いつか、そこに。 

 彼が通ると眉をひそめる。
 彼は女王陛下の婚約者であり、想い人であり、れっきとしたリンドブルム貴族の地位にある人物である。だが、その素性を知るものたちの反応は、真っ二つに分かれたままだった。
 女王陛下の側近は、彼のことを快く受け入れた。彼がやってきただけで、女王の顔は世界中の春がいっぺんに訪れたように晴れるのだ。その表情を一度でも目にしたなら、もう反対なんてしようがなかった。
 国の中枢に位置するものも、おおむね賛成だった。このかつて「ヴァランタン」と名乗った彼が、どれほどの資産をアレクサンドリア国庫に寄付してくれたか、骨身にしみて分かっているからである。そのおかげでアレクサンドリアは倒壊の危機を免れたのだ。
 だが、そうではない他の貴族たち…殊に、名のある家柄ではあるものの、さして重要な役職に付いているわけではなく、常々不満を託っている貴族たちにとって、彼は胡乱な輩以外の何者でもなかった。
 出自の杳として知れぬ、リンドブルム大公に取入って地位を得た成り上がり者。彼らの目には、「アレクサンドリア女王の配偶者たる地位が欲しいために、なりふり構わずのし上がったあさましい男」としか映らない。
 だから、彼が城の目に付くところを歩こうものなら、すぐに冷たい刺すような視線があちこちから向けられるのだ。
 当のジタンはそれを気にする風もなく、いつもしごく淡々とふらついていた。
 別に何か用事があるわけではなくても、彼は極力城に出向く。大臣連中や、身の回りの世話をしてくれる侍女や下働きの者たち、それに警備の兵士たち…いろんな人々に声をかけて回るのだ。
 まったく、あの御仁は何を考えてらっしゃるのやら。
 というぼやきも聞こえてくるが、そう言いつつ、声をかけられた者達はみな満更でもないのである。そう、下級官吏や城仕えの者たちにとっては、彼は好ましい主人だった。もっともこの場合は、若干の妬みや嫉みが混じることもあったが。
 そういう人々の好奇と思惑の入り混じった視線を一身に浴びて、今日もジタンは飄々と王宮の回廊を渡ってゆく。
 これもまた当人の預かり知らぬことであったが、実は彼にそこはかとなく秋波をおくる女性も枚挙にいとまがなかった。
 陽を弾く目にまぶしいくらいの金髪。鼻筋の通った端整な顔立ち。不思議な深さを湛える(彼女たちの言葉を借りるなら)神秘的な瞳。
 すらりと伸びた手足に、無駄のない筋肉質のすっきりとした体つき。装飾のないチュニックをまとっただけの簡素な姿は、しなう鞭のように引き締まってよく鍛えられたその身体の線をくっきりと浮かび上がらせる。
 そしてまた、この御仁は実によく笑うのだ。それも、まるで少年のように無垢な笑顔で。
 はっきりいって、ジタンは歩く悩殺男なのである。
 だがそれでも今まで間違いが起こらなかったのは、この青年と女王の間に流れる空気がいかに親密なものであるか、誰の目にも明らかだったからだ。
 どんなに嫉ましく思っても、二人の間には誰も入り込めない。そう周囲も思っていたし、本人たちも思っていた。彼の存在を疎む貴族たちですら、それは認めざるを得なかったのだ。
 だが、「常識」は往々にして覆されるものである。
 その日いつものように回廊を抜けて中庭に差し掛かったジタンは、まさにその「覆される」瞬間を目の当たりにすることになった。

 小春日和だった。
 柔らかい日差しが辺りに満ちて、寂しげな庭を暖めている昼下がり。
 中央に設えてある噴水の向こうの植え込みに、人の姿が見えた。それが誰であるかジタンにはすぐ分かった。午前中の政務を終えて、この晴れた気持ちの良い庭で昼食でも摂っているのだろう。彼は足早に、その女性のもとへ向かった。びっくりさせてやろうと思っていた。
 またいろんな所、歩き回ってるのね。
 何度同じことを繰り返しても、不意打ちするたびに目を丸くする。それからいつも困ったように笑う彼女の反応を思い浮かべて、ジタンは一人ほくそえんだ。

