【第四幕・君につなぐメロディー】


 この世には何故、男と女がいるんだろう?

みんなおんなじだったら、こんなに気楽な事はないのに。

 ふぅ……。

 愛は心の底からため息をついた。

(詩織ちゃんとは、もう駄目なのかな……)

 そんな事は思いたくない。詩織と愛は、この世で最も親しく、互いを理解している親友同士。今でもそう思っているし、これからもそうでありたいと願っている。私だけの思い込みではない。詩織だってそう思っているはずだ。それは間違いない。けど……。


 ―三島孝祐―


 彼が……あの素敵な人が、二人の心に、同時に棲みついている事に気づいてしまった、あの時から。私の心の中に、彼女を疎ましく思う感情が、どこからともなく忍び寄ってきた。それは誤魔化しようも無い事実。詩織と出会わなければ良かった。彼女の事を知らなければ良かった。そんな思いが、どす黒い雲の様に沸き起こる。

(女って駄目だな……)

 所詮は、自分の事しか考えていないんだ。詩織と親友づきあいしていたのも、それが自分にとって都合が良かっただけかもしれない。都合が悪くなれば、平気で捨て去ることが出来る。憎むことさえ出来る。こんな私達が、果たして親友と呼べるんだろうか?

 愛は小学校の時に読んだ、「走れメロス」と言う話を思い出した。親友との約束を果たすため、自分の身の破滅を省みず戻ってきたメロス。親友とは、こういうものなんだ。愛は、ずっとそう信じ、疑わなかった。

 しかし今、彼女の心にはメロスはいない。詩織の危難を救うためだったら、自分は何でもするだろう。自分を犠牲にする事も厭わない。でも、三島くんだけは別だ。いくら親友のためでも、彼だけは譲れない。

(いっそのこと、彼が、他の誰かと結ばれてしまえば)

 その方がよっぽどいい。それなら納得できるし、詩織と慰め合う事も出来る。二人は、今まで以上に仲の良い親友になるだろう。

 

 愛がそんな事を考えていた時だった。自室の電話が突然鳴り響いた。愛は、すぐ電話を取る。

「……はい。美樹原です」

 電話の相手は、クラスメートだった。親友とは呼べないが、まあ親しく付き合っている女の子。情報通で、それを他人に教えるのを大の楽しみにしている。

『ねえ、ねえ! 聞いた? 学校の事件!』

「事件……?」

『やっぱり知らないんだ。愛って、いつも一人でさっさと帰っちゃうから』

「……何かあったの?」

『何かあったってもんじゃないよ。驚きなさんな。大事件よ、殺人事件!」

 さすがに愛もギョッとした。ホラー映画が好きと言う、ちょっと変わった嗜好を持つ彼女だが、それはあくまで空想の中の話。自分の学校で人殺しが起こったとすれば、興味よりも怯えが先に来る。

「だ、誰が死んだの……?」

『それがね』

 電話の向こうに、得意気な彼女の様子が浮かぶ。

『驚きなさんな。なんと、野球部のスーパースター、三島孝祐よ!』

「えっ!」

 愛の顔が、一瞬にして蒼白になった。受話器が手の平を滑り落ちる。

『……ね、ねえ! ……どうしたのよ! 愛ってば? ねえ!』

 足元に転がった受話器から響く声。しかし、愛の耳にはもう、何も聞こえていなかった。


***


 疲れきった表情の詩織を見つめ、その、あまりな傷ましさに、拓也は胸もつぶれる思いだった。警部の尋問(それはもう、質問というレベルではなかったらしい)に必死に堪え、自分を見失いそうな屈辱にさらされ……それでも、彼女は涙を流さなかった。堂々と自分の主張を繰り返し、潔白を訴えた。

 もちろん、動揺が無かったと言えば嘘になる。三島へのラブレター一つとっても、思春期の少女としては、第三者に知られたくなかったに違いない。しかし。

 結局は、そのラブレターが彼女を救った。三島の教室の机の中から発見されたそれは、彼女の切々たる想いと共に、三島と詩織が全くの他人であり、一方的に憧れるだけの関係であったことを証明していた。

 携帯電話の履歴もまた、彼女に味方した。そこには、詩織と三島との交友を物語る、どんな記録も存在しなかった。その結果警部は、不本意ながら詩織への質問を打ち切らざるを得なくなったのだ。


