【第七幕・記憶の最初から】


 人はどこに生まれ、

 どこに行くのか?

 何を欲し、

 何を得るのか?


 人はどう生きるのか。

「自分」と言う、この未知なる大宇宙(せかい)を。


***


 詩織が知覚を取り戻した時、まず目に入ったのは、真っ白な天井だった。清潔な、しかし人の親しみを、頑なに拒絶する白。

(ここは、どこ……?)

 頭の中に靄がかかったようだ。自分の名前を訊ねられても、多分、今は答えられないだろう。

(……)

 詩織は、ほんの僅か首を揺らして、視線を枕元に向けた。古びた花瓶の中に名も知れぬ花が活けてある。頼りなげな様子とは裏腹に、鮮やかな赤が印象的だった。

「……気がついた?」

 背後から呼びかけられて、詩織はハッとした。

「いいのよ。もうちょっと、お休みなさい。先生にはまだ、言わないで置くから」

 優しい声だ。詩織は理由もわからず、涙がこぼれそうになった。

「……ここ、どこですか?」

 詩織の問いに、その女性―三十代の後半か―は沈黙をもって答えた。しかし考えた末に、きちんと教えた方がいいと判断したのだろう。詩織の手をそっと握り、囁いた。

「警察病院。私は女性患者専用の看護士よ」

「……」

 詩織は戸惑った様に、彼女を見つめた。警察病院……? 何故、私はそんな所に?

「どう……? 喉が乾いてるなら、少し湿してあげましょうか?」

 そう言うと、彼女はガーゼを取りだし、水に浸して詩織の口元に持っていった。懐かしい水の感触に、詩織の喉が、コクリと鳴る。

「あまり一遍にはあげられないわ。手術したばかりですものね」

「手術……」

「心配要らないわ。手術は成功したから、後は元気になるだけ」

 詩織は身体の気だるさが、全身麻酔のせいである事にようやく気づいた。そして、ぼんやりした意識が、徐々に覚醒して行くのを感じる。

(一体、何があったんだっけ? え……と)

 そんな詩織の様子に、看護婦さんは悲しげに目を注いでいる。詩織は生命の危機から解放された。しかし、その平安は新たな地獄……彼女の精神の苦痛を更に増幅させる、そのためのきっかけに過ぎないのだ。彼女は、それに何時気付くか。

(こんな綺麗な目をした子が、殺人犯だなんて。……そんな訳、絶対ないわ)

 せめて一分一秒でも長く、詩織の記憶が戻らねばよい。それが彼女の、切なる願いであった。


***


 S市駅前広場に一歩足を踏み入れた時、拓也の脳裏に浮かんだものは、館林見晴の、あの悲しげな瞳だった。眼前に広がる、明るく活気にあふれたたたずまいも、拓也の目には映らない。


「千葉県S市」


 見晴ちゃんの住んでいた町だ。彼女の家はこの郊外、スポーツ公園に隣接した地区にある。

「常盤苑」

 それが彼女の両親が経営する、旅館の名前だった。


「へい。お客さん、どちらまで?」

「常盤苑って知ってますか?」

「ああ。常盤苑ね」

 タクシーは滑るように発車した。

(タクシーなんて久しぶりだな)

 普段の拓也なら、タクシーはおろか、金が無ければヒッチハイクも辞さないだろう。しかし今は時間も無いし、それに。

(常盤苑について、予備知識を仕入れておく必要がある)

 レディースの順子の話では、見晴ちゃんが出した「転校届」の理由欄には、“一身上の都合”とのみ記入されていたらしい。拓也自身が、すでに疑問に感じていた事だが、進学するにせよ就職するにせよ、高校三年生のこの時期に転校するなんて、まず普通なら考えられない事だ。余程の事情があるのだろうが、それよりも気になるのは、彼女の親の事である。

(ご両親は、反対しなかったんだろうか?)

