第7話 遠吠え
本宮大輔という少年には、目標とさだめた人間がひとりいた。
先輩であるその人に追いつき、越えること。それが、サッカーをつづける最大の理由でもあった。
その人と技量をきそったことは何度もあるが、一度も勝ったことがない。軽くあしらわれてばかりで、そのたびにまた腕をみがいた。
コンプレックスがあったわけではない。小さなころからずっと、大輔はその人をただ純粋に、尊敬してきたのだ。いつか越えてみせると上を見て、歩いてきた。
技術だけではない。人をひきつける魅力や他人をひっぱる行動力、冷静な判断力など、その人は大輔にないものを、数えきれないほど持っていた。なにより、サッカーをしている時の自然体な、まったく先の読めない動きを見せられるたび、こんなプレイもあるものなのかと、おどろきさえおぼえてしまう。
先輩(あのひと)のようになりたい。いや、越えたい。
ずっと、そう思ってきた。
ところが、そんな先輩がある日突然、言ったのだ。
「わりい。オレ、もうサッカーはやめたんだ」
ぼう然とする大輔に、かれはさらに続けた。
「やりたいことが、できたんだ」
言いつのろうとするのを制して、
「そんな顔すんなよ。だいじょうぶだって、お前はもうオレよりうまいんだ。この調子ならお前、オレの年にはぜったいプロでも通用するようになるぜ。オレが保証する」
いつもとまるで変わらない、自然体の口調で言いきかせられたが、保証などされても、すこしもうれしくなかった。
たっぷり数分間、大輔はあらいざらいをぶちまけた。なぜ自分がサッカーをはじめたか、なぜプロになろうと思ったか、なぜここまで努力してきたか。罵倒にちかい言葉もあったかもしれない。しかし、たぶん全部予想していたのだろう、なにを言っても、その人は怒るどころか、笑っていた。
けれど、
「オレが…オレが今までがんばってきたのは、太一先輩……」
このときだけは、厳しい顔になった。
「その先を言ったら、なぐるぞ」
おもわず息をのむと、けわしい目はすぐにいつもの調子へもどった。
「オレなんかをいつまで目標にしてんだ。世の中、オレより上のやつはごまんといるんだぜ。お前は、そういう選手になりたいんだろ?」
「…………」
「上を目ざせよ。オレよりも、もっと上を」
こういうことを言うときのかれの顔を見ていると、なぜ人をひきつけるのか、わかるような気がした。
こんな顔のできる人は、きっとそうはいない。
「………」
「おまえならできるさ、大輔」
「……………」
そのときは、けっきょく何もこたえることができなかった。
実のところ、これが本宮大輔の人生にはじめて投げこまれた、大きな大きな石だったらしい。
その後しばらくして、かれは高校へむけ、猛烈な受験勉強をはじめるのだが、親からみれば、ややあぶなげに見えたかもしれない。それほど、鬼気せまるものがあった。
友人関係がとぎれがちになってきたのもこのころで、当時専門学生だった姉のジュンがハッパをかけても効果がない。しまいにはジュンも処置なし、とあきらめてしまい、大輔は実技もペーパーもほぼ完璧な成績で、いまの高校へはいることができた。それからはさっさと家を出て、いまに至っている。
いまの大輔の心には、本人も気づかぬうち、先輩へのしこりが残ったままになっていた。
かれとほとんど顔をあわせなくなったのが、いい証拠である。かれにとってはつきつめれば、先輩とともにプロとしてフィールドへ上がり、しのぎをけずることが夢だったといえるだろう。それがかなわなくなっても、ボールをけり続けてきたのはあてつけが半分、意地が半分といったところだろうか。
じっさいその先輩はたいした選手で、高校時代にはプロ確実ともてはやされ、じじつ推薦もされたが、それを蹴ってまで進学をえらんだ。大学ではべつの後輩と連絡をとりつつ、なにか大きなことをやろうとしているようだが、そんなことは大輔にかかわりがない。逃げられたようで、むしょうにくやしかったのだ。
そればかりではない。
大輔はくやしがると同時に、新しい目標をあっさりと見つけ、あっさりと転身をしてみせた先輩に、ちがう意味でつきはなされたように感じてしまったのだ。
そのうえ今までとはちがい、もうどんなにあがいても、手がとどくことはない。やりきれない思いは、いつのまにか心のすみに昏い影を落としていった。
