「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第3章:近世の日本」批判8


8:室町公家文化の拡大・継承としての桃山文化

 近世の章の第1節「戦国時代から天下統一」への最後の項目は、この時代の文化史についての記述で、「桃山文化」「庶民の生活」「南蛮文化」の3つの項に分けて記述されている。
 最初の「桃山文化」については、教科書は以下のように記述している(p122)。

 信長と秀吉の時代には、戦乱の世ではあったが、商業や貿易がさかんとなり、社会に活気がみなぎった。新興の大名や大商人は、絶大な権力を背景に、はなやかな生活を送った。彼らの気風を反映した、豪華で雄大な当時の文化を、桃山文化という。
 桃山文化を代表するものに、天高くそびえたつ天守閣をもつ壮大な城がある。信長は安土城を、秀吉は伏見城や大阪城を建設し、その権力をほこった。また姫路城は、城建築の最盛期を今に伝える美しい城である。城郭の内部は書院造で、華麗な彫り物や、金銀をふんだんに使った障屏画(
ふすま絵や屏風)で飾られた。その制作の中心となったのが、狩野永徳・山楽ら狩野派の絵師たちである。また、長谷川等伯は、豪華な障屏画を制作する一方で、日本水墨画の秀作「松林図」を残した。
 勇壮な文化が発達する中、その反動のように、大名や大商人は能楽や茶の湯に深い味わいを求めた。堺(大阪府)の千利休は秀吉につかえて、質素な侘び茶の作法を完成させた。

 つまり桃山文化は、新興の大名や大商人がその担い手で、彼らの気風を反映してその特徴は、豪華で雄大なものと規定される。そしてその典型が城郭の内部を飾った「金銀をふんだんにつかった障屏画」であるとするのだ。しかしこのような豪華で雄大な文化とは正反対の文化もあると、教科書は指摘する。つまり水墨画が描かれたり、能や侘び茶が好まれたというわけだ。教科書の記述に従えば、これは「(勇壮な文化の)反動のように」好まれたと。

(1)室町公家文化を継承したもの

 しかし桃山文化を教科書のように性格付けるのは間違いである。
 第一に、桃山文化の担い手は新興の大名と大商人だけではない。金と場を提供し共に文化を形成するという意味でのパトロンでは天下人が新たに加わったが、パトロンは室町時代と同様に皇族・公家(将軍家も含む)衆と寺、そして大商人であった。そして文化の直接的な造り手は、公家(将軍家も含む)・寺(この有力な檀家が町衆と呼ばれた大商人である)に扶持されたお抱えの芸能者たちであったのだ。新興の大名層はまだ文化の担い手ではなく、彼らが参画するのは次の時代、江戸時代の寛永から元禄の時代である。
 また第二に、桃山文化の諸特徴は、室町の文化について通暁しているものが見れば、桃山文化の特徴として挙げられたものはすべて室町文化の特徴そのものであることがわかる。
 中世編でもすでに記述したところだが、室町文化の特徴は、「バサラ」と「雅」の相克と発展にあった。
 「バサラ」とは派手な所作をすることであり、当時にあっては、豪華な唐渡りの文物で飾られた邸宅に住んで唐渡りの文物で身辺を飾り、派手な行動をすることであった。また「バサラ」と同様な傾向を帯びたものに「風流」があった。そして「雅」とは、平安時代以来の公家の美意識を代表するものであり、静かな穏やかな雰囲の中に、そこはかとない美しさをたたえた趣を言う。ある意味で対照的な二つの文化傾向が並存し、互いに刺激しあっていたのが室町時代であった。そして時代を経るに従ってこの二つの傾向が相互に交じり合う中で、「風雅」と呼ばれる美意識を生み出し、一見寂しげな貧しげな雰囲気の中に隠された華やかな美しさを楽しむ傾向が好まれ、ここからさらに華やかな要素を削ぎ落とし、極めて簡素な雰囲気の中に密やかな美を楽しむ「わび・さび」という美意識も生まれていったのだ。
 室町時代の文化は、「バサラ」「雅」という対極的な美意識と、その融合と発展としての「風雅」「わび・さび」という同じく一見対極的に見える美意識の共存したものであった。
 この「バサラ」を代表したのが、3代将軍足利義満が建てた北山第とその舎利殿で金箔張りの金閣であり、後の時代の「風雅」と「わび・さび」を代表したのが、7代将軍足利義政が建てた、東山の山荘と茶室であった。桃山文化を代表する華麗で豪壮な城郭の様相は、「バサラ」の北山第の美意識を継承しており、水墨画や侘び茶を愛好する傾向は、「風雅」「わび・さび」の東山山荘の美意識を継承していると見て良いだろう。
 またこのことは、桃山文化を実際に担った芸能者が、室町幕府のお抱え絵師や町人の趣向を支えた町絵師などとして、将軍の山荘や寺院そして公家の山荘や宮中や大商人の山荘の装飾などに携わったものたちであったことにも示されている。
 桃山文化の新たなパトロンでありそれを享受したのは、天下人であったが、彼らの身体や住居を飾った文化そのものは、室町時代の公家文化そのものであったのだ。
 この点を踏まえて、もう少し文化の内実に立ち至って考察して見よう。

