【第二幕・ときめきのオルゴール】


 きらめきレディースのリーダー・須藤真紀は、三年F組である。もっとも、彼女がクラスに顔を出すことは珍しく、ましてや一時間目から席についていることなど、ここ半年ばかり無かった。それが今日は、なんと……。

(へん。みんなビビッてやがる)

 真紀は蔑むように辺りを見まわした。生徒達は皆、真紀と視線を交わさないように俯いている。始業前の慌しい賑やかさなど、どこにも無かった。誰もが、とんだ災難に出っくわさない様……真紀の気まぐれに触れない様……それだけを念じている。気の弱い生徒の何人かは、いち早く保健室に逃げ込んだようだった。

(朝日奈は休み、か。まあ、当然だな)

 空のままの夕子の席を横目で眺め、真紀は嘲笑った。昨日の騒ぎで中途半端になってしまったが、ビンタだけで数十発食らわせてある。顔中腫れ上がって、学校どころではあるまい。

(あたしゃ、ああ言うチャラチャラした奴は嫌いなんだ)

 中途半端に不良を気取りながら、男には良い顔をする。世の中は“要領”だけじゃ、渡っていけねぇんだよ。タコが。

(女だけじゃない、男もだぞ……)

 真紀は男子生徒の群れをギロリと睨んだ。思わず首をすくめる彼ら。見てないふりをして、みんな真紀の様子を窺っているのだ。

(まあいい。今日はそんな余計な事を、しに来たんじゃない)

 そろそろ報告が入るはずだ。そう考えていたら、案の定、サブの玲花が教室に飛び込んできた。真紀に耳打ちする。

「姉御、分かりましたぜ」

「どこに居た?」

「J組でさぁ。順子が付きっ切りで、マークしてます」

「奴は何をしてる?」

「美樹原 愛って言う、ガキみてえな女と仲良くなったようです。昨日はそいつの案内で、校内をあちこち歩き回ったようで」

 ふん。真紀は鼻を鳴らした。さて、どうやって調べようか。三島さんは、“こちらからは手を出すな”と言ったが、遠巻きにして見てたってしょうがない。

「とりあえず先公を一人手なずけて、奴の自宅と電話番号、それに転校届けの写しを手に入れろ」

 奴が、ここに転校してきた理由。それは、届けを見れば、あっさり割れるかもしれない。だが、どんな正当な理由があろうとも、よりにもよって、三島さんがいるこの高校に転校してきた以上、奴が腹に一物秘めている事は、まず間違いない。―真紀は、そう思った。

「始めは、そんなもんだな。あまり派手に動いて、奴に知れると拙い。

 あと順子によく言っとけ。三島さんの近辺に奴が近づいたら、携帯ですぐ、あたしに知らせるんだ。これは絶対、忘れるな」

「わかりました」

 真紀が言った事を手帳に書きとめて、玲花は出ていった。真紀は細身の煙草を取り出し、火をつける。

(美樹原 愛ねぇ。どこかで聞いたことがある名だと思ったが、そういや、あの藤崎に纏わり付いてる泣き虫女か。あいつなら一つ脅しつけりゃ、どうとでも利用できるな。覚えておこう)

 いずれにしても、真紀が表立って動く事は出来ない。二年前のあの日。館林知晴がまだ、“生きていた”時。斎藤や真紀は、見晴に顔を見られているのだ。

(さて、フケるか。ここにいりゃ、何かの拍子で奴に出くわさないとも限らない)

 咥え煙草のまま真紀は立ちあがった。そのまま出口へと向かう背に、教室内の、今まで伏せられていた全視線が集中する。

 運悪く、丁度入って来た担任の男の先生が、その煙草の煙をモロに浴びた。叱責どころか、声も出せずに入り口に立ちすくんでいる教師に向かい、真紀は軽くウインクする。

「さよなら、先生。もう帰るけど、一応出席だぜ。キチンと付けといてくれよな」


***


(詩織は、一体どうしちゃったんだろう)

 教室の最前列に座る、詩織の後ろ姿を見ながら拓也は思った。

 昨日の日中のぼんやりした様子に輪を掛けて、今日はまるで放心状態みたいになっている。時折、けたたましく笑ったかと思うと、一言も口をきかずに黙りこくっていたりする。特に、拓也に対しては、朝から一度も会話を交わそうとしない。彼が近づこうとすると、それを敏感に察するらしく、スッ……と、逃げてしまう。

(このまま放っておいていいんだろうか?)

