【第三幕・はぐれそうな天使】


 きらめき高校内は、騒然とした空気に包まれた。明らかに興奮した様子の女子生徒のアナウンスが、繰り返し響き渡る。

『……校内にいる全校生徒に連絡します。現在行われている全ての活動を停止し、その場で待機してください。各サークルは、担当教官の指示に従い、その他の一般生徒は、下校を一旦中止し、自分の教室に戻って指示あるまで……』


「一体、何があったんだ?」

 ショートの守備位置で、野球部キャプテンの山科は呆然としてつぶやいた。ファーストの高瀬が歩み寄り、肩をすくめて言う。

「泥棒でも入ったんじゃないか?」

「……馬鹿な。それで、この大騒ぎか?」

 吐き捨てる様に言って、山科は首を振った。野球部が、ほぼ占拠状態のグラウンドを、憮然とした様子で眺めやる。

「全く。地区予選の真っ最中だってのに。だから他の運動部も遠慮して、俺達に練習場所を譲ってくれてるんだ。時間を無駄にしちゃ、彼らにも済まない」

「そう思ってんのは、お前だけだろう」

 鷹揚とした調子で高瀬が答える。

「俺達は、みんなのんびりやってらあ。なにしろ、甲子園に行けるかどうかは、ウチの看板打者次第。その肝心の三島が、まだ姿を見せてねぇんだからな」

 言われて山科は、ちょっと押し黙った。隣のサードのポジションに遠慮がちに立つ、控えの二年生をジロリと睨む。

「お前が、そんな事を言うから、ほら見ろ。下級生もみんな気合が抜けてやがって。野球は一人でやるんじゃない。九人で、やるんだぞ」

 そう言いつつ、山科も少し不安になったようだ。何しろ、去年の秋からの試合結果を総合すると、自チームの挙げた得点の九十五パーセントまでが三島絡みだ。エースが比較的安定しているからいいようなものの、これで三島が、いなくなったら……。

「おい、下級生! 三島からの連絡はないか……!」

 ベンチに向かって怒鳴った。“ありません”―そんな返事がいくつか響いた。すかさず、脇の高瀬が茶々を入れる。

「どっかのアイドルと、よろしくやってんじゃねぇの? なにしろ、あの“ミシマクン”だからなぁ」

 高瀬の軽口に、山科はキッと目をむいた。

「冗談でもそんな事は言うな! 部員の士気にかかわるって言ってるだろ!」

「へい、へい。まあ、そんなにヒス起こすなって。どっちにしろ、さっきの校内アナウンスじゃ『その場で待機』だ。一休みしようぜ、キャプテン」

 首を一つすくめて高瀬は、そそくさとベンチに引き上げていった。吊られてナインも、ぞろぞろ後に続く。ノックをしていた監督は、今のアナウンスの内容を質しに行ったのか、どこにも見当たらない。一人取り残されて所在無げの山科の目に、気になる光景が飛び込んできた。

 本校舎の方から数人の教師が飛び出し、まっすぐ美術棟の建物へ向かっている。学校長らしき人影も見えるが、彼も小走りだ。歩いている者は一人もいない。

(何か起こったのは、ひょっとして、あそこか)

 校庭の西側に見える美術棟の中に教師達の姿が消えた時、彼方からパトカーのサイレンが響き渡ってきた。一台ではない。その音が津波の様に押し寄せ、校門の前に真っ赤な回転灯の群れが現れた時、山科の不安は一挙に高まった。

(こ、こりゃ、泥棒なんかじゃ……。一体、何が起こったんだ?!)


***


 警視庁捜査一課の小波警部は、何度も関係者の顔を見まわした。第一発見者の女子生徒は、まだ興奮状態で有効な証言など期待できる状態ではない。分かった事と言えば、彼女が被害者に呼び出された事と、発見した時には、相手は既に死んでいた、この二つだけだった。勢い、警部の質問は、残りの二人の人間……当時美術棟の二階にいた芹沢隆広と片桐彩子に向けられる。

