無限大の…

第12話 夢のあとの…

  旧友たちがあらわれた時、自分がなんと言ったか、大輔はよくおぼえていない。
 ブイモンが姿を消した後、人が集まってくる気配がしたため、とりあえず目立たぬよう、一行はこっそりと公園をはなれた。それからなに食わぬ顔で街に出て、とりあえずは駅のそばのファミレスに、腰を落ちつけたのである。全員が夕食をとっていなかったため、しばらくは黙々と食事がつづいた。
 人心地がついたところで、光子郎が説明をはじめた。なぜここに来たのか、なぜ今回のような事が起こったのか。
 『あちら』側のエージェントであるゲンナイが調査した結果、こちら側に来たデジモンがブイモンであるとわかったのは、つい数時間前のことだ。
 仲間のデジモンたちによると、ブイモンは以前から思いつめていたようだったという。そして数日前、誰にも告げずに姿を消した。みんなで探しはじめたが、いっこうに見つからない。その話をもとに糸をたどっていったところ、やはり古代のゲートを使用したのがブイモンであるという結論に達したのだ。
 その古代のゲートは、名を『双竜の門』というらしい。
 ただし、今はもう機能していない。守護者であるところの四聖獣が一、チンロンモンが封印したからである。
 あまりにも古いものであるため、ほうっておくのは両方の世界にとって良くない、と判断がくだされたのだ。
 サーバ大陸の中央、ログキャニオンと呼ばれる巨大な岩柵のかくれ洞窟に、この門はあった。水もなく、草木も生えない不毛の土地であるうえに、最悪の化け物が住むという伝説があって、荒くれのデジモンでも遠目に見るだけだという、そんな場所だ。
 捜査によると、この場所を探検し、洞窟の存在を知った者が、かつてひとりだけいた。
 ブイモンは、そのデジモンに話を聞いたのだろう。
 おどろいたことに、このゲートには番人がいた。アルトロモンという、チンロンモンさえ知らない、たいへん年老いた竜のデジモンである。
 じっさい、チンロンモンがかれに『あなたはどのくらい生きているのだ』と聞いたところ、『忘れてしまった』と答えたらしい。
 若いころはさぞかし強かったのだろうが、言葉どおり、すでに体のデータは大部分劣化し、くずれ落ちてしまっていた。
 『これからこのゲートを封印するが、かまわないだろうか』そうチンロンモンが訊くと、『もうつかれたから、できればいっしょに消してほしい』と、番人は答えた。
 しかしチンロンモンはかれを惜しみ、封印と同時に、かれのデータをいまのデジモンに合わせて変換してやった。アルトロモンは新しい生命を得て、いずれデジモンたちのはじまりの町にて再生することだろう。

 それから、さらにくわしい調査がくりかえされ、新たにさまざまなことがわかってきた。
 この双竜の門はただのゲートではなく、『むこう側』の世界に合わせ、デジモンをエンコード…つまり、変換するはたらきがあったのだ。
 かんたんに言えば、ある一体のデジモンを分解するだけでなく、ゆき先に合わせて『再構成』するのである。
 誰を通すかは、番人であるアルトロモンが決めた。押し通ろうとする手合いには、番人の名において征伐したというが、ブイモンの前に誰を通したのか、それがいつなのか、もうかれはおぼえていなかった。もしかしたら、本当は誰も通らなかったのかもしれない。
 この門がなぜ、どういう目的でつくられたのかはわかっていない。超文明をきずいていたといわれる古代のデジモンたちが、実験のために作ったのかもしれないが、チンロンモンとてこの『デジタルワールド』全体からみればまだまだ若い情報体だから、その時代のことはほとんど知らない。つまり、それほどまでに古い遺跡だったのだ。

