「新しい歴史教科書」ーその嘘の構造と歴史的位置ー

〜この教科書から何を学ぶか?〜

「第3章:近世の日本」批判9


9:近世文化の始まりとしての桃山文化

 「安土・桃山の文化」の全体的な特徴を記述した「桃山文化」の項に続いて、教科書は、「庶民の生活」「南蛮文化」の2つの項を載せている。ここは桃山文化とは別個の内容ではなく、桃山文化の諸特徴を述べたところなので、一括して考察しておこう。

(1)大衆文化の登場

 桃山文化の特徴の一つは、大衆自身が新たな文化を創造しはじめたことである。「つくる会」教科書の「庶民の生活」は、おそらくこのことを意識して記述したものであろう。教科書は以下のように記述している(p123)。

 時代の気風を反映して、庶民の間でも現世を楽しむ開放的な文化が花開いた。人々は、色とりどりの衣服を身にまとい、小唄や踊りに興じた。庶民は麻にかわって木綿の衣服を着るようになり、小袖が一般的となった。
 17世紀のはじめには、出雲(島根県)の阿国という女性が始めたかぶき踊りが大流行し、のちの歌舞伎へとつながっていった。また、琉球から伝わった楽器をもとに三味線がつくられ、これに合わせて語る浄瑠璃が広まった。浄瑠璃は、その後、人形あやつりと結びついて人形浄瑠璃となった。

 江戸時代「大衆文化」を彩る歌舞伎と人形浄瑠璃の始まりが、安土・桃山時代にあったことを記述したものであり、この「大衆文化」を生み出した背景が、庶民にも広がった「現世を楽しむ開放的な気風」にあったことを示したものである。

@戦国の世に始まる現世肯定思想の継承

 しかしこの傾向は、何も安土・桃山時代になって始まったものではない。「現世を楽しむ気風」は、室町時代にすでに生まれていた。この教科書でも、中世の23「室町の文化」の「今日に伝わる生活文化」の項で、民衆の間にも集団で楽しむ文化が起こったこと、町や村にも能や狂言、茶の湯や連歌が楽しまれ、御伽草子絵本や村祭り・盆踊りといった今日まで伝わる文化が広がったことが記述されている。そしてかぶき踊りは、のちに盆踊りと呼ばれるようになった風流(ふりゅう)踊りから生まれたものであり、浄瑠璃はまた平家琵琶から生まれたものであったのだ。
 安土・桃山文化における大衆文化の登場は、室町・戦国時代に広がった気風を継承したものであり、かぶき踊りや浄瑠璃自体が、戦国時代に生まれた文化の発展継承であったのだ。そして室町・戦国時代は、人間主義=現世肯定の思想が広がった時代であり、国の平和を求める動きがふつふつと生まれて戦国大名による領国の平定を促し、これを背景として現世の捉え方が、憂世から浮世へと転換して行ったことについては、中世編の23・24・25の各項で述べたとおりである。
 この現世肯定主義=人間主義思想を体現する文化的行動こそが、南北朝・室町初期に流行したバサラであり、このバサラの思想は、伝統的な権威や価値観の一切を解体しつくそうとする傾向を孕んでいた。そしてこのバサラな傾向は、伝統的な権威である公家・寺社の権力と権威と闘争しながら室町・戦国時代を通じて生きつづけ、この思潮の大衆的な広がりこそが、伝統的な権威・権力の解体による平和の実現を希求し、織田・豊臣・徳川による領主階級の統一に基礎を置く「法の下における平和」の体制の確立の基盤であったことは忘れてはならない。

