「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第3章:近世の日本」批判6


6:「政教分離」の宗教改革としてのキリスト教の禁止−秀吉のバテレン追放令の真実−

 「豊臣秀吉の全国統一」の二つ目の項目は、「キリスト教の禁止」である。「つくる会」教科書のこのことについての記述はとても詳しく、普通の教科書では1・2行で済ませてしまうところを1ページもつかって詳細に記述している。しかしここにも、誤解や恣意的な記述が多々見られ、詳しく記述したわりには、事態の真相をつかむことができない記述になっている。

 少し長いが、まず教科書の記述を全文見ておこう(p120)。

 1587(天正15)年、島津氏を討つため、九州を訪れた豊臣秀吉は、日本は「神国」だからキリスト教は好ましくないとして、バテレン(神父)追放令を発した。秀吉は、もともとキリスト教が一向宗のように武装して権力を求めない限り、一般民衆の入信を認める方針だった。しかし、秀吉は九州にきて、長崎が教会領となり、そこで寺院がキリスト教徒によって焼き討ちにされたことを知った。また、全国統一を目前にしていた秀吉は、小西行長や高山右近などキリシタン大名が、信仰によって結束し、統一のさまたげになるのではないかと懸念するようになった。そこで、秀吉は彼らにキリスト教を棄てることを迫り、バテレンの追放を命じた。
 そのころ、特にスペインの宣教師たちには、南アメリカでやったのと同様に、中国や日本を武力で征服して、キリスト教を広めようという計画があった。秀吉のキリスト教への疑いにはそれなりの根拠があったのである。しかし、秀吉は、貿易による利益は失いたくなかったので、南蛮の商人たちの来航は認めた。そのため、キリスト教の禁止は徹底しなかった。

(1)秀吉は「日本征服」を怖れたのか?

 この記述だと、秀吉がバテレン追放令を出した理由は、「スペインやポルトガルが日本を武力で征服してキリスト教を広めようとした」ことを怖れたのだということになる。そしてその根拠としては、秀吉が「キリスト教が武装して一向宗のように権力を求めない限りでの信仰の自由を認めていた」が、長崎が教会領となり寺院が焼き討ちにあったことを知り、キリシタン大名が結束して全国統一に抵抗するのではないかと恐れたことをあげ、この怖れの傍証として、スペインの宣教師たちが中国や日本を武力征服しようと考えていたことを示しているのだ。

 この記述は首尾一貫しており、真実を記述しているかのような外観を呈している。
 しかし仔細に検討してみると、いくつもの疑問点が沸いてくる。

@なぜ神国だからキリスト教は好ましくないのか?

 一つは、この教科書は「日本は神国だからキリスト教は好ましくない」というのが秀吉のバテレン追放令の根本的な理由であると明記していることである。しかしその説明やヒントになることはまったく記していない。多少参考になるところとしては、「長崎で寺院がキリスト教徒によって焼き討ちされた」ことを秀吉が知ったことが記されている。
 しかしこれも、「神国」という神々の国という考え方と仏教の寺院の焼き討ちという事態とはどうつながるのかが全く分からない記述である。したがってこの教科書の記述も結局のところは、「キリシタン大名が信仰で結束して統一の妨げになることを懸念した」という解釈に落ちつき、実際にスペインの宣教師の間には日本武力征服の計画があったのだから、秀吉の疑いにも根拠はあったという理解に留まる。
 しかしこの説明では、神国だからとしたこの根本の理由が宙に浮いたままになってしまう。

A一向一揆は権力を求めたのか?

 二つ目の疑問は、一向宗は「権力」を求めたのだろうか、そして秀吉は一向一揆をこのように理解していたのだろうかというものである。
 「中世の批判」の【24】応仁の乱の項で見たように、加賀一向一揆が蜂起して守護大名を追い出し、一揆が推戴する本願寺を国主として「百姓の持ちたるような」国にしたのは、彼ら一揆勢が権力を求めた結果ではなかった。一揆を起こした国人武士や地侍に率いられた「寺内」都市とその近郊農村に住む百姓たちは、守護大名が勢力争いにかまけて国の平和を維持できなかったことに対して、村や町の平和を守るために一揆を起こして抗議し、結果として大名を追放したに過ぎなかった。一向一揆が権力を求めたという理解は戦後の歴史研究の中で出てきた誤解に過ぎず、同じ時代に生きてきた秀吉がこのような誤解をするわけはない。秀吉は、百姓が一揆をするのは、国の平和を守るべき大名が争いにかまけてそれを実現できないことへの、百姓の武力蜂起による抗議であるという事実をよく知っていたはずである。だからこそ彼は「天皇の平和」の下で大名たちに国郡境目争論を禁止し、百姓たちにも国主に対する一揆や隣村との境目争論を禁止して、それらすべてを秀吉による裁定(裁判)にゆだねよと命令した。戦国時代に生きてきた秀吉は、百姓が一揆を発動するのは、大名による国郡境目争論による戦争が原因であることをよく知っていたわけである。
 その秀吉が、一向一揆が「武装して権力を求める」などと考えて、キリスト教が同じことをしないかぎり信仰の自由を認めていたとするこの教科書の記述は、理解できない。

B秀吉は九州に出向いて始めてキリスト教は危険だと知ったのか?

