【第一幕・伝えられない想い】
それから数日が過ぎた。詩織も愛も、表面的には普段と同じ様に過ごしていた。しかし、二人の心の中に、ごく小さなわだかまりが生じた事を、詩織は自覚している。
(女の友情って脆いものよね……)
詩織は悲しくなった。この世で最も親しく、互いを理解しあえると思っていた愛すらも、結局は他人に過ぎないの?
詩織には、気の許せる友人は少ない。
「きらめき高校のアイドル」
誰もがこんな風に詩織を呼ぶ。そんなイメージで詩織を見る。いくら詩織が否定しようと、そんな事は周りの人間にとって何の意味も無かった。せいぜい、“謙虚な人柄”と言う、新たな誉め言葉が加わるぐらいが関の山だ。
(みんな、私の事を特別な目で見る。距離を置いて付き合おうとする。私は普通の、みんなと同じ高校生で、いたいのに)
詩織は大きなため息をついた。彼女がフランクに付き合えるのは、今の所二人だけ。美樹原 愛と、幼馴染の本条拓也。
(そんな私の、どこがアイドルなの? 私は、みんなの“お人形”じゃないのよ)
そして今度の一件で、愛とのもつれが解消出来なければ……。
(でも、だからと言って、三島くんを諦める事なんか私、出来ない)
友情も愛情も、共に私にとって、かけがえの無い大切なもの。自分が自分で在るために。決して喪ってはならぬもの。それが、詩織の心の中にある真実の声だった。
***
「よ〜し、ラストだっ……!」
監督の声と同時に、ノック・バットが乾いた音を響かせた。白球が唸りをあげ、サード・ベースすれすれに襲いかかる。
その瞬間、既に孝祐は反応していた。間に合わない……一瞬、誰もがそう思った時、彼のグラブは、その白球を楽々と掬い取っていた。
わぁっ……
グラウンドを取り囲んでいる観客席から、大歓声が挙がる。黄色い声が圧倒的に多いが、そこにいるのは決して女子生徒ばかりではない。女子と、ほぼ同数の男子生徒が、こちらは呆然と“彼”の超人じみた動きを見守っている。
「ナイス・キャッチ!」
ショートを守る、キャプテンの山科が叫んだ。ニヤリと笑って、彼―三島孝祐―は、その賛辞に応える。そして、さっさとベンチに向かって歩き出した。
「相変わらず絶好調だな? え? 孝祐」
山科は、彼の後を小走りで追いながら、さらに言う。孝祐は、軽く肩を竦めた。「たいしたことじゃないさ」―と言う顔で、ソッポを向く。ベンチに戻ってきた二人は、下級生の手渡すタオルで顔を拭い、ホッと息をついた。練習は外野ノックに移り、レギュラー内野陣は、打撃練習の前に束の間の一服を味わう。
「今日は、特に調子がいいんじゃないか? それはいいんだけど、本番前に余り飛ばしすぎるなよ」
山科は、それとなく注意を与える。夏の甲子園の地区予選は、これからが本番だ。ここで看板打者の三島に怪我でもされたら、チームにとって大打撃になる。なるほど、それを言いたかったのか……ようやく山科の意図を察した孝祐は、笑みを浮かべたまま、ふと声を低める。
「変な所は、見せられんからな。あそこを見ろよ」
「え?」
孝祐の視線の先を追った山科は、銀杏の樹の脇に立つ背広姿の二人組を見出した。
「まさか……スカウトか?」
「たぶん、な。監督は何も言わなかったが、さっき、あの二人とこっそり話をしているのを見たんだ」
「ふーん」
山科は羨ましそうな顔をした。今年のきらめき高校の野球部員で、ドラフトにかかりそうな選手と言えば、彼、三島孝祐しかいない。しかも、まだ地区予選の最中だ。中央球界では未だ無名のきらめき高校に、スカウトがわざわざ足を運ぶとは、尋常ではない。
「それだけじゃないだろ」
側から、ファーストを守る高瀬が口を挟んでくる。ニヤついた顔で、観客席の方をあごで指す。あそこに虹野……こっちに藤崎……と、わざわざ名指しで数え上げる。
「見てみろよ。『運動部のアイドル』やら、『学園のアイドル』やら……勢ぞろいで御観戦中だ。これで張りきらない方がおかしいぜ? え、孝祐」
ニヤニヤ笑ってからかう。孝祐は、ふん、と鼻を鳴らした。
「どうって事ないさ。アイドルだろうがマドンナだろうが、見たいんなら見ればいい。俺の知ったこっちゃない」
「余裕だなあ。ま、お前にとっちゃ女の子なんてよりどりみどり、なんだろうけどな」
高瀬のやっかみ声を、孝祐は当然だ、と言う顔で軽くいなす。だが、内心は少し違った。やはり彼にとっても、学園のアイドル―藤崎詩織―は、それだけ特別な存在である。
(なるほど、今日は藤崎が来てやがる。スカウトに気を取られていて気が付かなかったが、こりゃ驚いた。……うん?)
