いつか、そこに。<4> 

 どちらから先に口火を切ったのか。
「聞きたい事があるんだ」
「聞きたい事があるの」
 お互いの姿を見とめた途端、同時に発せられた言葉に、二人とも困惑の表情を浮かべる。
「…何だよ」
 先に促したのはジタンだった。
「…ジタンから先に言って」
「ダガーから言えよ」
「ジタンから言わなきゃいけないことがあるんじゃないの?」
「何だよそれ。それを言うなら、お前の方こそ説明しなきゃいけないことがあるんじゃないのか?」
「どうして私が?」
「それは俺の台詞だ。俺が言わなきゃいけないことって何だよ」
「それは…。自分の胸に手を当てて考えてみたら?あなたにとってはいつものことで、とりたてて大変なことじゃないんでしょうけど」
「可愛くない言い方だな。お前こそさ、俺に隠してることがあるだろ?だからそんな突っかかるような言い方になるんだ」
「ないわ!あなたに隠し事なんかしないわ。突っかかってきてるのはあなたじゃない!」
「いつからそんなに平気で嘘をつくようになったんだよ。俺はその調子でずっと騙されてたってわけだ!」
「どうして私が騙さなきゃいけないのよ!それに、隠さなきゃいけないほどあなたはここにいてくれないじゃない。私の気持ちなんて、これっぽっちも考えてくれないんでしょう!?いつもいなくて、勝手に帰ってきたときだけそうやって好き勝手言って、人を惑わせて。ひど過ぎるわ!」
 言ってから、しまった、と思う。
 ジタンにとって窮屈すぎる城。にもかかわらず、彼がなぜここを住処と定めてくれたか、ガーネットにはよく分かっていた筈なのに。
 急に押し黙ってしまったジタンの目が暗く沈むのを見て、ガーネットは慌てた。
「あの…」
 言い過ぎたと謝ろうとする彼女の言葉をジタンが遮った。
「わかった。――やっぱり、俺には無理だったんだ。女王陛下の旦那なんて」
 彼女から視線を外し、苦々しげに捨て台詞を吐いて彼は彼女の横をすり抜けてゆく。
 その背中にすがりついて止めたい衝動がガーネットの身体を駆け巡る。しかし、彼女の矜持がそれを許さなかった。離れてゆく彼の体温を感じながら、彼女はただ唇を噛みしめ、拳を握り締めた。
 大きな音をたてて、乱暴に閉められる扉。
 それがジタンの胸のうちを雄弁に語っていた。
 ガーネットはへたへたとその場に座り込む。
 どうしてこんなふうになるんだろう。
 悔しさと悲しさで体が一杯になって、溢れ出てきた想いがぽたぽたと握り締めた両手に零れ落ちた。

