いつか、そこに。<3> 

 懐かしかった。
 エドワルドに最後にあったのは15の誕生日で…その後、ブラネ女王の様子がおかしくなり、アレクサンドリアに不穏な空気が漂い始めて彼と会うこともなくなった。
 どことなく亡き父を思わせる彼の穏やかな外見に、ガーネットやブラネが慰められていたのは事実である。そしてまた、エドワルドは非常に誠実な青年でもあった。ガーネットが淡い想いを抱いていなかったと言えば嘘になる。彼と語り合うのは楽しかった。
 だが、それからもう五年も経つのだ。二人を巡る状況は変わってしまったし、そして二人とも少しだけ大人になった。人を恋う気持ちも、淡いだけではすまなくなっていた。

「君に会いたかった」
 昼下がり、久しぶりにアレクサンドリア城に登城してきた彼は言った。
 ザモ領を継いだ報告と挨拶を兼ねてやってきたのである。
 数年ぶりに姿を見せた麗しい貴族の青年に、城は色めきたった。特に反応が甚だしかったのは、侍女たちと、そして伺候している貴族たちだった。
「アディンセル伯のご子息が登城あそばされたとか。さぞかしご立派になられたことであろうなあ」
「かつて女王陛下の許婚候補の筆頭であらせられたからな。御血筋、人格共に申し分ない。あの…素性の知れぬ尻尾のお方より、エドワルド様の方がよほど女王に相応しいと思いますがな」
 陰で交わされる口さがない評は、宮廷に漂う風に乗ってガーネットの耳にも届く。そう、王宮でこの手の風が止んだためしはないのだ。
 彼の登場に付随する過敏な周囲の反応に頭を痛める反面、ガーネットは素直に彼との再会が嬉しかった。
「懐かしいわ。私もあなたに会いたかったわ」
 すらりとした長身の若君は、一足早くこの地に降り立った春の精のような風情で微笑む。かつてアレクサンドリアの昴星と称された、ガーネットの父親を彷彿させる面持ちだった。
 二人はまだ肌寒さが残るものの、真昼の光に照らされて密やかな温もりに満ちる中庭に出た。植え込みの常緑樹だけが淡い緑の色を添える庭先。そこに佇む二人の姿は、見るものの心を恍惚とさせた。
「君が幸せそうで安心したよ。君の婚約者の噂は、沢山聞いていたからね。種類も、数も」
 そう言って彼は笑った。
「種類も?って…」
「ああ、若いのに頭の切れる怜悧な策略家で、計画どおり女王陛下の夫の座を手に入れたとか。尻尾があって、実はブルメシア人と人間の混血らしい、とか。飛空艇の造船技術、操舵技術に優れていて、単独で飛空艇を操縦できるらしい、とか。莫大な私財を惜しげもなく女王のために捧げた、天晴れな人物、っていうのもあったな。それからこれはトット博士から聞いた彼の評だけど」
 わざと言葉を切って、彼はじらすようにガーネットを見下ろした。目元が楽しそうに笑っている。悪戯好きな少年のように。
「ききたい?」
 ガーネットは笑わずにはいられなかった。声を立てて楽しそうに笑いながら、頷く。
「ええ、聞きたいわ。でも、あなたは全然変わってないのね。まだ昔のままの十五歳の少年みたい」
「そうかな。で、トット先生によるとね、彼は…」
もったいぶって、やっぱり少し間をあける。そして先を促すガーネットの期待に満ちた眼差しに満足したように、一層微笑を深くして続けた。
「女王陛下が人生の中で得た最大の幸福、だそうだよ」
 ガーネットは目を丸くして――そして、はにかむように俯いた。
 そのえもいわれぬ美しさに青年は思わず吸い込まれてしまう。かつての彼女には在り得なかった、艶やかな色香が匂い立つ。それは妖艶な香りではなく、清楚な、それでいて確かに女性のあでやかな香りだった。
 ちょうどその時、植え込みの陰にジタンが近づいてきていたのだが、二人とも話しに夢中で彼には気づかなかった。
「まったく…!本当に君は彼のことが好きなんだね」
「え?そ、そうかしら。どうして?」
「君が可哀想だよ。外側から自分を見ることが出来ないんだから。名画家たちが、競って描きたくなるような美しさだよ、今のガーネット陛下は。彼は君をそんなに綺麗にすることができるんだね。ちょっと妬けるな」
 旧交を温めあうにはそんな他愛もない話で充分だった。尽きせぬ思い出話を繰り広げるうちに、庭を通り抜けて回廊を一巡りし、いつの間にか二人は奥宮に続く道に踏み込んでいた。
「ごめんなさい、ここから先は部外者の立ち入りを禁じてあるの」
 不意に立ち止まって、ガーネットが言いにくそうに口を開く。
「ああ、そうだったね。…じゃあ、ここで…耳を貸してもらっていいかな」
「どうしたの?」
「実は、君に頼みたいことがあるんだ」 
 小首を傾げて彼女は傍らの青年を見上げた。どんな男でもたちどころに捕らえられてしまうだろうと思えるほどの、愛くるしい仕種。
 だがエドワルドの心は、今は全く別の方向に向けられているようだった。心もち眉根を寄せ、彼女の耳元に口を近づけて何事か囁いた。
 その潜めた声を聞き漏らすまいとガーネットがエドワルドの胸元に頭を寄せる。
 それは、遠目に見れば抱き寄せて睦言を囁いているようにも見え――。そして案の定、ジタンは女王の居室からその場面を見つけ、額面どおりの受け取り方をしてしまったのである。
 だが当の二人はそんなことは露ほども知らなかった。自分たちだけの秘め事として頼みの受け渡しをし、口外せぬことを誓って分かれようとした。が、名残はつきない。ガーネットは少し躊躇ったあと、去ろうとしていた彼の背中に声をかけた。
「エドワルド、街を…アレクサンドリアの街を、少し回ってみない?随分復興したのよ。それをあなたにも見ていただきたいの」
 もしかしたら部屋にジタンが戻ってきているかもしれないと思わないではなかった。しかし、市中を回るのなら少しでも時間の早いほうがいい。
 アレクサンドリアのお膝元である城壁に囲まれたこの街は、決して治安が悪いわけではない。だが久しく続いた戦禍の爪あとは、人々の心の荒廃を生んでいて、そしてその荒んだ心は一朝一夕に癒されるようなものではなかった。日が落ち町に街灯の灯がともる時分になると、小さな路地や下町では未だ物騒な輩が徘徊するのだ。
 公の力でできる限りの施設を整え、保護を図り、人々が日々の糧を得られるだけの仕事を確保できるように援助する…。手っ取り早い厳格な取締りによる治安維持よりも、根本的な社会の安定を画するガーネットの思いが結実するには、まだまだ時間がかかった。
 それでも、この国は、そしてこの街は、立ち直ってきているのだ。彼女の心血を注いだ成果を、ガーネットはこの幼馴染に見て欲しいと思った。
「それに、もう少し詳しくお話を伺わないと、ちゃんと手助けできませんもの」
 申し訳程度に理由をかこつけて、彼女は照れくさそうに笑った。
 その誘いがとんでもない結末を生んでしまうとも知らずに。