折から吹いてきた風に、スカートの裾をそっと押さえた詩織。そのシーンを何気なく見上げていた孝祐の目が、ふと詩織の背後の、観客席のそのまた向こうに釘付けになった。
「ん? ……どした? 孝祐」
急に黙りこくった孝祐の様子に、疑問を感じた山科が声を掛ける。
「う。いや、何でもない」
「?」
山科と高瀬は顔を見合わせた。女の子の品定めをするにしちゃ、あまりに真剣な表情だ……そう思った山科は、孝祐の視線の先を追った。
スカウト達がいる木の隣りの木。その陰に一人の女の子がいる。遠くて良く分からないが、結構可愛い子だ。しかし容姿よりも、彼女を特徴付けているのは、その独特のヘア・スタイルだった。
「はは! ……何だ? あの髪型は!」
高瀬も彼女に気づいたと見えて、無遠慮な笑い声を挙げる。
「まるでコアラじゃねえか。妙な頭しやがって。あんな女、見たことないな」
確かにコアラだ……。
山科も、つい吊られて苦笑する。多分、元は普通の三つ編みだろうが、それを丸めて輪のようにしてある。それがコアラの耳のように見えるのだ。しかしただ一人、孝祐だけは笑わなかった。
「孝祐?」
「……うるさい、俺に構うな!」
吐き捨てる様に叫ぶ孝祐。そしてすぐさま、その場を離れる。後には、唖然として彼を見送る二人だけが残された。
「どうしたってんだろう?」
「ふん。エリート様の気まぐれって奴さ。放っておけよ」
高瀬は素っ気なく言った。
気まぐれ。
本当にそうなのだろうか? 三島孝祐は、確かに己の才能を鼻に掛けている部分がある。だが、今の彼の態度は明らかに異常だ。山科は、何となく心に引っかかるものを感じ、いきなり皆に背を向けて素振りを始めた孝祐の後ろ姿を眺めていた。
***
野球部の練習を最後まで見届けた詩織は、小さくため息をついてグラウンドを後にした。すでに辺りは夕闇を通り越し、頭上には星がきらめいている。
「おい、詩織!」
突然名前を呼ばれて、詩織はハッとした。振り返るとそこには、幼馴染の本条拓也が立っていた。
「たっくん……」
制服をラフに着て、お世辞にもかっこいいとは言えない彼。しかし、親友の美樹原 愛との間に、隙間風が吹きかけている今となっては、彼だけが詩織をホッとさせる存在だった。
「何してるんだ? こんな遅くまで」
「たっくんこそ……」
「僕はいつも通りさ。部室でしこしこ、原稿書いてた」
拓也はミステリー同好会の部長である。とは言っても、部員が三人しかいないのだから、部長と言ってもたいしたことはないが。
「詩織は、今日朝練だったはずだろ? 吹奏楽部。とっくに帰ってるかと思ったよ」
「……いいじゃない。暇だったから、野球部の練習を見てたの」
「ふ〜ん」
拓也はそれ以上詮索しなかった。
「ちょうどいいや。一緒に帰ろう」
二人は連れ立って歩き出した。普段の詩織なら、“噂になると恥ずかしいから”と、拓也と二人きりで下校するのを、あまり喜ばないのだが、さすがに今日は時刻が遅い。家が隣同士の拓也と、夜道を共に出来るのは有難かった。その意が表に出、彼女の方から口を切る。
「どう? あなたの小説の方は、順調にいってる?」
「ぼちぼちかな。夏休みの間には、充分仕上がると思うよ」
「ふ〜ん。じゃあ文化祭に、ちゃんと間に合うね」
きらめき高校の文化祭は十月の第一週の土曜日に開催される。拓也のミステリー研究会にとっては、会員による創作作品発表の貴重な機会だ。編集や印刷の事情も考え併せ、締め切りは二学期の始業式まで、と決められていた。