 悩みがあるなら聞いてやりたい。それでなくても、美樹原さんと詩織との間に、何か“しこり”のようなものが感じられる時だけに尚更だった。

(でも、僕は男だからな……)

 女の子同士のようなわけにはいかない。

(そうだ。やっぱり美樹原さんに相談してみよう)

 拓也は思い立った。詩織と何が在ったか知らないが、今の詩織の様子を伝えれば、きっと一緒に心配してくれるだろう。それをきっかけに、二人の仲も元に戻るかもしれないし。そう考えた拓也は、昼休みになるのを待ちかねて、J組の教室に向かった。


***


 J組の前まで来たとき、拓也は異様な雰囲気を感じた。明らかに普通ではない女生徒が数人、たむろしている。彼女らは、拓也を鋭い目で一瞥したが、何も言わなかった。

(きらめきレディースの連中だ)

 須藤真紀率いる暴走族グループの存在は、知らぬものとて無い、きらめき高校内の公然の秘密である。誰もがその存在を知りながら、決して暴きたてようとしない。教師からしてそうなのだから、一般生徒にとっては無関心を装う以外、対処のしようが無かった。

「……」

 レディースの前を身を縮めながら通り過ぎ、J組の教室に入ってホッと一息ついた拓也は、美樹原 愛の姿を探した。しかし、彼女の席には見当たらない。

(はてな。どこかに出かけたのかな?)

 がっかりして踵を返そうとした拓也は、ふと隣の席の女の子に気付く。

(昨日、美樹原さんと一緒にいた子じゃないか?)

 その特徴的な髪型を見間違えるわけがない。彼女に、美樹原さんの居場所を聞いてみようか?

「ね、君」

 拓也の声に、彼女はビクリとした。おびえたような表情で、拓也を見上げる。

(何て、悲しそうな目をしてるんだろう)

 拓也は一瞬、驚いた。昨日の出会いでは気が付かなかったが、大きな瞳が、まるで濡れたように震えている。美しさよりも可愛さが引き立つ顔立ちなだけに、なおのこと印象深かった。

「びっくりさせちゃって、ごめん。僕、美樹原さんを探してるんだけど……知ってる?」

 彼女は、まじまじと拓也を見つめた。怯えは、少し薄れたようだが、警戒心は取れていないようだ。

「愛さんなら、職員室に……。進路指導だそうです」

「ああ、そうなんだ。ありがとう」

 拓也は礼を言って、早々に立ち去ろうとした。ところが、彼女が急に呼び止める。

「あ、ちょっと待って……」

 予期しなかった事に拓也は戸惑った。彼女は少しだけ押し黙ったが、意を決した風に拓也に呼びかける。

「あなた……本条拓也さんですよね?」

「僕を知ってるの?」

 彼女はちょっと考えて、答えた。

「昨日、愛さんに聞きました。廊下で、あなたに会った時に」

「ああ、なるほど」

「私、館林見晴といいます」

 館林見晴。かわいい名前だ。どこかで聞き覚えがあるような気もしたが、流石にそれは勘違いだろう。何しろ彼女は、昨日転校してきたばかりなのだ。

「よろしくね。もう、ここに慣れた?」

「はい、だいぶ……」

 見晴は、口篭もる様に答えた。どうやら、自分の事を話すのは、あまり得意じゃなさそうだ。

「以前は、どこにいたの?」

「あの、千葉に」

 千葉か……。拓也は口の中でつぶやいた。拓也にとって縁もゆかりも無い土地だけに、イメージが全然つかめなかった。彼女もそれ以上、説明しようとしない。

「でも、珍しいよね。三年生の、この時期に転校だなんて」

「……」

 何気ない疑問を口にしたつもりだったが、見晴は、顔を曇らせて俯いてしまう。

(余計なことを聞いたかな? 彼女にも、いろいろ事情があるんだろうし。失敗した)

