「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第3章:近世の日本」批判37


37: 危機の時代は、「もう一つの日本」を示す政治・社会思想を生み出した−明治維新は思想的にその矛盾も含めてすでに準備されていたー

 第3章「近世の日本」の最後の項目「39:新しい学問と思想の動き」 の二つ目の内容は、「対外思想の展開」である。 この項目は前項の「新しい学問の発展」を受けて、江戸後期においてどのような新しい政治・社会思想が生まれたのかを記述したものである。このような記述を教科書に入れたことは斬新であり、かつ明治維新を準備した思想がすでに江戸後期において生まれていたことを示している点において、極めて有意義なものである。

 「つくる会」教科書は、この項目を次のように記述している(p165)

 18世紀末ごろから、欧米諸国の接近を背景に、国際社会を視野に入れて日本のあり方を説く人々が出てきた。林子平は『海国兵談』を記して、江戸湾がロンドンのテムズ河と水路でつながっていると述べて、海防(海岸防御の略)の必要を説いた。本多利明や佐藤信淵は、各国と積極的に交易して国を富ませるべきだと主張した。
 また、水戸の会沢正志斎は、水戸学の立場から、尊皇攘夷(皇室を尊び、外国を打払う)の思想をもとに、日本人が精神的に結束して外国に当ることを説いて人々に深い感化を与えた。一方、頼山陽の『日本外史』は、日本の歴史をたくみに記述して、幕末・明治期に広く読まれ、日本人の国民としての自覚を養った。

(1)新しい思想が生まれた背景やその内的矛盾を無視した平板な記述

 しかしこの記述には幾つもの問題点がある。
 一つは、その標題が「対外思想の展開」とあるように、それを単に外国との関係で日本はどうあるべきかという側面に限って記述しており、この新しい思想が単に外国との関係を示すものだけではなく、日本国のありかた、すなわち政治・社会制度全体におよんで「もう一つの日本」を指し示す総合的な思想であることは忘れられていることは問題である。
 林子平や本多利明や佐藤
信淵の思想は、単に開国論や国防論を説いたものではない。
 彼らの著作や行動を子細に検討すると、彼らは日本の社会や政治の仕組みの問題点もまた鋭く指摘しており、日本が幾つもの独立した国家(藩)に分かれていることや鉱工業や商業などを盛んにせず、単に農業生産だけに依拠しようとしてきた藩や幕府の政治のあり方が、今日の日本の様々な問題を生んでいると指摘している。
 すなわち彼らは、世はすでに商人の時代であり、武士もまた商売をしなければ生きていけないとして、藩が積極的に殖産興業政策をとることを提言している。さらに、日本が多数の国家に別れ全国的な流通網が未形成であることが、一部の地方における凶作をそのまま大飢饉に転化したことを指摘し、藩を超えた商品流通網を完備することで、一地方の凶作を全国的な食料流通で解決できると指摘している。そして彼らは経世学者でもあるので、財政難に陥った諸藩に依頼されて藩政の改革にも携わっており、政治のあり方や農業や商工業などの産業政策のありかたまで彼らは視野に据えて提言を行ってきた。彼らは単に国防の強化や開国を主張したのではなかったのだ。
 また本多利明は凶作が飢饉となってしまう背景には、これ以外にも江戸時代初期以来の急激な人口の増加が背景にあり、これを解決するためにも、鉱工業や商業の発展が必要であり、蝦夷地などを開拓して国土を広げながら国力を蓄えよとも説いている。
 そして彼らの立論を詳しく見ると、武士のみが政治を独占していることもまた問題を大きくしていることが彼らによって認識されており、ここを発展させれば、彼らの思想はそのまま国民として統合された民を主人公にした、民主政治に基づく国民国家形成へとつながっていくものであった。
 まさに彼らの思想は、国民国家を形成して諸産業を発展させた日本への変革としての明治維新を思想的に準備したものだったのだ。
 この観点からすると、会沢正志斎 の思想は、このような政治・社会・経済全般にわたった日本改革論ではなく、神国日本という国粋主義的思想に基づいて、諸外国を討つべきという思想である(頼山陽は思想家というよりも、詩人。歴史学者である)。
 だがこれもまた、諸藩に分かれて〇〇人という地方的意識に囚われた人々を国民として統一させようという意識の現れという点では国民国家形成としての明治維新を準備した思想ではある。
 そして二つ目には、ここで示された開国論と尊皇攘夷論とが、その視野の広さと改革の指向性において対立的であることを、教科書はきちんと記述していない。教科書は、尊王攘夷論は「外国を打払う」ことだと指摘している が、だからそれは開国論ではなく鎖国の継続であり、上記の開国論と根底的に対立するものであることをもっと明確にすべきである。
 そして、この二つの思想が明治維新を引っ張った思想であったために、明治国家のあり方を巡り両者の間に激しい闘争を生み出し、このことが明治国家に様々な軋轢・矛盾を生み出したのだから、これを理解するためにも、二つの思想の視野の広さの違いや認識の違いをもっと明瞭にしめしておくべきである 。
 「つくる
会」教科書は、新しい思想に含まれるこのような側面を完全に欠落させた記述となっている。
 また三つ目には、この新しい思想が外圧を契機にして生まれただけではなく、日本の社会の変化に応じた内発的動機も契機にした諸学問の発展の相互作用によって生まれたものであることも視野の外に置かれていることは残念である。
 すなわち林子平はもともとは儒学を学んだ武士であるが、その学的系統が、荻生徂徠に始まる従来の儒学批判の系統に属しており、徂徠の弟子であって孔子や孟子のものの見方を現代に応用してどう現代をとらえそれを改革しようとするかということを学問の主眼においた太宰春台の経世学派に属して、そのような訓練を受けた人物である。その上に彼は蘭学者にも多くの知人友人がいたためにこの西洋の新しい知見も耳にすることができた。従って彼の思想は、こうした日本に於ける儒学の批判的継承の成果を背景としている。
 さらに本多利明は、本来は数学者(和算)であり天文学者であった。その彼が勃興しつつある蘭学の成果を、友人・知人である蘭学者から耳にしてオランダ語も初歩的であるがかじってその知識を手に入れて彼の思想は成り立っている。そして儒学の素養は江戸時代の知識人には必須のものであるから、彼も儒学を学んでいたのであり、その学的系統は不明であるが、彼の著作や行動を見ると、彼 もまた荻生徂徠や太宰春台の経世学派の影響を受けていることはたしかである。
 そして
佐藤信淵は元々は農学者であり、儒学的な素養は深く、さらに彼の自伝的なものを信ずれば、和算や測量術も学んでいる総合的な学者である。この点で彼は科学者として蘭学の知識を吸収していたと見られる。そして彼は壮年になって平田篤胤の国学の強い影響を受けて彼の弟子ともなり、社会変革に向けて地域活動を始めた人物である。
 このように開国論を唱えた三人の思想は、江戸時代を通じて発展した諸学問の人的交流を経て生まれたものであった。
 またこれは会沢正志斎にも言えることである。
 彼は儒学の正統な朱子学を学んだ人物であり、彼もまたそれに対立し批判的な経世学を知ってはいたであろうが、基本的には彼は幕府・藩による武士の政治的独占を維持する立場の思想家であった。だが彼の思想には、本居宣長に代表される国学の強い思想的影響が見られ、宣長が唱えた日本神国思想に傾倒していた。そして本居宣長の国学もまた、儒学批判である荻生徂徠の学問にその方法論や意識を依拠しており、こうして尊王攘夷論者である彼の思想もまた、江戸時代における内的な様々な学問の発展とその相互交流によって生まれたことは確かである。
 ただし佐藤信淵の思想は、後に少し詳しく見るように、この対立する二つの思想をつなげた特異なものである。
 彼の思想の中核は、本居宣長・平田篤胤に始まる日本神国論である。そしてこの思想を中核として、佐藤家の家学である農学に儒学の思想やその批判としての経世学派の言説を取り入れ、そこにさらに蘭学の成果も取り入れて、あらたなる日本を構想したものであった。彼の思想の特徴は、その垂統論に見られるように、諸学の成果を兼帯し道徳的に秀でた「賢人」とでもいう人物の指導の下に国家を統一し、諸身分を廃止して土地や財産などをすべて「賢人」の統治の下にある「中央政府」の管理下におき、諸産業の発展・育成と海外貿易を積極推進するというものである。そしてその「賢人」の後継者や彼の思想を受けて手足となって働く人々を育成するための「国家管理の教育施設」とでもいうものを作って、こうした体制を継続するというものであった。
 この意味で彼の思想は、当時の主流となっている諸思潮を統合して、西洋列強の侵略の危機にどう対応するかというものであり、江戸後期において、すでに産業と貿易に立脚した統一国家が必要だという思想的潮流が、大きな流れになっていたことの思想的反映であるといえる。
 また、彼の思想は当時においては注目を浴びなかったが、後に明治後期から昭和初期にかけて一世を風靡したのは、佐藤信淵の思想が、其の中核思想が日本神国論であり、さらにその体制を永続させる手立てとしての垂統論が、「超人的」な道徳的・政治的 な力を持つ「賢人」によって指導される強力な国家権力確立構想であったことと、さらに佐藤が、その著書「混合秘策」で満州や中国までも武力によって日本の統治下に統一することが、西洋列強の侵略を阻止する秘策だとしたために、西洋列強との絶えざる衝突の危機にあった明治末期から昭和初期において、大陸侵略政策を進め、アジアを日本中心に統一しようとする国家主義的な人々によって「先見の明あり」として賞賛されたものであった。
 だからこそ、昭和初期の国家思想を継承している「つくる会」教科書が、わざわざ佐藤信淵の思想をここで特筆したのであろうが、彼の思想は他の人々とは同列にあつかわず、別個に検討されるべきであろう。

2)開国思想の形成とその背景

 では最初に、開国思想として一くくりにされている二人の思想をすこし詳しく検討しておこう。

:佐藤信淵については、先に述べた理由により、「開国思想」「尊皇攘夷思想」を検討した後に、別個に両者を統合したものとして検討する。

@経世学を土台に西洋の知識を吸収して時代への警鐘を乱打した林子平

 「海国兵談」は、1888(天明8)年から1891(寛政3)年にかけて出版された書である。林子平と彼の著書「海国兵談」については、すでに【30】で詳しく述べておいたので、これを再録しておこう。

(a)「海国兵談」とこの書の持った意味
 
林子平(1738‐93)は兄が1756(宝暦6)年に仙台藩士となった関係で仙台に下ったが、彼自身は無禄で役にもついていなかったので学問修行のために度々江戸に出、さらにその間に、1775(安永4)・1777(安永6)・1782(天明2)年と3度長崎にも遊学している。彼がロシア・北方問題に関心をもったのは、長崎に遊学して、そこでベニョフスキー情報を耳にしてからであったという。
 彼が情報を得たのは、江戸で知り合った工藤平助であり、また平助の周辺にいた蘭学者からでもあった。彼と交友があったのは、大槻玄沢・桂川甫周・森島中良(1754?‐1810? 甫周の弟)らで、甫周は彼の著「三国通覧図説」に序文を寄せ、工藤平助は「海国兵談」の序文を書き、森島中良はこの書の出版の後援者となっている。また長崎遊学中の1778年には 、当時のオランダ商館長のアーレント・ヘイトから世界地理の知識やロシア事情を聴いている。
 子平が1785(天明5)年に著した「三国通覧図説」は、朝鮮・琉球・蝦夷の3国の関係を著し解説を付したものだが、彼が力を入れて書いているのは蝦夷についてで、ロシアがカムチャツカから千島に進出し、すでにラッコ島(ウルップ島)をとり、エトロフ島を取った上は蝦夷地の東北部に至るのは時間の問題と見て、蝦夷地開拓を急ぐべしと提言している。そして続いて1786(天明6)年から1791(寛政)年までかかって刊行した「海国兵談」では、ヘイトからヨーロッパの国々が植民地を獲得する方法は、最初は平和的関係を結んで、ついで領民を手なづけてゆく ところから始まるとの教えを受けていたので、子平はロシア人の千島南下とアイヌとの交易の実施をロシアによるこの地の征服の兆しと認識し、ベニョフスキーもロシアの手先として日本沿岸を調査したものだと断定している。そして日本は海に囲まれた国であるので、外国の侵略を受けやすく、これを防ぐには海軍と大砲を持たねばならないと警告した。また近年韃靼や中国がヨーロッパ人とも交わっていると聴くので、彼らがヨーロッパ人に手なづけられてそそのかされ、彼らが日本に攻め込んでくる危険もあると警告した。この上で彼が提案したことは、今は長崎港にだけ砲台を設けて手厚く警備しているが、海に囲まれた国である日本はこれでは外国の侵略を防ぐことはできず、特に江戸を控える安房・相模の海にはまったく備えがないことは、江戸からそのまま中国・オランダまで境なしの水路で繋がっていることになり、極めて危険であると警鐘を乱打している。
 この「海国兵談」はさきの「赤蝦夷風説考」が翻訳された蘭書を基礎にした正確な知識に基づいていたのとは違い、子平が蘭学者から聞きかじった知識を基にした極めて雑な書物ではあったが、日本において初めて、日本へのヨーロッパ諸国の武力侵略の危険があることを表明した画期的な書物であった。しかも出版された時期が、ロシア人が相次いで蝦夷地に来航する中で、1789(寛政元)年のクナシリアイヌの蜂起が起こり、この蜂起の背後にロシアの手があるのではないかと疑われた時期であったため、部数は少なかったが一般に販売された本書が、国防上の機密事項を明らかにし、しかも幕府の専権事項である外交に民間が口を挟んだとして禁書となった。 しかし翌1892(寛政4)年5月に林子平が「海国兵談」出版を理由に処罰されたわずか4ヶ月後、ロシア皇帝の国書を持って交易を望む特使が長崎を訪れ、どう対応するか幕府が苦慮することとなったのだ。
 林子平の「海国兵談」は、日本へのヨーロッパ諸国の武力侵略の危険があることを表明した画期的な書物であり、海に囲まれた日本は海岸防備を強化しなければ外国の侵略を防ぐことはできないと警告した書であったのだ。
 そして子平がこのような書を書いたのは、ロシアが現実に千島列島を南下して日本に開国を迫ってくるという外圧に危機感を持ち、これへの警鐘を鳴らそうという意図であったし、彼が得た情報の元は、親交のあった蘭学者が書物から得た知識であり、彼が直接長崎で会ったオランダ商館長からの直接情報であった。
 「海国兵談」はまさに外国の侵略の危機という外圧に応じて、蘭学などの外国情報を元にして出来あがった書物であった。

(b)林子平の学問の背景−経世学の継承と藩政改革への取り組み
 しかし子平が外圧の危機への警鐘を乱打した背景には、彼自身の中にすでに、近世江戸の社会や政治は行き詰まっており、それを根本的に改革しなければならないという認識が育っていたからのことであった。これは彼の生い立ちと学問の系譜、さらに彼が時代への警告の書を書く以前の彼の活動を見ておかないとわからないことである。
 林子平は、1738(元文3)年に幕臣で小納戸兼書物奉行620石取りの旗本・岡村源五兵衛良通の次男として江戸に生まれた。しかし彼の父は1740(元文5)年に同僚との間に刃傷沙汰を起こして浪人となり、3歳の子平は祖父・母・姉・兄・妹とともに、父の弟で町医者であった林従吾通明の世話で生きることとなる。そして子平の姉の奈保が1747(延享4)年に仙台藩主伊達宗村の側室となったことから、その養父である従吾も30石取りの仙台藩士となり、さらに1752(宝暦2)年に叔父が死去したため、その家督を子平の兄の嘉善が継ぎ、1756(宝暦6)年には150石取りの仙台藩士となったことにより、20歳になった子平一家も江戸から仙台に移住し、子平も部屋住みではあったが仙台藩士となった。これが子平の生い立ちである。
 子平の学問の師は幼少時には叔父の林従吾であったが、1753(宝暦3)年15歳のおりからは、浪々の旅から戻って林笠翁と名乗って荻生徂徠の弟子の太宰春台や服部南郭に学んだ学者となった父から教えを受け、それは子平が30歳となった1767(明和4)年まで続いた。つまり林子平は、儒学を単に古典の先例を現代に適用する学ではなく古代の聖人である孔子や孟子の物の見方や方法論を古典から学び、それを武器として現代を分析してその経営にあたるという意味の経世学を創始した荻生徂徠の曾孫弟子であり、徂徠の経世学をさらに発展させた太宰春台の孫弟子であったのだ。
 子平の学問と彼の業績を考える時、彼が経世学派の学統を引いていることは重要である。
 子平は1765(明和2)年28歳の時に、仙台藩に対して上書を行って藩政改革を提言している。当時の仙台藩は宝暦・明和の打ち続く飢饉によって窮乏し藩財政は深刻な情況に陥っていた。この上書の内容は、矢嶋道文著「近世日本の『重商主義』思想研究」によれば、以下のような内容である。
 子平は、今の藩政には定法がないために政道が藩内に行渡っていないとして、学政・武備・制度・法令・賞罰・地利・倹約・章服・雑の9項目に渡って藩政の改革を提言する。そして地利の項目の中で子平は、農産物だけではなく多くの細工物(手工業製品)などの国産を奨励し、それを他国(藩)に売って得た金銀で他国の産物を買い入れれば、他国との交易で金銀が流出することなく、国を富ませることとなると述べ、殖産興業政策と他藩との交易を積極的に行うべきことを説いている。そして武備の項目では、日本は朝鮮琉球蝦夷の三国と境を接しているのだから、これらの国から不意に攻められても対応できるよう、常々兵馬を調練しておくことが大事だと述べ、ここには後年の「海国兵談」で述べたような日本国全体としての武備の必要性の萌芽が見られる。
 だがこの上書は藩上層部に取り入れられなかったようで、子平はやがて仙台藩に籍を置いたまま江戸や蝦夷や長崎など諸国を遊学し、多くの識者に会って学問を深めたのだ。
 すなわち1772(安永元)年には蝦夷地に赴き見聞を広めたと言われる。そしてやがて1775(安永4)年には長崎に赴き、先に見たようにオランダ商館長から西洋事情を聴取したりして1777(安永7)年まで長崎に滞在。そして1781(天明元)年から1783(天明3)年まで三度長崎に赴き、さらに西洋情報を収集した。
 こうした江戸長崎での蘭学者や西洋人との交流に基づいて子平は、「三国通覧」「海国兵談」のニ著を著したのだが、その間の1781(天明元)年にも、仙台藩に上書して藩政改革を提言している。
 この二度目の上書は、一度目の上書で展開された富国思想を、この間の学問や人的交流で得た知識によってさらに押し進め、かなり具体的に藩を富ませる策を提言していることが注目される。
 すなわち子平は、奥州は寒冷の地にあるため3・40年に一度は飢饉に見舞われる土地であることを指摘し、藩内に利殖の制度を設けて資金を貸し付け、寒冷地にも耐える商品作物を育てていけば、30年の後には日本第一の御国になると提言している。そしてここで子平が提言した作物は蚕・蝋櫨・楮であり、さらに農産物以外では、乾海鼠や乾鮑などの海産物、そして鉄や鉛・銅などの鉱産物や塩、さらには呉服・小間物・膳椀・草履などの手工業製品まで多岐に渡っている。
 この中の乾海鼠や乾鮑は当時中国やオランダからの輸入生糸や砂糖などの代価として長崎から輸出されていたものだが、これらを産する仙台藩は、これらを長崎に運んで売り、その代価で多くの野草を取り寄せて藩の医療に役立てるようにと提言している。
 またさらに子平は、この4年後の1785(天明5)年にも三度目の上書を出し、ここでは前二度の上書の提言をさらに発展させ、藩の特産物を藩が全て買い上げ、これを江戸の大店に販売させる策を提言し、そのために江戸に仙台屋という大店を藩が設立して商売を行い、この利益を江戸詰めの藩士の財源にあてることも提言した。
 林子平の思想は、荻生徂徠の弟子で経世学を発展させて、武士もまた商売に精を出さねば生きていけない時代にあることを指摘して、藩直営で特産物の生産販売を提言した太宰春台の思想を受け継いだものであった。
 そしてこのような経世学の継承と諸国遊歴によって得た海外情報も含む新知識に基づいて、日本近国の朝鮮・琉球・蝦夷地や小笠原諸島の地理・風俗・物産などを紹介し、豊かな資源に恵まれた蝦夷地を日本の領土とすべきことを述べたのが主著「三国通覧」であり、日本の国のあり方、特に国防のあり方をを変えることを提言したのが、彼の主著「海国兵談」であったのだ。

