「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第3章:近世の日本」批判5


5:「天皇の平和」による全国統一:秀吉は全国を武力統一したわけではない

 第3章の三つめの節は「豊臣秀吉の全国統一」である。「つくる会」教科書はこれを三つの項目に分けて記述している。すなわち、「秀吉の全国統一」「キリスト教の禁止」「朝鮮への出兵」である。
 まず最初の「秀吉の全国統一」について検討しよう。

 この項目の記述は、歴史研究の深化を反映した比較的時代状況をよく写した記述と、古い混乱した歴史認識が混在したものである。比較的よく書けているのが、秀吉がいかにして全国統一を成し遂げたかについての記述である。

(1)秀吉の全国統一は「天皇の平和」に依拠していた

 「つくる会」教科書は、信長の死後しばらくして、秀吉が信長の後継者としての地位を確立したことを記述したのちに、以下のように記述している(p118〜119)

 1583(天正11)年に、秀吉は、信長の安土城を模範に巨大な大阪城の築城を開始し、全国を統治しようとする意思を示した。
 このあと、秀吉は徳川家康とも戦ったが、決着がつかず和睦した。その後、四国の長宗我部氏を降伏させるとともに、朝廷から関白の地位を得た。関白となった秀吉は、天皇から全国の統治をまかされたとして、大名の間の戦いや一揆などいっさいの争いを停止し、その解決は秀吉にゆだねることを命じた。この命令をもとに、これに従わない九州の島津氏を降伏させ、また関東の北条氏をほろぼし、伊達氏など東北の大名も従えて、全国を統一した(1590年)。…(中略)…こうして身分の違いを確定するとともに、平和な時代が準備されていった。

 この記述は、よく出来ている。どこが良いかというと、一つは、秀吉はけっして全国を武力統一したわけではなく、「天皇から全国の統治をまかされた」ということで、天皇の名代として諸国に号令を発して統一をなしとげたということが概ね正確に記述されていること。二つ目には、その際、同じく天皇の命に基づいて、「大名の間の争い」を停止し、「その解決は秀吉にゆだねること」を命じて、この命に従わなかった大名のみ、武力討伐をしたことが明記されていること。さらに三つ目には、この「天皇の平和」による争いの停止は大名間の争いだけではなく、「一揆などいっさいの争いの停止」にまでおよんでおり、惣村による村同士の争いや領主の政治に対する惣村連合による一揆の停止と「その解決は秀吉にゆだねる」ことが概ね正しく記述されていること。全体として言えば、秀吉政権成立の歴史的意義は、中世末期戦国時代の統一権力不在の中での自衛武装によるいっさいの争いを停止し、「平和な時代を準備する」ものであったことがきちんと記述されていることである。

@領土紛争の停止と秀吉による国分け

 秀吉が全国的な争いを停止するために出した法令は幾つかある。
 その一つは、「惣無事令」と呼びなわされる法令で、関白になった直後の1585(天正13)年10月に、激しい領土争いを続けていた九州の島津氏と大友氏にあてた「九州惣無事令」であり、この争いの裁定がまだ終わっていない1586(天正14)年の11月に出され、関東・奥羽の諸国大名に対してだされた「関東・奥両国惣無事令」である。

 1585(天正13)年10月に出された島津氏あての「九州惣無事令」ではその冒頭に、「関東から奥州にいたるまで『天下静謐』を勅命によって命じられた」と述べて、九州における停戦を命令した。そして、「国郡境目争論」については双方の言い分をよく聞いた上で、追って秀吉から裁定を申し渡すとした。これは天皇の命令によるものであり、敵味方とも速やかに戦をやめ、命令に従え。もしこの命令に従わない場合には必ず成敗するとも述べている。
 そしてこのとき、争う双方に出された裁定案は、島津氏には、本領の薩摩・大隈(鹿児島県)と日向(宮崎県)を安堵し、さらに肥後(熊本県)の南半分も安堵する。しかし占領した肥後北部と筑後(福岡県)と豊前(大分県)半国は大友氏に返還し、同じく占領した肥前(佐賀県)は毛利氏に返還、さらに占領した筑前(福岡県)は秀吉の所領とする。そして大友氏には、本領である豊後(大分県)と豊前、さらには筑後を安堵するというものであった。
 ではこのとき、諸大名はどう対したか。
 九州全土をほぼ島津氏に制圧され、鎌倉以来の本領である豊後(大分県)すら危うくなっていた大友氏は直ちにこの命令に従ったが、九州全土をほぼ制圧していたのにその返還を命じられた島津氏はこれを拒否した。その理由は、「停戦については受諾するが、先年の信長による停戦命令を破ったのは大友の側であり、大名間の領土紛争にまで中央が介入するのは不当である」というものであった。そしてこの裏には、「関白といっても秀吉はなりあがりものに過ぎない」「当家は源頼朝以来の名誉ある武門の家である」という、由緒ある守護大名家の誇りと九州を実効支配してきた自信とがあったに違いない。つまり島津氏の言い分は、「これまでも将軍の命令による停戦命令は受諾して来たから今回も受諾するが、領土紛争は大名間の私事であって中央=公儀が介入することではない」という論理であったのだ。
 このことは、秀吉の「惣無事令」の新しさは、停戦命令にあるのではなく、大名間の争いは「国郡境目争論」と呼ばれる領土紛争であるのだが、その紛争を大名間の戦闘によって決着するのではなく、秀吉=公儀による裁定=裁判によって決着させる所にあって、その根拠は、秀吉が天皇から「天下静謐」を委任されているからということにあったのだ。島津氏は停戦命令には応じたが、秀吉による裁定(国分け命令)には従わなかった。これゆえ秀吉は直ちに島津氏に国分け裁定を受諾させるために軍を九州に向けて動員し、島津氏を降伏させ、自己の国分け裁定を実現させたのであった。

 1586(天正14)年に出された「関東・奥両国惣無事令」の場合も同様であった。ただ一つ違うのは、関東と陸奥・出羽の天下静謐は、秀吉から徳川家康にその執行が委ねられていたことであった。そしてこの地域における大名間の領土紛争に関しては、それぞれの大名の言い分を聞いた上で、それぞれの本領を安堵して境界を裁定し、これを各大名に受け入れさせたのであった。さらに、この裁定に従わなかった大名に対してのみ処罰が実行された。
 それは、一つは裁定を不服として領土紛争を継続した伊達氏と芦名氏に対してであった。そして、その争いの果てに会津(福島県)に侵攻し会津黒川城による芦名氏を攻め滅ぼした出羽米沢(山形県)の伊達氏に対しては、直ちに兵を引いて会津を秀吉に引渡し、本領の出羽米沢に戻ることが命じられ、争いの相方である芦名氏は本領の会津の没収を宣告され、会津は秀吉の直轄領とされた(後に秀吉近臣の蒲生氏が領主に任命された)。
 また、同じく徳川氏との間の上野(群馬県)東部沼田領をめぐる領土紛争を抱えていた北条氏に対しては、上野東部の北条氏への帰属とそこを占拠していた徳川方の真田氏の信濃(長野県)・上野西部への退去が命じられた。しかし、この命に叛いて領土明け渡しを行わなかった真田氏と北条氏との間に領土紛争が再燃し、最終的に秀吉裁定に従って上野西部に退いた真田氏に対して、上野東部を接収した北条方が戦争をしかけた。このことと、停戦受諾後も北条氏が秀吉の下に参って臣下の礼をとならなったことが秀吉の「関東惣無事令」違反と認定されて、北条氏は討伐を受けたのである。そして結果として北条氏は、本領である伊豆(静岡県)・相模(神奈川県)・武蔵(東京都・埼玉県)と他の関東の領国を没収されてしまったのである。
 秀吉による全国統一において武力討伐を受けたのは、信長領国の争奪の過程での越前(福井県)柴田勝家と越中(富山県)佐々成政を除けば、九州の島津、関東の北条の両氏だけであった。そして、秀吉による大名間の争いの停止は、「停戦命令」「秀吉裁定による国分け」「秀吉への臣従」の3点からなっていたのであり、その根拠は、天皇から「天下静謐」を委任されているということだったのだ。秀吉はけっして全国を武力統一したわけではなかったのである。この点は従来の多くの教科書がきちんと記述せず、まるで秀吉が全国を武力統一したかのような記述になっていたが、近年の研究の深化に伴って、そうではないことが明らかになりつつあるが、「つくる会」教科書の記述は、この研究の深化を反映した良い記述である。

