「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー
〜この教科書から何を学ぶか?〜
「第3章:近世の日本」批判7
7:国内統一戦争の継続としての朝鮮侵略戦争
「豊臣秀吉の全国統一」の三つ目は、「朝鮮への出兵」である。
「つくる会」教科書のこの項目の記述は、1ページをあてていて詳しいほうであるが、標題が「朝鮮への侵略」ではなくて「出兵」としたことに示されるように、曖昧で疑問の多い記述である。
批判をする前に、教科書がどう記述したか示しておこう(p121)
1世紀ぶりに全国の統一を果たして、秀吉の意気はさかんであった。秀吉は、さらに中国の明を征服し、天皇も自分もそこに住んで、東アジアからインドまでも支配しようという巨大な夢にとりつかれ、1592(文禄元)年、15万の大軍を朝鮮に送った。加藤清正や小西行長などの武将に率いられた日本軍はたちまち首都の漢城(現在のソウル)をおとし、さらに朝鮮北部にまで進んだ。しかし朝鮮側の李舜臣が率いる水軍の活躍や民衆の抵抗があり、明の援軍もあって、戦いは日本に不利になり、明との和平交渉のために撤兵した(文禄の役)。 ところが、明との交渉は整わず、1597(慶長2)年、日本は再び14万の大軍で朝鮮に攻め込んだ。ところが、日本軍は朝鮮南部に侵攻しただけで戦況は停滞し、翌年、秀吉の死去とともに、兵を引き上げた(慶長の役)。 2度にわたって行われた出兵の結果、朝鮮の国土や人々の生活は著しく荒れ果てた。明も日本との戦いで衰え、豊臣家の支配もゆらいだ(このころ、朝鮮の陶工[とうこう]によって陶器[とうき]の技術が伝えられ、茶の湯の発展にもつながった)。 |
(1)侵略の事実を押し隠す曖昧な記述
実に曖昧で、たくさんの疑問がわいてくる不充分な記述である。
@なぜ侵略と記述しないのか
秀吉は「明を征服しようとして、朝鮮に大軍を送った」と記述する。ではなぜ中国・明に直接軍隊を送らずに朝鮮に大軍を送ったのか。この点がこの教科書の記述の大きな疑問点である。そしてこの事件を「朝鮮への出兵」として、たんに朝鮮に軍隊を送っただけであるかのような書き方をしていながら、当時(正しくは江戸時代になっての呼び名であり、当時は「唐入り」とか「高麗渡り」とか呼ばれていた)の呼び名である「文禄の役」「慶長の役」という呼び名を記す。
「役」という言葉は、大義名分を示す言葉で、賊(=世界の中心でそこを支配する正当な権利をもったものに敵対した犯罪者)を討ち滅ぼすという意味の言葉である。ということはつまり、日本が世界の中心であり、朝鮮は中心である日本に「敵対した」罪によって討伐されたという事実評価になる言葉である。
しかし当時の日本が「朝鮮がどのような罪を犯した」と考えたのかも記述しない態度でいて、一方的に「犯罪者を征伐する」という意味の「役」という語を使う態度は、「悪いのは朝鮮だ」とでも言いたげな態度で、この戦争が明確な侵略戦争であり、朝鮮を占領してそこに諸大名を移し、さらに中国・明をも征服してそこにも諸大名を移して、これらの国々を征服する行為であったという事実を隠蔽するものである。
A秀吉の対外政策=戦争の原因が見えない
そして二つ目の疑問は上の点にかかわるが、秀吉が日本の統一を果たしていく過程で、どのような対外政策をとったのかということがまったく記述されず、単に「巨大な夢」と記述したことである。
朝鮮に対する戦争を「役」と呼んだということは、日本を「世界の中心」とし、周辺の諸国へは、日本に服属することを要求したのではないかと想像される。しかしこの姿勢は、当時の常識的な国際秩序には反するもので、世界の中心は中国であり、日本や朝鮮はその周辺の中国皇帝に臣従する従属国で毎年貢物を持っていく関係になっていた。
したがって秀吉の「中国・インドまで征服」という考え方は、当時の常識とは大きく異なったものであるが、なぜこのような考えかたが生まれたのかが、まったく説明されていない。そしてこのことは、秀吉が朝鮮や琉球(アイヌも)・台湾や中国、東南アジアの国々にどのような態度で臨んだのかが記述されていないことともあいまって、秀吉の対外政策がまったく見えてこない結果となっている。
また「対外政策」としてとらえれば、これはかならず「国内政策」との関係で一貫したものであるはずだ。今までは日本と対等な関係にある朝鮮や日本の宗主国である中国・明に攻め入り、これらを征服して、さらにはインドまで(つまり東南アジアも)征服するという秀吉の構想が、国内政策とどのような有機的関係で出されたのか。言いかえれば、朝鮮・中国に対する侵略戦争が遂行されたことの国内的国際的理由について考える手がかりを、この教科書の記述はまったく欠いているのである。
「つくる会」教科書は、秀吉は「巨大な夢」にとりつかれ、と記述したことで、この事件を当時の国内的国際的環境とはまったく無縁なものにしてしまっている。
B曖昧な戦争の経過
そして戦争の経過もまたきわめて曖昧である。読んでいるといくつもの疑問がわいてくる。
なぜ日本軍は簡単に朝鮮の首都を落とし、中国との国境地帯にまで兵を進められたのか。朝鮮は日本が攻めてくると疑い防備体制は取らなかったのか。また陸上を日本軍が進むにあたって朝鮮軍は抵抗しなかったのか。さらに朝鮮の民衆が抵抗したとあるが、日本軍は朝鮮民衆の抵抗にはどう対したのか。そして「李舜臣率いる水軍」が活躍したとあるが、「活躍」とは曖昧な記述である。日本水軍は朝鮮水軍に負けたわけであるが、なぜそれを記さないのか。陸上では破竹の勢いで進んだかに見えた日本軍がなぜ水軍には負けたのか。水軍に負けたということは食料・武器弾薬の補給ができなくなったということだろうが、食料の不足した日本軍はどうやって食料を得ることができたのか。
そして、和平交渉というが、どうして交渉相手が明であって中国ではないのか。また和平交渉とはどのような内容でなされ、どうして和平が整わなかったのか。
さらに2度目に日本軍が朝鮮に攻めこんだとき、今度はなぜ南部にしか攻めこめなかったのか。2度目の日本軍は南部を占領し南部4道を日本に割譲させようと狙ったのではなかったのか。そしてこれも成功しなかったのだから、2度目の侵攻のとき、朝鮮軍や朝鮮の民衆はどう対したのか。そして朝鮮軍や民衆の抵抗に日本はどう対したのか。さらに明の援軍はどう動いたのたのか。最後に秀吉の死に伴う撤兵に際して、朝鮮または明とは停戦または和平交渉はなかったのか。
「つくる会」教科書の戦争に関する記述はきわめて曖昧である。
Cほとんど具体性のない戦争の惨禍
そしてもっとも具体性がなく曖昧なのが、戦争によってどのような惨禍がもたらされたのかということについてである。
「朝鮮の国土や人々の生活は著しく荒れ果てた」と記述するが、どうして日本軍の侵入によってそうなったのかは全く記述されない。実際には、当初は朝鮮人を捕虜にしたりなで斬りにすることは禁止されていたのであるが、朝鮮の民衆が武器をとって抵抗に立ちあがるやこの禁令は有名無実になり、抵抗するものは殺され、老人や乳幼児は殺されて、働き手である子どもや青年・中年の男女が多数日本に拉致されたり、日本兵の手柄の証として、耳や鼻を削がれたものが多数あったはずである。その手柄として持ちかえられた耳や鼻が京都の方広寺の境内に「耳塚」として戦勝の証として立てられたのだが、なぜこういう戦いの実態を記さないのか。そして多くの働き盛りの人を拉致された上に、多数の死者と負傷者を抱え、しかも前後6年間にも及ぶ戦乱のために町や村は焼かれ、田畑は耕作されずに放棄された。また拉致されたのは農民だけではなく、多数の手工業職人が工場の施設・道具と職人集団ごと拉致されたため、戦後の朝鮮では産業の復興に手間取った。さらに戦乱の中で戸籍や租税台帳が焼かれたために、産業の復興や徴税のしくみを立てなおすことは容易ではなかった。こうした戦いの実態を踏まえることなくしては、「朝鮮の国土や人々の生活は著しく荒れ果てた」と記述したところで、その実体が見えず、むなしいものとなる。
注:「このころ朝鮮の陶工によって日本に陶器の技術が伝えられた」と教科書は記述した。「陶器の技術」というのは誤りであり、磁器の製造技術が正しい。堅い薄焼きの陶器に白い釉薬を塗って焼いた磁器を製造し、さらにそれに色絵技術で文様を焼きつける技術が日本にはなかった。その磁器をつくる技術がこの戦の最中に伝えられたわけだが、これは朝鮮人陶工が多数拉致された結果であることが完全に記述から削除されている。秀吉の朝鮮侵略が色絵磁器などの朝鮮の進んだ技術を技術者ごと拉致することを目的の一つとしていたことをなぜ記述しないのだろうか。そしてこのときに拉致された朝鮮陶工が西日本の各地に定住させられて作ったのが、有田などの色絵磁器であることをしっかり記述すべきである。
さらにこの侵略戦争が日本にもたらした影響についての記述も曖昧である。「豊臣家の支配もゆらいだ」とあるが、具体性がない。
そもそもこの侵略戦争を担って朝鮮に渡海したのは、九州・四国の外様大名とその指揮官および軍目付けとして渡海した秀吉の子飼いの大名たちであり、徳川家康を始めとした東国大名は、肥前(佐賀県)名護屋までの軍事動員であった。この大名たちがどのような動員体制で戦に駈りたてられたのか。戦は武士だけでできるものではない。渡海するためには船と水夫が大量に必要であり、現地で城や砦を築くにはたくさんの人夫が必要であり、これは農民からの徴発であったろう。また戦には多数の食料や武器弾薬が必要である。これらを賄うことによって、動員された大名の領国ではどのような状態になったのか。そして6年にわたる侵略戦争は結果的に敗北したわけであるが、動員された大名・武士・農民・水夫の損害は如何程だったのか。教科書はまったく記さない。これでは「豊臣家の支配もゆらいだ」という記述は、まったく観念的なものとなってしまうのだ。
また教科書は「明も日本との戦いで衰え」と記述した。これは大切な視点である。明はこの戦いに多大な戦費を費やし、そして戦いを通じて再度の侵入に備えて満州地方を押さえる軍隊の数はますます増大し、国力を疲弊させた。その結果が、国境守備隊の長を出自とする満州族のヌルハチによる満州の統一と明の滅亡・清の建国という、東アジアの大動乱に秀吉の朝鮮侵略は繋がったわけである。この激動に繋がることを記述しようとする姿勢は良いが、もっと具体的に記述すべきであろう。
「つくる会」教科書の朝鮮・中国侵略戦争についての記述はきわめて曖昧であり、日本が朝鮮を侵略したという事実を押し隠し、その歴史的意味付けもないままに書かれたものである。
では実際のところはどうだったのか。上の疑問にそって述べておこう。
(2)日本を中心とした世界秩序の構築
秀吉が目指した世界とはどのような物であったのか。そしてそのために彼は、どのような対外政策を実行しようとしたのか。まずこのことを見ておこう。
@日本統一戦争の中で「唐渡り」を構想