「あんな小説でもファンがいるんだから、しっかり書くのよ」
「あんな……って、ひどい事言うなぁ」
「ふふ、ごめんなさい。でも、私もそのファンの一人なんだから」
詩織は屈託のない笑顔を見せた。教室の中ではあまり見たことのない表情だ。いつも彼女は無理をして自分の表情を造っている……。拓也は内心、詩織を可哀想に思っていた。
(周囲の評価、みんなの期待。詩織はそんなものに縛られてるんだ)
分かってはいるが、拓也は敢えてそれを口にした事はない。僕が今、出来る事は一つだけ。僕と一緒にいる時だけは、自分を飾らないで済む様にしてやることだ。
その為には、拓也自身が自然体でいなければならない。思春期も半ばを過ぎ、日ごとに美しくなってくる詩織を前にしてそれは、かなりの苦痛を伴う作業ではあったが、やり通そうと拓也は決意していた。その労苦が報われる日が、たとえ永久に訪れずとも。
***
家にたどり着いた詩織は、拓也に別れを言って自分の家に入った。二階の自分の部屋へ戻り、窓の向こうに見える拓也の部屋を、ぼんやり眺める。
(たっくんといると落ち着く……)
子供の時から一緒にいるんだもん。当たり前だわ。彼とメグは私にとって、とっても大事な人達。
(でも)
詩織は窓のカーテンを閉めた。
(今、私の心の中にいるのは彼じゃない)
それは厳然たる事実だ。制服のスカーフを静かに抜き取る。私は今、その大切な人達に背を向けて、一人歩き出そうとしている。
(ごめんなさい)
私服に着替え終わり、階下に降りようとした時、詩織はすでに決意していた。
(明日、三島くんに手紙を渡そう。私の心の内を、全て綴った手紙を)
その結果がどうであろうと、決して後悔しない。例え、自分の大切なものを全て失う事になろうとも。
何故なら……。
自分の気持ちに正直になること。それが、今の私に一番必要な事だから。
詩織は、そう思った。
***
翌朝、詩織は早起きして学校に向かった。普段より一時間も早く通る通学路は、人影もほとんどなく、さわやかな空気だけが詩織のほほを快く刺激する。そして、足早に校門をくぐり抜けようとした時、詩織はふと、視線のようなものを感じた。
「……?」
辺りを見まわしたが、誰もいない。
(気のせい、ね)
無理もない。これから彼女がしようとしている事は、決して人目に触れてはならないのだ。神経過敏になるのも当然だろう。
グラウンドを横切り、校舎の方へ近づいていくにつれ、詩織の胸は大きく高鳴り始めた。中央玄関を横目で見て、生徒の利用する東側入り口へ向かう。そこには、上履きの入っている下駄箱が、ずらりと並んでいた。
辺りに誰もいないのを確かめる。そしてまっすぐに三年C組の下駄箱を目指す。
(三島……三島……。あった!)
詩織の目が、見開かれた。手の震えをどうする事も出来ない。コクリ、と大きく喉が鳴る。
三島の上履き入れを目の前にして、詩織は、しばし立ち尽くす。この中に、自分の手紙をいれてしまえば……。
(もう、後戻りは出来ない)
本当に、いいの……? もう一人の自分が問い掛けてきた。
(ためらっちゃいけない。それじゃ、今までの私と同じじゃない)
詩織は、迷いを振り切り、思いきって下駄箱の扉を開けた。鞄の中から白い封筒を取り出し、彼の上履きの上に、そっと置いた。
そして祈りを込めるように、扉を静かに閉じる。そのまま彼女は、放心した様に暫くの間、立ち尽くしていた。しかしその時。
コトリ……。
下駄箱の列の向こうで微かに音がした。
(だ、誰かいる……?)