 しかし以上の考察からまた、「つくる会」教科書の記述に残るあいまいさもまた明らかになったであろう。
 それは、「大名間の争いの解決は秀吉にゆだねられた」という記述では、それが「秀吉による国分け裁判」による解決であり、これは天皇による「天下静謐」を委任された秀吉が、その臣下である諸大名の領土の範囲すら確定する権限を持っていることを充分に明かにはしていなかったことである。そしてこれは、同時に進行した検地によって、大名の領土は、「日本の国主」である天皇からその統治を委任された秀吉によって、大名にその土地の統治を委任したものであり、領土は大名のものではなく、秀吉から、ひいては天皇から委任されたものであって、大名の統治の評価によっては没収もありうるという論理を内在していたことも、充分に明かにはしていない。そしてこのあいまいさが、後に述べる検地の意味の誤解に結実していたのである。

A喧嘩停止令による村の境目争論の停止

 教科書の記述は、他の多くの教科書よりは概ね正しいものであったが、ここにはまだ曖昧さも残っていた。
 この曖昧さのもう一つの例が、「一揆などいっさいの争いを停止し」という記述の曖昧さである。この「一揆」は何を意味しており、さらに「など」とはどのような争いを指しているのであろうか。
 この教科書は、一揆を惣村の武力が大名に対して向けられたものであり、中には山城国一揆や加賀一向一揆のように「守護大名を倒し、自治」を行うものもあったという文脈で記述している(「中世の批判」の【20】【24】【25】を参照)。この意味で秀吉によって停止された一揆とは、大名に対する「武装闘争」を意味していることが想像される。つまり惣村(惣町も)が、大名が国の平和を実現できないことに対して、自治の村(町)の武力を発動して抗議し、大名の政治を変えたり覆すことは禁止し、その解決は秀吉にゆだねられたということを意味するのであろう。
 この点は、1587(天正15)年に先の九州国分けで肥後半国の大名として入国した佐々氏の統治に対して、肥後の国人領主や村々が国一揆を発動して抵抗したときに、「国の平和」を維持できなかった佐々氏は領地没収され、さらには一揆を起こして抵抗した国人領主や戦いを傍観した国人領主もその領地を没収されるか他の土地に移動させられたことに良く示されている。また、1590(天正18)年の奥州における仙北一揆や1591(天正19)年の九戸一揆でも、「国の平和」を維持できなかった大名の領地没収や改易(領地替え)と一揆で抵抗した国人領主の領地没収などでも明確に示されている。そしてどちらの場合でも、国人領主とともに新領主大名に抵抗した村々に対しては武装解除と指導者の処罰はなされたが、「百姓は耕作に専念し年貢・諸役を怠らぬこと」を条件に赦免されていることにもよく示されている。
 大名の国の仕置きに対する不満を一揆という形で武力で解決することは、国人領主にも百姓にも認められず、この禁を犯した国人領主は、領地没収と言う厳しい罰を与えられたのだ。一方の百姓に対しては、一揆の中心を担った国人領主や地侍の一部が処罰されただけで、一般の百姓にはお咎めがないのは、秀吉の争いの停止の目的が、武士同士の争いの停止と武士のその領地からの切り離しにあったゆえであろうか。
 ともかくも「一揆」の禁止はこのような内容を持ったものであるが、「つくる会」教科書は、国一揆が「民衆の団結で守護大名を倒し」(p104)と把握して、国人領主と惣村の結合した一揆であったことを把握していないために、秀吉による一揆の禁止も単なる百姓の大名に対する一揆の禁止令と誤解される曖昧さを残していたのである。

 しかしでは「など」とはどのような争いなのか。この点については、教科書は、まったくヒントすら記述されていない。
 「中世の批判」の【20】「自治の村」でも述べたが、村の武力が発動されるのは、「村の平和」を脅かす大名などの武家勢力に対してだけではなく、村と村との境目をなす山野河海を巡って争う隣村に対しても武力は発動されていたのであった。これは当時から「山論」「水論」と呼ばれており、しばしば双方の村が武器をもって合戦に及び、場合によっては、それぞれの与力の村からも人数が繰り出されて大規模な戦闘にまでなっていたのである。
 秀吉が停止した一揆には、この村と村との間の境目争論もあった。
 実際に1585(天正13)年以後、各地において、村と村とが山や水路を巡って武器をもって合戦を行ったことに対して、秀吉政権や傘下の大名から「喧嘩停止の法度」が出されていることを理由として、合戦を行った村に対しては責任者を処罰(死刑)して、合わせて争いの元となった境界の山や水路の帰属については、双方から事情を聞き、従来の判例などに依拠して、その帰属を決める裁定がなされていた。おそらく秀吉が関白となった1585(天正13)年以後のどこかで、「喧嘩停止令」ともいうべき法令が出されていたのではないかと、藤木久志は、その著書「豊臣平和令と戦国社会」で述べている。
 村と村との争いも武力の発動ではなく、統一権力の裁定によって解決するべきものとされたのだ。

B「海賊停止令」による倭寇の禁圧と貿易の統制

 さらにもう一つ、秀吉が停止を命じた争いには、海賊行為があった。
 1588(天正16)年以後、各地において、「海賊停止令」が出されたにも関らず海賊行為を行った罪で、各地の水軍の長である国人領主が処罰(領地没収)される例が目立っている。またこのときあわせて、諸国に船頭など船をあつかう者どもを調べ上げ、今後海賊行為をしないことを誓う誓紙を出させ、これを国主がまとめることを命じ、以後海賊行為があった場合には、海賊をしたものだけではなく、それを許した国主も領地没収などの処罰を行うと命じている。つまり1588(天正16)年以前において、海賊行為を禁止する法令が出されていることを意味しているのだ。
 そしてこの海賊行為は特に、唐船に対する海賊行為と「唐入り」と称して中国で海賊行為を行うことを指しており、いわゆる倭寇の取締りを目的としていたことが伺えるわけである。
 つまり戦国後期になっても中国人海商と日本人海商や海を領する国人領主によって行われていた海賊行為(倭寇)を禁圧し、中国・朝鮮や東南アジア、そして南蛮との貿易を秀吉政権が統括しようとの意図をもって、諸国の海賊を停止しようとしたのだと推測されている。

 秀吉によって停止された「争い」とは、このようなものであった。この点において「つくる会」教科書の記述は、大名間の争いと村と大名の争いに偏っており、村と村との争いや海賊行為という面には、ほとんど目が向けられていないという、不充分さがあったのである。

:05年8月刊の新版では、旧版の相対的に優れた記述は全面的に削除されてしまった。すなわち、「天皇から全国の統治をまかされた」という記述は残されたが、これによって「全国の大名を次々と降伏させた」ことだけに限られ(p95)、「大名間の争いや一揆などのいっさいの争いを停止」という大事な点についてはまったく触れられない、きわめて後退した記述となってしまった。さらには「平和な時代が準備された」という記述も削除され、「身分の区別が確定し、安定した社会秩序がつくられた」(p96)という、従来の多くの教科書に見られた古典的な誤った認識に後退してしまった。ここも「角をとる」という編集方針が、旧版にあった研究の深化に依拠した優れた記述を削除し、記述全体を遅れた誤解に満ちたものに戻すという、新版の持つ性格がよく示された部分である。

(2)大名への統一的な軍役規定と大名の領国支配の安定化が太閤検地の目的であった

 「つくる会」教科書の秀吉による全国統一についての記述は、相対的には優れた記述であったが、そこにはいくつも曖昧な記述があり、その意味の取り違えさえあったのである。そしてこのことはさらに、秀吉が行った「検地」と「刀狩」という政策についても言えることである。
 検地については、教科書は次のように記述する(p119)

 統一が近づくとともに、秀吉は全国の統治者として、全国の米の収穫高を土地ごとに調べさせ、それを統一的な石高であらわした検地帳を作成した(太閤検地)。この検地によって、それまで公家や寺社など荘園領主がもっていた田畑へのさまざまな権利は否定され、農民は土地への所有権を法的に認められた。そして、農民はその土地を治める大名などの領主に、年貢を納めることになった。

 教科書はこう記述するとともに、資料として「検地仕法御請証文」から役人が実際に田の面積を測っている図を掲載し、この図の解説として、「この絵は江戸時代のものだが、太閤検地もほぼ同様の方法で行われた」との記述を載せ、秀吉が全国の田を実際に測量させ、その面積や米の取れ高を調査させたと記述している。
 しかしこの記述には大きな欠落と間違いがある。それは全国的に田畑を検地させたことの意味・目的が不明確なこと、太閤検地の実際についての事実誤認である。

@検地とは?

