【第二幕・ときめきのオルゴール】
きらめきレディースのリーダー・須藤真紀は、三年F組である。もっとも、彼女がクラスに顔を出すことは珍しく、ましてや一時間目から席についていることなど、ここ半年ばかり無かった。それが今日は、なんと……。
(へん。みんなビビッてやがる)
真紀は蔑むように辺りを見まわした。生徒達は皆、真紀と視線を交わさないように俯いている。始業前の慌しい賑やかさなど、どこにも無かった。誰もが、とんだ災難に出っくわさない様……真紀の気まぐれに触れない様……それだけを念じている。気の弱い生徒の何人かは、いち早く保健室に逃げ込んだようだった。
(朝日奈は休み、か。まあ、当然だな)
空のままの夕子の席を横目で眺め、真紀は嘲笑った。昨日の騒ぎで中途半端になってしまったが、ビンタだけで数十発食らわせてある。顔中腫れ上がって、学校どころではあるまい。
(あたしゃ、ああ言うチャラチャラした奴は嫌いなんだ)
中途半端に不良を気取りながら、男には良い顔をする。世の中は“要領”だけじゃ、渡っていけねぇんだよ。タコが。
(女だけじゃない、男もだぞ……)
真紀は男子生徒の群れをギロリと睨んだ。思わず首をすくめる彼ら。見てないふりをして、みんな真紀の様子を窺っているのだ。
(まあいい。今日はそんな余計な事を、しに来たんじゃない)
そろそろ報告が入るはずだ。そう考えていたら、案の定、サブの玲花が教室に飛び込んできた。真紀に耳打ちする。
「姉御、分かりましたぜ」
「どこに居た?」
「J組でさぁ。順子が付きっ切りで、マークしてます」
「奴は何をしてる?」
「美樹原 愛って言う、ガキみてえな女と仲良くなったようです。昨日はそいつの案内で、校内をあちこち歩き回ったようで」
ふん。真紀は鼻を鳴らした。さて、どうやって調べようか。三島さんは、“こちらからは手を出すな”と言ったが、遠巻きにして見てたってしょうがない。
「とりあえず先公を一人手なずけて、奴の自宅と電話番号、それに転校届けの写しを手に入れろ」
奴が、ここに転校してきた理由。それは、届けを見れば、あっさり割れるかもしれない。だが、どんな正当な理由があろうとも、よりにもよって、三島さんがいるこの高校に転校してきた以上、奴が腹に一物秘めている事は、まず間違いない。―真紀は、そう思った。
「始めは、そんなもんだな。あまり派手に動いて、奴に知れると拙い。
あと順子によく言っとけ。三島さんの近辺に奴が近づいたら、携帯ですぐ、あたしに知らせるんだ。これは絶対、忘れるな」
「わかりました」
真紀が言った事を手帳に書きとめて、玲花は出ていった。真紀は細身の煙草を取り出し、火をつける。
(美樹原 愛ねぇ。どこかで聞いたことがある名だと思ったが、そういや、あの藤崎に纏わり付いてる泣き虫女か。あいつなら一つ脅しつけりゃ、どうとでも利用できるな。覚えておこう)
いずれにしても、真紀が表立って動く事は出来ない。二年前のあの日。館林知晴がまだ、“生きていた”時。斎藤や真紀は、見晴に顔を見られているのだ。
(さて、フケるか。ここにいりゃ、何かの拍子で奴に出くわさないとも限らない)
咥え煙草のまま真紀は立ちあがった。そのまま出口へと向かう背に、教室内の、今まで伏せられていた全視線が集中する。
運悪く、丁度入って来た担任の男の先生が、その煙草の煙をモロに浴びた。叱責どころか、声も出せずに入り口に立ちすくんでいる教師に向かい、真紀は軽くウインクする。
「さよなら、先生。もう帰るけど、一応出席だぜ。キチンと付けといてくれよな」
***
(詩織は、一体どうしちゃったんだろう)
教室の最前列に座る、詩織の後ろ姿を見ながら拓也は思った。
昨日の日中のぼんやりした様子に輪を掛けて、今日はまるで放心状態みたいになっている。時折、けたたましく笑ったかと思うと、一言も口をきかずに黙りこくっていたりする。特に、拓也に対しては、朝から一度も会話を交わそうとしない。彼が近づこうとすると、それを敏感に察するらしく、スッ……と、逃げてしまう。
(このまま放っておいていいんだろうか?)