A風流踊りの「現代的体現」としてのかぶき踊り

 このバサラ思想を体現する大衆芸能として発展したのが、風流踊りであった。
 風流踊りは盂蘭盆会や悪霊退治としての御霊会に際して行われる踊りであり、人々が顔に仮面をつけて派手な衣装を身に着け、激しく歌い踊る集団芸能であった。そしてこの踊りはまた人々の階層を超えて楽しまれたものであり、踊り手の主体は村や町の庶民ではあったが公家や武家もまた参加し、しばしば風流踊りの隊列は、村や町の鎮守の社と同様に、村や町の領主である寺院や公家の屋敷の内にも乱入し、悪魔払いと称して、一切の権威を溶解する坩堝に投げ込む集団的高揚を生み出す場でもあった。
 かぶき踊りは、この風流踊りを母体として生まれた。
 その始まりは、16世紀後半に流行していた「ややこ踊り」や「念仏踊り」を行っていた旅芸人集団としての「出雲のお国集団」が、その踊りに当時一世を風靡していたかぶき者を舞台に登場させたことに始まる。都市に生まれた遊興の場としての茶屋にかぶき者が現われ、茶屋の女主人と戯れるありさまを、その特徴的な衣装や仕草に至るまで忠実に舞台上に再現したものを、踊りをまじえて興行したものであった。そしてそのかぶき者を男装したお国自身が演じ、茶屋女は女装した狂言師が演じるのであるから、彼女たちのそのいでたちそのものがかぶき者の風体であり、彼女たちの踊りの掛け声そのものも、「いざやかぶかん、いざやかぶかん」という囃子声とともに集団的喧騒へと至るもので、それゆえかぶき踊りと呼ばれたのであった。
 また彼女たちの芸能が上演された場は、当初は北野社などの寺社の境内であったが、後には京都の異界との境界としての四条河原に移されて評判をとり、この芸能の評判は公家や武士にも及び、1603(慶長8)年には宮中の女院の御所においても上演され、記録に残されることとなった。
 このかぶき踊りがその母体となった風流踊りと異なる点は、仮面をつけないことと、芝居小屋における舞台上の踊りへと変化させていたことである。つまり、風流踊りで人々が仮面をつけることで日常とは異なる異空間に身を置いて、日常を縛る一切の権威から離脱していた場の設定そのものを解体し、仮面をつけずに踊ることで、日常そのものを一切の権威が解体された空間に移行させる。そしてその場として、能舞台に範をとった舞台を芝居小屋にしつらえて、その限られた空間において権威が解体された異空間を出現させる舞台芸術でもあった。したがってその伴奏も能や狂言と同じく、笛・小鼓・大鼓・太鼓であり、この点でもかぶき踊りは、秩序化された舞台芸術の方向を目指していたのである。
 この意味でかぶき踊りは、風流踊りとして社会に噴出していた現世肯定=人間主義思想を、社会の限られた空間における芸能へと縮小しようとする、社会が秩序化される「現代」における、バサラ思想の社会的表現であったのだ。そして社会が秩序化されるに従って、一切の権威を解体するバサラ思想は次第に反体制的・秩序的評価付けがされていくようになり、「傾く(かぶく)」=偏ったという否定的な意味付けがされていったのだ。かぶき踊りは、古い時代を解体したエネルギーが、新しい秩序の下に包摂されていく過程で生まれた過渡的なものだったのだ。

B現世肯定主義の体現としての人形浄瑠璃

 室町・戦国時代における現世肯定=人間主義思想の継承と言う点では、浄瑠璃・人形浄瑠璃もまた同様な性格を持っていた。
 語り物としての浄瑠璃は、16世紀初頭・戦国時代にはすでに生まれていた。当初は伴奏楽器はなく、扇子で床をたたいて調子をとって語るものだったようだ。それが流行する過程で、琵琶法師が余技として琵琶を伴奏にして浄瑠璃を語るようになり、やがて琵琶法師が琵琶を琉球から伝来した三味線に持ち替えて伴奏するようになり、同じ時代に流行したくぐつの人形あやつりと結びついて人形浄瑠璃となり、一世を風靡するようになったものであろう。16世紀の末には、豊臣秀吉が人形浄瑠璃の興行を京都四条河原に移していることから、それ以前にはかぶき踊りと同様に、寺社の境内に上演されていたものにちがいない。
 そしてこの語り物が浄瑠璃と呼ばれるようになったのは、最も好評を博した演目が、浄瑠璃姫物語であったからだ。
 この物語は、奥州に金売り吉次に連れられて下る途中の牛若丸が、三河国(愛知県)矢矧(やはぎ)の里で長者の娘浄瑠璃姫を見そめ、一夜の契りを結ぶ。そして旅を続けた牛若が蒲原(静岡県)で病に倒れ、吹上の浜に捨てられるが、薬師十二神の申し子であった姫が正八幡のお告げによってかけつけて牛若を救う。牛若は自分の素性を明かして再会を誓い、姫を天狗に送らせて自分は平泉に向かうというものであった。つまり神仏のご加護によって人が立身出世するという御伽草子に特徴的に見られる物語であり、同時に御伽草子にもよく見られる恋愛話でもあった。そしてこの物語における神は、人に神罰を下す恐ろしい存在ではなく、人に幸福をもたらす福の神になっており、宗教が現世肯定=人間主義となっていた室町・戦国時代の気風をよく示すものである。この御伽草子の物語が、琵琶を伴奏にして語られ、やがて遊芸の民であるくぐつのあやつる人形芝居と結びついて小屋がけして上演され、上演の規模が大きくなるにつれて新来の大きな音のでる三味線に伴奏が変わって、人々の人気を博したものであったのだ。
 またこの人形ははでな唐渡りの織物で彩られたものであり、琉球渡りの三味線の伴奏といい、人形浄瑠璃そのものもまた、時代の南蛮趣味・現世肯定思想を体現するものでもあったのだ。
 さらに、御伽草子が語りや人形芝居で流行したのには理由がある。
 なぜならばこの時代にはまだ、近世におけるような木版による大衆的な出版文化が成立していなかったからだ。
 たしかに一部には、奈良絵本と呼ばれる御伽草子に手書きの彩色した挿絵を添えた絵本が流通してはいた。これは中世以来の絵巻物の伝統を引いたものであったが、部数が限られていたため、絵草紙は一般の家には置けない貴重なものであった。だからこそ御伽草子を台本として、語りや人形劇として流布させる基盤があったわけである。