 心地よい微風が木々の葉を揺らす。その葉擦れの音に紛れて、ジタンはそっと足音を忍ばせて近寄って行く。
 と、その時風に乗って、軽やかな笑い声が彼の耳に届いた。
 ジタンの胸が、きゅっと締めつけられる。
 それはまごうことなきガーネットの可愛らしい声で…そして、この上なく楽しそうな声だったのだ。
 自分以外の誰が、そんな風に彼女を笑わせているのだろう。
 爪先立って覗き見た茂みの陰の光景に、彼の胸はもっと悲鳴を上げることになった。
 黒髪が睦まじく二つ並んでいる。
 一つは彼の恋人のもので、もう一つは彼の知らない人物のものだった。
 二人はどう見ても「寄り添って」語り合っていて――そして、しかも、相手はどう見ても「若い男」だったのだ。
 年のころは二十を一つ二つ超えたくらいだろうか。ジタンとさほど変わらないように見える。
 肩口まである黒髪を後ろで無造作に束ね、背中に垂らしていた。ちらりと見えた横顔はまるで彫像のようだった。すっきりとした鼻梁、涼しげな黒目がちの瞳。どことなくガーネットに似た面差し。知的で、物腰柔らかで…。
 ジタンは動転して、しばらく動けなかった。
 二人がそのまま回廊の向こうに姿を消しても、その場を立ち去れずに佇んでいた。
 目に焼き付いてしまったのだ。
 自分にも見せたことのないような、あでやかな彼女の微笑み。
 ほんのりと咲き初めた花の蕾にも似て、どことなくはにかんだような麗しい彼女の笑顔。
 その幸せそうな横顔をもたらしたものが、自分ではなく他の男だと言う事実が、彼を打ちのめしていた。
 とん、と、その彼の背中に誰かがぶつかった。
「す、すみません」
 はっと我に返ったジタンは、自分の足元がずぶ濡れになっているのに気づく。
 目の前には、泣きそうな顔をした少女が一人。空になった水桶を抱えて途方に暮れている。
「すみません、すみません」
 ぶつかった拍子に抱えていた水桶をひっくり返してしまったのだろう。まだ城に上がって間もないらしいその少女は、ひたすらぺこぺこと頭を下げるばかりだ。
「ああ、いいよ、気にすんな。これくらいどうってことないから」
 笑って事も無げに言ってみせるが、彼女には届いていないらしい。多分頭の中が真っ白になっているのだろう。
 その時、廊下の方から厳しい声が飛んで来た。
「セシリア、どうしたの!」
 後宮の全てを一手に掌握して切り盛りしている女官長が姿を現わす。彼女は足元をしとどに濡らすジタンとその前で立ち竦む少女を交互に見やると、口角を下げて眉根を寄せた。
「どうしたのです、これは」
 詰問だが、厳しい中にも温かみがある。だが少女にはその語調に隠された寛大さを受け止める余裕はなかった。びくっと小さな肩を震わせて、身体を固まらせてしまう。苦笑しながらジタンが代わりに状況を説明した。
「俺がぼさっとしてたもんでさ、この子の通り道を邪魔しちまったんだ。ごめんな」
「すみません、すみません」
 女官長はほうっと長い溜め息を一つつくと、
「そうなのですか…。申し訳ございません、ジタン様。この子は先日城に上がったばかりで…不手際をお許しください。ほら、セシリア、水桶を抱えたまま謝るなんて失礼ですよ。それを置いて、きちんと跪いてお許しを乞うのです。相手がジタン様だったからよかったようなものの、これが他の貴族の方々ならばこうはいきませんよ」
「すみません」
 また頭を下げる少女の手から、ジタンは水桶を取り上げた。
「あ…」
 そのまま水場に歩き出そうとするジタンを、少女と女官長が驚いたように見つめる。
「俺が水汲んできてやるからさ、そこ拭きなよ。俺は貴族様じゃないからさ、あんまり気にすんな」
 優しい言葉。二人の女性は、彼のこぼした笑顔に声もなく心を奪われてしまう。
 もしこの場にガーネットがいて彼の言葉を聞いていたら、そこに含まれる自嘲の匂いを敏感に感じ取ったことだろう。だが彼女たちにはそんなジタンの密やかな心は分からなかった。ただただ、颯爽とした彼の挙動に陶然とするばかりだったのだ。
「女官長様、今のお方はどなたなのでしょう…」
 頬をまだ赤く染めたまま、夢見る少女が呟く。
「女王陛下の婚約者でいらっしゃる、ジタン様ですよ。よく覚えておきなさい。いずれ女王陛下とご結婚なさるお方ですからね」
「あれが…」
 少女が勤めるまかないの寝所でも、常に噂の的になっている人物だった。アレクサンドリアの至宝と称えられる、美しい女王陛下の想い人。そして、その美貌の女王に相応しい端麗な青年。
「素敵な…方なのですね」
 夢現のまま口をついて出た囁きに、女官長が眉を吊り上げる。
「ほらほら、馬鹿なことを言っていないで、さっさと床をお拭きなさい。あの方に懸想などしてはなりませんよ。お前とは違う世界の方です」
 罪な方だ、と女官長も思う。彼女からすれば息子のような年の青年だから、彼女自身が恋慕の情を抱くことはなかったが、だが彼に心惹かれてしまう女性たちの気持ちは痛いほど分かるのだ。
 生来の貴族とは違って身分に対するこだわりも偏見もない。誰に対しても分け隔てなく気さくに声をかけて回る、明るく優しく見目麗しい青年を好きになるなと言う方が無理なのだ。だが、そのまま突っ走っては泣く目に合うのは火を見るよりも明らかで…。
 新しい下働きの少女が入ってくるたびに、彼女はこうした小言を口にせねばならないのだった。全く厄介極まりない。
「拭き終わったなら、さっさとジタン様のところへ行って、水桶を受け取っておいでなさい」
 命じた途端、彼女はしまったと後悔する。
 ぱっと顔を輝かせて、少女が元気に頷いたからだ。
「かしこまりました、女官長様!」
 嬉しそうに小走りで水場へと駆けて行く少女の背を眺めながら、女官長はかすかな胸騒ぎを覚えた。それが誰の身を案じての胸騒ぎなのか、彼女自身にもよく分からなかった。