(2)見せるための建築物

 室町時代のバサラの傾向を代表する義満の北山第とその舎利殿(金閣)と、信長の安土城や秀吉の大阪城・伏見城・聚楽第などは、共通の目的をもって建てられたものであった。それはどちらも、異なる階級の上に君臨しそれを統一するために彼らに見せるために作られたといっても過言ではないことに示されている。
 北山第の舎利殿であった金閣は3層の建物だが、上の2層は外部も黒漆を塗った上に金箔を貼り、3層目は内部も総金箔であった。そして2層目は当時で言えば迎賓館であり、内部は唐渡りの掛け軸や衝立で飾られ、同じく唐渡りの家具調度品で整えられて、さながら中国の宮廷を思わせるものであったと想像されている。また金閣の2層目はすぐ横に池を挟んで建てられていた天鏡閣という2階建てのパーティ用の会所と呼ばれる建物と掛け橋で結ばれていた。この会所で、連歌の会や立花の会、そして能や狂言の会が行われたのだ。
 この異国情緒たっぷりの金閣は、義満が君臨しようとした、天皇以下の京都の公家と守護大名などの武家にその権力を見せるために作られたのだ。義満は、天皇・公家・寺院という朝廷勢力と守護大名などの武家勢力双方の上に超越した権威の確立を目指していた。だから建物の様式としても平安貴族様式の寝殿造りの1層目と新たに生まれた書院形式の2層目、そして伝統的な仏殿様式の3層目と、従来の伝統文化を全て統合し、それ全体を新たな日本を象徴する黄金で荘厳していたのだ。
 これに対して信長や秀吉の城郭(そして姫路城などの江戸初期の城郭も)は、もっと大勢の者に見せるために作られた。
 彼らの城郭は京の都の北の静かな谷戸に建てられた金閣とは異なって、交通の要衝の台地の上に、足下に国の中心となる商業・工業都市を控えて、天にそびえるような姿で建てられていた。これらの建物は第一に、彼らが「法の下における平和」を実現する公儀として君臨しようとした、民百姓に向かって建てられたものだ。だから国の中心に天をつくような姿でしかも各所に金箔を施して太陽の光を反射してキラキラと輝く天空の都のような姿で建てられる必要があった。このため彼らの城は、金閣よりもはるかに大規模で目立つ所に建てられたのだ。そして第二に、彼らの城はまた、城に招き入れる人々、主として天皇・公家や諸大名、そして民百姓に、彼らの暮らしの豪華さを見せ付けるために様々な工夫が施された空間でもあった。彼ら天下人もまた義満と同様に、あらゆる人々の上に超越する権威の確立を目指していたからだ。だが義満の金閣が限られた特権階級にのみ開かれていたのに反し、彼らの城はしばしば庶民にも公開されたし、彼らに臣従を誓った者どももまたその内部を見学することを許され、彼らの権力の大きさを知らしめられたのだ。そしてこの点でも、彼らの城郭は、義満の金閣と同様な内部装飾がなされる必要があったのだ。
 建築物の目的そのものにおいても、安土桃山時代の城郭は、金閣を継承していた。