 江戸時代の「大衆文化」を彩る歌舞伎も人形浄瑠璃も、安土・桃山時代に生まれたものではあった。しかしこれは、この時代に突然生まれたものではなく、室町・戦国時代の時代の基底を流れ続けた現世肯定=人間主義思想の発露としての大衆芸能の伝統を引き、その伝統の中で生まれたものであったのだ。この意味で安土・桃山文化における大衆文化の発展も、室町時代文化の継承であったのである。だがこれらは室町・戦国時代の大衆文化とは異なる様相を持ち始めていた。それは風流踊りが、悪霊払いという特殊な時におけるものではあったにしても、踊りの場を村や町の日常の生活空間そのものを展開の場としていたのに反して、かぶき踊りが芝居小屋における舞台芸術という形で、日常から隔離された、遊芸の場に押し込められた形態をとっていたことによく示されている。つまりこの大衆芸能が背後に持っている現世肯定=人間主義の思想が既成の権威や秩序を解体するエネルギーを秘めているのを、秩序化された社会の片隅の遊芸の場に限定し、体制内化された芸能に極限するという傾向である。
 この意味で安土・桃山文化における大衆文化の登場は、近世江戸時代文化のもつ性格を併せ持っていたと言えるのである。

:「庶民の衣服が麻から木綿にかわった」ことについては、服飾革命として大事件であるが、ここで論じると煩雑になるので、輸入品であった綿織物が自給できるようななった意味も含めて、江戸時代の百姓の暮らしや産業の所で検討したい。

(2)南蛮文化の流行

 安土・桃山時代は、これまでの中国・朝鮮文化に加えて、始めて東南アジアやインド、そしてヨーロッパの文化が日本に流入した時代であり、これらをもたらした西洋人が東南アジアの拠点から来航した故に南蛮人と呼ばれ、これらの文化全体が南蛮文化と呼ばれたわけである。
 「つくる会」教科書は、この南蛮文化について次ぎのように記述している(p123)。

 日本と西洋の交流が始まり、南蛮貿易や宣教師たちの布教活動がさかんになると、天文学や医学、航海術などの学問、技術が伝えられた。西洋の活版印刷術も伝わり、キリシタン関係の書物の印刷に使われたが、日本語に合わず定着しなかった。西洋画の技法を用いて南蛮屏風がえがかれたほか、南蛮風の衣服を身につける人もあらわれた。パン、カステラ、カッパ、カルタ、たばこ、時計、オルガンといった現在でも身近な品々が日本に入ってきたのも、このころである。このような西洋から新しく伝わった文化を、南蛮文化とよぶ。

 しかしこの記述では、あまりに不充分であり、かつ間違いも含んでいる。
 この記述の間違いは、南蛮文化を西洋から新しく伝わった文化であるとして、両者を等しいものとしていることである。実は南蛮文化と呼ばれたものには、西洋文化ではないものも含まれていた。実際には中国や東南アジアやインドから南蛮人と呼ばれた西洋人がもたらした文物全てを含めて南蛮文化と呼んだことを、この教科書の記述は無視している。
 また教科書の南蛮文化に関する記述では、それが日本文化にどのような影響を与えたかが明確ではなく、南蛮文化という新しい外来文化がもたらされたことの意味もまた記述されていない。
 特にこの後者の観点が大事であろう。
 なぜなら日本文化は、古来、外来文化の深い影響の下で発展してきた。そして日本文化形成に大きな影響を与えてきた文化は、朝鮮文化であり中国文化であった。この意味で外来文化がもたらされること自体は、なんら特異なことではない。しかし南蛮文化の問題で大事なのは、ここで始めて朝鮮・中国以外の文化がもたらされたことである。この新来の文化がどのように日本に受け入れられたのかまた受け入れられなかったのかは、近世という新しい時代の性格を考える上で、不可欠の問題である。