 小厨房で物音がした。
 下働きの侍女たちは、そこに一番近い小部屋をあてがわれている。
 昼間の疲れでぐっすり眠り込んでいる少女たちの中、一人目が冴えて眠れないセシリアはむくりと起き上がった。
 今日一日、一年中の出来事がひっくり返った箱の中からいっぺんに飛び出してきたみたいだった。
 あまりにいろんなことがありすぎて、なかなか寝付けずにいた彼女は、そのせいでほんの小さな物音にも気付いてしまったのだ。
 恐怖に怯えつつも、不審者を確かめねばという使命感に駆られて、彼女は枕もとの燭台を取った。ベッドから降り、足音を忍ばせてゆっくりと賄に近づく。
 高めに燭台の灯をかざすと、大きな樽に汲み上げた水を呷っている男の姿が闇に浮かび上がった。
 明りに気付いてこちらを振り向いた男の顔を見て、彼女は思わず跳ねるような声をあげた。
「ジタン様!」
 その声にぎょっとしてジタンは振り返り、すぐに口元に人差し指を押し当てる。
「しっ。大きな声を出すな」
 小さく囁くと、彼はそっと厨房から出ていこうとした。
「どこに行かれるのですか?」
 その前に立ちはだかるようにして、セシリアが尋ねる。
「今からまた街に出ようかなってさ」
 どことなく寂しさを漂わせる笑顔に、セシリアの胸がキュンと鳴る。
「外は寒いですよ。…そうだ!ジタン様、こちらにいらしてください」
 少女はジタンの手をとってひっぱった。
 なされるがまま連れて行かれたのは、寝所とは反対側に取り付けられた使用人の控え部屋だった。食事時を過ぎて、一息つくときに使われる部屋である。彼らが急いでまかない食を摂る時にも使われる。
「お茶でも召し上がってくださいな。私、お茶を淹れるのだけはうまいって、故郷のお城でもよく誉められてたんですよ」
 朗らかに話す少女を、ジタンは眩しそうに見つめた。
「故郷でも城に上がってたのか」
「はい。父が御領主様にお仕えしておりましたので」
「ふうん。で、故郷ってどこなんだ?」
 懐かしそうな遠い目になって、セシリアが答える。
「ザモです」
「ザモ…って、あのアディンセル伯爵のか?」
 こくんと少女はうなずいた。
 あまりの偶然に、ジタンは開いた口が塞がらない。
 こうも都合よく符牒が合ってよいものだろうか。
 だが、その驚きより先に、彼の中に鬱積していた思いが噴き出した。
「お前から見てさ、その…アディンセル伯爵って、どんな人間なんだ?城仕えだったら、見知ってるよな」
 はい、と再び頷いて、彼女は言う。「おやさしい、心の広いお方です」
 その答えにジタンは思わず溜め息をつく。
「やっぱ、いいやつなんだ…」
「はい。それなのに、病を得られて、今はもう寝たきりでいらっしゃいます」
 悲しそうにセシリアが目を伏せる。
「え?いや、そうじゃない、息子の方だよ。新しいアディンセル伯!」
「あ」
 次の瞬間、少女の目元がぱっと赤く染まったのを、ジタンは見逃さなかった。
「やっぱ、息子もいいやつなんだ」
「あ…はい。身分の卑しい、私のようなものにも、いつも優しくして下さいました。賢くて、堂々としてらして…」
 ふうん。聞きながら胸のもやもやは一層強くなる。この少女はもしかすると…。
「お前、アディンセル伯爵が好きなんだろう」
「めっ、めめ、めっそうもございません!」
 満面を一気に真赤に染めて、少女はテーブルに突っ伏した。
 頬杖をついて横目で彼女を眺めていたジタンは、その仕種に思わず笑いを洩らす。
「正直だよなあ」
「違います!」
 ダンッ!と、テーブルに激しくてをついて彼女は立ち上がった。
 それは思いもかけぬほどの強い否定だった。
 ジタンはびっくりして目をぱちくりさせている。
 無意識のうちに激昂してしまったセシリアは、我に返って自分の頬に手を当てた。
「す、すみません、失礼なことを…」
「いや、構わない。ちょっとびっくりしたけどさ」
 少女は温めていたティーポットのお湯を捨てに一旦厨房に姿を消した。姿の見えない暗闇から、声だけが部屋に届く。
「エドワルド様には好きな方がいらっしゃるんです」
 ジタンの顔が強張る。
「それは?」
 乾いた声。だが、それに少女は気付いたかどうか。
 再び部屋に戻ってきて、少女はティーカップをテーブルの上に並べた。
「ガーネット女王陛下です。エドワルド様はずっと、ガーネット様のことを想ってらしたんです」
 そして彼女はジタンの顔を見つめた。どこか挑むような光を湛えた瞳で。
「今でも、か…?」
 無表情のままジタンはその瞳を見つめ返す。
「はい?」
「今でも、そのエドワルド様は、ガーネットのことが好きなのかな」
 その奥底に横たわる苦悩を少女は知らない。それでも幾分潜めた声で、言いにくそうに彼女は呟いた。
「はい。…多分」
 そしてすぐに顔をあげ、痛々しい笑顔を浮かべた。
「私、エドワルド様にはお幸せになって頂きたいんです。ご自分の心に正直になって、ガーネット様と幸せになってほしくて……ジタン様には、申し訳ないのですけど。」
 故郷のザモの城に、セシリアは12の時から出仕した。3つ年上のエドワルドは、なにかと彼女を可愛がった。城ですれ違うたびにからかってきたり、優しい声をかけてくれたり。彼女に文字を教えてくれたのも、書庫に連れて行って「世界」というものを教えてくれたのもエドワルドだった。
 彼女が失敗をやらかして落ち込んでいる時は、必ずどこからか聞きつけてきて慰めてくれた。
 寒い冬のお勤めで、皸だらけになった手を、大きな手で温めてくれたこともある。恥ずかしがって引っ込めようとした手を握って、彼は言った。
 働き者の手だね。
 働き者の手は、この世で一番美しい手なんだよ。
 エドワルドのその手と声を、一生忘れないとセシリアは思った。

