無限大の…

第8話 沈黙

 今日の仕事をすべてかたづけ、サッカー部顧問の竹内は帰路についた。
 今日は文字通りの大一番だった。プロ候補の告知は、かれにとって精神的負担をともなうものだ。ただし生徒達をふるいにかけること、そのものが心ぐるしいわけではなく、反応をみるのがイヤだっただけだ。じっさい本宮などはなぜ落とされたか理解できないらしく、あんのじょう腹をたてた。さいわい佐々木が間にはいってくれたが、正直なところあの時は冷や汗をかいたものだ。
 彼のような男がなぜ、サッカー部の名門として知られる勤務先の高校で顧問になることができたのかといえば、やはり名監督としても知られる先代と仲がよかったからである。先代を前にしたときの竹内は、まるで別人のようだった。こびを売っている、とかげ口をたたくやからもいるらしいが、おそらくその時だけ、かれの良いところがひき出されていたのだろう。つまり相性がよかったのだ。
 そしてこの先代に、やや人を信じすぎるきらいがあったのもたしかだろう。
 ともあれ、竹内は夜道を小走りにすすんでいた。もちろん、3日前にえらんだ道はさけている。その日にそこで、なにかえたいのしれないものを見てからというものの、かれは夜道がこわくてしかたなかった。歩みがはやいのはそのためだ。
 同時に、あまりに現実ばなれした光景を見たため、少しずつ『アレ』を夢だと思いこむようにもなっていた。そうしなければ、なっとくできなかったのだ。
 だが、夢ではなかった。
(やっとひと段落ついたし、酒でも買ってくかな…)
 考えながら歩いていた足が、止まる。
 前方の道路が、黒ぐろとしていた。
 暗いとはいえ、街灯もあるから、ゆくてがあんなに黒いなど、考えられない。しかも。

(……!)

 背筋にツララが通ったような気がした。
 黒いなかに、ふたつの紅いかがやきが見えたのだ。ゆらゆらと、びみょうにゆれている。

「……ひ」

 知らず、うめき声がもれてしまう。とたんに二つの紅が、こちらを向いた。
 目が合った。
 ずずり。
 黒いかたまりが動いた。でかい。長い四肢とシッポ、プラスチック製のトカゲのような皮膚、ぎらりと光るキバ。街灯のそばに近づくたびに、知りたくもない正体があきらかになってくる。大きな角があるのもわかった。前足のツメは、まるでナイフのようだ。
 ずずり。
 明らかにこちらを狙っている。竹内の体じゅうから、ものすごい量の冷や汗が流れ出してきた。
 ずずり。
 じり…。
 思わず後ずさってしまう。ほとんど無意識の動きだ。遺伝子の奥ふかいところで、本能が警報をガンガン鳴らして音さえ聞こえてきそうなほど、かれは恐怖していた。

(逃げ………)

 化け物の口が、しゃーっと開いた。するどいキバが、ノコギリのようにずらっとならんでいるのがハッキリ見える。それを見たとき、竹内の恐れは限界にたっした。

(逃げ…逃げ…逃げえぇぇぇ!)

 必死できびすを返し、運動不足ぎみの小太りな体を限界までしぼって、地面をける。まさに脱兎のごとく、竹内は逃げ出した。
 …シャ!
 するどい呼吸音とともに、化け物が跳んだ。
 風がほほをかすめたとみるや、竹内の視界がいきなり、回った。あっと思ったときには、

 ごきりっ

 音がしたかどうかはわからないが、目の前がめちゃめちゃにぶれて、九十度に倒れたまま止まった。
 意識がもうろうとして、体にちからがはいらない。たたきつけられた方の腕が、少し痛んだ。折れたかもしれない。
 だが痛いとか、死ぬのかどうかということさえ、考えられなかった。頭にあった認識は、だんだん気が遠くなってきていることと、いったいなにが起こったのか、この疑問だ。何かがすぐそばを通ったようだが、あの怪物の腕がかすめたのだろうか? だとすれば、次はとどめを刺しにくるはずだが…。
 化け物は、いつまでたってもあらわれなかった。
 安心していいのかどうかわからないまま、竹内の意識は、ますます混濁してゆく。