@多様な外来文化としての南蛮文化

 南蛮文化とは、西洋人がもたらした多様な外国文化の総称だったのだ。そしてこれは、教科書の記述でも伺える。
 タバコはたしかに西洋人がもたらしたもので、タバコのアジアでの栽培は、1571年にスペイン人がフィリピンのマニラに持ち込んだのが最初であり、日本には慶長年間(1596〜1614)に薩摩(鹿児島県)の指宿に伝えられ、その後全国に栽培が普及し、喫煙の習慣は庶民に至るまで広がった。しかしタバコの栽培と喫煙の習慣そのものは西洋文化ではない。南米のインディオの習慣が西洋に普及したものである。
 また南蛮文化と呼ばれたものに、インド産の更紗という極彩色にプリント柄で彩色された綿織物があり、安土・桃山時代から江戸時代にかけて、日本の庶民に至るまでに衣服として流行した。さらに、この時代に新たにもたらされたものに、砂糖と南蛮菓子の伝来とともに普及した砂糖漬けがあるが、砂糖そのものはインド原産で世界に広がったものであり、日本にこの時代に輸入された砂糖は、中国南部で栽培加工されたものであった。そしてこれ以外にも、さつまいも・かぼちゃ(南瓜)・すいか(西瓜)・とうがらし(唐辛子)・落花生・とうもろこし(玉蜀黍)などの東南アジア産の作物ももたらされて日本で栽培されたし、茶道具として珍重されたルソン壷はも東南アジアの日常雑器であった。
 つまり南蛮文化とは、南蛮人と呼ばれた西洋人が新たに持ち込んだ全ての文化を指すのであり、その中には、西洋起源ではなく、アメリカやインド、東南アジアや中国から新たにもたらされた文物全てが含まれていたのだ。

A南蛮趣味の横行

 そして当時の日本人の間には、南蛮趣味と呼ばれるほど、新来の外国文化への憧れと愛着が生まれていた。
 例えば前の項で見た金張りの襖絵や屏風絵でも、南蛮屏風と総称される一群の屏風が伝えられているが、その図柄は南蛮人が帆船で来航した様子とそれを迎える日本人、そして南蛮寺などを中心として南蛮人の風俗を描いたものであった。またこれは当時の大名などが競って狩野派の絵師に注文して書かせたもので、秀吉の朝鮮侵略に伴って肥前名護屋に下った絵師たちが、その帰途に長崎や博多に立ち寄って実物を見物し、京の工房で描いたものだという。
 そしてこの南蛮人の風俗やそれがもたらした文物への愛好は、美術の世界に広まり、西洋風な意匠による漆器、陶器、金工品などがつくられた。とくに漆工芸では南蛮漆芸とよばれる技法が流行し、南蛮人の風俗や葡萄唐草などの文様を描いた作品が数多く残され、同じ傾向は、織部焼きで南蛮意匠が用いられたり、ローマ字を透かしたり象嵌したりした刀の鍔がつくられるなど、美術品の意匠として、南蛮風が好まれた。
 さらにこの南蛮趣味は美術だけではなく、当時の日本人の生活の隅々まで広がっていたことは、南蛮渡来の文物がその後の日本文化へ与えた影響の中に見て取れる。
 南蛮文化の影響が大きい分野の一つに衣服がある。
 先にプリント地のインド更紗が流行したことを見たが、このプリント印刷技法によって彩色された綿織物の流行は江戸時代を通じて広がり、オランダ東インド会社は、日本人が好む文様をプリントした更紗をつくる工場すら持ち、日本に大量に輸出された。そして日本各地でこの技法を模した和更紗まで生み出して行くのだ。さらにビロードもこの時代にもたらされ、慶安年間(1648〜52)になってオランダ製品を模して織り始められた。また西洋式の衣服との出会いが日本人の衣服にも変化をもたらし、西洋人の半ズボンに模して馬乗り袴を簡易化させた「かるさん」と呼ばれる行動的な袴が作られ、江戸時代初期までは武士の日常着として用いられ、のちには職人など庶民の労働着となっていった。さらに防寒着と雨具を兼ねた衣服として合羽があるが、これも伝来当初は「南蛮蓑」と呼ばれ、当初はビロードや羅紗で作られた高級品であったが、後に紙や木綿でつくられて庶民にも普及した。
 さらに南蛮文化の影響が大きい分野に、食文化がある。
 教科書の記述にもあるカステラは、1556(弘治2)年にポルトガルの宣教師が、長崎県の平戸に医療とともに伝えたといわれているが、慶長年間(1596〜1615)には一般に広まり始め、茶席の菓子にも用いられ大流行した。当時のカステラは伝来当初のバターや蜂蜜は使われず、小麦粉、鶏卵、白砂糖でつくられた和菓子へと転身したものである。また南蛮渡来の菓子として伝来して日本に普及した菓子としては金平糖があるが、他にも福岡県博多の鶏卵素麺、佐賀の丸芳露(まるぼうろ)、京都の蕎麦ほうる、愛媛県松山のタルト、広島の和蘭ばってん棒なども有名であり、南蛮菓子とともに伝来した砂糖漬けの技法は、各地のさまざまな菓子を生み出している。
 このように南蛮文化は南蛮趣味として、日本人の日常生活に大きな影響を与えたのだ。
 ただし語源がポルトガル語やスペイン語にあると考えられるからといって、この時代に日本にもたらされて広がったものと即断してはいけない。カルタは江戸時代初期にオランダ人が伝えたトランプから派生した「うんすんかるた」が始まりであり、その発展変形として花札があるといわれているが、中国伝来のものとの説もあって確認できない。また教科書に記述されたパンも、たしかにこの時代に伝来したのだが、製法を日本人が知ったのは江戸時代の長崎オランダ人からであり、結局江戸時代においては日本ではパンは普及していない。 