悩みがあるなら聞いてやりたい。それでなくても、美樹原さんと詩織との間に、何か“しこり”のようなものが感じられる時だけに尚更だった。
(でも、僕は男だからな……)
女の子同士のようなわけにはいかない。
(そうだ。やっぱり美樹原さんに相談してみよう)
拓也は思い立った。詩織と何が在ったか知らないが、今の詩織の様子を伝えれば、きっと一緒に心配してくれるだろう。それをきっかけに、二人の仲も元に戻るかもしれないし。そう考えた拓也は、昼休みになるのを待ちかねて、J組の教室に向かった。
***
J組の前まで来たとき、拓也は異様な雰囲気を感じた。明らかに普通ではない女生徒が数人、たむろしている。彼女らは、拓也を鋭い目で一瞥したが、何も言わなかった。
(きらめきレディースの連中だ)
須藤真紀率いる暴走族グループの存在は、知らぬものとて無い、きらめき高校内の公然の秘密である。誰もがその存在を知りながら、決して暴きたてようとしない。教師からしてそうなのだから、一般生徒にとっては無関心を装う以外、対処のしようが無かった。
「……」
レディースの前を身を縮めながら通り過ぎ、J組の教室に入ってホッと一息ついた拓也は、美樹原 愛の姿を探した。しかし、彼女の席には見当たらない。
(はてな。どこかに出かけたのかな?)
がっかりして踵を返そうとした拓也は、ふと隣の席の女の子に気付く。
(昨日、美樹原さんと一緒にいた子じゃないか?)
その特徴的な髪型を見間違えるわけがない。彼女に、美樹原さんの居場所を聞いてみようか?
「ね、君」
拓也の声に、彼女はビクリとした。おびえたような表情で、拓也を見上げる。
(何て、悲しそうな目をしてるんだろう)
拓也は一瞬、驚いた。昨日の出会いでは気が付かなかったが、大きな瞳が、まるで濡れたように震えている。美しさよりも可愛さが引き立つ顔立ちなだけに、なおのこと印象深かった。
「びっくりさせちゃって、ごめん。僕、美樹原さんを探してるんだけど……知ってる?」
彼女は、まじまじと拓也を見つめた。怯えは、少し薄れたようだが、警戒心は取れていないようだ。
「愛さんなら、職員室に……。進路指導だそうです」
「ああ、そうなんだ。ありがとう」
拓也は礼を言って、早々に立ち去ろうとした。ところが、彼女が急に呼び止める。
「あ、ちょっと待って……」
予期しなかった事に拓也は戸惑った。彼女は少しだけ押し黙ったが、意を決した風に拓也に呼びかける。
「あなた……本条拓也さんですよね?」
「僕を知ってるの?」
彼女はちょっと考えて、答えた。
「昨日、愛さんに聞きました。廊下で、あなたに会った時に」
「ああ、なるほど」
「私、館林見晴といいます」
館林見晴。かわいい名前だ。どこかで聞き覚えがあるような気もしたが、流石にそれは勘違いだろう。何しろ彼女は、昨日転校してきたばかりなのだ。
「よろしくね。もう、ここに慣れた?」
「はい、だいぶ……」
見晴は、口篭もる様に答えた。どうやら、自分の事を話すのは、あまり得意じゃなさそうだ。
「以前は、どこにいたの?」
「あの、千葉に」
千葉か……。拓也は口の中でつぶやいた。拓也にとって縁もゆかりも無い土地だけに、イメージが全然つかめなかった。彼女もそれ以上、説明しようとしない。
「でも、珍しいよね。三年生の、この時期に転校だなんて」
「……」
何気ない疑問を口にしたつもりだったが、見晴は、顔を曇らせて俯いてしまう。
(余計なことを聞いたかな? 彼女にも、いろいろ事情があるんだろうし。失敗した)
そう思い、拓也は会話を切り上げて、別れを告げようとした。詩織のことも心配と言えば心配だし。しかしその気配を察したのか、見晴は、急に顔をあげて拓也を見た。
「本条さん……」
「拓也でいいよ。名字で呼ばれるのは、好きじゃないんだ」
「じゃ……拓也さん」
見晴は、拓也の顔をじっと見据えた。
「私、ここへ転校して来たのには、実は理由があるんです」
「……そう」
「今はまだ言えません。ですけど……」
見晴の瞳が熱を帯びた。見た目よりはるかに情熱的な女の子なんだと、拓也は改めて気が付く。
「いつかは聞いて頂かなければならないんです。あなたに」
「……僕に?」
コクリと頷く彼女。拓也には訳が分からなかった。ほとんど初対面の彼に対して、彼女は明らかに、度を過ごした親近感を示している。
「わかった。その時が来たら聞かせてもらうよ。見晴ちゃん」
彼も、自然と名前で呼んでいた。その語感に、なぜか途轍もない懐かしみを覚え、拓也は首を傾げる。
ミハル……チャン?