(3)室町中期に始まっていた金張りの大障屏画の伝統

 そして彼らの城郭の内部を飾った金張りの大障屏画は、すでに室町中期に始まっていた。
 義満の金閣の内部に置かれた掛け軸や衝立が元になって、3代義持から8代義政の時代には、大きな屏風に直接絵を描いたり、障子や襖に絵を描いたりするようになる。そしてこの時代には明への輸出品として、全体に金箔を貼った上に華麗な絵を描いた金屏風や金扇が作られていたが、同様にこれらの屏風や障子・襖にも金箔が貼られて行く。こうしてできた豪華に整えられた屏風や障子絵・襖絵が、義政の山荘であった東山山荘や寺院に今も残されている。
 襖や大きな障子・屏風に大きな絵を描くことは、8代義政の時代にはすでに始まっていた。その中で頭角を現し、幕府のお抱え絵師になって活躍したのが、狩野派2代の狩野正信であった。彼はすでに1463(寛正4)年に京都の相国寺雲頂院昭堂壁画を制作して幕府御用絵師の地位を得、1483(文明15)年には、義政の東山殿常御所の障子に「瀟湘(しようしよう)八景・耕作図」を描き、同じく東山殿東求(とうぐ)堂に「十僧図」(1485年)「涅槃(ねはん)図」(1487年)などの大作を描いている。彼の技法は水墨画の伝統を引くとともに大和絵の技法にも通じていて、和漢の文化両者を融合したものであった。ただ後の障屏画との違いは、その図柄が水墨画の伝統を引いた風景画や仏画であった点である。
 そして大きな金張りの襖や屏風に絵の具を濃厚に塗りつけた濃絵(だみえ)という技法で描くことを始めたのは、狩野派3代の狩野元信であった。彼は、1513(永正10)年に大徳寺大仙院客殿の襖絵をこの技法で描き、さらには石山本願寺の障壁画や妙心寺霊雲院方丈襖絵などを制作し、これらの作品は、安土桃山期の障屏画の先駈けとされている。
 また金張りの上に絵を描く傾向は、この時代の日明貿易によって生み出されたものであった。
 当時の日本の最大の輸出品は金であり、扇や屏風であった。その扇や屏風に金箔を施してその上に絵を描いたものが中国に輸出されておおいに珍重され、中国明時代の水墨画には、金を引いたものすら現われていた。そしてこの金を施した明の水墨画が日本にもたらされて日本の絵画に影響を与え、これが濃絵に結実したと考えられている。そしてこれらの輸出品にもまた、狩野元信の手になるものが、守護大名大内義隆の注文で作られていたのだ。
 ただこの時期の障屏画の画題は、後の時代のような勇壮なものではなく、宋・明画の伝統も引いた緻密な絵で、それを極彩色で描いた所に特徴があった。これは宋・明画や水墨画を愛好する都の公家とその公家文化に憧れた武家の好みに応じたもので、安土桃山時代の狩野永徳などが描いた勇壮なものとは異なっていた。要するに画題は、それぞれの時代にこのような障屏画を必要とした人々の好みに応じたものだったが、技法そのものは室町中・後期に生まれていたのだ。