 検地とは、何も豊臣秀吉が最初に始めたことではない。すでに多くの戦国大名も行ってきたし、織田信長もその領国の拡大に応じて行っており、秀吉もその家臣大名として、その領国に対して検地を行っていた。
 検地の目的は、領国内の田畑の状況を調べ、その所有者を確定することによって、年貢の負担者・年貢の量、そして百姓の大名家臣への取りたてなど、大名の領国に対する支配権を確立するものであった。しかしこれを百姓の側から見ると、検地は、百姓の土地所有権を大名によって確認され、その公的な地位を確定するものであった。つまり大名がある地域に対して検地を行うと、それぞれの地域の国人領主から独立し多くの下人や小前百姓を擁する有力な百姓の所有する田畑の面積や年貢高を特定するとともに、その田畑をその百姓の永代知行地として認定して、百姓を大名家臣団に組みこむとともに、百姓に年貢や夫役の義務を負わせる替わりに、百姓にはその田畑の所有権を認めたのだ。大名は、土地に対する伝統的な支配権を持っていた国人領主に替わって、国人領主から独立して力を持ち始めた有力百姓を大名が直接把握し、大名の領国支配権を強化しようとしたのである。従って戦国大名の行った検地は、その領国に対して一斉に行われたのではなく、各地域ごとに、百姓の申請に依拠して行われていた。
 検地とはこういうものであり、それは大名が一方的に百姓に対する支配権を行使するためのものではなかったのだ。そしてこうして行われる検地は、必ずしも大名が実際に土地の面積や収穫高を把握するものではなく、それは百姓の側から資料が提出され、大名がそれを認定するという形をとっていた。いわゆる差出し検地であった。大名にとっては、土地の実際を把握することが目的なのではなく、国人領主から独立しつつある百姓を直接大名が把握し、彼らを大名の家臣団に組みこむことが目的だったからである。
 そしてこのような検地の性格は太閤検地にも継承されていた。従って「つくる会」教科書が、「農民が土地への所有権を認められた」と記述したことは、このことを意味していたのである。

A今までの慣行に従った太閤検地

 太閤検地の多くも差出し検地であり、実際に任命された検地奉行の下で統一した竿を使用して実地に田畑の面積を測量して行われたわけではなかった。検地に際しては、あらかじめ領主からその領地の村ごとの年貢高とその年貢の負担者、さらには惣村からはそれぞれの田畑の面積や年貢高や年貢負担者名をそれぞれ一覧にして提出させていた。そして、過去の検地の結果と領主や惣村から出された資料(差出しと呼ばれる)の差を見つけだし、その差分(大概は今回の差出し検地の結果の方が面積も取れ高も多かった)は「太閤蔵入り地」や「大名蔵入り地」として領主から没収され、これに基づいて検地帳が作られた。なぜなら戦国時代のこの時期は、江戸時代初期と並んで、全国的に新田開発がなされ、耕地が大規模に拡大していた時代だったからだ。
 そして検地の実際を詳しく検討してみると、一つ一つの田畑の耕作者が特定され、田畑の収穫高は惣村の百姓の従来の年貢高の申告と田畑の地味(上田・中田・下田・下々田、上畑・中畑・下畑・下々畑の等級に分けられた)についての自己申告に基づいて、それぞれの地味の田畑についての国ごとの標準的な反当りの収穫高が決められ、この収穫高に田畑の面積を掛けて、それに年貢率を掛け合わせて、実際の年貢高が決められていた。つまり検地によって確定した田畑の収穫高は、実際の収穫高ではなく、概念的に把握された収穫高であったのだ。
 これは、従来の領主と百姓の関係についての慣行を追認するものであった。なぜなら「中世の批判」での中世の村についての記述【20】でもわかるように、中世において年貢高は惣村の申告に基づいて行われ、百姓と領主との間では、その年々の天候の次第や戦乱の程度などに応じて、年貢高の減免が交渉によってなされていた。領主はその年貢高の背景にある一人一人の百姓のもつ田畑の実態は把握できず、惣村からの自己申告に基づくしかなかったのであった。
 だから太閤検地の実施に当たっては、領主と惣村の双方からの差出しは、実際の田畑の面積や収穫高とは違い、過少に申告される場合が多かった。

B地域によってことなる実施状況

 ただし検地の実施状況は、地域によって異なっていた。

(a)中世的土地支配を排除した畿内方式
 もっとも厳しく何度も検地が行われたのは、秀吉が基盤とした畿内地方であった。
 この地域は、土着の国人領主や公家・寺社の領主が惣村の百姓と結合して土地を支配していたため、有力な戦国大名が育ちにくかった地域であった。したがってこの地域での検地は、秀吉が任命した彼の直臣からなる検地奉行の統率の下で、領主・惣村・惣町から何度にもわたって差出しをさせてその異同を厳しく詮議して、田畑やその年貢高、そして田畑の地味の申告の真偽など、申告に虚偽が含まれていた場合には、領主も百姓・町人も厳罰に処すると脅して、検地を実施していった。村々に対しては虚偽の申告をしないように厳命するとともに、領主と結託して土地を隠したりしないようにも厳命されていた。
 そして秀吉の検地方針に乗っ取って、面積や収穫量を測る単位を変更し、従来の検地では年貢高を表示していたのを、田畑の地味ごとの一般的収穫高の表示に変更し、年貢は、その一般的収穫高に田畑の面積を掛け合わせ、それに年貢率を掛け合わせて決める方式に変更していった。さらに、天候の不良などによる凶作の場合の年貢高については、従来は領主と惣村との交渉で決定していたのを、一定の反あたり収量を越えたときは収穫の3分の2を領主に、百姓には残り3分の1の定率とし、基準量を下回る収穫のときは、年貢収納はなしと決定していったのである。
 また、一つの田畑に対する権利は、作職をもって年貢を負担してきた一人の者に限定し、田畑の収益に対する加地子の権利や、荘官職・領家職などの諸権利は全て排除して行った。つまり有力な名主(みょうしゅ)百姓がもとその下人であった百姓の田畑に対して様々な権利を行使することや、国人領主が様々な権利を行使するという、中世的な土地支配のありかたを排除し、実際に田畑を耕作している百姓の権利を確定したのだ。
 この急激な年貢収納方法の変更に対しては、国人領主や名主百姓による逃散などの抵抗がなされたが、抵抗を排除しつつこの政策は推し進められていったのである。

(b)大名の自立的検地が認められたその他の地方
 しかし中国の毛利や四国の長宗我部、そして九州の大友や島津、さらには東海の徳川や北陸の上杉などの旧来の戦国大名がそのまま旧領を安堵された地域での検地は、秀吉が直轄で行った検地とは、その実施状況は異なっていた。これらの地域では各地域ごとの面積単位や秤量単位で検地がなされ、基本的には、大名家臣の国人領主による差出し検地で行われた。ただしその差出しと過去の差出しとの異同が点検され、差分が「太閤蔵入り地」や「大名蔵入り地」として没収されたことは、秀吉の直轄地である畿内と同じであったが、太閤蔵入り地の管理は、当該の大名に任されていた。各大名の領国に対する検地の当面の目的は、その大名を秀吉の家臣として統合し、統一した基準で、それらに軍役を課せるようにすることであったのだ。国人領主の土地支配権を剥奪し当該の大名の領国支配権の強化を図ることは、後の目標とされた。
 この旧戦国大名の領国に対して、畿内と同様の基準で実地に検地が実施されたのは、朝鮮侵略戦争の過程の文録・慶長検地であった。ここでは有力な国人領主の国替えや土地支配権の否定、そして大名やその家臣の領国・領地が削減され太閤蔵入り地が多数設定されて、その管理は秀吉の直臣が行うようになったのである。

