【第五幕・終わらないメモリー】


 次の日は、一学期の終業式だった。このまま休校にしよう、と言う意見もあったらしいが、やはりケジメだけは、付けようと言う事になったらしい。”


 ……ざわ。


 彼女の姿が見えた時、教室が一瞬ざわめいた。覚悟していた事だが詩織には、やはり辛かった。みんなの視線が痛くて、しばし入り口で立ち往生する。

「詩織……。入ろう?」

 拓也がささやく様に言った。今朝、登校しようとした詩織を、彼は止めた。今日だけは休んだ方がいいんじゃないか、と。

 しかし、詩織は、うん、と言わなかった。私は逃げるわけにはいかないの。みんなに私の潔白を信じてもらうためにも、みんなの前から姿を消すわけには……。

 詩織は心の中の勇気を全て振り絞って、自分の席に向かった。

「おはよう。藤崎さん」

「おはよう。今日も暑いね」

 いつもと変わらない会話。でも、みんなの様子がどことなく違う。詩織と目を合わせようとしない。そのくせ彼女が通りすぎると、好奇心にあふれたまなざしが集中する。

 やっとの思いで自分の席にたどり着いた詩織は、窓の外に目をやった。工事現場に半ばをさえぎられた格好で、“伝説の樹”が見える。彼女にとって、今や最も遠くなってしまった、その場所……。

     

***


「警部、僕にはどうしても納得できません」

 若手刑事のAが、小波警部に食い下がった。今、終わったばかりの捜査会議の結論に対してだ。

「何が、だね?」

 警部の鋭い一瞥を浴びて、彼はちょっとたじろいだが、すぐに気を取り直して言う。

「藤崎詩織の、三島へ宛てたラブレターです。その内容から推察すれば、どう考えても、彼らに元々交友関係があったとは思えないんです。そんな彼女が三島を殺すなんて、果たして有り得るんでしょうか」

「ふん」

 今の捜査会議でも、その点は何度も論議された。結局、現場責任者の小波警部の主張が通り、詩織を“最重要参考人”として、これからもマークして行こうと合意がなされたのだが……。Aは、まだ納得していなかったらしい。警部は憮然とした顔で―何を青臭い事を―と言う目で、A刑事を見た。

「お前、まだ愚図愚図言ってるのか。大学出のボンボンは、これだから困る。容疑者が被害者に宛てたラブレターが発見された。そして、そのラブレターを被害者は読んだはず……と容疑者は証言した。ラブレターに関して俺達が掴んでいるのは、これだけだ。 

 そのラブレターの内容が正しいかどうかは、まだ証明されていない」

「え? ……しかし」

「いいか。客観的にものを見るんだ。俺たちが把握している現実を、な」

「客観的に見ているからこそ、藤崎は無実だと思うのですが」

 さらに強弁しようとするA刑事を、警部は手を振って遮った。

「お前は何も分かっていない。いいか。確かにラブレターの封筒と便箋には、三島と藤崎の、両方の指紋が付いていた。しかしこれは、この二人が元々親密な関係にあったと仮定すれば、どうとでも解釈できる。例えば、白紙の状態のそれらを、理由をつけて三島から藤崎が貰うことだって可能な訳だ。三島と藤崎が、以前からかなり深い関係に在ったという、俺の直感通りならな。

 一方、藤崎の主張を鵜呑みにするなら、藤崎が三島をラブレターで“伝説の樹”に呼び出し、それを『偶然』見た犯人が、これ幸いと三島を殺した事になる。そして、これもまた『偶然』袋小路になっていた殺人現場から、その『衝動的殺人犯』だけは、何故か、いとも簡単に消え失せた。……こんな馬鹿げた推論より、素直に藤崎を犯人だとする俺の推理の方が、よっぽど筋が通っていると、お前は思わんのか?