 このゲートを通ったブイモンは、一度分解されたうえで知覚や感情、感覚をつかさどるデータを主体に、ゆき先である『現実世界』に合わせて再構成されたのである。さらに言えば、データ経路にはセンサーがあった。これが利用者の考えを読み、目的につごうのよい姿を取らせた可能性がある。ゲートには参考にするためか、ぼう大なデータがためこまれていた。おそらく、長い時間をかけて少しずつ蓄積したのだろう。
 実体化したとき、人間にきわめて近い姿となったのはこのためだ。
 さて再構成にさいし、戦闘能力にかかわる情報は2割たらずを残し破棄された。
 それだけあれば、ブイモンの目的にはじゅうぶんだったのである。が、この切り捨てられたほうの8割が問題だった。
 データの墓場といわれる『ダークエリア』と呼ばれる場所で、これらもひとつの情報体として結合してしまったのである。しかも、ブイモンの存在の根をなすところにあったプログラムも保持した状態で。
 『そいつ』はダークエリアからはい上がり、現実世界へ実体化しようとしたが、必要な情報はブイモンにほとんど持ってゆかれていたため、ダークエリアの表層にある黒い海に半分、身をおかざるをえなかった。その打破のためもあり、大輔をねらったのだ。
 それがわかってすぐに光子郎へ連絡がいったというから、一歩まちがえれば手おくれになったところである。

「…じゃあ、オレをおそったあいつは、やっぱり……」

 息をのむ大輔に、光子郎はうなずいた。

「…ええ。ブイモンの捨てた力が、形になった存在だったんです。でもいちばんの目的はおそらく、君を取り入れて、まわりの危害から守ることだったんじゃないかと…ゲンナイさんが、そう言ってました」

「…オレを食うことがなんで、オレを守ることになるんですか?」

「…ハッキリとはわかりませんが……」

 光子郎はこたえて、

「たぶん、心がなくなって…プログラムだけが、残ってしまったのでしょう。大輔くんのことも、データとしてしか認識できなくなってしまったんと思います。自分に君のデータを取り入れることが、一番君を守るのにつごうがいい、と考えた……僕は、そう推測しています。もちろん、あくまで推測ですけど」

「……………」

 光子郎の言葉に、大輔はただだまりこむことしかできなかった。

「…でも、問題なのはこれからなんだ」

 親友の一乗寺賢が、重おもしく口をひらいた。

「理由はどうあれ、こっちにデジモンが来ることは今、禁止されてる。それを破ったブイモンは……たぶん、それなりの刑罰を受けなきゃならなくなると思う」

「なんだって!?」

 大輔は思わず腰をうかせていた。足がレストランのテーブルに当たり、お冷やのコップがはでな音をたてる。

「おちつけよ。あいつだって悪気があったわけじゃないんだ、そんなにひどい目にはあわないさ」

 さとすように言ったのは、太一である。あとをついで、伊織も言葉をそえる。

「そうですよ。僕たちのほうでも、ブイモンを弁護するつもりですから」

 まるで弁護士のような物言いである。じっさい、法律の勉強をしているらしいが。

「じゃあ、みんなで向こうに行って…!」

「それはできません」

 勢いこむ大輔の声は、光子郎にさえぎられた。

「僕たちがあの世界に呼ばれたのは、むこうのデジモンたちと力を合わせて、危機に立ち向かうためです。今、みだりに行き来してはいけないことになっているんです」

「だ…だけど、前は自由に行き来できたんじゃ……」

「それは、そうする必要があったからですよ。本来僕たちは、『あちら』の世界では異物なんです。こちらにとってのブイモンが、そうであるように。だから弁護といっても、こちら側からということになるでしょう」

