大輔と光子郎たちは、駅前で別れた。旧友ら4人はとりあえず適当なホテルをさがして泊まり、明日東京に発つという。
「なにかあったら、メールでもなんでも、僕に送ってくれよ。はなれていても、愚痴聞き役くらいにはなれるから」
別れぎわに、賢が投げた言葉がありがたかった。
それから、大輔はのろのろと家路へついた。駅からならば迷いようがないのだが、いつになく遠い道のりと感じた。
あまりにいろいろな事がありすぎて、くたくただった。
どのくらい歩いただろう、ゆくてに、ようやく自分のアパートが見えてきた。鉄の階段が蛍光灯にこうこうと照らされて、地面に影を落としている。砂利をふみながら、ここでブイモンと再会したときのことを思い出した。ふと足を止めて、じっと階段を見つめる。小さな影が見えたような気がしたのだ。
しかし、ハッキリ見えてくればくるほど、ただの錯覚だとわかってゆく。無言で、手すりに指をかけた。
かん、かん、かん、かん…。
ゆっくり、一歩一歩へ意味もなく力をこめながら、階段をのぼる。へやまで来てから、やっとカギをかけ忘れたのだと思い出した。苦笑して、中へ入る。
かちり。
電気をつけた。
へやは、いつも通りだった。ただ、大輔以外にだれもいないというだけだ。
ぞっとするほど静かだった。
「……また、ひとりか…」
小さく、何度もつぶやきながら、せんべいのような布団をひいてゆく。それから部屋着のまま、もぐりこんだ。もう今日は、この上何もする気になれなかった。
(…だいじょうぶか? 大輔?)
見なれた少女の顔が、ひどくぼんやりと目の前にうつる。ああ、夢か、と夢のなかでわかってしまうくらい、現実感にとぼしい。
この言葉を聞いたのは、ついこの間のはずだ。いつだったか……。
(…なあ、オレにできることって…これしか、ないの?)
白い鎖骨が、ひどく印象的だったのを、よくおぼえている。
(…ううん、いいよ、大輔がそうしたいならさ…。…オレは…)
あの時。
ブイモンは、なんて言おうとしたんだろう? ことばは途中でとぎれて、最後まで聞くことはできなかった。もしかしたら、自分が故意にさえぎったのかもしれない。あまりにも胸の中がどす黒くて、思考回路がスパークしていたのに、そんなずるさだけは残っていたのだろうか。
いいや、そんなのはただの言い訳で、本当は…。
今度は、ひどく現実感のある風景がとびこんできた。下げた視線の底に、コールタールのような水がとうとつに湧いてくる。
ぱっと目を上げると、
グレイの空。太陽があるのかないのか、わからないほどぶあつい雲。足下にひろがる、むやみに広い、黒い水面。
また、あの海にいた。
(…なんだ。また、ここか……)
以前ここで感じたものは脱力、疑問、恐怖。今度はいずれの感情も、ほとんど感じられなかった。
(…どっかで見た気がしたが、やっぱりそうか)
5年前、ちらりとだけ見た黒い海。『あちら』側にかかわりを持ち、心にわだかまりがある人間の前だけにあらわれるという。
多分ここが、ブイモンの分身がはい出て来た場所なのだろう。
(…それで、オレの夢の中に出てきたのかな)
夢の中で、夢のことを考える。おかしくなって笑う。
(けっきょく…オレが勝手に、ここへ来ちまったんだな)
あの化け物のせいではない。ブイモンのせいでもない。信二のせいでも、誰のせいでもない。ここへ呼ばれたのは、自分自身が原因だ。
実にくだらない、単純なことだった。
そして、それ以上にくだらないのは、こんなところでつっ立っている間抜けな自分。指をさしてゲラゲラ笑ってやりたくなってきた。
(…けっ)
まっすぐに、空を見上げる。グレイの空の、ただ一点だけを見つめる。これからそこで何が起こるか、知っているかのように。
(…今にみてろよ)
いつしか大輔は、不敵な笑みを浮かべている自分を、夢の中で見つけていた。
と、グレイの雲へすうっと丸く、白が浮き出てきた。はじめはごく薄いものだったが、じょじょに濃く、大きくなってゆく。同時に、一条、二条と、光が雲をつきやぶって差しこんできた。まっすぐに、大輔を照らす。
とたんに、腹の底から力がわいてきた。こぶしがぎゅっとにぎりしめられ、毛の一本一本にまで気合いがみなぎるのを、ハッキリと感じる。ぶるぶると武者ぶるいさえおぼえた。 さらに白が大きくなり、もはやまばゆい光と言えるほど強く輝きをましてゆく。そのたびにふりそそぐ光条もはげしくなり、そのすべてが、大輔に力をくれた。もはやかれは、影をふきとばす竜だった。闇をふりはらう聖なる騎士だった。幻ではない。それは確かに、かつて目に焼き付けた光景。あんなふうになりたいと思った。力がほしいのではない。いかなるときもくじけず、どんな強大な魔をもうち倒す刃を生むあの心に、大輔はあこがれたのだ。今はまさにそれがあった。力は勝手に後からついてきた。