 藤崎は、自分と深い関係にあった三島に何らかの理由で殺意を感じ、それをカムフラージュするために、青臭いラブレターなんぞをでっち上げたんだ。そうすれば、まさか女子高生の自分が疑われはすまいと考えたんだろう。……現に、お前みたいな擁護者がいるわけだしな」

 そんな馬鹿な……! 喉まで出かかった言葉をAは必死に飲み込んだ。

「しかし藤崎は、三島に三時半に呼び出されて、そのまま“伝説の樹”に向かってるんですよ! ラブレターを偽装するなんて、そんな暇があるわけが……」

「手紙さえ事前に書き上げてあったら、机に放り込むのは、藤崎でなくてもいいだろうが……?」

「え?」

「あの幼馴染だよ。俺は、奴がいきなり現場に現れた時から、どうも臭い、と思ってたんだ。ただの幼馴染にしては、やけに藤崎と慣れ慣れし過ぎる。殺人の動機は、おそらく奴と三島との三角関係の縺れだな。

 “伝説の樹”は、この学校では何か特別な意味を持つ場所だったらしい。それで三島と藤崎は、普段から自分達の待ち合わせ場所に使っていたんだ。工事現場で塞がれてなければ、美術棟脇を通って校舎裏・体育館方面へ通り抜けが出来ると言っても、あの通り“伝説の樹”から先は、深い藪に覆われた雑木林だしな。普段から、あの周囲の人通りは少なかったと思える。三島と藤崎の密会を、以前に目撃した者がいないのは、そのためだ。

 また、あの樹は、すぐ傍にある美術棟からも、死角になっている。周囲の樹の重なりから、あの樹だけは見えないようになっているんだな。校庭方面、本校舎から、と、いろいろ視界を変え、証言も交えて検証してみたが、あの樹の本体は見えても、根元の部分は絶対見えないらしい。まさかとは思うが、ここの学校の経営者自ら、ああいう配置を考えたんじゃ……そんな邪推もしたくなる。

 三島の事件の後、片桐彩子の証言通りに藤崎の行動を再現してみたが、あの樹に近づくにつれ、美術室からの視界は届かなくなる。『藤崎が、しゃがみ込み、姿が見えなくなった』と片桐は証言したが、それほどあそこでの人の動きは、外部から見えづらい。告白の地としての有りがたみは知らんが、『殺人現場』としては、実に格好の場所だな。

 藤崎は、あの幼馴染と示し合わし、三島から密会の呼び出しがあった時に、あそこで殺人を決行しようと、以前から計画を練っていた。そして遂に、その日が来たんだ。藤崎の誤算は、“伝説の樹”が、さっき言った工事現場のせいで、その決行の日に限って完全な袋小路になってしまっていたこと。まさか、被疑者が自分一人に限定されてしまうとは、想像もしなかったんだろうな。折角ラブレターで“純真な女子高生”を偽装したのに、全て無駄骨だったわけだ」

 A刑事は唖然として声も無かった。なんという想像力。所詮は、全て警部の想像上の事に過ぎないが、それなりに筋が通っている。藤崎詩織が犯人に間違いない……と言う出発点に立てば、こんな考え方も出来るのか。

「とにかく、お前はまだ若い。藤崎みたいな美少女の言う事なら、何でも信じたくなるだろうが……女は魔物だよ。俺から見れば、ツラのいい女ほど腹の中は信用出来ない。ガキの頃から周囲にチヤホヤされ、猫を被って生きてきた奴が多いからな。お前も良く覚えておけ」

 そう言って小波警部は遠い目をした。若い頃に、女性がらみでよっぽど苦い経験をした事があるらしい。その面当てみたいに容疑者扱いされているとすれば、詩織にとって、将に不幸そのものだったが。

「分かったな。とにかく先入観を捨てる事だ。殺人犯に美少女も何も関係無いんだ。奴は只の女。それが犯罪捜査の第一歩だ」

 先入観と言うなら、警部の方がよっぽど……咽元まで出掛かった言葉を、Aは無理に飲み込む。なんと言っても彼は上司なのだ。これ以上逆らうと、どんな目に遭わされるか分かったもんじゃない。