まさか……ちゃんと確認したのに?!
その瞬間、詩織は一目散に外へ駆け出していた。学園のアイドルも何もあったもんじゃない。後でその時の、自分のうろたえ振りを思い出して、何度苦笑した事か。
一挙に校庭にまで走り出た詩織は、サッカーのゴール・ポストの置かれている辺りで、ようやく息をついた。
(やれやれ。たっくんが、私の今の姿を見たら、なんていうかしら)
自嘲気味にクスリと笑う。互いに異性を自覚する遥か以前から、かけがえのない友人であり、そして自分の分身ですらあった彼。その彼への後ろめたさと、今の自分の惨めさは将に好一対とも思えた。
詩織は、軽く首を振り、再び校舎に向かって歩き出した。何はともあれ、賽は投げられたのだ。結果の予測はつかないけれど、これから先は自分の選んだ道を歩いていくしかない。とにかく、今日の所はクラスに行って、大人しくしていよう。詩織は、そう心に決めた。
***
「……はっ!」
三島孝祐は、自室で跳ね起きた。身体中、汗びっしょりだ。今の今まで自分を襲っていたのが、実体のない悪夢だった事を悟って、ほうっと一つ大きく息をする。そして頭を抱え込んだ。
「……」
昨夜はまんじりとも出来なかった。ようやく明け方近くになってウトウトしかけたら、この悪夢だ。夢の中のいろんな情景が目に浮かぶ。
「……くそっ」
頭を振って、それらの得体の知れぬモヤモヤの正体を突き止めようとした時、孝祐の脳裏に、昨日の記憶が電光の如くに閃いた。変わった髪形をした少女。そう、コアラみたいな。
(間違いない。奴だ……)
俺に眠れぬ夜を強制した存在。既に忘れかけていたのに、奴が何故、今頃になって現れたのか。“アレ”は、もう終わったことなんだ。そうじゃなかったのか?
孝祐は、うつろな目でつぶやく。
「館林見晴……」
***
詩織はその日一日中、上の空だった。授業も全く頭に入らず、珍しく先生に注意されたりした。
(三島くん、手紙を読んでくれたかな)
そして、今も彼女は窓の外をぼんやり眺めている。その視線の先には、例の伝説の樹があった。手紙の中には、彼女の三島に対する想いの全てを余さず書いてある。そしてその末尾に……
『今日の放課後、伝説の樹の下で待っています』
そう、書き記した。
(あと三時間。三時間後には、すべてが決まるわ)
自分の気持ちが、彼に受け入れられるかどうか。もし駄目だったら私は、どうすればいいの? もはや後戻りは出来ないし、後は、この苦しみに耐えて行くしかない。その、永劫とも思える三時間……。
そこまで考えていたら、後ろから声を掛けられた。憩いの昼休みも、ほぼ終了に近づき、校内に散っていたクラスのみんなが、次々と席に戻ってきつつあるようだ。
「おい詩織。さっきから何をぼんやりしてるんだ?」
振り向くと、そこには見なれた幼馴染が立っていた。
「たっくん……。何か、ご用?」
「“何か、ご用?”も無いもんだ。朝からずっと詩織らしくもなく、ドジばっかりしちゃって。具合でも悪いのか?」
「ううん。でも、心配してくれてありがとう。大丈夫だから気にしないで」
詩織は、つらそうに目を逸らした。彼女とて、木石ではない。拓也の心の奥底に、詩織に対する特別な想いが存在する事に、気が付いている。それさえなかったら……。
良き友人で幼馴染である彼の存在は、今の彼女にとって、大きな心の支えであったに違いない。そう、メグと気ままに語り合えない今となっては、特に。
「メグ、どうしてるかな」
ふと、つぶやいた。口に出してしまったものの、答えを聞くのが怖ろしい気がする。自分が三島孝祐に出したラブレター。それは、或る意味で、彼女への絶縁状に等しいものなのだ。
「さっき、そこで会ったぜ」
「え、ほんと?」
「ああ、廊下でな。あっちも詩織のこと聞いてたよ」
やっぱり私のこと、メグも気に掛けてるんだ……。詩織の憂いが更に増した。内気なメグは、三島君への想いがいかに深かろうと、彼女の方からラブレターを出す事など思いも寄らないことだろう。そういう意味では、これは、決してフェアな“戦い”じゃない。たとえ詩織には、他にどうする術もなかったとしても。