(……酒…)

 とぎれそうな視界のなか、竹内は自分でもあきれるくらい、どうでもいいことを考えていた。
 翌朝、気絶している竹内は新聞配達の少年に見つけられ、その場で救急車に乗せられたという。




 大輔は海に来ていた。
 ここはどこだ、とまわりを見わたしてみても、だれもいない。
 見上げると、まるで墨を流したような色の雲が、ゆっくり流れていくのがわかる。足もとの海水は透明度がおそろしく低くて、重油のようにどす黒い。
 そのうえやたらと肌ざむく、しめっぽくて、ふだんのかれならば、一秒たりともいたくないようなところだった。
 なのに、大輔にはここにいることが、いまの自分にひどく似つかわしいような気がしてならない。
 ゆるやかな脱力感がおそってくる。腰を落としてゆくと、がぼがぼと重い水音がした。水は生あたたかく、イヤなにおいがしたが、それさえも大して気にならない。

(……どっかで見たような……気がするな……ここ)

 ぼやけた意識のなか、ぼんやりと考える。

(……どこだったっけ?)

 気のせいか、じわじわ、じわじわと水位が上がっているように感じたが、動くのもおっくうだった。
 このままでいたら、黒い海にのみこまれて、ひとたまりもなくおぼれ死ぬことになるだろうが、それでさえ、いまの大輔には大したことではないように思われた。それにもう、指先まで力がはいらない。

 と……。
 背後から、ふと影がさした。
 そのものは、たいした変化ではない。なのに、みょうに後ろが気になった。まるで死にかかった好奇心に一カ所だけ、かがやきがもどってきたかのようだ。
 首を動かすのもつらかったが、ゆっくり、ゆっくりと振りかえる。

(……なん、だ…?)

 なにか、黒いものがいる。
 どこからあらわれたのか、身のたけ5メートルはありそうな、なにか異形のものが、だだっ広い海面にぬっとつっ立っていた。
 そいつは体じゅうがまっ黒で、四肢の長さは人間に近いが、長いシッポとするどいツメやキバ、てらてらと黒光りするは虫類のような表皮は、どう見ても人間のものではない。とくにその紅く光る目のかがやきは異常なほどで、そのくせなんの感情も見てとることはできない。死んだ魚のように、表情がなかった。
 まるで、感情をどこかに置きわすれてきたかのようだ。
 なぜそう感じたのだろう。
 大輔の心に、急に大きな疑問がうかんできて、そのおかげか、体にちからがもどってきた。そろそろと、ゆっくり体をおこしはじめる。すぐに、というわけにはいかなかったが、それでもやっと立ち上がって、異形のものと正面からむかいあった。
 そいつの目にはあいかわらず、感情がない。それもあって、じっさいはもっと恐れてもいいはずだったのだが、感覚がにぶくなっているのか、さほど感じなかった。

(……お前)

 声をかけたつもりだったが、ひびいたのが、本当に音だったのかどうか。
 だが、あいてにはわかったらしく、体をびみょうにゆする。しゅんかん、ノイズのようなものが、そいつそのものを大量に横切った。
 ぢぢぢぢぢぢぢぢ。
 イヤな雑音が、頭のなかに直接ひびく。それもすぐまばらになり、消えていった。

(……ダ……)

 頭のなかに、こんどはべつの音がした。機械的な音……
 いや違う。声だ。

(…ダ……)

 目の前のこいつが、しゃべっているのだろうか。

(……ダ……イ……ス………)

 そこまで聞いたとき、失いかけた恐怖がきゅうにもどってきて、大輔は思わず後ずさりをした。ごぼり、足もとの水がタールのようにからみつく。

(……ダ………ケ…)

 耳を押さえた。徒労。いくら強くふさいでも、ノイズのような声は止まらない。

(ダ………)

(だれだ、お前!!?)