(ま、いいか。ここまで主張する以上、責任は全てこのオッサンが被ってくれる訳だし。下っ端があれこれ言っても仕方がない。長い物には巻かれろ……って、やつだ)

 Aは、一転して悟り澄ました表情になった。所詮、刑事もサラリーマン。勤め人が上司に逆らうなんて、今時の流行じゃない、と思い直した。

 

***


「藤崎先輩、ちょっといいですか?」

 体育館での終業式が終わり、教室へ戻ろうとした所で、詩織は呼び止められた。目の前に下級生の女の子が立っている。あまり見たことの無い子だけど……。誰だったかしら? 詩織は首を捻った。

「私、美樹原さんに頼まれてきたんです」

「メグに……?」

 詩織は、思わずアッと声を上げた。事件以来、自分の事に夢中で忘れていたけど、メグも三島くんが好きだったんだ。彼が死んで、今どんな思いをしてるだろう……。

「お二人の交換日記を預かってきました。なんでも美樹原先輩、藤崎先輩に相談したい事があるそうです」

「相談? ……そう」

 詩織は、少し目を伏せつつ、自分達の交換日記を受け取った。伝説の樹の下での例の一件以来、ページには何も書かれていないのを確かめる。

「三十分くらいしたら、そこの体育倉庫に来て欲しいって言ってます」

「体育倉庫?」

 何故、愛は自分でここに来ないんだろう。例の一件で生じた、わだかまりのせいかも知れない。この見覚えの無い女の子と愛との関係は良く分からないけど、他人に頼むくらいだ。詩織との間に、何か気まずい思いを感じているに違いない。

 でも、それにしても体育倉庫とは、詩織にとって、余りに意外な場所だった。確かに、その体育館裏にある倉庫は、普段は誰も寄り付かない場所だから、相談ごとには都合がいいんだろうけど。

 下級生の女の子は、詩織にそれだけ告げて去っていった。

(そうだ。メグのことだって放っておいちゃいけないわ)

 三島くんが死んでしまったから……と言うのは、現金過ぎるかもしれないが、彼女と私の間に横たわっていた溝は、もう存在しない。仲直りするには、絶好のチャンスだ。

(メグを慰めてあげよう)

 一途なメグのことだ。三島くんの死を知って、一晩中泣き明かしたに違いない。それに引き換え、私は……。

(このままじゃいけない。メグが可哀想すぎる。あの子には、私以外に心の支えになってくれそうな人はいないし)

 詩織の頭の中は、愛のことで一杯になった。殺人事件の事も、自分の立場も、綺麗さっぱり忘れ去っていた。

(たっくんに言わなきゃ。帰りはメグと一緒に帰るから、大丈夫だって)

 詩織は一つ頷き、足早にA組の教室に向かった。


***


 辺りは、しーんと静まりかえっていた。体育の授業や、日常のクラブ活動で使う体育用具は、体育館と一体化した大きな収納庫に納められている。この体育倉庫にあるのは、体育祭などの、滅多に使わない備品ばかりだ。そのせいで、普段は扉を開ける者もいない。


 詩織はドアのノブに手を掛け、力をこめた。 ―がちゃ……。

 重い音がして、ドアが開く。

(あれ? そう言えば、ここって、いつもはカギが掛かってるはずじゃ……?)

 詩織は、ちょっと疑問に思ったが、現実に開いたのだから問題はない、と思い返した。

「メグ……?」

 小声で呼びかけてみる。返事はない。

(まだ、来てないのかな)

 詩織はそう思い、真っ暗な室内に灯りを点けるため、中へと踏みこんだ。カビ臭い空気に息が詰まりそうだ。

(うわ、ひどい。メグも、大変な場所を選んでくれたわね……)

 このカビ臭さじゃ、どうにもならない。彼女と会ったら、すぐに別の場所に移動しよう。そう心に決め、手探りで壁のスイッチを探した。

(確か、この辺だったかな。……もっと右かしら?)