それは本人も気づかないくらい、小さなものだったかもしれない。
だが、きっかけというものがあるのが人生なのである。
その日、大輔は自分の耳をうたがっていた。
聞こえるはずのない名が聞こえて、そして聞こえなかったのだ。自分の名前が。
「……え?」
サッカー部ロッカールームで、おもわず小さな、うめきにも似た声をあげる。
夕陽が、かれの表情にふくざつな影をつくった。
となりに立っていた親友の佐々木信二が、聞きつけてちら、と視線だけをよこす。
「復唱するぞ〜」
顧問の竹ダルこと竹内が、目の前にあつまった部員たちをざっと見わたし、それからだるそうな声で、
「今回の候補は佐々木、山岡、樋口。この三人だ」
ざわざわと部員たちがさわぎだし、なかにはよほどうれしいのか、悲鳴にちかい声をあげるものもいたが、大輔にはそれらがほとんど耳に入らなかった。
頭のなかで何度も何度も、いま聞いた名前が反響をする。信二がもう一度目をやったときには、すでに六、七十回ほどリフレインしただろうか。
「……あの、本宮は?」
また横目でちらっとようすを見てから、信二はひかえめに、竹内へ質問を投げる。
「…ああ。けっきょく、本宮ははずすことになった」
「…なぜですか?」
左を気にかけながら、信二はしんちょうにつぎの質問を投げた。
「…まあ、いろいろと事情があってな…校長や教頭とも話し合ったんだが、そういうことになったんだ」
「…答えになっていません」
眉をひそめた信二に、竹内はニッと笑ってみせた。あいそ笑いのつもりだったのだろうが、イヤな笑いだった。
「それより、佐々木。おまえには期待しているんだから、これからもがんばって……」
「っっっざけんな!!!」
しゅんかん、大輔はブチ切れた。
部室じゅうにひびきわたった怒声に、みんな言葉を失う。
わずかな静寂のなか、大輔は胸のなかの炭火のような怒りが、めらめらと黒く燃え上がるのを、ハッキリ感じていた。
ウソだ。
こいつの言っていることはなにもかもデタラメだ。オレにはわかる。
校長にも教頭にも相談なんてしてやしない。
こいつが…。
こいつが勝手に!
こいつが勝手に!
頭のなかが白くスパークして、電撃が肩から腕へ、こぶしへ伝わり、力がこもってゆく。
そして、つぎのしゅんかん、大輔は動いた。
…ぶん、
なぐる!!
矢のように、思考だけが竹内へ打ちこまれて、
気がつくと大輔は、信二に取り押さえられていた。
「バカ! やめろ大輔!」
いっとき、呆けたように相手の顔を見ていた大輔だったが、すぐに表情が変わった。
「はなせ! はなせ…っ! はなせシンジ! このやろう、ぶんなぐってやる!」
「バカかお前! そんなことしたら、ホントに……」
横から押さえられた右腕を引きはがそうとしながら、大輔は信二をにらんだ。
「うるせえ! なんで山岡なんだよ、なんで樋口なんだよ! なんでオレじゃないんだ!!」
「大輔!」
「おまえだってそうだ。シンジ、おまえ竹内に……」
最後まで言わないうちに、いきなり信二が動いた。大輔の視界が、前ぶれなしにくるり、回ったとみるや、足がふいに空を切って、尻もちをつく。
いっしゅん目の前がくらくらとして、焦点の合った先で、信二が見下ろしているのが見えた。
かれに転ばされたのだと、その時やっと気がついた。細めのからだからは思いもよらない力だった。
「……いいかげんにしろよ、大輔。そんなに軽蔑してほしいのか?」
「………………」
無言のまま、大輔はにらみ返した。
と、その視線があっさりとはずれ、信二は竹内のほうへ目をやった。それを合図と受けとったか、
「……ま、まあ、そういうわけだ。各自、気をつけて帰るように」
すちゃっと右手をあげて、逃げるように部室を出ようとする。
「てめ……」
立ち上がりかけた肩を、信二が押さえた。
そのひょうしにまた尻もちをついた大輔は、さらに強い目つきで妨害者をにらむ。そのあいだに、ほかのメンバーはそそくさと荷物をまとめはじめた。
「……おちつけよ、大輔」
「…………」
肩を落とした目の前に、手がさし出された。無言のまま、大輔はそれをつかみ、引っぱり起こしてもらう。
