【第八幕・夕焼けのフォトグラフ】


 見晴の姿が美術棟の中に消えたのを見定め、斎藤は急いで後を追った。動悸がだんだん早くなる。

 (転校して来たばかりで、クラブにも入っていない見晴が、夏休みの学校に用があるはずがない。まして、美術棟なんか縁もゆかりもないはずだ)

 一気に校庭を駆け抜け、美術棟の正面入り口に達した。工事現場は今日は休みらしく、ガードマンも立っていない。

 斎藤は、一階の窓からそっと中を窺った。一階は普段の講義で使用され、講義机が整然と並べられている。窓際の石膏像のグロテスクな影に、一瞬ギョッとしたが、すぐに中には誰もいない事に気づいた。

(入ってみよう)

 ドアをそっと押し、中へ滑り込む。やはり、そこには人の気配はない。斎藤が耳を澄ますと、天井に靴音が響くのが聞こえた。

(二階か。奴がいるのは)

 遠くで、バタン、と扉が閉じる音がする。どうやら、どこかの部屋に入ったらしい。斎藤は足音を立てないよう用心しながら、そっと二階への階段を昇った。

 二階は美術実習室になっている。授業にも使うが、それ以外の時間は、主に美術部員や、芸術系大学への進路を希望する生徒が詰めている。だが今日は、何故か誰もいないようだった。

 斎藤は、部屋の入り口に立って、中を見廻した。先程のドアの音は、どうやら正面に見える教員用の研究室のものらしい、と見当をつける。

(うちの高校には美術教師が二人いるが、美術棟に普段から詰めているのは、芹沢の先公だ)

 と、言う事は……。

(見晴の目的は芹沢か。しかし、何故?)

 好奇心がむくむく頭をもたげてきた。研究室のドアは頑丈なスチール製で、覗き穴などはない。

 せめて声だけでも……そう思った斎藤は、ドアに近寄り、耳を押し当てた。中には確かに人がいる気配がするが、声は聞こえない。

(……おかしいな。芹沢と見晴……二人して中で何やってるんだ?)

 斎藤は、全神経を扉の向こうに集中した。

 ―その為。

 背後への注意がおろそかになった。

「……え?」

 斎藤が、気づいた時はすでに遅かった。後ろから密かに慕い寄ってきた人影は、手にしたブロンズ像を、彼目掛けて力任せに振り下ろす。

「……ぐえっ!」

 ブロンズ像の砕け散る音と、斎藤の悲鳴。その著しい不協和音が、美術実習室にこだまする。顔中血だらけになりながら、斎藤は床に倒れこんだ。そして、自分に危害を加えたものを必死に見定めようとする。

「……お、お前は!」

 人影の正体を知り、愕然とする斎藤。それを冷ややかに見つめた影は、少しも動じることなく斎藤の首に手をかけ、喉仏を一気に押し潰した。冷徹な、感情など欠片もない暗い表情。


 斉藤の虚ろな目は、既に瞳孔が開ききっている。人影はそれを確かめ、ふと視線を移した。今の物音で、研究室の中の人間が驚き駆け寄ってきたようだ。扉のカギをガチャガチャいわせている。

(終わった……)

 これで、全て終わったんだ。影はそう呟き、開きつつある美術研究室の扉を、ジッと見守った。


***


 客間の二人の間に沈黙が流れた。庭から聞こえる蝉の声が、辺りを支配する。

 見晴の母親は、手のひらに小ぶりな茶碗をのせ、じっと視線を注いでいる。抹茶ではなく煎茶なのだが、慈しむように器を撫で、その温もりに意識を没入させている。

 ……ふと、縁側の風鈴がチリリと鳴った。

「もう、二年になりますか。私には、つい昨日のように思えます。その年は例年になくお客さんの予約が多くて……。家中、てんてこ舞いでした。普段なら旅館の事は番頭さんにまかせっきりなんですが、さすがにその時だけは、そうも行かず……。

 あの子達も、客室の世話から料理の支度まで、一日中駆けまわっておりました。せっかくの夏休みなんだから……とは思ったものの、なにしろ、私自身が帳場から滅多に出られない有様で」

「……きらめき高校の野球部が来たのは、いつですか?」

「お盆過ぎだったと思います。とにかくお部屋が詰まっておりましたので、普段なら団体さんには使わない、離れの方へお泊り願いました」

 そう言って、お母さんは小さなため息をついた。

「その中に……彼がいたんです」

「……三島ですね」

 彼女は頷いた。

「とてもいい青年に見えました。仕事柄、運動部の学生さんには接する機会が多いのですが、その中でも一際輝いて見えて。

 知晴と見晴も同じ思いだったようで、夕食の時など、彼の話で持ち切りでした」

 あの三島ならそうだろう。詩織が奴にラブレターを出した話は、拓也の胸を熱くさせたが、その反面、三島なら無理ないな……と思ったのも事実だ。

「噂をするのは、専ら見晴の方でした。知晴は黙って聞いていて、相槌を打つだけ。だから私は、見晴の方が彼に夢中なのだと、そう思っていました。

 しかし実際はそうじゃなかった。見晴は、ただ単純に憧れていただけだった様ですが、知晴はもっと深く思いつめて……。それに気づけなかったのは、私の責任だったかもしれません」