 寝所に帰った少女は、しもやけとあかぎれで赤く腫れた指をもみながら、ぼうっと昼間の「ジタン様」のことを思い出していた。
 水場で彼から桶を受け取ろうとした彼女を彼は優しく手で押しのけた。そして手ずからまかないに水を運んでくれたのだ。何くれとなく、いろんな話題を彼女に振りながら。
 夢のような楽しいひと時だった。
 嬉しそうに、楽しそうに笑ってくれた「ジタン様」の顔が、彼女の胸の奥を疼かせる。
 それが単なる憧れから恋心に変わるのに、そんなに時間はかからなかった。

 ジタンは悶々としていた。
 あのとき、女官長にでも確かめればよかった。あの男が誰なのか。
 だが、みっともない、と思う気持ちも働くのだ。二人が話をしている場面を目撃しただけで、相手のことを詮索するなど、まるで自分が嫉妬しているみたいではないか。
 そんな些細なことなど気にせず、泰然としていればいいのだ。
 そう自分に言い聞かせるのだが、言い聞かせるたびに煩悶は深くなっていく。
 少しでも気を紛らわそうと、あの少女の手伝いをしてみたが、それでも一向に気は晴れない。
 おまけに珍しくジタンが一日中城にいたというのに、ガーネットはなかなか居室に戻ってこなかった。
 国王としての仕事は謁見も含めて午前中に終るように組まれている。各大臣からの報告をとりまとめ、たまにはいる対外的な公務を午後に行う。歴代の王は、この午後の時間をたいてい遊興に費やしていた。だがその時間を無駄に過ごすことなく、巷間に下って庶民と深く関わろうとしたのがブラネ女王だった。だから彼女は民からあれほどまでに慕われていたのだ。そしてその愛娘であるガーネットも、ブラネ女王のやり方を踏襲することにやぶさかではなかった。
 午前中の政務を終えて、女王の間の横にある小部屋で昼食を摂り、午後は執務室に帰ってきて書類に目を通すか、もしくは外出用のドレスに着替えて市中に下る。それが彼女の日課だった。
 当然、この時間には帰ってきていてしかるべきなのだ。
 だが、彼女の姿は見えない。
 時計の針は、もうすぐ4時を指そうとしているのに。
 冬の日差しはあっという間にかげる。そろそろ足の長い光を放ち始めた太陽に目をやり、ジタンは待ちきれずにバルコニーから身を乗り出して外を伺った。
 冷たい冬の風が彼の頬をなぶり、金色の髪をなびかせる。
 あまりの寒さに彼が一瞬身を竦めたとき、彼女の姿が庭の道に見えた。
 そしてジタンは絶句した。
 まただ。
 また昼間の男が彼女の傍らにつき従っていたのだ。
 そして次の瞬間、決定的な場面が彼の目に飛び込んできた。
 男が、ガーネットの肩を引き寄せ、胸に抱きしめたのだ。
 しかも彼女は抗うでもなく、その胸に頭をもたせかけたのである。
 これにはジタンも色を失った。
 ガーネットは潔癖すぎるくらい潔癖な女性だった。好きでもない男との抱擁なんてとんでもないと考える、そんな女性なのだ。もし無理矢理引き寄せられたら、まず間違いなく猛反撃を食らわせるだろう。…なのに、その彼女が、抗う素振りも見せず、男の胸にしなだれかかっているのだ。
 心臓をわし掴みにされたような気分だった。
 ふらふらと部屋に戻ると、彼は半ば茫然とベッドの縁に腰を下ろした。
 信じられない。信じたくもない。
 だが拭い去れない疑心が、はっきりと自分の中に頭をもたげていた。