 その彼が恋しているという女王陛下を、一目でいいから彼女は見てみたかった。
 どんな人なんだろう。
 高慢ちきで、権力を嵩に着ているような女性だったら、絶対エドワルドの目を覚まさせなければいけないと思っっていた。
 しかし――ガーネット女王は、こよなく美しい女性だったのだ。姿も、そしてその心も。
 エドワルドと同じように、人をその身分で賤しめたり蔑んだりしなかった。誰に対しても常に同様に接していた。我が身を削って、日夜国政に勤しんでいた。
 エドワルドが愛してしまうのは当たり前の女性だった。
 セシリアの心のどこかが音をたてて軋んだ。でも、気付かない振りをした。できればエドワルド様の想いを叶えて差し上げたいと思った。不可能だとは分かっていたが。

 女王陛下には想い人がいる。
 彼について、セシリアの耳に入ってくる噂は、とりとめもなく、そしてまた千差万別だった。実際に目にするまで、彼がどんな人物であるか彼女には想像もつかなかった。
 が、初めて会ったその人は、眩い金髪の端正な青年で…多少荒っぽくて粗雑なところがあるにせよ、心根の優しそうな、気さくな好人物だったのである。
 最悪の筈の出会い方が、彼の人柄を浮き彫りにした。それは彼女の中で黒髪の人と重なったのだ。

 恋をしたい、とその時セシリアは思った。
 この人に、恋をしたい。

 彼女が聞いていた通りなら、ジタンはもとは平民の出のはずだった。それをガーネット恋しさの一心で、貴族の地位を買い取り、彼女を掌中に収めたらしい。だがどんなに取り繕っても、このがっちりと身分の組み込まれた世界では、自分に付きまとう「平民」という刻印からは逃れられない筈だった。
 少なくともセシリアはそうだった。
 だから思ったのだ。
 この人なら、私の気持ちが分かってくれるのではないだろうか、と。
 この人となら、一方通行ではない恋ができるかもしれない。
 彼女はまだ、ジタンとガーネットが一緒にいるところに出くわしたことがなかった。むしろガーネットはいつ見ても仕事に没頭していて、恋人のことなど念頭にないようにすら思えた。