C太閤検地の研究史の推移

 従来は、太閤検地が、全国どこでも同じ基準で実施されてきたと認識されていたが、これは誤りであったし、全国の村々の全ての田畑が実際に測量されたかのような認識も、誤りだった。
 ではなぜ、秀吉によって全国一律に田畑の実地調査がなされたかのような説が登場したのであろうか。
 それは戦後の歴史研究の歪みによる。
 戦後の歴史研究は、戦前の神話的な歴史把握に対する反発として、マルクス主義的な発展段階論による歴史把握が中心となった。そこでの認識は、中世という時代は荘園制という古代的な支配制度がまだ健在な時代で、そこでは古代の支配者である貴族と寺社による古代的な支配が続き、農民は奴隷としてそれに隷属する存在に過ぎなかった。この時代の趨勢に対して新たな荘園開拓者としての武士が勢力を伸ばし、次第に古代的権力である貴族・寺社から土地支配権を奪取して農民を奴隷から解放し、封建的な支配関係の下での農奴へと転換し、この体制が完成したのが、近世江戸時代であったと把握されていたからである。
 このような歴史把握からは、信長・秀吉・家康による武家統一政権は、貴族・寺社などの古代的な荘園権力から土地支配権を奪い取るとともに、自治の村を作って武家の支配からも脱しようとしていた農民を、その武装組織である国一揆や一向一揆を軍事的に制圧して農民を暴力的に支配し、農民をその土地に縛り付けて自由を奪い、重い過酷な年貢を搾取したと捉えられていた。
そしてこの認識を裏付けるかのように、一揆をなで斬りにしたという諸文書や、一つ一つの田畑を実際に検地せよとして新たな基準竿や基準枡を指定した法令が存在していることを根拠として、農民から自由を奪った信長・秀吉・家康政権は、実際に武力を背景にして全国一律に農民の田畑を一つ一つ調べ上げ、その支配を確定したと認識されたのであった。実際にはそうではないというさまざまな資料が存在したのにもかかわらず、それらは無視されたのであった。
 そして太閤検地の位置付けをめぐっては、1950年代から1960年代まで学会で激しい論争がなされていたが、論争の主な点は、太閤検地が「小農民の自立を図ったのかそうでなかったのか」という封建社会の成立時点についてなされ、近世史家の多くは近世を封建制成立の画期とし、中世史家の多くは、中世が封建制成立の画期であるとして論争された。やがてこの論争は、小農民の自立をはかり大名権力を制限して大名の官僚化を図った信長・秀吉・家康政権は、封建制度を再編した絶対主義政権であったという見解や、南北朝時代において小農民の自立が図られたのだというそれぞれに時代に即した実態研究を生みだし、社会史研究を深化させたのだが、検地の実際に即した論争とならなかったために、検地の把握は曖昧にならざるをえなかったのである。
 「つくる会」教科書がその記述において、「荘園領主がもっていた田畑への様々な権利は否定され、農民は土地への所有権を認められた」としたのは、従来のマルクス主義的歴史把握に依拠した記述であり、検地とは小農民の自立を図り、荘園制度を解体したものだという見解に沿ったものだったのである。。
 しかしこの発展段階論的歴史把握は、中世史研究と近世史研究の進展によって否定され、もっと実態に即した歴史把握が近年なされてきている。
 それはすなわち、古代末期に成立した荘園制度自身が封建制の成立を意味しており、貴族や寺社そして武士は、その封建制を支える領主階級そのものであった。そしてこの中で農民は中世的権力に隷属した存在としてあったのだが、次第に独立性を高め年貢の村請け制度をつくるほどに自立した社会を形成したというものであった。またこの過程で農民は土地の耕作権にあたる作職とよばれる権利を獲得し、耕作する土地の売買も自由になされていたため、農民は耕地の所有権を認められたも同然であった。
 そして秀吉による検地は、村のありかたの実態としては、この中世的ありかたを追認したが、今までの個別領主が直接土地を支配していたのを改め、大名という統一権力が直接百姓から年貢を徴収する形に大幅に変えたというのが、近年の新たな理解である。だが教科書の記述は、「つくる会」教科書も含めて、このような歴史研究の深化を反映したものには、まだなっていないのが現状である。

:またこの教科書が「全国の米の収穫高を調べ」としたことも誤りである。正確には、米や麦、さらには様々な生産物からなる年貢高とその負担者を調べたのであり、調べられたのは畑も含む耕作地と屋敷・宅地や市・津なども含まれており、田以外のものは全てそこからあがる年貢高に基づいて、その価値を米の石高に換算した量で表示したに過ぎない。

D公家・寺社領は存続を認められた

 また、教科書の記述ではまるで、公家や寺社の領地が否定されたかのような印象を受けるが、これも誤解である。
 秀吉政権による検地でも、信長や秀吉によって滅ぼされた一部の寺院を除いて、その家臣である大名による検地でも、諸国の公家や寺社領の大部分はその存続を認められており、これらの領地における検地も、領主および惣村からの資料の差出しと過去の検地の結果と差を考慮して行われていることは、大名や国人領主の領地における検地と同様である。したがって公家・寺社の従来の本領は保証されたが、差分が「太閤蔵入り地」「大名蔵入り地」として没収された。
 公家・寺社の領地は存続したのだ。
 ただし従来との大きな違いは、これらの公家・寺社による領地支配が、天皇の委任をうけて全国を統治する秀吉政権によって新たに認定されたのであり、その前提には、公家はその家職を遂行することと、寺社はその祈りと修行の仕事に専念することとがあげられており、それぞれがその与えられた職務を充分に果たさないと政権によって認定された場合には、領地没収もありうるとされたことであった。
 つまり古代以来の聖なるものとしての荘園領有権は否定され、秀吉政権の認める範囲内で、それぞれが与えられた任務を遂行することの見かえりとして領地を与えられたのであり、この意味で荘園制度は解体されたのである。しかしこのことは公家や寺社の領地支配が否定されたことを意味しない。

 ではなぜ「つくる会」教科書は、「公家や寺社など荘園領主がもっていた田畑へのさまざまな権利は否定され」と記述したのであろうか。
 これを理解するヒントは、「田畑へのさまざまな権利」にある。
 中世における荘園制度の下においては、領有される荘園の土地には、さまざまな権利が重層的に絡み合っていた。すなわち荘園の最高領主権としては、「本家職」と呼ばれる、天皇や院、さらに上級貴族や有力な寺社が保有する権利があり、これは名目的な場合もあったし、実際の領主として、検田権(実際の田畑の状況を調査し、これに基づいて年貢・諸役を徴収する権限)・勧農権(田畑の水利を維持したり、農民に来年の種籾を与えたりして耕作を援助する権限)・検断権(荘園における犯罪を取り締まり処罰する権限)を持っている場合もあった。そしてその下には本家職をもつ権力者に荘園の寄進を仲介した実質的な領主権である「領家職」を持つ有力貴族が存在する場合もあり、さらにその下には、実際の荘園の実務を遂行する「下司職」を持つ荘官がおり、これは上級貴族の家司である下級貴族や武士が任ぜられ、時代が下ると、有力な金貸しである土倉や酒屋がこの下司を勤めるようになる場合もあった。そしてこれらの下司・領家・本家はそれぞれ年貢・諸役を収納する権利をもっており、荘園に属する百姓は、それぞれの役割をもった領主に、それぞれ決まった年貢・諸役を納入していたのであった。
 また室町時代になると、百姓が持っている作職から、年貢・諸役を収めた上での土地の収益を収納する権利である「加地子職」が生まれ、実際に耕作する百姓に金を貸したりしていた金貸しや有力百姓がこの権利を持つようになり、村における地主が成立するようになったのである。この有力百姓で地主でもあったものが、地侍と呼ばれる村の有力者であったのだ。
 秀吉政権による検地においては、これらの土地に掛けられた錯綜した諸権利が整理されて一本化され、一つの土地には年貢・諸役を負担する一人の百姓と、年貢・諸役を徴収する一人の領主という形に統合された。そしてこの領主には、大名やその家臣、そして天皇や公家、さらには寺社である場合があったのである。だから教科書の記述は、「農民はその土地を治める大名などの領主に年貢を納めることになった」と記述したのであり、この「など」の中には、天皇や公家、そして寺社が入っていたのである。
 「つくる会」教科書の、「公家や寺社など荘園領主がもっていた田畑へのさまざまな権利は否定され」という記述は、荘園に掛けられた錯綜した諸権利が一つに整理統合されたことを、荘園領主の領主権を否定したことと勘違いしてなされた記述であろう。