秀吉が中国を征服する構想を最初に表明したのは、彼が関白になった直後の、1585(天正13)年9月3日のことであった。この日は、秀吉が大和(奈良県)の大名筒井氏を伊賀(三重県)に移封してその家臣団の全てを伊賀に同道することを命じ、そのあとに弟の豊臣秀長を封じるべく大和に大軍を率いて、大和の国分けを強行したその日である。秀吉が畿内の直接支配を確立した日と言っても良い。ちょうどこの日に秀吉は、彼の直臣である一柳市介に所領を与えた朱印状の中で、直臣たちに次々と所領を与えたのは、「日本国はもとより唐国までも支配しようとする秀吉のこころによるものであり、そのための備えでもある」と表明した。
そしてその翌年1586(天正14)年3月に大阪城にイエズス会日本準管区長以下の宣教師たちを迎えた秀吉は、ここで中国征服計画を表明する。彼は「日本の統一がなったあかつきには、日本の統治を弟秀長に任せ、自分は朝鮮と中国の征服に専心する。その準備としてすでに2000隻の船を建造するための木材の伐採を命じている」と述べ、「この朝鮮・中国の征服に際しては、バテレンらに対しては充分に儀装した2隻の大型船を斡旋してもらいたい」とも述べた。
また同年の翌4月には九州の大友氏が島津氏の非法を訴えて上洛したので、九州平定の戦が想定された。その際に毛利氏に与えた九州平定の指示の中にも「朝鮮にも渡る準備をせよ」と命じ、さらに6月に対馬の宗氏にあてた手紙の中でも「日本の地は東国までも静謐となった。こんどは筑紫を見物しながら九州に兵を動かすつもりである。そのついでに高麗への兵を出す。その際には忠節を励むように」と催促していた。そして8月には諸大名に九州平定への動員令を発し、その検使となった安国寺氏と黒田氏に対する指示の中では、「唐国までもと征服計画を考えてきたが、島津が自分の命令に反逆したことは、この計画を実行に移す好機である」と述べていた。
秀吉は翌1587(天正15)年春に九州に向い、4月には島津氏を降して九州国分けをなして西国の統一を成し遂げたわけであるが、この日本統一戦争の最中ですでに、朝鮮・中国まで征服する構想が表明され、日本統一戦争はそのための準備であるとされていたのであった。
A朝鮮への服属要求
この九州国分けの最中に秀吉は、朝鮮に対して服属を要求した。
秀吉は前年の1586年の対馬宗氏への手紙ですでに朝鮮に来貢を要求したと見られる。そしてこのことを秀吉は島津が降伏した直後の北政所への手紙で、「高麗の王に、日本の内裏まで出仕すべきことを早舟をしたてて申しつかわせた。出仕しないならば来年成敗することも伝えた」と述べていることから、九州国分けの前から朝鮮に来貢を要求し、九州国分けの最中にも再三対馬宗氏へ催促していたことは確実である。
この要求は従来の国際関係を無視するものであったので宗氏は引き伸ばしをはかり、朝鮮からの回答が遅れていると言い訳していたが、秀吉の強硬な要求に押されて1587(天正15)年9月に日本国王使と称して朝鮮に使節を送り、「日本の統一と朝貢」を要求する秀吉の国書をわたした。しかし交渉が成立しなかったことでさらに秀吉の怒りをかった宗氏は、1589(天正17)年6月、博多の禅僧を正使とし自らを副使として渡海し、通信使の派遣と宗氏自ら先導する旨を要請した。この要請を受けて朝鮮は通信使を日本の情勢を探る目的で派遣することとし、この使節は、1590(天正18)年11月に京都聚楽第にて、北条氏を滅ぼして日本統一を成し遂げた秀吉に面会した。
使節は単に「秀吉の日本統一を祝賀する」ために来航したのであるが、秀吉はこの朝鮮通信使を自らへの服属使節と見なして、朝鮮国王の国書に対する返書を与えた。この返書は、「日本国関白秀吉、朝鮮国王閣下に書を奉る」となっており、日本国王である天皇の補佐役にすぎない秀吉が朝鮮国王を「閣下」と見下す体裁であり、さらに「大明国に攻め入るに際して、朝鮮国は軍兵を率いてその先駆けをせよ」と要求する、極めて外交儀礼を無視した高圧的なものであった。朝鮮国は当然にもこの要求を拒否した。だから秀吉は、朝鮮に大軍を持って攻めこみ、それを征服した上で明へ攻めこもうとしたのである。
秀吉は、長い間中国の下で対等の関係を保ってきた朝鮮を、日本に服属すべき国と見なしていたのだ。
では秀吉は、他の周辺諸国にはどのような対応をしたのであろうか。
B周辺諸国への服属要求
秀吉は関白就任後、琉球国王に対して上洛を要求していた。1588(天正16)年8月に薩摩(鹿児島県)の島津氏は琉球国王に書簡を送り、秀吉の関白就任の慶賀使節を派遣するよう求めた。そして1589(天正17)年9月に琉球国王の慶賀使節は島津氏の案内によって京都聚楽第にて秀吉に面会し、このことを持って秀吉は、琉球が秀吉に臣従したと見なした。
また1591(天正19)年3月に秀吉が朝鮮侵略のための軍役を定めると島津氏は、秀吉が島津氏に課していた軍役を琉球にも課し、「15000人の軍役は薩摩・琉球合わせてのものであり、琉球には軍役を免除するかわりに7000人分の兵糧米10ヶ月分と、肥前名護屋城普請のための金銀・米穀を負担する」ことを要求した。琉球はただちに秀吉の朝鮮侵略計画を宗主国明に通報することで秀吉政権から距離を置くことを図ったが、翌1592(文禄元)年に侵略軍が朝鮮に攻めこむと、後難を恐れて薩摩の軍役負担に応じた。
秀吉は琉球王国をも日本に服属すべきものと認識していたのであり、これは室町幕府が琉球をそのように見なそうとしていたことを継承するものでもある。そして琉球はこの要求をかわそうと動いていたが、薩摩の要請によって秀吉に慶賀使を送り軍役も負担したことは、結果として琉球の薩摩服属を認めた形となり、後に徳川氏の黙認の下で薩摩島津氏による琉球征服を許すこととなった。
また秀吉は、蝦夷ヶ島も日本に服属すべき「国」であると認識していた。
蝦夷ヶ島を巡っては、中世以来津軽安東氏が「蝦夷管領」としてそれとの交易権を握ってきたが、秀吉は奥羽国分けに際してその交易権を、1590(天正18)年に「狄之嶋主」として服属してきた、安藤氏の蝦夷代官であった蛎崎氏に与え、安藤氏に対しては出羽(秋田県)檜山郡と秋田郡とにその所領を限った。これによって東北地方の各領主や上方商人との間で自由な貿易関係を保ってきた蝦夷ヶ島の人々はこの自由な貿易関係を失って蛎崎氏の統制下に置かれ、後の江戸幕府による蛎崎(松前)氏による蝦夷地支配や江戸幕府による直轄支配への道が敷かれたのであった。
さらに秀吉は、朝鮮侵略戦争を進める中で、台湾やフィリピンにも朝貢を要求していた。
1591(天正19)年9月に、秀吉はフィリピンに朝貢を要求した。これはフィリピン貿易に参与していた商人原田喜右衛門が「マニラの防備は手薄で、派兵すれば容易に攻略できるし、討伐すると威嚇すれば降服するであろう」と進言したことによるとみられる。そして喜右衛門の一族の原田孫四郎が秀吉の書状と贈り物を携え、翌1592(天正20)年5月にフィリピン総督に秀吉書状を手渡した。そしてこれに対するフィリピン総督の返書を持参した使節が来日し、朝鮮侵略戦争の最中の1593(文禄2)年6月に肥前名護屋で秀吉に謁見している。また秀吉は朝鮮侵略戦争の最中の1593(文禄2)年11月には台湾高山国に朝貢を要求する使節を派遣している。
このように秀吉の外交政策は、蝦夷ヶ島と琉球については大名に服属する属領としてあつかい、朝鮮・台湾・フィリピンについては朝貢を要求して、日本の属国になることを要求したのである。そしてポルトガル・スペインのインド副王使節に対しては貿易の継続を持ちかけ、南蛮船の博多または畿内への寄航を要請し、これができないとなるや、貿易の拠点であった長崎を直轄領として貿易の独占を図ろうとしていたのである。
秀吉の国際認識は以上のように、従来の東アジアの常識とは異なった日本を東アジア世界の中心とするものであり、この国際認識に基づいて朝鮮への朝貢要求と中国・明への侵略戦争における先導要求が出てきたのであり、これが拒否されたことにより朝鮮へ大軍を送って中国侵略の基地にしようと企てられたのであった。そしてこの動きは、「唐・天竺まで」と秀吉が呼号したのが、彼の「天皇の平和」に基づく日本統一戦争の最中であり、この日本統一戦争は、「唐・天竺まで」攻め入るための基盤づくりであると秀吉においては認識されていたことや、後に述べるように朝鮮侵略戦争に際して「領土拡大」を目論んで勇躍して戦陣に加わった大名も多くいたことと、フィリピン侵攻を進めた商人がいたことなどは、秀吉の国際認識が彼個人の「壮大な夢」などではなく、これを受容し積極的に推進しようとする人々がいたことを物語っている。
(3)異国を征服することの難しさを認識しない秀吉政権
では秀吉の朝鮮侵略戦争はどのような経過を辿ったのであろうか。
秀吉の朝鮮侵略軍は、肥前名護屋に集められた全軍の総数は、およそ25万人。その内の13万7000余りが朝鮮に侵入した。この軍隊は地域別とおよそ数万の人数ごとの7軍に編成された。第1軍が小西行長を大将とした九州勢18700.第2軍は加藤清正を大将とした加藤・鍋島勢22800。第3軍は黒田長政を大将とした黒田・大友勢で11000。第4軍が毛利吉成を大将とした島津とその他の九州勢で14000。以上が九州の諸大名。続く第5軍は福島正則を大将とした四国勢25100。第6軍は小早川隆景を大将とした毛利と筑紫の軍勢15700。最後の第7軍が毛利輝元を大将とした毛利勢30000。以上が海を渡って朝鮮に侵入征服する軍。これに対馬・壱岐に在陣する後詰の軍として宇喜多秀家10000の第8軍と羽柴秀勝・細川忠興11500の第9軍。この後詰の勢まで合計すると、総勢15万8800人。「つくる会」教科書が掲げた「15万」という数字は、これにあたる。またこれ以外に人員や物資の輸送にあたる水軍の九鬼・加藤・脇坂・藤堂など4000人ほどがあったので、総勢は16万を超えたであろう。
そして朝鮮への進撃命令は、1592(天正20)年4月12日の早朝に発せられ、まず第1軍の小西勢18000余が釜山に向かい、日をおいて第2軍・第3軍と次々と朝鮮に侵入した。
@緒戦の快進撃
緒戦は日本軍の連戦連勝。
第1軍小西軍の動きで見ると、4月13・14日に釜山城と隣接する東莱城を激戦の末に落として慶尚道を突っ切り、4月27日には忠清道の忠州にて朝鮮正規軍数万を撃破して忠州を占領。そして5月3日には、朝鮮の首都・漢城(今のソウル)を占領した。直線行程で300キロ余りをわずか1月足らずで進撃したわけである。このときすでに朝鮮国王は都を平壌(ピョンヤン)に移しており、漢城は無血開城。さらに平壌守備のために京畿道臨津江に在陣した都元帥金命元指揮下の朝鮮正規軍数万を、第1・2軍合同で5月28日に撃破し、1・3軍合同で平安道の大同江に到達したのが6月8日。川岸に布陣した朝鮮正規軍を撃破して大同江を渡って平壌を占領したのが6月15日。すでに朝鮮国王は中国との国境の鴨緑江に近い義州へ避難し、中国・明に援軍を依頼していた。