 三つ目は、この教科書は、秀吉が九州にきてキリスト教布教の実態を知って、その危険性に始めて気がついたかのような記述をしている。
 しかしこれは本当だろうか。
 教科書が秀吉に「謀反」を起こすかもしれないとして名指しした小西行長や高山右近は、秀吉の腹心の部下であり、彼らの所領は、秀吉の直轄領である畿内にあった。そして高山右近はその領内において、家臣団のほとんどをキリスト教徒として、村や町の民に対しても、その名主たちを中心として集団改宗につとめており、彼の領内ではしばしば、寺院が焼かれたり打ち壊されたりし、僧侶は改宗か追放かのどちらかを迫られていた。高山右近の領地は、秀吉の本拠地大阪の北郊の高槻であり、畿内平定後に彼が移された明石も大阪からは直近の地である。そして明石に移された右近がこの地でも寺院を破壊しようとして、こまった僧侶たちが秀吉にこのことを訴えていたことは、ルイス・フロイスがその著書の中でも述べている(「日本史」4の第10章)。また、小西行長は堺の豪商で秀吉の堺代官である小西隆佐の子息であり、父子とも秀吉に仕える前からの熱心なキリシタンであったことは有名であり、彼もまた畿内平定後には、播州(兵庫県)室の津を与えられている。そして彼らを含めて秀吉の周囲には多数のキリシタン大名がおり、大阪城内の彼の奥方の侍女たちの中にも多数のキリシタンがいたことは周知の事実である。
 秀吉は九州に軍を進める前からしばしば宣教師ともあっており、彼の周囲には多くのキリシタン大名や信徒がいたわけであるから、秀吉がキリスト教の実態を知らないわけはない。そして秀吉が九州に侵攻するきっかけを作った大友宗麟は、島津氏に押し捲られる中でキリスト教の洗礼を受け、彼の家臣団にも多くのキリシタンがいて、彼が日向を島津氏から取り返すべく自ら率いた軍団は、白い帆に赤い十字架を描いた船に乗り、旗指物や兜の飾りにも十字架をつけた多くの兵によって構成され、あたかもキリスト教王国を築くための十字軍のような姿を呈していた。そして大友宗麟は再占領した日向では、多くの神社や寺院を焼き討ちして破壊したり、とりこわした神社・寺院の資材を教会の資材に使わせていた。またその大友宗麟の軍団が島津氏に手痛い敗北を喫して撤退するなかで、家臣団の中には国主のキリシタン改宗が敗北の原因であるとする反感も高まり、大友氏の家臣団は分解の危機に瀕していた。大友宗麟が大阪にまかりこし、秀吉に島津氏の停戦協定違反を訴えた背景には、このような事態があったこともまたよく知られていることである。
 秀吉は戦国大名の中でも、とりわけ情報の収集とその利用に優れた武将であった。その秀吉が九州に侵攻する前に、九州におけるキリスト教布教の実態を知らないというわけはなかろう。

 「つくる会」教科書の記述は、以上のような多くの疑問を抱かせ、それに対する回答やヒントすら提供していないのである。
 では事実はどうであったのか。
 この点は、彼が出したバテレン追放令の条文にしっかりと記されているので、以下、これを検討しておこう。

(2)バテレン追放令が語ること

 まず1587(天正15)年6月19日の日付で出された「バテレン追放令」の全文を見ておこう。この定書きは五箇条の条文からなっている。なるべく原文にそって意味を補充したものを以下に載せる。

「1.日本は神国であるのに、キリシタン国より邪法を広めたことは、おおいに許されざることなり。
 2.(キリシタンとなった大名が)その国郡の者を(バテレンに)近づけて(キリシタン)門徒になし、神社仏閣を打ち破らせたことは前代未聞である。国郡在所知行などを給人(大名・家臣)に下されたのは、当座のこと(一時的なこと)である。天下よりの御法度をよく守り、諸事その法度が意とするところを実現するべきなのに、下々として(天下の法度を)みだりに破るにことは許されざることである。
 3.(天下人が)バテレンがその智恵の法をもって、こころざし次第に信徒を広げることを許せば、右のごとくに日域の仏法を破ることことになり許されざることである。したがって、バテレンを日本の地に置くことはできないので、今日により20日の間に用意し帰国すべし。
 4.黒船(南蛮の貿易船)は、商売をしに来ることであるから、これはまったく別のことである。今後も商売を継続することはできる。
 5.今後は、仏法を妨げないものであれば、商人でなくとも、キリシタン国より往来することは自由である。

以上
天正15年6月19日                                花押    」

 この定書きに、はっきりとその意図が述べられている。
 キリシタンの教えを広げることをしなければキリシタン国のものでも誰でも来航することは自由であり、貿易を目的に黒船は今後も商売を継続できることを明示してある。禁じられたのはキリスト教を広めることであり、国外追放となったのはバテレン=宣教師だけなのだ。
 ではなぜキリスト教を広めてはいけないのか。これはその第1条と第2条にはっきりと示されている。

@キリスト教は「国民統合の柱」である神国思想を破壊する

 第1条ではっきりと「日本は神国」であり、キリシタンの教えはこれに反すると述べる。この意味は、続く2条以下の条文で、神国と仏法を同列に扱い、キリシタンが神社仏閣を破壊することを違法であると述べていることから、ここに述べられている「神国」とは、仏教・儒教(道教)・神道が、仏教的世界観を中心として渾然一体となった中世的な神国観であることがわかる。だが、この条文だけでは、その意図するところはまだ判然としない。
 ここを充分に補っているのが、このバテレン追放令から5年後に、ポルトガルのインド副王にあてた秀吉の書簡である。
 ここではバテレン追放の理由を以下のように説明している。

「当日本王国は神の国にして、吾人は神を心と同一のものと信ず。けだし万物の起源にして、心はすなわち万物の実体にして真の存在なり。しかれば万物は心と一物、これに帰結せらる。シナにおいてはこれを儒道と言い、天竺にては仏法と称す。而して日本の礼譲と為政とは、この神の道の遵守に存するところなり。礼譲にして守られざらんか、君臣の別明かならず。これに反して遵うて違わざれば、君臣、父子、夫婦の間に行われる和合は完(まっと)うせらる。これによりて当日本の庶人と国々の内外にわたる為政とは、この為政と礼譲とにかかわるなり。伴天連らは、先年らい、人を救うべき別の教えを伝えんとして渡来せり。吾人はすでに神々のこの道を堅固にするものなれば、ここに新たな他の教えを望むべきものにあらず。民にして心を改めてその説を違え道を異にするところあらば、当国にとりて有害なものになるがゆえなり。」