 拓也が知りたかったのは、見晴ちゃんを巡る家庭環境だった。

「常盤苑って、かなり古い旅館なんですってね」

「まあね。千葉県でも草分けじゃないかな。江戸時代から続いてるって話、聞いた事あるよ」

「へえ。じゃあ、そこを経営してる館林さんって、相当な名家なんですね」

「そうらしい。戦前までは、かなりの大地主だったって聞いてるけど、土地開放でほとんど取られて……今では学校や会社の団体客相手に、地道にやってるよ」

「幾つくらいの人なんですか?」

「旦那が確か五十くらい。奥さんの方が一つ上だって聞いた事がある」

(五十歳。見晴ちゃんが高校三年で、十七か十八だから、三十過ぎてからの子供か。ちょっと遅いような気もするけど、まあ不思議なほどじゃないな)

「どんな人です?」

「いい人だよ。旦那も奥さんも。育ちがいいせいか、人当たりもいいし、面倒見も良くて近所の評判も上々だ」

 他人の家の事ながら、こういう評判を聞くと、心が和むような気がする。

「お子さんは多いんですか?」

「いや……。今は高校生の女の子、一人だけだな」

 今は……? ちょっと気になる言い方だったが、あまり根掘り葉掘り聞くのもどうか、と思って一旦、話を変えた。

「その女の子が、ウチの高校に転校して来たんですよ。それで、いい旅館だからって聞いて」

「ああ、そうかい。見晴ちゃん、最近見ないと思ったら、他所へ行ってたのかい」

「あれ? おじさん、彼女の名前までよく知ってるね」

「知ってるさ。俺んちだってその近所だもの。でも、変だな? この前、奥さんに会った時は、娘さんが転校するなんて一言も……」

 運転手さんは、首をひねった。

(そうか。近所の人だったのか。これはいい人にあったな)

 そう思った拓也は、もう少し突っ込んで聞いて見る事にした。

「僕も不思議に思ったんですよ。転校して来た理由を彼女、教えてくれないし……。おじさん何か知ってます?」

「見当もつかないな。一人っ子だから旅館を継がすって、旦那の方は言ってたし」

 そうこうしている内に、タクシーは市街地をはずれ、広々とした郊外を走っていた。田んぼがあちこちに点在し、いかにも田舎らしい風情だ。

「ねえ、おじさん。一つだけ聞いていいですか?」

 拓也は、ついに意を決して訊ねた。

「なんだい?」

「おじさんのさっきの言葉です。館林さんの子供、今は見晴ちゃん一人だって言ってましたよね」

「……ああ」

「前はそうじゃなかったんですか? つまり、昔は兄弟がいたってことですか?」

 運転手さんは、ほんの少し迷った様だったが、結局教えてくれた。

「二年前まではな。双子の姉さんがいた」

「双子の?」

「知晴ちゃんって言ってね、もう、死んじゃったけど」

「……」

「ほんと、突然だったよ。俺なんか、彼女が亡くなる、その二日前に挨拶してもらってさ、『知晴ちゃん、今日も元気だね』なんて、軽口言ってたと思ったら、いつのまにかその子の葬式に出てるんだもんな。あんときゃ、流石に驚いた」

「……そんなに急に?」

「ああ。線の細い子だったけど、病気持ちって訳でもなかったし……。ここだけの話だけど、自殺でもしたんじゃないかって思ったくらいさ」


***


 その同じ時刻。

 きらめき通りを、夢遊病者のような頼りない足取りで歩く、一人の高校生の姿があった。一晩中寝ていなかったらしく、憔悴しきった表情で、ふらふらと……しかし、明らかに一つの方角を目指して、彼は進む。

(確か、この辺に……あった!)

 目印の衣料品店を見つけ、左へ折れる。表通りのきらびやかな趣とは打って変わって、くすんだ路地裏の雰囲気が辺りに漂う。男はしばらく歩き、遂に目的の建物を見つけ出した。

(コーポ○○。ここだ、間違いない)

 彼は、建物を見上げた。裏通りのイメージがそのまま乗り移ったかのような、目立たない、陰気なアパートだ。

(ここに奴がいるのか)

 ゴクリと生唾を飲む。何となくここまで来たものの、さて、これからどうしたらいいのか。会ってみるのか。……奴に?