「オルゴール?」

 警部は小首を傾げた。彩子は、しっかりとした口調で答える。

「間違いありません。オルゴールの音でした。私、その音色を聞いて窓の外を覗きこみ、藤崎さんを見つけたんですから」

 警部は芹沢の方を向く。

「あなたもお聞きになりましたか?」

「いえ、私には聞こえませんでした。美術室の中におりましたので」

 二階の美術室と炊事場の間には、簡単だが仕切りがある。彩子の耳には届いても、窓が全て閉じられている、室内の芹沢には聞こえなかった模様だ。事件現場の捜査に加わっていた若手刑事が、現場の補足説明をする。

「被害者のすぐ傍に、ねじ式のオルゴールの箱が落ちていました。作動状態で放置してありましたから、多分このオルゴールの音でしょう。本体は今、鑑識に廻してあります」

「ふむ」

 警部は、ほんのちょっと考え込んだ。そして、詩織の方に目をやる。相変わらず彼女の興奮は収まっていない。彩子に代わって、女性教師が側に付いているが、その胸に顔を埋め、幼女のように、ひたすらむせび泣いている。

 ……こうなると美少女も形無しだな。先程ちらりと見た詩織の端正な顔を思い出し、警部は肩をすくめた。

「……それで、ええと、片桐さんでしたか。あなたが下を見たら、ここにいる藤崎さんが立っているのが見えたんですね?」

「そうです」

「彼女は何をしていました?」

「“伝説の樹”の方へ歩いて行きました。誰かに呼びかけていたようですが、相手の名前までは、聞こえませんでした。そして樹の側まで行ったら、急にしゃがみこんだんです」

「ふん。それで?」

「私、藤崎さんの姿が見えなくなったんで、もっと背を伸ばそうと、足元をちょっと移動させました。その為、下を向いていたら、突然、彼女の悲鳴が」

「……辺りの様子は、どうでした? 窓を覗き込んでから、その時まで。犯人らしい人影とか」

「藤崎さんしか見えませんでした」

 彩子がそう答えた時だった。外が急に騒がしくなったと思うと、二人の男がなだれ込んできた。一人は警官。そしてもう一人は。

「……詩織! そこにいるのか?!」

 突然の闖入者。警官は、彼を制止しようとしているらしい。その大騒ぎを聞いて、それまでひたすら嗚咽を漏らしていた詩織が、ハッと顔を上げた。

「こ、こら! 駄目だと言ってるだろう! すぐ出て行かないと公務執行妨害で……」

 若い警官が、真っ赤な顔で喚く。そして侵入者の腕を掴んで引きずり出そうとする。

(ここの生徒か……)

 小波警部は苦い顔をした。そして、早く追い出せ、と言おうとした、が。

「たっくん!」

 いきなり後ろから突き飛ばされて、警部はアッと驚く。尻餅をつき、無様に這いつくばった彼の目に、翻るスカートの残像が残る。そして彼女は、侵入してきた男の傍に一目散に駆け寄り、ヒシと抱きついた。

「たっくん……たっくん」

「詩織……」

 高まる嗚咽を抑えもせず、詩織は、ただ拓也の腕に縋り付く。そのまま二人は、身じろぎもせずに抱き合った。まるで、互いがそこにいることを確かめ合うように。周りの人間は、それをただ呆然と見守るだけであった。


「あれは……誰です?」

 ややあって、小波警部が不機嫌そうに口を開いた。三年生の学年主任の教師が、額の汗をぬぐいながら答える。

「三年A組の本条拓也です。あの女子生徒の隣りの家に住んでまして……まあ、幼馴染ですな」

「ふむ」

 まったく、捜査の邪魔をしくさって。一旦は、腹を立てた小波警部だったが、二人の様子を見ているうちに少し気が変わってきた。いずれにしても、第一発見者の詩織の気持ちが落ち着かなくては、詳しく話を聞くことも出来ない。こいつがいれば、少しは彼女の気も静まるだろう。

「ああ、いいから放っておけ」

 どうしましょう?……と言う顔で次の指図を待つ若手警官に、軽く手を振った。そして、拓也の方に向き直る。

「本条君、だそうだね。いきなり入って来ちゃ困るな。だがまあ、藤崎君も少し混乱しているようだし、異例の事だが、彼女が落ち着くまで、傍に居てやってくれたまえ」

「はい。ありがとうございます」

 警部は詩織の方をちらりと眺めた。頬に赤味が差している。……それなりの効果はあるようだ、と一人頷いた。

 改めて、当時の状況を調べなおそうとした時、周囲の聞き込みをしていた刑事が帰ってきた。小波警部を部屋の隅に呼び、小声で話をする。

「被害者の行動が、ある程度掴めました。……彼は、六時間目の授業に出てます。その後すぐに教室を出て、途中の足取りは不明ですが、三時十分頃には、そこの体育館の角で目撃されています」