 どなったような気がする。
 紅い目は、かわらず無表情なままだが、その中にわずかだが、残忍な光がやどるのも見た気がする。

(だれだ、お前! だれだ! だれなんだよ、お前はッ!)

 ごぼっ!
 そいつが、大きく一歩をふみ出した。大輔にむけて。大きく口をひらき、そのツメを振りかぶる。
 紅い目には、もはやハッキリと感情が見て取れる。
 愉悦。
 エモノを見る目だった。
 それを認識したしゅんかん、大輔は悲鳴をあげていた。
 視界がホワイトアウトした。


「うわあぁぁあぁぁああぁぁぁああぁあぁっ!!」


 上体が振り子のようにはねる。つぎに、違和感に気づいた。あたたかくて、ここちいい。黒くない。白い。
 白……。
 かけ布団だ。

「……あ……」

 ゆっくりと顔をあげると、

「…だいじょうぶか、大輔?」

 ベッドのわきから、ブイモンがのぞきこんでいた。

(……夢…)

 すこし、汗がひいた気がした。

「……ああ…。だいじょうぶ…。 ………だいじょうぶだ」

 まるで自分に言いきかせるように、大輔は力なくつぶやく。ブイモンは無言で、かれのそばをはなれた。

「…朝ごはん、できてるよ」

「……あ? ああ、すまねえな…」

 のろのろと起きあがり、へや着のままテーブルにむかう。そこには、カップラーメンが湯気をたてていた。
 
「…朝からカップラーメンかよ……」

 ため息が出た。

「えへへ…。だってオレ、料理なんてできないもん」

 ぺろりと舌を出すブイモンをしり目に、さきほどと同じくらいにゆっくり、きびすを返す。背中から、意外そうな声がした。

「食べないの、大輔?」

「わりい。 …お前、オレのぶんも食ってくれ。もう朝練の時間だし……」

 重い体にムチ打って、したくをはじめる。
 しばし、無言がつづいたが、

「でも大輔……元気ない。ねえ、きょうは休んだほうがいいんじゃないか?」

「……休む理由がねえ」

「だけど……つらそうだ。どうしても、行かなきゃいけないのか?」

 食い下がるブイモンの声が、やけに耳にさわる。それでも無視して、したくを続けたが、ふいにその手が押さえられた。
 ブイモンのしなやかな指先が、意外なほどのちからで手首をつかんでいる。

「………なんだよ」

 自分でもびっくりするくらい、しゃがれた声が出る。だれか、知らない人の声のようだ。

「…なあ、やっぱり今日は休もう。大輔、おねがいだよ」

「…はなせよ」

「変だよ、いまの大輔。まるで大輔じゃないみたいだ」

 必死に懇願しても、まるで届かない。すでにそれを悟っているのに、なおもブイモンはつづけた。

「一日くらい休んだっていいじゃないか。なあ、今日は休んで、オレと話でもしよう。公園へ遊びに行ってもいいし、散歩してもいいし。オレ、なんだってつきあうよ、だから…」

「うるせえなっ!」

 人はよゆうがなくなると、こんなに違う声を出すものなのだろうか?
 まさしくこの叫びは、ブイモンがついぞ聞いたこともないたぐいだった。つきはなすような、トゲだらけのイヤな声音だった。

「………!」

 凍りついたブイモンの手をふりはらい、大輔はスポーツバッグを肩にひっかける。心なしか、重みによろめいたように見えた。
 そのままかれはなにも言わず、扉まで歩いてゆく。

「あ……」

 体を起こしかけ、ブイモンはそこで金しばりにあった。
 もうわからなかった。
 どう言えば、大輔の気もちを楽にできるのか。なにをすれば、大輔のちからになれるのか。
 自分にはなにもできない。大好きな人のために、できることがなにひとつないのだ。事実にがく然とした。

 ばたん!