 ……しかし。


 小波警部が、それで決して諦めたのではない事は、詩織にも拓也にも、充分わかっていた。

「携帯電話の件は言ってみた?」

「え?」

「ほら、さっき僕が聞いたろ。三島からの呼び出しが、本当に彼からだったか、と言う」

「うん……。私、三島くんの声、実は良く知らなかったって……」

「言ったの?」

 詩織は頷いた。しかしすぐかぶりを振る。

「話を聞いてくれなかった。『さっきは、三島からの電話だと言ったじゃないか』の一点張りで」

「……」

 頭の固い男だ。初めに先入観が出来ると、変更できないタイプなのだろう。よく言えば頑固。しかし柔軟性に欠ける……。

 そんな男だとすれば、一旦、詩織に掛けた疑いを解くことは容易な事ではないだろう。それだけではない。捜査の方向を固定化してしまえば、本当の真実を見失ってしまう可能性すらある。

「詩織。僕は決めたよ」

「え?」

 訝しげに拓也を見る詩織。そんな彼女に拓也は、宣言する。

「僕が犯人を捕まえる」

「……たっくんが?」

「それしかない。君を守る方法は、それしかないんだ」

 詩織は黙って拓也を見つめた。

「僕は君を守らなくちゃならない。小さい時からそう思ってた」

「小さい時から?」

「君のお母さんから、そう言われていたからね。大きくなって……勉強でもスポーツでも、君の方がずっと優秀で……そうなっても、あの人は、ずっと言っていた。僕を頼りにしてくれていた。“拓也君。詩織を守ってあげてね”って」

「たっくん……」

「僕は、その信頼に応えたい。もちろん僕も男だから、個人的な理由もあるけどさ。それは恥ずかしいから、聞かないでくれよ。はは……」

 詩織の目に涙がにじんだ。それを見て拓也は、少し照れながら言う。

「はは…。なんか、かっこいい事言っちゃったね。本人を目の前にしてこんなこと……。どうかしてるな、僕」

「ううん」

 詩織は、大きくかぶりを振った。涙のあふれ出るのを拭おうともせず、拓也の腕にしがみつく。

「私、今改めて思うよ。あなたの幼馴染で良かったって」

「詩織……」

 すでに辺りは真っ暗になっている。しかし二人の心は、これから迎えるであろう「二人の時」の予感に震え……静かに燃え上がっていった。


***


 翌日、きらめき高校は臨時休校になった。学校内外の無用な混乱を避ける為、と言うのが、表向きの理由らしい。拓也は、この、急に与えられた休日を有効に使おうと考えた。

(まず、三島の周辺を徹底的に調べる事だ)

 殺人者が誰であるにしろ、その動機は必ず、三島自身を洗えば出てくるはずだ。警察だって、その方面の捜査に怠りはないだろうが、第三者である彼らと、同じ高校の生徒である自分とは、モノの見方が全然違うかもしれない。

(山科の所へ行ってみよう)

 野球部キャプテンの山科は、偶然ながら、拓也と同じ三年A組である。三島の事は、彼に聞くのが一番だろう。手早く着替えて、家を飛び出す。そして、隣の詩織の家をちらりと眺めた。

(刑事みたいな奴はいないな)

 張り込みでもしてるか、と思ったが、それは取り越し苦労だったらしい。もっとも、素人の拓也にもわかるような張り込みだったら、始めからやらない方が無難だとも言えるが。


 夏の早朝は、空気がさわやかだった。もう少し経つと、ムッと暑くなる。つかの間の爽やかさを求めて、かなりの人が路上に散歩に出ていた。

(あれ……?)