ここまでおよそ600キロの道程を約2ヶ月で占領したわけであり、このころには第2軍加藤軍は北進して江原道・咸鏡道へ侵入し、7月20日には北辺の国境の町会寧を占領し、国境を越えて中国満州にまで兵を進めていた。さらに、第3軍黒田軍は平壌から南進して黄海道に侵入、第4軍毛利・島津軍は江原道・慶尚道の各地を転戦、第5軍小早川軍も忠清道から全羅道へ侵入を試みていた。開戦からわずか3ヶ月で朝鮮のほぼ全土に日本軍は展開したわけである。
この「快進撃」の理由は幾つかある。
一つは、朝鮮が秀吉の脅しにもかかわらずほとんど侵入を警戒しておらず、南方の防備も手薄であったこと。この裏には、開戦前に派遣された通信使が日本の状況を探り、正使・書記官は秀吉の朝鮮・明侵略の意思は固く、遠からず軍隊を送ってくるとの観察が出されたにも関らず、朝鮮政府は東人党・西人党に分かれた闘争に明け暮れていた中で当時政権を担っていた東人党は、秀吉の脅しは空脅しであり侵略の危険性はないと報告した東人党に属した副使の報告を採用して、南岸の防備体制すら解除してしまったという事情があった。
二つ目の理由は、200年余りにわたって平和を享受して戦に不慣れな武官に指揮され、あとは農民からの徴募兵で構成されたわずか10万にも満たない朝鮮国軍と、100年以上にわたる戦乱の中で鍛えられ、各大名の私兵とも言える戦闘に熟達した13万もの日本軍との、戦闘能力と兵力の差である。200年の平和の中で武官の地位は低下し、軍の統制も文官の下で行われ、軍事力の増強は軽視されていた朝鮮では、常備軍も充分には整備されておらず、日本軍の侵入と緒戦の敗退を知った政府が将軍を任命して追討使を派遣しようとしても急には軍隊が編成できず、追討将軍は漢城をわずか数十人の手勢を率いて出発しなければならないほどに、体制は弛緩していた。そして中にはわずか600名の手勢で万を数える小西軍に抵抗し守備兵全員で討ち死にした釜山城の武官鄭撥や東莱城の陸海軍の武官がすでに逃亡した中で一人残って守備兵を指揮して戦死した文官の宋象賢のような勇敢な戦士はいたが、多くの武官は日本軍の侵入に怖れをなして兵士を捨てて逃亡するというありさま。そして戦闘になるや朝鮮軍は弓と槍が主な武器で、その短弓は接近戦になると威力を発揮するとは言え、日本軍の戦慣れした集団戦法と鉄砲隊の威力の前に、朝鮮正規軍は撃破されたのである。
さらに三つ目には、朝鮮の民衆の当初の対応である。日本軍の侵入と朝鮮正規軍の離散に驚いた朝鮮の民衆は、当初はこれを倭寇の侵入であると考えて、日本軍が略奪を行って引き上げるまで山に隠れていれば良いと思って村をあげて山に隠れたため、彼らは当初は日本軍に抵抗をしなかった。そればかりか、長年の重税と身分差別に怒った下層の民衆の中には、朝鮮国王と政府が首都漢城を放棄するや都を焼き討ちして略奪し、さらには役所に保管されていた奴婢身分を示す戸籍帳などを焼き捨てるなどの行動をとり、地方の村々でも、日本軍の目的が略奪ではなく占領にあることがわかると、日本軍に協力して租税の徴収などに協力した下層の役人すらいたのである。したがって当初の朝鮮正規軍の敗北・解体に直面してもなお、すぐには組織的な抵抗がなされなかったのである。
A朝鮮の抵抗の始まりと明の救援
こうした理由で、緒戦において日本軍は快進撃を続け、わずかな日数で首都すら占領してしまったのだ。そしてこの知らせを受けた秀吉は、ただちに自身の朝鮮渡海を決めて、首都漢城までの道々にその宿泊のための城造りを命じるとともに、後陽成天皇の北京動座とそれを護衛しての関白秀次の出陣などを矢継ぎ早に命令した。だがこの秀吉の計画は頓挫した。彼の朝鮮渡海は、徳川家康と前田利家の強硬な反対と、彼の渡海が日本の平和に対する脅威となることも憂慮した勅書まで持ち出されるに至って中止され、代りに石田三成・大谷吉継・増田長盛・前野長泰・加藤光泰らが渡海し、朝鮮在陣奉行として指揮することとなった。
しかし日本軍が朝鮮全土に侵入したと言っても、全土を実効支配したわけではなく、街道沿いの諸城を占領し、いくつかの地域に軍政を敷いただけであり、やがて1592年6月ごろから各地で地方の有力者を中心とした義兵が蜂起してその街道沿いにゲリラとして出没し、街道沿いの諸城を襲ったり日本の輸送部隊を襲撃し、街道沿いすら日本軍は500人以上の大軍でないと安全に通行できなくなった。そして6月19日には江原道の驪州にて武器補給に失敗して鉄砲をもたない毛利吉成軍が朝鮮義兵に撃破され、鉄砲を持たない日本軍の弱さをさらけ出す。さらには陣容を立て直した李舜臣率いる朝鮮海軍が全体鉄張りの亀甲船を主体に、5・6月ごろから船体のぜい弱な船からなる日本海軍を打ち破り始めるや、日本軍は武器・弾薬・食料の補給に苦しみ、辛うじて主な町と街道を支配するという点と線に支配であったという事実が暴露されてしまう。そしてここに中国・明の援軍が入ってくる。
明の救援部隊の先鋒およそ3000は、6月15日には国境の町義州に入り、早くも7月16日には朝鮮軍と連携して平壌奪還に向かった。この戦いは小西軍の奮戦で撃退し、明の将軍との間で50日間の休戦が成立し、戦いは小休止となった。
しかし1592年12月には明の軍務提督李如松率いる43000の援軍が到着し、1593(文禄2)年1月7日には、朝鮮軍と連携した明軍は小西行長軍が守る平壌を包囲してこれを撃破した。小西軍は当初こそ18000の軍であったが、進撃に伴って街道沿いの諸城に守備兵を置き、さらに秀吉の宿泊用の城の築城にも人数を割かねばならず、当時平壌を守っていたのはおよそ10000の軍勢であった(ルイス・フロイスの証言では5000)。小西軍は千数百の鉄砲で明軍に撃ちかけたが、明軍の大砲による攻撃で吹き飛ばされ、一度に数百人が死傷するという目にあった。そしてすでに後方からの食料は絶たれ、残ったものは現地で徴発した食べたことのないトウモロコシだけという事態。全滅を恐れた小西軍は夜陰に紛れて漢城まで撤退したがすでに兵は8000にまで減っていたという。そして1月26日、漢城を臨む碧蹄にて明軍と漢城に集まった日本軍2・3軍の数万の決戦が行われた。この戦いは功をあせった明将李如松が手兵の騎馬兵数千だけで突入をはかり、日本軍の待ち伏せによる鉄砲の一斉射撃で撃破されて、戦いは膠着状態になった。そして漢城を守るに精一杯となった日本軍の状況を見越して漢城府西側に隣接した幸州山城に進出した朝鮮軍が漢城奪回を目指して動き出すや、2月12日にこれを迎え撃つ。この戦いは辛うじて勝利を得たが討ち死にも多く、宇喜多秀家・吉川広家・石田三成・前野長泰らも負傷し、日本軍は漢城府に撤退するしかなかった。やがて義兵に包囲され孤立した1軍加藤軍も漢城に撤退して総勢53000となった日本軍は、食料と武器弾薬の不足から、4月18日には漢城を撤退し、朝鮮の慶尚道南岸の諸城に篭ることとなったのだ。
この4月18日の時点において朝鮮南部の12の城に篭った日本軍の総数は78700人あまり。そのうちの先鋒部隊1〜6軍の実数は73000余りだから、実に最初の人数の5割強。完敗と言えよう。こうして緒戦の勝利にも関らず日本軍は侵入から一年後には釜山周辺に押し戻され、明との間で講和交渉に活路を見出すこととなる。しかし、その講和交渉の最中の6月22日から29日にかけて、義兵が活動していて日本軍が侵入できなかった全羅道への入り口にあたる慶尚道晋州城を総勢5万余りの軍勢で攻め落とし、城兵および避難した民衆6万余りを虐殺した。こうして全羅道への進出路を確保しておいて、日本軍は朝鮮南部の12城に毛利勢を中心とした4万7000余りの兵を残して、あとは全軍撤兵した。
「つくる会」教科書が「撤兵した」と記述したのはこの残存部隊4万あまりを除いたものであり、秀吉はまだ朝鮮占領をもくろんでいたのだ。
B「異国」という認識のない日本軍
この第一次朝鮮侵略(慶長の役と後に呼ばれた)の事実上の敗退の理由はなんであろうか。
一つは、日本軍が朝鮮の実態も知らず、進軍する道筋として知り得たのは、対馬宗氏や大内氏の使いが日本国王使として往復した釜山と漢城の間だけであった。従ってそこから先に進軍するにも道がわからず、捕虜にした朝鮮人に案内してもらわないと行けない状況。そしてこの国の広さと気候・風土も知らないため、在陣が長引いて冬になったときには、氷点下にも至る寒さの中で、木綿の布子一枚で毛皮の靴も持たず草鞋だけの日本兵の多くは凍傷にかかり、飢えと寒さで死んでいくありさまであった。第一次侵略戦争の「戦死者約5万人の多くは労苦・飢餓・寒気・疾病によって死亡した」というルイス・フロイスの証言もこのことを指している(「フロイス日本史:第44章」)。
二つ目はこれと関連するが、侵略軍は、ここが異国であるという認識に欠けていた。秀吉が出陣する諸大名に当てた軍律では、「濫妨・狼藉の禁止」と「放火の禁止」さらには、「百姓らに対して不法な所業の禁止」を指示し、朝鮮で諸大名が民衆あてに出した高札では、「百姓の村へ還住と耕作の奨励」さらに「年貢納入の催促」が挙げられていた。要するにこれは日本国内での戦争に際して大名が出す禁令そのものであり、秀吉や従軍した諸大名が、国内の統一戦争のように正規軍を打ち破って首都を陥落させれば、民衆は主が代わっただけで平和さえ保障されれば占領者に付き従うものだと考えていたことを示している。そして侵略軍には朝鮮語を話せるものはまったくおらず、民への布告を起草したり朝鮮側との交渉要員として1軍に数名程度の漢文を読み書きできる禅僧が従軍しただけであった。従って朝鮮民衆あての高札といっても漢文で書かれており、これを読めるのは、朝鮮の地主階級だけで、民衆にはまったく、侵略軍の政策や指示も伝わらないというありさまであった。したがって占領軍は軍政を継続するためにも、捕虜にした朝鮮の子ども達に日本人の格好をさせて日本語を覚えさせるという、付け焼刃の政策をとるはめになったのである。
そして三つ目は、侵略軍の予想に反した、民衆の義兵による武装蜂起が、朝鮮全土で起きたことで、これによって占領軍は補給路を寸断され、しかも朝鮮民衆の抵抗によって現地での食料徴発もままならず、侵入した13万の軍隊が、朝鮮人民の海の中に孤立したことである。義兵の総数は22600余りと推定され、これは朝鮮国軍定員の実に25%にも及ぶ数であった(李成茂著「朝鮮王朝史・上」)。まさにここは異国なのであった。異国人が大軍をもって自国の占領をはかり、しかも中国侵略の尖兵として朝鮮人を動員しようとするものであることがわかったとき、朝鮮の民衆は各地の地主階級を中心として私財を投げ打って武装闘争に没入した。この朝鮮と日本とが文化も歴史も異なる異国であることを認識しない武装占領が崩壊するのは当然といえよう。
この朝鮮民衆の武装蜂起に支えられて次第に朝鮮正規軍も再建され、これと明の援軍との共同闘争が成立したことが、日本侵略軍を朝鮮南岸に追い詰めたのであった。
C破綻した和議交渉―朝鮮南部占領と中国の属国化をもくろんだ秀吉
講和交渉は、1593(文禄2)年の6月から96(文禄5・慶長元)年まで続けられ、9月には大阪城において明使と秀吉との会見がなされたが講和交渉は破綻し、再度の侵略戦争が行われることとなった。