「…で、でも」

「それにさ…」

 今度は太一が口をはさんだ。

「どのみち、もうすぐオレたちは『むこう』へ行けなくなっちまうんだ」

「……え?」

 耳をうたがった。もしかしたら、ひろった音声を認識したくなかったのかもしれない。

「…年をとるとさ、かかえてる情報量とかが、でかくなりすぎるんだと。じっさい、光子郎はもう行けなくなってたし。なあ?」

「……ええ」

 答える光子郎の目は、ちらりと自分のデジヴァイスへ落ちていた。

「皮肉なもんです。『あの世界』について知れば知るほど、行くチャンスがへることになるなんて」

「…でも、『むこう』の世界もどんどん広がっているわけでしょう? ずっと行けなくなるということは……」

「だとしても、何年先になるか…」

 後につづく伊織や賢の言葉は、もう大輔の耳には届いていなかった。
 頭を左がわからなぐられたようで、視界がぼんやりしていた。ずるずると力がぬけて、中腰だった姿勢が、だんだんイスの上へくずれてゆく。ひどい脱力感がおそってきていた。これを絶望というのだろうか?
 ふと、ぼんやりした視線が太一に合った。その時、太一がどんな表情をしていたか、大輔はおぼえていない。

「おい、しっかりしろ、大輔!」

 ともあれ、その声にわれに返った。はっと目の焦点をあわせると、ま正面に座っている先輩が、真剣な目で見つめてきている。
 その表情が、ふいにゆるんだ。
 またいつもの顔である。人をひきつけるような、やわらかい笑顔。

「お前がそんなんでどうするんだ。あいつをこれ以上心配させたいか?」

「…………」

「…お前とブイモンの間になにがあったかは知らねえ。けど…あいつ、もしかして、お前のこと責めなかったんじゃないか?」

 うなだれたままの大輔の肩が、びくっとふるえた。それを見て、太一はやっぱりな、と息をつく。

「……オレのパートナーもそうだった。オレがむちゃを言っても、失敗をやらかしても、なにも言わずにいっしょに旅をしてくれた。そういうやつらなんだよ、あいつらは」

「………」

「小さいころは、それが当たり前だと思ってた。けど…わかるんだ、今は。もうあいつにむちゃをさせる気にはなれない。考えちまうんだ。心配しちまうんだ、どうしても」

「太一先輩…」

「わかりすぎるってのはさ…弱さにもなっちまうってことかな。そうなっちまった時から、オレの役目は終わったと思ってる。それは、これから選ばれるやつらの仕事さ」

「…そう。そのかわり、僕たちは僕たちなりの、新しい役目を見つけたんです」

 後をついで、光子郎が続けた。

「いずれきっと、『あちら』の世界がひろく認知される時がくるはずです。だから僕たちは、その時にそなえて『あちら』の研究を進め、世界中の理解者をさがして、太いパイプを作ろうと活動をしているんですよ」

「そうそう。こないだなんか、子供のころ『あっち』に行ったことがあるっていうオッサンが出てきてさ」

「ええ。あの人のような人間が、きっともっといますよね」

「…そう、だったんですか…」

 ふたりのやり取りを聞きながら、大輔はかるい衝撃を受けていた。
 結局、そういうことなのだ。またしても思い知っていた。すべては知ろうともせず、勝手に思いこんだ自分の……。

「…とにかく」

 今度は賢が、口を開いた。

「僕たちにまかせてくれ。なんとかブイモンを許してくれるよう、働きかけてみる」

「……たのむ」

 大輔はそんな賢へ、いや、自分以外の四人へ、深ぶかと頭を下げていた。

「……あいつは、なんにも悪くない。ただ、オレに会いたかっただけで…。本当に悪いのは、あいつの気持ちに気づいてやれなかったオレなんだ。なのに、あいつは………そう、一言も、オレを責めなかった」