 山科の家に来たら、彼が庭に出てバットを振っているのが見えた。ちょうどいい。拓也は、すぐ声を掛ける。

「やあ、山科!」

「? ……なんだ。本条か」

 こんな朝っぱらから、何しに来た……と言う表情だ。

「ちょっと聞きたいことがあってね。いいかな?」

「ふ〜ん。……まあ、いいや。あがれよ」

 二人は二階の山科の部屋に昇った。アイドルのポスター一つ無い殺風景な部屋だ。彼の生真面目な性格が窺われる。山科がタオルで顔を拭いつつ言う。

「タイミング的には、ちょうど良かったな。もう少ししたら出かける所だった」

「何か用事があるのか?」

「三島の件で、ちょっとな。部員全員に召集が掛かってるんだよ」

 そう言うと山科は、ちらりと時計を見た。あまり時間がなさそうだ……そう思った拓也は、いきなり本題に入ることにした。

「実は、僕の用も、その三島の事なんだ」

 拓也は事件のあらましを隠さず話した。もちろん、詩織に掛けられた嫌疑の事も含めてだ。その方が、同級生の彼の協力を得やすい。案の定、彼は非常に興味を示し、詩織の立場に同情してくれた。

「判った。何でも聞いてくれ」

「助かる。まず第一に三島の家庭環境だが」

 そう聞くと、山科は迷わず答える。

「両親は健在。父親は不動産会社を経営していて、かなり裕福だと言う話だ。兄弟は、中学生の弟が一人いる」

 この三島の弟もスポーツが得意で、中学のサッカー部で鳴らしているそうだ、と付け加えて山科は、ちょっと声を潜めた。

「それと……これは孝祐の奴が、あまり噂にするな、と言っていたんだが、母方の親戚に政治家がいるらしい。何でも、保守党の幹事長まで務めた大物だそうだ」

「へえ、それは初耳だ」

「孝祐は、そういうプライベートな事は語りたがらないんだ。だが、俺達のあいだじゃ、『“空白の一日”でも使うんじゃないか』。その為に政治家との血縁関係を隠してるんじゃないかって、邪推する奴もいたがね」

 “空白の一日”とは、随分昔の話になるが、元巨人軍の江川卓投手が、当時のドラフト制度の裏をかいて、強引に希望球団に入団した時の方法だ。今では野球協約が改正されて、この手段を使うわけにはいかないが、あの事件の時も陰で糸を引いていた某大物政治家の存在が、指摘されている。今年のドラフトは例年以上に好選手がひしめいていて、三島ほどの実力者でも、希望球団に入れるかどうか、微妙な所らしい。彼自身はともかく、所属するきらめき高校の、球界での知名度が無きに等しいのが最大のネックだった。ゆえにキナ臭い噂も出てくるのである。

「まあ、今回の事件には、流石に関係無いだろうが」

「……うん」

 拓也は頷いた。しかし、そんな有力な後ろ盾が彼に付いているとすれば、三島の個人的な“力”は相当なものだと推測できる。拓也のような一介の高校生には想像も出来ないが、その政治的な“力”の反動が、三島本人に振りかかってくる事もあり得るだろう。つまり政治権力の裏に常に蠢く裏社会との、なんらかのトラブルの可能性である。

「友人関係は、どうだ?」

 拓也は、話を移す。殺人の動機は、やはり被害者の身近な線から探るべきだろう。

「知っての通りさ。奴の事を知らない奴はウチの高校には、一人もいない。友達は、かなり多いだろう」

「特に親しくしてる奴はいたかい?」

「俺達、野球部員とは、それなりにな。しかし秘密の多い奴だったんで、それ以外はちょっと、な」

「女友達は……?」

 その質問には、山科は少し慎重になった。三島本人よりも、その相手の方に気を使ったのかもしれない。

「沢山いたな。あのルックスだ。無理ないだろ?」

 そう言って、山科はちょっと首を捻った。

「しかし不思議なことに、特定の彼女は、いなかったな。奴なら、どんな相手でも望み放題だったろうに。それこそ、『きらめき高校のアイドル』でもな。……おっと、これは失言だ。ごめん」

 山科は大慌てで頭を下げる。拓也は、微かに感じた胸の痛みを抑え、笑顔を作った。

「気にするな。それより、三島には特定の彼女がいなかったって?」

「手当たり次第に付き合っていた様だが、深い付き合いをした子は一人もいないと言う話だ。なんか、女の子と深く付き合うのを恐れていたように見えた。結局、全部遊びで終わっていたらしい」

 遊び……女の子と深く付き合うのを恐れていた? 拓也は、その山科の表現が気になった。

「恐れていたって?」

「俺には、そう見えた。まあ、高瀬辺りに言わせると、それがプレイボーイってものらしいけどな」

「……一人の女の子と深く付き合うと、別の子と自由に遊べなくなる、ということか」

「そうなんだとさ。俺には、どっちでもいい事だから、気にもしなかったが」

 そう言えば……。拓也にも思い当たるふしがある。女性関係の派手な噂では、きらめき高校随一と言っていい三島だったが、不思議なことに「三島に捨てられた」という女の子の話は、聞いた事がない。それはすなわち彼女らと、それほど深く付き合っていなかったという事なのか?