(会ってどうするんだ? ……俺だけは、助けてくれって頼むのか?)

 奴が、三島さんや、真紀を殺した犯人って訳でもなかろうに。

(しかし、どう考えてもおかしい。奴……見晴の奴が現れた途端、三島さんが殺され、真紀までやられた。例の“知晴”の一件がからんでいるとすれば、どう考えても次は俺だ)

 彼……斎藤克志は、自分が臆病者である事を良く知っていた。そんな自分が、曲がりなりにも不良学生を束ねてこれたのは、一にも二にも三島さん。そして、そのバックにいる大田原先生の力があったからだ。

(だが、もう三島さんはいない。自分の身は、自分で守らなけりゃな)

 彼は決心した。とにかく見晴に会ってみよう。会って、知晴のことを謝ってみるんだ。そうすりゃ、奴の気持ちも知れるだろう。

 彼が、そう決心した時だった。トントン……と階段を降りる音がしたかと思うと、一人の少女が、スカートを翻しつつ姿を現わした。

(……はっ!)

 とっさに身を隠す斎藤。今まさに会いに行こうとした館林見晴が、そこにいる。夏休みなのに、何故か学校の制服を着て。

 彼女は斎藤に気づかず、表通りの方へ歩き出した。

(制服を着てるってことは、近所の買い物なんかじゃないな)

 彼の臆病な心に、何か直感めいた予感が閃いた。

(奴はどこかに行こうとしている。奴の跡を付ければ……、俺にとって重要な、何かが分かりそうな、そんな気がする)

 斎藤は声を掛けずに、密かに見晴を付け始めた。


***


 常盤苑の門をくぐった時、拓也は自分が極度に緊張しているのを感じた。全ての真実がここにある。彼は、そう信じている。

「ごめん下さい」

 広い玄関で呼びかけると、帳場と思われる方から、中年の女の人が姿を見せた。

「はい、いらっしゃいませ。……ご予約ですか?」

 仲居さんらしい。拓也は単刀直入に、用件を伝える。

「……奥様に?」

「どうしてもお目に掛かりたいんです。僕、本条拓也と言います。東京のきらめき町から来ました」

「ちょっと待っててね」

 仲居さんが奥へ引っ込んだ。拓也は、立ったまま辺りを見まわす。

(なるほど。歴史の在りそうな建物だな。柱なんか、物凄く太いし、映画の大名屋敷みたい)

 拓也は、正面に飾ってある衝立に目を移した。思わずドキリ、とする。道服を着た人相の悪いじじいが、ギロリと目を剥いて睨んでいる構図。

 実はこの衝立は、高名な某大師をモチーフにした重要文化財級の逸品なのだが、審美眼など皆無に等しい拓也には、その価値は分からない。むしろその描かれた人物の目は、他所者である拓也に対して向けられた、無言の敵意の様にも感じられた。


「あの、奥様がお目に掛かるそうです。どうぞ」

 仲居さんが引返してきて、拓也に告げた。そして、帳場の奥の廊下を先に立って案内する。途中、配膳室らしい部屋の前を通ったら、沢山の女の人が忙しそうに働いていた。

「忙しい時に来ちゃったみたいで……すいません」

「これから秋口にかけて、一番たて込む時期なんですよ。でも、奥様は表の事にはあまり手を出されないので、気になさる事はありません」

 しばらくすると、格子戸が見えてきた。そこから先は、どうやら主人の個人的な住居らしい。格子戸をくぐり、一番手近な客間と思しき部屋の前で、仲居さんは立ち止まった。

「奥様。お連れいたしましたが」

 中で返事がした。とても上品な声だ。襖を開けると、和服を着た女性が、じっと拓也を見つめている。不意の闖入者であるはずの拓也を見る目に、何故か熱いものがある。それを察し、拓也は入り口で、少し躊躇した。

