いつか、そこに。(6) 

 
「本当なのか!?」
 突然発せられた声。
 下から駆け上がってきた青年の姿を見て、セシリアは顔色を変えた。
「エ、エドワルド様…」
 全く予期せぬ登場に、彼女はびっくりしてあとずさる。
 まるで自分から逃げようとしているような少女の素振りに困惑を隠せないエドワルドは、彼女を追い、手を差し伸べようとする。
「セシリア…」
「そうです!」
 咄嗟に、少女は叫んでいた。自分の名を呼ぶエドワルドの声を掻き消すために。
「私はジタン様が好きです!ですから一晩一緒に過ごしていただきました!だって…ジタン様は、私と同じなのですもの」
 そして背後の女王を振り返る。
「女王様、ジタン様はきっとお辛くて――とても肩身の狭い思いをしてらっしゃると思います。ジタン様だって、もっとほっとできるところが必要なんです。ここは…貴族の方々の住む世界は、所詮私たち下々の者には相応しくありませんもの。ジタン様は、口では強がりをおっしゃってますけど、でも、きっと心のどこかで辛い思いをなさってるんです!」
 鋭い言葉は、ガーネットの心を抉る。それこそ、血を迸らせるほどに深く。
 だが彼女は表情を動かさなかった。
 だから切ないほどの悲哀がその瞳の奥に差したことを、その場の誰も気付けなかった。
 情の勝ったこの少女の目には、その姿は冷たい人形のように映る。知らず、双眸から涙が溢れ出た。一抹の悔しさとともに。
「女王様にお相応しいのは、このエドワルド様だと思います。エドワルド様は、ずっとずっとガーネット様のことを想ってらっしゃいました。いつもガーネット様のことを私に話して聞かせてくださいました。なのに、ガーネット様が女王になられてから後はずっと、自分の気持ちを押さえて、影に甘んじておいででした。ジタン様がいらしたから。ご自分の気持ちを女王様にお伝えすることなく、身をお引きになったんです。ですから、ガーネット様、目をお覚ましになって下さい!女王様に相応しいお方は、エドワルド様です!ジタン様じゃありません!」
 それは彼女なりの、必死の叫びだった。
 