 詩織とて、入学以来一度か二度しか、入った経験のない体育倉庫。壁際の照明スイッチがなかなか見つからず、少しイライラしてきた時、ふと背後に人の気配を感じた。

「メグ……? 来たの?」

 振り返った瞬間、いきなり何か冷たいものが、詩織の顔中を包み込んだ。詩織は驚きを通り越して、一挙に全身を硬直させる。

「うっ? ぐ……」

 ぐっしょりと濡れた布の感触。鼻腔に広がる麻酔薬のような不可解な匂い。


 ……詩織の記憶は、そこまでで途切れた。


***


 さて、こちらは三年A組の教室。終業式終了後の喧騒は、なかなか収まりそうにない。みんな、明日から始まる夏休みへの期待に胸を膨らませているのだ。受験直前とは言え、やはり休みは嬉しいに違いない。 


 ―さて、どうしよう?


 拓也は教室の中で思案した。詩織は、美樹原 愛と何か用事があるらしく、そそくさと出ていった。家まで送るつもりだった拓也にすれば、肩透かしを食らった格好だ。

(まあ、美樹原さんと一緒なら、詩織は心配無いだろう。それより……)

 三島の事件だ。昨日の朝日奈さんとの会話で、彼と須藤真紀との関係を示唆する、思いも掛けぬ手掛かりを貰ったのだが、それを手繰り寄せる事は、想像以上に難しい。なにしろレディースの存在は、全校生徒の恐怖の的である。誰もがその存在に怯え、口にする事すら怖がっている。

(まともに調べても、難しいな)

 一番いいのは真紀に直接聞いてみる事だが、拓也とて、自分の身がかわいい事に変わりはない。虎の前に、素手で身をさらすような真似は……考えるだけで背筋が寒くなる。

(う〜ん、どうしよう?)

 拓也が首をひねった時だった。廊下を、特徴のある髪型の女の子が通った。


  あ。あの子は……。


 館林見晴。拓也はドキリとした。何故かは分からない。理由は分からないが、しかし、彼女の姿を見ると懐かしさで胸が一杯になるような、不思議な感覚に襲われる。

「……見晴ちゃん!」

 思わず呼びかけてしまった。彼女は、いきなり自分の名前を呼ばれてびっくりした様だったが、拓也の姿を認めると、A組の教室の中に入ってきた。

「拓也さん。……誰かと思いました」

「ごめんごめん。見晴ちゃんは、これから帰るとこ?」

「うん」

「じゃ、一緒に帰ろうか?」

 拓也は、駄目で元々と、彼女を誘ってみた。ところが案に相違して、彼女は簡単に頷く。

「いいよ。帰りましょう」

 それから二人は、連れ立って教室を出た。思いも掛けない展開になったが、不思議と違和感は感じなかった。ずっと以前に、これと同じことがあったような……そんな奇妙な感覚が付き纏う。

「ねえ、見晴ちゃん。この前の事なんだけど……」

 校門を出た所で、拓也は以前から気になっていた事を、思いきって訊ねてみた。

「この前の事……?」

 見晴は、首を傾げて拓也を見上げる。

「ほら、君がここへ転校してきた理由。いつかは教えてくれるって言ったけど」

「……うん」

「今、聞いちゃまずいの?」

 見晴の目が伏せられた。しばしの沈黙の後、彼女は口ごもるように言う。

「まだ……言えないんです。ごめんなさい」

「謝る事なんてないよ。ただ」

 拓也は、見晴から視線を逸らし、ポツリと呟く。

「君は、何か大きな悩みを抱えてるんじゃないか。それなら早く話した方が楽になるかもしれない、そんな気がしたものだから」

「……」

 見晴は何も答えず、伏せられた目を、そっと拓也に向ける。その瞳は、J組の教室で彼女と初めて会った時の、あの悲しげな色をたたえていた。

「……本当は私、全てを話せばいいのかもしれない。そうすれば、どんなに楽になるか」

「……」

「でも、駄目なんです。今はまだ……」

 見晴は、それっきり黙りこくってしまった。拓也もそれ以上は聞かず、二人の間に深い沈黙が横たわる。


***


=校内某所=



(いよいよだな……)