「遠くから良くいらっしゃいました。さあ、どうぞ」

「はい。じゃ、遠慮なく」

 意を決して敷居をまたぐ。与えられた座布団に座り改めて見ると、その女性が相当な美人であることが判った。

(タクシーの運転手さんの話では、五十を過ぎているはずだが)

 とてもそうは見えない。うちの母さんより若く見える。ちなみに拓也の母は四十二歳である。

「きらめき町からいらっしゃったと言う事は、見晴のお知り合い?」

「ええ。まだ二、三回話しただけですが」

「……あの子、元気にしておりますか?」

「元気ですよ」

 そして、さりげなく付け加える。

「ただ、なにか悩み事がありそうな気もします。彼女は、話してくれないのですが」

「……」

 見晴のお母さんの表情が、俄かに曇る。やはり、何かあるのだ。……そう直感した拓也は、すぐに本題を切り出す事にした。

「実は今日お伺いしたのは、先日ウチの高校で起こった殺人事件の事に関してなんです」

「……」

「一介の高校生の僕が何故? と思われるでしょうが、その事件で、僕の幼馴染の女の子が、とても危険な立場に立たされてしまって……」

「聞いております。ここ毎日、テレビでは、その事件の事ばかりやっておりますから」

 拓也は、ちょっと俯いた。連日報道されるきらめき高校の連続殺人事件。その中で、実名こそ伏せられているものの、詩織は既に犯人扱いされているのだ。

 ―「美少女殺人狂」

 ―「学園のアイドルに何が起きたのか?」

 などなど。

 ここへ来る直前に詩織の家を見たが、報道陣が十重二十重に取り囲んで、迂闊に近づく事も出来そうもない。

 ただ、拓也の家の裏庭には、彼女の家に通じるくぐり戸があるので、彼の母親だけは詩織のお母さんを励ますために、毎日訪れているようだった。

「僕は、幼馴染の詩織の潔白を証明したいんです。その為には、三島孝祐と須藤真紀が殺された本当の理由、それを明らかにしなければいけないんです」

「……」

 拓也は言葉を切って、見晴のお母さんの顔を見た。彼女の端正な顔は、心持ち蒼ざめ、瞳は憂いに沈んでいる。

(この人は、間違いなく何かを知っている。事件に関する“なにか”を)

 そう確信した拓也は、じっと彼女の言葉を待った。しばしの沈黙の後、見晴とそっくりな悲しげな瞳で、お母さんは話し出した。

「あなたが、ここへいらした理由は分かりました。ただ私自身は、あの事件について、全く何も存じ上げません。これは本当です」

「……」

「ですが、見晴は……。

 ひょっとしたら、あの子は全てを知っているかもしれません。あの娘は、その為にきらめき町に行ったのだと、今になって私は、そう思っています」

 きっぱりと言い切った。ここまでの言葉を期待していなかった拓也は、驚く。思わず身を乗り出した。

「見晴ちゃんが、事件に関係していると? ……そう、仰るんですか」

 お母さんは、否定も肯定もしなかった。拓也が咳き込むように訊ねる。

「お母さん。僕には、時間がないんです。失礼な聞き方をするかも知れないですが、許してください。

 僕は、今度の事件の本当の原因は、ここにあると思っています。この常盤苑に。三島と見晴ちゃん……全く境遇の違う、この二人に、何らかの関係があるとすれば、それは、ここでの出来事としか考えられないんです。

 話してくれませんか。二年前、三島が野球部の合宿でここを訪れた時、一体、何があったのか?」

 拓也は、昨夜の内に山科を訪ね、二年前の野球部の合宿が、他ならぬここ、常盤苑を宿舎としていた事を確かめていた。

「……」

 しかし、見晴ちゃんのお母さんは、じっと目を閉じたまま、何も語らない。苦渋に満ちたその表情は、過去にこの常盤苑を襲った、恐るべき悲劇をそのまま現わしているように感じられた。拓也は、ただひたすら彼女の言葉を待ち続ける。


***


(……? 見晴の奴、学校へ行くのか?)