「目撃者の名前は?」

「当時、そこで練習していた『彩』と言う名のバンドの連中です。彼らは、藤崎が通るのも、それから二、三十分後に見たそうです。彼らが見たのはこの二人だけで、後は誰も通らなかった、と言ってます」

「三島と藤崎以外には通らなかった。そして三島は、遅くとも三時十五分頃には既に、この“伝説の樹”とやらの下へ来ていたんだな。ふむ」

 警部は詩織の方へ視線を移した。

「お嬢さん。あなたに被害者から電話があったのは何時頃でしたかな?」

 詩織はだいぶ落ち着いていた。体の震えもとれ、はっきりした口調で答える。もっともその手は、拓也の腕をまだ、しっかりと握り締めていたが。

「三時三十分頃だったと思います」

「間違い在りませんか?」

「その時、時計で確認しましたから間違いありません。彼の野球部の練習開始が、四時からだと知ってましたので、“急がなくちゃ”と思ったのを覚えています」

 警部は頷いた。この証言には、特に問題はない。つまり被害者は、間違いなく三時半までは生きていたわけだ。脇に居た、別の刑事が口を挟む。

「被害者の携帯電話に残されていた発信履歴でも、時間は確認できました。念のため、電話会社にも照会しています」

「携帯の履歴は重要な手がかりだ。過去三ヶ月ぐらいまでさかのぼって、徹底的に追え」

「分かりました」

 警部がその刑事と話をしていた時、拓也と詩織も、小声で会話を交わしていた。

「三島から呼び出されたの?」

「……ごめんなさい」

「謝る事なんてないよ。それよりその声、本当に三島の声だった?」

 え…? という顔で詩織が拓也を見た。

「だってさ、ケータイの声って場所によってはすごく聞きづらいから。それに……」

(詩織と三島が、面と向かって話してるのって、見たこと無かったし)

 拓也の言いたい事が分かったらしく、詩織は、ちょっと顔を赤らめた。

「……そう言えば……私、彼と直接話したことはないから、確かに彼の声かと言われると……」

 詩織がそこまで言った時だった。二人の様子に気づいた小波警部が慌てて飛んでくる。

「こ、こら! 一緒に居てもいいとは言ったが、内緒話をしてもいいとは言っておらんぞ!」

 そう言うと、彼は拓也の顔を睨みつけた。

「言っておくが、第一発見者というのは、被疑者、もしくはそれに類するものに分類されるんだ。今は、彼女の取調べ中なんだぞ!」


 詩織の顔がさっと蒼ざめた。私、疑われてるの…? 拓也も思わず警部の目を、キッと睨み返す。

「詩織は潔白です! 何もしていない!」

 その拓也の剣幕に小波警部も、ちょっとたじろいだ。

「い、いや、別に彼女が犯人だなんて決め付けてる訳じゃないんだよ」

 警部は、ゴホンとわざとらしく咳をした。

「まあ、とにかくだ。事情聴取が終わるまで私語は慎むように。出来なければ、出て行ってもらうしかない。分かったね」

 そう言うと、彼はなんとなくばつの悪そうな顔で、辺りを見まわした。証拠も無いのに、詩織の事を容疑者呼ばわりしたことに、引け目を感じたのかもしれない。

「……そう言えば先生。他の美術部員は、どうしたのですかな? この片桐さんという子以外の部員は、誰もおらんようですが」

 居れば、もっと有益な証言が集まるかもしれないのに。そう思いつつ、芹沢に聞く。聞かれた芹沢は、一つ頷いて答える。

「今日は、市内の美術会館で人物デッサンの講習会がありましてね。毎月第三水曜日にあるんです。うちの部員は、原則的に全員が参加しています」

 全員……? 警部は、訝しげに彩子を見る。

「片桐くんは別ですよ。彼女には今更、基礎をやる必要も時間も無い。彼女は……」

 そう言って芹沢は、彩子に微笑みかけた。

「天才ですから」

「そんな……。先生」

 彩子が照れた様に頭を掻いた。小波警部が肩をすくめる。若き現代美術の権威に、学園一の美少女……それに天才少女画家か。なんとも豪華な事件関係者だな。そのうえ被害者は、ドラフト上位指名確実だったスラッガーと来てる。