この呼び名には、確かに記憶がある。どこでだったか。……いや、いつだったか。J組の教室を出て、ずっと拓也は考え続けた。しかし分からない。
A組の教室に帰り着き、とりあえず、その事は記憶の一隅に仕舞っておくことにした。隣の席の早乙女好雄から、次の授業の予定が急に変更になったと告げられたからである。
「どこへ行ってたんだ、まったく。さっさと昼飯食っちまわねえと、次の野外実習に間に合わないぞ」
「野外実習?」
「ああ、そうだ。さっき委員長が言ってた。今日の美術の授業は、外でやるってよ」
「そりゃ大変だ」
僕は大慌てで、購買部から買ってきたパンをぱくついた。
***
=校内某所=
(準備は、全て終わった)
大きく一つ深呼吸する。後は決行するだけだ。
(“あの子”には可哀想だがな。仕方が無いさ)
あの子が自分で蒔いた種だ。恨むなら、男の本性を見ぬけなかった、己の未熟さを恨むがいい。
そして、内ポケットから一枚の写真を取り出す。二人の少女が……全く同じ顔立ちをした双子の少女が、写っている。個性的な髪型をした左側の少女。三つ編みにした髪を丸めて輪の様にしている。大きなぼんぼりのような髪止めが印象的だ。
一方、右側の少女は対照的に、しなやかな髪を少しもいじらず、そのまま素直に肩までたらしている。装飾的なものは一切付けていない。
二人は、揃って邪気のない明るい微笑みを浮かべ、カメラの方を見つめている。撮影者への好意が、ありありと感じられるスナップだ。
(男の本性を見抜けなかったのは、この子達も一緒か。私が、付いていてやれさえすれば……)
しばしの沈黙の後、ポッと、ライターの火がともった。女の子達の写真が、見る見る燃えて行く。それを見つめる瞳に浮かぶ、冷え切った虚無の影。残された人の感情の全てを、燃え尽きる写真の中に封じ込め、そして“彼”はゆっくりと立ち上がった。
***
放課後、詩織は一人中庭に佇んでいた。昨日はクラブを無断欠席してしまった。今日は休めない。体調不良を理由にすれば不可能ではないけれど、しかし、それには欠席届を書かなくてはならない。今の詩織には、そんな事に神経を使うのも煩わしかった。
ウソをつくのにも気力がいる……。この当たり前の事実に、初めて詩織は気づいた。
(やっぱり行こう。フルートを吹いていれば、いくらか気が紛れるかもしれないし)
そう思い、詩織は立ちあがった。その時である。突然、胸ポケットの携帯電話が鳴り出した。モーツァルトの交響曲第四十番。その有名なフレーズが鳴り響く。
(誰からだろう……?)