 顔を上げた表情がどう見えていても、もうあまり気にならなかった。

「だから、たのむ……」

 もう一度頭を下げた。そうすることに、疑問さえわかなかった。

「…わかったよ。もういい」

 ふと、大きな手がぽん、と下げた頭にそえられた。誰なのかは、すぐにわかった。

「太一先輩……」

「オレたちがなんとかするよ。あの頑固ジジイを説得してみるさ」

 頑固ジジイとは、チンロンモンのことだ。慈悲と同じくらい、厳しさでも知られる守護者なのである。

「だから、頭なんて下げんなよ。お前らしくないぜ」

「…はは」

 ことばが、胸にささる。

「オレらしくないか…そうですよね」

 笑いながら、大輔はひとりひとり、この場に集まった旧友たちと視線を合わせていった。
 久しぶりに本当の意味で、友がいてよかったと、そう思った。



 大輔と光子郎たちは、駅前で別れた。旧友ら4人はとりあえず適当なホテルをさがして泊まり、明日東京に発つという。

「なにかあったら、メールでもなんでも、僕に送ってくれよ。はなれていても、愚痴聞き役くらいにはなれるから」

 別れぎわに、賢が投げた言葉がありがたかった。
 それから、大輔はのろのろと家路へついた。駅からならば迷いようがないのだが、いつになく遠い道のりと感じた。
 あまりにいろいろな事がありすぎて、くたくただった。
 どのくらい歩いただろう、ゆくてに、ようやく自分のアパートが見えてきた。鉄の階段が蛍光灯にこうこうと照らされて、地面に影を落としている。砂利をふみながら、ここでブイモンと再会したときのことを思い出した。ふと足を止めて、じっと階段を見つめる。小さな影が見えたような気がしたのだ。
 しかし、ハッキリ見えてくればくるほど、ただの錯覚だとわかってゆく。無言で、手すりに指をかけた。

 かん、かん、かん、かん…。

 ゆっくり、一歩一歩へ意味もなく力をこめながら、階段をのぼる。へやまで来てから、やっとカギをかけ忘れたのだと思い出した。苦笑して、中へ入る。
 かちり。
 電気をつけた。
 へやは、いつも通りだった。ただ、大輔以外にだれもいないというだけだ。
 ぞっとするほど静かだった。

「……また、ひとりか…」

 小さく、何度もつぶやきながら、せんべいのような布団をひいてゆく。それから部屋着のまま、もぐりこんだ。もう今日は、この上何もする気になれなかった。






(…だいじょうぶか? 大輔?)

 見なれた少女の顔が、ひどくぼんやりと目の前にうつる。ああ、夢か、と夢のなかでわかってしまうくらい、現実感にとぼしい。
 この言葉を聞いたのは、ついこの間のはずだ。いつだったか……。

(…なあ、オレにできることって…これしか、ないの?)

 白い鎖骨が、ひどく印象的だったのを、よくおぼえている。

(…ううん、いいよ、大輔がそうしたいならさ…。…オレは…)

 あの時。

 ブイモンは、なんて言おうとしたんだろう? ことばは途中でとぎれて、最後まで聞くことはできなかった。もしかしたら、自分が故意にさえぎったのかもしれない。あまりにも胸の中がどす黒くて、思考回路がスパークしていたのに、そんなずるさだけは残っていたのだろうか。

 いいや、そんなのはただの言い訳で、本当は…。



 今度は、ひどく現実感のある風景がとびこんできた。下げた視線の底に、コールタールのような水がとうとつに湧いてくる。
 ぱっと目を上げると、
 グレイの空。太陽があるのかないのか、わからないほどぶあつい雲。足下にひろがる、むやみに広い、黒い水面。
 また、あの海にいた。

(…なんだ。また、ここか……)

 以前ここで感じたものは脱力、疑問、恐怖。今度はいずれの感情も、ほとんど感じられなかった。

(…どっかで見た気がしたが、やっぱりそうか)

 5年前、ちらりとだけ見た黒い海。『あちら』側にかかわりを持ち、心にわだかまりがある人間の前だけにあらわれるという。
 多分ここが、ブイモンの分身がはい出て来た場所なのだろう。

(…それで、オレの夢の中に出てきたのかな)

 夢の中で、夢のことを考える。おかしくなって笑う。

(けっきょく…オレが勝手に、ここへ来ちまったんだな)