 街から戻ってきたガーネットの表情は暗かった。
 エドワルドは城内(といってもアレクサンドリアの王城ではなく、城壁に囲まれた貴族たちの居住区のことだが)にあるアディンセル伯爵の所有する別宅に宿泊していた。城まで送ろうと申し出た彼の言葉を丁寧に辞退して、彼女はベアトリクスと共に城に帰ってきたのだった。
 エドワルドが無理にでも彼女を送ろうとせず、そしてガーネットがエドワルドの申し出を断ったのには理由がある。…それは主君の傍らを、寸分の隙も見せずに警護しつつ歩く、女丈夫の表情を曇らせている原因と同じだった。
「ガーネット様…僭越ながらこのベアトリクス、ガーネット様になりかわりまして、あ奴に天誅を加えたく存じますが」
 口をへの字に曲げ、形のよい眉をきりりと上げて、ベアトリクスが物騒な言葉を吐く。
「ありがとう、ベアトリクス。そうお願いしたいところだけれど…まずは、話し合いたいと思うわ。その上で、あなたにお願いするかもしれない。…そのまえに私がバハムートを呼ばなければね」
 こちらもたいがい物騒である。
 言うまでもなくあ奴とはジタンのことだった。
 彼らはあの場面を、しっかり目撃してしまったのだ。
 彼女たちがチョコボに牽かせた車で渡っていたのは大路で、件の酒場からは若干の距離がある。それが裏目に出た。ジタンの背面を目にすることになった彼女たちからは、彼がその少女にキスをしたように見えたのだ。しっかりと。
 見る間にガーネットの顔から血の気が引き、ただでさえ色白の頬が蒼白になるのを、ベアトリクスとエドワルドは息を詰めて見つめた。かける言葉が見つからなかった。
 が、「もう、帰ろう…日も落ちてしまったし」
 エドワルドが何気ない風を装って提案してくれて。
 ガーネットはそれがありがたくて、もう少しで泣き出しそうだった。
「信じられないわ」
 辛うじてその言葉を絞り出す。
「女たらしだったのは知ってるけど、今もそうだったなんて」
「まだ分からないよ。彼に事情を確かめてみないと」
 といいつつ、エドワルドの表情も心なしか硬い。
「いかがなさいました、エドワルド殿」
 ベアトリクスが気付いて声をかける。
 エドワルドは微かに口元をゆがめてかぶりを振った。
「いや、何でもないんだ」
 相手の少女の髪の色が、彼の心を故郷に引き戻したのだとは、口が裂けても言えなかった。それはガーネットだけに洩らした彼の秘密だったから。
「ごめんなさい、エドワルド。余計な心配をさせることになってしまって…」
「気にしないでくれ。それに、余計なことを頼んだのは僕の方なんだし。君が政務で忙しくて疲れていることを知ってるくせに、甘える僕を許して欲しい」
 ガーネットの黒髪が左右に揺れる。馨しい香りが車の中に満ちる。
「あなたの力になれることがあるのなら、何でもするわ。私…」
 昔、公ではなかったにしろ、許婚に近い間柄だった彼。だのに、ジタンが現れてからも、アレクサンドリア王家とガーネットに対するスタンスを全く変えなかったエドワルドと伯爵家。
 なるべく波風が立たないように登城を控えていた彼の心遣いに応えるためにも、彼の願いを叶えたいとガーネットは思った。
 そうやって他の向きに頭を向けていないと、怒りと悲しさで頭と胸がどうにかなりそうだったのだ。
 唇を噛みしめたまま俯く女王と重たい空気を乗せて、車は間もなく王城に到着した。

 「ガーネット様。リクツが通じぬようであれば、遠慮なく叩きのめされませ。必要とあらばこのベアトリクス、いつでも馳せ参じます。扉の外にてお待ちしておりますゆえ」
 拳を握ってベアトリクスは敬愛する女王を部屋に送り出す。
 こくん、と力強く頷いて、ガーネットは決戦の扉を開けた。