 たとえ肉体関係が在ったとしても、その場限りの事で終わってしまえば、「深い付き合い」にはならないだろう。


 ―深く付き合うのを恐れていた―


 これは何を意味するんだろう?


 二人は、しばらく押し黙った。山科にしても、あまり得意ではない女の子の話題が出たので、気が引けるものを感じているのかもしれない。拓也は、話の接ぎ穂を探そうとして辺りを見まわした。

「あれ? これなんだ?」

「ん……?」

 サイドテーブルの上に、何枚かのチラシのようなものが無造作に置いてあった。旅行の案内のようだ。

「ああ。これは、夏の合宿所のパンフレットだよ」

「合宿か。もう、そう言う季節だもんな」

「今年は中止だと思ってたんだがな。甲子園に行けそうだと踏んでたのに」

 すでに地区大会のベスト4にまでコマを進めていたきらめき高校だが、三島抜きでは、これ以上は、まず無理だろう。それ以前に部員が殺されると言う、今回のこの不祥事だ。学校当局から、今後の出場を辞退するよう言ってくるかもしれない。

「ああ、さっきの部員の召集って……」

「それもある。後はまあ、三島の葬式の手伝いの相談だな」

 山科は気の乗らない声で言った。無理もあるまい。野球部員にとって、夏の旅行の行先が、甲子園と合宿所では雲泥の差だろうし。拓也は、山科の気を引き立てようとして、手元のパンフレットを一冊取り上げる。

「綺麗な合宿所だな。伊豆の方か。いつも、ここに行くのか?」

「いや、毎年違う。今年は伊豆を中心に資料を取り寄せたんだが、去年は静岡、おととしは千葉だった」

 千葉……?

(はてな。最近どこかで聞いたような地名だが。どこで聞いたんだっけ?)

 拓也は、首を捻った。事件とは全く関係の無い記憶らしく、咄嗟に思い出せない。

「さて、そろそろ時間だが、もういいか? 三島の事は、またゆっくり話してやるよ」

 そう言って、山科は立ち上がった。拓也も頷き、彼の家を辞去することにした。


***


「よう!」

 山科の家を出て、しばらく考え事をしながら歩いていたら、突然声を掛けられた。振り返ると、やはり同じクラスの早乙女好雄だった。

「なんだ、お前か」

「どこへ行くんだ?」

「……ちょっとな」

 三島の事件について調べているんだ……そう言おうとして、拓也は思いとどまった。好雄は付き合いが広いから、事件の有効な情報を持っているかもしれない。が、その反面、非常に口が軽いから、奴に話した事は全てがオープンになってしまう危険がある。

(まだ右も左も分からん内から、奴を利用するのは考え物だな)

 そう思った拓也は、あたりさわりの無い返事をして、逆に好雄の事を聞いた。

「お前こそ、どこへ行くんだ?」

「夕子のとこ」

「夕子?」

 朝日奈さんの事だ。好雄と朝日奈さんは中学校の時の同級生で、今はクラスこそ違うものの、そんな事には無頓着な二人は、いつも一緒になって大騒ぎしている。

(まあ、似たもの同士って訳だ。本人達は“腐れ縁”と称してるが)

「朝日奈さんと、二人でどこかに遊びに行くのか?」

 軽い気持ちで聞いた拓也に対し、好雄は何やら口ごもる。

「いや、そうじゃないんだ。なんか、奴が寝込んでるって聞いてな。見舞ってやろうと思って」

「寝込んでる? 朝日奈さんが? へぇ、そりゃ珍しい」

「ところが、病気で寝込んでるんじゃないらしいんだ。なあ、拓也」

 好雄が慣れ慣れしく擦り寄ってきた。こういう時には気をつけないと、奴にどんな頼みごとをされるかわからない。長い付き合いの拓也は、警戒した。

「お前も一緒に、夕子の家に来てくれよ」

「僕が? ……何で?」

 好雄は、ちょっと迷った挙句に言った。

「夕子な……。病気じゃなくて、リンチされたらしいんだ」

「リ、リンチ? 誰に?」

「レディースの連中らしい」

「……げっ。須藤真紀か」

 拓也の脳裏にきらめきレディース、いや、彼女達の表現で言うと「奇羅女鬼れでぃーす」の、恐ろしげなメンバーの顔が浮かんできた。彼女らとは、つい先日J組の教室前で出くわしたばかりだ。