B持続した西洋の科学・技術・思想への関心

 だが、技術や科学の面では、南蛮文化の影響は限られたものであった。
 最も大きな影響を与えたのは武器であった。先に見たように、鉄砲と火薬は伝来後ただちに日本でも国産化され、武器として用いられ、輸入された西洋式の鉄造りの鎧や兜も、鉄砲や矢・槍に対する防御機能の高さから、日本でも南蛮具足として使われ自作された。そしてこのような大量の鉄を使用した武器が盛んに使われるとともに、日本の製鉄産業を急速に発展させたのだ。
 さらに西洋技術が大きな影響を与えた分野は、鉱山技術であった。南蛮吹きといって、銀を含む粗銅に鉛を加えて溶解させ、鉛と銀が化合したものを分離する方法が戦国時代後期に伝えられた。そしてこの含銀鉛を灰吹き法で精錬して銀を取り出すものである。この技法が日本で広く用いられ、江戸時代に輸出される銀・銅の多くはこの方法で作られた。また佐渡金山では、細長い筒の中にねじ状の深い溝を掘り込んだ軸をぴったりはめ込んで回転させて水をくみ上げる「アルキメデスポンプ」が1637(寛永14)年に導入されて竜尾車、水上輪などとよばれ、その後農業用にも普及した。
 しかし、その他の日常生活においては、西洋の技術は大きな影響を与えなかった。それは一つには、使われる文化環境が日本と西洋では異なっていたからだ。例えば時計は、伝来当初は天下人などの日常を飾る舶載品として珍重されたが、日用道具としては使われなかった。なぜなら日本と西洋とでは時刻制度が異なったからである。西洋は機械時計の発明で定時法へと変化したが、日本は日の出・日の入りを基準にして時刻を分割するために、一時の長さが季節によって異なっていたため、西洋の機械時計はそのままでは使えなかった。それを江戸時代に職人が工夫を重ねて様々なからくりを施して日本でも使える和時計を生み出し、この技術は後に、からくり人形をつくる技術としても応用されたが、この機械技術が社会に大きな影響を与えたのは、明治の日本になってのことである。またキリスト教とともに伝来したオルガンなどの楽器も、一時は教会におけるミサで使われるだけではなく、天下人や大名の前で演奏されたこともあったが、教会音楽の伴奏楽器として受容されたこれらの楽器が仏教界などに受容されることは無く、キリスト教の禁教・弾圧とともに姿を消して行った。
 上の例でもわかるように、キリスト教とともに伝えられた諸科学や技術は、日本人の生活にはあまり大きな影響を与えなかった。それは文化環境が異なっていたことと、その科学や技術は、キリスト教禁令とともに一旦は廃れてしまったからだ。しかし、江戸時代を通じて西洋の科学・技術への関心は持続され、長崎のオランダ人との接触を通じて徐々に伝えられ、18世紀の中ごろ以後になると天文学を始めとして多いに活用されていった。
 そしてキリスト教の教理を中心とした宗教・哲学もまた、直接的には日本の文化に影響を与えはしなかった。それは、当時の日本が神国思想と一体となった「日本教」とも呼ばれた神道・仏教思想によって大名領国や統一政権が形成される時期であったために、この思想と正面からぶつかるキリスト教思想が嫌われ、その広がりを政治的に阻止されたためであった。このためこの思想を伝える技術として導入されたグーテンベルグ式の活字印刷法も、布教のための様々な書物を印刷するためには大いに利用されたが、宣教師の国外退去と共に印刷機・印刷技師も国外に持ち出され、日本語に翻訳されてローマ字表記されたイソップ物語が、異国における教訓仮名草紙の「伊曾保物語」として普及した以外には、日本の出版・印刷文化にはほとんど影響を与えなかったのだ。
 しかし100万にも及ぶ日本人がキリスト教に改宗し、その思想に深く帰依したということが、日本人の思想に影響を与えなかったわけはない。これは西洋の科学・技術に対する関心がその後も持続したことに良く示されている。この点は、のちの江戸時代の文化の所で、再度見ることとしたい。