 あの化け物のせいではない。ブイモンのせいでもない。信二のせいでも、誰のせいでもない。ここへ呼ばれたのは、自分自身が原因だ。
 実にくだらない、単純なことだった。
 そして、それ以上にくだらないのは、こんなところでつっ立っている間抜けな自分。指をさしてゲラゲラ笑ってやりたくなってきた。

(…けっ)

 まっすぐに、空を見上げる。グレイの空の、ただ一点だけを見つめる。これからそこで何が起こるか、知っているかのように。

(…今にみてろよ)

 いつしか大輔は、不敵な笑みを浮かべている自分を、夢の中で見つけていた。
 と、グレイの雲へすうっと丸く、白が浮き出てきた。はじめはごく薄いものだったが、じょじょに濃く、大きくなってゆく。同時に、一条、二条と、光が雲をつきやぶって差しこんできた。まっすぐに、大輔を照らす。
 とたんに、腹の底から力がわいてきた。こぶしがぎゅっとにぎりしめられ、毛の一本一本にまで気合いがみなぎるのを、ハッキリと感じる。ぶるぶると武者ぶるいさえおぼえた。 さらに白が大きくなり、もはやまばゆい光と言えるほど強く輝きをましてゆく。そのたびにふりそそぐ光条もはげしくなり、そのすべてが、大輔に力をくれた。もはやかれは、影をふきとばす竜だった。闇をふりはらう聖なる騎士だった。幻ではない。それは確かに、かつて目に焼き付けた光景。あんなふうになりたいと思った。力がほしいのではない。いかなるときもくじけず、どんな強大な魔をもうち倒す刃を生むあの心に、大輔はあこがれたのだ。今はまさにそれがあった。力は勝手に後からついてきた。
 今なら空だって、きっと飛べる。
 ふわりと、大輔の足が重油のような海からはなれた。とたんに、かれをしばっていた最後の枷が、はずれる。
 光がはじけた。
 大輔は吠えた。腹がやぶれそうなくらいに息を吸いこみ、世界がゆらぐほどのでっかい咆哮をはなった。
 空気がふるえ、黒い水がおびえたようにさか立ち、グレイの雲が爆発するようにふき飛ばされる。消し飛んだ雲のあとからは、白い雲が生まれ、暗灰色の空はペンキでぬりつぶされるように、青へと変わっていった。あまりの青さに、大輔は泣きたくなった。
 そう、この空の青。どこまでもすきとおり、どこまでも美しい、この色。これこそが、ずっと本当に、自分の心の中にいてくれた色なのだ。それを忘れていた。

 忘れられるはずがないのに。

(……もう、忘れない。絶対に)

 悠然と目を下ろすと、一面の黒がとびこんできた。黒い海はこれほどの青のもとにあっても、ねばりを失っていない。

「消えうせろ!!」

 自分でもびっくりするくらい、ばかでかい声を出していた。
 黒い海がいきなり、ドーム状にえぐれた。大渦が起こった。まるで巨大な洗濯機のように黒がうず巻き、のたうち、断末魔の叫びとともに水底へすいこまれてゆく。後にはちょうど油の皮がはがれるように、青い水の流れが姿をあらわす。見ているうちに黒はどんどん渦へ巻きこまれてゆき、あっというまに小さくなった。そこでしばし、あがくようにぐるぐると回っていたが、もうひと声吠えるまでもなく、やがてするりと中心へのみこまれていった。

 とうとうすべての黒が、消えた。

 だが、大輔にはわかっていた。消えたのは、目のとどく場所だけだと。追いはらった黒い水も、グレイの雲も、いずれまたしみ出してくるだろう。
 だが。

(……見てろよ。このままじゃ終わらない)