A和算・天文学の知識に蘭学による西洋事情をあわせて「もう一つの日本」を示した本多利明

 本多利明(1743−1820)の主な経世学的作品は、寛政年間(1789‐1801)に書かれた「経世秘策」(1798寛政10年成立)と「西域物語」 (1798寛政10年執筆開始)である。

(a)封建制を排して統一国家の下に、殖産興業政策を推進すべきことを説いた「経世秘策」「西域物語」
 「経世秘策」は、ロシアの南下に危機感を持った利明が著した書で、開国通商・蝦夷地開発を説いた書として知られる。
 山本七平著「江戸時代の先覚者」によれば、利明は「経世秘策」において、日本国はその地理的な位置が赤道以北緯32度より42度の間にあって、寒暑ほどよく人民が住みやすく、釈迦がいう大極楽国ともいうべき国土なりと、西洋地理学の知識に基づいて、日本は本来豊かな国になるべき国だと規定する。しかし今日の日本は天明の大飢饉などに見られるように、民は貧しく飢え、武士も生活が困窮しているが、この理由は、日本の政治を行う人々が、世界の土地や気候・人情・国産に通じておらず、それにあった政策を実行していない故だとして、日本は今日ただ今緊急に行うべき四つの急務があるとして、具体的な政策を示している。
 その政策とは、第一・焔硝、第二・諸金、第三船舶、第四・属国の開業である。
 第一・焔硝とは、火薬の利用によって国内の開発を進めることであり、これをしないと日本は乱れてしまうと彼は見ていた。
 具体的には、彼は、鉄砲大砲に利用されている火薬を工事用ダイナマイトとして使用し、諸国の道路や水運や水路拡大の妨げになる岩石を打ち砕き、これによって国土を開発して産業を盛んにすることだと彼は述べる。そしてこうすることで港や水路・道路を建設して物流を盛んにするとともに、未使用のままに放置されている土地を農地として活用していけば、国は豊かになると説いているのだ。だから彼は、民に進んで火薬の原料になる硝石を採取することを奨励し、火薬を増産せよと説き、これが今日第一の急務であるとする。
 第二・諸金とは、貿易と貨幣の問題である。
 日本は金銀銅をもって外国から多くの消費物資を輸入しているのだが、このままではいずれは鉱山は枯渇して日本は貨幣に使用する金銀銅すら不足する事態に立ち至ると利明は警告する。そして貨幣は社会が必要とする量だけ通用させ多すぎても少なすぎても問題を生ずるものであるか ら、諸色の値段を常に勘案してその量を調整せよと説く。いわば管理通貨制度を彼は提唱するのだが、そのためには諸国の鉱山開発を活発にして金銀銅を常に供給せねばならず、その一方では、諸国の産業を活発にして、その特産物を外国に輸出して、外国に流出する金銀を取り戻すことが涵養であると、積極的な貿易振興を説いた。
 また第三の船舶は、こうした積極的な貿易を振興するためには外洋を航海出来る船舶が重要となり、その建造技術と操船技術が大事となるとして、西洋の造船技術と操船技術を積極的に学ぶべきことを利明は提言する。彼は述べる。「海運は国君の天職なり」と。海上運送と交易こそ国を富ます基本だというのだ。
 以上のように利明の提言は、積極的な国土開発と殖産興業政策を基本として、外国とも広く交易を行い、国の富を増やすべきとしているのであり、この意味で諸藩や幕府が従来取ってきた農業生産を基本とした政策に対する根本的 な批判となっているのだ。
   最後に彼がいう四大急務の第四・属国の開業とは何であろうか。
 それは、日本周辺の島々、とりわけ蝦夷地やカラフトを開拓して豊かな土地にすることであり、そうすることで、これらの地にある地下資源や産物は日本を潤すに十分であり、長崎を通じて外国に売り出すことによって得られる利益も莫大であると利明は強調する。そして先ず船にてこれらの地に渡って、土地の大きさ広さを測量し、その自然風土や産物を調査し、そこに先住民があれば彼らの生活状況を調べ、もしかれらがまだ農業を知らないようならそれを教え、彼らをもこの地の開拓に従事せしめよと述べる。さらに彼は、これらの地は近年カムチャッカから南下したロシアの勢力下に次第に置かれ、住民もロシアになついているという。これを放置しておくことは国家にとって甚大な損害を成すので、これらの地をロシアから奪い返すことは、今日ただいまの急務であると強調する。
 本多利明は、ロシアが南下して開国要求をなすという時代において、日本も自ら積極的に国土を開発し産業を育成し、それによって増大した産物を外国との間で積極的に交易して利益をあげ、貿易を通じて流出する金銀の量を減らし、社会が必要とする量の貨幣を作れば、物価も安定して庶民や武士の暮らしも良くなると述べていたわけだ。この意味で利明の論は、先にみた林子平の殖産興業論と同質のものであり、それをもっと拡大して、子平がロシアの南下に備えて海防を充実せよと主張したことに対して、防備のためだけではなく蝦夷地やカラフトを開発して日本国の富を増やして西洋に対抗する力を蓄えよと主張したものであった。
 以上が利明の著「経世秘策」の概要である。
 ではなぜこのような批判を彼が行ったのか。
 この点については「経世秘策」はあまり語っていないようである。
 「経世秘策」は国を富ますための緊急提言という性格を持った書物であるが、その背景となった考え方はわずかに、なぜこの四大急務のような政策が日本で取られてこなかったのかを述べた個所で、「日本は古来シナの風俗に倣う癖があって、為政者たちも天文算数に通じた者が少ないゆえ、たとえば蝦夷の地などを開拓しようとする動きなどがあってもそれを継続しないのは、日本よりもはるかに良い自然条件を持ち大国である中国の先例に倣うことばかりして、中国とは違い国土も狭い日本を如何に富ますかを考えてこなかったからだ」と、日本人が長く中国文明の影響から自立してこなかったことを挙げるのみである。
 この点で利明の論は、この時代の学問が、儒学における荻生徂徠派の出現やその方法論を受け継いで日本の古典に取り組んだ本居宣長の国学派が生まれたことに見られるように、次第に中国の儒学の影響を脱して、日本独自の学問を生み出しつつある情況を背景として生まれたことをしめしているが、その上で彼が大いに影響を受けた蘭学の知識を元にした西洋認識や当時の日本をどのように認識していたかについては、ほとんど述べてはいない。
 ここを直接的に詳しく述べたのが「西域物語」である。
 実は二つの書の性格は異なるものである。
 「経世秘策」は出版されて流布されたものだが、「西域物語」は出版されず、写本で関心ある人の間で流布した書物である。そして一方の「西域物語」は、その「経世秘策」で述べられた提言の背景となった利明の考え方を述べた書であり、彼の提言の背景となっている西洋認識や日本の現状認識を詳しく述べ、かの国が如何に日本よりも発展した国々であるかを述べ、これにならって国のありかたを変えないといけないと述べたものであった。
 「西域物語」は上・中・下の三巻からなる書である。
 その上巻で利明は、日本は古来中国の書籍を大量に輸入してそれを学んで国を建てたゆえ、中国の学者を聖人として、その聖人の教え・道を実現するのが政治の正しいあり方だとしてきたと日本の学問・政治の歴史を概観する。しかし残念ながら聖人の道を探求する学問は、ただ昔の書物をたくさん読みその書物をどう解釈するかだけを競って論じ、実際を見ようともしない傾向が強い。これではだめであるとして、西洋の学問は窮理学といい、天地の実際を明らかにする実学であり、それに依拠すべきことをまず論じる。その上で西洋がどのような歴史を辿ってきたのかを詳しくのべ、西洋が中国や日本とは異なり、諸侯に土地を与えて統治させる封建の国ではなく、商業を旨として大海を往来できる大船をたくさん作り、それを操る術にたけて世界を雄飛してきた国であること示す。そして最後に、日本は中国とはことなり海に囲まれた国なのであるから、同じく海に囲まれた国である西洋と同様に商業を旨として世界に雄飛しなければならないと説いた。すなわち当時支配的な学問であった儒学を排斥し、西洋の学に学び国を世界に開けと主張したのであった。
 次の中巻において利明は、以前に天明の大飢饉のおりに奥州を旅して見聞きした悲惨な情況に触れ、日本が航海の術と国を開拓する術に長けていないからこういう悲惨なことが起こると述べ、かつて江戸の始めに日本の船が遠く海外に雄飛していたように今また外国と積極的に交易を広げると共に、国内の産業を盛んにするとともに、北方の蝦夷地やカラフトを開拓してかの地に大城郭を築けば、国産も豊かになり国力も大きくなる。そしてこの力を背景としてさらに北進しロシアからカムチャッカを取り上げてここに遷都し、ここにも大城郭を築いて国産を盛んにして外国とも交易すれば、自然と周辺諸国も日本の国威に従うようになるので、ロシアの侵略など恐れなくてもよくなると述べている。
 そして最後に利明は下巻において、彼特有の人口論を述べ、なぜ国産の開発や外国との積極的な交易が必要なのかを述べる。
 彼にとっては、天明の大飢饉などの悲惨な事態を招いた背景には、良い環境の下では人口は急激に増えるものであり、それに見合って開墾を行い農地を広げるなどの産業政策を行わないと、逆に百姓から富を必要以上に武家が奪い取ってしまうことで耕作地の放棄を生み出し、それがかえって飢えを生み出してさらなる国土を荒廃させてしまうという、人口論的認識があったからである。利明は得意の数学を使って計算し、人口は33年のうちに19.75倍という驚くべき高率で増加するものだと提起する。しかしこれに見合った国土開発を行わないで百姓からの収奪だけ増やそうとするから、天明の大飢饉に見られるような悲惨 な事態を招き、百姓や町人の一揆・打ちこわしの続発という「革命的」騒乱が生み出されたのだと彼は言うのだ。
 その上で利明は、国土の開発と産業の育成、そして積極的な交易によって国を興した例としてオランダの場合を詳しく説明し、日本も中国に倣うのではなく、こうした西洋に倣って国を興す必要があると述べて、この書を終っている。
 以上、本多利明の論を、彼の代表的な著作によって詳しく見てきた。
 しかしその論を詳しく読むと、彼はむしろ日本が封建の世にあり、諸藩が分立して統一されていないことに危機感を持っており、またその諸藩や幕府の政策が、農業を中心とした産業政策である故に、急速に増大する人口を養うに足るだけの産業を育成していないことに問題を見つけ、科学技術に依拠して国土を開発し、より工業に立脚した国へと改造すべきとの認識を持っていたものと思われる。しかしこれは当時の幕府の政策とも相容れない構想であるがゆえに、その著書においてはこの政策を属国である蝦夷地に置き換え、そこを統一政府の下で開発すべきという形で立論したもののよう にも思われる。
 本多利明の論の射程は、単に国土開発によって国産を豊かにし、外国とそれを交易して金銀の流出を防ぐという当面の緊急対策に留まらず、さらに進んで日本の統一国家化と統一政府による殖産興業・外国との貿易を進めよという、後の明治維新とも同質の国家構想を持っていたものであろうか。

(b)数学・天文学を基礎にして蘭学の成果を吸収した異色の経歴−本多利明の学問の系譜
 では本多利明とはどのような経歴を持ちどのような活動をした人物であったのだろうか。
 本多利明の経歴には不明な点が多い。
 彼は1743(寛保3)年に元加賀藩の浪人本多伊兵衛を父として、越後の国の蒲原郡の農村に生まれたと自ら語っている。そして生来数学を好み、18歳のころに江戸に出て今井兼庭に関流算学を、千葉歳胤に天文暦学を学んで、1766(明和3)年24歳で、江戸・音羽で算学・天文の塾を開き、音羽先生と呼ばれたということぐらいしかわかってはいない。
 しかし彼は当時においてはかなり有名な人であったようで、関流算学の正統な継承者として目され、さらに広く蘭学者とも交流があったようで深く西洋事情に通じた人物と目されており、田沼意次が老中であった時代の末年に、蝦夷地開拓の事業を始めることとなったおりには、西洋事情を深く知り蝦夷地のことも深く知った人物として幕府から召抱えられることとなったが、利明は老齢を理由に断り、自身の代わりに門人の最上徳内を推薦した。このため徳内が幕府に召抱えられ、1785(天明5)年に蝦夷地調査隊に竿取りとして加わり、同年クナシリ島に渡航、さらに翌年にはエトロフ・クルップ島までわたり、彼の探検家としての生涯を始めたことはよく知られている。
 本多利明がどのような経路で蘭学の知識を得たのかは不明であるが、利明の門人である最上徳内は同時に蘭学者前野良沢の門人でもあり、良沢の門人でもある蘭学者大槻玄沢の書に利明の言が引用されていたりしているので、この当代屈指の蘭学者と交流があったことはたしかであろう。また利明が著書の中で取り上げている蘭書は、蘭学者山村才助がその著書の中で利用している本でもあるので、この人物との交流があったものと思われる。さらに利明の著書の中に、蘭学者桂川甫周とロシアの人との間に手紙のやりとりがあったことが詳しく書かれていることなどから、桂川家との交流もあったものと思われる。
 ただ彼のオランダ語の力量は初歩的なものに留まり、彼が蘭書から翻訳したと伝えられる航海術の本などは数表と図表を主なものとしているので、彼の数学的知識を元にして、その数表や図表の内容を理解できる程度の語学力だったのではと推定され、主に彼が参考にしたのは、漢訳洋書に示された西洋の知識と、交友のあった蘭学者からの耳学問であったろう。
 また彼が示した国土開発や産業開発の様子は、儒学の中の経世学派が主張したことときわめてよく似ている。
 彼が荻生徂徠・太宰春台に始まる経世学派の学統につらなる証拠はないが、彼の著書の一つである「経済放言」(1801・享和元年)の一節に、経済に長じて世の称賛を受けた学者としては熊沢蕃山と荻生徂徠の二人以外にはなく、残念ながら彼らもまた算数に暗らく日本一国の中で経済を考えていることの限界を批判していることから、蕃山や徂徠という、儒学の聖典の語句に囚われずに、孔子や孟子の方法論を参考にして現代を分析しようとしてきた実学派・経世学派の書を広く学んでいたことは想像できる。
 そしてこれは荻生徂徠以後の儒学においては、朱子学派においても、これらの実学的経世学派的物の見方は常識になっていた情況から考える時、本多利明もまた江戸時代においてあらゆる科学の基礎となっていた儒学を学ぶ過程で、これらの実学的経世学派的な著書や学者と出会っていたことは間違いない。
 また本多利明は、1795(寛政7)年には備後福山藩に招かれて藩の実情を調査して「西薇事情」という一書を著し、備後表や和紙などの特産物を藩が奨励して増産し、これを藩が買い上げて日本中に売りさばけば藩財政は立て直されると提言していたり、1809(文化6)年には加賀藩にも招請されて藩財政の建て直しを諮問されてもいることから、彼は同時代の人からは経世家と見られていたことも事実である。そして彼はこの少し前の1792(寛政4)年には老中松平定信に対して「蝦夷開発の上書」を出してもいることから、幕府や諸藩からも経世家として認められていたのであった。
 殖産興業と開国を積極的に提言していた数学者本多利明もまた、経世学や国学や蘭学の勃興など、この時代に進行していた日本における自立した学問の発展を基盤にして活動した人物であったのだ。

B開国思想の基盤としての経世学の発展

 以上のように「開国思想」を代表するとされた二人の思想家の思想の内容とその形成過程を見るとき、両者の思想的背景として、最新の科学としての蘭学の知識と共に、それを理解する基盤としての「経世学派」の思想があることが見て取れよう。
 「開国思想」の検討の最後に、この「経世学派」の形成とその発展過程について簡単に見ておこう。

(a)「古典」の思想を現在に適用し「経世済民」の学を確立しようとした荻生徂徠
 近世編2の【25】において詳しく見たように、荻生徂徠(1666‐1728)の学問は、儒学の古典を後世の解釈を退けて、それが書かれた時代に即して理解し、その古典を書いた人の物の見方や方法論を見出し、それをもって現代を分析して統治の学としての儒学を確立しようとするものであった。しかし徂徠は貨幣経済が社会の全体を覆い、武士といえども貨幣なくして暮らしてはいけない現実をしかと見定めてはいたが、政治への実際的な提言としては、かつてまだ貨幣経済が部分的であったよう な時代に戻るために、いかに武士は質素倹約し、年貢も出来るだけ現物納入にして、貨幣がなくても暮らせるようにするべきだとする、極めて復古的な色彩を帯びたものであった。
 この徂徠の経世の学の復古的側面をよく示していたのが、武士の土着論である。
 徂徠は武士が多すぎる現実を踏まえ、彼らを農地に土着させ、半農半武士の昔の姿に戻すことによって、武士に支払う俸禄の重さに耐えかねた財政を立て直すことと、都市生活者となって華美な暮らしに慣れ親しみ、尚武の気風を失った武士の性根を叩き直すことを提言していた。しかしこれはあまりに時代を無視したものであったので、一部の狂信的に徂徠に私淑した人々がその藩で実施したに留まり、実際に実施した場合にも、かえって農村に混乱を持ち込み、後に政策としては撤回される運命にあった。
 だが徂徠は、現実に拡大する貨幣経済の姿を、きちんとつかんでいた。
 このことを示すのが、徂徠の貨幣論であった。
 彼はその著書「政談」の中で、「世の中の景気を良くする」方法として、「銅銭を鋳造するのがもっとも良い方法」だと述べている。これは8代吉宗の治世になって、従来元禄時代から流通していた、かつての金銀貨幣の金銀含有量をもとの半分に落とした悪貨を、本の含有量の良貨に戻したために、流通する金銀貨幣の量が半分になったために、世間の購買量が半分になり、流通手段としての金銀貨幣が手に入らないために、世間が不景気になったことを批判したものである。
 当時は、幕府が商品を購入する時には金貨で行うのだが、江戸を中心とした経済は未発達であったため、幕府は大坂などの西国から商品を取り寄せなければならなかった。ところが西国の通貨は銀貨であったので、この銀貨と金貨の交換比率が問題となり、しばしば金貨はそれを主とする東国が西国よりも経済力が劣っているために、銀貨に比べて価値が低く、 そのため江戸を中心とする東国の物価が高く、同じ量の金貨でも購入できる商品が少なくなるという悩みを抱えていた。その上、経済の規模が拡大し流通する商品の量が拡大したのに、それに日常的に対応する貨幣である銅貨は江戸初期以来鋳造していなかったので、銅貨の価値が高くなって世間は困っていた。
 ここを解決するために、元禄時代に幕府は金銀貨幣の金銀含有量を減らして貨幣の量を増やして購買力を増やそうとしたり、しばしば金貨と銀貨の交換比率に介入し、銀貨の価値を落として金貨の価値を上げようとしたが、流通過程を握っている大坂商人の抵抗にあって、含有量を減らされた貨幣は悪貨として嫌われたりして、これは頓挫していた。
 徂徠は言う。
 金銀貨幣の価値は、それが交換される銅銭の量によって決まると。したがって現在一両の金貨が銅銭4貫文(1文の銅銭4000枚)と交換されるのが相場であるが、それを一両7貫文か8貫文になるように銅銭を大量に鋳造すれば、一両の金貨の価値は倍になるのだから、その流通量が半分に減っても、それによって通用する価値は今までと同じであり、経済を混乱に陥れることはないと。だから金銀の価値を高くするためにその金銀含有量を昔の比率に戻すのであれば、昔以上に発展した経済の規模に対応するためには、銅銭を大量に鋳造し、世間に流通する商品の価値に対応した量の貨幣を供給するようにしなければならないというわけである。
 このように徂徠は、貨幣の価値はその金銀としての価値にあるとする従来の理解とは異なり、貨幣の価値はそれと交換できる商品の価値の量で決まるという、極めて近代的な、交換手段としての貨幣の性格をつかんでいた思想家でもあったのだ。
 この徂徠の提言は、彼の死後、実際に実施されることとなる。
 それは、1736(元文元)年元文金銀新鋳に併せて大量に銅銭が発行されたことである。そしてこの大量の銅銭発行によって、銭高の傾向は収まり、一両=銀60匁=銭4貫文の公定の通貨交換比率に、ほぼ収まって経済の混乱は収まったのである。
 こうした古典の解釈に囚われずに、現実を直視するところから経世の学を確立しようとする徂徠の姿勢が、彼の弟子たちの中から、より貨幣経済に依拠した政策を是とする学派を生み出すこととなる。
 これが徂徠の弟子、太宰春台(1680‐1747)を始祖とする経世学派である。