 ドアの閉まる音が、無情にひびいた。
 ブイモンはしばらく呆けたように、そのままの体勢で固まっていた。やがてずるずると、床へ倒れこんでゆく。ひどい脱力感だった。

「………………」

 目の前には、投げ出した左腕がある。すこし赤く跡になっているのはゆうべ、押さえつけられた時のなごりだ。本当のことをいえば、まだあちこちが痛い。
 そもそも、その時点から大輔はおかしかった。腕のなかで急に振りむいたとき、目が異様にぎらぎらとかがやいていたのを思い出す。

(……あんな大輔……はじめてだ。 …どうしちゃったんだろう? なにを考えているんだろう? …わからなく、なっちゃった…)

 だが、ブイモンがいだく感情に、大輔への怒りや嫌悪はまじっていなかった。
 この期におよんでも、なお。

(……はあ)

 ごろんと、あおむけになった。
 目のまえの天井が、軽くゆがんだ。

(…そろそろか、な……)




 その日、顧問の竹内は来ていなかった。なんでも事故に遭って、入院したらしい。全治一ヶ月ということだそうだ。
 だが、それにかかわりなく、大輔の動きはおかしかった。
 もともとラフさが身上なのだが、むしろ乱暴と表するほうが正しいくらい、プレイに乱れが見られたのだ。
 特に、ドリブルをしている選手へのマークが普通ではない。まるで猛獣のようで、はね飛ばされる者が続出した。何人かは足を切っている。さすがに主将が注意をしたが、まるでききめがない。そのため、プロ候補に選ばれなかったあてつけではないか、そうかげ口をたたくメンバーも出てきたほどだ。
 DFの松本がひそひそと、他の選手とないしょ話をしているのを耳にして、佐々木信二の不安は頂点にたっした。

「…なに荒れてるんだよ」

 休憩中、ベンチでいつもより荒い息をついている大輔へ、さりげなく声をかけてみる。
 だが、相手の視線は自分に合わない。それだけで、距離をおかれているな、と理解できてしまう。
 じゃり、信二は歩を進めて、目を落としたままの大輔のとなりに腰を下ろす。
 慎重に口を開いた。くちびるが重い。

「…昨日のこと、まだ気にしてるのか? だったらよせよ、ガキじゃあるまいし」

「……気にしてねーよ」

「お前はすぐ顔や態度に出るからわかるんだよ」

「…悪かったな、ガキで」

「…お前さ」

 信二の口から、困りはてたようなため息がもれる。

「八つ当たりしてるようにしか見えないぜ。頭を冷やせよ。お前らしくもない」

 大輔の顔が急に上がった。視線が、信二に合わさる。

「オレらしい?」

 くちびるのはじが、奇妙にゆがんでいたように見えたのは、なぜだろう。

「お前がオレの、何を知ってるっていうんだよ。それとも……お前はお見通しってわけか、何でも?」

「おい、大……」

「そうさ。オレはお前とは違うよ。お前みたいなセンスもないし、友だちだっていない。おまけにお前は、先生たちにも気に入られてる。オレがどんなにがんばったって、これじゃ到底かなわねえよな」

 だんだん開き直った口調になってきたが、声そのものはひどく弱々しくて、表情とあわせて見ると、痛々しいほどだ。

「ばか! なに言ってるんだ」

「…お前、言ったよな。落ちたのはオレに問題があるってさ…そうかもしれない。うまくなりさえすりゃ、上に行けると思って…そのことしか考えなかった。それじゃダメだよな。オレはお前みたいに、うまくやれやしない。オレは…」