 こうして秀吉政権の下でも荘園領主として君臨してきた公家や寺社の領地に対する支配は承認されたのであった。

E太閤検地の真実のねらいとは

 では太閤検地は何のために実施されたのであろうか。従来考えられていたような、一人一人の農民の土地耕作権を明らかにして年貢を徴収するためでもなく、従来の荘園領主権を否定するためでもないとしたら、その目的は一体何であったのだろう。
 残念ながら、「つくる会」教科書の記述には、検地の真の狙いをあきらかにする資料や記述は存在しない。しかし太閤検地が「天皇の平和」に基づいて諸大名相互間の国郡境目争論を停止し、さらに「日本国を治める天皇」から国の統治権を委任された秀吉の家臣へと諸国大名を組織し、大名の領国すら、秀吉政権によって評価された大名の働き次第で削減されたり没収されたりするという、秀吉の統一の過程で実施されたことに、検地の目的ははっきりと示されている。そして、検地によって大名の領国が米の収穫高という統一基準で把握されて交換可能なものになったことや、この収穫高に応じて、大名に対して、秀吉の命令に基づく軍役が賦課されたことを考えあわせれば、太閤検地の目的は、はっきりとしたものとなる。

 すなわち太閤検地とは、第1に、検地によって大名などの領主の領国・領地が、領主の本領ではなく、その働きに応じて削減されたり増加されたり、果ては領地の移動が命ぜられたり没収されたりもする、秀吉によって与えられた領地であることを示すことにより、領主を皆、秀吉の家臣であるとする実態を示すこと。そして第2に、領主の領国・領地を統一的な米の収穫高で表し、これに基づいて彼ら領主に統一的基準に基づいた軍役を掛けることを可能にし、領主権力を、秀吉の家臣団として動員することを可能にすること。さらに第3に、検地を実行して大名の国替えも可能にするとともに、大名の家臣となった国人領主や地侍はすべて領地とは切り離されて大名の城下町に移住させ、領地の替わりに給与としての知行地や大名の蔵米から扶持(給与)としての米を支給される、俸給生活者へと転化させ、武士総体を土地から切り離して、大名・領主の領国・領地支配を安定化させる。そしてこのことは、検地として「大名蔵入り地」が設定されたが、これが大名が勲功のあった家臣に与える褒賞の原資となったこととあいまって実現した。また第4に、検地によって「太閤蔵入り地」が設定されたことは、諸大名の領国に太閤の直轄領が入りこんだことを意味し、秀吉の収入を増加するとともに諸大名に対する秀吉の統制を強化することをも目的としていた。ただしこの第4の点は、当初の検地では実現せず、侵略戦争の過程での文録・慶長検地で推進されることとなった。太閤検地とは以上の四つの目的をもって実行されたことなのである。
 言いかえれば太閤検地とは、領主階級の再編成であり、個別の領主と土地とを切り離して、土地を巡る争いを停止し、「国の平和」を実現させるための方策であったのだ。
 ただしその実行は極めて急激に短期間になされたために、検地の実態は国によって様々であった。それは、かならずしも統一した尺度や量目で測られたものではなかったし、武士の土地からの切り離しも、地域の実情によって異なるものであった。国人領主や地侍の中には、城下町に移住せずに村に住み、それでいながら「侍」としての地位を保って諸税を免除された土地を領有したものもいたし、有力農民として耕作権を持つ農民をその支配化に置いたままの地主として存在したものもいたのであり、その実情は国や地域によって異なっていた。

:05年8月刊の新版における検地についての記述は(p96)、旧版とまったく同じであり、上に指摘した間違いや誤解はまったく訂正されていない。

(3)農民は武器を全て取り上げられたわけではない

 同様に、刀狩についての記述も誤解に満ちたものである。「つくる会」教科書は、刀狩について以下のように記述している(p119)。

 秀吉はまた、1588(天正16)年に刀狩令を発して、農民や寺院から刀や弓、槍、鉄砲などの武器を没収した。この結果、社会の安全を維持するのは大名をはじめ武士の役割となり、農民は耕作に専念することになった(兵農分離)。こうして身分の違いが確定するとともに、平和な時代が準備されていった。

 どの教科書にも書かれる、一般的な理解である。他の教科書の記述と異なる点は、「寺院から」も武器を取り上げたと指摘されていることで、これによって大寺院の僧兵は解体されたと明記した点であろうか。
 またこの記述には、刀狩の目的が書かれていないが、前ページで「一揆など全ての争いを停止し」と記述したことや、この記述の最後の部分に「社会の安全を維持するのは…武士の役割となり」としたことで、農民の武装解除と、武器と交戦権の武士への独占を図ったものだと言いたいことは明かである。
 しかし藤木久志が、「豊臣平和令と戦国社会」ではじめて刀狩の実態を素描し、さらに近年「刀狩−武器を封印した民衆−」で詳細に論証したように、この教科書にも描かれた従来の刀狩にたいする認識は、根本的に誤っている。

@禁止されたのは二本差し

 藤木がはじめて資料にあたってくわしく論証したところによると、実際に村々から差し出されて没収された武器の大半は、大刀と脇差であり、弓や槍はわずかであり、鉄砲に至っては、まったく没収された形跡すらない。そして村々から領主に差し出された武器を秀吉政権に差し出させたときの秀吉政権側の受取状には、大刀と脇差のみ明記されており、実際に村から没収されたのは、農民の中の名主クラスの人々が日常的に帯刀していた大刀・脇差のセットだけであった可能性が高いのである。
 そして秀吉政権による刀狩以後の状況をつぶさに検証してみると、その二本差しすら全て没収されたわけではなく、江戸時代になっても、名主などは二本差しをしており、農民や町人の成年男子はみな脇差は指している。そして村に所持された鉄砲の数は、江戸時代を通じて年々増え続けており、幕府はそれに対する禁令をまったく発していないことは、塚本学の「生類をめぐる政治−元禄のフォークロア」がすでに明らかにしたことである。
 実際に、秀吉の時代で刀狩が行われた後の時期にも、そして江戸時代になってからも、禁令に反して村と村とが山や水路の権利を巡って武力衝突を行い、秀吉政権や幕府から処罰を受けている例も多々あり、この際に、農民が脇差を振るって人を殺傷したり、中には大刀・脇差の二本差しで戦闘の場に現われた農民すらいたことも資料に残されている。そしてこの場合、脇差や二本差しであったことについてはお咎めはなく、刀で人を殺傷したことと、村と村との山論・水論において、領主による裁判で解決することなく武力行使に及んだことがお咎めを受けていたのであった。

 刀狩において没収されたのは、農村の指導者クラスの名主が大刀・脇差の二本差しをしていた、この二本セットになった刀なのであり、全ての武器ではなかった。

A強制的に没収したわけではない

 そしてもう一つ大事なことは、刀の没収も、村に大名の役人が部隊を率いて乗りこんで没収したわけではなく、大名から村々の名主にお触れを出して、村として刀を差し出すように指示されていただけであった。そして、このときの指示の仕方であるが、それぞれの村から大刀・脇差のセットを幾つ差し出せという具体的な指示が出されており、その本数を村の人口や名主の家の数と対照させてみると、概ね平均的な名主の数に見合った数の刀のセットを要求しており、根こそぎ村から大刀・脇差のセットを奪いとったわけではないことが明かとなった。
 なんと刀狩すら、年貢の収納の場合と同様に、惣村の自治に任せた村請けによって実施されていたのであり、それは自己申告ですらあったのである。