(b)「重商主義」に立脚して「経世学」を発展させた太宰春台
 太宰春台は、1680(延宝)年に、飯田藩士である太宰言辰の次男として信州飯田に生まれた。父は織田信長の養育係りであった平手政秀の子孫で、1679(延宝7)年に飯田藩堀氏に召されて飯田に移り、200石の禄を食み鉄砲組頭を務めた。また武芸百般にも秀でていたので藩の武術師範でもあった。しかし1687(貞享4)年秋、春台が8歳のとき、父は藩からお役御免を言い渡され、一家は翌1688(元禄元)年、再び江戸に戻り浪人暮らしとなった。
 春台は15歳で出石藩に小姓として出仕していたが、1796(元禄9)年17歳の時に江戸の朱子学者中野ヒ謙に入門し、ここから本格的に学問の道に入った。後に1700(元禄13)年に出石藩を勝手に辞めた春台は藩から10年間の禁固(他藩への出仕禁止)の刑を受け、以後京都に移り、医者を生業としながら伊藤仁斎に教えを受け、ようやく禁固の刑が解けた1710(正徳元)年に江戸に戻った。そして中野ヒ謙門下の友人安藤東野の仲介でかねてから私淑していた荻生徂徠と対面して入門、時に春台32歳、徂徠46歳の時である。
 この意味で、太宰春台は荻生徂徠の晩年の弟子であったが、この時すでに一角の儒者となっており、その才能と学識の深さで師の徂徠も一目置いた存在であったという。以後春台は一時期4年ほど上総の小藩に出仕したこともあったが、以後は浪人生活に入り、学者として師の補佐をしたり、自身の教説を深めたりして1747(延享4)年に68歳で江戸に死去した。
 太宰春台は、師の荻生徂徠の学問の方法を深め、徂徠が儒学の古典から離れて古典の方法論を持って現代を分析しようとした傾向をさらに発展し、とりわけ進展しつつある貨幣経済の実相をつかんで、武士もまた貨幣を得る努力をしなければ暮らしも成り立たないことを積極的に説いた所に、彼の歴史的位置はある。
 春台はその晩年の著作「経済禄拾遺」(1744・延享元年)で次のように述べている。
 「(今の世は)小民の貧しい者だけではなく、士大夫以上諸侯国君もみんな、米穀布巾があっても金銀が乏しければ生活できないのは同様である。だから今の世は、禄のある士大夫も国君もみんな商人のようにもっぱら金銀で万事用を足すので、なんとしても金銀を手に入れるはかりごとをなさねばならぬ」と。そして「金銀を手に入れる術は、売買より近きことはなし」と春台は述べて、昔から売買によって財をなした諸侯があることを幾つも例を挙げて、諸侯も国の産業を盛んにして、それを売ることで金銀を手に入れることが肝要だと説いたのだ(現代語訳は、武部善人著「太宰春台」による)。
 この時春台があげた藩による貿易の実例は6つ。対馬藩2万石が朝鮮人参などの朝鮮からの産物の売買を独占して20万石相当の利益を上げたこと、松前藩7千石は蝦夷地の産物の売買を独占して5万石相当の収入を上げていること、石見津和野藩4万石は板紙製造を奨励してそれを専売し15万石相当の利益を挙げていること、同じく石見浜田藩5万石も板紙製造を奨励してそれを専売し10万石以上の利益を得ていること、薩摩藩77万石は大藩だが琉球から得る商品の売買を専売して巨万の富を得ていること、さらに紀州藩家老の新宮水野氏3万石は熊野の山海の産物を専売して10万石相当の富を得ていること、以上6例である。
 そして春台は、対馬・松前・薩摩は外国の産物を専売して利益を得ているので他とは比べられないが、他の諸侯は、国の特産物生産を奨励してそれを藩が専売して利益を上げているのであり、どの諸侯の国にも、国の特産物はあるのだから、その生産を諸侯が奨励し、その産物を全て諸侯が買い上げて江戸や大坂に持ち出し、その産物の時価が高いときを見計らって売り払えば、百姓が個々に商品を持ち出して売るよりも利益は多いはずと説く。だから諸藩は、藩の商人の中で優秀な商人を選んで江戸大坂に送って藩の蔵屋敷に住まわせ、蔵元として江戸大坂の商人と売買させ、藩士の中の有能なものをその監察の任に当たらせよと説く。
 このように太宰春台は、すでに貨幣経済が進展する中で、国の特産物生産を奨励して生産を増やし、その販売を藩が一手に握って利益を挙げている実例に依拠し、こうした殖産興業政策の実施と藩専売制の実施が、諸侯が金銀を得る最上策だと説いたのであった。
 その上で春台はこのことを、「今、幕府も長崎において、外国船の貨物を買い取って国内に売り出しているが、これはまさしく商人の所業である。諸侯がその国の産物を他国(藩)に売買するに何の遠慮があろうかと」述べ、幕府もやっていることであり、時代はすでに貨幣を手に入れなくては武士も暮らしていけない世の中なのだから、諸藩も大手を振って商売に精励すべしと説いたのであった。

(c)経世学に依拠した藩政改革−グローバリズムに対応した政治の必要性−
 先に見たように春台自身は、重商主義的経済政策を説いても、藩に仕えることはなかった。
 だが彼の門下から育った多くの学者たちが諸藩に召抱えられたり、その門下生となった諸藩の武士たちが自藩に戻って、太宰春台の提言に沿って藩政改革をすることにより、江戸後期、特に文化文政・天保の時代においては、藩が商売することは当たり前の世の中になって行 った。やがて幕府の利益も顧みず、自藩の利益だけを考える諸藩の行動が、幕府の金蔵でもある大坂の商業的地位の低下にもつながり、幕府が諸藩の藩専売制の禁止を天保の改革で図ろうとし、幕府と諸藩との対立の深い根となったのである。
 このことはすでに【32】天保の改革と【33】雄藩の改革で見たところである。
 近世江戸時代はすでに、世界的に発展した商業の波、今流に言えばグローバリズムの波に日本も組み込まれていた。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と江戸幕府へと続く日本の国家統一 への動き自身が、そのグローバリズムの波に乗ってアジアに植民地を獲得しようとする西洋列強の動きに対応したものであったことはすでに近世編1で詳しく見たところである。
 そして国家統一を成し遂げた幕府自身は、諸大名の独立性を奪い統一国家を安定させ、特に明王朝の滅亡以後の東アジアの動乱に日本が巻き込まれないために、外国との貿易を国家管理し独占したが、すでにグローバリズムの中に組み込まれた日本での商工業の発展の波を抑えることはできなかったのである。従って諸大名の参勤交代や年貢の江戸や大坂への搬送のために整備された陸上交通路や海上交通路の整備自体も、日本における商工業の発展を促進し、ついに大名といえども貨幣を手に入れないと暮らしていけない世の中が生み出されたのだ。これが近世江戸時代であった。
 この時代の流れの中で、諸藩も諸国の特産物の売買に藩財政の基盤を次第に置くようになり、このことがしかたのない方便からやがて藩のありうべきあり方と認定されることを通じて、藩を越えた貿易の不可避性が多くの人に認識されるようになっていった。荻生徂徠・太宰春台に始まる経世学派の誕生は、このような時代の流れに対応していたのである。
 だからこそ、直接この学派に属して学問をした人だけではなく、時代を直視し、今後の日本の行く末を見つめようとした人々にとっては、藩が藩を越えて貿易をすること、そして日本が外国と貿易すること自体もまた、当たり前のことと認識されるようになり、この認識に19世紀初頭以来の再度の西洋列強のアジア進出に対応せざるを得なくなる中で、日本もまた積極的に国を開き、外国の文物を取り入れてそれに対抗するべきとの開国論が生まれてくるのも当然であったのだ。

(d)封建的な身分制すら乗り越えようとした経世学者・海保青陵
 開国論の基盤となった経世学派の動きを検討する項の最後に、林子平や本多利明のほぼ同世代で、18世紀末から19世紀初頭にかけて活躍した経世学者海保青陵の存在を確認して、この項を終ることとしよう。
 海保青陵(1755‐1817)は、丹後宮津藩家老角田市左衛門の子で、江戸で荻生徂徠の弟子の宇佐美灊水(しんすい)(1710‐76)の弟子でもあった父からとその宇佐美 灊水から直接教えを受け、徂徠直伝の儒学の古典を後世の解釈に依拠しないでそのまま読み、古典の方法論で現実社会を見る方法を体得した経世学者である。また彼は16・17歳のころ幕府医官である桂川家に寄宿したお陰で 、後にその当主となる一歳年長の桂川甫周から蘭学の知識も多数得て、時代の先端を行く学者となった。
 彼は師匠の方法論を元に、太宰春台の言説をさらに発展させ、自身が諸国を遊歴した経験にも基づいて、気候や風土の違う諸国にはそれぞれ土地の特有の物産があるのだから、その生産を奨励して藩がその販売を独占して利益を挙げることは当然であるとした。またさらに、儒者が古典の字句にのみこだわり、それを先例として現実政治に適用するだけであることをするどく批判し、政治家は儒者であってはならず、現実を見よと説いた人物でも あった。
 したがって彼の経世学派的認識に基づいた人間観は出色である。
 海保青陵は武士の君臣間の秩序や、武士身分そのものをも、極めて現実的に合理的に捉えている。
 その著書「稽古談」で彼は言う。
 「古より君臣は取引なりという。君は臣を買い、臣は君へ売りて、売り買いなり。」「卿・太夫・士は己が知力を君へ売りて、その日雇賃銭にて喰らうている人なり。雲助が一里かつぎて一里だけの賃をとりて、餅を得、酒を得るに何も違いはなし。」「天下は天下というしろものを持ちたる豪家なり。諸侯は国というしろものを持ちたる豪家なり。このしろものを民へかしつけて、その利息を喰ろうておる人なり。」と。
 そしてさらに他の著書「洪範談」や「善中談」の中で、封建的身分制の不合理に言及する。
 「天理でいうてみれば、第一の知恵者が第一の位にいねが合わぬなり」「今の士は智を嫌いて上へ引き上げず、下へわたして惜しまぬゆえに、智民が愚士を自由字際に欺く。愚士智民を使うは逆なり」と。
 ここにはすでに封建的身分関係など実質的に崩壊して、すでに貨幣経済に依拠した新たな人間関係が実在していることを喝破した鋭い知見が見えている。貨幣経済の進展に依拠した経世学派の発展はその中に、すでに資本主義的 経済関係・人間関係が封建社会の内部に侵食して、それを新しい世の中に変えることを必然とする思想すら内包していたのだ。ここにも明治維新を準備した新しい思想が生まれていたのである。

(3)尊王攘夷思想の形成とその背景

 では幕末明治維新期の社会政治運動を推進したもう一方の思想である尊皇攘夷思想の側は、いかにして形成され、いかなる背景を持っていたのだろうか。この点については教科書の記述に沿い、尊皇攘夷思想を藩是として幕末政局を一時期リードした水戸藩の場合と、その歴史叙述によって幕末から明治の人々の歴史観に大きな影響を与えた 学者・詩人の頼山陽と彼の著書「日本外史」の場合とに分けて論じておこう。

@尊王攘夷思想を藩是とした水戸藩の場合

 会沢正志斎の思想は、水戸藩という特殊な藩と9代藩主徳川斉昭による天保改革と不可分のものであり、これから独立しては論じることのできないものである。
 水戸藩は幕末において、尊王攘夷思想を藩是として掲げた極めて特殊な藩であり、その思想と行動は、幕末の人々に大きな影響を与え、幕末政局を左右する一大勢力であった。
 そしてこのことは、この藩の成立以来の特殊性に根ざしたことであった。
 この藩の特殊性についてはすでに、【33】雄藩の改革の章の(3)自立を強める諸藩の項の水戸藩の項で詳しく述べておいたが、少し観点を変えて再論しておこう。

(a)水戸藩の特殊性
 水戸藩は、徳川将軍家の家門大名で、初代将軍家康の第11子徳川頼房(1603ー61)が藩祖であり、1609(慶長14)年に江戸の北東を北の巨大勢力である仙台藩伊達氏から守るために設けられた藩である。そのため、この任務を帯びていたために藩主以下の主だった家臣は江戸在府を義務付けられ、いざという場合には、幕府を守る捨石ともなるべく作られた特殊な藩であった。
 そしてこの藩の性格が最もよく示されたのが、2代藩主光圀(1628-1700)の思想と行動、そして後の「大日本史」編纂に繋がる国史編纂事業の推進と、幕末に9代藩主となった斉昭(1800-60)による藩政改革と尊王攘夷思想を藩是として掲げた藩校・弘道館の設立であった。
 2代藩主光圀の歴史観はかなり特殊であり、彼にとっては祖父家康による幕府創世は、戦国乱世の中で皇室の権威も地に落ち日本が西洋に侵略されかねない中で起きた歴史の一時期の特殊な出来事であり、これは神国日本のあり方を守るための一時の方便であったという意味すら含む、当時としても極めて革新的なものであった。だから彼は毎年朝廷からの勅使が江戸に来て年賀の拝礼をする際に、将軍家を始め他の徳川家門大名は勅使を我屋敷に呼ぶのに対して、光圀はわざわざ勅使の宿所に足を運んで年賀の拝礼を行ったり、年頭にあたっては遠く西の皇居を拝礼するなど、極めて勤皇的行動に満ちた人物だったのだ。
 この表れが、後に「大日本史」と命名される中国の国史に倣った形式の天皇家の歴史としての日本史書を藩独自に編纂する動きとなり、これと平行して古来の朝廷の儀式を詳細に復元する「礼儀類纂」の編纂となったのである。そしてこの動きの中で古来の日本のありさまを資料に従って復元しようという取り組みが強化され、その一環として契沖に和歌を通じた古来の日本のありさまの復元が依頼され、後の国学を生むこととなった。
 ただこの光圀の行動は決して特殊なものではなく、彼の生きた時代が中国では明王朝が滅亡して清王朝が成立する動乱の時代であり、これと平行してキリスト教を前面に掲げてアジアの植民地化と東方貿易の独占を図る西洋諸国の進出という危機の時代に際して、キリスト教に対抗して日本の独立を図るための国の統治のあり方とその思想を模索する動きは全般化していた時代であることに鑑みて、常識的な範囲のものであったと思われる。
 事実彼は9代藩主斉昭がしたように、尊王主義を掲げた藩校を設立はしなかったのであり、彼が設けたのは日本国史を編纂する彰考館のみであった。
 また彼の修史観も穏当であり、時代の主たる流れであった事実に基づく客観的科学的な態度であったことは、近世編2の【25】の(2)で見た通りである。
 幕末期において水戸藩が突出した位置を占めるに至ったのは、1829(文政12)年に9代藩主についた斉昭の登場と、翌年1830(天保元)年から始まる天保改革によってであった。
 この水戸藩の天保改革については【33】で詳しく展開したの再論しないが、水戸藩の内外を取巻く情勢の窮迫によって、斉昭が掲げた藩政改革の理念は、極めて急進的な尊王攘夷主義を掲げるものであった。
 すなわち水戸藩の藩域は首都江戸郊外であったために商品経済が極めて発達していて江戸の大商人による流通支配がすすんでいるため、他藩が財政健全化のためにやったような藩による特産物の専売制を取ることができず、百姓からの年貢増徴と藩士に対する緊縮財政と藩士の負債を帳消しにする棄捐令の実施という、百姓と商人の犠牲の下で藩の利益を挙げる 強権的な政策にならざるを得なかった。このため藩政改革を実施するためにも、民と武士も含めた藩論の統一が不可欠であり、この内部の矛盾が外からの外国の侵略の危機に対抗するという問題意識と連なって、藩自体を世界創世の神以後天皇によって形作られた神国日本としての国体を守るために、その教えである神道を国の教学として人心を統一して危機に対処するという、極めて過激な尊王攘夷主義となったのである。
 そしてこのことを象徴する出来事が、1841(天保12)年の国体護持を正面に掲げた藩校・弘道館の設立であった。
 「つくる会」教科書が掲げた会沢正志斎の著書「新論」は、この弘道館設立趣意書である「弘道館記」の背骨を成した思想書であった。

b)尊王攘夷の思想家・会沢正志斎 
 「つくる会」教科書がその代表的思想家としてあげた会沢正志斎(1782-1863)は水戸藩士で、9代藩主斉昭の下での藩政改革を推進した奉行クラスの武士であり、藩校の教授としても活躍した学者・思想家であった。
 彼は身分の低い下士の出であったが、1807(文化4)年25歳の時に、藩主の次男に生まれ部屋住みであった後の斉昭の側にいて漢籍などを教える役について信任を得、8代藩主斉修の死去の前後には徳川御三家清水家から養子を迎えようとする家老らの動きに抗して、藤田東湖 (1806-55)らとともに藩主弟である斉昭を擁立すべく奔走。そして斉昭が藩主に就任するとともに、藩政改革の実務を担う郡奉行を皮切りに藩主側近を勤め、斉昭による藩政改革を支える重鎮となった人物であった。
 しかし彼は頑固な尊王派であるとともに頑固な幕政擁護派でもあったので、後に水戸藩が幕府と朝廷の間に挟まれて身動きが取れなくなった際には、開国政策をひた走る幕府を批判する派を抑え、さらには幕府の開国政策を批判しそれを覆す勅命が水戸藩に降りるに際しては、それの幕府への返納を唱えたり、15代将軍となった徳川慶喜に開国やむなしを提言し、あくまでも尊王攘夷を掲げ幕府を批判する藩内激派を抑えるなど、幕政維持に努めた人物でもあった。
 彼の代表作「新論」は、1824(文政7)年イギリス人の水戸領大津浜上陸事件で筆談役を勤めた体験からの危機意識を直接の契機として書かれ、翌1825(文政8)年に幕府が従来の法令を改めて異国船打払い令を布告したことに歓喜して、藩主斉昭に上程すべく書き下ろされたものである。したがってこの書は刊行されることはなく、人から人へと転写されて流布し、後期水戸学を代表する尊王攘夷の書として全国に広がって 、藤田東湖が水戸天保改革の顛末とその思想を記した「回天詩史」とともに、多くの藩校で教科書として利用されたりしたため、1857(安政4)年に改めて刊行されたものである。

(c)国体護持を掲げた「弘道館記」
 しかし水戸藩の尊皇攘夷思想を語るには、会沢正志斎の新論はあまりに回りくどいので、この思想の概要は、新論に基づいて藤田東湖によって起草された「弘道館記」とその藤田自身による解説である「弘道館記 述義」によって見たほうが分り易いであろう。それに補足して、時代状況の把握や論の前提となる認識は、「新論」のほうが詳しいので、それは後に見ることとしたい。
 まず「弘道館記」は短いので原文の現代語訳を以下にあげて、その後ろに簡単な解説を付しておきたい (現代語訳は、橋川文三編「藤田東湖」所収の「弘道館記述義」の現代語訳による)。