C世界の中心としての中国文化の相対化の始まり

 最後に、大事な問題を論じておこう。それは、なぜ当時の日本人が南蛮文化を積極的に受容し、後のキリスト教禁教令や「鎖国」の実現によっても、南蛮文化・西洋文化への関心を失わなかったのはなぜであろうか、という問題である。
 従来は南蛮文化の広がりは、日本人は新しいもの好きだからという文脈で語られることが多かった。しかし南蛮文化との出会いは、日本人が倭寇的世界を拡大する中で起こったことであり、このこと自体に意味があるのだ。
 それは一つには、世界観の変化・拡大である。
 日本人の持つ世界観は、仏教的な宇宙観と密接に繋がった、中国・天竺・日本という3国からなる世界観であった。そしてこのうちの天竺は地理的にも文化的にも観念的な位置に止まり、世界の中心は、仏教的世界観の須弥山であり、現実的な世界の中心の位置には、日本よりもはるかに高い文化を持った中国が位置していた。そして日本は中国という文明の周辺の東の海の中に浮かぶ小さな世界の辺境の島国に過ぎなかった。
 この日本人の世界観が変化し始めたのは、室町時代であり、この時代を通じてしだいに日本は、世界の辺境から世界の中心へと移動し始めた。日本を中心とする華夷秩序の形成であり、朝鮮や中国を日本に臣従すべき国と認識するもので、この観念は、足利義満が明王朝から日本国王に冊封されることへの公家層の反対に直接的には示されていた。そしてこの日本を中心とする華夷秩序意識の形成は、日本がしだいに金銀銅の世界的産地となり、この国際通貨を自給できる力を背景として、文明の中枢からその文明の精華を欲しいだけ手に入れられるようになったという事実を背景としている。それは、日本人が倭寇として、日本産の金と武力を背景にして中国との密貿易で文明の産物を手に入れていた時代に始まり、日本における灰吹き法の導入によって産銀量が飛躍的に拡大することを通じて、琉球商人や中国商人、果ては西洋人までが日本の銀を求めて来航し、その代価として中国や東南アジア・インドの文物をもたらす南蛮貿易の時代。そして統一権力の朱印状という通行許可証を持った日本人の朱印船が東シナ海・南シナ海を往来して活発な貿易活動を展開する、秀吉の時代の後期から江戸時代初頭にかけての時代。こういった時代の変化を通じて日本人の世界観は変化し、現実の地理的認識においても拡大し続けたのだ。
 こうして日本人は、天竺よりももっと遠くの世界の存在を認識するとともに、これまで世界の中心と考えてきた中国とは異なった南蛮としての西洋文化が存在することを認識し、この文化もまた中国の文化とは異質な論理と技術によって組みたてられたものであることを知ったのだった。日本の経済的位置の上昇に伴って、文明の中心は中国で日本はその東の辺境という認識から相対的に自立し始めていた当時の日本人は、だからこそ積極的に南蛮文化を受け入れて行った。日本人にとっての南蛮文化とは、世界の中心としてこれまで受容し憧れてきた中国文化を相対化するものであり、これとは異なった自国の文化を形成するきっかけを作り出したのだ。
 だがこの独自の歩みは、安土・桃山時代には結実することはなかった。この時代にはまだ、中国を文明の中心からは相対化させて日本を中心とした世界を構想させ、朝鮮や中国やさらには天竺までも討ち従えようとする思想と行動を生み出しただけであり、秀吉による唐・天竺まで征服しようとする朝鮮侵略戦争が頓挫したことに象徴されるように、それが現実化されることはなかった。しかし、当初は積極的に海外に影響力を行使しようとした江戸幕府がやがて「鎖国」政策をとることで中国を中心とする世界から身を引き離し列島に篭ることで、中国からの思想的・経済的な自立は、江戸時代を通じて外国との競争に直面することなく、徐々に準備された。そしてこの中国からの自立は後に、幕末・明治維新期に再度西洋近代との出会いによる「脱亜入欧」政策として実現したのだ。その実現はずっと後のことだったのだ。
 だが日本が中国の圧倒的な影響から自立し始めた時期として、安土・桃山時代は認識されるべきであるし、その切っ掛けが南蛮文化との出会いであることもまた、もっと意識されてしかるべきであろう。
 この点で、「つくる会」教科書の南蛮文化の位置付けは、極めて不充分である。
 この会はこれまでの教科書の記述の検討でも明かなように、日本文化形成における中国・朝鮮文化の影響を過少評価し、歴史的事実とは異なって日本は昔からこれらの国から自立しようとしてきたと呼号してきた。しかし事実として日本がこれらの国から自立する歩みを見せ始めたこの時代をきちんと自覚していないことは、安土・桃山時代文化における南蛮文化の位置付けの不充分さに示されているし、次の江戸時代において、「鎖国」政策がそのような意味を持っていたことも自覚していないところにも示されている。これはとても不思議なことであるが、「つくる会」が、中国や朝鮮を蔑視するとともに、西洋をもまた蔑視していることの裏返しと考えれば、これは当然のことなのかもしれない。