理由は単純である。秀吉の講和条件が実態とはかけ離れた高圧的なものであったためである。
秀吉の講和条件は7条からなっていた。
1条:明国皇帝の娘を日本の天皇の后として差出すこと。
2条:年来断絶していた勘合貿易を復活し官船商船の往来を認めること。
3条:明と日本の双方の武官が誓紙を交わすこと。
4条:朝鮮の首都漢城と4道は朝鮮国王に返すが南4道を日本に割譲すること。
5条:4道を返す替わりに朝鮮王子ならびに大臣を各1名人質として渡すこと。
6条:生け捕りにした朝鮮王子2名は返還すること。
7条:朝鮮国王の家老が以上のことを違わぬという誓紙を出すこと。
この講和条件7ヶ条は、1593(文禄2)年6月に肥前名護屋城に来た明使に提示された。しかしあまりに高圧的な内容で講和が成り立たないことを怖れた明使と小西行長の合作によって「秀吉降表」なるものが偽作され、これが明朝にもたらされることとなる。この「降表」は、日本は明に通交を求めて朝鮮に仲介を求めたがこれを拒否されたから兵を起こしたのであり、秀吉は明皇帝から日本国王に冊封されることを望んでいる」という内容であり、秀吉の要求とは全くかけ離れたものであった。この偽の「降表」が北京にもたらされたのは1594(文禄3)年12月であり、明国はただちに秀吉を日本国王に封じることを決めて日本国王印を鋳造し、冊封使の派遣を決めた。この使いが大阪で秀吉と会見したのが1596(文禄5)年9月1日である。
秀吉は明が自分に服属するための使いを送ってきたと勘違いして明使を歓待したが、明皇帝の勅書の文面には「なんじを封じて日本国王となす」との文言があるだけで、秀吉が示した7ヶ条にはまったく触れられず、このことに怒った秀吉は、朝鮮への再度の侵攻を命じることとなった。
つまりこの講和交渉は、最初から成立する見通しなどなかったのだ。
秀吉の要求は朝鮮南4道の割譲と朝鮮・明の日本への服属であった。これは当時の東アジアの国際関係を完全に無視したものであり、朝鮮侵略軍が完敗を喫しているという現実からもほど遠いものであった。そして講和交渉自体が、戦争の継続の不可能さを知った小西行長と日本軍とこれ以上戦闘を続ける気のない明の将軍との間で、事態を取り繕って終結させようという、これ自体が現実を無視したものだったのだ。
また講和交渉において朝鮮が蚊帳の外に置かれたのは、明王朝が朝鮮を属国として扱い、宗主国が事態を収めるという態度に出たせいであった。そして朝鮮の武官たちは義兵の蜂起と日本軍の撃破を背景として戦闘の継続を熱望したが、日本との戦いで兵士を失うことを怖れた明の将軍たちが朝鮮の意向を無視して、朝鮮の頭越しに日本と講和交渉を進めたのであった。またこの明の高圧的態度には理由があった。当初明に伝えられた情報は、朝鮮が日本を先導して中国に攻めこむという内容であった。従って明の官人たちは朝鮮を疑い、これに中国人の中華意識から来る朝鮮=蛮族という考え方が加わったものであった。
D南4道の占領を目指した第2次侵略
こうして1597(慶長2)年1月、朝鮮への再度の侵略が命じられ、朝鮮南部に駐留する4万余りの軍勢に加えて軍勢が再度朝鮮に渡り、総勢14万1000余りの軍勢となった。そして6月には1番手小西行長、2番手加藤清正を先頭にして、3番手黒田長政ら、4番手鍋島直茂、5番手島津義弘、6番手長宗我部元親ら、7番手蜂須賀家政ら、8番手は毛利秀元・宇喜多秀家の諸大名が次々に侵攻していった。
この第2次侵略の緒戦は日本水軍が1597(慶長2)年7月15日の朝鮮南岸巨済島での海戦で朝鮮水軍に大勝し朝鮮水軍がほぼ壊滅したことにより、制海権を日本が握ったことによって日本軍が朝鮮の各所の海岸に上陸して行くことが可能になったことで、日本有利に進んだ。第1次侵略のときに、日本水軍を翻弄した李舜臣が冤罪により獄に下っていたため、無能な指揮官が無謀な戦を日本水軍に挑んだ結果であった。
この戦で圧倒的に有利な立場に立った日本軍は、前回最も手強い義兵の蜂起によって全く侵入できなかった朝鮮南部の穀倉地帯である全羅道を制圧しつつ北進し、首都漢城を落とすという戦略にでた。これは朝鮮南部の慶尚道・全羅道・忠清道・京畿道の4道を占領し、ここを日本に併合しようとの動きであった。そして8月には全軍が全羅道に侵入して次々と町や城を落とし、8月14・15日の激戦によって全羅道防衛の拠点で明軍と朝鮮軍が立て篭もっていた南原城を落とし、城兵や逃げ込んだ住民の全てを虐殺し、さらに北上して忠清道に侵入し、9月始めには首都漢城の間近に迫った。
しかしこの動きもここで阻止された。最も北進した黒田長政軍は、9月半ばの忠清道稷山の戦いにおいて明軍・朝鮮軍の主力と激突して勝てず、以後日本軍は漢城への北上を諦めて南下し、朝鮮の厳しい冬の到来に備えて全羅・慶尚2道の制圧に力を注いだ。だがこの動きも再び将軍の座に返り咲いて水軍の立直しにつとめた李舜臣率いる朝鮮水軍によって、9月半ばの朝鮮西岸鳴梁海戦で日本軍が大敗を蒙り制海権を奪われるや頓挫した。この年の暮れにかけて日本軍は、朝鮮南岸に蔚山城(慶尚道・加藤軍など)・梁山城(慶尚道・黒田軍など)・泗川城(慶尚道・島津軍など)・順天城(全羅道・小西軍など)の4つの城を築いて立て篭もらざるを得ない状況に追いこまれた。そしてこの城を明軍・朝鮮軍の大軍が包囲し、1597年の12月22日には、凄惨な蔚山篭城戦が戦われた。ようやく築城なった蔚山城に明・朝鮮の連合軍56000が押し寄せて包囲した。不意をくらった日本軍はわずか2000で篭城。救援部隊の遅れから、そのまま翌1598年1月3日まで、わずか2日の食料しかないなかで、守備隊は牛馬を食い尽くし死者の肉や壁土まで食べるという飢餓に苦しむこととなる。1月3日に来援した2万余の救援部隊が背後から明・朝鮮連合軍を打ち破り、明・朝鮮連合軍はおよそ2万の死者を残して壊走したため蔚山篭城戦はようやく終結した。しかし異国で圧倒的な敵に囲まれる中での戦闘の悲惨さに気がついた在朝鮮諸将は嫌戦気分に陥り、明・朝鮮軍を追撃することもせずに、4城に立て篭もることとなった。
Eなで斬りを命じた秀吉―第2次侵略の実態
この第2次侵略は、前回よりも悲惨な戦争であった。なぜならこの戦で秀吉は、「朝鮮人をことごとくなで斬りにし、かの国を空き地にせよ」「鼻を削いで首の替わりに送れ。京都に戦勝記念の首塚を作る。これを手柄の証とする」という命令を下していたからであった。
先に見たように、第1次侵略においては、秀吉が出した軍令では、朝鮮の民衆に不法な濫妨・狼藉をすることは禁じていた。これは日本における戦争が、通常、敵方の国の町や村に火をかけ、家財や家畜を根こそぎ奪い取り、人々を奴隷として売り飛ばすものであったからであり、そのような破壊行為を避けて朝鮮を占領し、中国侵略の拠点として再編成しようとするものであったからだ。それでも根強い抵抗に会う中で、日本軍は軍令に反して濫妨狼藉を行い、多くの朝鮮人を殺害したり、拉致して奴隷として売ったり使役したりしたのだ。
だからこの禁令が廃止され、抵抗する者のなで斬り(=皆殺し)が指令された第2次侵略における闘いは悲惨なものとなった。
最も激しい戦いとなった南原の戦いにおいては、城を打ち破ったあとの日本人兵士の残虐行為は、同行した通訳官である僧侶が目を蔽うほどのものであった。日本軍は赤子・老人に至るまで朝鮮人をなで斬りにしてその鼻を削ぎ、塩漬けにして名護屋に送った。戦のあとで戦場を歩いた僧侶の証言によれば、南原城の内外には「砂の数ほどの朝鮮人の死骸が打ち捨てられていた」とのことである。「一揆の国」と秀吉に呼ばれた全羅道における戦いは、皆殺しの戦いであり、生き残ったものは全て奴隷とする戦いでもあった。そして戦場には日本軍のすぐ後ろから奴隷商人の群れが移動し、戦が終わるたびに捕虜にされた無数の朝鮮人が首に竹製の首かせをはめられて縄で数珠繋ぎにされて船に送られ、つぎつぎと大名衆の領国へ送られた。これは侵略戦争の水夫や人足として徴発された自国の農民に替わって農耕に従事させるための奴隷徴発なのである。
しかし第2次侵略もまた不成功に終わる。
先に見たように、日本軍の進撃も1597(文禄2)年9月までの2ヶ月だけ。あとは明軍・朝鮮軍の反撃や義兵の包囲にあって日本軍は次第に後退し、この年の12月から翌1598(文禄3)年の1月には朝鮮南岸の4城に篭城するのみ。朝鮮に渡った諸将からは蔚山城(慶尚道・加藤軍など)・梁山城(慶尚道・黒田軍など)・順天城(全羅道・小西軍など)の放棄と慶尚道南岸への軍の配置換えが申請されるところにまで追い詰められた。しかし秀吉は城の放棄と配置換えに同意せず、朝鮮軍・明軍の包囲の中に日本軍はそのまま留め置かれたのであった。この状況に変化が生じたのは1598(文録3)年8月の秀吉の死によってであった。
秀吉の死を秘匿したまま撤退に移った日本軍は、1598年11月には明軍・朝鮮軍の包囲の間隙を縫って次々と日本に撤退を始めた。最後の戦は、1598(文禄3)年11月8日の朝鮮南岸露梁津海戦において、包囲されて順天から撤退できない小西軍を救うために島津軍が水軍を差し向け、李舜臣指揮下の朝鮮水軍と激戦を演じて敗退した戦いであった。この海戦は朝鮮水軍の大勝であったが、李舜臣は流れ弾に当たって戦死した。そして、小西軍はこの戦にまぎれて撤退し、やがて最後に残った島津軍も11月20日には対馬に帰着した。
こうして前後6年におよぶ朝鮮侵略戦争は、ようやく終結したのである。
しかし戦後の講和交渉はなされなかった。これは秀吉死後の国内の激動と、朝鮮・明が再度の侵略を警戒したためであった。講和も含めた国交回復交渉は徳川政権に委ねられる。
(4)侵略戦争の残したもの
では、この戦争が対戦した諸国に残したものは何であったのだろうか。
@国土が荒廃した朝鮮
この問題について詳しく記した本はあるのだろうか。資料がなくて追求できないというのが実情であろうか。手元にあった平凡社刊の日本史大辞典には次にように記述されていた。
「前後6年あまりにわたる日本の侵略は、朝鮮に莫大な被害を与えた。耕地は約3分の1に減少し、日本軍による虐殺や、家を焼かれ流亡するなかでの餓死者・病没者の続出によって、人口も大幅に減少した。日本に強制連行された朝鮮人も5万―6万人に達した」と。
朝鮮において日本軍に殺された人の数はいかばかりであったのか。戦で殺された軍兵についても総数はわからない。一つの戦いで数百名から数千名の首を挙げたという記録が日本側には残されている。また第1次侵略末期の晋州城の攻防では城の兵と民あわせて6万人が虐殺されたとも伝えられ、第2次侵略における南原城の攻防でも兵と民の全てが虐殺されたと伝えられている。さらに、第2次侵略において日本軍が切取った鼻の数であるが、1597(慶長2)年中の2ヶ月間の鍋島・吉川の両大名家における「鼻受け取り状」の合計数は29251。この全てが殺された人のものではなく生け捕られて鼻を削がれた人も多くいるようなので死者総数ではない。しかし2大名家だけでもこの数である。そして京都の方広寺横に1597年9月に作られた鼻塚に納められた鼻は、全部で15桶。1桶に1000づつ塩漬けにしたとされているので、これだけでも15000人分。この鼻は、加藤・小西軍から送られたものと見られている。