 弘道とはどういう意味か。人間が道を弘めることである。道とは何か。天地の大原理で、人間が一刻も離れることのできないものである。
 弘道館は何のために設けられたのであろうか。うやうやしく思うに、古代の神々が悠久の道を立てたもうて、後世の天皇にこれを伝えたまい、天地はその所を得て定まり、万物はその生を遂げる。天地に君臨し、世界を統治したもう所以は、すべてこの道によらぬということはないのである。
 皇位はこの道によって無窮であり、国体はこの道によって尊厳であり、人民はこの道によって安らかであり、四方の異民族もこの道のために服属する。
 ところが天祖の御子孫はなおあえて満足とされず、他人の長所をとってともに善を成すことを楽しみたまい、そこで、漢土の堯・舜と夏・殷・周三代の政治・文教のようにすぐれたものはこれを採用して、もって御大業の助けとしたもうた。
 こうしてこの道は、いよいよ大きく、いよいよ明らかとなり、なんら付け加えることもなかった。
 中世以降、異端の教えが人民をあざむいて世を惑わし、俗物の儒者、きわものの学者が日本を忘れて漢土に従属し、皇化は次第に衰微し、事変や戦乱が次々と起こり、ずいぶん長い期間にわたって天地の大道は曖昧なものになっていたというべきであろう。
 わが家康公が乱を治めて正道にかえしたまい、尊王攘夷(皇室を尊び外夷をはらい)、まことに武勇あり、またまことに文徳あって、天下泰平の基を開きたもうた。
 我藩祖威公(頼房公)は常陸に封土をたまわり、早くから日本武尊の人柄を敬慕し、神道を尊崇し、武備を整えたもうた。
 義公(光圀公)がそのあとを継承され、むかし伯夷・叔斉の伝を読んで感奮され、さらに儒教を尊びたまい、人倫を明らかにし、名分を正し、もって国家の藩屏となりたもうた。
 それから百数十年、代々御偉業を継承し、その恩沢を受けて今日まで来たのであるから、かりにもその臣子たるものは、この道をおしひろめ、祖先の美徳を発揚するにはいかにすべきかを深く考えねばならぬ。
 これがすなわち弘道館の設けられた所以である。
 そもそも建御雷神を祭る理由は何か。それはこの神が神代において天祖の御大業を助けられ、その御威霊を常陸の地におとどめになったので、この道の起源を記念し、その御神徳に報い奉り、人民にこの道の由来するところを知らしめんと願ってのことである。
 館内に孔子廟を造営したのは何ゆえか。唐虞三代の道が孔子によって総合せられたのであるから、その徳を敬慕し、その教えを取り入れ、この道がますます大きく明らかである所以のけっして偶然ではないことを人々に知らしめんと欲してである。
 ああ、わが城下の士民は日夜怠ることなくこの弘道館に通学し、神州の古道(我が国の古道)を遵奉し、漢土の儒教を助けとして、忠孝は一つであり、文と武は矛盾することなく、学問と事業とはその効用を異にするものではない。神を敬い、儒教を尊び、一方に偏ることなく、衆人の思考を一つにあわせ、みんなの力を発揮させて国家の無限の恩に報いるなら、我祖宗たる威公・義公のお志がすたれることがないのみならず、天にまします神皇の霊もまた御照覧したもうであろう。
 この弘道館を建て、もってこの藩の政治・文教を統括するものは誰か。権中納言従三位源朝臣斉昭なり。

 一読してまず驚くことは、この書の趣旨は後世の教育勅語が語っていることとほとんど同じであり、この書の方が異国を気にせずに記しただけに、極めて直裁にその思想を述べている。
 そういえば水戸藩の天保改革で行われた寺院の廃棄と村ごと町ごとの神社の創設は、のちの廃仏毀釈と同じであった。
 要するに弘道館が水戸藩の武士や民に広めようとする道とは、神国である日本を作られた神とその子孫である天皇が定めたものであり、それは簡単にいうと、君に忠、父兄に孝であって、この両者は一体だとする思想であった。そしてこの道は全世界に通じる人の道であり、神国である日本には、世界の異民族もまた服さざるを得ないという神国思想にこの教えは基づいていたのだ。
 しかし神々が定めた道はあたりまえのものであったのでそれを説いた神典には詳しく記されていなかったので、同じことを詳しく説いた、中国の聖人の道である儒教をその助けとして、古来日本国は、上下ともにこの道を大切にしてきた。
 だが中世以来(これは平安時代以後のことを指している)この道が廃れてしまったのは、異国からの教え、一つには印度から渡来した仏教の邪悪の道が広がったことにより、これと中国から渡来した儒教に依拠するあまり、中国崇拝になってしまった学者によって、神の道を尊崇する日本の美風は廃れ、ために長い間戦乱が続き、皇室の権威も地に落ちてしまったというのが、弘道館記の日本認識・歴史認識であった。
 そしてこの廃れた神の道を元に戻して天皇崇拝の国是を復活させ、外国を追い払って鎖国の道を確立したのが徳川家康であり、この道を藩祖以来受け継ぐだけではなく、神々を篤く護り儒教を大事にするだけではなく、神の道を明らかにした修史事業を推進するなどしてきたのが、我水戸藩であるとするのが、弘道館記の水戸藩認識でもあった。
 弘道館記に記された思想では、この世を作った神とその子孫である天皇が定めた神の道によって運営される日本国のあり方そのものが「国体」とされて美化され、この新しい異様な述語を使って、この国体を護持することが、日本国に生まれた士民の義務だとしているのだ。
 しかも古来から並び立たないとして悩まされてきた忠と孝の道は一体であるとしたところに、弘道館記に示された思想の特徴がある。
 つまり君や国のために命を掛けて戦い死することは、命と体をこの世に送り出してくれた父母の恩に仇することだと従来は観念されてきたが、 これは国家の恩を無視する仏教的な捉え方であり、本来忠孝は一体であり、君に忠を尽すことは父母に孝を尽すことであり、父母に孝をつくすことは君に忠を尽すことであるとして、父母に孝という人倫の道を、君や国家に忠という人為的に設けられた価値観に接続させたところに、後年の愛国心の称揚と同様な性格があったのである。
 こうして水戸藩は、尊王攘夷主義を藩是として掲げる、特異な藩となったのだ。
 そして水戸藩の尊王攘夷思想は決して徳川幕府の統治と矛盾するものではなく、幕府自身がこの思想の下に推進されているというものであったが、このあまりの強烈な尊王主義が持つ、幕府批判にもなりかねない両刃の刃的性格と、その背後に、思想とその実践としての政治の合一を説く陽明学的思想が仄見えていたために、正統派の朱子学者からは異端視されるものであった。
 このためこうした水戸藩の過激な思想傾向を指して、当時の正統派の朱子学者、幕府学問所である昌平坂学問所の教授らは、「水戸学」と呼ぶようになり、現代の学者らは、九代斉昭の時代の「水戸学」は、 2代光圀以後の水戸の教学ともまた異なる性格を持つので、これを「後期水戸学」と呼び習わすようになったのだ。
 「つくる会」教科書が会沢正志斎の思想を記述するに際して、「水戸学の思想に基づいて」とした水戸学とは、このようなものであり、当時としても異様なものとの認識が持たれていたのだ。
 そしてこの思想が、幕末から明治維新期において、多くの人々に影響を与え、この時期の政治過程を引っ張っていくことは、近代編1でまた詳しく見ることとする。

(d)「後期水戸学」の異国観と人民観
 以上弘道館記によって、水戸学の尊王攘夷思想を見てきたが、外面的にはそれは、すでに見てきた本居宣長の尊王思想とほぼ同じものである。
 だがこれが示す異国観や人民観は、それが19世紀初頭から中頃の内外の危機が深刻化する時期に出来上がってきた思想であるが故に、本居宣長の尊王思想よりははるかに現実的で過激な様相を見せている。
 まず異国観であるが、ここについては会沢正志斎の「新論」が端的に言い表している。
 会沢は、「新論」の「国体中」の冒頭に近い個所で、つぎのように注目すべき言い方をしている(現代語訳は、橋川文三編「藤田東湖」所収の「新論」による)。

 論者の中には、強兵の過去だけを見て、現に衰弱している勢いを忘れ、頑冥にも文禄・慶長の役の昔と同様に考えているものがある。今の外夷は犬羊の同類であるから、彼我の長短を比べるにはたりないが、しかしその風俗は残忍で、毎日のように戦争をしており、いきおいその人民を愚弱にして国を立てるというわけにはいかない。だから全国民を登録して徴兵することができる。さらに海外の植民地から兵を募るから、その兵数は少ないと侮ることはできない 。各国とも戦争をこととし、人民は戦闘に習熟しているから、弱兵であると侮ることもできない。妖教を用いてその人民を誘惑し、人民の信ずるところは一つであるから、戦争を行うにも適している。巨艦大砲は元来その長技であるから、他国を威嚇するにも足りる。こうして彼らはつねに海上に勇視し、侵略をほしいままにしているが、けっして愚かであると侮ることはできないのである。

 なかなか興味深い異国観・西洋観である。
 この論はしばしば日本神国論者が陥りがちな、日本は神国だからかの元寇の折のように必ず神風が吹いて日本が勝つというような空論には組していない。現実の西洋の国の仕組みを、蘭学の知識に依拠しながらも、彼らなりに正確に捉えているといえよう。
 いわく、西洋は国民皆兵の国である。そこには武士も人民も区別はない。そしてキリスト教を国是として人民の思想は統一されているため、国家の指揮の下で、西洋は国を挙げて戦争に打って出ることができる。西洋はすでに統一された国民国家であったのだ。
 これに対して、日本はどうか。
 このあとに続く論考のなかで正志斎は、特にこの時代の武士が、昔の尚武の気風を忘れ、華美な生活に耽って武備を蓄えることすら忘れていると批判し、その原因は、もともと武士とは土地に根ざしその土地を護りその土地を養うものであったのを、彼らを全員都市に集め、百姓の年貢で養うようにしたからだと断言する。そして全員を土地に戻すわけにはいかないが、多くの武士を、海に面した土地に移住させてそこを開墾して自給自足させ、あわせて武芸の鍛錬を忘れずにさせる屯田兵の創設による兵制改革を提唱し 、外夷の侵略に備えよとしている。
 これは当時の諸藩の現状を述べたものであるとともに、藩主が江戸定府を命じられ、多くの藩士が江戸に住んでいる水戸藩にとってはとりわけ深刻な問題でもあった。物価の高い江戸では藩士の生活費は嵩み、これによって藩の財政難は深刻であったからだ。
 したがってこの会沢の策は実際に水戸藩では実施され、江戸定府の家臣の数を大幅に減らして水戸に帰国させると共に、家老とその配下の武士や、大番頭格の武士とその配下の藩士を多数沿岸部に移住させ、陣屋を構えて外 敵に備えるべく防備を固めることとなった。
 だが水戸藩の藩政改革は他藩のそれとは異なって、特に洋式軍隊の導入の面と藩専売制の導入の面では、まったく手を附けられることはなかった。
 前者は水戸藩の藩是である尊王攘夷主義が、その本来の性格からして西洋に倣えとする蘭学を毛嫌いする傾向があったからであり、 佐賀藩や薩摩藩などのような、最新式の鋳鉄製の大砲の導入や新式鉄砲の導入は行われなかった。また後者の専売制導入は、江戸の豪商の流通網支配を打破できないという面とともに、尊王攘夷主義それ自体が孕む、商業主義への嫌悪感に基づく、藩も商人となって利益を求めるべきだとする経世学派への嫌悪感から、こうした政策を嫌う側面が強かったことによる。
 ここに尊王攘夷主義の限界とその世界認識の限界が見事に露呈されていると言える。
 その上で現状の人民のありさまは、西洋の妖教に惑わされそれに飼いならされてしまう危険があると会沢は警告している。「形勢」の最後のところで次のように述べている。

 外夷は邪教や詭計を用いて他国の人民を誘惑するから、もし万一にもわが国の人民を味方に引き入れてその勢力を増すならば、彼は少数で我は多数だと言っても少しもあてにはならないのである。(中略) いったい天下の人民のうち、圧倒的に多いのは愚民であり、有識者ははなはだ少ない。その愚民の心がいったんそれに傾いてしまえば、もはや天下を治めることは不可能になる。(中略) 利益を欲し、かつ神霊を恐れるというのは、民の人情として免れがたい。(中略) ところが近頃、あるいは淫祠を中心としたり、あるいは仏説に仮託したりして、徒党をつくるものが数え切れない。富士講というようなものもその講仲間の人数はすでに7万人にのぼっているという。これらはすべて神霊を恐れるがために集団するのである。万一、外夷が利益と神霊を手掛かりに、ただその名目と形とを変えて民心を誘惑し、刑法に触れないようなやり方でその術策を行い、民心が知らず知らずに引き込まれるようなことがあれば、禁令がすでにあるからといって、どうして考慮をはからないでよかろう。

 会沢はこの時代、民百姓が利益に走り、田畑を捨てて町に走ったり、強訴や打ちこわしでその要求を図ろうとしたり、一方で不安を解消するために、様々な新興宗教に集っていることに危機感を感じている。こうした傾向に西洋人が付け入り、形を変えてキリスト教の布教に 努めたならば、日本は内部から崩壊するというのが、彼の人民観であったのだ。
 ここには水戸の尊皇攘夷思想が、人民とは目先の利益にのみ関心を持ち、その一方で神霊の天罰を恐れる無知蒙昧な輩であるとする、利益優先主義への嫌悪と愚民観とがその根本にあることが見事に示されている。
 まさに水戸学の歴史観・現在観は、内外の危機が一体となって進行し、日本の危機を深化させているというものであった。
 このため水戸藩では、この無知な愚民を教導するために、藩校の下に各村や町に郷校という民の教化のための学校を広く設け、弘道館が広めようとする尊王攘夷思想を、そこでも教えることとした。また同じく愚民を教導する政策として水戸藩は、多くの寺を廃棄し僧侶を還俗させるとともに、淫祠邪教と藩が認定した民間宗教を破壊して、村や町に藩公認の神社を設けて、その地の民を全てその氏子とする制度をとったのだ。これが後に明治維新において行われた廃仏毀釈運動の雛形となった。
 この点は先に【33】の(1)で見た頼山陽の父親が進めようとした広島藩の藩政改革と共通のことでもあり、後で見る佐藤信淵の超国家思想とも共通したところである。 これは、愚民の暴発を如何にして防ぎ、藩体制を維持するかが、外敵との戦いとともにこの時代最大の問題であったことを示している。
 水戸藩藩政改革を支えた尊王攘夷思想とは、以上に見てきたように、西洋の侵略の危機に備えて武士も民も共に一つにして日本を統一した国家として対応しようとする国家構想であり、あわせて民の激発する一揆や打ちこわし、そして様々な新興宗教の勃興という内政の危機も同時に解決しようとするものであったのだ。
 この意味では水戸藩の尊皇攘夷思想は、正統派の朱子学者からは、その背後に実践優先の陽明学の傾向が仄見えるために過激な異様なものとして排斥されたが、実際の政治思想としてこれを見れば、幕府・藩による人民の支配の現状を維持しようとする、現状維持的な保守的な思想でもあったわけだ。だからこそ、全国各藩の中で同じ危機感を共有する武士の中に、危機に対応した新たな日本国家像として、水戸藩の掲げる国体と尊王攘夷主義が受け止められ、歴史的に大きな役割を果た すこととなったのである。
 ここが同じ本居宣長流の尊王思想に根ざしながらも、民の不安に応えた宗教としての神国論を展開し 、さらに民もまた神の創造したものだから天皇とともに神聖なものだとの人民観を示して百姓・町人の長層の間に広く流布した平田国学と、水戸学の違いが存在するわけである。
 しかし、この三者が混在・競合しながらも、幕末に危機に対応する思想の一翼を担い、明治維新を実現するとともに、神聖国家たる明治国家の建設を目指し、欧米流の議会主義による国民国家を指向する一派との長い死闘を明治以後演 じ、大東亜共栄圏の唱導とアメリカとの激突とによって一敗地に塗れ、日本近代史に大きな挫折を記録することとなったのである。
 この点については、近代編1・2・3で詳しく見るであろう。

A頼山陽と「日本外史」−幕末から明治初期に一世を風靡した歴史書−

 頼山陽(1780‐1832)は時代によって誤解されてきた人物である。そして彼の主著である「日本外史」も同様であった。彼はしばしば過激な思想家で、自信過剰の尊大な人物と見られ、尊王攘夷主義を鼓舞した人物と捉えられる事があり、「日本外史」 もそのような書物と誤って捉えられる事があった。
 この意味で「つくる会」教科書が、「
日本の歴史をたくみに記述して、幕末・明治期に広く読まれ、日本人の国民としての自覚を養った」と記述したことは、事実に即したとてもおさえた良い記述である。
 以下に、著者頼山陽の生涯と、「日本外史」の概要とその影響について簡単に見ておこう。

(a)頼山陽の生涯
 頼山陽は、1780(安永9)年12月、大坂の町人学者・頼春水(1746‐1816)の長男として、春水と妻・静子の間に生れた。通称は久太郎。
 頼春水は、安芸国(広島県)竹原の商家・紺屋の「頼兼屋」又五郎の長男として生れたが店を継がず、諸国で学問をして学者となり、山陽が生れた当時は、大坂の町人学者であった。しかし山陽がうまれた翌年末に、父春水は広島藩の儒者に登用され、さらに翌年・1782(天明2)年には居を大坂から広島に移した。
  春水は先に【36】新しい学問の項で見たように、広島藩の藩政改革において、藩校の下に百姓や町人が通う寺子屋までも組み込んだ教育体系を作ろうとした人物である。
 こうして大坂の町人学者の長男として生れた山陽は、安芸広島藩浅野家という大藩の儒者、つまり武士の嫡男となったのである。
 山陽は幼少時からその詩文の才覚を表したため将来を期待され、12歳のときの1791(寛政3)年には「立志論」を書き上げている。
 そして1797(寛政9)年18歳のときに江戸遊学を藩から許可され、3月に江戸に出発、途中楠正成の墓に詣でて漢詩を読むなどして、4月に江戸に到着。江戸においては、幕府の昌平坂学問所に入るとともに、学問所の教授でもあり叔母の夫でもある尾藤二洲 (1747−1813)の塾に寄寓し、彼からも教えを受けた。尾藤二洲は柴野栗山(1736−1807)、古賀精里(1750−1817)とともに、老中松平定信の寛政の改革を学問の側から支え、君臣名分論を重視する朱子学のみを幕府学問所で教える教学と定めた学者であ る。山陽が江戸遊学をした時期は、その寛政の改革の真っ最中であった。
 しかし山陽の江戸遊学は1年で終わり、1798(寛政10)年4月に広島に戻り、翌年2月には妻・淳子を娶った。
 そして江戸からの帰国後2年たった1800(寛政12)年夏には、気ままに昼夜外出するなどの奇行が目立つようになり、9月には藩に無断で出奔。京都に身を潜めていたところを発見され、11月には広島に連れ戻されて自宅の一室に監禁されることとなった。
 この脱藩の原因はわかっていないが、通常は脱藩した藩士は追っ手を掛けられて斬罪に処せられるところだが、特別に許されて監禁ということとなった。
 この自宅での監禁の期間は1803(享和2)年まで続いたが、この間に山陽は読書にふけるとともに、「日本外史」の執筆を進め、ほぼ完成させた。24歳であった。しかしこの自宅軟禁の間に、妻との間には長男が生れたものの、妻とは離縁してしまうこととなる。
 そして謹慎が解かれたのちの1804(文化元)年には、山陽は頼家の嫡男の地位から追われてしまうのだ。父春水のあとを継いだのは、春水の7歳年下の弟春風の長男であった。
 その後、1809(文化6)年に、父春水の友人で詩人・学者の備後国(広島県)神辺の菅茶山(1748ー1827)に招かれて彼の廉塾に塾頭として赴任した。時に30歳である。
 しかし山陽はこの境遇に飽き足らず、1811(文化8)年2月に廉塾を去って上京し、京都で塾を開いて自活することとなった。時に32歳である。
 この廉塾を去って京都に赴いた理由も定かではないが、残された書簡などから、学者として世に出るには、江戸・京都・大坂でなくてはならず、田舎儒者では世に出ることは出来ないという思いを彼が持っていたからだといわれている。だとするならば、20歳の折の脱藩も、このまま広島という田舎の儒者では終りたくないという、彼の青雲の志によるものであろうか。
 だが親にも藩にも相談せずに決行した上京は、山陽を巡る人間関係に完全にひびを入れてしまった。
 一つには師でもある菅茶山の気分を害し、ために茶山と山陽の父春水との交友にも暗雲が立ち込め、広島藩も、藩に許可を得ない上京は、再びの脱藩であるとの対応をしたからである。こうしてすでに頼家の嫡男としての地位を追われていた山陽 は、父春水とは、以後絶縁関係に入ってしまい、そのまま春水は、1816(文化13)年2月、71歳で帰らぬ人となった。
 こうして家族関係や師弟関係をも壊した京都行きであったが、学者としての山陽の人生はこれで開けていった。
 京都での学者としての彼の名は高まり、多くの漢詩文も詠まれていく。
 そしてその極めつけは、1826(文政9)年12月に「日本外史」がようやく完成し、その評判を聞きつけた先の老中松平定信(楽翁)がこれを求めたので、1827(文政10)年5月にこれを献呈。楽翁が1829(文政12)年に、これに序文をつけて高く評価したために、彼の学者としての評判はさらに高揚した。山陽50歳のことである。
 さらに山陽は1828(文政11)年には、日本の政治形態を評価する「日本政記」の執筆に着手し、1832(天保3)年には脱稿し、歴史家としての彼の名もいよいよ高まっていった。
 この京都での学者としての人生を送る中で山陽は、1815(文化12)年36歳の時に、新しい妻・梨影をいれ、1823(文政6)年には次男が誕生し、1825(文政8)年には三男が誕生した(後の 勤皇の志士頼三樹三郎)。
 こうして家庭的にも恵まれた山陽は、この京都時代に、1818(文政元)年に父の法事出席を機会に西海に遊び1年間かけて九州を一周し遠く薩摩まで訪れたり、母を連れて、吉野や近江・有馬に遊び、また伊勢神宮に参っての帰途、大和を巡ったりして、各地の風景を愛でると共に、古の兵たちの古戦場のあとなどを巡り、多くの漢詩を発表して行った。 またこの時期山陽は、小石元瑞(1784−1849)や篠崎小竹(1781−1851)、浦上春琴(1779ー1846)らの詩人・学者である親友たちと深く交わり、京都の文人達の中心として活動した。さらに山陽と、女流漢詩人として有名な江馬細香(1787−1861)との交友もよく知られている。
 このような詩人・学者として陽の当る生活が頂点に達する中で、 山陽は、1832(天保3)年6月、「日本政記」の脱稿のその日に喀血して倒れ、9月23日に帰らぬ人となった。時に、53歳。
 彼の漢詩作品としては、彼の死後、「山陽詩抄」が出版されたが、彼の詩風は写実を重んじていたものであり、各地の風景や古戦場のあとでの感慨を、高らかに詠ったものが多く、人々に多く暗唱されることとなった。