 暗い笑みを浮かべ、影は呟いた。次の機会が、こんなに早く訪れようとは。偶然とは言え、例の「スケープ・ゴート」の効果だ。彼女に感謝しなくては。


 影は、窓からソッと外を窺う。雑木林を透かして、目当ての施設を遠望する。

(慌てる必要はない。ここからチャンスを窺えばいい。クロロフォルムが切れるには、まだ時間が掛かる)

 そう考え、ゆっくりと足を組み直した。その脳裏に、ふと一人の少女の姿が浮かぶ。

(見晴)

 彼女が、まさかここに来ているとは思わなかった。だが手遅れだったな。

(だから見晴は、会いに来ようとしないんだ。いまさら会いに来られても迷惑だけどね)

 影は、ふぅ……と、大きく一つ息を吐いた。賽は既に投げられたのだ。回りだした歯車は、もう誰にも止められない。

(たとえ神様でもだ。そして私は神など信じない。だから私は戻って来た)

 自分で決着を付ける。この世の理不尽……満たされぬ思い。神が何もしてくれぬ以上、自分が全てやるしかないのだ。

(見晴は悲しむだろうがな。だが仕方がない。せめてお前だけは……幸せになれ)


 ケジメは自分が付けてやる。どうしても付けなければならない。この“業”だけは、どうしても……


***


 どれくらいの時が流れたのだろう。身体が浮遊するような、不安定で頼りない感覚。突然、背後から襲いくる異形の影たちに驚き、彼女は深く我が身を沈める。一転して、暗い水底にじっと囚われているような圧迫感。全ての思いが絶望の闇の中に埋もれ、孤独の泥沼にもがいた末に……


 詩織は目を覚ました。


(……)

 ぼんやりした頭を僅かに振る。身体の節々が鋭く痛む。……が、何故か凝固してしまった様に身動き一つできない。

 それが今の悪夢の続きではなく、自分の身を締めつける縛めの為である事を理解するのに、しばらく時間がかかった。

(苦しい……。息が出来ない)

 そう感じてもがいた時、彼女は全ての現実を、やっと悟った。

(わ、私……縛られてる?)

 手首に食い込む、残酷なロープの感触。そして自らの口を覆うように貼られた、ガムテープの苦い味。後ろ手に縛られて、床に転がされた自分の惨めな姿を知り、詩織は愕然とした。

「う……ん、ん」

 詩織が漏らした呻き声を聞きつけたのか、部屋の隅がゆらりと揺れた。その“影”が、床に倒れ伏した詩織の傍に、ゆっくりと歩み寄る。

「やっとお目覚めね。待ちくたびれたわよ」

 詩織は、大きく目を見開いた。逆光でよく見えないが、女性だ。相手が同性である事に、一時安堵感を覚えたものの、拘束された我が身を思い、不安は更に増すばかりだ。

「う……」

「解いて欲しいの? ……そうね。今は駄目よ、藤崎さん」

 その女性が身を動かし、逆光から電燈の正面に移動した時、詩織はハッとした。彼女の凄惨な微笑み。そして瞳に浮かぶ狂気の光を見た。

(す、須藤真紀! きらめきレディースの須藤真紀だわ!)

 

 天井から垂れ下がる裸電球が、辺りをぼんやり照らし出す。玉転がし用の大玉。玉いれ用の編み籠。綱引きの太いロープもとぐろを巻いている。そんな道化た種々の品物が、化け物のような陰翳を持って迫ってくる。そして、その前に立つのは……。

「こんにちは、有名な藤崎さん。言葉を交わすのは初めてだけど、アタシはあなたの事をよく知っているわ。あなたも、多分そうじゃなくって?」

 真紀は顔の笑みを崩さず、詩織に語り掛ける。詩織は、その笑顔に隠された彼女の本性に怯え、目を逸らす事が出来ない。

「くく……。何よ、震えてるの? 可愛いね。ほんとネンネみたい」

 そう言って、真紀は詩織のあごに手を添え、仰向かせた。

「ネンネなら、ネンネらしくしてればいいのに。この可愛い顔で、何人の男を誑かしたんだい? え? 虫も殺さぬ顔してさ。男を散々くわえこんだ挙句に、とうとう三島さんまで……」

(三島さん……? この人、何を言ってるんだろう?)