 仏教・儒教と日本の神の道は同じものであり、日本国ではすでに、この神の道を守ることを柱として国が成り立っており、君臣の間も、親子の間も夫婦の間もこの法の下に有り、政治もこの神の道にしたがって行われている。神の道とはすなわち、日本国民統合の柱である。そしてキリシタンの教えに民が従って神の道を守らなくなれば、それはすなわち日本国にとって有害であり、その国民統合の柱を崩す元となる。
 これが秀吉がキリシタンを排撃した理由なのだ。
 従来はこの「神国」を理由としてキリスト教を排撃したことの意味がよくわからず、秀吉がキリシタンを一向宗になぞらえていたことを手がかりにして、たんにキリシタンによる反乱が起こることを怖れたのだと解釈され、「つくる会」教科書もこれを踏襲した。
 しかし「中世の批判」の戦国時代の項でも説明し、さらに本編のキリスト教の伝来のところでも説明したように、戦国大名は「国の平和」を守る事をその存在の根本的理由としており、これを守れなければ家臣・領民の一揆によってその地位を奪われかねない存在であった。これゆえ戦国大名は、彼自身が国の平和を守るべき権威である神々の教え=仏法の権威を守りかつそれを体現した存在として家臣や領民に臨み、自身をしばしば神や仏になぞらえてきたのであった。そしてこの戦国大名の支配の基盤となった考え方はまた、家や村や町の人々の家族や地域をも構成する原理となっていたことが、近年の研究で明かとなっている。
 この仏法と一体となった神国の観念こそが、戦国時代の日本の「国民統合」の柱であったのだ。
 したがってこの戦国の世を統一することになった織田信長も豊臣秀吉も、それぞれ神国の権威を体現する天皇の命を奉じる形で全国に命令していくこととなったのであり、信長は第六天魔王と、秀吉は新八幡と、それぞれ自身を神として君臨した。仏法と一体となった神国思想=国民的宗教がすでに形成され、これによって国民的統合がなされ国家的統合も完成されようとしたまさにその時、これとは異なる思想体系をもったキリスト教がもたらされ、このキリスト教を国民的統合の柱としたキリシタン大名・領民と神国思想を国民的統合の柱とした大名・領民との非和解的な対立が始まっていたのである。

A天下の法を犯すキリシタンの所業

 そしてこのことは第2条にさらにその罪状があげられたことで明白になる。

 第2条は明確に述べている。
 「国郡在所知行を大名に与えたのは当座のことであり、大名は天下の法を遵守し、その法の精 神をいかなる場合でも実現しようと努める義務がある。しかるに国郡の領民をキリシタンとなし、神社仏閣を破壊するとは、天下の法を破る大罪なり」と。
 1588年の時点で出されている天下の法とは、「惣無事令」と「喧嘩停止令」さらには、「海賊停止令」であろう。この諸令は陸でも海でも、天下による命令によらない争いはすべて禁止され、争いごとがある場合には、天下に対して訴訟を起こし、その裁定に従うべきことを定めた。この法の見地からすれば、キリシタン大名がその領国内の神社仏閣を破壊し、信徒となった領民を動かしてそれをなさしめていることは、明確な法令違反であるわけだ。
 そして第2条で明確に述べていることは、「大名の領国は今後もその家に伝来して領有される固有の領地ではなく、日本国を治める天皇から秀吉が預かって、一時的にその家臣である大名に預けたものである。したがってその民も大名の未来永劫の領民ではなく、天皇の民であって、大名が私のものにすることはできない。」と。キリシタン大名がやってきたことは、秀吉が推し進めようとしてきた天下統一のための根本的な大法を破る大罪であるというわけだ。

 また秀吉は、バテレン追放令を発したときに、家臣たちに次のように話したという。

「予はすでに以前から、キリシタン集団を五畿内から遠ざけ、かつ伴天連をその地から追放しようと欲していた。だがそのようにしたところで、この下の九ヶ国(九州)には、まだなお多数の伴天連や教会やキリシタンが残っていることだから、今日にまで延引してきたのだ。この下の地方でその悪魔の宗派を破壊すれば、五畿内にある同宗派の全てを壊滅させることはいとも容易なことである」(「フロイス日本史」4・16章)

 さらに秀吉は伴天連追放令を出す前に高山右近に信仰を捨てるべきことを命令し、以下のように述べたという。

「予はキリシタンの教えが、日本において身分ある武士や武将たちの間においてもひろまっているが、それは右近が彼らを説得していることに基づくことを承知している。予はそれを不快に思う。なぜならば、キリシタンどもの間には血を分けた兄弟以上の団結が見られ、天下に累を及ぼすことが案ぜられるからである。
 同じく予は、右近が先には高槻の者を、そして今は明石の者をキリシタンとなし、寺社仏閣を破壊せしめたことを承知している。それらの所業はすべて大いなる悪事である。よって、もし今後とも、汝の武将としての身分に留まりたければ、ただちにキリシタンたることを断念せよ」(「フロイス日本史」4・17章)

 秀吉は九州に来る前からキリスト教団の実態を把握しており、これを破滅させることが必要だと認識していたわけで、教科書が記述する「九州に来てから」ではないことは明白である。

 先に記したように、国の平和を維持することが自らの権力の根本的な基盤となっていた戦国大名は、平和を維持する努力を続けながらも、自分が国主として君臨する根拠を、神国日本の神々の代理人もしくは神そのものとして自分が国を統治しているのだというところに置き、神国という考え方と国の平和とを結合させていた。この事実と照らし合わせてみれば、神国を理由として秀吉がキリスト教の禁止に走った理由が理解される。また、当時の神国観念が古代のそれとは異なって、仏教的な宇宙観を根本において、仏の垂迹としての神々と言う形で、中世日本の神国観は、仏教・儒教・道教・神道が一体に結びついていたという理解をも基礎にすえれば、秀吉が寺院の焼き討ちを持ってキリスト教排撃の理由としたことも理解できるであろう。
 要するに、当時の秀吉を頂点とする君主たちは、神国思想という宗教を根幹において君主・家臣・領民一体の国を形作ってきたのであるが、キリスト教という異なった神の信仰の下で、同じく君主・家臣・領民一体の国を形作ろうとする異国の宗教が跋扈することは、彼ら君主たちが主導する社会秩序の崩壊を招きかねないと怖れたのではないか。近年の戦国時代研究と思想史研究の深まりを基礎においてみれば、秀吉のキリスト教禁教令の思想的・政治的背景が理解されよう。
 しかし「つくる会」教科書は、このような歴史認識の深まりを踏まえずに、通説的理解をただただ記述しただけであったように思われる。