日本外史まじめな人を引き付ける魅力溢れる歴史書
 日本外史は、とてもまじめな歴史書である。尊王攘夷主義を鼓舞するために書かれた思想書の類ではない
 この書は著者頼山陽が19歳のおりの1798(寛政10)年に構想が練られたが、著者が脱藩の罪で幽閉されていた1802(享和2)年に書き始められ、一応の原稿が出来上がったのはその翌年1803(享和3)年のことであった。頼山陽24歳の時である。
 しかしこの書はその後も構想を新たにして絶えず書き直され、現在残されている形に完成したのは、1826(文政9)年の12月のことであった。山陽47歳。
 実に構想が練られてから28年、執筆を始めてからも24年の歳月を費やして書かれた書物である。著者の生涯をかけたものと言っても良い。だが頼山陽は「日本外史」完成の後、これと対をなす著作である「日本政記」の執筆に手を染め(1828・文政11年)ている。
 「日本外史」は平氏に始まり、源氏将軍家・北条執権家・楠氏・新田氏・足利将軍家・武田氏・上杉氏・織田氏・豊臣氏・徳川将軍家と、都合10家の政治の実権を握ったか有力であった武家の栄枯盛衰の歴史を主として記し、あわせてそれぞれの時代に活躍した武家の歴史も併記したものである。
 この書は、多くの歴史書や資料を著者が渉猟して書かれたもので、著者がそれと明言したものだけでも、260種にも及ぶ資料・歴史書の記述を照らし合わせ、著者がそれと納得したことを記した、まじめな歴史書である。
 そして歴史書の体裁としては、中国の正史である史記に倣い、帝王の事跡を記した本紀はすでに大日本史をはじめ多くの史書が出ているのでそれを省き、諸侯の事跡や有力家臣の事跡を記した世家と伝の体裁を持って書き記したものである。
 この意味で「日本外史」は、平氏に始まり徳川氏に終る、日本の将軍家、すなわち天皇の下に軍事警察権を分与され朝廷による政治の安泰を図る役割を担ってきた軍事貴族およびその役割を担った有力武家の事跡を、主として彼らが行った合戦の歴史を通して記述したものであり、現在私達が目にするような、政治史や社会史などのような、制度のあり方や社会のあり方を記したものではない。
 このような制度のあり方を記した歴史書として頼山陽が構想したのが「日本政記」であったが、これは1832(天保3)年に完成している。
 「日本外史」の記述は、原資料を元にしながらも、流麗で簡潔で力強い漢文で書かれているため、暗誦に適したものである。このためしばしば 幕末の尊皇攘夷運動の志士たちもこの一節を暗誦するとともに、山陽が別に歴史的事件をその現場に立って詠じた漢詩も暗唱されたので、「日本外史」もまた 過激な尊王攘夷思想を煽ったものと誤解される元となったのである。
 この書の記述は先に見たように将軍家やそれに準じた有力武家の事跡を主としてそれが占めた役割と合戦の歴史を通じて叙述したものであるが、それぞれの事跡の前後に論讃として、それぞれの武家の事跡を評価する論文が付せられている。つまり事実を叙述した部分と、その事跡についての著者の評価を記した論文とに分かれているのである。
 そしてその論讃は、個々の武家の事跡を、彼が天皇家にいかに尽くしたかを基準にして、その正逆を論じたものであり、これが「日本外史」が尊王主義の歴史書だと言われる所以である。
 しかし頼山陽は単純に天皇家につくしたかどうかだけで、個々の武家の事跡を評価してはいない。これが「日本外史」が歴史書であって、思想書ではないと評価される所以である。
 外史の論讃のいくつか挙げると、以下のようになる。

・平氏論讃:
 世間の人の説に、「清盛の立てた手柄は犯した罪を償うには足りない」と。そこで臣道を知らぬ者の例を挙げる場合には、いつも彼を真っ先にする。ところが藤原氏の場合、道にもとることが清盛の十倍にもなっていることに気がつかないのである。思うに清盛は、ただ藤原氏のやり方を見て、これにならったまでのことである。(中略) それに清盛があれほどになったわけは、後白河天皇がその勢いを養成されたからである。(中略)ところが後白河天皇は、ご先祖以来定められていた名号・爵位を清盛にやたらに与えられ、清盛にたよって、自分だけの私を成し遂げられたのである。そして清盛の心に、功をたのんでお上へあつかましく要求する気持を増長させ、ついにこれを抑えることのできぬようにしてしまわれた。だから天皇のほか、だれの咎といえようか。 (頼惟勤の現代語訳による)

 平清盛の横暴を批判した部分であるが、それには先例と原因があるというわけだ。
 先例は藤原氏であり、平清盛を重用し彼を増長させた原因を作ったのは後白河天皇その人だと。
 そして山陽はさらに、平氏が重用されたのは、藤原氏の権力を削ぐためで、藤原氏のために働いていた源氏に対抗するさせるためであり、それは白河天皇から始まったのだと論評している。
 要するに平氏が増長し天皇の実権を奪ったような形になったのは、天皇家自身に原因があるという判断である。ある意味なかなか客観的な評価である。

:この点真実はどうであったかについては、第1巻古代編の【25】新たな直系皇統創出としての院政の登場と、第2巻中世編の【1】武者の世・【2】平氏政権という幻想で詳しく記述したので、ここを参照されたい。

 一方その平家の専横を倒して天下を平定したとされる源氏将軍家の場合はどう評価されていたのか。
 山陽は、源氏の興隆は、「名前だけは暴乱を治めるというのであるが、その実は皇室の権力を盗んだのである」と平氏論讃の末尾で述べていたが、源氏論讃では次のように記述した。

・源氏論讃:
 自分はかつて公卿の家で次の話を聞いたことがある。それは鎌倉幕府が起こったときのこと、たしか大江・三善の輩であったか、こっそりと民部省の帳簿をかかえて鎌倉へ行った者がいたということである。これによっても当時の人心のおもむくところを見ることができる。だいたい皇室が自分から進んで政治の大権を打ち棄てて、しかもこれを回収する努力をされない。それでは人民にとっていったいどこがよりどころになるのか。こうなった以上は、皇室の出身で十分に器量のある者が、天子に代わってこの大権を操り、天下を切り盛りするほかはない。これはなんともやむをえない形勢である。(中略)頼朝は苦心経営の末に幕府創立の大事業を始め、しばらくの間天下の安穏を招来した。それでいてけっして僭越な振る舞いをせず、その行いは恭順であった。(中略)そこで足利氏・新田氏はみな清和源氏の流れであることから、かわるがわる起って天下を切り盛りした。しかしいずれも将軍という資格の下に、天子の代理として国家の大権を操り行ったのであって、どこまでも天子には服従しつかえた。これはみた頼朝の先例を継いだのである。そうしてみると、頼朝は天下万世のためにやむをえないこと(武家政治)を始めたが、一面にはまた、けっして臣下として越えてはならない分限を確立したのである。こうして天子と将軍の関係は、双方に都合よくいったのである。もしそうでなかったとすれば、わが国にも王莽・曹操・司馬懿・董卓というような種類のものがつぎつぎに現れたかもしれない。 (頼惟勤の現代語訳による)
 

 鎌倉武家政権の成立は、皇室の権力を奪った大罪を犯したものであるが、それは平安時代からの政治の乱れの結果であり、天皇家が失われた政治の大権を取り戻すことをせずに世が乱れた結果であって、その乱れを収めるためのやむをえない措置であったと山陽は評価した。
 つまりここには、武家政権というものは、天皇の大権を奉じて武家がその代わりに行うものだという、頼山陽の武家政権観があり(これ自身が、同時代の徳川政権の評価でもあるのだが)、これに基づいて過去の武家政権の始まりである鎌倉幕府を評価したものである。
 歴史の評価としては現在の観点から見ればまったくの間違いではあるが、なぜ日本においては、天皇家の力が衰えそれが政治を総覧できなくなってもその権威の下で武家政権が続いてきたのかという、今日にも続く疑問に、答えるものである。

:鎌倉幕府成立の歴史的意味とそこにおいて源氏将軍家が抹殺された意味については、第2巻中世編の【3】源平合戦という嘘・【4】武家政治という虚妄・【5】将軍の形骸化は王朝から幕府を守るためだった・【6】幕府は王朝の一機関にとどまれ−承久の乱の実像・【7】武士とは何物?で詳しく記述したので、ここを参照されたい。またその後の武家政権と天皇との関係については、同じく中世編の【28】天皇は統一権力の象徴その存在はそれを必要とする「国民」の総意に基づくなどを参照されたい。

 このように「日本外史」の歴史観は、一方的に尊王主義を鼓舞するものではない。
 ただ徳川武家政権が、江戸後期の危機の中で次第に、その権力の拠ってたつ基盤は、天皇家の政治大権を奉じて代わりに行っているという大政委任論に傾きつつあった中で、この大政委任論の依拠する尊王主義に基づいて、その武家政権の歴史を記述したのが「日本外史」であったのだ。
 したがって武家政権の走りである平氏政権の出現は、国の乱れと大権を取り戻そうとしない天皇家の怠慢に原因を帰し、最初の武家政権である鎌倉源氏将軍家はやむをえず天皇に代わって政治をとったと評価され、源氏将軍家に代わって天下を動かした北条執権家は、将軍の臣下という卑賤の身にも関らず天皇家の継承にまで私の意見を差し挟んだ僭越な行為だと批判され、これゆえ後醍醐天皇の幕府討伐は肯定される。そして足利将軍家はせっかく天皇家が政治の大権を取り戻そうと動いたのに(後醍醐天皇の建武の中興)、それを妨害して大権を奪い取っただけではなく、あまつさえ三代義満のように天皇家の廷臣たちを自分のためにこき使い、明王朝にたいしては日本国王を僭称して天皇家を貶めたと評価された。この一方で建武の中興を支えたにもかかわらず足利家との争いに敗れた楠氏と新田氏は、その崇高な意思にも関らず一敗地にまみれたことを慨嘆され、新田氏に至っては、これが徳川将軍家の遠祖とされたために、新田氏の功績によって徳川氏の天下があったとすら持ち上げられた。そして織田氏と豊臣氏は天下が乱れ皇居すら乞食の住処となるほと地に落ちていた天皇家の権威を回復し、その権威の下で天下安寧を図ろうと努力したことが讃えられ、この二氏の努力と失敗に鑑みて、徳川氏は権力を握って天皇家の権威を確立し、日本に安寧をもたらしたと礼讃されたわけである。
 また「日本外史」は、日本の将軍家の事跡を叙述したものであったために、対外関係については、ほんの僅かしか記述されていない。
 それは鎌倉時代の元寇と室町時代の明との交易、そして秀吉の時代の朝鮮侵略だけである。
 元寇については「日本外史」は、それとの戦いの様を簡潔に記し、弘安の役において元の艦船を壊滅させる原因となった大風については、「大風雷あり。虜艦敗壊す」と記述している所は、神皇正統記が「神明の加護あらわれ、にわかに大風ふきおこって」と書いたのと異なり、神国論を振り回さず事実だけを記す態度を取っている。そしてこの時の執権北条時宗の対応については、元の横暴な要求に屈せず断固として戦ったことを称賛し、「元虜をふせぎ、我天子の国を保ったことは、父祖の罪を償うに足る」高く評価する。
 また明との交易については、足利氏が世々日本国王を称して通交したと記したあと、その論讃において、これは天皇の名分すらを奪い取った僭越な行為であると非難する。
 最後に秀吉の朝鮮侵略についてであるが、ここは資料が多数残されていたからであろうか、戦いの様や交渉の経過をとても詳しく記述している。
  しかし残念ながら、侵略戦争の実態については詳しく記されていない。
 つまり朝鮮の人々がどのように抵抗したのか、そしてこの抵抗によって日本軍がいかなる危機に陥れられ、これを打開するために抵抗する朝鮮の人々を日本軍がどのように虐殺したか、こういった問題はほとんど記述されない。記述されたのは蔚山の攻防戦で圧倒的な明軍と朝鮮軍に包囲された日本軍が援軍が来るまで牛馬や死人の肉まで食らって生き延びたことだけである。
 従ってこの侵略戦争も、元寇のときと同様に、そこに参加した将士の活躍のさまと戦いを巡るその確執だけが描かれただけ。山陽の記述目的が、戦に参加した英雄の事跡を記す叙事詩であったからであろうか。

:こうした室町幕府の意味やそこでの天皇との関係の真実の姿については、第2巻中世編【16】室町幕府=全国統一政権の虚構を、そして織田豊臣政権の成立とそこでの天皇との関係については、第3巻近世編1の【4】信長は旧体制の再編強化を図ったと、【5】天皇の平和による前項統一を、さらには徳川幕府の成立とそこでの天皇との関係は、【12】徳川将軍家は天皇家との一体化に失敗したと、近世編2の【27】生類憐みの令は清浄なる国土創出の方策だったと、本巻の【31】寛政の改革と大御所の時代でそれぞれ詳しく探求してあるので、ここを参照されたい。また、元寇については、第2巻中世編の【8】元寇を、日明貿易については、【17】日明貿易は政治商業文化の王としての義満が行う国家間貿易であったを、さらには、秀吉の朝鮮侵略戦争については、第3巻近世編1の【7】国内統一戦争の継続としての朝鮮侵略戦争を参照されたい。

(c)「日本外史」はどのような国民意識を形成したのか
 最後に「つくる会」教科書は、「日本外史」は「日本人の国民としての自覚を養った」と記述したが、それはどのような意識であったのか考察しておこう。
 まず最初に、「日本外史」がどのように国民の間に普及したかを見ておこう。
 「日本外史」は先に見たように、
1826(文政9)年の12月に完成した。それまでの何度も書き換えられたものも一部に写本で出回っていたようだが、現在の形になったあと、1827(文政10)年5月に、請われて元老中首座で前白河藩主である松平楽翁(定信)に本書を献呈してから、この書物は俄然注目された。
 しかし印刷出版されたのは、頼山陽が1832(天保3)年9月に53歳で死去したあと、1836(天保7)年のことであった。
 そして1844(弘化元)年に川越藩の江戸藩邸の学問所である博喩堂によって、松平定信に献呈された本(桑名本)を元にして「日本外史」が出版されると広くブームが沸き起こり、諸藩の藩校においても、「日本外史」が藩士の教養を養う教科書として広く採用されていった。この過程で これに対抗したものか
、頼家に蔵されていた原書を元にした頼氏蔵版が1848(嘉永元)年に出版された。
 この中で川越版は最も広く普及し、1899(明治32)年までに木版本で14版を数え、その後も活字本で明治大正期を通じて多くの版が出された。
 つまり「日本外史」は、最初は武家の子供達の教本として採用され、藩校の中等段階の教育課程である「講義」において使用された。ここにおいては、日本の歴史としては水戸藩で編纂された歴代天皇の事跡を中心に記述した「皇朝史略」(青山延
・あおやまのぶゆき著、文政5年・1822年成立、文政9・1826年刊)などが合わせて読まれ、さらに中国史の概略を学ぶために、その正史を抜粋した「十八史略」や、それにもれた元史と明史を抜粋した「元史略」「明史略」らとともに、諸藩の藩校で読まれた。
 「日本外史」は、幕末の時期に、武家の子供達が日本という国を認識するための主たる教材として採用されたのだ。
 これは「日本外史」が広く読まれた時代の内外の様相と関係している。
 「日本外史」が松平楽翁に献呈された1827(文政10)年は、その前の1825(文政8)年に幕府が、諸国に異国船来航が頻発するとともに、異国船による略奪事件や領民と異国人の接触事件が頻発したことへの対応として、異国船打払い令を出した 2年後のことであった。
 そして最初の刊本・拙修斎木活本が出された1836(天保7)年の翌年、1837(天保8)年には、アメリカ船モリソン号が首都江戸に近い浦賀に入港したため、浦賀奉行所がこれを砲撃して退散させる事件(モリソン号事件)が おき、この事件を巡って幕府の内外において、今後の異国船に対する対応策を巡って、激しい論争が巻き起こるきっかけとなった時期であった。
 さらに頼家蔵版が出版された1848(嘉永元)年は、これまでの間にすでに中国がイギリスと阿片の密輸入を巡って対立し、イギリスとの戦争によって敗れ、無理やり開国されるという衝撃的な事件が起きると共に、1845(弘化2)年には、オランダ国王より幕府に対して開国勧告の国書が奉呈され、以後異国船の来航と開国要求が次々と出されて、情勢が緊迫した時期であった。
 このような時期だからこそ、日本を導いている武士階級には日本とは何かが認識されねばならず、だからこそ藩校の教科書に、尊王主義に基づく歴史書が広く採用され、 武家のあり方が問われた時代であったからこそ、尊王主義に基づいて武家の歴史・武家の行動の歴史を記述した「日本外史」がとりわけ広く読まれたのである。
 その結果として、次の時代、アメリカ使節ペリーによって強引に日本が開国させられた後、そのような政策を取った幕府の行為が天皇・朝廷の意向と真っ向からぶつかったために幕府批判が巻き起こり、幕府を取り除いて新しい日本を作ろうとした尊王攘夷運動に走った 武士たちの多くは、「日本外史」を教科書として武家の行動のありかたや日本という国のあり方を学んだ世代であったため、これらの「過激な」人士の多くに、頼山陽の「日本外史」と山陽の多くの歴史的事件を歌った漢詩が暗唱され愛唱されることとなったのだ。
 ここに「日本外史」が過激な思想書であったと誤解された根拠がある。
 そして明治維新後も、日本が、この国を侵略しかねないと考えられた欧米との競争をその後も行わなければならなかったために、明治の学校においても、日本とは何かという観念の醸成が必要となった 。
 しかし明治当初においては、通史として日本史を記しかつ興味深く記したものは「日本外史」しかなかったために、明治の学制発布以後の小学校においても、「日本外史」が長く教科書の位置を占めることとなった 。
 そしてその後、教科書の多くが西欧の例に倣って翻訳書として作られた時期には、世界を認識する「万国史」という形で歴史が教えられることにな り、これと平行して文部省編纂の国史の教科書が教えられたのだが、朝鮮をめぐる中国やロシアとの争いが続いたために、日清戦争や日露戦争の時期において、再び国史の教科書が尊王主義に基づいて記述される時代となり、その最も流布され人口に膾炙した物語として「日本外史」が明治後期になっても広く読まれたのである。
 このように「日本外史」は幕末明治期を通じて広く読まれた本であったが、この本を通じてどのような国民意識が形成されたのかは、実はそれほど実証されたことではない。
 何しろ「日本外史」は先に見たように、尊王思想や攘夷思想をことさらに鼓舞した思想書ではない。 歴史書と言って差し支えないものではあるが、これが依拠した史書や資料のなかには、平家物語や太平記などのような歴史物語が数多く存在しているために、今日の歴史学の水準から考えると史実ではないことが数多く含まれている。
 この意味で「日本外史」は、歴史物語、歴史上の武士達の事跡を格調高い文章で記した叙事詩と言っても良いものである。 
 しかも山陽の叙述力によって、資料に基づいて武士の事跡を、そしてその個人個人をさらに生き生きとした活写したために、この書物は好んで読まれ ただけではなく、広く暗唱された。
 これは江戸時代から明治初期における教育が、「古典」の暗唱を基礎にしたものであったことに由来し、かつ、「日本外史」が格調の高い漢文で書かれていたため、暗唱に適したものであったことに由来している。
 それゆえ明治時代になって西欧流の歴史学が入ってきて、「日本外史」が依拠した資料の性格が講究され、この書物が歴史書としては多くの史実ではないことを含むとの批判が数多くなされたが、逆にこの書物が江戸末期と明治期の日本人に、 どのような意識を醸成したかについての、実証的な研究はなされていない。
 この本の影響として考えられることは、本の体裁とそれを読んだ人々の時代感覚から、この書物がどのように受け止められたかを想像するのみである。
 まず江戸末期の武士に与えた影響であるが、この書物がその武士の事跡の評価を天皇家に尽くしたかいなかで記述したことと、藩校において合わせて読まれた「皇朝史略」も尊王思想に基づいて書かれたものであったため、そして先に見たように、この本が武士層に多く読まれた時代そのものが、欧米諸国による開国要求に日本が揺れていた時代であり、この要求にどう対処するのかが緊急の課題であったため、「日本外史」は、危機の時代における武士の生き方を示す書物として受け取られたことは確実である。
 このため「日本外史」が武家の行動の評価を、天皇家に尽くしたかどうかで判断したことは、日本は神の子孫である天皇を頂く神国であると解釈されたことは想像に難くない。そして多くの藩校では、他にも水戸藩の尊王攘夷思想で行われた天保改革の次第を述べた「回天詩史」(藤田東湖著)や、先にみた会沢正志斎の「新論」も合わせて読まれており、こうしたすべての書物を通じて、 日本は神国であり、諸外国に優れて世界を領導すべき国という観念が、武士の子弟に育まれたものと思われる。
 つまり、これは先に水戸学のところで見た尊王攘夷思想そのものである。
 すなわち、日本は神国であり、武家はその王である天皇家の下で、この国を外敵から守るために生れたものであるという観念が育まれたもので 、日本は神の子孫を王として長く推戴する忠義の国であるが故に神国であり、野蛮人である諸外国人に優れた国であり、その神国の神聖さを冒そうとする異国は打払えという観念である。
 その際に、「日本外史」で描かれた武家たちの戦いにおける姿は、元寇における武士の活躍や、秀吉の朝鮮侵略戦争における武士の活躍のさまとともに、神国日本を侵す外的と勇敢に戦う武人の姿として、多くの武士の子弟の心に刻み込まれたものと思われる。
 この意味で「日本外史」は「赤穂義士伝」「忠臣蔵」と並んで、世界に冠たる日本、忠義の国日本という意識を武士層に感化した歴史書として長く人々の記憶に残されることとなったのだ。
 また同様なことは、明治維新以後の学校教育によって「日本外史」を暗唱した子供達や、この本を愛読した大人たちにも言えるであろう。
 明治以後もこの本は、その時代の日本をめぐる大事件、つまり日清戦争や日露戦争における日本軍の行動と合わせ鏡のようにして受け止められ、欧米に伍して世界で戦う日本のイメージの高揚に役立ったものと考えられる。
 要するに「日本外史」で形作られた「国民としての意識」とは、この書物も含めた当時の学校において用いられた書物を通じて、時の為政者がつくろうとした国民意識そのものだったと言えるであろう。
 つまり「日本外史」という「歴史書」は、どのように利用されたのかということでしかない。