知りあいには一応、電話番号を教えてあるが、詩織はそもそも携帯電話が好きではない。それを知っているせいか、詩織に掛けてくる友人はめったにいない。着信表示を見、メモリーにない番号だったので、軽く警戒する。
「……はい。藤崎ですが」
『藤崎さん? ……僕、三島です』
詩織は脳天を直撃されたような衝撃を感じた。思わず、その場にしゃがみこむ。
「み、三島くん…?」
声の震えをどうする事も出来ない。どうやら彼は、障害物の在る所から掛けているらしく、多少聞き取りにくい。詩織は、彼の一言一句を聞き逃すまいと、携帯電話を耳に押し付けた。
『昨日は、ごめん。急なことだったんで、気持ちの整理が付かなくて……』
「……」
『夕べ一晩考えて結論を出したんだ。今から伝説の樹の下に来てくれるかい?』
「……え」
戸惑いと期待が入り混じった複雑な感情が、彼女を襲った。先程までの絶望が、まだ尾を引いていて、気持ちの切り替えが急には出来ない。
『……駄目、かな?』
彼のその声に、ハッと詩織は我に返った。
「だ、駄目じゃありません! ……今すぐ、行きますから!」
『ありがとう』
電話の相手が微笑んだ様に、詩織には感じられた。
『じゃあ、待ってるから。切るね?』
通話は一方的に切れた。そして詩織は、震える体を抱きしめ、そのまま立ちすくんでいた。歓喜の渦が徐々に体内を満たしてくる。彼は一体、誰から私の番号を聞いたんだろう? そんな疑問は、全く湧かなかった。
ふと、腕時計を見る。三時半を既に回っている。
―野球部の練習は四時から―
いけない、急がなくちゃ……! 詩織は脱兎の如く駆け出した。
***
同じ頃、旧部室棟では斎藤と須藤真紀が、お互いの顔をつまらなそうに、見交わしていた。
「なんだい? 今日は三島さん、来てないのかい?」
「さっきちょっと寄ってったんだが。なんか急用が出来たとかで」
「ふ〜ん」
真紀は、ちょっと不満そうな顔をした。孝祐に会えると思って飛んできた自分が、馬鹿らしくなった。そんな真紀の気持ちに気づかない斎藤は、ニヤニヤしている。
「なんだい……? 気味の悪いツラして」
「いや、な……。あんな羨ましい男もこの世には居るんだなあって、俺はつくづくそう思ったよ」
「何の話だ?」
「三島さんの話さ。あの人の急用って、何だと思う?」
「知るか」
「へへ。俺も聞いてびっくりしたんだがよ、なんとあの『きらめき高校のアイドル』が、三島さんにラブレター送ったんだと!」
「なに……?」
真紀の顔が、さっと蒼ざめた。対照的に斉藤の方は、さらに調子に乗って話し続ける。
「それで三島さんは、いそいそとお出かけって訳だ。か〜っ! たまんねぇぜ、全く……。三島さん、今頃よろしくやってるんだろうな。あの藤崎とよ!!」
最後まで聞かずに真紀は立ちあがった。そして、出口に向かう。
「お、おい。どこに行く?」
「決まってるじゃねえか。帰るんだよ。三島さんがいねえのに、てめえの不細工なツラ見てたってしょうがねえ」
「……」
流石に、この一言は効いた。冷や水を頭からぶちまけられたように、押し黙った斉藤。その恨めしげな視線に一顧だに与えず、真紀は旧部室棟を出た。後ろ手で扉を閉め、何故かそのまま立ち尽くしている。
「あの、女狐……」
真紀の表情が、俄かに一変した。三島さんにラブレターを出した、だと? そして三島さんは喜んで……。
(朝日奈なんか構ってるより、藤崎をやるべきだった)
こぶしをぎゅっと握り締めた。優等生のお嬢さん。まだまだネンネの小娘。そう思って、奴の事は頭から無視していたのに。
自分が、このきらめき高校を仕切ってきた二年半。目立ちたがる馬鹿には、一度は必ずレディースの怖さを教えてやって来た。直接暴力に訴えなくても、方法はいろいろある。毎朝登校時に待ち伏せて睨みつけるだけでも、大抵の人間はビビッてしまう。
だが藤崎の事は、ウッカリ忘れていた。アイドルと称される割には万事控えめで、普段の真紀の目に留まらなかったのが大失敗だった。レディースの脅威を知らず、それゆえに奴は増長し、三島さんにラブレターを出すなんて大それた事をしでかしてしまったのだろう。
(くっ……アタシとした事が)
唇を噛み締める。三島さんと奴がくっついてしまえば、もう、手出しは出来なくなる。それからでは、全てが手遅れなのだ。
しばらくして、真紀はふらふらと歩き出した。その横顔には、いつものレディースの姉御としての風格は微塵もなく、心揺れるハイティーンの少女の面影だけが現れていた。
***
体育館の角を曲がったところで、詩織は大きく息をついた。ここから先は伝説の樹まで一直線。塀沿いに自生している林を抜けて行けば良い。裏庭とは名ばかりで、ほとんど手入れされていないその雑木林は、深い藪に覆われ、駆け抜ける事など思いもよらない。
はやる気持ちを懸命に抑えながら、詩織は一歩一歩、慎重に進んで行った。一足進むごとに、三島くんに近づく。その実感が、詩織の胸を高鳴らせる。
「あれ……?」
雑木林をほぼ抜け出ようか、という時、詩織の耳に奇妙な音楽のようなものが聞こえてきた。単調な、しかし聞き覚えのある旋律。
(オルゴール?)