 そう思った時、最初の衝撃が詩織を襲った。


 バシッ……!


「……ぐふっ!」

 頬が張り裂けそうな痛みと同時に、詩織の身体は、激しく床に叩きつけられた。口の中に、錆びた鉄のような血の味が広がる。

「くっ、くっ……」

 真紀の、押さえつけるような笑いが辺りを支配した。屈みこみ、詩織の髪を鷲づかみにする。

「ほう……?」

 そのまま無造作に引っ張り上げ、詩織の顔を覗き込む。

「いい目をしてるねぇ。アタシ、好きだよ。そう言う反抗的な、ま・な・ざ・し」

 再び襲い来る真紀の平手打ち。今度の一撃は、髪を掴まれたままの詩織の頬を、嵐のように直撃した。逃げ場のない襲撃。髪の激しく軋む音。それは何度も何度も繰り返され、詩織の頬は引き攣り、どす黒く変色していく。口元を覆っていたガムテープさえ跳ね飛んだ。赤みの失せた唇の端から垂れ落ちる、対照的に鮮やかな真紅の液体。

「……げほっ」

 口内の血が、気管支に入りこんだのだろう。苦しげに、詩織はむせんだ。涙が、とめどもなく瞼から溢れ出る。

 真紀は、その様子を冷ややかに眺めている。そして薄い笑いと共に、詩織の髪を離した。どうっ……と床に崩れ落ちた詩織は、そのまま倒れ伏し、ゴホン、ゴホンと力のない咳を繰り返すだけだ。


「アタシはね、自分というものを良く知ってるんだ」

 真紀は呟いた。決して、詩織に聞かせようと言っているのではない。

「アタシは、三島さんにふさわしい女じゃない。薄汚れて、捻じ曲がった醜い女さ。……でもね」

 詩織の乱れきった髪を、愛しむようになでる。

「愛しちまったんだよ、あの人を。仕方ないだろ? え? 愛しちまったんだから、仕方ないだろう?」

 そして、ゆっくりと立ちあがった。

「アタシにとっては、三島さんが全てだった。他の事はどうでも良かった。だから、あの人が望む事は何でもしてやった。

 ……あの人がアタシを必要としている限りは、アタシはあの人の心の中に棲む事が出来る。そう信じて、生きてきたんだ。……それを」

 真紀の目が、再び詩織に据えられる。

「お前が全てぶち壊した。お前は三島さんの心を奪い……そして、あの人の命そのものさえ……」

「……ち、違います」

 詩織は、何とか上半身を起こした。真紀に向かい、それは誤解だと、必死に訴える。

「……ラブレターをあの人に出したのは、事実です。でも、私は決して……」

 詩織がそこまで言った時だった。真紀の唇がわずかに歪んだ……とその瞬間。


 詩織の鳩尾目掛けて、真紀の蹴りが打ち込まれた!


「ぐはっ……」

 あまりの苦痛にのたうち回る詩織を、冷ややかに見下ろす真紀の目に、青白い炎が燃える。

「うるさい女だねぇ。少し黙ってな。……じゃないと」

 真紀は懐からジャック・ナイフを取り出した。鋭く光る刃先をペロリと舐める。

「思わず切り裂いちまいたくなるじゃないか。お前のその、白い喉を」

 そしてケケケと声を立てて笑った。詩織は返事どころか息も出来ない。腹部に打ち込まれた衝撃は、彼女の意識を朦朧とさせ、苦痛のみが全身を支配している。

「アタシは、もう少し楽しみたいんだから。……ね? 藤崎さん」

 彼女は再び、くっ、くっ、と含み笑いをした。そして、手にしたナイフを詩織の頬にピタピタあてる。

「あなたも一緒に楽しみましょう? どうして欲しい?