 この証拠は、大名が村々から差し出した刀を秀吉政権に送ったり数を報告したりした場合に、秀吉政権の側から、「刀の数が少ない。もっとあるはずだ」との催促状が出されている例が多々見られることや、一度刀狩が終わっている九州地方に対して、朝鮮侵略戦争が遂行されるときにあたって再度刀狩が行われ、その際には、「使い物にならない刀ではなく、鞘や鍔のついた刀を出せ」と指示されたり、事前にその村々に刀の目利きの商人を送りこみ、「名刀を買い取りたい」と降れこみ、実際に刀商人に名刀を持ちこんだ村の名主たちの名簿と所持する刀の特徴を書いたリストを作成させ、このリストに基づいて、村が自己申告した刀と照合して、追加申告を要請したりしていることである。このとき、長崎から没収された刀の数は4000振りにも及び、さらに有馬領から没収された刀は16000振り以上にも上ったと、宣教師ルイス・フロイスはその著書で報告している。またこの際長崎で没収された他の武器には、槍が500本、弓が500張り以上で矢は無数。そして鉄砲も300丁あり、鎧も100領以上あったという。
 この長崎や有馬領での刀狩は、朝鮮に対する侵略戦争の武器として根こそぎ動員するという目的であったから、村々から数多くの武器が出てきたのであろうが、約50年の後にこの地方で起きた島原の乱においても、百姓たちは、刀・槍・弓・鉄砲で武装して蜂起していることから、この戦時の武器徴収ですら、村々から全ての武器を没収できたわけではないことが明かである。

B刀狩の目的は何か

 では刀狩の目的は何であったのだろうか。
 百姓たちはこの後も武器を蓄え、村と村との争論の際にも武器を携行して戦ったりしていたのである。そしてこの教科書が「社会の安全を維持するのは大名などの武士の役割となり」と記述したことは誤りであり、江戸時代になっても村は村の自治権を保有し、村の中の犯罪の取り締まりや犯人の逮捕・処罰まで村の仕事となっており、その際には村人は武器を携行して、犯罪の取り締まり、犯人の逮捕に臨んでいたのであった。
 秀吉の時代以後において村が失ったものは、村と村との争論や、領主との争論に際して武器を使用して争うことだけであり、この意味での戦をする権利、すなわち交戦権だけであった。
 秀吉の時代や江戸時代になって、村が山や水路を巡って争い、一方の村が武器を携えて戦闘行為に及んだときに、相手方の村が「喧嘩停止令」の存在に鑑みて村の武力の行使を封印し、領主による裁判に訴えたときは、村の武力を封印した村は領主からお褒めの言葉をもらい、武力を行使した村に対しては厳罰をもって対処されていたのである。
 刀狩は喧嘩停止令とセットであり、これによって村に強制されたことは、村の交戦権の放棄または封印でしかなかったのだ。
 そして刀狩によって禁止された二本差しですら、その後において大名・領主の特別の許可によって、村の名主や町の名主は帯刀が許されていたことは、周知の事実である。

 このように考えてくれば、刀狩の目的は明かであろう。
 それは一つには、村の交戦権を封印または放棄させ、村が他のものと争うときは、領主の裁判に委ねる体制を構築することで、中世という統一権力が存在しない争乱の時代の中で、やむをえず武器をとって自衛武装していた村の戦争を終わらせ、大名の交戦権の否認とあいまって、文字通り戦のない平和な世をつくることであったのだ。だからこそ秀吉は、刀狩令において百姓たちに対して、「百姓たちは農具だけを持ってひたすら農業に打ち込んでいれば、子孫の末まで長く暮らしを保つことができる。じつに国内が安らかとなり、人々が幸せになることである」とくどいくらいに説明し、さらに、「とり集めた刀は無駄にしてはならないので、このたび建てさせている京都の方広寺の大仏のくぎやかすがいに使え。そうすれば、現世はもちろんあの世まで百姓が助かることになる」と大名たちにも説いていたのであった。
 そしてもう一つの目的は、大刀・脇差の二本差しを原則的には百姓には禁止し、一部の町や村の統治権を分有する名主にのみ許したということは、これによって国家の統治権を武士の専権事項にと接収し、この統治権に参与できる身分を表す身分表象として二本差しを制度化し、これによって身分の違いを確定しようとしてのことであった。
 しかしこれは、教科書が説くような、武士と農民との身分の違いを確定することではなく、武士・百姓・町人の諸身分を越えた、国家の統治権に参与できる身分の区分けをしたにすぎない。そして江戸時代において、武士・百姓・町人の間の身分の区別は絶対的なものではなく、武士と百姓・町人の名主たちが相互に養子縁組や婚姻がなされていることに鑑みても、統治権に参与できるという点においては彼らが、同じ身分に属していたことを物語っている。

 秀吉の刀狩によって民衆は武装解除され、とくに農民は、武力を独占した武士階級の圧制によって食うや食わずの状態に落とし込められていたという近世観は根本的に誤っていたのである。この点については、のちに江戸時代の所で詳しく述べるが、刀狩や検地、そして喧嘩停止令・惣無事令などによって実現された近世社会は、異なる身分によるすみわけ(社会的役割分担)とそれぞれの自治によって成り立つ、平和な社会であったのだ。

:05年8月刊の新版の刀狩についての記述は(p96)、旧版とまったく同じであり、上に示した誤りやまったく訂正されていない。

(4)秀吉は天皇制を復活させてしまった

 最後に、「つくる会」教科書の旧版の記述を参考にして、秀吉と天皇家との関係の問題を考察しておきたい。

@秀吉による王政復古

 秀吉の政策はどれも天皇がらみで行われている。
 先に述べた「惣無事令」も「喧嘩停止令」、さらには「海賊停止令」や「太閤検地」そして「刀狩」、果ては朝鮮侵略戦争すらもすべて「勅命を秀吉が奉じた」と称して遂行した。「つくる会」教科書は「大名の間の戦いや一揆などいっさいの争いを停止し」と争いの停止のみを「天皇から全国の統治をまかされた」として行ったかのような記述をしていたが、実はそうではなく、全てに亘って天皇の命令を奉じて行われていたのである。
 しかもその命令の遂行の仕方が異常である。
 今谷明は「武家と天皇−王権をめぐる相剋−」で秀吉の発給した文書の形式を検討しているが、秀吉は全国統一をなしとげる前から秀吉の支配地域外にまで天皇奉書(天皇の意を受けた文書)を出している。つまり天皇の命令(綸旨)を天皇の秘書官である秀吉が奉じて、諸国に命令を下すという形式の文書である。通常は綸旨の奉書に書名するのは、天皇の側近く使える蔵人や弁官という中下級の実務公家が行うのであるが、これを天下人として畿内近国を統治する武家が行っているわけで、極めて異常な文書形式であるという。なぜなら室町幕府の足利義満以後の武家の長(将軍)は天皇の命令の実行を命ずる文書は決してだすことはなく、逆に天皇は、室町将軍の命令の実行を命じる「武家の下知の旨に任せ」という文面を含む文書(綸旨や院宣)を数多く出しているからである。義満以後武家政権は、武家の裁量に任せて全国を統治する権限を行使しており、天皇はその将軍の権威を補完する名目的権威に成り果てていたからである。
 そして秀吉が出した惣無事令・喧嘩停止令以下の諸命令文書は皆、この天皇命令を秀吉が奉じる形で出されており、武家の長が、天皇の秘書官に成り果てて、その命令を忠実に実行するという、義満以来の200年間の尺度で見ると、極めて異常な事態になっているのだ。

 そして秀吉政権の歩みをつぶさに眺めれ見ればすぐわかることだが、秀吉の事跡そのものが、天皇の命令無くしてはなし得ないほどの状態になっている。以下、年表形式にして通観してみよう。

1582年 清洲会議にて織田分国の主導権を秀吉が握り、その中心の山城を所領とする。
1583年4月柴田勝家を越前北の庄に滅ぼす。6月、秀吉大阪城に入る。
1584年4月秀吉、尾張長久手で徳川家康に敗れる。12月秀吉、家康と和議を結ぶ。
1585年3月、秀吉、紀州雑賀一揆を制圧。
7月秀吉、関白となる。10月秀吉、九州惣無事令を      出す。
1586年10月、
家康、上洛して秀吉に臣従の礼をとり、家康は正三位中納言に任ぜられる。     11月、秀吉、関東・奥両国惣無事令を出し、家康に執行を委ねる。
         正親町天皇、孫の和仁親王に譲位(後陽成天皇)。
     12月、
秀吉、太政大臣となり豊臣の姓を朝廷から授かる。
1587年5月、秀吉、島津氏を征伐。九州国分けをなす。キリスト教布教を禁止する。
     9月、京都に聚楽第完成。
1588年4月、
後陽成天皇、聚楽第行幸。諸大名が天皇に誓紙を出し、関白の仰せに従うこ       とを誓う。
    7月、秀吉、諸国に刀狩令を出すとともに、海賊停止令を出す。
1589年9月、秀吉、諸大名に妻子の在京を命じる。
    11月、秀吉、対馬宗氏を通じて、
朝鮮に内裏への来貢を命じる
1590年7月、秀吉、北条氏を討伐。家康を関東に転封。引き続き奥州征伐に移る。
    11月、
秀吉、聚楽第にて朝鮮の使いを引見する。
1591年3月、秀吉、諸国に検地を命じる。秀吉、
諸国郡田を指絵図に作り天皇に差出す。    9月、秀吉、朝鮮征伐を命じる。

