7days in the blue sky <1>

 夏至を中日とする前後3日間、つごう7日の期間を、アレクサンドリアでは「魂還節」と呼ぶ。
 以前は夏場になると、低地から霧が気流に乗って街のある高地まで上ってきていた。うっすらと垂れ込める靄に包まれて過ごさねばならないその季節の中で、どうしたわけか夏至の前後だけはすっきりと靄が払われるのだ。
 きれいな夏の青空が覗くその期間を、アレクサンドリアの人々はことのほか愛した。
 そして一つの巷説が、まことしやかに囁かれるようになった。
 きっとこの時期に冥府の扉が開くに違いない。そこからアレクサンドリアに向けた魂の通り道が、薄靄をかきわけて伸びてくるのだ、と。
 懐かしい人々に会いに、魂たちが還って来る。
 霧の魔獣に出くわすことも珍しくなく、戦も多かった。風の前の灯火のように、はかなくあっけなく人の命が喪われてゆく時代である。
 生前愛した人の面影を偲んで、人々はいつしかその風聞を信じるようになっていった。
 そうして出来上がったのが「魂還節」である。
 夕方になると人々は門の前に迎え火を焚く。魂が迷わないように、きちんと自分たちの元にたどり着けるようにするための標として。
 それから彼らは御霊の帰還を祝うために、一晩中かけて大いに飲み、食い、歌うのだった。

 ここ、アレクサンドリアの王城も例外ではなかった。
 夏至が近づくと、城の中、とりわけ女王陛下のまします奥の宮の動きが激しくなる。
「灯明の用意が調いましたわ」
 奥向きの一切をとりしきる女官長が手をはたきながら女王の私室に姿を現した。
「ありがとう。これで心置きなく夏至が迎えられるわね」
 部屋の中央で3つになる長子を遊ばせながら、ガーネットが笑みを浮かべて振り向く。
 女官長がわざわざここまで報告に来る目的を十分心得ている笑顔である。
「こんにちは、にょかんちょうさん」
 その“目的”が可愛らしい声を上げた。
 床にちょこんと座った男の子が、母親の体の影から顔を出す。ばら色のほっぺた。色こそ漆黒だが、質は父親譲りなのだろう、さらさらの細い髪が白い額に揺れ、長いまつげに縁取られたこれまた父親譲りの真っ青な瞳が、「やさしいお婆さん」を捉えて嬉しそうに輝く。
「まあ、王子様、いらっしゃったのですか」
 実にわざとらしく女官長は驚いてみせた。さも、御前に報告に上がったら偶然王子様に出会えたのだと言わんばかりに。――実は今日彼女がここに訪れたのは、これですでに6回目である。自分でもやや回数が多すぎるかなと思うのだが、どうしてもこの可愛らしい顔を見ないではいられない。3年間日に空けずこの状態だから、女官長のわざとらしさにも、もう皆慣れっこになっていた。
 今は亡きブラネ女王の代わりにガーネット王女を育て上げたと自負する彼女にとっては、王子は孫のようなものなのだ。
 偶然を装う割にはだらしなく相好を崩して、女官長は王子を抱き上げた。
 恰幅の良い彼女は力も強くて、だいぶ大きくなってきた彼を軽々と抱えることが出来る。それが嬉しくて、王子はまたニコニコと笑う。
「大きくなられましたね、ルシアス様。このばあやにはもうすぐ持ち上げられなくなりますわ」
「そうなの?でも、ぼくレオンよりもマリーよりも小さいよ?」
「レオン様もマリー様も、ルシアス様よりずっと年上でらっしゃいますもの。比べるのがいけません」
 王子は賢いと評判だった。齢三つでありながら、子どもとは思えないしっかりした言葉を操る。とはいえ幼い愛くるしいソプラノでたどたどしく語るその姿は、万人の顔を緩ませずにはおかなかった。
「あ、とうさまだ!」
 ふらふらと戻ってきた放蕩父親の姿を目ざとく見つけて、ルシアスがぱっと顔を輝かせた。ちょこんと生えたまだ短めの黒い尻尾がぱたぱたと揺れる。彼は父親が大好きなのだ。
 女官長が苦笑いしながら床に下ろすと、王子はてけてけと真っ直ぐジタンの元に駆けて行った。
「とうさま、お帰りなさい!」
 抱き上げてと催促するように両手を差し伸べる小さな息子を笑って見下ろし、木の葉の切れ端や飛空艇の油で汚れた父親は無造作に我が子を引っ張り上げた。
 手を、でもなく、体を、でもない。ルシアスのお尻から伸びている可愛い尻尾を、むんずと掴んで文字通り「引っ張り上げた」のである。
「ただいま、ルシアス。良い子にしてたか?」