(4)バサラと風雅の共存

 また安土桃山文化と室町文化は、「バサラ」と「風雅」という対極的な傾向を内包していた点でも同質の文化であった。ただし安土桃山時代の派手で豪華な傾向はバサラとは呼ばれず、「かぶく」(傾く)と呼ばれ、偏ったという否定的な評価を内包するものであるが。
 安土桃山時代の障屏画でも、勇壮で華麗な画題の絵があるかと思えば、純粋に水墨画の伝統を引いたものもあり、これは狩野派でも両方の画題の絵を制作していた。要は絵の置かれる場の役割によって画題は使い分けられていた。
 そして「わび・さび」の象徴とされる茶の湯においても、二つの傾向は並存していたのだ。
 そもそも茶の湯そのものが最初は、室町時代初頭のバサラの時代に、闘茶という、唐様式の建物の中の唐渡りの品物で飾られた部屋において、唐渡りの服を着た人々が、様々な茶の香りと味で茶の銘柄を当てて競う、バサラ的な文化として始まった。そしてバサラと雅の相克の中で風雅というあらたな美意識が生まれる中で、次第に床の間の前に大きな花瓶に背の高い花を飾った立花などで飾られた書院造りの座敷での喫茶へと変化し、この延長上に、都市を離れた田舎の草庵を模した茶室での喫茶という侘び茶が生まれたことは、すでに中世編で記したところである。茶の世界にもバサラと風雅が並存していたのだ。
 この「バサラ」を代表する茶の湯を象徴するものは、秀吉が大阪城に作ったという金張りの茶室や醍醐寺で開いた大茶会であり、特に後者の醍醐の茶会は、茶の心を解するものであれば庶民の茶人でも参加することを許されたほど、大衆的で派手な行事であった。そして「風雅」を代表するものはこの時代に侘び茶を大成させた千利休の待庵であるが、これももともとは秀吉が淀城に作らせたものであって、同じ秀吉と利休が、目的に応じて「バサラ」の茶会と「風雅」の茶会を使い分けており、それぞれの目的にあった茶室を作ったということを意味している。そして千利休の侘び茶にもバサラ(かぶく)の傾向は内包され、彼はこれまでに積み上げられた伝統としての美を彼自身の美意識に基づいて破壊してしまったのだ。この意味でもバサラと風雅の二つの傾向は一体でもあった。
 また桃山文化を担った天下人は、その城郭の大広間に立花を飾るようになり、この傾向が公家社会にも受け入れられ、このため立花は前代以上に華麗で大型のものに変化した。この大型で華美な立花を世に出したのは、京都六角堂に付属した芸能者の伝統を引く初代池坊専好であり、彼は1599(慶長4)年に、洛東大雲院の落慶法要に際して門弟100人余りを具して百瓶華会という大花会を行い、ここには大勢の僧侶を中心として武士や町衆も参加した。この時代の立花は後代のものとは違って、美しい豪華な花を立てることを競い、その出来映えの優劣を競うコンクールでもあったのだ。この豪華な立花は次ぎの江戸時代寛永年間に活躍した2代専好の時代に確立し立花(りっか)と呼ばれるようになり、宮中や寺院そして天下人の城郭などで、盛んに花会が開かれて行ったのだ。この立花(りっか)は花におけるバサラ(かぶく)の傾向を代表している。
 そして花の世界でもバサラな豪壮な傾向と同時に、風雅をめでる密やかな美をもとめる傾向もまた並存した。それが茶の湯の世界におおいに取り入れられ、侘び茶を代表する簡素な茶室の床の間にそっと置かれた小さな花瓶に、1輪の花をそっと生けた抛入花(なげいれはな)がそれであった。
 さらに天下人が愛好した能もまた、室町時代のバサラの時代に生まれた派手な身体表現の芸能として生まれ、それがしだいに雅の傾向を帯びて、義満の時代の世阿弥から彼の後継者たちの時代に、幽玄能として大成されていったものであることは、中世編ですでに見たとおりである。この民衆文化と公家文化とが結合して、上は天皇・公家・将軍・大名から、下は村の百姓たちにいたるまで愛好されていた集団芸能としての能(前代のバサラな能と幽玄能とが並存していた)に、天下人たちもまた惹かれたし、この芸能で自らの身体を飾ったのである。
 安土桃山文化が、豪華で勇壮なものを数多く作った反面、侘び茶に代表する静かな美を堪能するものをも持っていたことは、これも室町文化そのものを継承したものであったのだ。