B秀吉は一向宗とキリシタンの違いをはっきり認識していた

 では「つくる会」教科書が上げた「一向宗とキリシタンの同一視」は事実であったのか。
 これも秀吉が語ったとフロイスがあげた資料で確認しておこう。同じく「日本史4・16章」に秀吉が以下のように語ったことが記されている。

「奴らは一面、一向宗徒に似ているが、予は奴らのほうがより危険であり有害であると考える。なぜなら汝らも知るように、一向宗が広まったのは百姓や下賎の者の間に留まるが、しかも相互の団結力により、加賀の国においては、その領主(富樫氏)を追放し、大阪の僧侶を国主として主君として迎えた。(顕如)は、予の宮殿(大阪城)、予の眼前にいるが、予は彼に築城したり、住居に防壁を設けることを許可していない。だがいっぽう奴ら伴天連らは、別のより高度な知識を根拠とし、異なった方法によって、日本の大身、貴族、名士を獲得しようとして活動している。彼ら相互の団結力は、一向宗のそれよりも強固である。このいとも狡猾な手段こそは、日本の諸国を占領し、全国を征服せんとするためのものであることは微塵だに疑問の余地を残さぬ。なぜならば、同宗派の全信徒は、その宗門に徹底的に服従しているからであり、予はそれらすべての悪を成敗するであろう」(「フロイス日本史」4・16章)

 これは、バテレン追放令の前日の6月18日に諸大名に当てて出された「覚朱印状」の第6条・7条・8条の定めとほとんど同じ文であるので、フロイスが記述した秀吉が語ったことというのは、この覚朱印状を指していると思われる。
 そしてここには、一向宗とキリシタンとの違いが明確に述べられているのだ。
 秀吉は、一向宗は百姓や下賎の者の間に広まったにすぎないが、それでも加賀の国では守護を追い出し、一向宗の宗主である本願寺教主を国主にすえ、「百姓の持ちたるような」国にする力があったと認識していた。そして覚朱印状ではこれに続けて、「そのうえ越前までも取りそうろう」と、朝倉氏を滅ぼして織田分国を作ったのに、ここまでも一向宗に押さえられたことを示し、百姓・下賎の者でも宗教の下に統一されれば巨大な力を発揮するものであることを明確に認識していた。そしてその一向宗はすでに本願寺教主は大阪城下の天満に住まわせてすでに城郭や寺内町はなく、秀吉に忠誠を誓っていることを示し、一向一揆の脅威はなくなったとの認識を示した。
 しかしキリシタンはこれとは違い、いまだ大きな脅威となる危険性を秘めていると秀吉は述べる。その理由は、「日本の大身、貴族、名士」をその信徒にしているからであり、彼らの団結力は一向宗より強固であるからだと説明する。
 これは一向宗が惣村や寺内町の惣町の百姓を基盤とするもので、しかもそれぞれの地域の一揆は本願寺からも自立しており、それぞれの利害で動くものであることを秀吉が認識していたことを示すに違いない。だからこそ、信長・秀吉政権との戦いの中でも一向一揆の全てが彼らに敵対したわけではなく、政権の側の「国の平和の保障」と「信仰の自由の保障」が確認できれば、各地の一揆が単独で政権との間に講和を結んだのであった。
 しかしキリシタンはこれとは違い、強固な団結力を持っていると秀吉は言う。しかも大身=大名武士や、貴族=公家や、さらには名士=僧侶や神官そして有力な商工業者も信徒になっているからと。
 つまりこれは、キリシタンには一向宗以上に、城郭と武装した信徒の武士団、そしてそれに武器弾薬や食料などを補給できる巨大な商人集団を備え、さらには民衆や天皇までも動かせる高位の貴族や僧侶までも信徒に擁しており、これらの信徒団がイエズス会の日本準管区長を頂点とした宣教師たちの組織の統制下に堅く団結しており、頂点にいる宣教師たちへの信徒の敬愛の念と服従のさまを秀吉が良く知っていたことを示している。この宣教師の権威の高さは、かつて1578年に織田信長に摂津の伊丹城主荒木村重が本願寺に呼応して謀反を起こしたときに、その重臣であり高槻の城を預かっていた高山右近が「右近が村重に反逆して信長につかなければキリシタンを皆殺しにする」との信長の命を伝えた宣教師の説得によって高山右近が信長に寝返り、おおくの荒木家家臣団が寝返ったことなどの事件を通して明かである。秀吉はキリシタン宗徒の団結力と信仰の力の強さを認識したのであろう。さらにこのイエズス会の宣教師集団はローマの教皇の命を受けたポルトガル国王によって任命されたものであり、宣教師は必要とあればポルトガル国王の援助を受けて、信徒となったキリシタン大名に対して、武器・弾薬や食料、さらには優秀な大砲を備えた快速船すら貸し与え、周辺の異教徒の大名との間の闘争において、彼らキリシタン大名を有利な立場におく援助すら行っていた。また宣教師はポルトガルとの貿易を仕切っており、貿易によって巨大な利益を得て、この利益もキリシタン大名への援助にあてられていた。先の秀吉の発言は、このことを秀吉が知っていたことを示していたに違いない。九州大村領内の長崎こそは、まさにその、キリシタン大名が宣教師を通じて、ローマ教皇とポルトガル国王に「臣従」している証であると秀吉の目には映っていたのであろう。