(4)「超人」によって指導された超国家思想としての佐藤信淵の思想

 江戸時代後期の新たな政治思想の検討の最後に、この時代の申し子でありながら、さらに時代を超越した思想を展開した特異な思想家として、佐藤信淵の思想を検討しておこう。なぜならここには、後の明治国家の矛盾に満ちた姿がすでに先取りされていたからである。

@佐藤信淵の思想の詳細

 佐藤信淵(1769−1850)は林子平や本多利明の時代からさらに下った、文化・文政期(1804〜1830)を中心に活動した経世家である。彼の著作は極めて多く、農政のありかたから国土開発・開国論・海防論・神国論 ・統一国家論にいたるまで多岐にわたっている。
 その主な著作に依拠して彼の主張を整理すると以下のようになる。

(a)西洋天文学の地動説で補強した日本神国論
 信淵は、その著書「天柱記」(1825・文政8年成立)で、日本国は大地に最初に成就した国であり、世界は神が作ったものである事実がよく伝えられる万国の基本たる国であると、日本神国論をまず展開している。 そして日本が世界の中心たる所以は、西洋天文学の最新の知見である地動説そのものが、古事記などに伝えられる「世界創世神話」にすでに組み込まれていることであるとして、太陽が世界の中心にあるとした地動説で、日本古来の「世界創世神話」を解釈してみせる。
 すなわち混沌とした世界にまず天御中主大神が現れ、この神の意思により、次に現れた神々(産霊神と信淵はまとめて呼ぶ)が混沌とした世界を矛で掻き回し、そこから萌え出ずるようにして生み出されたのが、世界の中心たる太陽と、それを巡る大地も含めた星星だと。そして大地に降り立ったイザナギ・イザナミの2神が、宇宙の創世にそってまた混沌たる大地を矛で掻き回した結果、大地に海と土とが生まれたと し、最初になった国が日本だとする。
 信淵は、神々が世界を掻き回したその中心にある矛を「天柱」とし、星星はその天柱を中心にめぐり、大地もまた大地の中心に打ち立てられた矛を中心として回転しながら、太陽の周りを経巡るとしたのであった。
 こうして古事記などに伝えられた「世界創世神話」そのものが、天の理である地動説を生み出した神の摂理を現すものであり、そうした天の理を体現した神話をもち、天の中心である太陽の神である天照大神とその子孫を頂く日本こそ、世界の中心たるべき国だと信淵は主張する。 これに対して西洋は学術に見るべきものがあるが、なぜ宇宙が太陽を中心として回っているのかを理解していないところに、西洋が世界の中心ではなく「辺境」である所以があるとしている。
 なんと壮大な日本神国論であろうか。
 ここに彼が、日本が世界を征服すべしとする根拠が定められている。
 そして信淵は、「鎔造化育論」(1842・天保13年成立)で、この世界を作った産霊の神の神意は、万物を生成しそれを発育せしめ、それによって世界を豊饒にし、かくて人民を繁栄させることだとし、この神意を実現させることが為政者の果たすべき仕事だと、神国論と儒学的な徳政論を合体させて、神国論に基づいて現実政治のあり方に異議を申し立てていく。
 すなわち彼は、多くの著書で述べていることであるが、為政者の政治が悪いから民が暮らせなくなって生まれてくる赤子を殺すような悲惨なことが数多く出るのだとして、多くの飢饉の惨状を挙げて、為政者の政治を改革すべきことを指摘 した。  

(b)天の意思の体現者としての為政者がなすべきこと
 
ではどのように為政者の政治は改革されるべきであると彼は主張したのか。
 彼は「鎔造化育論」で以下のように言う。
 「土地を領有する君主が天の道理を講究し、星の運行を精密に観察し、陸海を測量し、経緯度を測定し、気候をくわしく調べ、土質を明らかにし、田畑を開墾して、境界を整理し、灌漑を整え、堤防を修造し、日照りや大雨にあらかじめ備え、より細かく土地を耕し、培養に心を込めて農事に尽力することは、天地鎔造における神の意思を継承して天地の化育に力をそえることになるのである。以上を名づけて農政十三法という。」
 これは、信淵の為政論が農政を基盤としていることを示す良い例である。
 すなわち、「神々のなす業とは、皇祖天神の人民を繁栄せしめようとする意思に従って、人間の世界に必要な諸物を育てることである。だから草神は草を成育し、木神は木を生長させ、穀神は穀物を成熟させ、魚神は魚を生育し、土神は土を和合し、金神は金を産出し、玉神は玉をつくるなど、天神地祇みなそれぞれのつかさどる業を分けもっていて、日夜片時も休むことがない」と、神々の意思がどう反映されているかを説く。
 この神々の意思に従ってそれを助けるわざをなして、人民を豊かにするのが為政者の務めだと信淵は説くわけだ。まず第一に農政十三法を実施すべしと。
 その上で彼は言う。
 「そのうえで諸種の物産を統括して流通交易の制を実行していけば、天下の財貨は豊かにあつまるだろう。それらを四海に分け与えて事天の教えを広めることにつとめるならば、人民は仁徳に帰一するだろう。それゆえ農政を究明し、万物を統括し、教えを広めることを経済の三要事という。国家の君主たるものが真によくこの三要事を学ぶならば、物産は豊かになり、財貨は集まり、天下は富み、あらゆる人々の生活は楽になり、貧困にわずらわされなくなる。もはやその子を殺害すること などあろうはずはない。」と。(「鎔造化育論」の現代語訳は、相良亨編「平田篤胤」所収の「鎔造化育論」による)
 為政者とはまさに、世界を作った神の意思を体現して、その実現のために働く人のことをいうと、佐藤信淵は言うわけだ。

(c)国を富ますための三つの策−農学・儒学・経世学・蘭学の総合として
 この為政者が民の幸せを願って行う国家経営の策としての経済の要点を簡潔に述べたのが
「経済要略」(1822・文政5年成立)である。
 信淵は、経済の策として、「創業」「開物」「富国」の三つの策を以下のように述べている。
 まず創業である。
 「およそ国家を豊かにする政は、その国君の平日の行状より始まる。まず君侯自ら恭倹の二徳を修めるのでなければ、これは決して成就しない」「恭とは、姿形を君侯に相応しくして、言葉遣いを穏やかにし、己をへりくだって有徳を尊び、大臣を敬い、群臣を愛し、万民を哀れんで政を行い、自分の欲するままに政をしないことである」「倹とは、身辺を慎み暮らしを簡素にし、無駄な出費は控えるが、礼儀を守ることや山沢河海を開拓し物産を興すことなどには 精力も財力も惜しまず注ぎ込むことをいう」と。
 まさにこれは、儒学の伝統に沿った為政者の有徳のあり方を説いているものだ。
 その上で信淵は、こう述べる。
 「一国の君たる者は、有徳の士を得て、共に道を講ずることが必要である」と。
 つまり、為政者たるものは身辺の家臣に有徳のものを選び、ともに神の意思を講究して、あるべき政を目ざす同士を得ることが大事だというわけである。これがしばしば君侯が陥る我欲におぼれた政を避ける第一の法だというわけだ。これが信淵の言う「創業」の策である。
 次に信淵は「開物」の策として以下のように述べる。
 「開物とは、百穀・百果をはじめとして、種々水陸の物産を開発して、境内を豊かにすることをいう」と。
 「ゆえに、国君は万民を率いて上下の神々が化育するところの物産を拝受し、これをとってその製法を詳らかにし、用いて万民に衣食し、その上で自国の用に余るものがあれば、それを他国(藩)に交易して、その利潤を納めて国を豊かにし、もって万民を安らかに慈しむことが必要である」と。
 こう述べて後彼は、天下に産出する様々な物産を、土石・草木・活物の三類とそれぞれを詳しく分類した五十二種に分けてその製法などを簡便に記し、物産を開発することが国君の第一の仕事だと述べている。
 ここに示された物産のリストはまるで、博物学のリストを見るようであり、彼の学問の背景には、伝統的な農学や儒学から発展した博物学、そして西洋物産学を総合したものがあったことを良く示している。
 三つ目に信淵は、「富国」論を次のように述べている。すなわち
 「国を富まさんとするものは、まず財用の融通を良くして、諸事差し支えないようにすべきである。財用の融通が自在であれば、陸海・山沢の物産を起こす業も盛んになり交易の利益もますます増える」と。
 つまり金銀を溜め込んで置く事が国が富んだことだとする従来の常識を批判し、金銀とは物産を流通させるための交換手段なのだと述べているわけである。
 だからこそ信淵は「創業」の項で、君侯は無駄な出費を控えて産業を盛んにすることにその財貨を用いよと提言したわけであった。
 このところには、先にみた経世学派と同様な貨幣観が垣間見られ、とても興味深い。
 要するに佐藤信淵の為政論は、道徳としては儒学が伝統的に主張した有徳の君を推奨し、その君がなすべきこととしては、すでに貨幣経済の世の中になっているのだから、諸国の気候風土に応じた特産物の産出を奨励してそのための国の財貨を用い、余ったものは積極的に他国(藩)と交易して、国を富ませよという、経世学派の主張に沿って、為政論を展開しているわけである。
 そして為政者が国の物産を開発するには、すでに農学・博物学、そして西洋から伝わった西洋の物産学があるわけだから、その成果に依拠して行えと信淵は述べているわけである。