「それで、あなたはメグに何と答えたの?」
「べつに。いつもと一緒だと言っといたよ」
「そう……」
メグと元通りになれるかな? 虫のいい考えが、ふとよぎる。私はやっぱり彼女を失いたくない。心底そう思ってる。
「彼女、連れがいたんでね。すぐに行っちゃった。何でも、J組に新しく入った、転校生の女の子を案内してるんだとか」
「転校生……?」
「かわいい子だよ。ちょっと個性的な髪型してたけど、それも良く似合ってたな」
「ふうん」
詩織は興味深げに頷いた。転校してきたばかりの、馴染みの薄いクラス・メートをメグが案内するなんて。今までの彼女には、考えられないことだ。
「メグもやるじゃない。“内気さん”も、そろそろ卒業かもね」
詩織の心の重荷の何分の一かが、軽くなった。これで愛にも、新しい友達が出来るかもしれない。もちろん、それで三島君を巡ってのメグと私の三角関係が、どうにかなる訳じゃないけれど。でも詩織は、彼女の友人として、ただ嬉しかった。
***
きらめき高校は今年で創立四十五周年を迎える。驚くほどではないが、まあ、伝統校の一種だ。例の伝説の樹は、創建された当初からあったものらしいが、その他にもいくつか当時を偲ばせるものがある。体育館の裏手の方にある、旧部室棟などもその一つだ。新しいクラブハウスが出来てからは利用するものとてない、おんぼろ棟だが、別に壊す必要もないのでそのまま放って置かれている。一説によると、これを壊して『伊集院レイ記念館』を造る計画があったとなかったとか。
しかし、誰も寄りつかないような建物は、ある種の人間にとっては格好の溜まり場になる。そして、ここもまた……。
「おや、お珍しい。三島さんじゃありませんか?」
苦虫を噛み下したような顔で入ってきた三島孝祐を見て、男が愛想笑いをした。いかにも不良、と言った格好の男達が四・五人、その周りにたむろしている。声を掛けたのは、どうやらその中のボス格らしい。
「斎藤、ちょっと話があるんだ」
「何でしょう?」
孝祐は、チラリと周りの連中の顔を見た。それっきり、後は口を噤む。斎藤と呼ばれた男は、その意図を敏感に察した。
「おい。お前ら、ちょっとその辺ぶらついて来い」
不良どもが出ていくのを横目で睨み、孝祐は、やっと口を開いた。
「昨日、見晴を見たんだ」
「みはる…? 誰でしたっけ…?」
「館林見晴だ。知晴の妹だよ」
斎藤の顔に一瞬、驚愕が走った。
「そんな……」
「間違いない。あの独特の髪型を俺が見間違えるはずがない」
二人の間に沈黙が流れた。孝祐は仏頂面をしたまま、脇のソファーに、ドッかと腰を降ろす。
「しかし、あいつは……」
そのまま口を開こうとしない孝祐に代わり、斎藤が、たまりかねた様に話し出した。
「千葉の方にいるはずじゃ……?」
「理由はわからん。だが、グラウンドにいたんだ。俺が野球部の練習をしていたら……。こっちをジッと見てやがった」
孝祐の言葉を聞き、しばし考え込んだ斎藤は、テーブルの上に転がしてあった携帯電話に手を伸ばした。それを見て孝祐が言う。
「どうする気だ?」
ある番号をプッシュしつつ斎藤が、上目使いに彼を見上げる。
「見晴の件なら、俺達二人って訳にはいきませんぜ。もう一人の当事者も呼ばなきゃ」
「……」
しばらく発信音が続いた後、ようやく先方が出た。斎藤がじれったそうに叫ぶ。
「おい、真紀か? さっさと出ろよ。俺からの電話だって、分かってるんだろうが!」
『ふざけんなよ。こっちだって忙しいんだ』
斉藤の耳に、不貞腐れた女の声が響いた。その背後から、別の女の苦痛のうめきが聞こえてくる。
「またリンチかよ? 好きだな、お前もよ」
『他人のことに口出すんじゃねぇよ。それより何の用だ? てめぇこそ、くだらねえ用だったら、ちっとヤキを入れてやるからな』