(3)流入し続ける中国・朝鮮文化

 しかし安土・桃山時代に流入した外国文化は南蛮文化だけではなかった。すでに秀吉の朝鮮侵略の項でも見たように、秀吉軍は朝鮮において、徹底的な文化略奪を行っていたのであり、その進んだ文化を日本に移植させるために多数の人の拉致すら行っていた。このことは南蛮文化との出会いにも関らず、中国・朝鮮文化が相変わらず、日本人にとっての文明の中心の位置を占めていたことを意味している。
 秀吉軍が朝鮮侵略によって狙ったことの一つは、朝鮮の優れた活字印刷による大量の書籍(仏典や儒学書・歴史書などを含む)や活字と印刷技術、さらには刺繍の技術と優れた磁器を生産する技術と、これらの文化を担う儒学者や刺繍工・陶工を大量に拉致して、日本に移植することであった。そしてこの活字印刷技術によって、次ぎに検討する日本の古典文化の復興事業が支えられ、江戸時代における様々な学問の興隆や出版文化の発展を支えた。また、拉致された陶工たちによって各地で磁器生産に適した陶土が発見され、有田焼や唐津焼・薩摩焼などの新たな陶磁器生産が盛んになり、同時に中国南部景徳鎮の優れた色絵技術も導入されたことで、有田焼や九谷焼など、中国陶磁器に匹敵する製品が生み出され、中国における明から清への王朝交代の混乱期に乗じて、中国陶磁器に代って大量に西洋にまで輸出され、日本を代表する輸出品として、長崎から銀・銅の流出を抑えるのに寄与して行った。さらに、拉致された多くの朝鮮儒者たちは、各地で大名お抱えの儒者として登用されて、江戸時代における儒学の発展に大きく寄与した。その中で拉致された儒者姜はん(さんずいに亢)は江戸時代儒学の祖となった藤原惺窩と京都伏見で出会い、互いに儒学の知識を交換しあった。この出会いによって藤原惺窩は朝鮮儒学の真髄を会得し、江戸時代を代表する多くの儒者を育てることになったのである。
 また秀吉による朝鮮侵略によって明が朝鮮への継続的な大軍の派遣を余儀なくされたことは、この帝国の衰退を招き、アジア貿易によって力を蓄えた満州女真族による明の倒壊・清帝国の建設へと推移する。この過程で、多くの明王朝の文人・官僚が国家再興を狙って日本に亡命し、この人々が日本に明・清文化を新たにもたらし、これが日本に大きな影響を与えることとなった。この点については、後の江戸時代・元禄文化と諸学問の興隆のところで項を改めて見ておきたい。
 要は、この時代は、南蛮文化を通じて西欧文化が流入したが、日本が文明とあおぐ文化は相変わらず中国文化であり、朝鮮文化であったことは忘れてはならない。