 そう思い、拓也は会話を切り上げて、別れを告げようとした。詩織のことも心配と言えば心配だし。しかしその気配を察したのか、見晴は、急に顔をあげて拓也を見た。

「本条さん……」

「拓也でいいよ。名字で呼ばれるのは、好きじゃないんだ」

「じゃ……拓也さん」

 見晴は、拓也の顔をじっと見据えた。

「私、ここへ転校して来たのには、実は理由があるんです」

「……そう」

「今はまだ言えません。ですけど……」

 見晴の瞳が熱を帯びた。見た目よりはるかに情熱的な女の子なんだと、拓也は改めて気が付く。

「いつかは聞いて頂かなければならないんです。あなたに」

「……僕に?」

 コクリと頷く彼女。拓也には訳が分からなかった。ほとんど初対面の彼に対して、彼女は明らかに、度を過ごした親近感を示している。

「わかった。その時が来たら聞かせてもらうよ。見晴ちゃん」

 彼も、自然と名前で呼んでいた。その語感に、なぜか途轍もない懐かしみを覚え、拓也は首を傾げる。


 ミハル……チャン?

 

 この呼び名には、確かに記憶がある。どこでだったか。……いや、いつだったか。J組の教室を出て、ずっと拓也は考え続けた。しかし分からない。

 A組の教室に帰り着き、とりあえず、その事は記憶の一隅に仕舞っておくことにした。隣の席の早乙女好雄から、次の授業の予定が急に変更になったと告げられたからである。

「どこへ行ってたんだ、まったく。さっさと昼飯食っちまわねえと、次の野外実習に間に合わないぞ」

「野外実習?」

「ああ、そうだ。さっき委員長が言ってた。今日の美術の授業は、外でやるってよ」

「そりゃ大変だ」

 僕は大慌てで、購買部から買ってきたパンをぱくついた。


***


=校内某所=


(準備は、全て終わった)

 大きく一つ深呼吸する。後は決行するだけだ。

(“あの子”には可哀想だがな。仕方が無いさ)

 あの子が自分で蒔いた種だ。恨むなら、男の本性を見ぬけなかった、己の未熟さを恨むがいい。

 そして、内ポケットから一枚の写真を取り出す。二人の少女が……全く同じ顔立ちをした双子の少女が、写っている。個性的な髪型をした左側の少女。三つ編みにした髪を丸めて輪の様にしている。大きなぼんぼりのような髪止めが印象的だ。

 一方、右側の少女は対照的に、しなやかな髪を少しもいじらず、そのまま素直に肩までたらしている。装飾的なものは一切付けていない。

 二人は、揃って邪気のない明るい微笑みを浮かべ、カメラの方を見つめている。撮影者への好意が、ありありと感じられるスナップだ。

(男の本性を見抜けなかったのは、この子達も一緒か。私が、付いていてやれさえすれば……)

 しばしの沈黙の後、ポッと、ライターの火がともった。女の子達の写真が、見る見る燃えて行く。それを見つめる瞳に浮かぶ、冷え切った虚無の影。残された人の感情の全てを、燃え尽きる写真の中に封じ込め、そして“彼”はゆっくりと立ち上がった。      

    

***

 


 放課後、詩織は一人中庭に佇んでいた。昨日はクラブを無断欠席してしまった。今日は休めない。体調不良を理由にすれば不可能ではないけれど、しかし、それには欠席届を書かなくてはならない。今の詩織には、そんな事に神経を使うのも煩わしかった。

 ウソをつくのにも気力がいる……。この当たり前の事実に、初めて詩織は気づいた。

(やっぱり行こう。フルートを吹いていれば、いくらか気が紛れるかもしれないし)

 そう思い、詩織は立ちあがった。その時である。突然、胸ポケットの携帯電話が鳴り出した。モーツァルトの交響曲第四十番。その有名なフレーズが鳴り響く。

(誰からだろう……?)

 知りあいには一応、電話番号を教えてあるが、詩織はそもそも携帯電話が好きではない。それを知っているせいか、詩織に掛けてくる友人はめったにいない。着信表示を見、メモリーにない番号だったので、軽く警戒する。

「……はい。藤崎ですが」

『藤崎さん? ……僕、三島です』

 詩織は脳天を直撃されたような衝撃を感じた。思わず、その場にしゃがみこむ。

「み、三島くん…?」

 声の震えをどうする事も出来ない。どうやら彼は、障害物の在る所から掛けているらしく、多少聞き取りにくい。詩織は、彼の一言一句を聞き逃すまいと、携帯電話を耳に押し付けた。

