いつか、そこに。<5> 

 早朝の厨房は慌ただしい。立ち昇る湯気と熱気に包まれて、季節が冬であることなど忘れてしまいそうだ。煮立つ湯の音、かまどの火のはぜる音、テーブルに並べられる皿の音、行き交う調理人たちの衣擦れの音。
 その厨房の隅で、セシリアは大鍋にスープをこしらえていた。傍らでジタンが所在なさげに突っ立っている。
「お前、大鍋任されてるんだ。すごいよな、来たばっかなのに」
 感心したように言うジタンを見上げて、セシリアは嬉しそうに笑う。
「これはまかない用ですから。上の方々が召し上がるものとはまた別物ですもの」
「それにしてもさ」
 聞き流しながらセシリアは手際よく味付けを済ませ、小皿に少量スープをよそった。
「味見してくださいませんか?ジタン様」
 差し出された小皿を受け取り、ジタンは吟味するようにゆっくりと口に含む。そしてすぐに目を丸くした。
「うまいや。おまえ、いい嫁さんになるよ」
「そうですか?」
「ああ、料理の上手いかみさんの亭主は浮気しないって言うだろ?」
「聞いたことありませんけど」
「そうか?」
 くすくすと、思わず笑いがこぼれる。二人が仲良く会話を交わしていたその時、である。
「おいしくてよろしゅうございましたわね!」
 凛然とした声音が部屋に響いた。
 無論それは、ジタンには全く別の響きに聞こえる声で…。身体と顔を引きつらせて、そっとジタンは後ろを振り向く。
 厨房にいた者たちが一様に低頭する中、姿を現したのは当然女王陛下その人であった。横に女官長も従っている。
「みなさん、どうかお仕事を続けてください。お邪魔してごめんなさい」
 柔らかな笑みを振りまきながら、ガーネットは何事もなかったかのように部屋の中に入ってくる。
 女官長が何事か耳打ちすると、彼女は何やら頷いて、ジタンの方を見た。いや、正確には、ジタンの隣にいるセシリアを。
「あなたがセシリア?」
 ガーネットの問いに、セシリアは緊張のあまりがちがちになった首をぎしぎしとまわして、ぎこちなく頷いた。
「は、はい。わっ、わたくしが、セ、セシリアでございます…」
「申し訳ないのですけど、ちょっとこちらに来てくださる?」
 ガーネットの白い美しい手がセシリアのあかぎれだらけの手をとった。
 一瞬、セシリアが泣きそうな顔をして手を引っ込めようとする。
 ジタンが口を開いたが、それより早くガーネットはその少女の手を両手でくるみこんだ。
「恥じることも悲しがることもないわ。この手は懸命に働いている人の手。私の手などより、ずっとずっと美しい手だもの」
 もしガーネットの口から、ガーネットの口調で、そして彼女の湛えている表情のもとに発せられた言葉でなかったら、それはかなり白々しい響きを伴っていただろう。滑らかな細い指先の持ち主に言われても、反感を覚えるだけだったはずだ。
 だが、誰もそうは受け取らなかった。当の本人のセシリアでさえも、胸をうたれたような顔をしていた。
「あなたに、会いたいという人がいるの。忙しいところ申し訳ないのですけど、一緒に来てちょうだいな」
 かくんと、糸の切れた操り人形のようにセシリアは首を縦に振る。
 呆気にとられた人々の見守る中、しずしずと三人は調理場から去っていった。
 それは見事に、あっという間に。

 後に残されたジタンは絶句していた。
 見なかったのだ。
 ガーネットは、そこにジタンがいるにも関わらず、全く、一瞥だにしなかったのである。
――おいしくて、よろしゅうございましたわね!
 ジタンにだけは分かったあの第一声。棘だらけのとんがった声。
 言い訳をする間もなく…そして言い訳できるだけの隙も素振りも与えず、彼を無視するという報復行動に出たガーネットの鮮やかな手並みに、ジタンはもう立ち尽くすしかなかった。
「違うって…。お前、絶対誤解してるよな…」
 周囲の者たちはその呟きをあえて聞かなかったことにして、何事もなかったかのように再び朝餉の支度を始める。そんな中を、ふらふらしながらジタンは外に出た。
 肌を刺す爽やかな冬の空気が瞬く間に彼の身体を包み込む。すでに日は昇っていた。
 頭を抱えたまま、とりあえず彼もまた、彼女たちの後を追って王宮の方に向かう。
 無駄とは分かっていても、一応ガーネットの誤解を解く努力をしてみようと思ったのだ。

「あの…私に会いたい方って、どなたなのですか?」
 使用人や兵士を係累が尋ねてくるのは珍しくない。だが、その場合は裏門で証書を見せて、門番が該当の者を呼びに行くのが習わしだった。該当者は門まで客を出迎えに行き、必要があれば彼を伴って兵舎や詰所に戻る。
 こうして女王自らがお出ましになることなど、異例中の異例だった。というより、前代未聞と言っていい。
 セシリアは何が起こっているのか見当もつかず、まるで雲の上を歩いているような錯覚を覚えた。
「あの…」
「口を御慎みなさい、セシリア。女王様がわざわざお迎えに来てくださったのですよ。察しなさい」
 女官長がたしなめる。
 セシリアは恐縮して肩を縮めた。
「いいのよ。怖がらないで。きっと、あなたも会いたい人よ。それより…一つ私もきいていいかしら」
「は、はい、何でございましょう」
 ガーネットは前を向いたまま、言いにくそうに口を開いた。
「あの…ジタン・トライバルはなぜあなたの所にいたの?」
「水を」喉に何かが詰まったように、声が張り付いて出ない。セシリアはごくんと唾を飲み込んだ。それほど、女王陛下の声音は沈鬱だったのだ。
「水を飲みにいらしてたのです」
「どう見てもあなたといっしょにお料理を作っているとしか見えなかったけど」
 感情を込めぬように、細心の注意を払っているつもりなのだろう。だが、震える声は僅かに上ずる。
「えっと、あの…」
「たまたま、水を飲みに来て、たまたまあなたと初めて会って意気投合した、なんてことはないわよね」
 その女王の質問に、こらえきれなくなって、セシリアは立ち止まった。
 謁見をする王の間まで後少し。そこは階段中央の踊場だった。右の階段下に人影があり、そして入口にもたった今辿り着いた人間がいることなど、彼女たちは少しも知らない。
 不意に立ち止まった少女に合わせるように、ガーネットも女官長も足を止めた。
 セシリアは唇を噛んだ。恥ずかしいけれど、本当のことを言うべきだと思った。そして決死の覚悟で顔を上げたのだ。
「私…わたし、ジタン様に好きだと申し上げました。それで、朝まで一緒にいてくださるように頼んだんです」
 
 爆弾発言。

 ジタンは真っ青になり、階下にいたエドワルドは胸を押さえた。
 ガーネットは硬直し、女官長はあんぐりと口を大きく開けたまま立ち竦んでいる。
 自分の言葉足らずな表現が、どれほどの衝撃を周りに与えたか、少女はまだピンと来ていない。
 彼女としては、「自分が振られてしまったという悲しい顛末を口にしたつもり」なのである。つまりは女王陛下の勘違いを解こうとしたのだ。彼女の予定としては。だがむろん――それは事態を混迷のどん底に突き落としただけだった。
 何とか突破口を見つけ出そうとガーネットは訊ねる。
「あ・・・それで…ジタンは朝までいたの…?」
 嘘をつけない少女は答えた。はっきりと。
「はい」
 
 その瞬間、運命のゴングが鳴り響いたのだった。