(5)前代の文化を利用したわけは

 ではなぜ統一権力の主たちは、前代の文化を利用したのか。
 これは当たり前のことである。
 安土桃山時代はわずか20年ほどの期間であって、独立した一つの時代というより、江戸時代の寛永から元禄にまで至る、中世から近世への過渡期の一部であった。従って政治の面でも文化の面でも、伝統的な権威を擁していたのは、京都の公家集団であった。だから新たに武家階級を統一した力で天下に君臨した天下人は、彼らの治世に正統性と権威を与えるためには、伝統的権威に依拠するしかなかったのだ。
 信長や秀吉や家康が、その政治的行動をまっとうするために、天皇を頂点とする公家の権威に依拠し、その政治的伝統を利用したのはそういうわけであった。そして文化は常に権力者の統治に利用される。しかし新興の武家階級はまた、公家の文化に代る文化は持ち合わせていなかった。だから当然彼らは、先行する公家の文化でその身を飾ろうとしたのだ。
 それに室町時代は彼らにとっては同時代か、ちょっと前の時代に過ぎない。
 濃絵が生まれた時代は、彼らから見てもわずか50〜70年前のことでしかなかった。同時代といってよいほどの時期である。さらに大きな襖絵や障子絵・屏風絵が生まれた義政の時代も、わずか100年前のことでしかない。そして「バサラ」な黄金と唐渡りの文化で身を飾った武家と公家との上に君臨しようとした足利義満の時代も、たかだか150年ほど前の時代でしかなかったのだ。
 また安土桃山時代の社会が形成されたのも、室町中・後期戦国時代であった。
 政治史的には、信長が京都に進出して以後は、近世という新しい時代の始まりと見て間違い無いし、過渡期という新しい時代の始まりとして良いであろう。しかし文化史を政治史に直結させてしまうと、歴史の連続性は見えなくなる。この意味で安土桃山文化は、室町文化の継承であり、その主たる特徴は室町文化そのものなのだ。
 では安土桃山文化には、次ぎの新しい時代の文化の特徴はなかったのだろうか。当然新しい時代の息吹は反映されていた。その一つは「かぶく」に代表される大衆化の傾向であり、二つ目は「かぶく」と結合した南蛮趣味の横行。さらに三つ目は、公家層を中心として古典の復興が行われていたことであり、この三つの傾向は次ぎの江戸時代の寛永文化や元禄文化に継承され、そこで花開くこととなったのだ。この点については項を改めて論じて見たい。

:05年8月刊の新版の「桃山文化」の項目の記述は、全体としては旧版そのままである(p98)。改訂されたところは、標題が「大名と大商人の文化」を改められたところと、豪華で派手な文化が好まれた反面で愛好された風雅やわび・さびの文化の並存状況を、「他方で心のやすらぎを求め」と理由付けしたことである。しかし上に述べたように、能での茶の湯でも、バサラ(かぶく)の傾向と風雅・わび・さびの傾向は両者ともに内包し一体のものであり、このような説明はかえって蛇足というべきであろう。また旧版にあった多くの誤りも新版ではそのまま継承されている。

:この項は、戸田禎佑・脇田晴子構成「ジパンング国、金閣―国王義満の宝物」(1990年角川書店刊・歴史誕生第5巻所収)、熊倉功夫著「遊芸の世界―茶の湯といけばな」(1993年中央公論社刊・日本の近世第11巻「伝統芸能の展開」所収)、倉地克直著「江戸文化をよむ」(2006年吉川弘文館刊)、小学館刊「日本大百科全書」と平凡社刊「日本史大辞典」の当該の項目などを参照した。


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