『昨日は、ごめん。急なことだったんで、気持ちの整理が付かなくて……』

「……」

『夕べ一晩考えて結論を出したんだ。今から伝説の樹の下に来てくれるかい?』

「……え」

 戸惑いと期待が入り混じった複雑な感情が、彼女を襲った。先程までの絶望が、まだ尾を引いていて、気持ちの切り替えが急には出来ない。

『……駄目、かな?』

 彼のその声に、ハッと詩織は我に返った。

「だ、駄目じゃありません! ……今すぐ、行きますから!」

『ありがとう』

 電話の相手が微笑んだ様に、詩織には感じられた。

『じゃあ、待ってるから。切るね?』

 通話は一方的に切れた。そして詩織は、震える体を抱きしめ、そのまま立ちすくんでいた。歓喜の渦が徐々に体内を満たしてくる。彼は一体、誰から私の番号を聞いたんだろう? そんな疑問は、全く湧かなかった。


 ふと、腕時計を見る。三時半を既に回っている。

 ―野球部の練習は四時から―

 いけない、急がなくちゃ……! 詩織は脱兎の如く駆け出した。


***


 同じ頃、旧部室棟では斎藤と須藤真紀が、お互いの顔をつまらなそうに、見交わしていた。

「なんだい? 今日は三島さん、来てないのかい?」

「さっきちょっと寄ってったんだが。なんか急用が出来たとかで」

「ふ〜ん」

 真紀は、ちょっと不満そうな顔をした。孝祐に会えると思って飛んできた自分が、馬鹿らしくなった。そんな真紀の気持ちに気づかない斎藤は、ニヤニヤしている。

「なんだい……? 気味の悪いツラして」

「いや、な……。あんな羨ましい男もこの世には居るんだなあって、俺はつくづくそう思ったよ」

「何の話だ?」

「三島さんの話さ。あの人の急用って、何だと思う?」

「知るか」

「へへ。俺も聞いてびっくりしたんだがよ、なんとあの『きらめき高校のアイドル』が、三島さんにラブレター送ったんだと!」

「なに……?」

 真紀の顔が、さっと蒼ざめた。対照的に斉藤の方は、さらに調子に乗って話し続ける。

「それで三島さんは、いそいそとお出かけって訳だ。か〜っ! たまんねぇぜ、全く……。三島さん、今頃よろしくやってるんだろうな。あの藤崎とよ!!」

 最後まで聞かずに真紀は立ちあがった。そして、出口に向かう。

「お、おい。どこに行く?」

「決まってるじゃねえか。帰るんだよ。三島さんがいねえのに、てめえの不細工なツラ見てたってしょうがねえ」

「……」

 流石に、この一言は効いた。冷や水を頭からぶちまけられたように、押し黙った斉藤。その恨めしげな視線に一顧だに与えず、真紀は旧部室棟を出た。後ろ手で扉を閉め、何故かそのまま立ち尽くしている。

「あの、女狐……」

 真紀の表情が、俄かに一変した。三島さんにラブレターを出した、だと? そして三島さんは喜んで……。

(朝日奈なんか構ってるより、藤崎をやるべきだった)

 こぶしをぎゅっと握り締めた。優等生のお嬢さん。まだまだネンネの小娘。そう思って、奴の事は頭から無視していたのに。

 自分が、このきらめき高校を仕切ってきた二年半。目立ちたがる馬鹿には、一度は必ずレディースの怖さを教えてやって来た。直接暴力に訴えなくても、方法はいろいろある。毎朝登校時に待ち伏せて睨みつけるだけでも、大抵の人間はビビッてしまう。

 だが藤崎の事は、ウッカリ忘れていた。アイドルと称される割には万事控えめで、普段の真紀の目に留まらなかったのが大失敗だった。レディースの脅威を知らず、それゆえに奴は増長し、三島さんにラブレターを出すなんて大それた事をしでかしてしまったのだろう。

(くっ……アタシとした事が)

 唇を噛み締める。三島さんと奴がくっついてしまえば、もう、手出しは出来なくなる。それからでは、全てが手遅れなのだ。

 