さらに南原の戦いのあとでの軍目付けの申告では首総数3726。翌1598(慶長3)年1月6日の義川での戦いのあとの報告では首総数13238とある。
ものすごい数の人が殺されたことは確かであり、家を焼かれて流浪の果てに死んだ人は数知れないであろう。
戦の最中に拉致=強制連行されて日本に連れ去られた人の総数も実際のところはもっと多いであろう。江戸時代に入っての日本・朝鮮の国交回復交渉に当たっては何度も朝鮮から使節が送られ、国交回復の条件の一つに連れ去れた民の返還があった。そして返還された民の総数は5000人ほどにも及んだが、侵略戦争から10年以上たったこの時点においては、多くの民が日本で夫や妻を持ち子どももあったために帰国を断念した例も多いし、大名家においては貴重な労働力や陶工や縫工などの特殊技能者を返還することをいやがったために大部分は返されなかったという。このとき日本に残されたたくさんの陶工や捕虜によって九州各地に磁器生産が盛んになったことは記憶に新しい。そして日本に送られたあと奴隷商人によってポルトガル領のマカオに売られてのちに朝鮮に帰った人もいたことや、1613年の国交交渉の前には、薩摩藩だけでも30700余名の捕虜がいるという情報が捕虜になったものの書状で伝えられていた。さらに南原の戦いのあとで藤堂高虎軍の捕虜となって伊予(愛媛県)大津に送られた朝鮮の官人・儒者の姜こう(さんずいに亢)の記録によると、拉致された捕虜の全員が無事に伊予についたのではなく、病人や歩けないものは途中で容赦なく海に捨てられたという。そして姜こう(さんずいに亢)が送られた伊予大津には捕らわれて来た人が1000余人にもなったという。
拉致されて日本に残った人々の中で歴史に名を留めた人としては、1612(慶長17)年のキリシタン禁令によって捕らえられ、伊豆神津島に流されて死んだ、おたあ・ジュリアがいる。彼女は幼いころ小西軍に拉致された後、小西に仕えているうちに洗礼を受けた。そして関が原の戦いの後、徳川家康に連行され、伏見・駿府において家康の奥女中として仕えた女性である。ほかにも膨大な数の人が拉致され日本に送られ、奴隷として使用人として使役されたのであろう。
さらに戦続きの中で戸籍台帳が焼かれたために諸税の収納にも苦しみ、多くの寺や宮殿も焼かれ、台帳だけではなく、貴重な文書・経文・版木などが持ち去られたことによって、朝鮮の復興はかなりの困難に直面した。
朝鮮の人々はこの危機を官民あげての努力で克服し、やがて江戸幕府の時代になって国交を回復し、以後250年余りにわたる平和な交流を確立したわけだが、秀吉の朝鮮侵略の傷跡は深く残り、命を賭して戦った英雄を語り継ぐとともに、日本人の蛮行は今日まで語り継がれることとなったのである。
このかの地に与えた被害をきちんと教科書に記述しないということは、加害者である日本人が朝鮮の人々の心の傷を一顧だにしないという風潮を生むことになる。
A国力低下させ滅亡に繋がった明
すでに北方や西方の諸民族の反乱に手を焼いており、増大する軍事費によって徴税も厳しく、その厳しさに絶えかねた農民の反乱も起こっていた明は、日本軍との戦いを強制されたことでさらに財政難を拡大した。増大する北・西の民族の脅威に備えるために築いた長城の建設費とその維持費、そして軍隊の維持費に苦しみ、国力はさらに衰えて行ったのである。そして侵入する諸民族に備えるためにその諸民族の中から明に帰服する有力者には官位と辺境の軍司令官の位を授け、軍事的援助を与えていった。この異民族の将軍たちはやがてこの過程を通じて中国の優れた大砲などの武器を使いこなすようになり、彼らが交易路を押さえていたことともあいまってやがて強大な勢力を持つようになる。
やがて明の社会的混乱の中から各地に武装蜂起する人々が続出し、この混乱の中で1644年、明は叛将李自成軍によって滅ぼされ、この李自成を、辺境将軍として力をつけて満州族を統一したヌルハチが建てた後金が滅ぼし、清朝が建てられることとなったのである。
こうして秀吉の企画した中国の征服という事業は、満州族が建てた国家によって実現されることとなり、東アジアにおける華夷秩序は大きな変動を蒙ることとなった。
B豊臣政権の崩壊につながった日本
前後6年にもわたる侵略戦争を担った日本にも、戦争の爪あとは深かった。
異国を占領するとの認識を持たないまま準備不足で侵攻した日本軍の被害もまた甚大であった。第1次侵略戦争の末期に朝鮮南部に終結した日本軍を軍目付けが調べた数字によると、朝鮮に侵入した1〜7軍の総数13万7300人あまりの軍兵は、実数で7万3214人にまで激減していた。死者総数は6万4086人。生き残った者の割合は53%。実に47%、約半数の軍兵が死んだのである。最も奥地に進んで激戦を演じた第1軍小西軍の被害は甚大で軍兵の実に60%が死んでいる。第2軍の加藤清正軍は被害が37%、鍋島軍も36%であった。3軍の黒田軍は被害が54%、4軍島津軍は60%。5軍も40%、6軍は44%。最もしんがりを務めた7軍の毛利軍で43%であった。
そしてこの死者は武士だけではなかった。
朝鮮に動員された軍兵の多数は、実は徴発された水夫や農民であった。武士は小者まで加えても総数の40〜50%。実に動員された軍兵の半数近くは人夫として徴発された農民と水夫であったのだ。これは当然である。当時の戦争は巨大な土木工事を伴ったものであった。軍が進むにあたって道がなければ道をつくり、川に橋がなければ橋をかけ、城を攻めるときには、周りに付け城を築くために堀を掘り土塁を積み上げ、近くの山から木を切り出して防御のための柵や逆茂木をつくり、陣所の建物や城攻めのための櫓を作る。場合によっては城を落とすために地下道を掘り、そこから城に突入することすらやる。そして戦いには大量の武器・弾薬・食料がいる。これを運ぶためにも大勢の人夫や船を操る水夫がいるのだ。そして今回は秀吉が漢城に行く道筋に多くの城が作られたのだ。最初に渡った軍兵以外にもこのために増派されたものも多数いたであろう。
第1次朝鮮侵略戦争で徴発され朝鮮に渡った農民の数は、5割と考えておよそ6万8000人。戦闘で死んだものは少なく飢え死にか凍死・病死であるというのだから、死んだおよそ6万の軍兵の多くは、挑発された農民であったろう。
さらに戦場に行かなくとも、壱岐・対馬に在陣したものが2万2500。これに肥前名護屋に在陣した軍兵は約10万。この半数も徴発された農民・水夫であろうし、肥前名護屋城を築くために徴発されたものはかなりの数に登ろうし、この城の建設や戦のために徴発された食糧・資材は臨時税として課されたのであるから、戦に動員された西国大名の国々の負担はかなり大きかったことになる。
当然、戦の過程での逃亡者も続出した。大名は国許に逃亡者の名簿を送り、国許に逃げ帰ったら厳罰に処する旨を伝えていた。そして逃亡者は徴発された農民・水夫に留まらず、武士の家来である小者や中間、そして下級の武士にまで及んだ。さらには朝鮮の戦の過程で、一軍ごと朝鮮側に降服してこれに帰属し、日本軍と戦って、そのまま朝鮮の地に根付いたものもいたという。将軍としては「沙也可」と呼ばれた将軍・金忠善がおり、彼は紀州(和歌山県)の雑賀の地侍であったとも伝えられ、鉄砲制作の技術と使用法を朝鮮軍に伝え、これによって朝鮮は初めて鉄砲を使用するようになったともいう。そして彼は日本との戦いや北方から侵入してくる満州族などとの戦いで功績をあげ高位高官に登った。このような朝鮮に降った軍兵は数千人はいたと考えられている。
長い異国での戦は大きな負担であったのだ。
当然大名の留守中の領国でも抵抗が起きる。各地で、臨時の戦費を負担したのだし、殿様も帰国するかどうか定かではないのだからと、次の年の通常の年貢の納入を拒否する動きすらあったという。こうして朝鮮侵略戦争に駆り出され、実際に戦場に赴いた西国大名の疲弊は激しかった。
さらに戦闘の中で行われた秀吉の代理人としての奉行・軍目付けと諸将の戦略をめぐる対立や論功をめぐっての争いも、豊臣政権内部に深刻な亀裂を生み出した。働きが悪いと奉行や軍目付けに評価された諸大名は容赦無く、領地没収や領地削減の憂き目に遭ったのだ。
第1次侵略戦争における撤兵の過程で、平壌から撤退してくる小西軍を見捨てて先に撤退したと評価された豊後の大友氏は領国没収となり、その旧領の多くは太閤蔵入り地とされて管理のために秀吉近臣が大名として入国した。また、朝鮮に渡ったまま進軍せず臆病者と評価された肥前波多氏や薩摩出水の島津氏も領地を没収され、これらの旧領も秀吉近臣に与えられた。さらに、第2次侵略戦争における蔚山篭城戦とその後の戦後処理においても多くの大名が処分された。壊走する明・朝鮮連合軍を臆病風にふかれて追撃しなかったと評価された蜂須賀家政と黒田長政は謹慎させられて領地を削減され、この分も太閤蔵入り地に編入。さらに明・朝鮮軍に包囲されるなかで戦線縮小を合議して実行し、事後報告としてこれを秀吉に報告した諸大名と軍目付けも軍令違反に問われ処罰された。すなわち、軍目付けの早川長政・竹中重隆・毛利高政が譴責され、早川・竹中の領した豊後6万石は没収。そして戦線縮小を合議した宇喜多秀家・蜂須賀家政・黒田長政・生駒一正・藤堂高虎・脇坂安治・長宗我部盛親・浅野幸長・加藤清正らも譴責処分を受けている。ここで没収された豊後6万石は、これらの評価を秀吉に言上した軍目付けの福原・垣和・熊谷らに分けられ、彼らは石田三成の縁戚であり配下の武将であった。
こうして侵略戦争の中で働きの悪い大名は領国を削られたり没収されたりしたのであり、秀吉政権の中に対立と分裂が持ちこまれ、これがのちに関が原の戦いにつながっていく。
さらに西国大名の心が豊臣から離れた原因としては、朝鮮侵略戦争の最中に行われた文禄・慶長検地の過酷さがあった。
太閤検地においては通常、認められた大名領国の中に、軍役負担を免除された大名の諸費用を賄う「大名台所入り地」と大名が京都(大阪)在番中の費用を賄う「京都台所入り地」とが認められ、かなりの自由裁量が図られていた。大名はこの「台所入り地」を利用して軍功を挙げた家臣への褒美として与え、領国支配を強化できたわけである。しかし朝鮮侵略戦争の最中に行われた文禄・慶長検地においては、以前の検地では大名の管理に任せられていた「太閤蔵入り地」という太閤直轄領が増え、しかもそれが大名領国の中枢地に置かれ、その管理が大名から太閤直臣の権限とされたのである。そしてこの「太閤蔵入り地」を捻出するために大名家臣団の所領は絞られ、朝鮮侵略戦争での働き次第で加増するとされたのである。さらに、朝鮮侵略戦争において家臣団を動員できずに定められた軍兵を期日までに揃えられなかった島津氏の領国における検地は、大名不在の中で秀吉直臣の奉行が直接差配する過酷なもので、領内に大規模な太閤蔵入り地が設けられたのであった。