林が切れ、視界がパッと広がると同時に、詩織は、その音の正体に気づいた。“エリーゼのために”……オルゴールの定番として、すでに陳腐なほど聞き慣れた曲だ。どうやら詩織の目的地、伝説の樹の方から聞こえてくるらしい。
(三島くんが鳴らしているのかしら?)
そうだとすれば、彼の感性に改めて心惹かれるものを感じる。単なるスポーツマンではない、豊かな感受性。それこそ、詩織が彼に求めているものなのだ。
「三島くん……?」
伝説の樹まであと五、六歩の所まで来た時、詩織は、おずおずと呼びかけた。
(……)
返事がない。そこにいるなら聞こえないはずはないのに。詩織は不安に駆られて、伝説の樹の向こう側に回ってみようと足を踏み出した。
……コツン。
つま先に、何か当たった。探ると、それは扉の開いたオルゴールの箱だった。開いてはいるが、音はもう止んでいる。詩織は何気なく、その箱を拾い上げようとかがみこんだ。その彼女の視界の隅に、ふと何かがよぎる。
(うん? ……何、あれ?)
真っ黒な塊がそこにあった。草むらの中に、埋もれている。詩織は良く見ようと、一歩近づいた。
***
「うん、なかなかいい出来だわ」
彩子は何度も頷いた。目の前に置かれたキャンバスには、彼女の描く独特の世界が広がっている。まだ完成したものではないが、ここまでの所は納得の行く仕上がりだった。
「これなら、目展も夢じゃないわね」
頬杖をつきながら、うっとりとした目で眺める。新人画家の登竜門として、目展に入選する事は全ての画家の目標だった。片桐彩子もまた、例外ではない。
(そうだ、先生にも見てもらおう)
美術部顧問の芹沢隆広は、部屋にいるはずだ。そう思って、彩子は彼の研究室をノックした。
「先生。いらっしゃいますか?」
おう、と言う返事がして、芹沢先生が姿を見せた。扉の向こうには、パソコンや美術関係の書類に埋もれた彼のデスクが見える。まだ二十代の少壮だが、現代美術の理論研究の第一人者として、日本よりむしろ海外での評価が高い逸材だそうである。
「どうした。片桐?」
「先生の批評が聞きたくて。済みません」
「構わないよ。ちょうど一服つけていたところさ。……どれ」
もの静かな口調で答え、芹沢は彩子の絵を覗き込んだ。普段は大雑把な性格の彩子だが、この時ばかりは神妙な表情でかしこまっている。世間の評価とは全く関係なく、彼女自身、芹沢の力量に最大限の信頼を置いているのだ。だからこそ、自分の作品が彼の目に触れる時は、全身が緊張に包まれるのをどうする事も出来ない。
「…うん。いいね」
しばらくして芹沢が言った。彩子の身体から、ホッと力が抜ける。
「どうやら君も、一時のスランプから抜けた様だな」
「……先生のお蔭です」
「君の実力さ。元々、技術的な事では問題無かったのだから、精神的な課題を克服すればいいだけの話だったんだ。最も、それが君達の年頃では、一番難しいことなんだろうけどね」
芹沢は優しい目で、彩子を見詰めた。
(ああ、先生は何でも知っている……)
彩子は胸が詰まる思いだった。絵を書くのが楽しくて仕方の無かった昔。しかし、一度大きい大会で賞を取ってしまったら、それがプレッシャーとなり、絵が描けなくなった。絵を描くのが苦しくて、何度絵筆を折ろうとしたことか。そんな時に、丁度赴任してきたばかりの芹沢先生と出会ったのだ。
『君は絵を描いてて楽しいかい?』
その一言で、今までの迷いが嘘のように晴れた。芸術は、自分が楽しまなければ、いいものができるはずがない。
(芹沢先生は、忘れていたその事を私に気づかせてくれた。私の大恩人だわ)
「さ、一段落したんなら、お茶にしようか」
「あ……私、いれます」
彩子は、そそくさと炊事場に向かった。ちなみに美術棟の中は、完全冷房されている。ゆえに、真夏でも全ての窓は閉じられているが、炊事場の窓だけは、換気の為もあって開けられていることが多い。彩子は、やかんをコンロの上に乗せながら、ふとその窓の外からオルゴールのようなメロディーが流れてくるのを聞いた。
(はてな?)