「おいおい、怖ぇこと言うなって。三島さんが呼んでるんだよ。とっとと来い」
それを聞くなり、携帯電話がいきなり切れた。斉藤が大仰に顔をしかめて、携帯をテーブルに置く。
「け、愛想のない女だ。すぐ行く、とか何とか言やぁいいものを」
ぶつぶつ言う。孝祐は知らん顔だ。斉藤と、今の電話の相手の『真紀』とは、不良としての格が違う。いくら文句を言っても、斉藤のそれは、所詮“負け犬の遠吠え”に過ぎない。そんな男の愚痴を聞く耳を、孝祐は端から持っていなかった。
それからしばらくして女がやって来た。髪にメッシュを入れ、ルージュをひいている。口元に笑みを浮かべているが、目の奥の凄みは隠しようも無い。不良どもから、地区最強と恐れられている女ばかりの暴走集団『きらめきレディース』のリーダー・須藤真紀。それが彼女の名前だった。
「三島さん、久しぶりだね。ここんとこ、さっぱり呼んでくれないから、アタシ達のこと、忘れちまったのかと思ったわ」
「くだらねえゴタク言ってんじゃねえよ。三島さんと俺っちじゃ、住む世界が違うんだ。分かってることじゃねぇか。
……それより何だ? おめえ、制服に血がついてるぞ」
「え? ああ、いま一人、裏で血反吐を吐かしてきたからさ」
「返り血ぐらい拭って来いよ、まったく……。今日は誰だ? さっきの電話の様子じゃ、女のようだったが」
「朝日奈の馬鹿だよ。あいつフケちゃあ、ゲーセン入り浸ってやがるが、あたいたちに挨拶一つしたことがない。くそ生意気だから、一つ礼儀を教えてやったんだ」
そう言うと、真紀は再び孝祐の方へ目を向けた。孝祐が目顔で指図し、斎藤が真紀に彼女を呼んだ理由を説明する。
「館林見晴……?」
真紀が、首をかしげた。
「まさか、あの知晴の?」
「その、まさかよ」
斉藤が、声を低めて言った。見交わす二人の目は、真剣そのものである。
「そこで、お前達に相談したいんだ」
黙りこくってしまった斎藤と真紀を前にして、孝祐が重い口を開く。彼の目は、いつものスポーツマンとしてのものではなかった。爬虫類のような執拗さと、サソリのような残忍さを秘めた、暗い瞳だった。
***
―伝説の樹。
その樹の下に、詩織は、とうとうやってきた。夏休みを目前に控え、午後の日差しは耐え切れぬ輝きをもって、肌を突き刺す。しかし、この樹の下は、ここだけは、別天地のような静けさと落ち着きを失っていない……はずだった。が。
(グラウンドが見えないわ)
詩織は、まず、そう思った。いつもなら、樹のすぐ側にある美術棟の向こうに、広々とした校庭が広がっている。だが、今、辺りの木々を透かして見えるのは、無愛想なステンレス製の壁と、そこに書かれた××建設の文字と断り書き。
「……工事中のため、ご迷惑をおかけします……」
詩織は声に出して読み上げた。よりによって今日、伝説の樹のすぐ側で工事が始まるなんて。これだけは、とんだ計算違いだった。壁の向こうから聞こえる、金属のきしむ音と重々しい地響きが、詩織の心を苛立たせる。
(工事なんて、夏休みになってから始めればいいのに。工期の関係か何か知らないけど、これじゃ、三島くんが来るのだって一苦労だわ)
詩織は後ろを振り返った。美術棟と本校舎の間の空間が塞がれてしまった為、校内施設のほとんど全てを迂回し、その上、裏庭のやたらと深い藪の中をくぐり抜け、やっとここまで辿りついたのだ。いつもなら校庭を横切れば、伝説の樹まであっという間なのに、である。昨日まで美樹原 愛と、毎日ここで昼食を共にしていたのだから、尚更その不便さが身に染みる。
「……ほんとに、ご迷惑だわ」
いささか憤然として、詩織は言った。まるで、私の想いが三島くんに届くのを、邪魔しているみたい。
それでも彼女は辛抱強く待った。三島くんは来る。必ず来てくれる。私の気持ちのありったけを綴ったんだもの。来てくれないはずがない。そう思い、詩織は、ようやく少し気を静める。
(彼が来たら、まず、何て言おう……?)
