第3話 ペナンガラン
真っ白。
誰かがいる。
逆光になっているのか、顔がみえない。そのくせ、光源の見当がつかず、まるで目の前全体がかがやいているようだ。
不自然。
(…ああ、夢なんだな、これ)
納得はするけど、現実かもしれないと脳の半分で思っている。
現実。
そう、これは現実だ。今ではない過去。逆光は、うすれゆく記憶の産物か。
(…やりたいことが、できたんだ)
目標だった人の口から、この言葉を聞いたとき。
ひらかぬまぶたの奥で、かんがえる。
そうだ、オレは目の前が真っ白になった。
だからか? こんなに真っ白なのは。
足下がくずれるような…なんて、ことばだけの気もちだと思っていたけど、いま思えば、あれがそうだったんだなぁ。
…オレ、なにやってんだろう?
前を走る人がいたから、夢を持てたのに。
オレ、なんでいまも走ってるんだろう?
わからない。
オレ、なにがしたいんだろう?
わからない。
わからない。
わからない…。
胃袋がひっくり返って、目がそっくり返りそうになった。大輔はいっしゅんで、夢からときはなたれる。
どうやらカエルみたいな声をたてたようなのだが、おぼえていないし、それどころでもない。目の前で火花がぱちぱちする。腹に圧迫感。
「ぐ、ぐるじ〜〜」
つぶれかかったうめきに、重みがうごいた。伸ばした手ざわりがやわらかい。それに、あたたかいし、すべすべして…。
(……待てよ)
目をあけると、ぶかぶかのトレーナーを着た髪の長い、かわいらしい女の子がいた。腹の上に馬乗りになり、満面のほほえみでこちらを見おろしている。寝ているところへいきなり急降下したのだろう。一発で目がさめるわけである。
手さぐりの先はどこかというと、女の子の太もも。
「おわあ!」
あわてて手をひっこめると、少女が小首をかしげ、ひときわこぼれるような笑顔をしてみせた。
「おはよ、大輔!」
聞きおぼえのありすぎる声だ。
声だけは。
ゲンナリして、少女をどかせる。いいかげん、きゅうくつになってきていた。
それから朝のしたくを少々。いやに時間がかかった。いつもならもう少し用意するのだが、けさは気分じゃない。
少女はというと、手持ちぶさたげにソワソワている。ひと晩休んだからか、元気がありあまっているようだ。
目をあわせると、それだけでうれしそうに、にっこりする。大輔はまたすぐ、視線をそらした。
(…夢ならさめてほしいよ、ホント……)
少女はブイモンという。これが名前だ。
というより人間ではない。証拠に、うきうきとこっちを見ている頭にはツノが二本あるし、ジャージのパンツとトレーナーのあいだからは、しなやかなシッポがはみ出している。顔にはおかしな模様ときた。じょうだんと言われても納得してしまいそうな、中途はんぱなかっこうである。
なのに、声はそっくり同じだし、性格もしぐさも好物もクセもぴったりだし、ふたりの間だけの、もうわすれかけたナイショも、ぜんぶ知っているのだ。
うたがいなく、自分のパートナーデジモンである。そう、見かけいがい。
ブイモンと大輔は無二の「親友」だった。願えばいつもそばにいる、分身のような存在だった。別れた日のことは思いだしたくもない。
矛盾している。思いだしっぱなしだからだ。その日は泣いた。あんなに泣いたのは、生まれてはじめてかもしれなかった。
(…どうしてあんなに、泣けたんだろう?)
5年たってからの回想は、疑問のかたち。それもまた疑問。
「…ほら、おまえも食えよ」
「うん!」
回してあげた皿が、みるまにカラッポになる。期待にみちた視線。おかわりを待っているのだ。しかたなくもう2、3枚パンを焼いてやると、それもぺろり。見かけが女の子なだけに、食いっぷりは絵にも描けない。しまいには冷蔵庫の中身にまで手がおよび、目の前でどんどん消費されていく。
大輔は頭をかかえた。食欲もブイモンそのまんまである。
「ね、もうないの?」
あげく、このセリフだ。さすがにむかっ腹が立って言いつのりかけるが、ふと思いついて、投げだしてあったスポーツバッグをさぐってみた。
記憶が正しければ、このへんに…。
「ああ、あったあった」
引っぱりだしたのは、板チョコだ。すこし割れていたが、たいした問題ではないだろう。ブイモンの顔がぱっと明るくなる。
「チョコ!? チョコあるの!? 食いたい食いたい!」
においでわかったらしい。見せてもいないのに、ほとんど四つんばいのようになって飛んできた。
「うわあ、待て待て! がっつくなよ」
言ったときにはもう、ブイモンの顔が目の前だ。手にはしっかり、板チョコをキープして。アッパレな食い意地というべきか。
タックルをくらった大輔は、体温とやわらかさにとまどいながら、ゆっくりとマウント・ポジションを抜けだした。健全な男子生徒にとってこの体勢を長時間というのは、いろいろと毒にすぎる。
「…さて、と。そろそろ行かねーと」
天井を見上げたまま、口を開いた大輔に、ブイモンが目だけを向けた。口のほうはモグモグ中。
「行くって、どこへ?」