(d)国の繁栄を永続させる策としての「超人」に率いられた統一国家の形成
 以上が佐藤信淵の経世の学としての経済についての主張と国のあり方としての神国論である。
 ここまでは彼の独自の主張としては、西洋天文学の知識を利用して神国論を展開したところ以外は、多くの先学たちの成果の総合、悪く言えば剽窃に過ぎない。
 では佐藤信淵の思想家としての独自性はどこにあるのであろうか。
 それは、「経済要略」の四つの策の最後に述べられた「垂統」の策のユニークさである。
 信淵は次のように述べている。
 「垂統とは、国家の君として相応しい徳と智恵とを持ったものが子々孫々万世衰微することなく続き、その国家をして永久に盛んにすることを言う」と。
 つまり信淵は、これまで見てきたことで明らかなように、国の政はその国の君として生まれた人物が成すことであると考えている。君侯とは生まれながらにして天の意思を体現し、民を安らかにするためにこの世に生まれてきた人であると、信淵は考えているわけである。
 彼の脳裏には、民百姓が主人公となり、国政を民主主義に基づいて運営するという想念はまったく存在しない。あくまでも封建の世の秩序に則って考えている。
 しかし歴史を鑑みてみれば、有徳の君が出現して国を豊かにしても、それが長く続いたためしがないことがわかると、信淵は歴史を紐解いている。中国でもそうであった。我日本でもそうであった。有徳の君による徳政は長くても三代と続かない。有徳の君が世を去ると間もなく、風俗は退廃し政もまた廃れると。
 ではこれを如何にして克服し、国の豊かさ民の安らかさを永遠のものにするのか。
 この歴史的な問いに答えたものが「垂統」の策である。
 信淵は言う。
 「垂統の策を行うにはまず、天地自然がまずそれに相応しい情況にならなければならない。その上でまず、三台・六府を設けて国を運営するようにせよ」「三台とは、神祇台・太政台・教化台である。そして六府とは、農事府・開物府・製造府・融通府・陸軍府・水軍府である」と。
 彼が言う天地自然がそれに相応しい情況とは、まず国を統治すべき君侯が有徳の君であり、その近臣にも多数の有徳の士が存在し、国を挙げて神の意思を感じそれを実現しようとする意思が、国に満ち溢れている情況だという。この情況が生まれないかぎり、彼の言う「垂統」の法はいわゆる龍を倒すことの出来 る秘法であるから、これを実施してしまえば大変なことになると彼は述べている。
 産霊の神の教え 、すなわち日本は神国であり世界を創世した神の子孫である天皇を国君とした世界に冠たる国であり、国君は民の暮らしを安からんとする神の意思を実現するために政を行うとする教えを 、現在の国々の統治者である君侯とそれを助ける士大夫の多くが推戴する情況があって初めて実行にうつせるのだ。
 佐藤信淵が構想した日本国家とは、天皇の下に統一された国家であった。
 それを多くの君侯と士太夫である武士があるべき日本の姿と意識しない限り、信淵の垂統の策は実現しえないわけである。
 ただし彼はその構想の各所で、「諸侯もまた皇国の指揮のもとに動く」とか「諸侯の参勤交代のため」とか述べているので、現実の大名とそれが統治する藩を廃止して統一国家をつくることまでは構想していなかったもようである。せいぜい現在の幕府に代わって天皇を頂点とする皇国を作り上げ、その指揮下に諸侯の藩を統合するというものであった。
 「混同秘策」の中で彼は、全国を14の省にわけ、そこを皇国から派遣した省を司る役人によって納めさせ、その下の諸国にも国司として皇国から役人を派遣して治めさせ、この省や国司の指揮の下に、諸侯の国は置くと。
 ではその国家組織は如何につくられるべきと彼は考えていたのか。
 先に述べられた六府が中国の律令に定められた国家体制に範をとっていることは明瞭であり、それに西洋諸国の国家体制を接木したものでもある。
 そしてこの六府の下に、人々をその職業に応じて所属管轄させ、諸産業の発展を図ると、信淵は垂統の策を詳しく述べた「垂統秘録」(成立年代不明・信淵の口述したものを子息信昭らが1857・安政4年に筆記したもの)で述べている。
 すなわち、
 「世界の諸産業は、草・樹・鉱・匠・商・傭・舟・漁の8つであり、これを六府に分配し、一人の民に一つの生業を与えてそのことに勉励せしめ、他業を兼帯することを禁ずる。すなわち、草民を本府(農事府)に、樹民・鉱民を開物府に、匠民を製造府に、商民を融通府に、傭民を陸軍府に、舟民・漁民を海軍府に配し、その生業に精励させる」と。
 なんと信淵は、民百姓をそれぞれの生業に応じて分け、他の生業を兼業することを禁じてその生業を国家統制するというのだ。
 信淵は、「垂統秘策」の各所で、産業を個々の民の恣意に任せてしまうと、貧富の格差が生まれて富と財物が偏在し、日々生きていくことも困難な人を多数生み出してしまうし、物産の開発も充分に行えないと述べている。つまり彼は、国君だけではなく、民もまた目先の利や欲に囚われて国全体のことを考えられないものだと考えて、だからこれも国家統制する必要があると考えたのだ。
 特に彼が考えた欲の害は、農民が商業に従事することによる利欲の害である。彼は重商主義に立ちながらも、儒学伝統の商業こそ悪の根源という思想にどっぷりとつかっていた。だから民の兼業 を認めず、商業はすべて国家が管理し行うと。
 ではどのようにして、目先の利益や欲に目がくらんでしまう国君や民を、国全体のことを考えて動くように導くのか。
 信淵の結論は、それは道徳の力や宗教の力によるというものであった。
 すなわち「経済要略」で信淵は、垂統の策の略法として国に講談所(これは皇国の制度の中の教化台に擬せられている)をたて、その導師の下で国を運営するとして、百姓と国君の財のすべてを講談所の下に管轄させてそれを国の運営や諸産業の開発に当てれば、国君といえども百姓といえども、その財を欲しいままに私することはかなわず、国の財貨は必要なところに融通できるとしている 。
 おそらく六府の融通府に租税の全てを集約させ、ここが財貨を管理して諸府に分配して国の経営に当らせるものであろう。 このあたりは「混同秘策」に詳しく展開されている。
 国の財貨と産業とそれに従事する人民の国家管理とでもいうべき姿が、ここで示されているわけである。
 そしてこの財貨と産業の人民の国家管理の要にある組織が、三台であり、さらにその中心である教化台にあると彼は述べている。
 信淵は言う。
 「三台・六府のしくみは教化台をもってその第一とする。教化台が垂統法の根幹だからである」と。
 そして「経済要略」では信淵はこの垂統法を詳しくは述べず、諸藩でこれの略法を実施すれば、藩の豊かさは永遠であるとして、略法だけを説明し、その中に教化台に議せられた「講談所」について、次のように詳しく説明している。
 「講談所には一人の導師を置くべし。この導師は教化台の長官である教化大師を擬したものである。講談所の導師は、一国の盛衰を司るものであるから、国の君侯といえどもこの導師を尊敬するものでなければならない。そして君侯を補佐する士大夫たちもまた、この導師を心から尊敬し、その命に従うものたちでなければならない」「この講談所で国人を教化する教えは、まず皇国の神代古典をその根幹とし、これはあまりに大雑把なので、これを補足するものとして中国の古典や印度の仏法の経典を以ってする。」と。
 まさに国の中心である講談所(教化台)では、日本神国論の経典である古事記や日本書紀の神代の巻を持って教え、日本が世界に冠たる国である所以をまず教えよというのだ。その上で実際に国政を動かす知識としては神代の巻は何も述べていないわけであるから、従来行われてきたように、中国の古典である儒学の古典と、仏典を補助的に使い、これを以って国人を教育せよというわけである。
 その上で信淵は、この講談所(教化台)の導師(大師)にはいかなる人が相応しいかと検討する。
 そこでは、神道者や儒者や仏教者のあり方が俎上に上り、神道者はしばしば祈祷に頼ってばかりおり、神典に沿って国の成り立ちを講究することもせずにいると批判され、儒者は、仁義五常の道を明らかにするのが生業であるから、その中には極めて徳の高い人物も見られるが、ややもすれば才気煥発であることを好み、言葉だけをもてあそんで実学を軽視する傾向があると批判される。最後に仏教者であるが、彼らは極楽浄土や地獄、そして三世応報の理などを講じて、人々を大いに惑わし感涙もさせる術にも長けているが、しばしば寺院を荘厳に飾ることに専心し、天地をつくった神の恩や国の為政者である君の恩を軽視することがあるのは問題だと批判される。
 したがって信淵は、導師(大師)に相応しい人物には、「神道・儒道・仏道の三道を兼ね備えた人物の中から選りすぐりの者を選び出し、天地の恩と国君の恩とを讃嘆し、万民をしてこの恩に感涙せしめるように導き、国家をして神の意思に報いて民を安んずる方向にむけるべく、国事経営に専心させることである」としているのだ。
 「混同秘策」では、教化大師とは、「造物主に代わって産霊の神が示す大道を人々に説き教え、すべての人々に、天地創世の理を悟らせる人物で、この世で最高の尊敬を集めるべき人である」とまとめている。
 まさに導師(大師)は、道徳的にも高潔であり、自分の利益ではなく天下万民の利益を考え、諸学に秀でて実際に国土を経営するに必要な実学にも秀でた人物でないと勤まらないと信淵は考えたわけである。しかもその人物は、国の君や士大夫だけではなく、多くの民にも慕われる人物でなければならないと。
 これは聖人、通常の人間を超越した、高い道徳観と知識と行動力を兼ね備えた人物である。「超人」と言っても差し支えない。
 信淵はこのような人物によって統治される国家でなければ永遠の繁栄はないと考えたわけである。
 なぜこのように彼は考えたのであろうか。
 残念ながら彼の著書では、この点は詳しく展開されていない。
 しかし彼が繰り返し国の君侯は我欲を捨てよと説いていることに見られるように、ややもすれば人は様々な欲に囚われて目がくらみ、あるべき生き方から逸脱するものであるという、彼の人間観に依拠したものではないかと思われる。その我欲に犯されるのを阻止するためには高い道徳観、宗教観が必要だと。
 「経済要略」で彼が「垂統」の法が如何にして発見されたかを述べた個所で、これは彼の祖父が考え出したもので、京都の本願寺が長く栄えているのを見てその秘法を学ぼうとそれに潜入し、その繁栄の秘法は、親鸞・蓮如が立てた門徒を教化する教えにあると悟ったことにあると、信淵は述べている。そして本願寺の教えは仏の恩だけを説いて天の恩、国君の恩を忘れる傾向があるので、儒教の仁義と皇国の古典を基礎として垂統の法を立てたのだそうだ。
 佐藤信淵のありうべき国家観が、本願寺門徒集団を参考にしているのは興味深い事実である。
 本願寺門主は、宗祖親鸞の血統を引く、生神さまである。そしてこれと同時に、仏法に深く通じた学者であり人々を仏の世界に導く高潔な宗教者でもある。
 つまり佐藤信淵の描く国家は、神の導きによって経営される神聖国家とでもいうべきものであろう。そしてその中心は「神」である天皇と、それを補佐し国民を導く聖人としての「教化大師」。本願寺の門主を二人の異なる人格に分けた形である。
 佐藤信淵が構想した日本国家とはまさに、「超人」とでも言える道徳的宗教的に高潔な人物によって指導される神聖国家だったのだ。
 この国家構想をより詳しく述べたのが「垂統秘録」と「混同秘策」であり、そこでは大略以下のように構想される。
 国の中心は皇国の都に置かれた教化台で、その指導者が国の指導者たる教化大師である。そして大師の下に数多くの官吏を擁した教化台の指揮のもとで、諸国の神社と神官を統括する部署である神祇台が置かれ、さらに諸国の警察裁判を業務とする太政台が置かれ、ここにも数多くの官吏が置かれる。
 そして実際的な行政の実務は、教化台の指揮の下で先に見た六府が行い、六府はそれぞれの指揮下に置かれた民を指揮し、産業の開発や行政を執り行う。この六府にも多数の官吏が擁せられるが、それぞれの役所の責任者には教化台から派遣された官吏が座って、これを監察統制する。
 すなわち、農事府は農業開発を生業とし、開物府は林業と鉱業の開発運営を生業とし、製造府は、政府機構や民が使う武器弾薬から日用品までを開発製造することを生業とし、融通府は、諸国からの税の徴収とそれを諸台・諸府に割り振って官吏を養うとともに、農事府や開物府や製造府が民を指揮して作らせたものをすべて集め、それを必要なところに回してゆく商業もまたその生業とし、他国との交易もまたこの府の仕事である。最後の二つの府、すなわち陸軍府と水軍府は、文字通りの職業軍人を集めた役所であり、それぞれに10万を越える軍隊を養い、日々戦に備えて鍛錬を行うのが仕事であった。
 この国家機構すべてを指揮するのが教化大師であり、大師の指示を全国に下ろすのが教化台の大学校であり、彼の手足となって動くのが、大学校の中小の導師や教化台の役人であった。
 また教化台は国家機構の中心であるだけではなく、民をも教化統制するのが仕事であった。
 すなわち教化台の出張所として、およそ2万石の地域ごとに小学校を置き、これがこの地域の行政機構の中心であり民を教化する教育機関の中心であり、地域の神官を指揮して神社で神事を執り行わせる中心的役所であった。
 小学校は教化台や他の二台から派遣された官吏によって運営され、この組織の下には、およそ5千石の地域ごとに、民の教育機関として8歳以上の子どもや大人のを教育する教育所が置かれ、その地域の行政や教育や祭祀を司る。そしてこの下に、民の生業の開発と救済を業とした広済館と民に医療を施す療病館、そして貧民の赤子を養育する慈育館、さらには民の幼子を教育する遊児廠が置かれていた。
 そしてこの小学校が置かれた町は、従来の城下町のようなものとされ、小学校の周りに、六府の出張所が置かれて地域の行政を司り、その回りには農業や商業や工業などに従事する民が集住するとされていた。
 これが信淵が構想した国家構想のあらましである。
 そしてこの国家を運営する人材は以下のように補給された。
 すなわち教育所では8歳以上の男女が教育されるのだが、その中で優秀な男児は15歳になると、皇都の教化台に置かれた大学校に送られてここで高等教育をうけ、そこを卒業したものを進士として、彼らの中から、三台や六府の役人が選挙で選任されていくという。
 信淵の構想した神聖国家日本を指導していく官吏たちは、宗教者と学者と官吏の職を併せ持ち、かつ彼の著書の各書で、三台の役人の中で武芸の秀でたものを選抜して、天皇を守る親衛隊を組織するともかかれているので、武芸にも長じた軍人でもあると考えられたのであろう。
 彼らは儒学の構想した儒教の宗教者の姿をした、異様なものたちであった。
 しかし彼の国家構想の中においては、武士の位置づけは不明確であり、一言も触れられていない。
 あるいはこれは、信淵にとっては武士は、国君たる君侯を生まれながらに補佐するものとして儒学的に捉えられていたので、あえて彼らの役割については述べなかったものか。 おそらく彼らは、皇国の背骨を担う官吏の中心的役割を果たすのであろう。
 佐藤信淵の構想した日本国家は、従来の幕藩制国家を天皇が統治する国家を中心としたものに組み替え、天皇と諸侯とが共同して統治するこの国家に民の中の優秀なものもまた組み込んで統治を行い、全体としては、天皇・諸侯・士大夫である武士・民の全てを教え導く存在としての教化大師と教化台という道徳的教育的な高い徳で組織された指導機関の元に統治しようとする、神聖国家であったと言えよう。
 そしてその教化大師に相応しい人物としては、佐藤信淵、彼自身が擬せられていたことが、当代においても嫌われて経世学者として採用されず、後世に、一方では先覚者として神とも崇められ、他方では大ペテン師と罵られる根拠ともなったのである。

(e)世界の中心たる日本が世界を統一する秘策
  佐藤信淵の思想はここに至って、近世江戸時代末期の時代を超越する様相を見せ始める。
 その描く国家像は、天皇を中心とした統一国家で、それを補佐する「超人」とでもいうべき聖人が全体を道徳的に統括し、その下で士大夫である武士や民から選抜された者が三台の実務や六府の実務を教化大師という聖人の教えの下で運営し、これらに統括される形で、民百姓が、それぞれの生業に応じて国家機関に統括されて産業に従事し、軍備を備えて西洋列強の侵略に対抗するというものであった。
 彼の描く国家像は、後の明治維新によって生まれた明治国家。それも尊王派の描いた天皇親政の国家に極めて相似形であり、明治国家の建設に邁進した人々の多くが目ざした、身分制が廃された上での国民が主人公である民主主義によって運営される国民国家という観点はまったくないことに驚く。
 ただしこれは、彼があまり蘭学に詳しくは無く、西洋諸国の国家のあり方や産業のあり方、そして学問科学のあり方に詳しくないゆえであろう。
 そして西洋に学んだ国家づくりという観点は決定的に欠如しており、 せいぜい彼の書いた多くの軍学書に見られるように、西洋の優れた武器を導入するという観点に留まっていたことの反映であり、佐藤信淵の思想の背景が、儒学と平田篤胤の国学に多くは依拠していたことの反映であろう。
 それでも彼は強大な西洋の国家に対抗するには、武士だけで運営される諸藩の連合体では無理だとの認識はあったのであろう。だからこそ、天皇の下での皇国の指揮下に諸侯を置き、その指導力の下で民の力をも軍隊だけではなく行政機能にも動員しようと考えたのだ。
 これだけでも、佐藤信淵の思想は、幕府の統治がまだ健在であった時代の様相を超越したものであった。 
 そして最後に信淵は、世界の中心である日本が、文字通りの世界の中心となるための秘策を提示する。
 「混同秘策」(1823・文政6年頃成立か)である。
 彼は皇国の都はその地勢と産業から江戸以外にないとし、ここを中心に皇国を組織し、諸侯の国をもこの従属化に置けとする。
 そして諸侯とその家臣で皇国の都に住むことの出来るのは、参勤交代で都に来た諸侯と護衛の若干の兵士だけとし、その他の家臣は全員、諸侯が支配する国の村に土着して、いざというときの戦に常に備えよと説く。
 したがって皇国の都には諸侯とその家臣がすべていなくなるのだから、現在の江戸の人口(150か160万と彼は言う)の過半を占めた武士が居なくなるのだから、商人や職人の多くも地方に分散させ、巨大な都は皇国の役人だけとなるとしている。
 ここでも大消費地、金銀が動く消費の町としての江戸は、完全に否定されている。
 この上で彼は、日本が世界の冠たる国に現実になる方策を出し、要するに、日本から積極的に世界の国々を征服しろと説いたわけだ。
 世界で最も大きく豊かな国は中国であると。その国を取ってしまえば、あとの国は順次従えることは容易いと。そしてその中国のうちの、日本にもっとも近く、かつ中国の首都北京の北側を占める豊かな地域である満州をまず攻め取れと提案する。満州は日本からは海を越えればすぐのところであり、その東北の果てである黒竜江に沿って攻め上れば、この地は中国ではなく多くの蛮族の地であるから簡単に日本に従うであろうと。
 このためには東北の民を一時蝦夷またはカラフトに移住させて寒さに耐える訓練をし、時がきたら大量の米や麦を携えて黒竜江河口に進軍し、中国の砦を打ち壊して、この地の蛮族に米や麦を分け与えて手なずける。そうして河口部を抑えたら、この部隊は順次川上に向かって進軍し、次第に満州中心部へと進む。
 黒竜江沿岸の沿海州や満州の蛮族は遊牧民で、米や麦がないのだから、日本から運んだ米麦を与えれば簡単に従うと彼は言う。
 ここには、満州や沿海州の諸民族は、日本人と同じ商業者で、海陸の交通に従事して諸物の流通を司る民で、この商業活動を通じて米穀を手に入れている民であるという認識は皆無である。
 彼にとっては農業を知らない民は皆蛮族なのであり、商業は悪であった。だから彼らが産しない米穀を配ればすぐ皇国に従うと。
 そしてこの戦いと同時並行して、日本の日本海側の省から軍船を多数だし、一つは沿海州沿岸を、一つは朝鮮の日本海沿岸を、他の一つは朝鮮南部から黄海沿岸の諸州を襲い、その地を混乱に落しいれ、あわよくば中国の山東省などを襲えば、中国の清の国主は慌てて大軍を催して日本を直接討とうとするであろう。
 こうなればしめたものであり、あとは中国が瓦解するのをまてばよいと。
 ここには信淵の中国人(朝鮮人や満州・沿海州の諸民族)に対する蔑視観が垣間見えている。
 信淵は言う。
 「満州人はせっかちで謀に乏しく、シナ人は臆病ですぐ恐れおののく」と。
 彼のこの他国人に対する蔑視は、何に所以するのであろうか。
 これまでで日本人が満州人と中国人と戦った経験といえば、幕末に近いところといえば、室町戦国時代の倭寇がかの地を襲った際の経験と、豊臣秀吉が朝鮮を攻めたときとだけである。およそ250年から400年前の話。
 しかしかつて近世編1の【7】秀吉の朝鮮侵略戦争の項で見たように、15世紀末に朝鮮を攻めた大名武士たちの異国観が、倭寇として朝鮮中国を攻めたときの体験に基づいた、「中国や朝鮮は長袖の国(つまり長い袖や裾の衣を着て戦には慣れない臆病 な貴族の国)、日本は弓矢の国(戦に長けた武士の国)」という異国観に染まっていたことを見た。
 これがこのまま250年を経た江戸後期の思想家佐藤信淵に継承されているのではないかと思う。
 事実彼は「混同秘策」の冒頭で、次のように語っている。
 「支那は皇国に隣接する最大の国だが、支那全国の力を集めて皇国を攻めようとしても、皇国を害する策はかつてなかった。もし暴虐の主が出て強いて大衆を動員して皇国を攻めようとしても、かつて元のフビライのように全国の力を集めようとも、皇国は少しも恐れることはない。かの国に莫大な損失があるだけで、一度は攻め寄せて来ても、三度は攻めてはこれないことは、論じるに足らないことである」と。
 この信淵の言は、鎌倉時代の元の2度の来寇のことを言っているのは確実である。
 彼の中国観は完全にこの神風が吹いて皇国が勝ったとずっと言われてきた戦いによるものであったし、朝鮮や中国の沿岸部を攻め混乱に落し入れればかならず中国は大軍を催して日本を攻めてくるに違いないとの言明は、倭寇がこれらの国々を襲ったときの経験に基づいていることも間違いはない。
 佐藤信淵の日本による中国・朝鮮経略策は、神国観によって歪められたかつての戦争の記憶にしか基づかぬ、空論だったのだ。
 そしてこれは、彼が読んだ歴史書の、中国観・朝鮮観のなせるわざであったろう。
 おそらくそれは、先に見た「日本外史」やその資料的典拠となった「大日本史」、そして彼の神国思想の元祖である本居宣長の
「馭戎慨言」(ぎょじゅうがいげん)などであっただろう。
 この時代の人の歴史認識が問われる所以である。

A佐藤信淵、その略歴と人物

 さて佐藤信淵の思想を、彼の主要著作を通じておおまかに見てきた。
 簡単に概観しただけでも、彼の思想は広大で多くの分野にわたっており、全体としては、為政者が如何に統治をなすべきかという意味での経済の学になっていることが読み取れよう。

(a)「総合の学」を吹聴する評論家・思想家としての信淵
 しかしこれらの著作の多くは、彼の同時代か先行する人々の著作から借りて来たものを素材として、それを彼が平田篤胤から学んだ日本神国論に基づいてまとめたものであったことがすでに彼の研究史の中で明らかになっている。
 すなわち彼の宇宙論であり日本国論である「天柱記」(1825・文政8年成立)と「
鎔造化育論」(1842・天保13年成立)は、その中に多数述べられている西洋天文学の知識はほとんどすべて、志筑忠雄(1760‐1806)が1798年から1802年にかけて翻訳刊行した「暦象新書」からの借り物である。そして天柱記の骨格となっている日本の古典とその神国論的解釈の多くは、信淵が師事した平田篤胤の著書からの借り物である。さらに信淵の農政論の主著である「農政本論」(1829・文政13年成立)は、高崎藩士で先行する地方農政論をまとめた大石久敬の著「増補田園類説」から、多くの農業技術の実例を借りてきている。また信淵の西洋認識を述べた書として知られる「西洋列国史略」(1808・文政5年成立)は、蘭学者山村才助が多くの蘭書から抄訳して書いた「西洋雑記」(1801・享和元年刊)のほとんど引き写しであった。
 このことは信淵の他の多くの著書にも言えることであり、彼は独創的な科学者や経世学者というよりは、今日的に言えば評論家・思想家であり、彼の著書は、彼に先行して多くの優れた著述をなした人々の書物を多数読み、それを彼自身の儒学の古典についての博識に基づいて、彼の目的に沿って再編集しなおしたものと言えるのである。
 たとえば彼の独創性を比較的良く示した書である「垂統秘策」や「混同秘録」で展開された国家論にしても、彼の独創とは言えず、多くの古典や同時代の先行的な試みに依拠したものであった。
 信淵は、先に見たように、民の暮らしを安んずる徳政を長く継続し豊かな国を継承する方法としては、高い学識と高い道徳的信念をもった「超人的」学者が事実上の指導者として、国を治める君侯やそれを補佐する士大夫、さらには民百姓の全てをもその学問と道徳で教え導く国家を構想した。そして国の中央に置かれた大学校(諸侯の国では講談所)が全体を統括する学校を兼ねた役所として設けられ、その指揮下に各地に小学校を置き、さらに村々には教育所を置き、これらの学校と役所を兼ねたものが、他の実際に諸産業を統括する役所を指揮して国政を行うとしていた。
 しかしこれとて先例があったのだ。
 すでに【31】の寛政の改革の項で見たように、老中首座の松平定信は、乱れた国政を立て直すために、幕府儒者の林家の私塾を幕府の中央学問所と位置づけなおし、幕臣の全てはそこで学ぶこととして、朱子学を中心として君臣・民の身分的秩序を厳正に守った上で統治の学を学ぶように仕向けた。そして学問所の教授たちは各々、学問所で教えるだけではなく、それぞれの私塾においても、広く人々に朱子学を中心とした道徳・統治の学を教えるうに仕向けていた。そして改革政治を通じて、民百姓にも、儒学的な社会を維持するための思想が流布されていた。
 また同じ考えは、定信の寛政の改革を支えた、地方出身の儒者たちの手によって、それぞれの藩ですでに実践されていたものであった。
 この寛政の時代あたりから、諸国の藩は、藩に藩士が学ぶための藩校を設け、そこで統治者としての武士の道徳と統治の学を学ぶこととし、まず統治者自身が、仁政の思想に基づいて民を統治する動きを再構築しようとしていた。寛政の改革における幕府学問所を中心とした幕臣の再教育は、こうした諸藩の先例に基づいたものであったのだ。
 さらにこうした道徳に基づいた統治者の再組織の動きは、武士以外の民をも再教育して、国としてのまとまりを維持しようとする動きとなって現れていた。
 【36】の新しい学問の発展の項の最初の民衆の教育の発展のところで見たように、
1781(天明元)年に広島藩儒者に登用された頼春水(1746‐1816)が、、「正学」である朱子学によって藩士だけではなく民衆も含めて教育することで、民衆までも藩主を頂点とする秩序のなかに統合できると考え、藩校の下に、藩校と連携した藩校の分校としての郷学をもうけ、さらに寺子屋(手習い塾)の半公営化まで構想して、これによって藩政改革を実施できると考えていた。この策は藩内の勢力の軋轢の中で実際には全て実施されなかったのだが、藩校を頂点として、その下に藩校の分校である郷学を各地に設け、この指揮の下に村や町にある寺子屋の教育内容までも統制しようとしたことは、信淵の、大学校−小学校−教育所構想の先駆けと見ることが出来る。
 また信淵が民を8つの職種に分けてそれぞれを国家機構である六府の指揮下において生業に従事させ、その生産物を税としてすべて収納させて、収納した生産物の売買を国家が専売して必要な所にそれを流通させると共に、流通過程における利益を国家が独占し、その利益によって産業を開発し民の暮らしを支えようと構想したことは、経世学派の人々が、藩が藩営で諸産業を開発し、その販売流通を藩が独占して利益をあげ、藩の運営費とするとした策を、神国論によって統一された皇国の国策へと拡大したものである。
 このように見てくるとき、佐藤信淵という人物は、様々な農学などの実学を実践してきた実践家ではなく、儒学や経世学や蘭学などの先行の所見を大胆に取り入れながら、あるべき日本国家のあり方と統治のあり方を指し示した評論家もしくは思想家と言ったほうが正確であろう。
 ただし彼がこのような壮大な構想を抱き、仁政思想に基づいた国政のあり方を説いた背景は、彼の著書の各所に繰り返し「神の意思を体現して仁政を行えば、民が食に飢え、子どもすら殺すことなどなくなる」と述べているように、17世紀の中頃以後打ち続いた飢饉の中での、民の悲惨な姿を直接目にし、この惨状を何とか救いたいという動機に裏付けられたものであった可能性は高い。
 この点で彼もまた、先にみた安藤昌益と同様に、医者という立場から、世の矛盾を解決する策を深く問い、自らが見出した方法によって世の中を変えようと意図した人物であったと言えよう。
 このことは彼の経歴を見てみるとよくわかることである。