 秀吉は、キリシタン集団がローマ教皇とポルトガル国王を頂点とした宣教師集団によって統率される中央集権的組織であり、その統制力の下に、多くの城郭と武装集団を擁するキリシタン大名が組織され、その大名はその領民を全てキリシタンへと組織しつつあったことを明確に認識していたのだ。そしてそのキリシタン集団が、日本の国家・国民統合の柱である神社・仏閣を破壊し焼き討ちする。これはかの一向宗でもやらなかったことだ。一向宗・本願寺も、天皇を頂点とする「神国日本」のその秩序の下での集団であったからだ。そして一向宗をはじめとした中世には強大な領地と武力を誇って政治勢力としても君臨した仏教勢力は、信長・秀吉政権によって解体され、「祈祷と人々の信心を助ける」本務に従事する限りでその存在が許されるという形に変わっていた。これはある意味で「政教分離の宗教改革」が進んでいたことを示すであろう。
 しかしこの「政教分離」を拒むキリシタン集団はかならず、日本の国家・国民統合を破壊する。それは日本がポルトガルの支配下に置かれることを意味するであろう。これが秀吉が、一向宗以上にキリシタンを恐れた理由だった。
 秀吉のキリシタン禁令について詳しく述べるのであれば、以上のように、秀吉政権が成立した当時の日本の状況と照らし合わせ、秀吉政権の存続にとって、キリシタン集団がその存在の根本において強大な敵となる怖れがあったことを示すべきであった。

(4)布教を妨害される中で先鋭化したカトリック

 一方、キリシタン集団の日本における拡大が、やがて日本に対するポルトガルの武力侵攻に繋がるに違いないという秀吉の疑いには、「つくる会」教科書が指摘するように、根拠があったのだ。布教がおもうように進まないことにいらだった宣教師たちは、伴天連追放令が出る以前から、くりかえし武力による占領の必要性を語っており、それは中国に対する武装侵攻・占領計画と一体のものであった。
 早くも1580(天正8)年に、イエズス会巡察師のヴァリニャーノは「キリシタン教会とパードレたちの利益のために、長崎の港を十分に強化し、弾薬・武器・大砲およびその他の必需品を装備することが重要である。同様に茂木の城塞を修築して安全なものにすることが大切である」と、「日本布教長規則」に定めていた。そして当時の日本準管区長コエリョはこの指示を忠実に遵守し、十分に装備された大砲を搭載したフスタ船(快速船)を建造させ、異教徒による長崎襲撃を阻止した。
 また1583(天正11)年には、フィリピンのマニラ司教フライ・ドミンゴ・サラサールは、「中国の統治者たちが福音の宣布を妨害しているので、陛下は武装してかの王国に攻め入ることのできる正当な権利を有する」とスペイン国王に手紙を送り、スペインのわずかな鉄砲隊でも何百万もの中国人をほろぼすのに充分だし、日本人は中国人の仇敵だからスペインが中国に攻め入るときには非常な敵意を示して加わるだろうから、在日イエズス会士の命令に従ってまちがいなく行動するように指令をおくればよいと、あからさまな中国侵略策を説いていた。そして同じことは、1584(天正12)年に、かつてイエズス会の日本布教長であったフランシスコ・カブラルもスペイン国王に手紙を送り、中国全土の年貢徴収の台帳をすでにスペイン語に翻訳させ、1億5000万人の年貢納入者を確かめる仕事を完了していることと、中国国民は国境守備隊を除けば全て非武装の国民であり、政治が過酷であるのですぐにでも謀反が起こる情勢であること、そして日本人キリスト教徒2・3000の勇敢な兵隊を参加させられることを報告し、「短期間で世界の帝王に」と提案していた。
 さらに1585(天正13)年には、イエズス会日本準管区長のコエリョも、長崎防衛のためにフィリピンのイエズス会にマニラ総督の援助を要請し、その手紙の中で、日本へのスペイン艦隊の派遣によって異教徒によって悩まされている何人かのキリシタン領主を援助できるし、武装した艦隊は日本では珍しいので、キリシタン領主の援助を得て、この地の海岸地帯全体を支配することも可能であることを述べ、「もしも陛下の援助で日本66カ国を改宗できれば、いっそう容易に中国征服を成就できるだろう」とも申し添えていた。
 1587年の伴天連追放令以前からイエズス会を始めとするカトリック勢力は、スペイン国王(当時はポルトガル国王も兼ねていた)の援助によって日本のキリシタン領主を異教徒の攻撃から守るだけではなく、これが出きれば日本全土もキリシタンに改宗させ、その武装勢力の援助も得て、スペインは中国征服も可能であると、国許に提案していたのである。この背景には、中国では明帝国の力によって布教がまったく進まないだけではなく、日本でも改宗したのはいくつかの弱小大名の下においてであり、多くの大名はキリシタン布教を拒み、キリシタン大名が異教徒の大名の攻撃によって存亡の危機に瀕していたという状況があったことである。