「いいかげんにしろよ」

 声が高くなってきている。信二はぴしゃりと、大輔を制した。困惑した顔が、力なくうなだれる。
 信二はその表情を見て、なぜ大輔がこんなふうになってしまったかを、少しだけ理解した気がした。
 そう。
 目の前の親友は、実はずっと、自分にコンプレックスを持っていたのだと。
 日々の楽しさと上達のうれしさにジャマされ、信二はそれに気づくことができなかった。
 思えば、かれがある時期からぐっと練習量をふやしたのも、自分に追いつかれるのを恐れてのことだろう。だがそれを言うなら信二自身もいっこうにかれへ追いつけず、このところはいらだちさえおぼえていたのだ。
 だが、差がうまらないのも無理のないこと。
 自分はただ、サッカーを楽しむことだけ考え、気負わず、勝ち負けにもこだわらず、無理もしなかった。だからあいまあいまに、遊ぶ余裕があったのだ。が、目の前の男は、自分がデートをしたりカラオケに行っているあいだにも、かかさず練習を重ねていたはずなのだ。
 信二の心に、そこまで真剣にサッカーへ打ちこめる親友へ、あらためて尊敬とあこがれがわいてきていた。
 なぜなら、ほかのあらゆる時間を犠牲にしてもかまわないほど真剣になれるものに、かれは出会ったことがなかったからだ。
 小さいころから何でもすぐにおぼえ、いずれもかなりのレベルにまでたっすることができたが、飽きるのも早くて、気づけばそこそこで終わってしまっていた。そのくり返し。
 今やっている、サッカーなら。そう思った時期もあったが、目の前に、段ちがいの意識をもっている男がいる。
 まだまだ甘かったようだ。
 大輔のことである。落ちたことそのものより、それまでの努力のすべてを、理不尽なかたちで否定された気がして、それが何よりくやしかったのだろう。そもそも、信二にとってもなっとくがいかない選定なのだ。客観的にみれば、かわりに選ばれたふたりが大輔以上とは思えない。おまけにこのふたり、顧問と仲がいい。勘ぐりたくもなろう。
 だからといって、

(…なさけない話だな)

 たしかに信二は、大輔について大して知っているわけではなかった。家にだって、数えるくらいしか遊びに行っていない。説教する資格など、ないのかもしれない。
 だからかれは、言葉をつぐことができなくなってしまった。
 気まずい沈黙が、ふたりの間に流れた。
 やがて信二はゆっくりと立ち上がり、さっきとは違う表情で、

「……頭を冷やせ。…な」

 それだけ行って、その場を立ち去った。
 大輔はただ無言で、いつまでも地面を見つめていた。




 夕暮れ。
 今日にかぎって、みょうに夕陽が赤い。まるで、血のように見えた。
 それとも大輔の目にだけ、そういうふうに見えたのか。
 右足を少しひきずりながら、かれは家路についていた。
 自分のラフプレイにつられてエキサイトしたDFに、引っかけられたのだ。見た目のケガはなかったが、多少筋をちがえているかもしれず、じっさい模擬試合中もほとんど言うことをきかなくて、最後のほうは練習にならなかったのだ。その時点から、ご機嫌ナナメがまだ尾をひいている。どちらかといえば、原因はかれ自身なのだが。
 ようやく自分のアパートが見えてきた。ふう、と息をつき、少し休む。
 ゆうべのことが、ぼんやりと思い出されてきた。
 実のところ、あまりに昂揚していて、細かいことはほとんど思い出せないのだが、ブイモンの瞳がそれでも自分からはずれなかったことだけは、ハッキリおぼえている。だが、その瞳はかえってかれ自身のどす黒さへ、濃さを増す手助けをしたにすぎなかったのだ。
 そのどす黒い感情が、アパートへ近づくにつれ、少しずつふくれあがってくる。
 一度はずれたタガは、二度目からは案外かんたんに、はずれてしまうものだ。じじつ、大輔の思考は早くもこの夜へと飛んでいた。それがどれだけ自分勝手で、甘えた欲望であるかはすでに、かれの頭のなかで棚上げにされかかってしまっている。
 手すりに指をかける。表情にやや残酷なものがまじっていたことは、書いておかねばなるまい。
 かつん…。 かつん…。 かつん…。
 ゆっくり、階段をのぼって、自分のへやのドアの前に立つ。聞きかたしだいでホラー映画に使えそうな、イヤな足音だった。あわれな犠牲者は、もうこの扉の向こうに…。
 カギを開けて、静かに扉を開ける。
 ぎぎぎぎ…。
 ぎしっ。
 ぎしっ。
 ぎ…。