「……それは災難だったなぁ」

「夕子ってさ、あんな感じだから誤解されやすいけど、ホントは気さくないい奴なんだ」

「ああ。僕も、そう思うよ」

「なら、頼むよ。夕子の奴、相当ショック受けてると思うんだ。俺一人じゃ、気が重くって」

 結局拓也は、好雄の懇願に負けて朝日奈さんの家に向かうことになった。事件の事が気にならないわけではないが、友情には代えられない。 

      

***


 鏡餅みたいに膨らんだほっぺたに、大きな湿布薬を貼った痛々しい姿で、朝日奈さんは布団に寝ていた。彼女のお母さんの話では、これでもだいぶ腫れがひいてきたとの事だ。

「よしおぅ〜……」

 哀れな声で朝日奈さんが呼ぶ。恋人同士なら、手のひとつも握る場面だが、好雄は心配そうに覗き込んだだけだった。この辺の不器用さが好雄らしい。

「朝日奈さん、大丈夫?」

 拓也も何か言わなくちゃ、と思って声を掛ける。

「拓也くんも来てくれたんだ……。う……」

 気が高ぶったのか、彼女の目から一粒、二粒、涙がこぼれおちた。いつもの“ウソ泣き”とは、明らかに違う。普段の脳天気な……いや、もとい、溌剌とした朝日奈さんの様子を知っている拓也は、殊更不憫に感じた。

「……まだ痛むか?」

 好雄の問いに、朝日奈さんはコックリ頷いた。好雄が拓也に言う。

「全く、酷い事しやがるなあ。夕子が一体何をしたってんだ」

「学校の中で、だからな。先生達にも責任があると思うよ」

 二人は、顔を見合わせてため息をついた。先生の責任。言うは易いが、実際にレディースの恐ろしさを知っている二人にすれば、先生達が手を出せない理由もまた、良くわかっていた。限度を知らない彼女達の暴力に掛かれば、先生とて命の保証はない。

「でも、レディースのリンチで、よくビンタだけで済んだな。不幸中の幸いだぜ」

 好雄が気を引き立てるように言う。実際、彼らが聞いた話では、レディースの制裁はこんなものでは済まないらしい。須藤真紀という女の性格なのだろうが、やられたものは病院送りになるのが普通なのだそうだ。

「あたし、抵抗しなかったから……。それと電話のおかげかも」

「電話……?」

 好雄は不思議そうな顔で聞き返した。朝日奈さんは、その時の事を思い出すような顔で話し続ける。

「ケータイがかかってきたの。そしたら、真紀の奴が急にそわそわしだして……」

 話すと口の中が痛むのか、朝日奈さんは少し顔をしかめた。

「出て行っちゃたの。『三島さんに呼ばれた。後は適当にやっとけ』って。それで助かったわけ」

 三島に呼ばれた? 夕子の言葉を聞き、拓也は全身が硬直するのを感じた。

「三島……って、確かに言ったの?」

「間違い無いよ。どこの三島だか知らないけど」

 そう、他の人間にとっては、そうかも知れない。特に朝日奈さんは、根がミーハーだとは言ってもスポーツより音楽系へのこだわりが強く、野球部のヒーローなんて存在には、始めから無関心だ。

 しかし拓也にとっては、もちろん違う。三島とレディースのリーダー……この意外な組み合わせに、事件の謎を解くカギが、ひょっとして?