 そしてこの日本における布教困難な状況は、1587年のバテレン追放令によってさらに加速し、日本におけるキリシタン勢力はかなり追い詰められ、多くの宣教師や修道士・同宿が畿内地方などから九州の大村・有馬・天草などの弱小キリシタン大名の領内に移り住み、そこで身を潜めなければならない状況に陥った。この状況の中で、武力によって状況を打開しようとする動きが加速される。
 すなわち、1587(天正15)年10月に豊後臼杵の修練院院長であったペドロ・ラモンはイエズス会総会長にあてた手紙の中で、秀吉がイエズス会員全員の日本追放を命じたことに対して確実な対策がないのは、避難できるような確固たる足場がないからであり、このような足場の必要性と、フェーリペ国王の手で日本国内に城塞を一つ得ること、また長崎に城塞を得ることは難しくないと意見を述べた。この意見は彼個人のものではなく、追放令直後の平戸での会議で宣教師が日本に残留し布教活動を継続するとの結論を踏まえたものであろう。そして日本準管区長コエリョがこのときにあたり、平戸から有馬に赴いて有馬晴信に、キリシタン領主らを糾合して秀吉に敵対行動をとることを働きかけ、そのために必要な資金と武器弾薬を提供することを申し入れ、必要なものの調達を始めたが、有馬晴信らによってこの提案が拒否され実行に移されなかったことが、1590年に来日した巡察師ヴァリニャーノによって報じられている。実際にコエリョは、巡察師がインド副王使節として来日する前に有馬領内でイエズス会の有力者を集めて対策を協議し、軍事援助をあおぐべきか否かを巡察師に諮問すべく使者をマニラまで派遣した。しかしこの武力によって事態を打開しようと言う提案は巡察師によって却下され、1590年7月に来航した巡察師は、教会のフスタ船を売却し、長崎に集積されていた大砲数門をマカオに送って売却し、武器弾薬も処分したのであった。
 巡察師の判断は、武力によって秀吉に対抗することの困難さ危険さと、やがて追放令も緩和ないし撤回されるであろうから、それまで自重しろというものであったのだ。
 しかしバテレン追放令は撤回されなかった。
 たしかにイエズス会の宣教師がポルトガル船の来航に大きな影響力を持っており、彼らの仲介抜きにはポルトガルとの生糸貿易も成り立たないことを悟った秀吉が、インド副王使節である巡察師に従ってきた宣教師10人の長崎在住を認め、公然たる布教活動をしないかぎりにおいて、彼らの日本在住を黙認したことによって、追放令は緩和された。だが、秀吉のキリシタンに対する認識・疑念は晴れることはなかったので、いつでも追放令が強化される危険性を抱えていたのだ。
 そしてこのことは、1592年と1596年に現実のものとなった。
 1592年、スペイン総督の書状を持って来日したドミニコ会士ファン・コーボは肥前名護屋で秀吉に謁見した。このとき薩摩に滞在していたスペイン商人が通詞として同行したのだが、彼はマカオ滞在中にポルトガル人との利害の対立によって財産没収をされており、「ポルトガル人は他国の船が日本に渡航するのを妨げており、金銭まで没収した」と偽りの報告を秀吉にし、使節であったコーボもこれに同調した。怒った秀吉はただちに奉行を長崎に派遣し、教会を破却してその用材を名護屋に送るように命じた。こうして長崎の教会は破壊されたのだ。
 また1596(文禄5)年の10月に、フィリピンを出航してメキシコに向かう途中のスペイン船サン・フェリーペ号が台風にあって土佐(高知県)に漂着した。このとき積荷引取りに出た奉行の増田長盛が同船の航海士に、スペイン人はいかなる方法でフィリピンやメキシコなどを奪ったのかと質問した。航海士は彼に恐怖心をおこさせようとして「われわれは世界中と取引しようとしており、われわれを厚遇すれば味方となり、虐待すれば領土を奪う」と述べ、奉行が「そのためにはまず修道士が来なければならないだろう」とたたみかけると、航海士はそうであると答えた。秀吉はこの答えを聞いて激怒し、さらにフィリピン総督の使節として来日していたフランシスコ会士たちが公然と布教活動をしていることもとらえて、京都・大阪にいた宣教師たちの逮捕を命じた。そしてフランシスコ会やイエズス会の宣教師や信者24名が捕らえられ、他に捕らえられた2名とともに、1597年2月5日に長崎において処刑されたのであった。
 こうしてバテレン追放令は撤回されることなく、宣教師たちは、九州のキリシタン大名の領内に潜伏して密かに布教活動を続けるしかなく、日本におけるキリスト教の拡大の望みはなかなか実現しなかった。やがて追放令が撤回されるであろうという巡察師の認識は甘かったのである。

 この中でまたも武力による征服が語られる。
 1590(天正18)年にヴァリニャーノに従って長崎に上陸したイエズス会士ペドロ・デ・ラ・クルスは10年あまりの滞在の間に、カトリック国王が日本で権能を持ち防備力を備え、そして統治することができれば、日本はキリストの美しい葡萄園になるであろうと語るようになっていった。また彼は、中国産生糸の貿易は日本でのキリスト教会の発展のためにあるのだから、われわれとの同盟に応じる日本の領主のみを加え、敵対する領主を加えるべきではなく、カトリック国王の日本征服事業は、日本の銀鉱を発見するためだけではなく、日本の国々を平定統合するためと、キリスト教的な善政をしくためでなければならぬとも語るようになっていった。
 カトリックがスペイン・ポルトガルの両国王の援助の下でアジアに広げられようとしたとき、中国は強大な帝国明によって統治され、明が海禁政策によって貿易を制限したので、貿易の利益もなかなか拡大しなかった。そして、キリスト教の布教は天道思想の下にある中国では思うに任せなかった。日本においては中国・東南アジアとの中継貿易は日本が世界的な銀産地であったために巨大な利益を上げることはできたが、キリスト教の布教は、中国と同じく天道思想と結びついた神国思想によって国家的統合を果たそうとしていた秀吉政権の成立によって頓挫することとなった。こうして中国・日本において相次いで信者の拡大を阻止されたカトリック勢力の中からは、その事業がスペイン・ポルトガルの領土拡大運動によって支えられていた故に、武力による中国・日本の征服によって教線の拡大を図ろうとする動きが必然的に現われることとなった。そしてこの動きがまた、カトリックの拡大そのものの障害物と化していったのである。
 ただ、間違えないようにしたいのは、カトリック勢力が武力による中国・日本の征服によって教線を拡大しようとしたのは、両国においてキリスト教の拡大が頓挫したからであって、当初から侵略のために宣教師が送りこまれたのではないということである。そして武力による征服を梃子に教線を拡大しようと言う意見が出てきた背景には、フェリーペ国王の下でポルトガルとスペイン両国が統合されていたとはいえ、日本貿易と日本布教をめぐってポルトガルとスペインとの間の争いが続いており、このことがまたイエズス会の中におけるポルトガル人宣教師とスペイン人宣教師の主導権争いや、ポルトガル系の強いイエズス会とスペイン系の他の団体との主導権争いが絡んでいたことも忘れてはならないであろう。