 しばらくして、真紀はふらふらと歩き出した。その横顔には、いつものレディースの姉御としての風格は微塵もなく、心揺れるハイティーンの少女の面影だけが現れていた。


***


 体育館の角を曲がったところで、詩織は大きく息をついた。ここから先は伝説の樹まで一直線。塀沿いに自生している林を抜けて行けば良い。裏庭とは名ばかりで、ほとんど手入れされていないその雑木林は、深い藪に覆われ、駆け抜ける事など思いもよらない。

 はやる気持ちを懸命に抑えながら、詩織は一歩一歩、慎重に進んで行った。一足進むごとに、三島くんに近づく。その実感が、詩織の胸を高鳴らせる。

「あれ……?」

 雑木林をほぼ抜け出ようか、という時、詩織の耳に奇妙な音楽のようなものが聞こえてきた。単調な、しかし聞き覚えのある旋律。

(オルゴール?)

 林が切れ、視界がパッと広がると同時に、詩織は、その音の正体に気づいた。“エリーゼのために”……オルゴールの定番として、すでに陳腐なほど聞き慣れた曲だ。どうやら詩織の目的地、伝説の樹の方から聞こえてくるらしい。

(三島くんが鳴らしているのかしら?)

 そうだとすれば、彼の感性に改めて心惹かれるものを感じる。単なるスポーツマンではない、豊かな感受性。それこそ、詩織が彼に求めているものなのだ。

「三島くん……?」

 伝説の樹まであと五、六歩の所まで来た時、詩織は、おずおずと呼びかけた。

(……)

 返事がない。そこにいるなら聞こえないはずはないのに。詩織は不安に駆られて、伝説の樹の向こう側に回ってみようと足を踏み出した。


 ……コツン。


 つま先に、何か当たった。探ると、それは扉の開いたオルゴールの箱だった。開いてはいるが、音はもう止んでいる。詩織は何気なく、その箱を拾い上げようとかがみこんだ。その彼女の視界の隅に、ふと何かがよぎる。

(うん? ……何、あれ?)

 真っ黒な塊がそこにあった。草むらの中に、埋もれている。詩織は良く見ようと、一歩近づいた。


***


「うん、なかなかいい出来だわ」

 彩子は何度も頷いた。目の前に置かれたキャンバスには、彼女の描く独特の世界が広がっている。まだ完成したものではないが、ここまでの所は納得の行く仕上がりだった。

「これなら、目展も夢じゃないわね」

 頬杖をつきながら、うっとりとした目で眺める。新人画家の登竜門として、目展に入選する事は全ての画家の目標だった。片桐彩子もまた、例外ではない。

(そうだ、先生にも見てもらおう)

 美術部顧問の芹沢隆広は、部屋にいるはずだ。そう思って、彩子は彼の研究室をノックした。

「先生。いらっしゃいますか?」

 おう、と言う返事がして、芹沢先生が姿を見せた。扉の向こうには、パソコンや美術関係の書類に埋もれた彼のデスクが見える。まだ二十代の少壮だが、現代美術の理論研究の第一人者として、日本よりむしろ海外での評価が高い逸材だそうである。

「どうした。片桐?」

「先生の批評が聞きたくて。済みません」

「構わないよ。ちょうど一服つけていたところさ。……どれ」

 もの静かな口調で答え、芹沢は彩子の絵を覗き込んだ。普段は大雑把な性格の彩子だが、この時ばかりは神妙な表情でかしこまっている。世間の評価とは全く関係なく、彼女自身、芹沢の力量に最大限の信頼を置いているのだ。だからこそ、自分の作品が彼の目に触れる時は、全身が緊張に包まれるのをどうする事も出来ない。

「…うん。いいね」

 しばらくして芹沢が言った。彩子の身体から、ホッと力が抜ける。

「どうやら君も、一時のスランプから抜けた様だな」

「……先生のお蔭です」

「君の実力さ。元々、技術的な事では問題無かったのだから、精神的な課題を克服すればいいだけの話だったんだ。最も、それが君達の年頃では、一番難しいことなんだろうけどね」

 芹沢は優しい目で、彩子を見詰めた。

(ああ、先生は何でも知っている……)

 彩子は胸が詰まる思いだった。絵を書くのが楽しくて仕方の無かった昔。しかし、一度大きい大会で賞を取ってしまったら、それがプレッシャーとなり、絵が描けなくなった。絵を描くのが苦しくて、何度絵筆を折ろうとしたことか。そんな時に、丁度赴任してきたばかりの芹沢先生と出会ったのだ。