(4)公家階級による伝統文化の復興

 最後に教科書にはまったく記されていないが、安土・桃山文化の特徴の一つに、日本の古典文化が研究され、伝統として再解釈・復興されていたことを挙げて置こう。そしてこの文化活動は、京都における公家階級の文化サロンを通じてなされており、ここにも茶の湯や立花と同様に、京都の町衆が密接に関っていたのである。
 日本の古典文化の研究が始められたのは、関白豊臣秀次の下においてであり、同じく後陽成天皇の下においてであった。そしてここで研究されたのは、和歌や有職故実であった。それは、秀吉政権が天皇の命によって天下を統治するという「王政復古」の形態をとったことから必然的に起こったことであった。またこの活動は、天皇を中心として、和歌や有職故実に詳しい公家衆が参集して行われ、そこに武家の中でも和歌や有職故実に詳しい、例えば細川幽斎なども参画して行われたものであった。
 こうした準備を経ながら、秀吉政権や江戸幕府の下で、朝廷行事が徐々に復興され、公家衆に和歌や学問を教習する学問所も設置されていったのだ。
 またこの公家衆を中心とした古典の研究におおいに寄与したのが、朝鮮からもたらされた活字印刷技術であった。
 1593(文録2)年9月、豊臣秀吉は戦利品として接収した活字と印刷器具を、ただちに後陽成天皇に献上した。そして天皇は早速、側近の西洞院時慶らに命じて、この活字で「古文孝経」を印刷し、続いて、足りない活字を木活字で補って慶長年間に、「錦繍段」「勧学文」「日本書紀神代巻」「大学」「職原抄」「白氏五妃曲」「孫子」「資治通鑑」「十八史略」などを印刷して行った。これらが和漢の歴史・有職故実・詩文などであり、「王政復古」に資するための資料としての性格を持っていることは明らかである。またこの出版活動は次ぎの後水尾天皇の代でも続けられ、1621(元和7)年には「皇朝類苑」全78巻15冊が印刷刊行されている。
 そして活字による古典の刊行は徳川家康も行った。家康は京都に足利学校の分校・伏見学校を興し、1599(慶長4)年の「孔子家語」をかわきりに、以後8年間にわたって、「三略」「六韜」「貞観政要」などを刊行している。また将軍職を譲って駿河に引退した後には、新たに中国人の林五官に金属活字を鋳造させて活字を補い、儒書・軍書・史書などの大規模な刊行を計画した。この計画は家康の死によって中断したが、1614(慶長19)年には「大蔵一覧」全10巻と「群書治要」全50巻が刊行されている。
 こうして国家統治に必要な有職故実や歴史・仏典・儒学書などが次々と刊行され、刊行に並行してその研究も盛んになったことは、江戸時代における諸学の興隆の基礎を築き、江戸時代を通じて長崎で中国や西洋の学術書が大量に買い求められ、学問を発展させるもととなったのであった。そしてまた上の諸本の刊行に携わった公家や僧侶、そして寺院に付属した書店が、次ぎの時代における学問の興隆と出版文化の興隆に多いに寄与することとなる。それは、勅版の出版に寄与した中院通勝や烏丸光広らが、京都町衆の角倉素庵や本阿弥光悦らと結びつき、慶長年間から寛永年間にかけて、「嵯峨本」「光悦本」と呼ばれる豪華装丁の活字印刷の本を出版し、そこでは、「源氏小鏡」「方丈記」「徒然草」「観世流謡本」「古今和歌集」「二十四孝」「三十六歌仙」などの古典文学が刊行され、古典文学研究や仮名草子などの新しい文学の創造・出版へとつながって行く。
 こうして秀吉による「王政復古」は、日本伝統文化の復興や諸学の興隆に寄与し、近世の文化の基礎となっていったのだ。
 ここでも安土・桃山文化の担い手は、従来のような大名・町衆という固定観念に依拠した認識とは異なって、京都を中心とした公家衆と彼らに密接に結びついていた町衆・諸職人・芸能者がになっていたのであって、そこに天下人をはじめとした新興の大名層が結びついたものであることが、しっかりと示されていた。

:ここでも中世の室町時代の文化に続いて、仏教を中心とした宗教の問題が除外されている。しかしここで改めて論じると煩雑であるので、次ぎの江戸時代文化・元禄文化のところで、宗教の動向についてまとめて検討することとする。

:05年8月刊の新版の「庶民の生活」「南蛮文化」の記述(p98〜99)は、旧版とまったく同じであり、ここで示した問題点はそのまま引き継がれている。

:この項は、鈴木敏夫著「江戸の本屋」(1980年中央公論新書刊)、藤本幸夫著「印刷文化の比較史」(1993年東京大学出版会刊・「アジアの中の日本史」第6巻「文化と技術」所収)、熊倉功夫編「伝統芸能の展開」(1993年中央公論社刊・日本の近世第11巻)、倉地克直著「江戸文化をよむ」(2006年吉川弘文館刊)、小学館刊「日本大百科全書」と平凡社刊「日本史大辞典」の当該の項目などを参照した。


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