(5)禁令が徹底しなかった理由は

 最後になぜ秀吉のバテレン追放令が徹底せず、宣教師たちは九州に潜んで活動を続けられたのかということについて述べておこう。

@貿易における宣教師の力の大きさ

 一つはまさに「つくる会」教科書が述べるように、「秀吉が貿易による利益をもとめて商人の来航を許していた」からである。ただより正確に言えば、秀吉は当初は、バテレン=宣教師を追放しても、ポルトガル船やスペイン船との貿易を秀吉政権が独占できるものと考えていたふしがある。
 追放令の翌年1588年に秀吉は堺代官であった小西隆佐を長崎に遣わして生糸を安値で買い占めさせた。このため翌1589年のマカオからの貿易船はこのことに抗議して長崎には向かわず、メキシコに出帆した。中国産生糸の貿易を独占しようとする秀吉の策動には大きな抵抗がなされたのであった。そしてイエズス会宣教師がポルトガルとの貿易の仲介者として大きな力を持っていることは、1591年に来航したポルトガル船が積んだ金を、秀吉の命令をうけた長崎代官が買い占めようとしてポルトガル商人の抵抗にあい、ちょうど長崎にいた巡察士ヴァリニャーノの仲介によって取引が成立したことによって証明された。
 だから秀吉は、バテレン追放令を出しながらも、宣教師が長崎に在住することを許可し、長崎と周辺のキリシタン大名領には多くの教会があって布教活動が行われていることをも黙認したのであった。
 貿易と布教とが一体のものであったために、キリスト教禁令は徹底することができなかったのだ。これが可能になるのは、貿易と布教とを一体のものとはしないプロテスタント国の貿易船が継続的に日本に来航するようになってからである。オランダ船が平戸に来航してそこに商館を開設したのは1609年、イギリス船が平戸に来航して商館を開いたのは1613年である。このキリスト教布教を目的とせず貿易を行う国々が中国・東南アジア・日本の中継貿易に参入し、そしてオランダがポルトガルとスペインの勢力をこの地域から駆逐して始めて、キリスト教禁令は徹底する基盤を得たのである。これは江戸時代になってのことであった。

