文  野島久美子

 

二年間の授業を終えて家に帰って来たんです。家というのは、親が建てた家なんです。

埼玉の八潮に住んでいたんです。帰ってきて、お母さんがあれをやってはいけない、これをやってはいけないといっていて、雨戸を閉めてあるわ、かぎは閉めてあるわ、と表にも全然出られなかったんです。何のためにリハビリに入っていたのかよく分からなくて、そこでお母さんに言ったんです。「私はここでお料理を作りたい」と。でも「料理を作って火事を起こしてはいけない」。と言われたんです。母親とはずいぶんいろいろなことでもめあったんです。

一番大きいのは、偶然テレビを見ていて、欽ちゃんの24時間テレビで電動車椅子が写っていたんです。私もああいうのに乗りたいと思って。とにかく外に出たかったんです。そのころホームヘルパーさんが来ていたので、ヘルパーさんに相談して、電動車椅子が欲しいんだと言って、親にも相談しないで、自分なりに市役所に行って申し込んだんです。ほかに障害者団体にも入っていて、半年間貸してもらったんですね。電動車椅子に乗って世の中がバラ色になって、あちこちに行ったんです。市役所だとか、買い物だとか。買い物なんか面白くて。今までにお金を持ったことが無いのに、スーパーだと低いから品物が取りやすくて、籠の中にいっぱい入れて、お金は千円しか持っていなかったんで、払い戻し足りしてね。それでもうれしかったんです。

あと市役所に行って、電動車椅子が私も欲しいと言って、借りているのは半年しか借りられないと言うことで、どうしてもじぶんの車椅子が欲しいと言って、どうしたらいいのかなと思ったんです。ケースワーカーに、「おたくはまだ若いから電動車椅子に乗ってはいけない。それを利用すると筋力が衰える」と言われたんです。でも、室内と道路は違うでしょう?道路はでこぼこだし、うまく歩けないのです。そんなことでもめあったんです。ケースワーカーが4年目で異動になって、新しいケースワーカー担ったんです。そのケースワーカーがすごく話が分かっていて、いいよと言ってくれて、電動車椅子をもらったんです。「やっぱり電動車椅子じゃなけりゃいけないよな」とか、「外に出たいよな」とか、そんな話が分かるケスワーカーで、私は本当によかったなと思って。

電動車椅子をもらったおかげで、そろそろぶらぶらしているのはいやだなと思って、市役所に行って、作業所ができると言うことで待っていたんです。それで作業所ができて、そこで3年間働いて、1年間ぐらいは自分でも働ける場があったなと嬉しかったんです。1ヶ月の給料ももらえてよかったなと思ったんです。でもほかの人は能率が良くて、私だけ遅いんです。どんなにやっても遅くて、私は机に向かって働くと言うのは合わなくて、何か人としゃべるのが合っていて、自分の仕事はそっちのけで、しゃべってばかりいて、それでしょっちゅう怒られたんです。「しゃべってばかりいると給料が上がらないよ」と言われて。そこの作業所に友達がいたんです。私とすごく仲が良かった人なんですけど、その人から「わらじの会」を紹介されて、作業所よりこちらのほうが面白いなと思って入って、街頭カンパやったり、ポスター貼ったり、こちらが面白いなと思って始めたんですね。それで親に言われたんです。「何で作業所に行かないで別のところに行っているんだ。そんなポスター貼り戸かやったって給料ももらえない」。と言って。それから作業所を辞めたんです。

 

 

わらじの会は、障害のある人もない人もいっしょに街で生活していこうと、20年前から活動している団体です。

いつでも誰でも、活動に参加したときがわらじの会員です。

入会、退会、などの会員規則はありません。