 さらに天をふりあおぐことができた。
 この紺碧を忘れないために。




 ぱしゅっ。
 気持ちのよい音を立てて、ビールの缶が開かれる。太一はそのまま、半分ほどをのどに流しこんだ。
 向かいのベッドでは、光子郎がことの収拾の報告メールを打っているのが見える。

「…飲むか?」

「…僕、まだ未成年なんですけど」

 ホテルのフロント前で買いこまれた4本は、すでに半分がカラになっている。
 部屋にいるのは太一と光子郎だけで、賢と伊織はすでに隣の一室で休んでいた。ふたりとも生真面目だから、もう寝てしまったろう。

「あいかわらず硬いやつだなぁ」

 太一は缶をプラプラと振る。ぼけた光子郎の像が、アルミの缶に隠れては消える。少し視力が落ちたかな、と思った。

「太一さんこそ、そんなに飲んで明日大丈夫なんですか? 電車に遅れるの、ごめんですよ」

「ちゃんと食ってるから平気さ。それに…」

「それに?」

 太一は答えずに、缶の残りを一気にあけた。ふうっと息をついて、

「今日はあんまり、酔えそうにねえ」

「…………」

 沈黙が流れた。ふいに両方が、おたがいにかけるべき言葉を失った。少しよどみのある空気が上から下へ、ゆっくりと流れとけて波紋をつくる。

「……やっぱり寂しいですか?」

「なにが」

「『あっち』に行けなくなるのが」

「……そりゃ、寂しいさ。当たり前だろ」

「……」

 もう一度、今度はもっと短く沈黙がおとずれて、

「…10年前は…」

「やめようぜ」

 太一がふと目をふせた。

「逆立ちしたって、オレたちは子供にゃ戻れない。そのうち結婚して、ガキもできる。パソコンじゃないんだ、データを増やせても、減らしたりはできないだろ」

「…そうですね」

「だから、さ。オレたちが今なにができるか、これからなにをすべきか、それだけ考えようぜ。前にも話したろ」

「……ええ」

 言葉をかわしながら、ふたりは何について考えていたことだろう。どんなときも輝きを失わない、大きな瞳のことだろうか。
 それとも、いつも自分を支えてくれた、あの硬質な複眼だろうか。
 どれだけ待てば、また会えるだろう、なでてやれるだろう、目を見て話ができるだろう。
 光子郎は、太一を仲間に誘ってよかったと思っていた。ひとりでは、行けないと…会えないと知ったときのショックを、引きずってしまったかもしれない。
 そう思ってしまう自分は弱くなったのだろうか、それとも大事なことを覚えただけなのだろうか?
 ともあれ、彼は腰を上げていた。

「…飲みましょう。もう一本、買ってきます」

 翌日、彼ら一行はギリギリで新幹線にかけこんだという。



 目がさめた。
 うす暗いへやへ、カーテンを開けはなって光を呼びこむ。
 振りかえる大輔の視界に、テーブルが陽を受けてきらきらと輝いているのが見える。

(おはよ、大輔)

 そのそばに、ちょこなんと座って笑いかける、まぼろしが見える。苦笑してまばたきをすると、あとかたもなく消えていた。
 時計を見ると、朝練にはまだ余裕があった。軽く食べていこうと冷蔵庫を開けると、すでに空っぽになっている。今度は、声を出して苦笑いしてしまった。くっくっと笑いながら、近所のコンビニに足を運ぶ。もしかしたら店員に、けげんな顔をされたかもしれない。それさえもおかしくて、ゲラゲラと笑いながらドアを開けた。
 それから、朝食をひとりでとった。ここ数日のことを思うとウソのように静かだったが、大して気にならなかった。
 もう、まぼろしは見なかった。
 そして後しまつと着がえをすませてから、おもむろにスポーツバッグを引っかけ、外に出た。
 引き返した。バッグを玄関に置き、デスクに歩みよる。
 そこには、デジヴァイスがあった。拾いあげると、いつものようにちきり、鳴った。ひとしきり、見つめてから、大輔はそれを机の棚のなかにしまった。
 カギを取り出して、いっしゅん手を止め、思い直したようにしまう。