A秀吉政権の脆弱さ

 しかしキリスト教禁令が徹底しなかったのは、秀吉が貿易の利を求めたことにだけ理由があるわけではない。
 秀吉が領地を没収し大名の地位から放逐したのは、高山右近だけであった。その他のキリシタン大名は領地も没収されず、信仰も維持した。例えば秀吉の腹心の部下であり軍師であった黒田孝高(後の如水)は、九州攻めによって保証されていた3カ国の領地を一国に削減(豊前のみ)されはしたが、依然として秀吉の軍師の地位に留まっていた。また秀吉の腹心であり、彼の水軍の長である小西行長は後に肥後南半国の大名に封じられ、九州諸大名の監視役でもあり、肥後地方に根強く広がるキリシタン大名の盟主としてそれを統制する地位にあった。そして九州の大村・有馬・天草などのキリシタン大名も領地を安堵されていたし、禁教令の中でも、キリシタンに改宗する大名はあとを絶たなかった。朝鮮との通交の実権を握る対馬の宗氏も小西行長の娘との婚姻をきっかけとして改宗しており、豊臣の主だった大名の中にも密かに宣教師と好を通じるものもあった。またこれ以外でも、貿易の利を求めてフランシスコ会士の居留を許した島津氏など、多くの大名が貿易の利益を求めて宣教師との接触を続けたのである。
 ではなぜ、秀吉がこれらのすべてのキリシタン大名や他の大名に対して領内からの宣教師の追放や信仰の放棄を強制しなかったのか。
 ここには秀吉政権の弱さが反映していたのである。
 先に「秀吉の全国統一」の個所で説明したように、秀吉は全国の大名を武力によって制圧したわけではなかった。とりわけ彼に充分対抗できる力をもった徳川家康に尾張(愛知県)長久手の戦いで敗れたことは大きな痛手であった。したがって彼の全国統一は、彼が関白の地位を得ることによって「天皇の平和」の名目の下に全国の大名に争いを停止させ、国郡境目争論は秀吉の裁定によって解決するものとしたことで成し遂げられたものであった。そしてこの裁定に従わない大名に対しては制裁としての軍事力を発動しはしたが、これも戦いによって敵を殲滅したわけではなく、多くの場合は敵対した大名の本領の安堵という形で、その大名が他の大名を圧伏して獲得した新領地を放棄させ、旧領主に返却させたり一部を秀吉の直轄領にしてそこに子飼いの武将を配置するという形で決着をつけたのであった。
 四国の長宗我部もそうであったし、九州の島津もそうであった。また奥州の伊達もまたそうであったのだ。
 領地没収となって滅びたのは、関東の北条と奥州の芦名や陸奥の弱小大名だけ。多くの戦国大名は本領を安堵され、旧来の家臣団をそのまま維持していたのである。宿敵の徳川もまた北条の滅亡とともに東海の旧領を没収されかわりに関東8カ国に移されたとはいえ、旧来の家臣団をそのまま維持し、それに滅亡した北条や武田の旧臣も抱えて、強大な勢力を保っていた。
 秀吉は全国を統一したとは言っても、彼の本領とした畿内以外では、多くの旧戦国大名がそれぞれの旧領を維持して、独立した勢力を保持していたのである。そして彼が進めた検地は、大名の力を削ぐのではなく、大名領国内で独立した力をもっていた国人領主の領地を、関白の命令という形で大名の下に接収してその独立性を奪い、改めて大名に臣従を誓ったものに対して所領を預けたが、その石高は通常以前よりも減らされ、さらに国人領主はその家臣団ごと別の領地に移動させられるという形で、その独立性を奪われていったのである。したがって旧戦国大名の多くは、秀吉による全国統一に参画する過程でその領国支配力を高めていた。
 こうして秀吉政権は、内部に多くの独立した勢力を抱えていた。
 したがってこれらの独立勢力を監視し、その力を弱めるためには、秀吉子飼いの武将や古くから臣従する大名の力を借りて新たに獲得した秀吉直轄領の管理を任せ、周辺の旧戦国大名を監視・統制するしかなかったのである。したがって秀吉政権は、その子飼いの勢力や早くから臣従していた大名の力に依存していた。そしてその子飼いの勢力や早くから臣従していた大名の内部におけるキリシタン大名の占める位置は大きかったのである。
 それゆえ彼は、バテレン追放令発令に際して、キリシタン大名の盟主と目されていた高山右近の領国を没収し、黒田孝高の予定された領国を削減する程度のことしかできなかったのだ。
 そしてこのことは秀吉が朝鮮に向けて侵略軍を発し、かの地を占領することにも繋がって行く。
 次の項で詳しく述べるが、侵略軍の先鋒を担ったのは、キリシタン大名小西行長を大将とした九州のキリシタン大名たちと九州・中国・四国の旧戦国大名たちであり、朝鮮占領がなったあかつきには、彼らは全て朝鮮に移封されるともっぱら噂されていた。秀吉は東国の北条氏を討つにあたって多くの大名を従えて東国入りし、途中で徳川分国の諸城の多くは後詰ということで秀吉子飼いの武将が駐屯。そして戦後には最大のライバル徳川氏を関八州に移封し、織田信雄を徳川旧領に移封し、彼の旧領である尾張・美濃・伊勢を子飼いの武将たちに分け与えようとした。そしてこの移封を拒否した織田信雄の所領を没収し、徳川旧領もまた秀吉子飼いの武将たちが配置されたのであった。このとき奥州伊達氏の押さえであり、徳川を北から押さえるものとして会津に移された蒲生氏は、秀吉に古くから臣従した畿内小大名であり、紛れもないキリシタン大名であった。
 こうして秀吉は、彼に逆らう可能性のある大名を本州の東に封じこめ、その故地には、秀吉子飼いの大名を配置したのだ。おそらく朝鮮侵略において、九州のキリシタン大名と九州・四国の旧戦国大名が先鋒を勤めさせられたのは、これらの秀吉に逆らう可能性のある大名を朝鮮もしくは中国に移し、その故地に秀吉子飼いの大名を移封することで、すでに手中に収めていた東海・畿内についで、中国・四国・九州の地もまた秀吉の直轄地にして、彼の統一権力を強化しようとしたのであろう。また秀吉は、朝鮮侵略戦争の最中に奥州伊達氏の旧領を没収して陸奥葛西・大崎領(宮城県)に移し、会津(福島県)の蒲生氏を宇都宮に移封して、空いた会津に伊達氏の旧領をも合わせた上杉氏を移封している。これも、伊達氏を北に追いやり、早くから臣従する上杉と蒲生とで、伊達・徳川両氏を牽制しようということであろう。
 基盤の弱い秀吉政権は、東西に兵乱を起こすなかで、対抗する可能性のある大名たちを、本州の北・東の果てや朝鮮に押しこめ、日本列島の中枢部を、自身と子飼いの武将とで占拠し、政権基盤を強化しようとしたに違いない。そして秀吉政権の尖兵となってきた子飼いの武将や畿内の小大名には、キリシタン大名が多かったのである。

 秀吉がポルトガルやスペインとの貿易を独占しようとしたのも、おそらくは同様な理由であったろう。彼に敵対する可能性のある大名が貿易で利益を上げて強大化することは危険であったからであり、現に島津氏も宣教師を保護し、領内にスペイン船を誘引しようとしていた。秀吉がバテレン追放令によって貿易を支配していた宣教師から秀吉政権に貿易の独占権を手に入れようとしたこともまた、秀吉政権の弱さに起因していた可能性が高い。それゆえその貿易において、宣教師の力が大きく、秀吉政権といえども、彼らの力を借りねば貿易の実権を握ることすら不可能であることがわかったとき、秀吉はバテレン追放令を緩和せざるをえなかったのである。
 かくして秀吉政権の弱さ故に、キリスト教禁令は徹底しなかったのだ。
 しかし、「つくる会」教科書を始めとして多くの教科書では、秀吉政権の弱さは指摘されてはおらず、これとキリスト教禁令の不徹底さとの関連もまたほとんど指摘されてはいない。

:05年8月刊の新版におけるキリスト教の禁止についての記述は、少し簡略化されてはいるが、概ね旧版と同じである。しかし、旧版にあった「神国だから好ましくない」「寺院がキリスト教徒によって焼き討ちされている」という記述は全面的に削除されて、「中国や日本を武力によって征服する計画があった」ことを根拠にして「キリシタンが統一の妨げになる」と秀吉が恐れたのがキリスト教禁止の理由であるということが、旧版以上に強調されている。そして資料としてバテレン追放令の要約文が掲載されたのだが、第2条の「大名・領主の領地は一時的に預けたものであって、彼らは秀吉が定めた法を遵守すべき存在である」という、「神国」を体現する天皇の命をうけての天下統一への障りになるということを認識できる部分が省略されている。このことによってもキリスト教の禁止が「日本征服を阻止するため」という旧来の解釈を際立たせることになり、事態の表面的一面的解釈を強化することになっており、まだまだ改善すべきところが多い。

:この項は、前掲、藤木久志著「天下統一と朝鮮侵略―織田・豊臣政権の実像」、ルイス・フロイス著「日本史5」、五野井隆史著「日本キリスト教史」、神田千里著「島原の乱―キリシタン信仰と武装蜂起」などを参照した。


目次へ 次のページへ HPTOPへ