そしてこの領国削減や領国没収を推進したのが秀吉直臣である石田三成などの奉行衆であった。戦の過程で兵糧や武器弾薬に不足した諸大名にこれを貸しつけて巨利をはくしてもいたこれらの秀吉直臣奉行衆が、戦いの最中の検地の遂行者でもあったのだから、侵略戦争に赴いた大名衆の秀吉直臣奉行衆に対する憎しみはいかばかりのものであったろう。これも後に豊臣政権が崩壊する原因を作ったのである。
侵略戦争の残した爪あとは、日本でもかなり深いものがあった。このことも簡潔にかつしっかりと記述しておく必要があろう。しかし朝鮮では侵略戦争の記憶が長く保存されたのに反して、日本では戦争に敗北したことや朝鮮での蛮行・日本の被害などはほとんど記憶されなかった。朝鮮侵略戦争は、「太閤様の朝鮮征伐」として記憶され、諸大名の始祖伝説においては、いかに先祖が戦いで勇敢に戦い大きな戦果を上げたかだけが語り伝えられた。このことが、江戸時代を通じて継承された「神国」観と朝鮮蔑視・属国観ともあいまって、19世紀末の西ヨーロッパ諸国によるアジア侵略の危機の中で、再び日本が朝鮮に攻め入っていく背景ともなったのだ。
C文化略奪で江戸期の文化興隆の基礎を築いた
そして、朝鮮侵略戦争がその後の日本の発展に寄与した面もまたきちんと記述すべきであった。江戸時代の日本の繁栄の基礎の一つが、朝鮮からの文化略奪にあったという事実もまた忘れてはならないからである。
朝鮮から奪われ日本に根付いた文化としては、磁器生産がある。
先に挙げた朝鮮磁器の陶工の大量拉致と、これらの九州各地に連れてこられた陶工の努力によって、磁器生産に適した陶土や釉薬となる土の発見がなされ、江戸時代長崎からの主要な輸出品ともなった有田焼きや唐津焼き・薩摩焼きなどが生まれたことは、江戸時代の文化の項でも詳しく記しておく必要がある。
また江戸時代文化は大量の出版物がこれを支え、大名・公家に留まらず、上層商人・農民のみならず庶民に至るまで、古典書籍を読み、新作の小説・戯曲を楽しむという大衆文化が栄えたことが特徴である。この出版文化に刺激を与えたのは、侵略戦争によって大量に奪い取られてきた朝鮮の仏典と儒教の書物・歴史書・医学書であった。そして、この出版文化を支えた印刷術において、初期にこれを担ったのは、朝鮮から略奪されてきた銅活字とその技術を担った拉致された印刷工である。この朝鮮銅活字によって、朝廷や天下人によって多くの古典が活字印刷され、江戸時代の学問研究・文学の隆盛の基礎を築いている。古典籍において「古活字版」と呼ばれるものにはこの朝鮮渡りの銅活字によって印刷されたものが多かったが、銅活字の製造技術と印刷技術は高度で失敗も多かったため、次第に銅活字は木活字に移行し、さらには日本においては伝統のある木版による印刷へと移行したのであった。
また江戸時代には綾織に刺繍を施すことも流行したが、これを初期において担ったのもまた、朝鮮から拉致されてきた縫工であったという。
さらに江戸時代の治世の学として栄えた朱子学やこれと対抗するように現実改造の実学として栄えた陽明学は、侵略戦争において拉致されてきた朝鮮儒学者から日本の儒学者が学び、それを発展させたものであった。詳しくは江戸時代文化の項で述べるが、先に記した拉致されてきた儒学者・姜こう(さんずいに亢)との交流の中で、朝鮮朱子学の真髄を学んだ藤原定家の子孫である儒学者藤原惺窩は日本朱子学の祖と言われ、彼の門下からは江戸時代を代表する儒学者がたくさん巣だっているのだ。この他にも、拉致されて大名家のお抱え儒者となったものも多い。
日本は侵略戦争によって朝鮮の文化を略奪し、それを基にして江戸時代文化を作り上げたと言っても過言ではないのだ。このことは磁器を除いて多くの教科書でも記述されていないが問題である。
(5)朝鮮侵略戦争の目的は?
最後に、「つくる会」教科書が秀吉の壮大な夢と称して記述しなかった、侵略戦争の目的や背景について述べておこう。
@従来の諸学説
明治以降の研究においては、さまざまな説が出されている。
一つは、明に対して勘合貿易の復活を要求しようとしたとするもので、秀吉の講和条件の条項をその根拠としている。二つ目は、秀吉の功名心による海外征服とするもので、これは秀吉が宣教師などに自分の功名を唐・天竺までおよぼしたいと語っていたことや、朝鮮国王にあてた国書に同様なことを語っていたことを根拠としている。そして三つ目の説は、領土拡張をねらったというもので、朝鮮南4道の割譲を要求したことなどを根拠としている。さらに四つ目としては、秀吉の専制的性格に起因するとするもの。農民の一揆を圧殺し領主階級を統一し絶大な権力を握った秀吉が、ポルトガル資本に対抗しようとした商人資本の要求に依拠して、矛先を海外に向けたというもの。
しかしこれらの説はいずれも、侵略戦争の一面を語っているだけであり、最後の説のように、秀吉政権の性格を誤ってとらえているものも存在し、ゆえに定説が出来てこなかったのだと思える。
A秀吉政権の性格との一体的な解釈
だが近年、太閤検地の実態や戦国時代の社会・一揆の実態と結びついた秀吉の平和令についての研究などを通して秀吉政権の性格がかなりあきらかになり、朝鮮侵略戦争の目的も、明らかになってきた秀吉政権の実態との関係で論じられるようになってきた。
秀吉政権は、下剋上の組織化とでもいうべき性格をもった政権であった。統一戦争を組織して行く過程で、手柄を立てたものについてはその身分・地位の高下に関り無く褒賞として多くの所領を授け、無能な者・敵対した者は容赦なく所領を取り上げたり減らしたりし、それを手柄を立てた家臣に分け与えてきた。これは信長のときから制度化されてきたもので、新しく手に入れた彼自身の直轄地や配下の大名の領内に、それぞれの蔵入り地として予備の所領が確保され、これを次の統一戦争における褒賞の原資として、家臣団を戦へ邁進させる強い原動力としていた。
しかしこれには限度がある。国内が統一されてしまえば、新たな褒賞を与えることは出来ず、所領の加増で武士を統一することはできなくなるのだ。だから海外に領地を求めた。こういう解釈が生まれている。
また先に述べたように、太閤検地は侵略戦争開始前と後とでは異なった性格をもってくる。
戦争の前の検地は、大名の領地も秀吉から仮に与えられたものとしたことで、大名の家臣の領地も大名から仮に与えられたものとなり、大名の領国支配を強化する性格が強かった。大名の家臣である国人領主は所領の移動や減少を強制され、そこで生み出された大名蔵入り地を原資として、大名の家臣団は大名の命じる戦いでの奮闘と引き換えに新たな領地が与えられた。しかし侵略戦争の最中の検地では、大名領国の中に多くの太閤蔵入り地が設けられ、しかもそこが大名領国の中心となる穀倉地帯や商業都市、そして鉱山であり、この秀吉直轄領は秀吉直臣の奉行衆の管理下に置かれた。こうして太閤検地の進行とともに、大名への軍役賦課が容易となって大名の秀吉への臣従度が強化されるとともに、大名領国への秀吉の直接支配も強化されていったのである。このことを基礎に考えると、朝鮮侵略戦争は、戦争に諸大名を動員しその過程を通じて大名の力を削ぎ、秀吉政権の基盤を強化しようとするものであったと言えよう。
B同時代の証言
こう考えてくると、朝鮮侵略戦争当時において宣教師ルイス・フロイスが述べていた戦争の目的についての解釈が注目される。
フロイスは述べる。秀吉は全国統一を果たしたあと新たな大きな企てはしないと言っていたが、「彼は、日本人の心がおのずと変わりやすいことも知っていたし、また諸侯はあるいは戦いにより、あるいは謀叛によって、自分がいったん決めたことを変えなくては、自国を安全に、かつ自信をもって支配していけないのが常であることもわかっていたので、諸国の領主を篭絡し服従させた後には、その絶妙な手腕と配慮によって、彼らをシナ征服という企てに駈りたてようと決意した」と(「フロイス日本史5:第34章)。
またフロイスは証言する。
秀吉は「予は多くの国替えや、領地替えを行うであろう。このたびの企てに加わった者には、朝鮮やシナで国土を賞与するであろう」と(「フロイス日本史5:第31章)。そして侵略戦争の中で処断に値する行動をとった大名がでると、「その封禄と領地を没収するために小細工を弄しようと企てていた秀吉は、喜んで」その大名の封禄と領地を没収し、彼の直臣に与えたと(「フロイス日本史5:第44章)。
戦争中の行動を咎められて領地没収の憂き目にあったのは、病気と偽って朝鮮熊浦から先に進まなかった肥前波多の領主・波多氏と、病気と偽って帰国した薩摩出水の島津氏、そして小西軍を見捨てて撤退した豊後領主大友氏などであった。
フロイスの解釈は、強大な権力を握った秀吉政権は脆弱であり、いつ諸大名の叛乱によって崩壊するかわからない状況であり、これを自覚した秀吉が朝鮮・中国侵略戦争を開始し諸大名を動員することで政権を磐石にしようとした、というものである。そしてこのフロイスの解釈は、侵略戦争に直面した大名の中にも共有された考えであり、フロイスは彼らの考えを聞いて、その著書に記したと考えられる。
秀吉の朝鮮・中国侵略計画に正面から反対した大名がいた。彼の弟の豊臣秀長である。彼の反対理由は「国中が治まったのであるから今後は御政道を完成させるべきであるのに、いたずらに外国と争いを起こし、人馬兵糧を費やすことは暴挙である」というもの。そして「軍での功績をもって封禄の増大を望む者があるならば、我が給地を与えよ」と迫ったという。戦争の継続によって今以上の領土を得ようとする大名がおり、彼らに褒賞を与えることで秀吉政権が成り立っていたことを示唆した発言であろう。
またこの話しを「武功夜話」で披露した前野但馬守は、島津・長宗我部などは、朝鮮・明において約束された封土を辞退し、従前の領地を望んでいるとの噂をも紹介している。秀吉が侵略戦争を企画したのは、西国の旧戦国大名の領国を没収し、彼らを異国に移すためだと、とうの大名たちが考えていたことを示すのであろう。
さらに江戸時代になってからのことであるが、1600(慶長5)年に朝鮮に帰国した姜こう(さんずいに亢)が帰国前に次のような噂を耳打ちされたと、その著書「看羊録」で語っている。その噂とは、「徳川家康は秀吉が生きているときには極力撤兵を主張していたが、いま激しく対立している前田・宇喜多らの諸大名を朝鮮に投じて勢力を削ごうと、息子の徳川信康を大将として、第3次の朝鮮侵略をくわだて、5万石以上の大名から人質を江戸に徴発している。もっとも、毛利輝元の参謀の安国寺恵瓊は数十年は戦争をおこす心配はないと保障したが、ともかくも備えを固めるにこしたことはない」というものであった。
来るべき関が原の戦いを前にして、第3次朝鮮侵略が大名の勢力を削ぐために企画されているとの噂であるが、当時の大名たちが秀吉の朝鮮侵略を、自己に対立する可能性のある大名の力を削ぐためのものと解釈していたこと示している。