今なら空だって、きっと飛べる。
ふわりと、大輔の足が重油のような海からはなれた。とたんに、かれをしばっていた最後の枷が、はずれる。
光がはじけた。
大輔は吠えた。腹がやぶれそうなくらいに息を吸いこみ、世界がゆらぐほどのでっかい咆哮をはなった。
空気がふるえ、黒い水がおびえたようにさか立ち、グレイの雲が爆発するようにふき飛ばされる。消し飛んだ雲のあとからは、白い雲が生まれ、暗灰色の空はペンキでぬりつぶされるように、青へと変わっていった。あまりの青さに、大輔は泣きたくなった。
そう、この空の青。どこまでもすきとおり、どこまでも美しい、この色。これこそが、ずっと本当に、自分の心の中にいてくれた色なのだ。それを忘れていた。
忘れられるはずがないのに。
(……もう、忘れない。絶対に)
悠然と目を下ろすと、一面の黒がとびこんできた。黒い海はこれほどの青のもとにあっても、ねばりを失っていない。
「消えうせろ!!」
自分でもびっくりするくらい、ばかでかい声を出していた。
黒い海がいきなり、ドーム状にえぐれた。大渦が起こった。まるで巨大な洗濯機のように黒がうず巻き、のたうち、断末魔の叫びとともに水底へすいこまれてゆく。後にはちょうど油の皮がはがれるように、青い水の流れが姿をあらわす。見ているうちに黒はどんどん渦へ巻きこまれてゆき、あっというまに小さくなった。そこでしばし、あがくようにぐるぐると回っていたが、もうひと声吠えるまでもなく、やがてするりと中心へのみこまれていった。
とうとうすべての黒が、消えた。
だが、大輔にはわかっていた。消えたのは、目のとどく場所だけだと。追いはらった黒い水も、グレイの雲も、いずれまたしみ出してくるだろう。
だが。
(……見てろよ。このままじゃ終わらない)
さらに天をふりあおぐことができた。
この紺碧を忘れないために。
ぱしゅっ。
気持ちのよい音を立てて、ビールの缶が開かれる。太一はそのまま、半分ほどをのどに流しこんだ。
向かいのベッドでは、光子郎がことの収拾の報告メールを打っているのが見える。
「…飲むか?」
「…僕、まだ未成年なんですけど」
ホテルのフロント前で買いこまれた4本は、すでに半分がカラになっている。
部屋にいるのは太一と光子郎だけで、賢と伊織はすでに隣の一室で休んでいた。ふたりとも生真面目だから、もう寝てしまったろう。
「あいかわらず硬いやつだなぁ」
太一は缶をプラプラと振る。ぼけた光子郎の像が、アルミの缶に隠れては消える。少し視力が落ちたかな、と思った。
「太一さんこそ、そんなに飲んで明日大丈夫なんですか? 電車に遅れるの、ごめんですよ」
「ちゃんと食ってるから平気さ。それに…」
「それに?」
太一は答えずに、缶の残りを一気にあけた。ふうっと息をついて、
「今日はあんまり、酔えそうにねえ」
「…………」
沈黙が流れた。ふいに両方が、おたがいにかけるべき言葉を失った。少しよどみのある空気が上から下へ、ゆっくりと流れとけて波紋をつくる。
「……やっぱり寂しいですか?」
「なにが」
「『あっち』に行けなくなるのが」
「……そりゃ、寂しいさ。当たり前だろ」
「……」
もう一度、今度はもっと短く沈黙がおとずれて、
「…10年前は…」
「やめようぜ」
太一がふと目をふせた。
「逆立ちしたって、オレたちは子供にゃ戻れない。そのうち結婚して、ガキもできる。パソコンじゃないんだ、データを増やせても、減らしたりはできないだろ」
「…そうですね」
「だから、さ。オレたちが今なにができるか、これからなにをすべきか、それだけ考えようぜ。前にも話したろ」
「……ええ」
言葉をかわしながら、ふたりは何について考えていたことだろう。どんなときも輝きを失わない、大きな瞳のことだろうか。
それとも、いつも自分を支えてくれた、あの硬質な複眼だろうか。
どれだけ待てば、また会えるだろう、なでてやれるだろう、目を見て話ができるだろう。
光子郎は、太一を仲間に誘ってよかったと思っていた。ひとりでは、行けないと…会えないと知ったときのショックを、引きずってしまったかもしれない。
そう思ってしまう自分は弱くなったのだろうか、それとも大事なことを覚えただけなのだろうか?