 秀吉が、清洲会議で織田分国の主導権を握ったところから朝鮮に攻め入ったところまでの経過であるが、その節々に、天皇が登場してくることに気づくであろう。
 秀吉の全国統一の歩みは、1585(天正13)年7月に、彼が関白になったところから始まる。
 関白として天皇の委任を受けて全国を統治するとの名目で、諸国に惣無事令を出し、大名の国郡境目争論に対する秀吉の裁定に従わなかった大名は討伐(これ自身が天皇の命に逆らった朝敵を討つという形式をとっていた)され、ここに全国は秀吉の下に「統一された」わけである。その過程で秀吉は太政大臣を兼任して豊臣の姓を朝廷から賜り、九州島津討伐を完成させたところで、臣従する諸大名を引き連れて皇居に参内し、続いて後陽成天皇を自身の京都における城である聚楽第に行幸させ、天皇に対して諸大名が誓紙を出して、関白秀吉の命に従うことを誓約するという形で、秀吉政権の形が出来上がることとなる。そして最後の総仕上げとして、1590(天正18)年、関東の北条氏の討伐を行い、続いて奥州を制圧し、全国を統一する。
 また全国統一と並行して各地で検地を行い、朝鮮に対しては天皇に対して朝貢することを命じ、全国統一のなった1590(天正18)年の11月に朝鮮からの使いを聚楽第で引見。後に述べるようにこの使いは、単に秀吉に対して統一のお祝いを述べる使いに過ぎず、秀吉が主観的に捉えたような朝貢の使いではなかったのであるが、ここに秀吉は天皇の名代として外国の使臣に対するという形をとることができ、事実上の「日本国王」とも言うべき地位についたのであった。

 この経過を見ていくと、その統一事業の一つ一つが天皇の存在なくしてなしえないことがよくわかる。しかし、その節々での天皇の登場の仕方は、かの足利義満が全国統一を成し遂げたあとの動きと、極めて似ていることがわかる。
 義満も南北朝の統一をなしたあとで、朝廷の位階は極官をきわめ、日本国王と称して中国明と朝鮮王朝に遣使し、明や朝鮮の使臣を引見していた。そして自己の政庁である北山第に後小松天皇の行幸を仰ぎ、それを公家・武家の諸臣が庭に蹲踞して迎えるという体裁をとっていた。
 しかし義満と秀吉の天皇との関りは、形は似ているが、その内実が正反対である。
 義満は天皇の権威を越えようとし、自身が天皇の父としての格式を手に入れ、果ては自分の息子を天皇の養子に入れて天皇とし、自分は上皇として、天皇・将軍の2人の息子の上に君臨するというものであり、北山第で後小松天皇に対したときは、天皇の上位に立つ上皇としてであった。これに対して秀吉はあくまでも天皇の忠実な臣下として天皇に仕える。そして外国の使臣に対したときは、義満は明国皇帝の臣下としての日本国王として、さらには朝鮮の使節に対しては、ともに明国皇帝の臣下である対等な国王として対した。これに対して秀吉は、明・朝鮮からの使節を天皇に臣下の礼を取る朝貢の使いとして遇し、自身は明国皇帝・朝鮮国王を臣下として臣従させる天皇の忠実な代理人として対したのである(この違いの意味は、のちの朝鮮侵略の項で説明する)。
 秀吉はあくまでも天皇の臣下として、もっとも忠実な臣下として天皇に対していた。
 そしてその極致が、1591(天正19)年における天皇への諸国郡図の献納であり、これをもって日本全国は天皇の統治下に置かれたことが象徴的に示され、最後に、その天皇に朝貢せよとの命令に従わない朝鮮に対して「征伐」の軍を出すことが命じられた。

 こうして戦国時代においては、諸国の禁裏御料の多くを大名に横領されて、生活の諸費用や儀式の費用、さらには皇居の修理費用や天皇の葬儀費用すら出せずに、諸大名に対して官位やさまざまな便宜を図ることで献金を促し、それによって細々と余命を繋いできた天皇と朝廷が、まさに日本国を統治する位置に名目的には復活をとげることになったのである。秀吉による全国統一とはこういうものであった。
 まさに今谷明が、「秀吉による王政復古」と表現する所以である。

Aなぜ秀吉は王政復古を図ったのか

 ではなぜ秀吉は、これほどまでに天皇の意を呈するという形で動いたのであろうか。
 それは先の年表でも明らかであるが、秀吉の朝廷における官位が急上昇し、ついには関白・太政大臣にまで上り詰めた時期は、秀吉が徳川家康に尾張(愛知県)長久手の戦いで敗れ、ついに自身の手では、三河(愛知県)・駿河・遠江(静岡県)・甲斐(山梨県)・信濃(長野県)の5カ国を領有する大大名で、しかもその東の関東8カ国を領する北条氏との強固な同盟体制を敷く徳川氏を屈服させることが出来なかった、その時期にあたっていることである。そして家康を正三位中納言という形で朝廷の位階制の下に組みこんで秀吉に臣従させて初めて、秀吉は、従わない諸大名に対して、「惣無事令」を出して停戦と秀吉の裁定に従い、秀吉に臣従することを天皇の命として出すことができたのである。
 秀吉が背後から突かれる危険を感じることなく安心して九州攻めに専念できたのも、徳川家康が彼に臣従を誓い、関東と奥州の仕置きを担ってくれているからこそであった。こうして秀吉は、天皇の命令を媒介にして家康と「同盟」して、諸国を平定していったのであった。
 今谷明は、前記の「天皇と武家」において、秀吉が王政復古という形で全国統一を進めた理由を、彼が徳川家康を武力で屈服させられなかった故と推定している。
 この意味で「つくる会」教科書が、「関白となった秀吉が、天皇から全国の統治をまかされたとして」諸国大名などに争いの停止を命令していったと記述する前に、彼が「徳川家康とも戦ったが、決着がつかず和睦した」(p118)と記述したことは、とても意味のあることだったのである。

