いつか、そこに。<2> 

 とにかく、彼女に確かめることが先決だとジタンは思った。
 だが鶴首して待ちわびる彼を笑うように、扉の動く気配は全くない。やっと誰かの足音が近づいてきたと思ったら、ノックの後に姿を現したのは女官長だった。
「ガーネットならいないぜ」
 がっかりした、というより、無性に不安が募って、自然ジタンはぶっきらぼうな口調になる。
「存じております。当のガーネット様の御伝言を承って参りました」
「ガーネットの伝言?」
 不安がまた大きくなる。
「はい。本日午後のご予定が変更になりました。急な来客ゆえ、そのお客人をアレクサンドリア城下にご案内なさるということでございます。お食事も出先でお召し上がりになるということですので、もしジタン様が帰っていらしたら、申し訳ないと伝えて欲しいとおっしゃっておいででした」
 もし、帰って来ていたら…。その言葉が今日ほど痛く突き刺さったことはない。
 そう、彼はいつも行雲流水で、いつどこに出没するのやら誰にも予測はつかなかった。それが彼の彼たる所以でもあるのだが…だがそのせいで、ガーネットは部屋に戻ってくることなく、言伝だけ残して街へ行ってしまったのだ。
 自業自得とはいえ、なんだかやるせなかった。
 情ない表情で溜め息をつくジタンの顔を、目の前の女性は面白そうに見つめる。
 いつもはガーネット様がその溜め息をおつきになっているのですわ。どれだけ待っても、あなた様がお戻りになられない夜など…それはそれは、おいたわしいほど。
 そんな揶揄がその視線にこもっている気がして、ジタンはさりげなく目を逸らした。
「急な来客…そいつ…いや、その来客ってのは、誰なんだ?」
 女官長が微妙な表情を見せる。
「ザモ領の新しい領主様でございます」
 ザモ領とは、アレクサンドリアの西南に位置するザモ盆地一体のことだ。統治しているのは古参の貴族だが、長患いのために登城もままならず、このところアレクサンドリアとは疎遠になっていた。
 それくらいの情報はジタンも知っている。
「新しい、って…息子が後をついだってことか?」
「はい。御領主様は何分にもご高齢の上、お体を崩されておりまして。このたびご子息が成人なされたのを機に、位を譲渡なさったのですわ。…それが何か?」
「いや…ただ、何も、ガーネットが案内しなくたっていいのにさ。第一、危ないだろ?」
「ご心配には及びません。ベアトリクス様がついておいでです。将軍にかかれば、リンドブルムの一個小隊だって敵ではございませんわ」
 今にも高笑いしそうなほど悦に入った顔で、女官長は胸を反らす。
 確かにあの女将軍の腕前は只者ではない。女官長の言葉があながち誇張とは言い切れないことを、ジタンは誰よりもよく知っていた。
「でも、なんであいつ…いや、ガーネットが自分で行く必要があるんだよ。ベアトリクスが行くのなら、彼女に任せればいいじゃないか」
 特別な理由があるのだと言ってくれ。ジタンは胸の内で願う。
 そのザモ領はアレクサンドリアに多大な貢献をしているとか、だからガーネットは断れなかったとか。
「ザモ領を統治なさっていたアディンセル伯爵はさきの宰相ヴァイス様の従兄弟にあたられますし、ガーネット陛下の御父君ユーベル様とも縁続きになられます。ガーネット様にとっては因縁浅からぬ名家でございますわ。それに、ご子息のエドワルド様とガーネット様は昔から…」
 はっとしたように、女官長は慌てて口をつぐんだ。物事に動ぜぬ、泰然自若とした彼女には珍しい狼狽ぶりである。
「昔から、なんなんだ?」
 ジタンは逸る胸を抑えて、できる限り穏便な口ぶりで訊ねた。
「いえ、あの…幼馴染でいらっしゃるのですわ。ただそれだけです」
「仲が良かったんだ」
 ジタンの頭の回転は速い。アレクサンドリアの名家の子息。しかも、遠いとはいえ血縁関係にある、王女と同い年の令息。周囲が王女の結婚相手として勘定しないわけがない。当然の結果を予測して、二人を早いうちから引き合わせたのだろう。
 誰もが暗黙のうちに了解している許婚だったのだ。
 そして今までその存在を誰も自分に洩らさなかったのは、その配慮が必要な相手だったからだ。ガーネットにとっても強い結びつきを持っていた人物ということなのである。