 へやには、電気がついていなかった。

 誰もいない。

 畳に落ちる長いシルエットが、ひどくマヌケな演出をした。

「…………」

 ぎ。

 扉が止まった。

「……ブイモン?」

 返事がない。

「…ブイモン?」

 やはり返事がない。くつを脱ぎすてて上がりこんでみたが、少女の影もかたちも見あたらなかった。
 これがもとの姿なら、かくれ場所などいくらでもあるところだろうが。

「……散歩にでも行ったかな…」

 自分の言葉が、なんともおめでたく聞こえた。
 ブイモンは散歩に行くときでも、かならずことわりを入れる。それを破ったことは、一度たりとてない。そもそも、以前はたいていいっしょに行動していたのだ。
 ふと目を落としたテーブルの上に、紙がたたんである。おそろしく不器用なたたみ方だ。あわてて腰だけを落とし、乱暴に開いてみた。
 やはりおそろしいくらいにヘタクソな文字で、ひらがなが書いてある。
 ゆっくりと、目で追ってみた。

「ごめん、だいすけ。おれ、でじたるわーるどに、かえる」

 にぎりしめられた紙が、すこしゆがんだ。

 それから、大輔はおもむろに紙をたたんで、テーブルの上にほうった。どかり、はでに腰をおろして、そのまましばらく、身じろぎもしない。
 陽が落ちた。光がすうっ、と消えて、少しずつ、確実に、電気のついていない部屋が青へしずんでゆく。

「……ブイモ…」

 カサカサの声で、か細く名前を呼ぶ。無意識に。
 返事はない。
 どんなに小さな声でも、聞きのがさないはずなのに。耳ざとく聞きつけて、

「なに、大輔?」

 そう言ってくれたはずなのに。
 顔を上げた。
 へやはもう、まっくらになってきている。
 どこか遠くで犬の遠ぼえや、自動車のエンジン音が、やたらハッキリと聞こえてきた。
 静かだった。
 静かすぎた。

「…ブイモン…」

(…なに? 大輔)

(大輔っ)

(あっ! 大輔ーっ!)

(大輔?)

 幻聴のように、いろんな声が頭のなかで再生されては、消えてゆく。すべてはもう、頭の中の記録でしかなかった。
 否定するかのように、なおも大輔は口をひらいた。

「…返事してくれよ…」

 沈黙が重く、のしかかってくる。
 本当にいなくなったのだと、ハッキリ認識するまでに、なお数分がかかった。


 やがて、大輔の身体がわなわなとふるえはじめた。目はかたく閉じられ、組んだ足の上でかためられたこぶしは、痛いくらいにぎりしめられている。まるで、痛みに必死でたえているかのようだ。どれほどの感情がいま、かれの中でうずを巻いているか、想像もつかない。それは自責か、後悔か、孤独か、それとも絶望か、あるいは…。
 ふいに立ち上がった。

「………何やってんだ…オレ!!!」

 ぱあん!

 自分で自分を張り飛ばす。血のにじむくらいにぎった手に取るものもとりあえず、大輔はへやを飛び出した。階段を一足飛びでかけ降りて、走り出す。

(……イヤだ。絶対にイヤだ。このまま……このまま、あいつの声が聞けなくなるなんて、絶対に…イヤだ!)

 足の筋がおかしいことなど、とっくに忘れていた。