生い立ちと今のくらし

 

 

 

                            野島くみこ

 

は、せんげん台に近い春日部に住んでいます。15年半前に一人暮らしを始めました。そこに至るまでの経験とか、みんなの参考になるかどうかわかりませんが、話してみたいと思います。

私の生まれて育ったところは、東京の荒川で、生まれた時はまったく健康な人だったのです。うちはカメラ屋をしていて、住まいと店が別だったのです。

店にオムツを替える場所がなくて、ウインドウの上でしか替える場所が無かったんです。お母さんが目を話した時に私が落っこちたんです。それで、高熱が続いて、あっちの病院、こっちの病院とたらいまわしにして、やっと大きな慈恵医大病院に入院して、お医者は「頭を開きたい」と言って、両親は「そんなことはできない」と反対して、それでお医者からは歩けないという診断が出たんです。

私の障害はCP(脳性まひ)に近いんだけれども、頭に傷があって、頭部なんとか外傷という難しい病名で、身体障害者ですね。そのときから障害者()といわれるようになったんです。

それで池袋に在る肢体不自由児協会と言って、通院所みたいなところに毎日通っていたんです。歩行訓練とかやっていて、伝い歩きができたかなというころに学校に入る年齢になって、そこの先生から北療育園を紹介されて、そこは学校と病院があるということではいったんです。

 

和40年の春に北養護学校に入って、2年生の2学期に北療育園に入ったんです。そのきっかけは、すごく好き嫌いが激しくて、甘いものが大好きで、味噌っ歯だらけだったんで、歯が全然無くて、整形のために入ったんです。そこから、学校へウオーカーにつかまって毎日通っていたんです。

小学生の時は、引っ込みじあんで、人と話ができなかったんです。すごくおとなしくて、何かいわれると泣いてばかりいて、小学校は親がお当番が会って、お母さんのくる日はうれしくて、お母さんが帰ると悲しくて、その日は一日中泣いていたんです。小学校の思い出というのは、泣いてばかりという思い出しかないんです。

病院では、小学校の夏に始めて外泊して、家にたった2週間いて、座りっきりだったんです。表にも出られなくて、だんだん足が曲がってきて、歩けなくなって、それから車椅子の生活になったんです。小学校のころは、やっぱり引っ込み思案で、人が嫌いで、何しに学校に行ったのか分からなくて…。

中学部、高等部とだんだん進路が近づいて、高等部2年から私が目覚めて、あと2年しかない、何かやらなければと思って、生徒会長はだめだけれど、選挙管理委員ならできるなと思って、そんなことから始めたんです。高校2年生から自分を出してきて、いくらか積極的になってき始めた感じです。

そしてみんなは一般企業とか施設とか決まっていて、私は何も決まっていなくてあせったんです。このまま家にいても仕方ないし、施設に入った方がいいなと思って、施設には、友達がいるし。そのときは、父親が反対したんです。「何であんなところに入んなきゃいけないんだ。おまえには親が建てた家があるんだから、そこで暮らせば良い。」と反対して、それがはじめての親とのけんかになったんです。

そして、父親と始めて施設を見学したのは、栃木県にある、泉園という施設だったんです。すごく山奥で、知恵遅れの人がほとんどだったんです。これが私の入るところなのかなと、すごく雰囲気が暗かったんです。それで、そのときは中に入らなかったんです。

その次に見たのは、静岡の中伊豆リハビリセンターなんです。話を聞いて、そこは1年か2年と言われて、お父さんもそこなら良いだろうと言うことで入ったんです。施設と言うのは、一般的に山奥で、景色は良いし富士山も見えて。でも、入ったら年齢が一番下で、入っている人は交通事故に遭った人が多かったです。

たまに先生とけんかすることがあったりリハビリをやるとか、体操やるとか、職能訓練とか、学校みたいに決まっているんですね。私は退屈することが多くて…。ADLと言って、生活にかかわる訓練があったんです。お料理を作ったり、缶詰が開けられなくて練習して開けられるようになったんです。編物でマフラーぐらいは編めるようになったんです。

 

次回は、地域にもどり街にでたい、外に出たい、働きたい

そして、わらじの会へ……おたのしみ