「…いいか、別に」

 確認するように棚をもう一度開けて、もう一度、そっと閉じた。




 入院した竹田のかわりに、その日から代理顧問をつとめることになった老教師の藤原は、あるひとりの選手に目をくぎづけにされていた。
 本宮大輔である。
 型やぶりなプレーが持ち味だといううわさで、それがチームにそぐわないというのが選考からはずれた理由だったというが、さっぱり理解できない。たしかにスタイルはかなりラフだが、それだけではない。
 回りをひじょうによく見ているし、チームメイトとの意志の疎通にもじゅうぶんにつとめている。もともと抜きんでて技術がすぐれているうえ、個人プレーに走りすぎず、チームで戦うことを第一に考えようとしているのが伝わってきていた。そして何より、積極性がある。
 かれの代わりに選ばれたふたりも優秀だが、かれらだけ通して本宮を通さない理由がわからなかった。まるで故意に落としたかのようだったが、それならそれで。

(…本宮も候補に入れるよう、校長や教頭に話してみるとしよう)

 きわめて自然に、そう考えていた。
 藤原は当年67歳になる。そのわりに体はがんじょうだったし、体力もそれほどおとろえてはいない。長年体育教師をつとめているのは、汗を流して頑張る若者の姿を見るのが好きだからだ。こちらまで元気になる気がした。だから若者には、わけへだてなく接した。
 なかば引き止められる形でとどまったのも、その人柄のおかげだろう。
 藤原にとって若者は、過去へのあこがれであると同時に、無限大の夢をかかえた大きな種でもあった。たとえどんなに生意気を言われても、かわいいものだと笑える。若者には、それを言う資格があるのだから。
 その種をみすみすつんでしまうのは、あまりに惜しいではないか。
 藤原の思いは、ただそれだけだったのである。



「大輔、いっしょに帰らないか?」

 信二の申し出を、大輔はこころよく受けた。

 ふたりでゲタ箱を抜け、校門の大きな樹の下をくぐる。
 日が長くなって、そろそろむし暑くなる季節だ。シャツに風を入れながら、しばらくおたがい、無言で歩いていたが、

「…なんかあったのか? ここんとこ、なんかいい顔してるぜ」

「そうか?」

 とぼけたような大輔の返答に、信二はなぜか、ほっとしていた。はぐらかされたのに、ふしぎな気分である。

「…おまえ、また変わったんじゃないか?」

「べつに変わっちゃいねえよ」

 いたずらっぽい笑みが返ってくる。はじめて見たときともちがう笑みだと、信二には感じられた。

「前にもおまえ、そう言ってたけど、オレはべつに変わっちゃいねえ。そう思いこんでただけさ」

「…そうなのか?」

「ああ」

 やり取りがやんで、むし暑さがぶり返してくる。ひとしきり、またシャツに風を入れた。

「…大事な…『友だち』がさ」

「え?」

 ふいに大事なことを言い出したとおもったのか、信二の顔がはじかれたように、大輔のほうへ向き直る。

「教えてくれた。オレは、オレだって」

「…………そうか」

 ふたりは角を曲がった。いつのまにか、小さく駅が見えはじめてきていた。
 しばらく進んでから、信二が小走りに、大輔を追いこした。

「オレも会いたいな、おまえの友だちに」

 言いながら、信二は確信していた。ああ、こう言わせるのが、たぶん本来の大輔なんだろうと。

「…いいヤツなんだろ?」

「…ああ。いつかきっと、会わせてやるよ。最高のパートナーだぜ」

 答えて大輔は、ちらっと夏の空を見上げた。

(…そうだろ。ブイモン)

 とても空が青い日で、太陽がかたむいてもまだ青くて。
 もし雲のあいだで青い大きな竜がおどっていても、きっと、誰もおどろかなかったにちがいない。