「……オレだって、なっとくがいかないさ。実はオレ、なん日か前に、先生から結果を聞いているんだけど……」
「…なに?」
「お前の名前がないって言ったら、先生は考えておこうって。…そう言ってたのに」
「なにが『考えておこう』だよ、あのやろう…! なにさまのつもりだ!?」
「…おまえこそ、なにさまのつもりだよ」
「なにッ!?」
がばと上げた視線の先には、こわいくらいに落ち着いた信二の顔がある。見たこともない表情だ。いっしゅんたじろいだスキに、信二の言葉は続いた。
「だってそうだろ? そりゃ、おまえは努力してるよ。オレなんかより、ずっとうまいさ。だからって、さっきの発言は見のがせない」
「…えっ」
「お前さ……自分がいちばんえらいとか思ってないか? さっきのセリフは、山岡や樋口へのぶじょくだぜ。チームメイトへの言葉じゃない」
大輔の頭はぐるぐるしていた。ふっとうした脳ミソでなにを言ったか、よく思い出せない。
「…オレさ、思ったよ」
ふと、夕陽がさしこんできた。信二の顔が、オレンジにそまる。
「もし先生が、おまえを落としたのに理由があったとしたら……原因は、やっぱり今のおまえにあるんじゃないかって」
わけがわからなくなってきた。
いろんな言葉といろんな考えといろんな感情がめちゃくちゃにまじりあって、支離めつれつな不協和音をかなではじめる。体じゅうの毛という毛が、ざざざざと逆立つ音が聞こえるような気がして、ただでもはねがちな髪の毛が、全部抜けてしまうのではというくらいにおどりまくる。しまいには頭のなかがぐちゃぐちゃになりすぎて、またしてもまっ白になり、それはすぐに銀色の電撃へ変わった。もう止められなかった。
「…だとてめえ!!!」
猛烈ないきおいで、信二のえり首をひっつかむ。残った腕が風切り音さえたて、ふりあげられる。部室に残っていたチームメイトが、びくっと注目した。
なぐれなかったのは、なにも注目をあびたからではない。信二が受け止めたからでもなかった。
逆だ。信二は、なにもしなかった。
予測していただろうに、なんら抵抗もせず、ただ真剣なおもざしでつっ立っていたのだ。その顔が、いやに長いあいだ視界にとどまっていたような錯覚がして、腕から力がぬけてゆく。ゆっくりとこぶしが解かれ、えりをしめ上げていたほうの腕もはずれた。
よろり。
よろめいて、ロッカーに大きく背をあずける。金属がばあん、音を立てた。
「……………くそ……」
その声をきっかけに、残りの数人もあわてて出てゆく。大輔と信二、ふたりだけが残された。
静かになった。
しばらくして、信二の表情がふとゆるみ、いかり気味だった肩が、ゆっくりともとに戻っていった。大輔はまだ、目を床へ落としたままだ。
「……少し頭をひやせよ。まだチャンスはあるだろ? そこまであせることはないさ」
「…………」
返事はないが、どうやらカンシャクはおさまったらしい。そう見てとった信二は、ゆっくりときびすを返した。
「じゃ、オレは帰るよ…あんまり落ちこむな」
大輔には親友の声が、ひどく遠くから聞こえてくるような気がしてならなかった。しばらくの間、部室に帰りじたくの物音が大きくひびいていたが、それにさえ、まるで現実味がない。それから足音がして、いちど止まり、また聞こえはじめて、
さらに静かになった。
もうほとんどの部活動が終わってしまったのだろう、いつのまにか夕陽も紫へとけこんでしまっていた。蛍光灯がちか、ちかちかっとまたたいて、部室を明かりで満たす。
その明かりのなか、大輔のからだはロッカーによりかかったまま、ずるずると下がっていった。背中と腰の冷たい感触も、なんだか現実味がない。
しばらくの間、大輔はそのままうなだれていたが、
「………!」
いきなり立ち上がった。そのいきおいのまま、
「……くそっ!」
部室の中央にあった長いベンチをけっとばす。ごん、がとんがとん、木のベンチはいっしゅんだけはねて、床の上で軽くバウンドし、そのひょうしに角が大輔のすねにぶつかった。
「てっ……くそ!」
さらにむかっ腹をたてて、こんどは横からけっ飛ばした。ごん、ごごごご。
ななめになったベンチが、大輔の視界のなかで急にぶれる。やけくそみたいないきおいで上体をひねったかれは、
「くっそぉおぉっ!!」
ばあんんっ!