「ジタン様、本当は、きつくはありませんか?」
 唐突に発せられた問いに、ジタンは面食らう。
「どういう意味だ?」
「だって、ガーネット様とジタン様は…失礼ですけど、身分が違うでしょう?」
 ほんとに失礼だ、とは思ったが、その言葉の持つあまりに真摯な響きの方が、ずっと強くジタンの心に届く。
「沢山のお仕事があって、そのどれもが堅苦しくて、そしてきっと、そのご出身のせいで貴族の方々から軽んじられて…そんなの、惨めじゃありませんか?それにガーネット様は女王陛下でいらっしゃるから、ジタン様にお茶を淹れたり、お料理をして差し上げたりはなさらないでしょう?私なら…私なら、ジタン様に、心のこもった手料理を作って差し上げられます。小さくても温かい家で、はぜる暖炉の火の傍で、ジタン様にお茶を入れて差し上げられます」
「何が言いたい?」
「私…ジタン様が好きです」
 飲みかけた茶をブっと噴き出して、ジタンは咳き込む。
「な、何だって!?」
「昨日、水をかけてしまった時に、恋におちてしまったんです。いわゆる、一目惚れです。お綺麗で、お優しくて、男らしくて、ステキで」
「それに平民出身で、か?」
 ジタンの鋭い言葉にセシリアはたじろぐ。
「いえ、そんな…」
 しどろもどろになって否定するが、彼の真直ぐな視線に射られて、彼女は敢え無く降伏した。
「…そうです。ジタン様なら、私の気持ちが分かって下さるんじゃないかって思いました」
「生憎だな。俺にはわからないし、分かろうとするつもりもない」
「ジタン様…」
「お前は俺とガーネットの繋がりを知らない」
 たった今喧嘩別れしてきたばかりの彼女の顔が目に浮かぶ。それから、それに被さるように、四年前の旅の思い出が。
 何度も野宿をし、雨曝し日ざらしで、埃と泥にまみれて旅したあの日々。
 高貴なる身分だろうが何だろうが関係なく、互いの命を賭けて、命を守りあった旅だった。
 彼女はどんなに汚れても、愚痴一つ言わなかった。足にマメができて足を引きずって歩いても、食べ物がろくになくてひもじい思いをしても。
 お姫様育ちで全然気が利かない。やたら向こうっ気だけは強くて、はねっかえりだったけれど、文句を言ったことは一度もないのだ。自分の身分を嵩に着たこともなかった。それどころかむしろ、それを引け目に感じていた。自分には何もできない、足手まといになるばかりだ。そう言って泣いた夜もあった。
 向う見ずにも料理にチャレンジして、みんなにひどい飯を食わせたこともある。
 その全てがいとおしい想いになってジタンの胸に去来する。
「こんな夜中に街に出ようとされたのは、ガーネット様とうまくいっていないからではないのですか?」
 なかなか痛いところを突いてくる。
 ジタンは苦笑いした。
「そんな日もあるさ」
 そしてその言葉はそのまま自分に跳ね返ってくる。
「でも、すぐにもとに戻れる」
 俺たちは、それだけの深くて強い絆を作ってきたんだ。なぜそれを忘れていたのか。なぜもっと穏やかに彼女に事情を聞けなかったのか。
「茶、うまかった。睡眠を邪魔してごめんな」
 言いながら立ち上がろうとするジタンをセシリアが止めた。
「もう、夜が明けます。今から寝ては、朝餉の支度に間に合いません。わたし、このまま夜明かしをしますから、ジタン様も付き合ってください。せめて――、せめて私の一日の恋が終る時くらい、ご一緒させてください」
 嘆願に、ジタンは肩を竦めた。
「お前が自分の気持ちに素直になるんだったら、付き合ってやらないことはないぜ」
「素直に…?」
「ああ。一体自分が欲しているのは誰なのか」
「それは…」
「お前さ。…いや、俺もだけど、あんまり周りを気にしすぎて、一番大事なことを見失ってしまってるんだ」
「大事なこと?」
「ああ」
 ジタンは軽く右目を瞑ってウインクしてみせる。
「とりあえず、茶をもう一杯入れてくれないかな。話しすぎて、喉が渇いちまった。それに、なんだかまだまだ説教させられそうだしな」
 つられてセシリアも口元を綻ばせた。
「はい、畏まりました、ジタン様」

 夜が明けた。
 一睡もせずに迎えた朝。
 とうとう、ジタンは戻ってこなかった。
 ガーネットは肉体的精神的疲労の極にあるような空ろな表情で、窓越しの朝の空を見上げた。
 小鳥のさえずりさえ疎ましかった。
 それでも、昨日エドワルドとかわした約束を果たすために、水を吸った綿のように重たい身体を起こした。
 女官長を呼び、何事かを確認する。
 そして女官長の後について、部屋を出て行った。
 エドワルドの頼みは一つ。
 アレクサンドリアの城で働いているらしい、ある少女を探して欲しい、というものだった。
 その少女は、彼に黙って彼の城を飛び出したらしいのだ。
 差し出がましく自分が探すわけにはいかないし、もし後宮に配置されていれば、それこそ手も足もでないから。だから昔のよしみでお願いしたいんだとエドワルドは言った。
 ガーネットは快く承諾し、そして女官長に相談した。
 女官長は即答した。
「ええ、おりますわ、ガーネット様。ザモ領から出てきた娘が一人。後宮の小厨房でまかないを勤めております…その、セシリアと言う娘は」
 そしてガーネットは、女官長に案内されて、少女の寝泊りしている寝所へ向かったのだった。