「どんなやつなんだ?そのエドワルド・アディンセルって」
「ご立派な方ですわ。巷では、ガーネット様の亡きお父上、ユーベル様に外見も性格も瓜二つと専らの評判ですけど…。お優しくて情け深くて、領民からも慕われておいでのようですよ」
「いいやつ、なんだ…」
 それはもう、と、やはり自信を持って女官長が頷く。
 しかも父親に瓜二つ。出来すぎのシチュエイションではないか。
 見目麗しい好青年。ガーネットを幼い頃から知っていて――。そしてジタンには決定的に欠落しているものを持っている男。
 ジタンは自分の出自を恥じたことなど一度もない。ないが、たまにガーネットに申し訳ない気分になることがあるのだ。自分のせいで、彼女は余計な心遣いをし、余計な心配をし、余計な怒りを覚えなくてはならない。ジタンがもしエドワルドの立場にあったら、彼女はそんなことに力を分散させなくていいはずだった。もっともっと、精神的に楽に生きていける筈だった。
「俺、ちょっと出かけてくるわ」
 ずきずきと鈍く疼く心を持て余して、ジタンはどうしていいか分からなくなる。
 椅子の背にかけていた上着を取ると、そのまま女官長をおいて部屋を出た。

 辺りはもう夜の帳が降り始めている。
 渡し場の階段に身を沈め、ジタンはじっと湖を見つめていた。
 水面に映る彼の影を縮に乱して、肌を刺す冷たい風が吹きすぎていった。

「それは、やばいわ」
 ジタンの愚痴を酒肴に、盛り上がるタンタラスの面々。
 ルビイが嬉々として第一声を上げた。
「うちやったらまず間違いなくそいつ、そのエドワード?を選ぶわ!」
「お前、現金なやつだからな」
溜め息混じりにブランクが横でぶつくさ言っている。――だから俺は心の休まる暇がねえんだよ――後半はもっと独り言である。だが耳聡く聞きつけたマーカスが、同情に満ちた眼差しでブランクを見つめる。
「兄貴、つらいっすね」
「何がつらいねん、こいつかてまだあっちこっちの女の尻追っ駆けて、そのたんびに玉砕してるやんか。あほや、あほ!」
「うるせえ、このちゃっかり女。お前、このあいだ銀行の頭取親父から宝石もらいやがったろう」
「あのおっさん、うちの熱烈なファンやからな。うちはこう見えてもアレクサンドリアの有名女優やもん。ファンかて仰山おるわ。あんたとちごうて羽振りのええファンがな!」
「宝石なんか尻尾振ってもらうなよ。もらう相手を選べ!」
「あの…」ジタンが中に入ろうとするが、全く相手にされない。
「それに相手選びとうても欲しい相手はうちに宝石なんかくれへんもん!」
「えっと…」
「あんたは黙っとき!」
「はい…」すでにマーカスなど一蹴である。
「くれてやりゃあいいんだろーが!」
 どん!
 圧倒されて見守る彼らの目の前に、白いリボンのかかった小箱が置かれた。
 一瞬しんとなるテーブル。
「え?」
 やはり、まず我に返ったのはルビイだった。
「これ、うちに?」
「…」
 ブランクは腕を組んで、そっぽを向いたままだ。細い目は何を考えているのか分からせてくれないが、珍しくその頬が赤らんでいるのに気付いて、男どもは笑いを堪えるのに必死になった。
「な、なんだよ!おめーら!人をだしにして楽しがってんじゃねえ!今日はジタンの話だろ」
「おおきに、ブランク」
 大きな声で、その彼のはにかみを吹き飛ばすようにルビイが言った。
 一同、またもやぎょっとして声の主を見上げる。
 一人立ち上がって、彼女はその小さな箱を胸にぎゅっと抱きしめた。
「嬉しい。大切にするからな」
 心をこめて、ブランクを見つめる。
「そ、そんなたいしたもんじゃねえし」
 柄にもなく照れまくって、ブランクは尚のこと身体を後ろに向ける。
「値段なんかやない。あんたの心が嬉しいねん。うち、あんたをうちの一番の――ファンにしたるわ!」
「オチかよ!そこで普通オチ作るかよ〜!?」
 頭を抱えて悶えるブランクに、やっぱりなあという苦笑を浮かべて慰めるマーカスとシナ。
 その横で笑いながらも、どこかジタンの頭は冷めていた。
「なに一人でドツボにはまってんのん」
 ルビイが腰を椅子に下ろす。この男がこういう騒ぎに乗ってこない時は、きまって何か落ち込んでいる時だった。タンタラスの仲間はそれをよく飲み込んでいる。