腕ごとおもいきり、ロッカーをぶったたいていた。
「……くそ…!」
ものに当たったところで、怒りと不満が消えるわけではない。だがそうしなければ、おかしくなってしまいそうだった。
やりきれなかった。
こんな気持ちは、はじめてだったかもしれない。
その日、ブイモンはなにか胸さわぎがしていた。
具体的に、たとえば大輔のことが心配だったわけではない。だが、夕方あたりからどうも気持ちがざわざわして、ちっとも落ちつかなかった。
冷蔵庫のなかにしまっておいたとっておきのチョコをかじってみたりもしたが、いつものようなシアワセ気分にならない。
どうもおかしい。
(なんだろ……こんなの、はじめてだ)
ひょっとして姿が変わったから、体質までホントに変わってしまったのだろうか。だとしても、自分はどうしたらいいだろう?
大輔には好きなだけいればいい、と言われたが、じつのところ、そんなに長居できるとは思えなかった。
いずれ、自分のことはばれる。そうなったら…。
(…でも、その時はその時でいいや。もうじゅうぶん楽しんだし…)
そのとき、またしても後ろでパソコンが起動した。カリカリという音を耳にしながら、ブイモンはうんざりした顔でふりむく。
(…またれいの変なメールか。なんなんだろ、いったい?)
これで3度目になる。
最初は、大輔と会ったつぎの日。2度目はそれから何日か後で、ちょうどおとといの今ごろになる。
さいしょのメールには『だ』、つぎのメールには『い』しか書いてはおらず、ブイモンがみても、あきらかにイタズラとわかるしろものだ。
大輔が帰ってくる前にさっさと消してしまおう、そう思って何歩か近づいたところ、
「……つっ…?」
針でちくりと刺したような頭痛がして、思わず頭を押さえる。痛みはたっぷり5秒ちかくも続いて、手をどけた先にメールの文面が見えた。
すすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすす
すすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすす
すすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすす
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すすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすす
すすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすすす
(なんなんだよ、もう)
腹立たしげにメーラーを閉じて、さっさとパソコンを終わらせてしまう。大輔におそわったとはいえ、あっさりパソコンを使いこなしているようだ。このことはもっとおどろいてもよい事実なのだが、いまのブイモンはまだ、気づかずにいる。
へやの中央にもどり、またちびちびとチョコをかじっていると、その耳がぴくりと動き、手が止まった。
(あっ、大輔だ)
ブイモンには足音とにおいで、すぐにわかる。前より鈍感になった気がするが、それでも大輔より先に扉をあけることくらい、朝めし前だ。
だが今日は、ようすがちがった。
足音がひどく重い。においも、うまく形容できないが、弱々しい感じがする。とたん、あの胸さわぎがざーーーっともどってきて、思わず立ち止まった。
何秒ためらっていただろう。
がちゃり。
アパートの扉がひらいた。
ぎぎぎぎぃっ……。
まるでお化けやしきのような音がしたと思ったのは、ブイモンの空耳だっただろうか。
「……なんだよ。…いたんなら、あけてくれよな…。」
聞きなれた声がしたが、ブイモンにはすぐにわかった。
なにか、よくないことがあったんだ。
おそるおそる、見やる先には、まるで幽鬼のような表情の大輔が、ひょろりと立っている。
かけるべきことばが見つからないほど、見るからにひどいありさまだった。