(b)佐藤信淵の経歴
 彼の経歴は不明な部分が多い。何しろ彼の経歴を裏付ける客観的な資料が少なく、多くは彼自身が著書の冒頭に記した略歴や、彼の子息が後に著した家の履歴によるしかないからである。しかも先行研究が明らかにしたように、彼自身が語る略歴の多くは、彼に経世家としての箔をつけるための経歴詐称であった。
 佐藤信淵は、1769(明和6)年に、出羽国雄勝郡新成村郡山に医者である父佐藤信季と母貞静の間に生まれたと略歴に記されている。
 しかし出生地は子孫がそこから4kmほど離れた西馬音内だと証言しており、正確には確かめられない。
 父佐藤信季は、雄勝郡西馬音内前郷村に代々続いた医師の三男であり、雄勝郡新成村郡山に移って分家した人物であったことは確かである。
 しかも信淵の出生年も実は確定できない。明和6年の2年前の1767(明和4)年に生まれたと、信淵自身が手紙にも書いているからである。明和6年説は、子息が幕府に父の赦免を願出た書類に添付した「佐藤家略譜記」による年代である。
 その後の彼の経歴は、彼自身が語った略歴によると、13歳のとき1781(天明元)年に父に従い蝦夷地に渡り、その奥地根室や宗谷にまで至ったとあるが、これを確認する資料は存在しない。そして以後も父に従って、出羽・奥州・越後・関東諸国を遍歴して諸国の鉱山・物産や風土を観察し、16歳のとき1784(天明4)年に足尾銅山に逗留中に父が病で死去し、以後は父の遺言に従って様々に学問したという。
 すなわち、高名な蘭学者宇田川玄随に蘭学を、井上潜について漢学の経済論を、木村泰蔵について天文地理測量を学ぶと彼が語っている。
 だが宇田川玄随の門人名簿には、彼の名前は確認されていない。
 そして17歳のとき、1785(天明5)年に師の玄随が主命によって美作国津山に戻るのに随行して津山に行き1年ほど逗留したあと、西国諸国を経巡って薩摩にまで赴き、途中大坂で砲術を学んだりして郷里に戻り、以後は津山藩の年寄三原金太夫の家に寄宿したという。 またこの間に津山藩や長州藩や一宮藩の藩政改革に従事したと信淵は述べているのだが、津山藩の藩政改革の話は後年に彼が四国宇和島藩の藩政改革諮問を受けた際の箔をつけるための経歴詐称の可能性が高く、さらに当時は一宮藩も存在しないことから、これらの経歴は全て詐称の可能性が高いとされている。
 確実なのは、「佐藤家略譜記」に記されているように、24歳のとき1792(寛政4年)に江戸で医業をはじめて以後医術を生業としながら、さまざまな学問を学びながら経世家として世に出ようとして様々なつてを頼って仕官の道を探ったが果たせず、48歳のとき1816(文化13)年に医師を廃業した後に、師事した幕府神道方の吉川源十郎の神道講談所設立に関る不祥事に連座して江戸所払いとなり、以後は各所を転々としながら、経世家として世に売り出すべく、数多くの著作を物してこれを諸方に献呈しするなど運動したが、彼を採用する藩はほとんどなかったというのが実情であったようだ。
 この間に47歳の時1815(文化12)年に国学者平田篤胤の門人となって彼の神国論を貪欲に吸収し、この時期の信淵の多くの主著はなったもののようである。
 これは平田篤胤の日記の各所に、佐藤信淵の名前が記されていることで確認できる。
 このように佐藤信淵の学の多くは実地に学んだものではなく、書物の上で学んだ机上のものであった。それでも多くの書を読み、それなりに体系的な論を張る信淵を大名の重臣に推薦する人もあったもようで、幾つかの藩が彼の意見を聞くようになった。
 その始めは、信淵が39歳のとき1807(文化4年)の徳島藩中老集堂勇左衛門との出会いである。
 この徳島藩の重臣との交流は数年にわたり、このとき信淵が徳島藩から諮問された内容は海防論についてであったのであろうか。この時期彼が著した著作はまさに海防を中心としたもので、「鉄砲窮理論」「三銃用法論」「防海策」などで、これにこれらの策で迎え撃たなければならない西洋諸国の歴史をしるした「西洋列国史略」が加えられる。
 これらの著作は、信淵を徳島藩に売り込むために書かれて献呈されたものであろうか。
 しかし結局のところは彼の意見は採用されず、彼自身が著書で述べたような、実際に阿波徳島に行って藩政改革に従事したという事実はなかったようである。
 さらに彼の経世策を聞き、藩政改革に採用するかどうか検討した藩があった。
 それは、伊予宇和島藩であった。
 信淵が70歳のとき1838(天保9)年に宇和島藩士2名が彼の元に入門し、彼の経世策を学んで藩政改革に生かそうとしている。そして宇和島藩は、信淵の経世家としての実力を試そうとしたものであろうか、丹波の綾部藩に藩政改革指南役として信淵を推薦し、1839(天保10)年に綾部藩は藩士を信淵の元に派遣してその農政論の著書を写させたりしたのち、彼を綾部に招請した。
 信淵は翌1840(天保11)年4月に綾部に到着し、綾部藩領7郷60ヶ村を巡察して「巡察記」3巻を書き上げ、藩の農政を刷新する策を藩主に建策した。
 すなわちその内容は、綾部藩の国益作物は木綿であったので、田での稲栽培をやめて全て木綿栽培とし、栽培技術の改良や干鰯などの金肥を使うことでの増収をはかり、さらには、煙草・人参・漆などの商品作物を適地を選んで栽培するなど、藩の国益作物を増やすことを提案した。そのうえで、百姓家一軒は日に一銭をつみたて、これを集めて貸し付けて増やしてゆき、米の値段の安い時を見計らって凶作や飢饉に備えて蓄えたり、農業改良の資金としたり貧しい百姓をすくう費用とせよと提案したものであった。そして百姓が困窮する大きな理由は、地主が土地を集積してしまうのを阻止できないことで、こうした農業改良も農政改良もできない藩の役人は木偶の坊であると批判したものであった。
 そしてこの実地調査に基づく農政改革論を手土産にして、信淵は宇和島藩藩政改革案を藩主に建策したのであった。
 だが実際のところ、彼の農政改革は、どちらの藩でも採用されず、彼自身が、藩政改革の主体として招請されることはなかった。
 理由は簡単である。
 彼の改革案の実際は、ありきたりのものであったからである。
 だから彼自身を招請する必要はなく、宇和島藩でも、信淵の所に入門させていた藩士を帰国させ、信淵の推奨する農事改革を部分的に実施したのみであった。おそらく綾部藩も同様であったろう。
 こうして佐藤信淵は生涯経世家として世に出ようと努力したが、彼の説はほとんど採用されずに終わり、彼は1850(嘉永3)年正月に江戸に没した。
 彼の著書のうち生前に出版されたものは皆無である。多くが自筆本や門人が筆写したものや、各所に献呈されたものが残るのみであった。
 出版されたのは彼の死後、それも明治になってからのことであった。
 明治政府が増収のために農業改良を行おうとし、その一貫として江戸時代の老農の農学に学ぼうとしてそれを発掘した過程でのことであった。だからまず農政関係の本が政府の手で出版され、これで佐藤信淵の名が知れ渡ったのだ。
 その後、明治政府が次第に大陸進出に熱心となるなかで、信淵の統一国家論や対外侵略論である「垂統秘策」や「混同秘録」が刊行され、1909(明治42)年には平田篤胤を祭る秋田の平田神社に合祀され、神社名を
高神社として改名して、神として祭られるにいたったのである。
 これは信淵が彼の思想の根幹においた平田国学が明治維新の精神的支柱であり、明治国家が天皇親政国家として尊王派によって構想され、これが一定程度実施されたからのことであった。
 そしてさらに、信淵の国家構想が、先に見たように、民と財貨の国家管理の様相を示しており、しかも世界に冠たる神国日本として世界を征服する道筋を明らかにしたものであったために、昭和前期の国家主義者から、彼らの国家構想の先駆けとして顕彰されたからでもあった。 

B佐藤信淵の歴史的位置

 佐藤信淵は時代の申し子であった。
 彼が生まれて活動した時代は、近世江戸時代の社会政治体制が内外の危機によって存亡の危機に瀕していた時代であった。そして彼が幼少期を過ごしたところは、秋田の山深い農村で、しばしば飢饉に襲われる地域でもあった。
 おそらく彼は、天明の大飢饉の惨状を身をもって体験したものであろう。そして彼の家は、村医者として、飢饉にあえぐ百姓を助ける役目にあった。
 このことが彼の生涯の生き方に大きな影響を与えたものであろう。
 彼は医術を修め、医師を生業として生涯をすごした。そしてその過程で、一人一人の患者の病を癒すだけではなく、社会の病もまた癒せるはずだと考え、そこから諸学を学んで経世家として世に出ようと図ったのに違いない。
 だから彼は繰り返しその著書で、農こそ世の根本であり、その担い手である農民をこそ大事にしなければならない、彼らの生活を安んじるのが国君としての君侯の務めであると説いたのだ。
 そして歴史を顧みる中で、世には名君と呼ばれる優れた民を想う藩政を敷いた君主は数多くいるが、その仁政も彼一代に留まり、やがてまた政は腐敗していく様を直視せざると得なくなった。なぜ仁政の思想は継承されないのかと。
 彼の結論は、人は皆、君侯や士大夫である武士や民百姓らすべて、目先の利益や我欲に犯されて、人間本来の務めを忘れがちであるというものであった。それゆえこのような愚かな人間は、高い道徳と深い学問を会得した「超人」によって教化指導されなければならないと。
 こうして彼は、儒学伝統の聖人君子としての君主が統治する国家こそ理想のものであるとして、それに時代の申し子であった諸学、とりわけ経世学によって推進された国(藩)それ自体が商人となって産業の開発からその産物の販売にいたるまで全部国家管理するという重商主義政策を国策の柱とし、この国家を「超人」的な高潔な人物によって教化指導される神聖国家として構想し、君主から下は民百姓にいたるまで、日本神国論と、神の意思を実現するのが人の務めであるという考えで教化指導される国家を構想したのであった。
 しかも西洋式の武器で武装し、西洋の侵略を阻止するだけではなく、すすんで神国として、世界征服に努めるべしと。
 佐藤信淵の思想は、独創的なものではなく、時代の要請によって生み出された諸学や先人の業績を総合した物に過ぎなかった。
 しかしそれは充分に、時代の危機の様相に対峙し、その原因を探り、それを克服する方法を構想したものであったのだ。
 だが彼の生きた時代はまだ、幕府の統治は磐石だと考えられていた時代であった。
 この時に天皇を中心とした統一国家を構想することは、幕府から世を騒がす曲者として訴追される怖れは充分にあり、現に幕政を批判した多くの人士が、無実の罪で獄舎に繋がれ、命を落としたものすらいた時代であった。
 だから彼の思想の中で最も独創性の高い国家論は秘匿されねばならず、彼の他の経世の学はありきたりのもので、他の多くの経世家がすでに実施していたものであったし彼の論はあまりに儒学の高い道徳と理想から現実を批判非難するものであったゆえに、実際には取り上げられることはなく、彼は世に認められることなく死んで行ったのである。
 佐藤信淵はまさに時代の申し子であり、その上で時代を一歩先んじてしまったために、不遇のうちに生を終えざるをえなかった。
 しかし彼の思想は充分に封建制の内部での資本制の発展という内部の矛盾の噴出と、西欧列強の侵略の危機という外部からの危機が同時に存在した時代の危機に正確に対応し、それを克服する統一国家日本をそれなりに構想したものであった。
 だがこの構想がその後、尊皇攘夷主義者に継承され、さらには明治維新後にもこれが国粋主義者に継承されるにいたって、この構想は、一方で現実主義的に西欧流の立憲政体、間接民主制に基づく国民を主体とし た統一国家形成の思想と正面から激突してしまい、これに大陸侵略是か非か、すなわち日本が殖民帝国になるのかそれとも産業立国で自由貿易体制の中で強国として動くのかの対立が結合し、1945年の日本の敗戦にいたるまでの、日本近代史を二分する深刻な政治的対立の根源となっていったのだ。
 この意味で佐藤信淵の思想は、後の明治維新の、そして近代日本国家建設の矛盾と苦悩とをすでに先取りしていたとも言えるだろう。
 しかし後に、彼の業績が死後初めて脚光を浴び、彼の構想が称えられたのは、時代が彼に追いつきそして、次の時代が選択した方向が、信淵が構想した神国日本による世界統一という空想と一致したためであった。
 だが彼が「混同秘録」で展開した中国などの征服案は詳細とはいえ、あまりに机上の空論であった。彼がどれだけ真剣に、こうした戦争と世界征服を考えていたのかはわからない。彼自身にとっても、戦はずっと昔の歴史上のことでしかなかったからである。
 従って彼の推奨する世界征服戦争が、彼が愛してやまなかった民百姓たちに飢饉以上の苦難を負わせるものであるとは、彼は想像だにしなかったであろう。
 第一彼は、百姓や町人には戦をさせる気はなかったのである。戦は武士とそれに援軍として徴発された漁民と労働を生業とした貧民だけと考えていたからであった。
 佐藤信淵にとって、国民を戦士としても動員する国民国家などは、夢想だにしないものであった。
 だから彼が死後において、「大東亜共栄権」を先見的に構想し旗を振った人物であったなどと称賛されかつ非難されたことは、彼の責任外のことである。
 彼はただ、内外の危機に瀕した近世江戸の社会と民を、如何に救うかを真面目に考えたに過ぎなかったのだ。この点では、先にみた安藤昌益のそれと同じである。ただし佐藤信淵のそれは、昌益が実際に村に入って理想の世の中を作ろうと実践したこととは異なり、あくまでも机上の空論ではあったのだが。

 佐藤信淵は、「つくる会」教科書が描いたような、単なる開国論者であったのではない。
 儒学の伝統的観念に基づきながらも、経世学や蘭学の知識も動員しつつ、基本的には日本神国論に依拠して、西欧に対抗する神聖国家としての統一国家日本を構想した人物であった。彼の開国論はその一環でしかなかった。
 なぜ「つくる会」教科書は、彼の全貌を描かなかったのか。
 しかもこの人物は、「つくる会」がその傾向を継承してもいる、戦前の国家主義者・国粋主義者の思想の元となった人物で、戦前には「大東亜共栄圏」を提唱した先覚者としても称賛された人物だ。だからこそ「つくる会」の教科書執筆陣は佐藤信淵をわざわざ教科書に特記したのだと思う。
 なのに単に開国思想の流布者として記述したことは解せない。
 あるいはこれは、「大東亜共栄圏」思想の先覚者として記述したかったが、それはあまりに朝鮮や中国などの批判を招くとして自己規制したものか。あるいは検定用の白表紙本ではそう書いたが、佐藤信淵自身がそれを主張したわけではないとの理由で、検定で削除を要求され、名前だけでも載せておこうとの妥協の結果であったのかもしれない。

:2005年8月に刊行された新版でのこの項は、開国を説いた本多利明と佐藤信淵のところがバッサリと削除されており、開国論があったことそれ自体が抜け落ちている(p127)。これでは新しい時代に対応した思想は、林子兵の西洋に学んだ軍備の増強論と尊皇攘夷思想の二つだけとなってしまい、明治維新とその後の明治国家建設を二分した神国論に基づく尊王思想による天皇親国家の実現と西欧流の立憲政体の実現という二大思想の対立という日本近代史の骨格を捉えることがまったく不可能となってしまった。あるいはこれは、こうした思想的対立が日本近代史に内包されていたという歴史的事実そのものを抹殺したいという意図によるものかもしれない。この点については、続刊の近代編1・2・3と現代編で検証することとする。

:この項は、 頼山陽著・頼成一・頼惟勤訳「日本外史」(1976年岩波文庫刊)、佐藤信淵著「天柱記」「混同秘策」「垂統秘録」「経済要略」(尾藤正英・島崎隆夫編「安藤昌益・佐藤信淵」1977年岩波書店刊日本思想体系45所収)、 荻生徂徠著「政談」(尾藤正英編「荻生徂徠」1983年中央公論社刊・日本の名著16中公バックス版所収)、本多利明著「西域物語」(佐藤昌介編「渡辺崋山・高野長英」1984年中央公論社刊・日本の名著25中公バックス版所収)、 佐藤信淵著「鎔造化育論」(相良亨編「平田篤胤」1984年中央公論社刊・日本の名著24中公バックス版 所収)、 藤田東胡著「弘道館記述義」・会沢正志斎著「新論」・橋川文三著「水戸学の源流と成立」(橋川文三編「藤田東湖」1984年中央公論社刊・日本の名著29中公バックス版所収)、源了円編「山片蟠桃・海保青陵」(1884年中央公論社刊・日本の名著23中公バックス版)、 頼惟勤編「頼山陽」(1984ン中央公論社刊・日本の名著28中公バックス版)、山本七平著「江戸時代の先覚者たち−近代への遺産・産業知識人の系譜」(1990年PHP研究所刊)、 武部善人著「太宰春台 転換期の経済思想」(1991年御茶ノ水書房刊)、沼田哲著「世界に開かれる目」(1993年中央公論社刊・日本の近世10近代への胎動所収)、 戸沢行夫著「江戸がのぞいた<西洋>」(1999年教育出版刊)、稲雄次著「佐藤信淵の虚像と実像−佐藤信淵研究序説」(2001年岩田書院刊)、矢嶋道文著「近世日本の『重商主義』思想研究−貿易思想と農政」(2003年御茶の水書房刊)、辻本雅史著「学問と教育の発展−『人情』の直視と『日本的内部』の形成」(2003年吉川弘文館刊日本の時代史17「近代の胎動」所収)、 金子務著「江戸人物科学史」(2005年中央公論新書刊)、 渡辺浩著「日本政治思想史 17〜19世紀」(2010年東京大学出版会刊)、小学館刊の日本大百科・平凡社刊の日本歴史大事典・岩波歴史辞典の該当の項目などを参照した。


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