彩子は背を伸ばして窓を覗き込もうとした。炊事場の窓は、高い所に取りつけられているために、外を見るのは、かなりの骨である。足元にあったバケツを利用して、やっと地面を見下ろす事に成功した。
(あ、藤崎さんだ)
後ろ姿だが、美しく生えそろった髪と、彼女の特徴であるヘアバンドによって、彩子には、すぐ分かった。
(彼女が鳴らしているのかしら)
一体、何をしてるんだろう? 持ち前の好奇心が首をもたげてきた。もっと良く見ようとつま先だった時。
「……きゃあっ〜!」
突然、凄まじい悲鳴が辺りの空気を引き裂いた。
「どうした! ……何の声だ?!」
芹沢先生が、炊事場に飛び込んでくる。彩子にも、何がなんだか分からなかったが、咄嗟に叫ぶ。
「この下にA組の藤崎さんがいるんです。多分、彼女の悲鳴じゃないか、と……」
そこまで聞いて、芹沢は駆け出した。彩子も慌てて後を追う。階下に降り、彼らは裏口へ向かった。そして、ドアを開けるのももどかしく(ドアは内側から施錠してあった)、裏庭へなだれ込んだ。
「きみ……!」
詩織の後姿をいち早く認めた芹沢が、声をかける。詩織は、ただ一人、地面にへたり込んでいる。別に、外傷は無さそうだが……。
「どうしたの?」
沈黙のまま、ただ肩を震わせている彼女に対し、芹沢は優しく問い掛ける。詩織の唇が微かに動いた。喉から懸命に声を絞り出そうとするが、思う様にならない様だ。
「み…みし…ま…く…」
やっとの思いでそれだけ言うと、詩織は震える手で前方を指差した。それに吊られる様に、芹沢と彩子が前方を凝視する。草むらの中に誰か倒れている。うちの学校の男子生徒のようだ。芹沢は近づきつつ、生い茂る雑草を荒々しく掻き分ける。
「うっ……!」
草むらの中に覆い隠されていた、その男子生徒の顔を見て、彼は思わず呻いた。張り裂けんばかりにむき出された眼球……苦しげに吐き出された舌……明らかに死相を呈している。首に巻きついているのはロープだろうか。だとしたら、絞殺……殺人?!
「片桐君。その子を頼む。美術室の中で、介抱してあげなさい」
芹沢は静かに、しかし有無を言わせぬ調子で命じた。詩織も勿論だが、彩子の目にもこれ以上死体を触れさせるべきではない。教育者らしい判断だった。
もう一度死体を調べ、完全に息絶えているのを確認してから、芹沢も一旦、美術棟に戻った。学校長への報告と、警察への連絡をしなければならない。
裏口をくぐると、一階の美術教室に詩織と彩子がいるのが見えた。備え付けのソファーの上に肩を寄せ合って座っている。彩子がしきりに話しかけているが、詩織は子供の様に泣きじゃくるばかりだ。
その様子を確認し、芹沢は足早に二階に昇った。自室にある電話機で、連絡を取るために。
***
拓也は、その時たまたま職員室の廊下を歩いていた。
「?」
(……何だろう? 中が妙に騒がしいが?)
不審に思い、じっと聞き耳を立てると、声高に叫ぶ教師達の声が途切れ途切れに聞こえてきた。
……生徒が殺された!
……三島孝祐。
……A組の藤崎も一緒だったらしい!
(な、なんだって?!)
拓也は、自分の顔が見る見るこわばって行くのが、分かった。