 斎藤は、跡をつけつつその事に気づき、怪訝な顔をした。学校へ行くとしたら、彼女の制服姿の理由は、確かに分かる。


 ……しかし、もう夏休みなのに、いまごろ学校へ行って何をするんだ?


 少し拍子抜けしたような気がした。尾行など止して、呼び掛けようか……そう思った時、既に見晴は、きらめき高校の校門の中に入りこんでいた。休みでも活動中のクラブ部員のため、校門脇の通用門は、いつでも通れるようになっている。

 仕方なく、斎藤も後を追う。校庭には自分の身を隠す場所がないため、校門の陰から様子を窺った。

(美術棟の方へ行くな)

 美術棟の裏には、三島孝祐が殺された“伝説の樹”がある。奴がそこへ向かっているとなると……。

(やはり何かあるんだ)

 斎藤は、再び緊張して見晴の後ろ姿を見つめた。


***


 永劫とも思える時が流れる。そのうえで、見晴のお母さんは、ようやく決心した様だった。

「判りました。私の知っている事を、全てお話します」

「……」

 お母さんは拓也の顔を正面から見つめた。その、澄んだ瞳には、すでに迷いの影は見えない。

「まず、最初にお話しておかなければならない事があります。見晴は、実は私の子ではありません」

 えっ……。思いもかけない言葉を聞いて、拓也は驚愕した。

「子供じゃない……?」

「血の繋がりはあります。妹の子ですから。

 ……知晴の事は、知っていらっしゃるのかしら?」

「ここへ来る途中で聞きました。見晴ちゃんのお姉さんだそうですね」

 お母さんは、遠い目をして頷いた。

「あの子達は……あの子達の家族は昔、きらめき町に住んでいたんです」

「きらめき町に?」

 これもまた、拓也を驚かせる言葉だった。お母さんが、微かに微笑んで言う。

「私がね、拓也さん。さっき、あなたと会う気になったのは、あなたの名前を以前から知っていたからですよ」

「そ、そうなんですか?」

「あなたが忘れているのも無理ありません。ほんの、小さい時の話ですもの。……あなたは、『チィちゃん』『ミィちゃん』と呼んでいた女の子の友達の事を覚えていらっしゃらない?」

「……!」

 拓也は、脳天をハンマーで殴られたような衝撃を覚えた。


 チィちゃん、ミィちゃん……


 確かに覚えがある。はるか昔……幼稚園以前の……四・五歳くらいの時か?

「あなたと、お隣りの詩織さん。そして、筋向いの家に住んでいたあの子達。いつも仲良しで、近所の公園で遅くなるまで遊んでて。 端から見てても、本当に羨ましくなるくらいでした」

 お母さんは、昔を懐かしむ様に微笑んだ。

「私、ごらんの通り、いくらか余裕の在る暮らしをしておりますもので、良く妹夫婦の家に遊びに行ってたの。知晴と見晴は、その妹の子。あなたの事もその時から存じ上げてました」

 そう言われて、拓也も目の前の女の人に見覚えがあるような気がして来た。いや、それよりも、J組の教室で見晴ちゃんに会った時に感じた不思議な親近感。その理由が、今、はっきりと理解できた。

「……」

「あの子達が本当に幸せだったのは、その時だけだったかも知れません。あなたは小さくて知らなかったでしょうけど、彼女達が幼稚園に上がろうとした、丁度その時、妹夫婦は……」

 それから聞いた話に、拓也は耳を覆いたくなった。

 ―N坂のトンネル事故。

 史上最悪と言われた高速道車両火災は、数十名の命を奪い、その中に関西の親戚の法事へ出かけていた見晴ちゃん達の両親も。

 残されたのは、幼い彼女達と、年の離れた兄だけだった。

「いくら保証金が出ても、彼女達に必要な肉親は、もう帰って来ません。幸い……と申しますか、私どもには子供が在りませんでしたので、幼い二人はここへ引き取りました。養女として、姓も館林に変えて……」