C秀吉政権の弱さにはっした侵略戦争
先に見たように、秀吉はけっして武力によって日本を征服したわけではなかった。徳川氏をはじめとした有力大名の多くとは「天皇の平和」の下で諸国の戦争を停止させ、大名に秀吉の裁定に従わせることで臣従させて来たのであった。そして下賎の身分から成りあがった秀吉には、有力な親族大名や直臣大名が少なく、彼の死後には、その政権の崩壊は火を見るよりも明かであった。敵対する可能性のある大名の勢力を削減し、彼に忠実な直臣大名の力をつけて秀吉政権の力を強め、予想される大名の反逆を押しつぶせる力をつける。そのための海外侵略を構想したとしても、あながち荒唐無稽な想像とは言えないだろう。
侵略戦争の最中の検地で、大名領国内に多くの経済的に重要な個所に太閤蔵入り地をもうけてこれを直臣奉行の管理下に置いたこと。戦争の最中に軍令に違反した大名の領地を没収し、それを直臣に与えたこと。さらには、侵略戦争に実際に駆り出されたのが、九州・四国の大名であり、これらの大名の多くは、キリシタン大名や旧来の戦国大名の流れを組むものであった。これらを全て朝鮮・中国に移封することを秀吉が公言していたことは、彼らを移したあとの広大な九州・中国・四国の地域を、秀吉の親族や直臣大名に分け与えようとしていたことを意味する。そしてこの地域が、当時の日本において、すでに秀吉直轄領となっていた畿内・近国とともに、日本を代表する穀倉地帯・商業農業地帯であったことは、ここを秀吉親族と直臣大名で占めてしまえば、東国の徳川氏にも十分押さえが効くようになったであろうことは想像できる。
徳川氏配下の真田氏と北条氏との間の領土紛争を好機として北条氏に戦をしかけ、その先鋒に徳川氏を動員して、その領地を秀吉直臣大名の占領下に置き、北条氏を滅亡させた後に、その旧領に徳川氏を移封して徳川旧領を没収。そしてその旧徳川領への移封を拒否した織田信雄の領地も全て没収して、伊勢・美濃・尾張と三河・駿河・遠江という、日本屈指の豊かな地帯全てに秀吉直臣大名を配して徳川氏への押さえとした秀吉の徳川対策。これになぞらえて朝鮮侵略戦争の目的を考察してみれば以上のようになろう。
D背景にある「神国」観
しかも対北条戦争も「天皇の平和」に対する違反を咎める戦争であったように、対朝鮮・中国戦争もまた、「日本の天皇に朝貢せよ」という秀吉の命令に両国が「叛いた」ことを理由とした戦争であった。どちらも「神国日本」を旗印とした戦いであり、この意味で日本統一戦争と朝鮮・中国への侵略戦争は、大義名分においても一体のものであった。
すでに述べてきたように、日本統一にあたっての根本的理念は、仏教的世界観を中軸としながらも、神が救いの手を差し伸べその神の子孫が統治する日本は、人が統治する中国や天竺よりも優れた国であり、日本こそ宇宙の中心たるべき国であるとする、「神国」思想であった。そしてこの「神国」においては最高神・天照大神の子孫=神の司祭である天皇を権威の体系の頂点とし、諸国を治める大名は、その配下にある諸神・諸仏の化身として、諸国の平和を守るものとして領国に君臨してきた。上杉謙信が毘沙門天の化身としてその名号を旗指物として進軍したことや、武田信玄が比叡山大僧正と称していたこと、さらには徳川家康も「厭離穢土・欣求浄土」の旗を掲げて浄土宗の理想を実現するものとして進軍したことは、この現われである。だからこそ天皇も含めたあらゆる宗教的権威を超えようとした信長は、「第六天魔王」と称してこの世の悦楽を全て司る力をもっているとしたのだし、秀吉は生前「新八幡」と称して軍神である八幡神に替わるものとし、死後は豊国大明神として祭られた。
この「神国」観からすると朝鮮は、古代以来日本の属国であったという認識となり、その根拠は日本書紀に書かれる「神功皇后の三韓征伐」で「征服」された韓国は以来日本に朝貢したという「歴史的」事実であった。そしてこれは秀吉の文言の中にもしばしば出されることであり、朝鮮侵略に参加した諸大名の文書にもしばしば見えるものである。そして秀吉が称した八幡神の母が神功皇后であるのだから、秀吉の侵略戦争が「神功皇后の三韓征伐」に擬せられたのも当然といえよう。これは、秀吉の侵略戦争は、日本統一戦争の旗印である「神国日本」を実現するための戦争と、当時の人が認識していた証である。
(6)「神国日本」を生み出したもの
では、このような東アジアの国際秩序を完全にひっくり返した世界観がどうして日本に生まれたのであろうか。
@倭寇的世界観に裏付けられた「神国」意識
この点についても、ルイス・フロイスが興味深い証言をしている。
彼は日本人の中国観を次のように紹介している。
「人々はシナ人は天性惰弱であり、たとえ無数といえるほどいても、鉄砲の音を耳にし、抜き身の刃を見れば、こちらが少数であるにもかかわらず敵を恐れて逃走するにちがいない、と思っていた。このような考えは、軍兵がいないシナの海岸地帯へ盗みに行った幾ばくかの日本人(倭寇)に基づくものであった。そこには武器など手にしたことのない農民と土着の住民しかいなかったので、2百人ないし3百人の日本人が無数のシナ人を追い払ったように見えたのであった。またこの考えは、広東のシナ兵について語ったポルトガル人の証言とも一致するものがあった。これらの兵士たちは、一度も敵に接したことがなく、戦争の経験がなかったので、戦意に欠け、たまたまある機会に争った際に、きわめて卑怯に振舞ったのであった」と(「フロイス日本史5:第43章)。
秀吉や朝鮮に侵攻した諸大名は、中国のことを「長袖の国」として戦も知らない貴族の治める国であるから「弓矢の国」の日本に勝てるわけがないと、しばしば吹聴していた。フロイスの証言はこれを裏付けるものであるのだが、この中国観の根拠が、倭寇の海賊=海商として中国沿岸を荒らしまわった経験に基づくものとフロイスが喝破したことは重要である。
A商業革命を内在化させて発展した日本
近年「海のアジア史」を著して13世紀には姿を現していた世界システムの中での各文明地域の興亡と連携のさまをあきらかにし、何ゆえ世界システムの中枢であった中国が、宋代から明代にかけて急激な商業革命を経験して東アジアの、そして世界システムの牽引者となった中国が、なぜそれを継続発展させることができずに、その中枢の位置からずり落ちたのかを論じた小林多加士は、これとは対極的にやがて東アジアの辺境から世界の中枢へと上昇した日本と対比して以下のように論じた。
「中国と日本の明暗を分けた基本的要因は、ほかならぬ東アジア『世界=経済』のマージナルな海商として活躍した倭寇の活動を、日本は巧みに体制内に取り込みつつ制御したのに対し、中国はそれを体制外に放り出し排除していたことにあるように思われる」と。
つまり日本の統一政権は、倭寇として東アジア・東南アジアをまたにかけて活動して日本産の銀を媒介にこの地域の商業革命を担ってきた海商・海の領主たちを統合しつつ国際貿易を管理下に置き、こうして出来た江戸幕藩体制は、鎖国という管理貿易体制をとりつつも、国内における諸産業と商業の発展を促し、最初は中国や朝鮮から輸入していた生糸・絹織物や綿布・陶磁器などの国産化を図り、中国や朝鮮が戦乱や国際貿易から離脱する中で、これらの国際商品を有力な輸出品に育て上げ、中国・朝鮮を凌駕してヨーロッパにまで輸出する国になった。そしてこの過程で中国・朝鮮、そしてオランダを介して先進諸国の文明を学び自己の物とする中で国力を高揚させ、やがて世界を征服しつつあった西洋に対抗できる国になったのだというものである。
言いかえれば、当時日本はすでに世界の銀の3分の1を産出し、この銀とアメリカから産出されるメキシコ銀とが、世界システムの潤滑材として機能する国際通貨であった。そしてメキシコ銀を有しながらも世界に輸出する重要な貿易品のない西洋とは異なって、日本はやがて朝鮮から奪い取った技術で優れた磁器生産を開始し、さらに中国や朝鮮から銀を媒介に学んだ生糸・絹織物生産の技術などを用いて、これらの品物を有力な輸出商品として有し、しだいに富みを蓄えることができた。その日本発展の基本であった銀を媒介にしていた国際貿易を担った倭寇によって培われた国際感覚。これが、秀吉の朝鮮・中国侵略を支えた外国観であり、これによって強化された「神国」観だったのであろう。
これに対して中国は、その中枢としての豊かさ故に、発展した商業によって得た原資をさらなる商工業の発展に使うのではなく、13・14世紀に起こったペスト被害によって壊滅的被害を蒙った内陸の農業地帯の再生に使かった。この過程を通じて、商人として発展した新興の郷紳階級は、地主となって資本を土地に投資し、やがて封建的土地所有者階級となっていった。そして倭寇として海外貿易を担ってきた同じく新興の紳商階級は海禁政策によって海外に放逐されるか、中国の反体制勢力として社会の底辺に逼塞することとなった。その結果中国は、明・清と続いた王朝の期間に海禁政策を強化させ、自ら世界システムの商業網から離脱していったのであり、ヨーロッパを中心に発展した技術革新・商工業革命の波からも無縁のものになっていき、やがてヨーロッパの従属地域にとその地位を低下させたのであった。
B近世日本の基盤を作った秀吉政権
秀吉が呼号した「神国」日本という世界観には、今だ萌芽であるが現実的な社会・経済的根拠があったのだ。
しかしこれが現実の社会・経済的実力として現われるのは、まだずっと後のことである。信長・秀吉・家康による統一政権が安定し、鎖国という武装中立による管理貿易を盾として、250年の平和の中で商業を中心として国を作りなおす取り組みが実を結び、日本が世界の中枢の一つに踊り出るには、まだ長い時を必要としたのである。だがその過程で生み出され強化された「神国日本」の観念の背後には、隣国に対する蔑視観と自国の優越感が存在し、これを裏付けるものとして秀吉の朝鮮・中国侵略戦争が語り伝えられたことは、近代における日本とアジアとの不幸な関係を生み出す基礎となった。
また、秀吉による侵略戦争は近世日本の国家体制を確立する基礎となった。これはその意識の点だけではなく、都合6年にもおよぶ長期間、日本全国の全ての大名と主だった家臣団が肥前名護屋に集められ、今まで顔も合わせたこともなかった武士階級が、戦時下の緊張した雰囲気の中で濃密な付き合いをしたことは、武士階級の統一した文化と意識と生活の在り方を作り出した。名護屋に在番した大名・家臣も、朝鮮に出陣した大名・家臣も、日常的な贈答のやり取りや儀式や祭りや酒宴を供にする中で、一つの階級としての自覚を高めていったのだ。そして秀吉が取った大名統制策や天皇・公家・寺社統制策や法の下における統治の政策は、形を変えて江戸幕府の政策にも継承され、近世日本の国家体制の骨格をなしたのであった。
「つくる会」教科書は、「秀吉の壮大な夢」と称して、この無謀な戦争の持つ歴史的意味を掘り下げる切っ掛けを切断し、記述そのものを無意味なものにしてしまった。歴史的事象は一つ一つが孤立した事象ではなく、相互に関連したものである。それを見ようとせずに断片的かつ事実からも目を逸らした記述態度は、未来を企画するために過去から学ぶという、歴史学習・歴史教育の本来的在り方からも遠く隔たったものであるといわざるをえない。