 手がかりの全く無い絶望的な状況の中で、やっと一筋の光が見えたような気がする。拓也は、そう思った。


***


 その日のお昼過ぎ。きらめき通りの繁華街から、ちょっと路地裏に入った目立たない所に、一軒のアングラ喫茶があった。始めから真っ当な商売をする気もないらしく、看板などもおざなりで、不良達の格好の溜まり場になっている。まだ真昼間なので、客の姿はほとんど見えず、斎藤と真紀のグループだけが、先程からずっと居座っていた。

「どうすんだよ! 真紀」

「……」

 斎藤の苛立った声に、真紀は冷ややかな視線を投げた。その彼女に向かい、斉藤は半分泣きそうな顔で言う。

「三島さんが死んじまったら……、俺達、一体どうなるんだ……」

「情けねえ声出すな。てめぇだって、キンタマ付いてんだろ?」

「う」

 斎藤は恨めしげに真紀を睨んだ。しかし、すぐに喋り出す。

「おめえ、よく落ち着いていられるな。今まで俺達が好き放題にやって来れたのも、三島さんのおかげだぞ。三島さんが……いや、あの人のバックに、大田原先生が付いていたから……」

「その名は口に出すな!」

 真紀の目に殺気が走った。斎藤も、ハッとして口を押さえる。

「誰かに聞かれたら、命がいくつ在っても足りねえぞ。コンクリ詰めにされて東京湾に沈みてえのか?」

「……」

 斎藤は、首をすくめて震えている。チンピラが……。真紀の目に蔑みの色が浮かんだ。裏社会の権力に縋って得意になっていた野郎が、いざその後ろ盾を外されると、どんなに無様な醜態を見せるものか。真紀は良く知っていたし、そのたぐいの男には侮蔑しか感じていなかった。

「てめぇの言うほど、アタシだって落ち着いているわけじゃない。今の状況くらい、分かってるさ。ただ、な」

 そう言って、真紀は斎藤から、再び目を逸らした。

「アタシには、それ以上に今は大事な用があるのさ。それを先に片付けなきゃな」

「……大事な用?」

 斎藤のいぶかしげな視線を、真紀は無視する。

(どうせ、こいつじゃアテにならない。レディースのダチも、この件には出来るだけ巻き込みたくない。これはアタシの個人的な“用”なんだ。やるならアタシ一人でやる)

 ある程度の目安は、ついている。一部のお巡りとつるんでいるヤクザからの情報で、三島さんを殺ったのはおそらく……。

(へっ。なんか身体がゾクゾクしてきやがった)

 三島さんの復讐。三島さんをアタシから奪った、あの女にアタシ自身の手で……。

(簡単には、息の根を止めてやらないよ。血反吐を吐くまで痛めつけて……あの可愛い顔を切り刻んで……。なぶり殺しにしてやるんだ。この世に女として生まれてきた事を、心の底から後悔させてやる)


 くっ、く、くっ……。


 真紀は、高ぶる心を押さえかねる様に笑った。その凄惨な表情に、斎藤は、思わず背筋がぞ〜っと寒くなる。

(こ、この女、やっぱ、どっかおかしいぜ)

 レディースの仲間も、斎藤と同様、息を潜めて見守っている。真紀との付き合いが長い彼女達は、今、真紀が何を考えているか、ほぼ見当が付いていた。そして、そんな時の真紀に、何を言っても無駄だと言う事も。真紀をリーダーとして畏怖しつつも、彼女が自分らとは少し違う異質の存在である事を、彼女達は充分知っていた。


***


 その日、詩織は一日中自宅にいた。既に陽が落ちた今に至るまで、ずっと考え続けていた。彼女にとって悪夢とも思える、この二日間。失うものも多かったが、それだけでは無い。

(……)

 詩織は、自分の心が、いまや全く別の物に生まれ変わろうとしている事を、はっきり自覚していた。

 昨日までの価値観。

 昨日までの想い。

 昨日までは至高と信じていた全てのもの。

 それらが、急速に光を失い、そして代わって現れたもの。その真実の姿。

(……)

 詩織は、静かに目を伏せる。

(何故、気づかなかったんだろう?)

 自分に本当に必要だったもの。自分自身が求めていたもの。

(自分の本当の姿。それを悟るのに、今まで掛かってしまった。メグにも、たっくんにも迷惑を掛けてしまった)


 ―しかし、私は後悔していない。それまでにどんなに回り道をしたって、私はここへ帰ってこれたんだもの。―


 詩織の心を、時は柔らかに包み込む。彼女を巡る、複数のそれぞれの胸の内に見知らぬ明日を抱かせつつ、夜は静かに更けて行く。

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