「やっぱり、心は動くよな?女って」
 結局、ジタンの頭の中には今はそれしかないのだ。
 つきあいけれんやっちゃな、とルビイは溜め息をついて葡萄酒を呷った。
「女だけやないと思うけど?ま、どの程度の付き合いで、どの程度の気持ちを持ってたかによるけど…。お姫さん、父親のこと慕ってたんやろ?せやったら、結構やばいかもなあ」
「だ…、だよなあ」
 うすうす予想はしていたものの、あっさり肯定されると辛いものがあった。
「お前、あのお姫さんが絡むと、きまって臆病になるな」
 いつの間にか隣に寄ってきていたブランクが、長い足を組んで、偉そうに語り始めた。
「なんだよ」
「考えすぎなんだよ。その相手と一緒になった方がお姫さんは幸せなんじゃないだろうかとか、そんな馬鹿なことを考えてるんだろう。――いや、冷静に考えると、もっともな話なんだけどな。誰が考えたって、お前よりかエドワルドとか言うやつのほうがお似合いだろうし」
「…だから弱ってんだろうがよ」
「でもな。誰が考えたって、お姫さんの亭主は大変だと思うぜ。そんな気の休まる暇もないような椅子に誰が座るよ。少なくとも俺はごめんだ」
「何が言いたいんだ?」
「俺も遠慮するっす」とマーカス。
「俺もいやずら〜。気楽な生活がいいずら」もちろん、シナ。
「俺たちだと絶対幸せにはなれねえ椅子に座ってるお前はさ、どうなんだよ」
「へ?」
「幸せか?」
 一般論で行けば、絶対に気苦労が多くて、幸せな気分に浸れるとは言い難いその場所。
 彼らが言いたいことがなんとなく飲み込めてきて、ジタンは滲むように目を細めた。
「ああ。幸せだ」
 幸せだ。
 傍から見てどんなに大変でも、相応しくなくても、ジタンは幸せだった。
「たあ〜!!だからいややってん!結局おのろけかいな!」
「だろ、だろ〜!?こいつ、俺らにあてつけに来たとしか思えねえよなあっ」
ここぞとばかりに沈んだ空気を盛り上げようとする面々。
「でもさ」
ジタンの一言でその雰囲気は一気に盛り下がる。
「あいつもそうなのかな」
「あいつって?」
 つきあいきれねえ、という表情でシナが肩を竦めながら尋ねる。
「どあほ!ガーネット姫のことに決まってるやん」
「ああ、そうだったずら」
「俺は幸せなんだけどさ。あいつも幸せだと思ってくれてるのかな」
「それがわかるのはあんただけやろ。ああしんきくさ!誰がいちいち“あたし幸せよv”なんて言うかいな。あほくさ〜!それくらい自分で読み取らんでどうすんの!」
「お前が言うと身も蓋もないからやめとけ」
 ブランクがひらひらと手を振る。
「なんやの、それ」
 ぷーっと頬を膨らませて、ルビイはドスンと音をたてて腰を下ろした。
「好きだから心配になるんっすよね」
 不意に発言を開始したマーカスに、一同は一瞬凍りつく。
「ど、どうした、マーカス!」
「せや、こんな話題にあんたが首突っ込むなんて」
「いや、あの、気持ちがわかるんっすよ。俺、ブランクの兄貴に嫌われるのが怖くて、表情だとか言葉だとか、深読みしすぎることよくあるんっす。好きだから見えなくなるってこと、あると思うんっすよ。だから…」
 凍りついた空気がとうとう大爆発を起こす。
「ブランクー!!!どうする、愛の告白されちまったずら〜!!!」
「きゃああ!禁断の愛やわ〜!!うち好みやわ〜!ちょっと絵的にえぐいけど、まあええわ。ブランク、あんたも隅におけんなあ」
「やめんかい!!!」
 酒も入っているせいで、もうめちゃくちゃである。
 真赤になって喚くブランクと、青くなって立ち上がるマーカス。
「いや、そうじゃなくてっすね」
 必死に言い繕おうとするマーカスを遮って、二人の声が同時に上がる。
「わかってるがな」
「わかってるずら」
「あんまりしんきくさいよって、ちょっと空気を盛り上げようって思うただけや」
「そうずら。せっかくの飲み会なのに、重たい雰囲気は勘弁ズラ〜」
「だから、俺をダシにすんな!今日はジタンの愚痴をきいてやるんじゃなかったのかよ」
「誰でもええやん、盛り上がれば」
「そうずら」
「お前ら〜」
 どたばたと言い合いを始めた彼らの脇で、マーカスがジタンに近寄って耳打する。