補遺:コラム「豊臣秀吉とフェリペ2世」の虚構
「つくる会」教科書の「朝鮮への出兵」の項目のページの最後に、「豊臣秀吉とフェリペ2世」と題する不思議なコラムがある。全文は以下のとおり(p121)
ちょうど秀吉が天下統一を成し遂げたころ、スペインでは、国王フェリペ2世がイスラム勢力を打ち負かし絶頂期にあった。秀吉とフェリペ2世はたがいに贈り物を交換しあっていた。アジアに派遣されたスペイン人宣教師たちは、熱心に中国の武力征服と日本の利用価値を書簡でフェリペ2世に説いたが、彼は慎重策を命じ、動かなかった。二人は、期せずして同じ1598年にこの世を去った。 |
不思議な文章である。何のためにここに、このようなコラムが挿入されているのだろうか。
@侵略戦争をも合理化する「スペインによる武力征服」策の提示
実はここは、文部科学省のサイトの「検定意見」を見ると、検定前の「白表紙」本では、同じ題で1項目をなし、1ページを要した別の項目であった。この検定前の記述を見ると、ここにはスペインが1580年にポルトガルをも併合して、両国のアジアにおける勢力境界線を決めたサラサゴ条約を改定し、境界を決める子午線をモルッカ諸島の東ではなくマレー半島のマラッカに置きなおして、中国や日本をスペインの勢力範囲内に置くという改訂をしており、ちょうど秀吉の時代が、スペインの最盛期に当たっていることを記述したものであった。そしてこの部分にはまた、国家主権を失ったポルトガルはにもかかわらず自己の利権を守るべく戦い、スペインとポルトガルとのアジアをめぐる利権争いが継続していたこともまたきちんと記述されていた。
この白表紙本の記述を念頭に置くと、このコラムの本来の目的がよく理解できる。
ここで「つくる会」にとって1番大事なことは、スペインによる中国・日本の武力征服計画が現実に存在しており実現可能であったということを示す部分であり、これを示すことで、秀吉によるキリスト教禁令・バテレンの追放が日本の植民地化の危機に対する合理的な対策であったことが浮き彫りになる。また、さらに敷衍して考えれば、秀吉による朝鮮・中国、さらにはインドまでの征服計画もまた、スペインによるアジア植民地化に対抗する措置であり、「自国を防衛する正当なもの」と評価できるとにおわすことも可能になるわけだ。そしてスペインとポルトガルとの勢力争いを記述すれば、この過程でスペイン人宣教師から中国・日本の武力征服策が提案された背景も理解でき、武力征服策の現実性が補強できるわけである。
このスペインによる中国・日本の武力制圧も絶頂期にあったスペインにとって実現可能なことであったが、国王フェリペ2世が慎重策をとって実施せず、さらには彼が死去したことで実現しなかったのだと、「つくる会」は主張したいのであろう。だから、秀吉はフェリペ2世治下のスペインの動向を見据えて動いていた、だから彼らは相互に「贈り物を交換しあっていた」のだし、「たがいに相手の強大さを認め合っていた」(白表紙本の記述)と記述したのだ。
たしかに秀吉とフェリペ2世は、インド副王を介して書簡と贈り物を相互に交換していた。しかし白表紙本のこの記述は文部省の検定官によって、「相手の強大さを認め合った」という事実はないと指摘された。この結果、この部分の記述を削除するとともに、キリシタン禁令や朝鮮侵略をも合理化しかねない記述を含んだ項目全体を削除し、そのエッセンスのみをコラムという形で掲載したのであろう。
Aスペインは絶頂期にはなかった
だが「つくる会」教科書の記述は間違いである。秀吉がスペインによる武力征服の可能性を見てこれに対抗しようとしてキリシタン禁令を出した可能性は高いし、朝鮮・中国の征服もまた、これとの関係で、スペイン・ポルトガル商人と競合していた日本人商人の要請もあって、実施された可能性は高い。だからと言って侵略戦争そのものが肯定されるわけではないが。
しかし、スペインによる中国・日本武力征服は実現しようがなかったのが実情だ。この征服策が建策されたときにフェリペ2世が慎重策をとったのには理由がある。実は彼の治世は、スペインの絶頂期であると同時に衰退期に入っており、その栄華には陰りが見えていた。
「つくる会」教科書は、絶頂期にあった理由を「イスラム勢力を打ち負かし」と記述した。しかしスペインがイベリア半島におけるイスラム勢力を完全に打ち負かしたのは、かれこれ100年前の話し。半島に残っていた最後のイスラム王国・グラナダ王国を滅ぼして半島の「統一」を完成したのは1492年の頃で、フェリペ2世の祖父母であるカトリック両王の時代のことだ。では教科書が言う「イスラム勢力を打ち負かし」とはどんな事実を背景としているのか。
この点も白表紙本を見ると明かになる。
白表紙本には次のように記述されていた。
「1571年スペインはレパントの海戦でオスマン・トルコ帝国の艦隊を破って、宿敵のイスラム勢力に決定的な打撃を与えた。これ以降、ヨーロッパはイスラムに対し優位に立つことになった」と。
1571年のレパントの海戦における勝利のことを指していたのだ。
しかし、これでヨーロッパがイスラムに対して優位に立ったというのは間違いである。トルコ海軍の敗戦はこの戦いにおける一時的なものであり、再建されたトルコ海軍の力により1574年には北アフリカのチュニジアがトルコに併合され、以後も地中海は「トルコの海」でありつづけた。西ヨーロッパ諸国が地中海の制海権を取ったのは、19世紀になってからのことである。そして陸上でもトルコの拡大は続き、1562年にすでにハンガリーを併合していたトルコは、1593年にはオーストリアにも侵入している。フェリペ2世の時代においてもイスラム勢力の優位は変らなかったし、トルコはヨーロッパに対する東からの脅威でありつづけたのだ。そのトルコが衰退し始めたのは、1683年の第2次ウィーン攻囲における敗退以降。実にフェリペ2世の時代から見ると100年後のことであった。
またフェリペ2世の治世は、スペインの没落の始まりでもあった。
年表的に事実をつづれば、1579年にはスペイン領ネーデルラントから7州が事実上独立して、これを支持するイギリスと同盟を組んだ。そして1588年にはドーバー海峡の海戦でイギリス艦隊にスペインの無敵艦隊が敗れ、これによってこの年ネーデルラント共和国(オランダ)が正式に独立し、スペインは大西洋における制海権を失うこととなったのである。やがてオランダ・イギリス両国はスペイン・ポルトガルの海外植民地をも侵食しはじめ、1596年には、オランダ艦隊がジャワのバンタンに現われアジア貿易にも参入。そしてフェリペ2世の死の直後にはオランダ・イギリス両国に東インド会社が設立され、スペイン・ポルトガル両国国王による植民地支配によるアジア進出に替わって、オランダ・イギリスの資本によるアジア貿易への参入とポルトガル・スペインの駆逐が始まっていった。
この動きの背景には、スペインの国家財政の破綻とスペインに流入したアメリカの金銀がオランダに流出してオランダは西ヨーロッパ最大の工業センター・金融センターとなり、西ヨーロッパの中心がスペインからオランダへと移って行ったことがあった。そしてスペインの国家財政の破綻の原因は、広大な地域の植民地支配に多額の費用を要していた上に、フランスの王位継承をめぐる内乱に介入したり、オランダ独立運動を圧殺するために軍隊を投入し続けたことがあり、かさむ軍事費・戦費がスペインに蓄えられたアメリカ銀を流出させたことが一つの原因であった。プロテスタント勢力がフランス・オランダ・イギリスに勃興拡大して行くことに対してカトリックの守護神を自認していたフェリペ2世は、過剰なほどにこれらの国々に軍事介入した。これがスペイン国家の衰退を生み出したわけである。さらに、国家財政の破綻は、ようやくにしてスペインにも勃興しつつあった工業をも国家の保護を失ったことによって衰退に向かわせ、工業の面でもヨーロッパの中心は、オランダやイギリスなどに移って行ったのであり、スペインはこれにより、アメリカ銀をもってオランダやイギリスの工業製品を購入しなければならない国へと転落し、西ヨーロッパにおける辺境の国家へと没落しつつあったのだ。このような状況でどうして、中国や日本を武力征服できたであろうか。フェリペ2世が武力征服に慎重策をとった背景には、国力の大幅な衰退という厳然たる事実があったのである。
ヨーロッパの現実を誤認し、スペインによる中国・日本武力征服が現実の可能性があったかのような「つくる会」教科書の記述は、秀吉による朝鮮侵略戦争を合理化するために事実を歪めたものであり、大変な誤解を生むもとであると言えよう。
注:05年8月刊の新版の記述は、旧版とほとんど同じである(p97)。変ったところは、これ以後発展した磁器生産が、戦争で捕虜となって日本に連れてこられた朝鮮陶工によるものであったことを明記したことである。これは大事な修正であるが、「陶器の技術」と記述して、磁器と陶器の区別もつかない間違いを犯していることや、これが江戸時代を通じた最大の貿易品の一つとなったこともあとのページでも記述していないなど、この侵略戦争の位置付けが今だ不明確である点は、今後も改善すべきであろう。
また「秀吉とフェリペ2世」のコラムの記述は、旧版の記述より後退し、スペインによる中国・日本武力征服が現実化する可能性があったかのような記述姿勢はさらに強まっている。すなわち、「期せずして秀吉と同じ1598年に(フェリペ2世が)この世を去ったので、征服計画は実現しなかった」と記述し、スペインが絶頂期を過ぎていてとても海外に侵略軍を送ることなどできなかった事実を完全に押し隠してしまっている。
注:この項は、前掲、藤木久志著「天下統一と朝鮮侵略―織田・豊臣政権の実像」、ルイス・フロイス著「日本史5」、北島万次著「朝鮮日々記・高麗日記―秀吉の朝鮮侵略とその歴史的告発」(1982年そしえて刊)、榎森進著「『蝦夷地』の歴史と日本社会」(1987年岩波書店刊「日本の社会史代巻・列島内外の交通と国家」所収)、上垣外憲一著「文禄・慶長の役―空虚なる御陣」(1989年福武書店刊・2002年講談社学術文庫で再刊)、北島万次著「壬辰倭乱期の朝鮮と明」(1992年東京大学出版会刊「アジアの中の日本史U外交と戦争」所収)、朴春日著「朝鮮通信使史話」(1993年雄山閣出版刊、2000年ブッキング再刊)、三宅英利著「近世の日本と朝鮮」(1993年朝日新聞社刊、2006年講談社学術文庫再刊)、前掲・小林多加士著「海のアジア史―諸文明の『世界=経済』」、姜在彦著「朝鮮儒教の二千年」(2001年朝日選書刊)、赤嶺守著「琉球王国」(2004年講談社メチエ刊)、李成茂著「朝鮮王朝史・上」(2006年日本評論社刊)、笠谷和比古著「蔚山籠城戦と関ヶ原合戦」(思文閣出版2000年刊「関ヶ原合戦と近世の国制」所収)などを参照した。