「……」

「あなたは、小さい時のあの子達をおぼえていらっしゃる? あの子達は、本当によく笑う子でした。いつもニコニコして、私が訪ねて行くと駆け寄ってきて、膝に擦り寄って」

「……」

「それが、ここへ来て彼女達の顔から笑顔が消えました。いつも沈んだ目をして、声を出すことすら恐れているように。二人で部屋に閉じこもって泣いていたのを見た事も、一度や二度ではありません」

「……」

 拓也は、胸も張り裂けるような思いだった。チィちゃん、ミィちゃん……。僕や詩織が、ずっと幸せな季節を過ごしてきたのに比べ、彼女達に振りかかった運命は、なんと過酷なものだったか。僕の母さんも、詩織のお母さんも、何一つ教えてくれなかった。子供相手に出来る話ではない、と承知はするものの、いきなり消えた幼児期の“親友”を、僕も詩織も、そのせいで今まで完全に忘れていたなんて……。

 何か途轍もない寂しさを覚える。

「私達は、知晴と見晴に出来るだけの事をしてやって来たつもりです。あの子達にも、それは分かったのでしょう。小学校に入り、大きくなるにつれて、私の事を本当のお母さんの様に思ってくれるようになりました。近所の人達も、いつしか二人が養女であったことを忘れ、常盤苑のチィちゃん、ミィちゃん、と言って可愛がってくれていました」

 お母さんは、手元の急須にお茶の葉を入れた。拓也は、その彼女の手元をじっと見詰めている。

「でも、幼少期に受けたショックは、なかなか消え去るものではないようです。二人は、おとなしい……と言ってしまえば誉め言葉ですが、心の内に何か暗いものを秘めたまま、成長していったんです。彼女達自身もそれは自覚していたと思います。

 中学校に上がった或る日、知晴は見晴を捕まえて、髪型を変えさせました。『ミィちゃん、おとなしすぎるから、もっと活発な髪型がいい』と言って、無理やり。あのコアラみたいな、ちょっと奇妙な髪型に変えさせたんです。

 おかしいですよね。お姉さんの知晴の方が、見晴より、よっぽどおとなしいのに。おそらく知晴は、自分の心の奥底に、ずっとわだかまったままだった“何か”を、妹の髪型を変える事で追い払おうとしたんでしょう。私達は、それを知って少し戸惑いましたけど、肝心の妹の見晴が、その髪型をとても気に入ってしまって……。

 いつの間にか、彼女のトレード・マークみたいになってしまったんですよ」

 お母さんはおかしそうに笑って、静かにお茶を差し出した。拓也は、ぺこりと頭をさげて受け取る。

「二人を見ていると、お姉さんの知晴は、面倒見のいい性格で、細かい事によく気がつく。見晴は何処となく甘えん坊やさんで、双子とは言いながら、やっぱり違うんだなあ、と思ったものです」

 彼女はしばし目を閉じて、沈黙した。昔の事を思い出してるんだろう……そう思った拓也は、黙って次の言葉を待った。

「私どもにとって、二人はかけがえのない存在になりました。子供のいない夫婦にとって、彼女達を得た事は、本当に天の恵みの様に思えたものです。

 私は心の内に妹夫婦の姿を浮かべ、何度も手を合わせました。

 ……チィちゃん、ミィちゃんをありがとう、二人は必ず幸せにするから、勘弁してくださいって」

 拓也は、いつしかここへ来た目的も忘れ、聞き入っていた。親子の絆……。それは、例え自分の腹を痛めた子でなくても、存在するものなのだろう。お互いがそれと認め、愛しいものと感じれば、それに過ぎる絆はない。

「……でもね」

 ふと、お母さんの顔が翳りを帯びた。

「結局、私はその約束を守れなかったの。知晴を失ってしまったんですから」

「お母さん……」

「拓也さん。これからお話する事は、今まで家族以外の誰にも、話して来なかったことです。軽々しく話すには、余りに知晴が不憫すぎて……。

 でも、あなたには、お話します。あなたなら知晴を、そして見晴を、本当に理解してくれそうな気がしますから。どうか聞いてください。あの子の……知晴の最期の時を」

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