「学校だよ、学校。オレはこれでもいそがしいんだ」
「学校って、お台場の?」
「…ちがうって。お前、ここはお台場じゃねーよ。見てわからねーか?」
しゃべりながらも、着がえをさがしはじめる。肌着をひっぱりだしたところでふりむくと、ブイモンはまだ、こっちを見たまんまだ。
チョコレートは、とっくに胃ぶくろのなかである。
「おい、あっち向いてろよ」
「なんで?」
きょとんとした顔で聞いてくる。それでもじーっと見かえしてやると、ようやくむこうをむいた。
そのあいだにすばやく着がえようとするが、パジャマのズボンが腰のところでひっかかった。そういやあ、最近ゆるくなったんで、ゆうべはきつめにヒモ結んでおいたんだっけ、思い出しつつふりむくと、またじっと見ている。
「あっち向いてろっての!」
「うん」
こんどは素直に目をそらした。そのスキに、いそいで着がえ。ひと息ついてふりむくと、今度はブイモン、パジャマをひろってくんくん匂いをかいでいる。
あわてて、その手からひったくると、大きな目がぱちぱちした。
「どうしたんだよ? なんかきょうの大輔、ヘンだぞ」
「オレは全然ヘンじゃないっ!」
憮然と、スポーツバッグを引っかける。おまえのほうがよっぽどヘンだという言葉は、とりあえず言わないでおいてやった。
「…ねえ、オレはどうすればいい?」
入り口のほうに行きかけたところで、ブイモンの声がまた足を止めさせる。
「どうって……」
いない間には腹をすかすだろうし、じっとしていろ、と言いきかせても不安だ。
まして、こんなかっこうで外をうろつかせるなど論外だろう。かんがえているうちに、めんどうくさくなってきた。
「…わかった、じゃあちょっとここで待ってろ。すぐもどるからな」
スポーツバッグをぼすんと置いて、サンダルをひっかけ、扉をあける。早朝の空気が、ひんやりと肌をなでた。階段を視界にとらえながら、
「…やれやれ…」
ひとりごとがこぼれたが、べつにそれじたいは、なんとも思わなかった。
ブイモンはすこし開いたドアを、ぼーっと見つめていた。
会えてよかった。
こっちに『出てきた』ときはまわりに大輔はいなくて、ただ変なおじさんがいただけだった。おじさんはおどろいて、車のなかから服をひっぱりだして着せてくれた。自分はべつにいらないと言ったのだけど、どうしても、というので甘えることにしたのだ。もらったシャツは、すこしタバコの匂いがした。
それからおじさんが、いっしょにこないかと言ってくれたが、大輔に会いたかったから、ことわった。
でもいま思えば、しばらくいっしょにいればよかったかもしれない。知っている人間に連絡しようにも、どうすればいいかわからないし、自分がどこを歩いているかもわからなかったのだから。
道中は思ったより、さらに長びいた。やむなく、たべものをちょろまかしたりもした。見つかりそうになったこともあるけど、ブイモンにとってはその前に逃げおおせることくらい、わけはない。のがれてきたほうを向いて、ゴメンなを言うのもわすれなかった。よくないことだって、大輔とのくらしの中で知っていたから。
自分のすがたが変わっていることはわかっていたけど、たいした問題じゃなかった。どのくらい歩いたかわからなくなったころ、よく知っているにおいをかぎ分けたときには、そんなことは頭からすっかりふっとんでしまったのだ。
(…大輔のにおいだ!)
どうしてわすれられるだろう。あとはもう、よくおぼえていない。気づいたら大輔がいて、それから…。
思いだす必要はない。会えたのだから、もうそれだけで満足だ。
あのおじさんのことも、肉屋のにいちゃんのことも、足を棒にしたことも、腹をすかせたことも、そして、今のじぶんが大輔をもとまどわせるすがた形だということも、ブイモンにはどうでもよかったし、わからなかった。
自分はここに望んだからこそ来ている。たしかなことは、それだけだったから。
大輔は思案しながら、電車にゆられていた。足もとにはスポーツバッグがある。
あれから近所のコンビニに出かけ、なけなしの金をしぼって食べものやお菓子を買いこみ、腹がへったら食え、とブイモンの目の前にぶちまけてきたのだが、店でみた時計にいらついていたのか、ちょっと態度がらんぼうだったかもしれない。いつもの時間を30分も過ぎていたのだ。
これでは、きょうの朝練にまにあいそうもない。あとで顧問に、事情を取りつくろっておかねばならないだろう。自転車で行くのには遠いくせに電車だとそうでもない、この中途はんぱな登校ルートにも腹がたつ。原付の免許でもとろうかと思ったこともあるが、そんなヒマも金もない。
とにかく今日ばかりは、あらゆるものに腹がたった。
(竹ダルのヤツ、うるせーからなぁ…教えんのヘタなくせに)
サッカー部顧問の竹下は、体育教師のくせにだるそうな目つきと口調をしているので、竹ダルのあだ名で呼ばれている。そこからわかるように、生徒にはあまり人気がないのだが、一般的には、実績のある教師として通っているようだ。