やたらと緩慢な動きで、靴ひもがほどかれる。つかれ切ったようすで、大輔はからだを引きずるように、へやへ入ってきた。スポーツバッグをぶん投げて、ひざを折り、くずれるみたいに腰をおろす。そのひょうしに、持っていたコンビニ袋からカップラーメンが転がりでた。
思わずそれへ目をやったブイモンに、
「……わりい。今日はそいつでかんべんしてくれ。気分じゃなくてさ。……できるだろ?」
まるでがい骨がしゃべっているみたいな、弱々しい声だった。聞いただけで、ブイモンの胸はかきむしられるように痛む。
「……うん…」
なにかがあった。それだけは確実だったが、たしかめてはいけないような気がした。
だいたいの見当がつくだけに、なおさらだ。
ラーメンをちゅるちゅるすすりながら、じっとようすを見ていたが、そのあいだも大輔はひざをかかえたまま、身じろぎもしない。
また胸がいたんだ。
(…大輔がつらいと、オレまでつらくなりそう……)
当然だ。自分は大輔のパートナーであり、半身ともいえる存在なのだから。
なのに、いまの自分には、大輔にしてやれることがない。あったとしても、気休めにしかなるまい。なによりも先に心でそれを理解してしまう自分に、すこし腹が立った。
もっと鈍感だったら、たとえ気休めでも、声をかけてあげられたのに。
後しまつをすませてから、ブイモンは立ち上がって、大輔のほうへゆっくりと、歩みよった。
(……それでも、オレ、なにかしたい)
大輔はむかしから、めったに落ちこむような少年ではなかった。それでも、ブルーになることはある。そんなとき、自分はどうしていただろう?
(…そうだよ)
静かにかがんだ。大輔は背をむけたままで、気づかない。
(オレはいつも、こうしてた)
背中からやわらかく、大輔をだきしめる。おどろいたのか、かれが体をかたくするのがわかったが、かまわずに続ける。
「……ははっ」
思わず笑みがこぼれた。
(いまなら大輔のこと、全部かかえられる)
その時はじめて、ブイモンはいまこの時、自分が人間の姿であることを感謝していた。
以前は、いっぱいに手をのばしても背中にへばりつくくらいがせいぜいだったが、今ならそんなことはない。ともすればケガをさせてしまいかねないキバや、ツメもない。安心して、かれを抱きしめられる。
ふたりはそのまま、しばらくじっとしていたが、やがてブイモンは、大輔の異変に気づいた。
背中からとつぜん抱きしめられて、なかばうとうとしていた大輔は、いっぺんで目がさめた。
ブイモンだ。なにを思ったか、背中から自分を抱きしめてきている。
(………!)
こんなに密着したのは、再会してからはじめてだ。
まぢかに感じるブイモンの肌はやわらかく、なめらかで、体温が心地いい。かすかに石鹸のにおいがした。教えたやったとおり、毎日風呂に入っているらしい。髪がさらりと垂れてきて、ほほをなでる。ふと小さく笑い声がして、そのときの吐息が、耳をここちよくなでた。
ちらりとブイモンの方を見やると、
そこには少女がいた。
藍色のつややかな髪。とび色の虹彩が美しい瞳。色白で、弾力のあるすき通った肌。すらりと筋のとおった鼻。かわいいくちびる。わずかにとがったあご。そして……。
とつぜん、大輔はいいようもない衝動におそわれた。
体のどまんなかを、なにか正体のわからない、とてつもなくどす黒いものがかけぬけ、毛穴という毛穴から汗がふきだすかのような感覚。押さえようにも、自分でもどうにもならない。まるで内臓の内がわから、おそろしく凶暴なケモノに食いあらされていくかのようだ。
そうだ、これはケモノだ。黒い毛皮をまとったケモノが、どんどん巨大になってゆく。そのたびに、かつて経験したこともないほど凶暴な欲望が、めちゃくちゃに大輔の心を突き上げる。その感覚がどんどんどんどんみじかくなって、キバでも生えたんじゃないかと思うくらいに乱暴な気持ちになって、
(オレは……オレは…オレは……!)
ブイモンの腕のなかで、いきなり大輔が反転した。
「あっ…?」
わおーん、おん、おんおんおんおん。
どこかでまた、犬の遠ぼえがした。さびしいBGMだと、大人なら言うだろうか。
少年と少女の影が、小さく重なっていた。
そして……
大輔のタガが、はずれた。