 ……片耳を落としてみようか?

 ……それとも、その形の良いお鼻を削いであげようか?

 目玉をくり抜くのは、一番最後にするわ。だって私の顔が見えなくなったら、困るもの。ね、藤崎さん?」

 突然、真紀は哄笑した。可笑しくて堪らないように、繰り返し、繰り返し笑い続ける。その声が、果たして聞こえているのか、いないのか……詩織は襤褸切れのように倒れ伏し、もはやピクリとも動かない。

  

 異変が起きたのは、その時だった。真紀の背後にある倉庫の出入り口の扉が、カチリ、と微かな音を立てる。そして、少しずつ……少しずつ、開き始める。

 首筋に外気の流れを感じ、真紀が振り向いた時、事は既に決していた。黒い影が真紀に飛びかかり、そして、手にした果物ナイフを深々と腹部に突き立てる。

「うっ……!」

 真紀には、自分の身に何が起こったのか、分からなかったに違いない。彼女の柔らかい腹部に突き立てられたナイフは、一瞬にして彼女の内臓に達し……生を奪い去った。

 どすん……!

 重い物体が床に転がる振動を肌に感じて、詩織の意識は、ようやく回復する。霞む目を無理に開いた。裸電球の頼りない光源の元に、幻の様に黒い人影が見える。男か女かも分からない。彼(彼女?)は、詩織を観察する様にじっと見つめ……そして、次第に近づいてきた。

(……)

 詩織は、既に息絶えたかのように、ただ横たわっている。何かするには、受けた体のダメージが大きすぎた。何も考えられず……近づいてくる人影が何者なのか、それすらも意識の中には無かった。

(後で思い返してみて初めて、その人影が覆面をしていた事に思い当たった)

「……」

 その人物は、詩織の傍にしゃがみこむと、彼女の血の気の失せた蒼白な顔を、ちょっと眺めた。傍らに転がっていた真紀のジャック・ナイフでロープの縛めを切りほどき、代わりに自分の果物ナイフを詩織の手に握らせる。詩織は、自分の身に何がなされているのか、事の意味が全く理解できない。


 人影が扉の向こうに消えようとした時、詩織の衰えきった知覚は、もう限界を迎えていた。

(……)

 自分の身に襲い掛かってきた数々の痛み。耐えられぬ恐怖。それらが全て過去のものとなり、今はウットリとした静寂が彼女を包み込んでいる。

 そのまま、詩織は気を失った。

      

***


 そのころ拓也は自室にいた。必死に考え抜き、そして迷いを振り切る。三島孝祐と、彼の死の原因を関連付ける材料が何も見つからない以上、次に打つ手は一つしかない。

(須藤真紀に会ってみるしかない)

 彼女と三島との関係を、直に尋ねるのだ。それで何も分からず、また万が一、真紀自身が三島殺しに因縁を持つ存在であったとしても、会う事で何らかの感触が得られるに違いない。

(……自分の身の危険など、躊躇すべき時ではない。真紀は怖いが、ビビっててどうするんだ。僕は、詩織を救わなければならないんだ)

 拓也は心を決めた。壁の時計を見上げる。

(六時二十分)

 この時間なら真紀はまだ、盛り場をぶらついている頃だろう。彼女の立ち寄りそうな所を片っ端から当たれば、出会える可能性はある。

 そう思った拓也は、急いで立ちあがった。しかし、その時……。


 階下で呼び鈴の音がした。母親が応対に出る声がする。しばらくすると、トントン、と階段を昇るスリッパの音が聞こえてきた。

「拓也、いるかい?」

 母さんの声だ。拓也は大声で返事をする。

カタリ、と部屋の扉が開いた。

「美樹原さんって言う、女の子が来てるよ。お前に用だって」 

 美樹原さん……?