ともあれ、彼は腰を上げていた。
「…飲みましょう。もう一本、買ってきます」
翌日、彼ら一行はギリギリで新幹線にかけこんだという。
目がさめた。
うす暗いへやへ、カーテンを開けはなって光を呼びこむ。
振りかえる大輔の視界に、テーブルが陽を受けてきらきらと輝いているのが見える。
(おはよ、大輔)
そのそばに、ちょこなんと座って笑いかける、まぼろしが見える。苦笑してまばたきをすると、あとかたもなく消えていた。
時計を見ると、朝練にはまだ余裕があった。軽く食べていこうと冷蔵庫を開けると、すでに空っぽになっている。今度は、声を出して苦笑いしてしまった。くっくっと笑いながら、近所のコンビニに足を運ぶ。もしかしたら店員に、けげんな顔をされたかもしれない。それさえもおかしくて、ゲラゲラと笑いながらドアを開けた。
それから、朝食をひとりでとった。ここ数日のことを思うとウソのように静かだったが、大して気にならなかった。
もう、まぼろしは見なかった。
そして後しまつと着がえをすませてから、おもむろにスポーツバッグを引っかけ、外に出た。
引き返した。バッグを玄関に置き、デスクに歩みよる。
そこには、デジヴァイスがあった。拾いあげると、いつものようにちきり、鳴った。ひとしきり、見つめてから、大輔はそれを机の棚のなかにしまった。
カギを取り出して、いっしゅん手を止め、思い直したようにしまう。
「…いいか、別に」
確認するように棚をもう一度開けて、もう一度、そっと閉じた。
入院した竹田のかわりに、その日から代理顧問をつとめることになった老教師の藤原は、あるひとりの選手に目をくぎづけにされていた。
本宮大輔である。
型やぶりなプレーが持ち味だといううわさで、それがチームにそぐわないというのが選考からはずれた理由だったというが、さっぱり理解できない。たしかにスタイルはかなりラフだが、それだけではない。
回りをひじょうによく見ているし、チームメイトとの意志の疎通にもじゅうぶんにつとめている。もともと抜きんでて技術がすぐれているうえ、個人プレーに走りすぎず、チームで戦うことを第一に考えようとしているのが伝わってきていた。そして何より、積極性がある。
かれの代わりに選ばれたふたりも優秀だが、かれらだけ通して本宮を通さない理由がわからなかった。まるで故意に落としたかのようだったが、それならそれで。
(…本宮も候補に入れるよう、校長や教頭に話してみるとしよう)
きわめて自然に、そう考えていた。
藤原は当年67歳になる。そのわりに体はがんじょうだったし、体力もそれほどおとろえてはいない。長年体育教師をつとめているのは、汗を流して頑張る若者の姿を見るのが好きだからだ。こちらまで元気になる気がした。だから若者には、わけへだてなく接した。
なかば引き止められる形でとどまったのも、その人柄のおかげだろう。
藤原にとって若者は、過去へのあこがれであると同時に、無限大の夢をかかえた大きな種でもあった。たとえどんなに生意気を言われても、かわいいものだと笑える。若者には、それを言う資格があるのだから。
その種をみすみすつんでしまうのは、あまりに惜しいではないか。
藤原の思いは、ただそれだけだったのである。
「大輔、いっしょに帰らないか?」
信二の申し出を、大輔はこころよく受けた。
ふたりでゲタ箱を抜け、校門の大きな樹の下をくぐる。
日が長くなって、そろそろむし暑くなる季節だ。シャツに風を入れながら、しばらくおたがい、無言で歩いていたが、
「…なんかあったのか? ここんとこ、なんかいい顔してるぜ」
「そうか?」
とぼけたような大輔の返答に、信二はなぜか、ほっとしていた。はぐらかされたのに、ふしぎな気分である。
「…おまえ、また変わったんじゃないか?」
「べつに変わっちゃいねえよ」
いたずらっぽい笑みが返ってくる。はじめて見たときともちがう笑みだと、信二には感じられた。
「前にもおまえ、そう言ってたけど、オレはべつに変わっちゃいねえ。そう思いこんでただけさ」
「…そうなのか?」
「ああ」
やり取りがやんで、むし暑さがぶり返してくる。ひとしきり、またシャツに風を入れた。
「…大事な…『友だち』がさ」
「え?」
ふいに大事なことを言い出したとおもったのか、信二の顔がはじかれたように、大輔のほうへ向き直る。
「教えてくれた。オレは、オレだって」
「…………そうか」
ふたりは角を曲がった。いつのまにか、小さく駅が見えはじめてきていた。
しばらく進んでから、信二が小走りに、大輔を追いこした。
「オレも会いたいな、おまえの友だちに」
言いながら、信二は確信していた。ああ、こう言わせるのが、たぶん本来の大輔なんだろうと。
「…いいヤツなんだろ?」
「…ああ。いつかきっと、会わせてやるよ。最高のパートナーだぜ」
答えて大輔は、ちらっと夏の空を見上げた。
(…そうだろ。ブイモン)
とても空が青い日で、太陽がかたむいてもまだ青くて。
もし雲のあいだで青い大きな竜がおどっていても、きっと、誰もおどろかなかったにちがいない。