 そう言って彼女は、つと立ちあがった。隣りの居間の方へ消えたかと思うと、手文庫を提げて再び現れる。その中から小さな一冊のノートを取り出した。

「あの子が亡くなりました後、遺品を整理して見つけたものです。知晴の日記……その終わりの方のページに」

 お母さんは手文庫の中にしまわれていた、日記帳を拓也の方へ黙って差し出す。

「僕が読んでもいいんですか?」

「構いません。私がお話するより、よっぽど知晴の気持ちがあなたに伝わると思いますから」

 それでも拓也は躊躇した。女の子の日記なんて、詩織のだって見たことがない。それは女の子の聖域。決して触れてはいけないもの……。

 しかし、お母さんは執拗だった。結局、拓也は彼女に押し切られる形で、その日記帳を手に取った。

(……)

 拓也は軽く一礼して、日記帳のページを開いた。

 知晴と三島との初めての出会い。

 彼女のときめく想い。

 そして、やっと彼と言葉を交わせた時の、えもいわれぬ感激。

 そこには、思春期の少女の全てがあった。館林知晴という女の子の、赤裸々な姿が書かれてあった。

 その日記によると、始めに誘ったのは、やはり三島だったらしい。

 ―みんなが寝静まってから、二人だけで話をしよう。

 そう言われて、知晴は無言のまま頷いた。その夜の、めくるめくような彼女の想いについて、語るすべは、拓也にはない。いや、知晴のお母さんも、多分そうだったからこそ、彼にこの日記を見せたのだろう。一つだけ言える事は、この夜を境に二人の心は固く結ばれ、永遠の絆をもったということだ。


 日記を一旦膝の上に置き、しばし瞑目していた拓也に、お母さんは静かに語りかけた。

「私だって女です。知晴が……彼女が相談してくれていたら、それがどんな事だって、受け入れる準備はあったつもりです。例えそれが、世間様から見て非常識な事でも。

 私達にとってはあの子達が、この世で一番大切なのですから……」

 拓也には、お母さんの気持ちが痛いほど判った。世の中には、自分の体面の為に、子供を犠牲にする親もいる。しかし、この人は違う。絶対違う。たとえ自分のお腹を痛めた子でなくとも、それ以上の絆を子供達と結んでいたんだ。だから、その時の知晴ちゃんが、もし、ほんの少しだけ勇気を振り絞ってくれていたなら……。

 拓也は、再び日記を読み始めた。三島との束の間の出逢いは、知晴の心に大きな変化をもたらした。そしてそれが、精神的なものだけではなく、肉体にも及ぼされている事に、彼女は気づいた。夏が終わり、秋風が吹く頃には、知晴は“ある決断”を迫られていたのである。

「この日記を読んだ後、私は自分の身を呪いました。妊娠の経験のない私は、知晴の身体の異常に気づく事が出来なかった。知識としてはあっても、それが現実にどういったものなのか、判らなかったのです。