Bなぜ王政復古が可能であったのか

 ではなぜ秀吉による王政復古が可能であったのだろうか。
 それは一つには、上にも記述したように、秀吉政権自身の弱さである。
 秀吉はよく知られているように、旧織田分国の主導権を握ったとはいえ、尾張中村の名主から立身出世したもので、譜代の強固な家臣団をもたなかった。彼の軍団は、少数の子飼いの武将を除けば全て、直近の時期に家臣となったものたちの寄せ集めの軍団であった。そして彼の周囲には、数カ国以上の領土を持つ大大名が多数おり、しかもそのうちの筆頭クラスの徳川家康を軍事力によって制圧することに失敗しており、彼が単独で支配地域を広げることは不可能になっていた。この政権基盤の弱さが、天皇の権威に頼って全国統治を進めた第一の理由である。
 また二つ目には、秀吉に臣従した大名も対抗する大大名といえども、「中世の批判」【25】の戦国大名の項で示したように、領国内に割拠する国人領主を完全に臣従させていたわけではなく、大名同士が争いあう状況の中では、常に家臣の離反・領国の解体の危険を抱えていた。したがって彼ら大名にとっては、統一権力が成立し、その下で「全国的な平和」が実現されて、しかも、国人領主を初めとする家臣団すべてがその領地から切り離されて大名から知行をあてがわれる給人としての家臣へと再編成されることは、大名権力の安定にとっておおきな利益をもたらすものであった。
 さらにこのことは、大名領国内の百姓・町人たちと大名との関係についても言える。
 百姓・町人たちは、惣村・惣町を形成して村や町の武力を保持し、大名権力から相対的に自立した状態にあった。そして彼らの願う「国の平和」の実現要求には大名も抗し切れず、しばしば年貢・公事の減免や徳政を実施して彼らを保護せざるをえなかった。しかし大名同士の戦乱が続く中では必ずしも「国の平和」を維持することは大名独力ではできず、惣村・惣町の一揆が起きる危険性を抱えていた。
 この意味で、諸国大名は、その名目と実施主体が何であれ、全国的な政治権力の統一とその下での平和の実現を欲していたと言っても過言ではないわけである。
 そして三つ目に、秀吉による王政復古が可能になったのは、天皇家と公家が、諸国大名によってその領地を横領され、極めて苦しい立場に追いこまれていたからである。
 この時代の京都上京の町人で御所や公家衆にも出入りしていた法華宗徒の江村専斎の談話を記した「老人雑話」には、「信長のときは、禁中の微々なること辺土の民屋に異ならず、築地などはなく、竹の垣に茨など結いつけたるさまなり、老人児童のとき、遊びに行きて縁にて土などこね、破れたる簾を折ふし上げてみれば、人もなき体なり」とある。この状態は信長が禁裏御料地を寄進して建物の造作などを行って少しましになったが、太閤の時代のはじめまでは微々たる状況であったと、老人雑話は続けている。
 先に信長の項でも記述したが、信長が足利義昭を奉じて上洛し、畿内を統合するや、正親町天皇は信長に進んで戦勝の祝いをなし、さらには信長が戦に出かけるにあたっては進んで戦勝祈願をし、信長が窮地に陥るやその求めに応じて停戦令まで出している。そしてこのことは、信長を倒した明智光秀に対しても直ちに戦勝を祝う勅使が出され、さらに秀吉が旧織田分国の主導権を握り、柴田勝家を滅ぼして凱旋したときにも、直ちに戦勝を祝う勅使を秀吉の下に派遣していることにもつながる。
 つまり、天皇家と公家集団は、自己の存続のためには、近畿を中心として大きな力を持った「天下人」に頼る以外になく、権力者の求めに応じて、いやむしろ、その求めを先回りしてさえ、権力者の歓心を買い、自己の存続を図ろうとしていたのであった。
 だから朝廷は秀吉がすりよってきたときも、求めに応じて官位を上昇させ、果ては、秀吉の関白任官要求すら認めたのである。
 もちろん、藤原氏以外のものが関白につくという異例な事態には反対者もいたことであろう。そして権力者にあまりにすりより過ぎることは、天皇および公家集団が、権力者の虜となって、権力者の没落によって運命をともにしなければならない危険性を指摘するものもいたに違いない。それでも禁裏御料の増大や公家領の増大と引き換えに、秀吉は前関白近衛前久の猶子(家督相続を伴わない養子)となって史上初の武家関白となり、天皇の委任をうけて全国を統治するという大義名分を手に入れ、諸大名を足下に跪かせ、天下統一を進めることができたのであった。それくらい天皇・公家集団は窮地に立たされていたのだ。
 そして秀吉政権が諸大名などに公布した様々な法令の起草にあたっては、秀吉のブレーンとなった京都五山の禅僧に混じって、秀吉の関白任官に奔走した公家伝送・菊亭晴季(西園寺家の庶流今出川家)らの上級公家も関与し、秀吉政権の確立に寄与していたのであった。
 この際、関白任官のお礼として、近衛家には1000石、九条・二条・一条・鷹司の各家には500石づつの永代領地が寄進され、さらに1588年の後陽成天皇の聚楽第行幸と諸大名が関白への臣従の誓紙を天皇へささげる儀式の挙行に際しては、天皇に対しては禁裏御料として京都市中の諸税5000両余と、800石の領地を、そして天皇の弟の八条宮にも800石の領地とさらに公家領として近江高島郡に8000石を寄進することとなったのである。
 まさに天皇と公家集団は、秀吉の全国統一に大義名分を与えることと引き換えに、安定した地位と生活を手に入れ、戦国時代の零落した生活から離脱できたのであった。

C秀吉は天皇を統制しようとはしなかったのか

 しかし秀吉は天皇の権威にすがり、それを利用するだけであったのだろうか。
 秀吉は自身を関白・太政大臣の極官に進めただけではなく、徳川家康以下の諸大名を次々と朝廷の高位高官に任じていった。秀吉の死の年、1598年においては、徳川家康は正一位内大臣、前田利家は従三位大納言、毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家は従三位中納言。五大老と呼ばれた秀吉政権の重鎮たちが会議すれば、朝廷の公卿会議の体を見せていた。
 ということは、これらの有力者は皆、それぞれが直接天皇に拝謁したり意見具申したりすることが出来、上級公家とも懇意になることが可能であった。これは秀吉が死ねば、この有力者の誰でもが天皇の命令を奉じて、天下に号令することを可能にしていたと言わねばならない。
 秀吉はこのことの危険性を認識していなかったのだろうか。
 おそらく認識はしていたことだろう。
 だからこそ自身が死に直面するにあたっては、五大老以下の大名に秀吉の嫡子秀頼に臣従を誓う起請文を出させて永遠の臣従を誓わせたのだし、自分の死後には、自分を「豊国大明神」という神となして、都を見下ろす阿弥陀ヶ峯の山頂に遺骸を埋葬して豊国神社を建て、 豊臣氏による天下を永遠のものとなすように死後も見守ろうとしたのであろう。阿弥陀ヶ峯は都の東に位置する。これは昔、桓武天皇の治世において、征夷大将軍であった坂上田村麻呂の遺骸に鎧を着せて都の東を守る峯に埋葬したのと同様に、死後も天皇の世=豊臣の世を忠実に守るということを意味していた。そして大明神に認定することは、天皇の専権事項であった。
 しかし彼の死後のありかたが示すように、彼の支配は、天皇の認知と委任なくしてはなしえないことであり、秀吉政権の基盤は最後まで脆弱であった。
 これでは天皇および公家集団を、彼の政権を飾る単なる伝統的権威に祭り上げたいと彼が考えていたとしても、秀吉がこれを実行することは不可能であったろう。このことは朝鮮侵略戦争の初戦の勝利に伴って彼自身が朝鮮・明へ渡海し、天皇の中国北京への動座を提起し朝廷にもその準備を指示したのに対して、正親町上皇から「秀吉が危険を犯してまで渡海する必要はなく臣下に任せるように」との勅命を出されて自身の渡海もままならず、さらには秀吉に臣従して公家の近衛信尹が朝鮮に渡海して天皇の北京動座の準備をすることを禁止する後陽成天皇の勅命を出されて、相次ぐ敗戦の報ともあいまって、彼の構想が頓挫したことにもよく示されている。

 秀吉は最後まで、天皇の権威にすがるしかなかったのである。

:05年8月刊の新版は、「秀吉が朝廷から関白の位を得て、天皇から全国の統治をまかされた」としたことは記述しているが、これによって「争いの停止」「秀吉による裁定」「秀吉への臣従」の命令に従わなかったものだけを討伐した事実を完全に削除し、しかも秀吉が徳川家康と戦って勝てなかったことも完全に削除したため、秀吉政権の弱さも、それゆえ天皇の権威に頼ることによってしか全国統一をなし得なかったことも、まったく捉えることができなくなった(p95)。これは秀吉がその弱さ故に天皇に頼ったと受け取られることを避け、「武家の統一にとっては天皇の権威は不可欠である」という「つくる会」のテーゼを強調するための処置であったのだろう。

:この項は、前掲、藤木久志著「天下統一と朝鮮侵略―織田・豊臣政権の実像」、塚本学著「生類をめぐる政治―元禄のフォークロア」(1993年平凡社ライブラリー刊・1982年平凡社刊の再版)、藤木久志著「豊臣平和令と戦国社会」(1985年東京大学出版会刊)、脇田修著「秀吉の経済感覚―経済を武器とした天下人」(1991年中央公論新書刊)、前掲、朝尾直弘著「16世紀後半の日本―統合された社会へ」、秋澤繁著「太閤検地」(1993年岩波書店刊「岩波講座日本通史第11巻「近世T」所収)、今谷明著「武家と天皇―王権をめぐる相剋」(1993年岩波新書刊)、田中圭一著「日本の江戸時代:舞台に上がった百姓たち」(1999年刀水書房刊)、田中圭一著「百姓の江戸時代」(2000年ちくま新書刊)、藤木久志著「刀狩―武器を封印した民衆―」(2005年岩波新書刊)、などを参照した。


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