 ようやくセシリアに会える。
 再会の喜びをかみ締めながらやってきたエドワルドにとっては、青天の霹靂のような展開だった。
 先に王宮に入る彼らの姿を見つけ、逸る心で後を追ったはいいが、階段にさしかかるなり突然の「大告白」に遭遇してしまったのである。
 いかに沈着な彼であれ、動揺しないわけがない。だが、すぐに彼は自分を取り戻した。どんなことがあっても、この少女を連れ帰ると心に決めてこの地を訪れたのだ。その決意はそれほど脆弱ではなかった。
 なのに少女は彼の心を好き勝手に捻じ曲げて解釈し、あまつさえ女王に彼を勧めようとする始末なのだ。…とにかく、舞い上がった少女をどうにかして落ち着かせようとエドワルドは試みた。
「違うよ、セシリア――お前は誤解しているんだ」
 穏やかに諭す彼の肩をガーネットがそっと抑えた。
「この子は、誤解なんてしていないわ。…あなたのことが好きなのよ、エドワルド。自分の身がどうなっても構わないくらい」
「ガーネット…」
 静かに、ガーネットは頷く。
 それは確信だった。
 エドワルドの本当の気持ちを、この娘が気付かないわけがない。なのにこうして頑なに言い張るのは、彼の気持ちに応えるのが怖いからだ。怖いくらい、好きだからだ。
 そして、それほど好きなのに、それほど怖くなってしまうのは――彼我の身分に隔たりがありすぎるからなのだ。
 少女の言葉の真偽に関わらず、その思いがジタンの心の中に蹲っていることもまた、確かなことに思えた。
 だがそんなガーネットの深慮をセシリアが知るはずもない。激昂した感情のまま、少女は、
「違います!私が好きなのは、ジタン様です!」と言い放つと、脱兎の如くその場を去ろうとした。が、階下に辿り着いた彼女は、誰かにしたたかぶつかった。勢い余って倒れそうになる少女の身体を、逞しい腕が支える。抱えられた格好で少女は目を上げ、その人を確認するや、すぐさま彼にかじりついた。
「ジタン様!」
 階上で、ガーネットの瞳が悲しく翳るのを、ジタンは見とめた。その傍らでこちらを憮然とした表情で見下ろす黒髪の男など、もはや彼の眼中には入っていなかった。
 ジタンはそっと首に巻きついた少女の腕を外す。
「お前さ…なんでそう自分の眼鏡でしかものを見られないかな。確かにお前の言うとおりだけどさ、でも、あいつらもあいつらで、きっと大変なんだ」
 分別臭くセシリアをたしなめるジタン。
 その間もジタンの目はじっとガーネットに注がれたままだ。階上の女性は瞬きもせずジタンを見つめ返す。
 その澄んだかなしみを湛えた双眸に向かって、ジタンは言った。
「言い訳はしない。こいつの言うことに嘘はない。俺は一晩調理場で過ごしたし、こいつと一緒だった。だけど何もやましいことはなかった。それは俺を信じてもらうしかない。信じてもらえないなら、それまでだと思ってる」
「ジタン様…」
 自分の胸元で泣きそうな声が聞こえた。だがジタンはその声に顔を向け様とはしなかった。彼の視線は揺るがない。少しも。
「実を言うと、俺には何がどうなってるのかさっぱりわかんないんだ。ただ分かるのは、もしその男が本当にガーネットのことを愛しているなら、決闘するまでだ…ってことだけだな」
 ジタンは初めて視線をエドワルドに移した。どこかしら挑むようなその口ぶりに、エドワルドは苦笑する。
「…残念ながら、一部分修正してその言葉をお返ししよう。ジタン殿。あなたが嘘をついておられるなら、私も決闘を辞さない」
 柔らかく、しかし決然と彼は言った。
「嘘…だと思うか」
 不敵とも取れる笑いを口元に刷くジタン。
「あいにく、私の目はそれほど節穴ではないつもりだ」
 その笑みに、エドワルドは笑みを以って返す。
「そして、あなたの誤解も解いていただきたい。私の望みはその少女を得ることだけだ」
 ジタンは僅かに顎を引いた。そして胸元の少女の肩を押す。行け、というように。だが少女は一歩も踏み出せないまま、その場に立ち竦んでしまう。
「だ、だめです。そんなこと、駄目です。私なんか、エドワルド様のお名前を汚してしまうだけです」
 うろたえてその場に屈みこんでしまった少女の頭を、ジタンがくしゃくしゃとやや荒っぽく撫でた。
「だから、言ってるだろ?自分のことだけで考えるな。あの御曹司の気持ちを考えたことがあるか?セシリア」
「え?…」
「ガーネットは」
 愛しい名を口にして、ジタンはひと時目を瞑る。
 そして少しの後、目をあけた。しっかりと、再び視線をその女性に向けて。
「ガーネットは、俺の自由を奪ったって、いつもどこかで自分を責めてる。だから寂しいくせに滅多に寂しいなんて言いやしない。そしてたまに爆発するんだ。昨日みたいに」
 想いをこめて、たった一人の人のためだけに、ジタンは語り出す。
「俺に関する風評だってそうだ。俺がどんな風に宮廷で噂されてるか、俺だってよく知ってる。でもあいつは俺以上にその風を浴び続けてて、だけどそこから俺を護ろうとするんだ。必死に。――俺の辛さをあいつは俺より辛く受け止めるのに、なのに自分の辛さは平気なふりをする。それがたまらなかった。俺がそこの御曹司の立場だったら、あいつにそんな思いをさせなかったのに…って、そんな引け目が心のどこかにいつもあった。でもな、セシリア、お前のおかげで俺は目が覚めたんだ」
 階上の女性の表情の変化は、ジタンからは窺い知るべくもない。だが、一件無表情に見えるその面から、揺れる心が透けて見えるような気がした。
「俺は誰からも認められたかった。堂々とあいつを俺のものにしたかった。だから、地位とか財産だとか、あいつに相応しいものを手に入れなきゃって思った。今だって半分は思ってるさ。それはあいつを護る現実の武器(ちから)だから。それを纏ってこそあいつを助けられることがこの世にはごまんとある。だけど、俺たちの心のつながりには、そんなものは関係ないんだ。関係ないんだって、やっと分かったんだ。――ガーネット」
 じっと見据えたままの瞳に力がこもり、ジタンの声音が熱を増す。
 その呼びかけは、眼差しの向こうに佇む女性の心を貫いた。奥の、奥まで。
「俺のせいでお前に余計な心配をさせると思ってた。俺でなければお前はもっと楽に女王でいられるのに、ってさ。でも違うよな。その辛さは、俺たちが俺たちの間に流れる大きな川を乗り越えた証なんだ。両岸でお互いを求め合うだけで終ってれば、辛さなんて感じなくてすんださ。でも、俺たちはちゃんと手を握り合った。向かい風を浴びることも、激流に逆らうことも覚悟のうえで、それでも流れに飛び込んだんだ。その激しさよりずっと、お前を好きな気持ちのほうが強かったから」
 女王の唇がかすかに動いた。
 かすれた声は傍らの女官長にしか届かなかったけれど、その唇がどんな言葉を紡いだのか、その場に居合わせたものたちにははっきりと分かった。
「引け目なんて感じることなかったんだ。俺も、そして、お前も。もっともっと、本音をぶつけ合ってよかったんだ。俺は…!」
 ジタンは息を深く吸った。
 そして、室に澱む空気を…自分の中に渦巻いていた辛気を吹き飛ばすように、高らかに叫んだ。
「俺はお前を他の男になんか絶対渡さないからな!」

 一瞬、ガーネットの顔がくしゃくしゃに歪む。だがすぐにその顔は見えなくなった。ドレスの裾をあられもなくからげて、彼女が階段に身を躍らせたからだ。
 次の瞬間、女王の姿は階下にあった。
 布地をふんだんに使った重いドレス姿でよくもそんなに走れるものだと思うくらい、彼女は懸命に駆けて来る。途中で皮の靴が片方抜けてしまっても、それでもひたすらジタンの許へ走ってくるのだ。
 
 これほどまでに感情を露にした女王陛下を見たことがなかったセシリアは、呆気に取られてその姿に見とれていた。その視界の端を、さっと影が過って行く。
 それがジタンであることは言うまでもなかった。
 あっという間に互いの許に辿り着いた二人の影は、寸時お互いの瞳を見詰め合い、そしてしっかりと抱きあった。
 人々が見守る中で。