 拓也は面食らった。慌てて階下に駆け下りる。見ると玄関口に、愛が心細そうに立っている。

「や、やあ。どしたの?」

 とりあえず呼びかけてみた。愛は少しモジモジしていたが、すぐに喋りだした。どうやら気が急いている様子だ。

「拓也さん……詩織ちゃん、終業式の後、どうしたか知りませんか?」

「詩織? 詩織なら……。あれ? 君と一緒に帰ったはずじゃ?」

「え……?」

 愛が、狐につままれたような顔をする。

「終業式の後、詩織は確かにそう言ったよ。“帰りはメグと一緒に帰るから、先に帰ってて”って」

「そんな……」

 愛は。思わず泣きそうな顔をした。その彼女のうろたえ振りに、拓也の顔がサッと蒼ざめる。

「一緒に帰ったんじゃなかったの?」

「い、一緒にどころか、詩織ちゃんとは、ここ数日一回も会ってません」

 それは驚くべき事だった。じゃ、詩織のさっきの言葉は何だったんだ。“メグと一緒に帰るから、心配しないで……”

 愛は、俯いている。しかし、すぐに思い切ったように拓也を見上げ、語りだした。

「じ、実は、さっき変な事があったんです。終業式に出る前に私、忘れ物を思い出して……。教室に戻ってきたら、私のクラスから女の人がゾロゾロ出てきたんです。ここ何日か、私のクラスの廊下をウロついていた怖い人たちでした。

 変だな、と思ったんですが、そのあとカバンを調べたら、私と詩織ちゃんの交換日記が無くなっていたんです……」

 交換日記が無くなった。しかも、『きらめきレディース』がそれを盗んだらしいって? なんの為に?

「それで私、交換日記をなくしちゃった事を詩織ちゃんに謝らなきゃと思って……。今、詩織ちゃんの家を訪ねたら、お母さんが、まだ帰ってないって……」

 それを聞き、拓也の顔は完全に蒼白になった。

「家にもいないって?! ……じゃ、終業式の後、詩織は一体……」

 “メグと一緒に帰るから”。この詩織の一言を鵜呑みにし、何の疑いも感じなかった空白の七時間。詩織を巡る今の状況を考えれば、事態は余りに深刻だった。

「僕、もう一度学校へ行ってみる」

「学校に……? し、詩織ちゃん、まだ学校に居るのかしら?」

「分からない。でも、そこから探すしか手はないと思う。美樹原さんは、とりあえず詩織の家で待っててよ。詩織のお母さんに、学校に着いたら、すぐ僕から連絡をすると伝えておいて」

 そう言い残して拓也は、路上へと飛び出した。外は、ようやく夕暮れの諸についたばかり。昼間の暑さの名残をそこここに残して、人々は思い思いに街中を闊歩していた。その人の群れを掻き分けて一心に駆ける拓也。

 額からは汗が滴り落ち、目を霞ませる。しかし彼は、それを拭うことすら忘れたようだった。

(“メグと帰るから”。この言葉を聞いた時、僕は詩織に何の翳も感じなかった。詩織は多分、ウソをついていない。あいつがウソをつけば、幼馴染の僕には、すぐ分かる。

 それじゃ詩織は……どうなったんだ。誰かに騙され、連れ出されて、もう七時間)

 自分の駆け足の遅さに苛立ち、拓也は大きく首を振った。


 ……無事でいてくれ。

 

 ただ、それだけを念じた。学校へ至る最後の角を曲がったところで、しかし彼の切ない願いは、無残にも打ち砕かれることになる。

「……!」

 校門の前に立ちふさがる様に置かれているパトカーの群れ。不気味な回転燈の明滅に照らされて、辺りを睥睨する警官たち。その全てが、学校の中で起こった緊急事態を示している。状況は、あの三島の時と全くおんなじだ。

「……詩織」

 呆然と呟く拓也の脇を、一台の救急車が猛スピードで駆け抜け、校門の中に消えていった。誰を迎えるための救急車なのか。拓也は、その最悪の結果を頭に思い浮かべつつ、がっくりと肩を落とした。

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