「俺、思うんっすよ。あんまり考えすぎても意味がないって。結局確かなのは自分の気持ちだけだからっすね。だから、自分の気持ちに素直になるしかないんじゃないか、って。お姫様は、間違いなくジタンさんを選んだんっす。それがお姫さんの答えで、後はジタンさんが自分の気持ちに素直になるだけなんじゃないっすか?他の男は…関係ないような気がするっす」
 ライバルの出現でジタンがこんなに落ち込んでいるのは、その男のせいではなく、ジタンの中に根強く残る「引け目」があるからだと、マーカスは言った。
 だからそれを拭い去るのは自分しかないのだと。
「あんたがどれだけお姫さんを信じられるかやろ。結局」
 いつの間にか論戦は終止したらしい。ルビイが肩で息をしながらテーブルについた。
 その横にほっぺたに赤い手形をつけたブランクとシナが腰を下ろす。
「俺はお前がどれだけ吹っ切れるかだと思うぜ」
「当って砕けるズラ!それが男ってもんずら!」
 思い思いのアドバイスに、ジタンは苦笑しながら感謝する。
 確かに、彼らの言う通りなのだろう。
 そのとき、店の前の往来から絹を引き裂くような悲鳴が聞こえた。
 タンタラス団は一斉に弾かれたように立ち上がり、すぐさま店の外に飛び出した。
 酔客に絡まれているのは、赤毛の可愛らしい少女だった。
 涙目になって、自分の腕を掴む髭もじゃ男の腕を外そうとしている。
「やめとけよ」
 周囲に出来た人だかりをくぐって、ジタンとブランクが男に近寄る。
「なんじゃあ?」
 赤ら顔の男は充血した目でジタンを睨みつけるが、ジタンは平然としてその男の腕をぐっと掴み、力任せに引き剥した。その手を払いのけようとするが、ジタンの腕はびくともしない。男は力負けして敢え無く手を捻りあげられる。
「いっ!いてぇ!!いててててて!」
 今度は男が情ない悲鳴を上げた。周囲から失笑が漏れる。
「酒飲みは大人しく酒を楽しみな。それが礼儀ってもんだ」
 男を人垣の外に放り出す。
「く、くそう、覚えてやがれ!」
 捨て台詞を吐いて男が逃げ出すと、野次馬たちもぞろぞろと解散し始めた。
 その人の流れに逆らうように、ジタンに走ってくる少女。
 リンゴのようなほっぺたが、更に仄赤く染まっている。
「あ、あの」
 ん?と眉を上げて見下ろすジタンにしばし見とれて、それからはっとしたように少女はぺこりと頭を下げた。
「助けてくださって、あ、ありがとうございました、ジタン様!」
「え?どうして俺の名前を知ってんだ?」
「え?」
 あのバケツの水を引っ掛けた時に、ジタンも当然自分のことを見知ってくれたものだと思い込んでいた少女は、自分の勘違いに首まで真赤にする。
「あの、お城に勤めているセシリアと申します!ですから、あの、お名前を存じておりました!」
 ぺこぺこと何度も頭を下げる少女の顔を両手で挟んで、ジタンはその動きを強制的に止める。
「あのさ、そんなに何度もお辞儀しなくていいんだ。な?一回で十分。ここにいるってことは、お使いの途中なんだろ?早く戻らないと、また女官長さまから叱られるぞ」
「は、はい。ありがとうございます!」
 顔を挟まれているため、身動きが出来ない。というより、憧れの人に触れられて頭の中が真っ白な少女は、自分が何を口走っているかも分からなくて、辛うじてそれだけ答えた。ジタンが笑って手をはずすと、今度は自分の両手で顔を挟んで、ふらふらと通りに消えていった。
 その千鳥足のようなふらふらな足取りが可愛くて思わず微笑み、踵を返す。と、真後ろに仁王立ちした仏頂面のルビイとぶつかりそうになってしまった。
「あぶねえ!」
「あぶねえじゃないやろ!」
 その頭をぺしんとぶったたいて、ルビイが怒る。
「お姫さんの心配するより、あんたのそのタラシな行動をどうにかせなあかんのやないの?」
「なんだよ、タラシって」
「さっきの、もしお姫さんが見てたら、卒倒するで」
「かなりやばいっす」
「マジ、キスしそうだったずら」
「普通、俺でもああいうことはしねえよな。少なくとも、人目のある場所ではしねえ」
 ブランクの足を思いっきり踏みつけて、ルビイが締めくくる。
「さっきのを何人も見てる。なんや、きな臭いことにならへんかったらええけどな」

その危惧は、見事に的中してしまうのであった。