 ……私には三島を、あの憎むべき男を非難する資格などありません。それ以前に、私は母親として失格していたのですから」

 うなだれて、伏せられた彼女の目から、涙のしずくが落ちた。


 ……一滴、二滴。


 拓也は、それをただ呆然と見つめている。


***


 彼女の嗚咽はまだ続いている。拓也は、それを妨げまいとして、そっと日記の最後の部分に目を通した。

 三島の子を宿した事を悟った知晴は、それを見晴に打ち明けた。見晴は当然驚いたが、それにもまして知晴の決意を知り、愕然とする。

『私、産むの。あの人の子を』

『そ、そんな。チィちゃん、本気なの?』

『本気よ。だって、あの人と私の子なんだもの。それ以外にどうしようもないよ』

『……お母さん、びっくりするよ』

 そう言われて、知晴ちゃんは少し顔を曇らせた。

『お父さん、お母さんには、本当に済まないと思ってるよ。でも私には出来ない……彼の子を殺す事なんか、とても出来ない』

『……』

 両親に相談したら、“堕ろせ”と言うに決まってる。そう、知晴は信じていたようだった。

『私、明日、東京へ行ってくる』

『……三島さんの所へ?』

『うん。そしてお願いする。どうか、あなたの子供を産ませて下さいって』

『……駄目だって言ったら?』

『孝祐さんには迷惑かけないからって……。あなたの子供だなんて絶対言わないからって……。そう言えば、きっと許してくれるよ』

『チィちゃん……』

 見晴には、それ以上何も言えなかった。知晴の気持ちが痛いほど伝わってきて……。自分だって、姉さんの立場になれば同じ事を考えるかもしれない……。

 そう考えた時、彼女の気持ちも固まった。

『判った。じゃあ、私も行く』

『ミィちゃん』

『チィちゃん一人は、やれないよ。私も一緒にお願いする』

『……ありがとう』

 そして二人は翌日、学校が終わってから東京へ共に行く事を約束した。……日記は、ここまでで終わっている。


(この後、二人はどうなったんだろう? ここで終わってるって事は、知晴ちゃんが死んだのは、このすぐ後、そう言うことになる。一体何があったんだ? 三島に会いに行った事と、彼女の死と、どういう関係が……?)


 やっぱり、さっきの運転手さんが言ったように自殺したんだろうか? 拓也は、チラリと知晴のお母さんを眺めた。

(やはりこれは、この人に聞くしかないな)

 彼女の気持ちも、少し落ち着いたように見える。拓也は思いきって口を開いた。

「お母さん。こんな事をあなたに聞くなんて、とても残酷な事かもしれません。でも……。

 どうしても、僕は知らなければいけない。知晴ちゃんは、何故、死んだんですか?」

 彼女の肩が、ピクリと震えた。ある程度覚悟はしていただろうが、この質問は彼女にとって、余りに辛いに違いない。

「……拓也さん」

「はい」

「先程も申しました通り、その質問に正確に答える事は、私には出来ません。あの子は、東京で死んだんです。三島に会いに行った、その夜に。全てを知っているはずの見晴は、その間の事情を何も教えてくれませんでした。あの子は今も、固く口を閉ざしています。

 ただ、一つだけ言える事は……。

 知晴が死んだのは病気なんかじゃないし、まして噂されているような自殺なんかじゃない。遺体を診てくれたお医者さんの話では、彼女の死因は、『外因性素因による早期流産に伴う出血多量』すなわち、お腹を強く打って、それが元で流産してしまった……と言う事らしいです」

「そ、それは、お母さん……!」

 拓也は、思わず引きつったような叫びを上げた。知晴の母親は一つ首を振り、努めて冷静な声音で続きを語る。

「誰がやった、とは申せません。証拠の在る話ではありませんから。しかし、お医者さんも遺体の様子に疑問を抱いたらしく、一応警察に届けたらしいです。ですが……」

 警察は、その訴えを一旦受理したものの、その後何の連絡もないという。

「見晴が何も教えてくれないものですから、私は自分で三島の家を調べ、会いに行ってみました。少なくとも彼には、事情を話して貰う義務が在ると思ったからです。

 でも、彼に会うことは出来ませんでした。私が『館林』と名乗った途端、インターホンが切れてしまって……。その後、いくら呼んでも応えは返ってきませんでした」

 拓也の頭に、「お腹を強く打って」と言う残酷な言葉が、何度もこだました。他人事ではない。それで詩織は今、病院に入院しているのだ。

(詩織をこの前、襲ったのは須藤真紀。そして真紀は、三島の命令なら何でも……。

 いや、仮に三島の指示がなかったとしても、奴なら三島の傍に近づこうとする女性を、決して許そうとは、しなかったろうが……)

 拓也の脳裏に、事件の構図が鮮やかに浮かび上がってきた。これほどの大事件が、警察の知る所となったにも関わらず、ウヤムヤに葬られた理由も。それは、山科が言っていた“三島の母方の親戚”、与党の某有力政治家の存在を考えれば大体想像がつく。それなら三島とて、決して無関係ではないはずだ。

 問題は、知晴が死んだ時の様子を、見晴が隠し続けていることだ。彼女が何故、事実を隠すのか判らないが、隠す、と言う事は、逆に全てを知っている、と言うことにもなる。


 そして拓也は、この悲惨な事件と、今回の連続殺人事件との関わりを完全に理解するために、最後のカギが必要な事に気がついていた。それを手に入れる為には、目の前にいる女の人に、たった一つの質問をすればいい事も。


「知晴ちゃんと見晴ちゃんには、年の離れたお兄さんがいるんでしたよね? 彼は、ご両親のトンネル事故の後、何処に?」

「世話をする人があって、海外に留学しました。とても頭のいい子だったので、その方が彼の為になると思ったのです。

 それに、あの子まで私どもの養子にしてしまっては、芹沢の家の名が消えてしまいますし……」


 芹沢……


 予想通りの名を耳にして、拓也は深くため息をついた。ふと外に目をやると、いつのまにか、かなりの時間が過ぎたとみえ、空には夕焼けが広がっている。

(きらめき町に帰ろう。詩織を、一刻も早く救い出してやらなければ)

 その為の障害は、もはや何一つ存在しないのだ。

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