『君は絵を描いてて楽しいかい?』

 その一言で、今までの迷いが嘘のように晴れた。芸術は、自分が楽しまなければ、いいものができるはずがない。

(芹沢先生は、忘れていたその事を私に気づかせてくれた。私の大恩人だわ)


「さ、一段落したんなら、お茶にしようか」

「あ……私、いれます」

 彩子は、そそくさと炊事場に向かった。ちなみに美術棟の中は、完全冷房されている。ゆえに、真夏でも全ての窓は閉じられているが、炊事場の窓だけは、換気の為もあって開けられていることが多い。彩子は、やかんをコンロの上に乗せながら、ふとその窓の外からオルゴールのようなメロディーが流れてくるのを聞いた。

(はてな?)

 彩子は背を伸ばして窓を覗き込もうとした。炊事場の窓は、高い所に取りつけられているために、外を見るのは、かなりの骨である。足元にあったバケツを利用して、やっと地面を見下ろす事に成功した。

(あ、藤崎さんだ)

 後ろ姿だが、美しく生えそろった髪と、彼女の特徴であるヘアバンドによって、彩子には、すぐ分かった。

(彼女が鳴らしているのかしら)

 一体、何をしてるんだろう? 持ち前の好奇心が首をもたげてきた。もっと良く見ようとつま先だった時。

「……きゃあっ〜!」

 突然、凄まじい悲鳴が辺りの空気を引き裂いた。

「どうした! ……何の声だ?!」

 芹沢先生が、炊事場に飛び込んでくる。彩子にも、何がなんだか分からなかったが、咄嗟に叫ぶ。

「この下にA組の藤崎さんがいるんです。多分、彼女の悲鳴じゃないか、と……」

 そこまで聞いて、芹沢は駆け出した。彩子も慌てて後を追う。階下に降り、彼らは裏口へ向かった。そして、ドアを開けるのももどかしく(ドアは内側から施錠してあった)、裏庭へなだれ込んだ。

「きみ……!」

 詩織の後姿をいち早く認めた芹沢が、声をかける。詩織は、ただ一人、地面にへたり込んでいる。別に、外傷は無さそうだが……。

「どうしたの?」

 沈黙のまま、ただ肩を震わせている彼女に対し、芹沢は優しく問い掛ける。詩織の唇が微かに動いた。喉から懸命に声を絞り出そうとするが、思う様にならない様だ。

「み…みし…ま…く…」

 やっとの思いでそれだけ言うと、詩織は震える手で前方を指差した。それに吊られる様に、芹沢と彩子が前方を凝視する。草むらの中に誰か倒れている。うちの学校の男子生徒のようだ。芹沢は近づきつつ、生い茂る雑草を荒々しく掻き分ける。

「うっ……!」

 草むらの中に覆い隠されていた、その男子生徒の顔を見て、彼は思わず呻いた。張り裂けんばかりにむき出された眼球……苦しげに吐き出された舌……明らかに死相を呈している。首に巻きついているのはロープだろうか。だとしたら、絞殺……殺人?! 

「片桐君。その子を頼む。美術室の中で、介抱してあげなさい」

 芹沢は静かに、しかし有無を言わせぬ調子で命じた。詩織も勿論だが、彩子の目にもこれ以上死体を触れさせるべきではない。教育者らしい判断だった。

 もう一度死体を調べ、完全に息絶えているのを確認してから、芹沢も一旦、美術棟に戻った。学校長への報告と、警察への連絡をしなければならない。

 裏口をくぐると、一階の美術教室に詩織と彩子がいるのが見えた。備え付けのソファーの上に肩を寄せ合って座っている。彩子がしきりに話しかけているが、詩織は子供の様に泣きじゃくるばかりだ。

 その様子を確認し、芹沢は足早に二階に昇った。自室にある電話機で、連絡を取るために。


***


 拓也は、その時たまたま職員室の廊下を歩いていた。

「?」

(……何だろう? 中が妙に騒がしいが?)

 不審に思い、じっと聞き耳を立てると、声高に叫ぶ教師達の声が途切れ途切れに聞こえてきた。


 ……生徒が殺された!

 ……三島孝祐。

 ……A組の藤崎も一緒だったらしい!


(な、なんだって?!)

 拓也は、自分の顔が見る見るこわばって行くのが、分かった。 


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