(新聞記者どもが知ったら、大喜びするだろう)

 この種の事件では、噂話と言う奴が一番怖い。話に尾鰭がついて、ガセも事実もごっちゃになってしまう。昔、神戸で在った「連続児童殺害事件」でも、報道の独走で、やたらとその種の“真実”が膨らんだものだった。犯人が中学生だと知った時、彼らはどんな顔をしたのだろうか。

「それでは参考の為に、当日のあなた方の行動を聞かせてもらえますかな」

 警部は芹沢と彩子の方を向いて行った。芹沢が、まず答える。

「午後は野外実習でした。三年A組とB組を引率して、中央公園へ出かけたんです」

「A組というと、そこにいる藤崎さんの所属するクラスですな。受験を間近に控えて野外実習とは、少し意外な気もしますが」

 そう言われて、芹沢は苦笑する。

「まあ、忙中閑在り、と申しましょうか、その受験勉強の息抜きみたいなもんですよ」

 一応そう答えた後、芹沢は少し真顔になった。

「ま、高校の中には、受験生のカリキュラムから、情操教育は愚か、体育さえも除いている所があるようですが、常々これは、嘆かわしい事だと思っておりましてね。人生の一番大事な時だからこそ、受験テクニックだけでなく、豊かな感性を身に着けなければいけないと思います。心・技・体ですか。その方が、結局は受験勉強の効率も上がる。私は、そう信じています」

 話が教育論に発展しそうになったので、警部は素知らぬ顔で本筋に戻す。

「成る程、ごもっともです。それで実習先の中央公園から学校に戻ってこられたのは?」

「二時半頃だったと思います」

「それから、どうしました?」

「生徒は、画材道具を片付けてから教室に帰りました。私は、この研究室に戻り、後は片桐くんが呼びに来るまで、中に居りました」

「判りました。じゃあ、次にお嬢さんに聞きましょう。え……と、片桐さんは、何時頃ここへ来ましたかな?」

 質問が彩子に向けられた。彩子は少し考えて答える。

「そうですね……。六時間目の授業が終わったのが三時で……その後、購買部に寄りましたから……なんのかんので、三時半ぐらいには、なってたかしら」

「……意外に時間がかかりましたね?」

「だって、友達なんかに会ったら、そのまま、ハイさよならって訳には、いかないでしょう?」

「まあ、それはそうですね。それから?」

「キャンバスに掛けておいた布をどけて、昨日まで描いていた絵を眺めたんです。絵ってね、一晩経つとガラリと印象が変わる時があるのよ。自分の気持ちの方が変わるんだと思うけどね。……それで、ある程度納得したような気がしたから、先生を呼んだんです」

「……そこの研究室ですね?」

 美術室の北側にある扉を指差した。研究室には、そこ以外に出入り口はない。

「そうよ」

 彩子は、軽くウィンクしながら答える。小波警部は、先程見せてもらった研究室の中を思い浮かべた。北側に窓が開いているだけのシンプルな部屋。中は資料でいっぱいで、足の踏み場も無かった。

「そしたら先生が出てきてくれて。後は、ずっと一緒だったわ」

 成る程……小波警部は頷いた。

(結局、三島孝祐が三時半まで生きていたと言う証言が間違いないとすれば、この二人は、事件には、ほぼ関係無い、と言う事だな)

 しかし。警部は頭を捻った。三島が三時十五分頃に現場に来たとして、藤崎に電話を掛けた三時半まで、十五分も何をしていたんだろう? 電話の内容が、なにしろラブ・コールだから、暫く気持ちを落ち着けていたのかもしれないが。

 それと、オルゴールの問題が残っている。刑事の話では、ねじ式のものだったらしい。あれは電池式などと違い、そう長い間鳴っているものではない。自分の娘が持っているのをいたずらした事があるが、一杯にねじを巻いていても、せいぜい五、六分も経てば止まってしまう。現に、芹沢と片桐が現場に駆けつけたときには、もう音は止まっていたと言っている。と、言う事は。

(藤崎が現場に来たのが、彼女の証言通り三時四十分から四十五分頃だと仮定して……)