……来てくださって、ありがとう。
いや、これでは少し高慢過ぎるかも? いかにも“アイドル”っぽいし。
……本当に、来てくれたんですね。
こっちの方が無難かな。ちょっと文学少女臭いけれど。その辺は言い様で、どうとでも……
端から見たら愚にもつかぬ事を、詩織は真剣に考え込んでいた。よくよく考えれば、工事現場が近くにあるのも、悪い事ばかりではない。通り抜け出来ないのだから、ここに近づく生徒も、滅多にいないはずだ。告白している最中に誰にも邪魔されないのは、天の恵みかもしれない。
(後は、三島くんが来てくれるだけ)
しかし。詩織は腕時計を見た。授業終了と同時に、教室を飛び出した詩織の方が先にここへ来るのは当然として、三島くんは遅すぎないか? すでに終了後三十分が経過している。野球部の練習が始まるのは、四時からだから、猶予はもう、ほとんどない。
詩織は、次第に焦りを覚えてきた。
***
「とにかく、こちらから動くのはまずい」
孝祐は、断を下した。残りの二人にとっても否応はない。
「あいつの目的を探るのが先決だ」
「案外、何でも無いかもしれないし、ね?」
真紀が媚びるように言う。こういう時は女の方が度胸が据わるようだ。斎藤が後を引き取って言う。
「そうだぜ、何しろ二年も前の事だからな。俺だってすっかり忘れてたぜ」
見晴も、鈍感なお前らと同じく忘れててくれればいいがな……孝祐は内心思ったが、口には出さなかった。今は、ほんの些細なトラブルでも怖い。ドラフトが終わるまでは、だ。それまでは、この馬鹿どもを上手く手なずけて利用することだ。
「とにかく、調査はよろしく頼む。礼の方は期待してくれていい」
「さすが太っ腹だねえ。だから好きよ、三島さん」
真紀の流し目に内心嫌悪感を覚えながら、孝祐は微笑んだ。ドラフトが終わったら切り捨てられるとも知らずに、いい気なもんだ。斉藤が、さっき自分で言っていたが、お前らと俺とでは住む世界が違うんだよ。アホが。
「あ、そろそろ時間ですぜ」
斎藤の声に、孝祐は壁の時計を見上げた。四時十分前。俺の野球部での立場を思えば、遅刻など何でも無いが、昨日のようにスカウトでも来ているとまずい。彼は慌てて立ちあがった。
***
詩織は足元の小石を蹴った。
それがまるで、憎い仇でもあるかのように、何度も、何度も蹴った。
「……」
そして、無言のまま腕時計を見る。さっきから何度見たことか。詩織の願いもむなしく、時計の針は容赦なく進み、今は……
(四時三十一分)
時刻がついに四時半を回ったことを確認し、詩織は大きくため息をついた。
(馬鹿みたい……私)
大の親友だった愛を裏切り、拓也の目を逃れるようにここへ来て。
得られたものは、虚しさだけだった。落胆が余りに大きすぎるためか、咄嗟に涙も出てこない。
(帰ろう……)
詩織は伝説の樹に背を向けた。すでに吹奏楽部の練習も始まっている時間だ。が、彼女の足は、音楽棟の方へは向かなかった。トボトボと力なく歩く彼女の心には、すでに家路につく事しかない。まるで悪夢だ。しかし。
詩織は、この時気付くべきだった。憎悪にも似た、悪意に満ちた瞳が、じっと彼女を見つめていることを。
本当の“悪夢”は、既に彼女の背後にまで迫っていたのである。