藩医、後に幕府奥医師となった土生玄碩(1762‐1848)の塾・迎翠堂などがあり、大坂には、坪井信道や宇田川玄真に蘭医学を学んで後に幕府奥医師や西洋医学所頭取となった緒方洪庵(1810‐63)の塾・適塾、京都には、長崎のオランダ人医師に学んだ新宮凉庭(1787‐1854)の塾・順正書院、さらに地方では、下総佐倉には、高野長英やオランダ人医師に学んだ佐倉藩医の佐藤泰然(1804‐72)の塾・順天堂や、美濃大垣には、杉田玄白や前野良沢に蘭医学を学んだ大垣藩医・江馬蘭斎(1747‐1838)の塾・好蘭堂などがあげられ、諸国の医者やオランダの学を学ぶことを志した若者がここに留学して蘭学を学び、国々に戻って医者を開業したり、藩の中で藩政改革に取り組んだりした。
 しかし、これらの人々とその知識をもって藩政改革を成し遂げた藩は、福岡藩・佐賀藩・薩摩藩・長州藩などいわゆる南西諸藩とよばれる外様藩と、越前福井藩などごく限られた藩であったことも先に見たとおりである。

 以上簡単に見てきたが、蘭学が広がって発展した背景には、それを積極的に利用しようとする幕府や大名の援助があったことは忘れられてはならない。
 日本が西欧列強の侵出に対抗して中央集権的国家を建設してその独立を保った背景には、このような幕府・藩権力の側からの積極的な関わりがあったのだ。そしてこのことはすでに縷々見てきたように、江戸時代の日本が通説のように鎖国をして海外から自らを遮断して太平を貪っていたのではなく、長崎や対馬・ 琉球・函館などの限られた場所、とりわけ西洋に唯一開かれた長崎においてではあったが、一貫して西洋の学を積極的に学び取り入れようとする世界に開かれた姿勢があったからこそなのであり、「つくる会」教科書がしばしば強調するような、武士道などという観念的な問題なのではないことを明記して置きたい。

(4)安藤昌益の反近代思想の成立と普及

 最後に教科書は、「民間の人々の間での学問の活動」の例として、安藤昌益の思想を挙げている。
 教科書は次のように記述している(p165)。

また陸奥八戸(青森県)の医師安藤昌益は、万人が耕す世の中を理想とした。

 

 

 

:この項は、 村岡典嗣著「増補本居宣長1・2」(初版は1911年刊、贈訂版は1928年刊、増補版は2007年平凡社東洋文庫刊)、本居宣長著「玉勝間」・「答問録」(1968年筑摩書房刊「本居宣長全集第1巻」所収)、本居宣長著「石上稿」(1969年筑摩書房刊「本居宣長全集第15巻」所収)、 石川淳編集「本居宣長」(1970年中央公論社刊・日本の名著21)、本居宣長著「馭戎慨言」・「玉くしげ」・「秘本玉くしげ」・「呵刈葭」(1973年筑摩書房刊「本居宣長全集第8巻」所収)、本居宣長の日記類(1974年筑摩書房刊「本居宣長全集第16巻」所収)、松本滋著「本居宣長の思想と心理」(1981年東京大学出版会刊)、 相良亨編「平田篤胤」(1984年中央公論社刊・日本の名著24)、杉本つとむ著「江戸の博物学者たち」(1985年青土社刊・2006年講談社学術文庫再刊)、沼田次郎著「洋学」(1989年吉川弘文館刊)、子安宣邦著「本居宣長」(1992年岩波書店刊、2001年岩波現代文庫再刊)、 桑原恵著「古典研究と国学思想」・新谷正道著「反封建・反儒学の立場−安藤昌益」・青木歳幸著「科学的思考の発達と蘭学」(1993年中央公論社刊日本の近世13「儒学・国学・蘭学」所収)、 市村佑一著「鎖国=ゆるやかな情報革命」(1995年講談社現代新書刊)、梅渓昇著「緒方洪庵と適塾」(1996年大阪大学出版会刊)、片桐一男著「開かれた鎖国 長崎出島の人・物・情報」(1999年講談社現代新書刊)、 戸沢行夫著「江戸がのぞいた<西洋>」(1999教育出版刊)、辻本雅史著「学問と教育の発展−『人情』の直視と『日本的内部』の形成」(2003年吉川弘文館刊日本の時代史17「近代の胎動」所収)、 金子務著「江戸人物科学史」(2005年中央公論新書刊)、岡田千昭著「本居宣長の研究」(2006年吉川弘文館刊)、山口志義夫訳「玉くしげ−美しい国のための提言」(2007年多摩通信社刊現代語訳本居宣長選集1)、 土井康弘著「本草学者平賀源内」(2008年講談社メチエ刊)、片桐一男著「それでも江戸は鎖国だったのか オランダ宿 日本長崎屋」(2008年吉川弘文館刊)、山口志義夫訳「馭戎慨言−日本外交史」(2009年多摩通信社刊現代語訳本居宣長選集2)、 渡辺浩著「日本政治思想史 17〜19世紀」(2010年東京大学出版会刊)、小学館刊の日本大百科・平凡社刊の日本歴史大事典・岩波歴史辞典の該当の項目などを参照した。


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