 長くてもその五、六分前に、オルゴールのふたを開けた人物が居るわけだ。それが犯人なのか、まだ生きていた三島なのかは、大した問題じゃない。問題は、その時点で犯人が被害者の傍に居た、と言う点だ。

(三島が開けたとすれば、犯行はその後と言う事になるし、三島がすでに死んでいたとすれば、オルゴールを鳴らしたのは犯人、と言う、当然の結果になる)

 そして、ここで重要な証言が一つ。先程の刑事の聞き込みでは、当時、裏庭を通ったのは三島と藤崎だけだったらしい。これは体育館脇に居た、「彩」と言う名のバンドのメンバーが証言している。

 となると犯人は、仮に「彩」が体育館脇で練習を始めた、三時以前に現場に入ったとしても、犯行後は、美術棟を通って校庭側に逃走を図るしかない。が、実は警部自身の聞き込みで、その可能性も否定されている。工事現場の、校庭側出入り口に立っていたガードマンが、「その時間に、美術棟から外に出てきた人はいない」と言っているのだ。ちなみに、先程確認した芹沢と片桐が美術棟に入った時刻は、このガードマンの証言によって既に明らかになっている。二人は決して嘘を言っていないし、それによってガードマンの証言もまた、信憑性を増した。と、なると。

(簡単な事だ。オルゴールが鳴った時に、現場に居たのは二人だけ。三島孝祐と藤崎詩織だけだ。その一人が被害者だった以上、残されたもう一人の人間が……)


 ―『犯人』。


(別に突飛な発想ではない。「絞殺」と言う手段は、一見、女性には不可能に見えるが、最近はスタンガンとか、女性でも男性の自由を奪う方法がいろいろあるからな。無抵抗の相手だったら、女の子でも可能だろう)

 ―いよいよ、藤崎を本格的に取り調べる時が来た―

 小波警部は、密かに舌なめずりをした。


***


 その頃、館林見晴は校舎の屋上に立っていた。じっと眼下を……校庭のはずれの“伝説の樹”を見下ろしている。

(遅かった。私の来るのが、遅すぎた)

 唇をぎゅっと噛む。

(もう一日。せめて、もう一日、早かったら……)

 そうすれば、この悲劇を止められたかもしれない。私が現れれば、まさか、その前でこんな怖ろしいことは、起きなかったろう。

(これ以上、悲しい思いは、したくなかったのに)

 チィちゃん…見晴は心の中で叫んだ。

 ―私を……あの人を、助けて!


***


(……ぞくっ)

 警部から感じる異様な気配に、詩織は背筋が寒くなった。全身に鳥肌が立つのを感じる。詩織を見つめる彼の目は、獲物を狙う蛇の様だ。相手が警察の人間だと承知していなかったら、詩織は、おそらくキャッと言って逃げ出していただろう。

「さて、それでは第一発見者の方に聞きましょうかな」

 わざとのんびりした調子で言う。

「多少、プライベートな事もお聞かせ願いたいので、別室に来ていただけますか?」

 丁寧な口調だったが、有無を言わせるつもりが無い事は分かり切っている。拓也が、念のために尋ねる。

「僕がついていては、まずいでしょうか」

「駄目です」

 一言の元に拒否された。

「……たっくん」

 詩織が、縋りつくような目で見上げる。その哀れさに胸迫るものを覚えながら、拓也は無理に微笑んだ。

「大丈夫だよ。何も後ろ暗い事は無いんだし、知ってる事を正直に話してくれば、それで済むよ」

「でも、さっき……」

 詩織は、警部をちらりと見た。

 ―第一発見者は被疑者、もしくはそれに類するものと分類される。

 あの人は、そう言っていたのではなかったの?

「え〜と先生。そこの研究室を、少しの間お借りしてよろしいかな?」

「ええ、どうぞ。汚くしていて恥ずかしいですが」

 警部の要請に、芹沢が自分で立ってカギを開けた。そして、そのカギを警部に預ける。

「じゃあ、お借りしますよ。……さあ、藤崎さん、来てください」

 詩織は観念した様に立ちあがった。拓也がその手を捉え、ぎゅっと握り締める。……と、少しだけ彼女が微笑んだような気がした。

「……」

 後は無言のまま、詩織は警部に従い研究室の扉の中に消えた。

[Prev] [Home] [Next]