大輔は、この竹ダルがきらいだった。
生理的に合わないという表現が、いちばん似つかわしい。しぐさから声にまでいらついた。
大輔が学校に受けがわるいのも、半分は竹ダルとソリがあわないからである。かんがえないようにしているが、どうしようもない。チームメイトもだからか、必要以上にはかかわらないようにしている。それがみえみえだから、よけい腹だたしい。
(…いいや、今はわすれよう)
あまりかんがえても、いいことなんてない。
シートにいったんは身をしずめたが、とつぜん聞こえてきたのんびり口調のアナウンスに、思わず腰をうかせて悪態をついた。
ひとつ先の駅で、事故があったというのである。
そのうえ、後でたいした事故ではなかったとわかるのだが、知ったときの大輔の顔たるや、けっさくといえるだろう。
佐々木信二はとまどっていた。
いつも一番に来ているはずの大輔が来ていなかっただけでもおかしいのに、いつにもまして、顧問の竹下がよくしゃべっていたのだ。鬼のいぬまにという雰囲気である。信二は竹下のことは特にどうとも思っておらず、あだ名も口にしたことがないのだが、かれがなぜ生徒にきらわれているのか、わずか2時間で理解したような気がした。
最後に、竹下はいやに親しげに肩をたたいてきて、
「期待してるよ」
などと言ったのである。最初はなんのことかわからなかったが、理解してくるにつけ、イヤな気分になっていった。竹下がこれで大輔にマイナス材料を見つけたのは、うたがいのないことだろう。逆にかれはじぶんを気に入っているようなのだが、あんまりうれしくないどころか、まるで胸の中でムラサキのペナンガランが、ぐるぐると回っているようだ。
ペナンガランって妖怪だったよな、などとくだらないことを思いながら教室にもどってくると、問題の大輔がいた。なにやらふてくされたように、机につっぷしている。ゆっくり近づくと、片手だけあげてあいさつをしてきた。
「どうしたんだよ、本宮」
「…べつにどうもしねえよ。ただの寝ぼうだ」
「…お前が? ウソだろ?」
「オレだって寝ぼうくらいするさ。…竹ダルのやろう、なんか言ってたか?」
「…しょうがないヤツだってさ」
「…はっ」
それだけ言うと、大輔はまた、ぼすっと腕に顔をうずめてそれっきり、口をきかなくなった。
起こそうかと上げた手が止まる。
ためらいが5秒。それから、信二はあきらめたように、じぶんの席へもどっていった。
あの状態の大輔にはなにを言ってもむだだと、よく知っていたからだ。
(…あいつ、前はああじゃなかったんだけどな…)
信二と大輔が出会ったのは、入学式のときである。すぐに意気投合したふたりは、なにをするにもいっしょだった。
信二は大輔とちがい、サッカーをはじめたのは入学してからなのだが、さし引いても技術では上をいかれていると、つね日ごろから思っている。ねたみではない。もともとマイペースな性格なので、むしろすごいヤツだと、友であることが誇らしくさえあったのだ。
ところがある時期から、大輔は急にあいそがわるくなった。もともと破天荒なプレイが持ち味だったのだが、それがチームの和をみだしかねないくらい、過剰になってきている。一人になりたがることも多くなったようだ。練習をさぼっているわけではないし、技術も向上しているのだが、一年の終わりあたりから、教師に対しても反抗的な態度をとることがふえた。ここ一月は、よけいひどくなっている。
気になって事情を聞いてみたこともあるが、ハッキリした答えはえられなかった。それどころか、どうも自分のことさえさけているように、信二には感じられたのだ。
たしかに自分は、わずかの間にずいぶんうまくなった。自負はある。だから一度教頭に呼び出されて、さるプロチームから話がきている、お前も候補のひとりだと聞かされたときは、本当にうれしかったものだ。
でも選手としてなら、親友のほうが上である。それも口にしたが、教頭はなにも言わなかった。
かわりに、横にはりついていた竹下が(なぜあんなにくっついていたのだろう?)なにか言ったような気がしたが、よくおぼえていない。
このことは黙っていたのだが、だれかが言いふらしたらしく、いつのまにか候補の話は周知の事実となっていた。
(…なにかあったのかな、やっぱり…)
5時間目をすぎたあたりで、ぬすみ見た大輔の顔に影が濃かったのは、日がかげったせいだけではあるまい。
じぶんのことをねたんでいる、そうは思いたくない。親友だし、心のせまいヤツじゃないということは、つきあった自分がいちばん、よくわかっているつもりだ。だが、じっさいの態度を見ていると、信念もゆらぐ。
(…やっぱり一度、ちゃんと話をしといた方がいいな……)
裕福な家庭でおっとりと、うたがうことを知らずに育った信二だったが、この気持ちは、かれ本来のやさしさから出たものだ。
練習もそこそこに、夕陽のなかをひとりで帰る大輔の後ろすがたを見たとき、ますますつよく思うようになったが、それもまた、なにも他意のない純粋な思いだったのである。