 父親の目の前まで宙吊りにされながら、それでもルシアスは嬉しそうにきゃっきゃと笑い声を上げて手を叩いた。
「うん、とうさま、もちろんだよ。ちゃんととうさまのかわりに、かあさまを守ってたよ」
「そっか。上出来だ」
 にっと笑ってジタンはルシアスを宙に放り投げた。くるりと空中で一回転した我が子に、思わず部屋の向こうでガーネットが短い声を上げる。だが心配するまでもないことは彼女にもよく分かっていて。
 ジタンの逞しい腕が落ちてきた息子をしっかりと抱きとめたのを見届けると、彼女はため息混じりに苦笑した。
「もう、乱暴に扱い過ぎよ」
「平気さ。男の子なんだから。なあ、ルシアス」
 息子に同意を求めるジタン。その腕の中からはや這い出し、ごそごそと父親の頭の上によじ登ろうとしていた少年は、「うん!」と元気且つおざなりな返事をする。
「じゃあ、ちょっとだけ下に降りててくれ。父さんはまだお母様にただいまの挨拶が済んでないんだ」
 金色の頭にしがみつく小さなお尻を彼は大きな手でぽんぽんと叩いた。
「あっ」
 ルシアスは急いでするするとジタンの体を滑り降りた。まるで小猿のような俊敏な動きである。これも父親譲りなのかもしれない。
「本当に、王子様は敏捷でらっしゃるし、英邁でいらっしゃるし、おまけに美貌の持ち主でいらっしゃるし…、アレクサンドリアの宝物でございますわね!」
 父親を見上げる小さな愛くるしい王子を眺めて、感極まったように女官長が洩らす。――いつもの光景である。
「ただいま、ダガー」
 感服する女官長を他所に、ジタンはすたすたと最愛の妻に歩み寄ると、軽いキスを送った。
「おかえりなさい」
 仄かに頬を染めてはにかむガーネットの姿は少女の頃と全く変わらない。ただ年を追うごとにその嫋々たる繊麗な姿には艶冶な彩が備わってゆき、子どもを生んでからの美しさときたら、もはや絶佳と言っても過言ではないほどだった。
 ぬけるように白く、滑らかな肌。小ぶりの顔から首筋にかけての肌理細やかな皮膚には少しの染みもない。夫の優しい口づけを受けて、薄桃の唇がさらに赤く染まる。
 ため息が出るほどの美しさである。
「お前ってさ…。いつ見ても、きれいだよな」
「久しぶりに帰って来るたびに、そう言うのよね。褒めて、帳尻を合わせようとしてるでしょう」
 さっきまで子どもをあやしていた日に焼けた逞しい腕が彼女の体を抱き寄せる。夫の胸に両手をあてて、自分を引き寄せる力にちょっと抗って見せながら、ガーネットは口を尖らせた。
「そうかな?覚えてないな」
 笑ってすっとぼけながらジタンは再び唇を重ねた。
 少し――というよりかなり長めの沈黙に、耐え切れなくなった女官長が咳払いして退出を請おうとした時、大人たちのはるか下方からあどけない声が上がった。
「ねえねえ、とうさま、ずるいよぉ」
 気がつくとルシアス王子がジタンの足元で背伸びしながら上着の裾を引っ張っていた。
「ん?」
 可愛らしい声に促されてしぶしぶ顔を離し、ジタンは足元に目をやる。
「何だよ、ルシアス。いいところなんだからさ」
(ジタン!教育に良くないわ、そんな言い方)
 小声でガーネットがたしなめる。だがそんな文句はどこ吹く風で、ジタンはぎゅっと彼女を抱きしめた。
「だから邪魔しちゃだめだぞ、今は」
 偉そうに説教を垂れる父親を見上げて、ルシアスは一生懸命に反論する。
「とうさま、この間ボクに、“お日様が出ているうちはお前に母さまをゆずってやる、だけどお日様が後ろの山に沈んだら、母さまは父さまのものだからな”、って言ったよ。お日様はまだ沈んでないのに、お母様をとっちゃだめだよ。人はいっぺん誓った約束は絶対守らないといけないんだよ」
 した当人はとうの昔に忘れている、口からでまかせの約束を持ち出されて、ジタンは目を白黒させながら絶句する。言った。確かに、言いはした。
「えっと、…それは…」
「そうじゃないの?お約束は守らないといけないんじゃないの?トット先生がそう教えてくれたんだけどな」
「そうよ、ルシアス。偉いわ、ちゃーんと先生のお言いつけを守ってるのね」
 するりとジタンの腕の中から抜け出して、ガーネットがルシアスの前にかがんだ。
 白いたおやかな優しい腕が、小さな息子の小さな体を包む。
「約束を守ることは、人にとって一番大事なことなの。あなたの言う通りよ」
 えへへ。
 こよなく嬉しそうな幸せそうな顔でルシアスは母親にかじりついた。
 とうさまも大好きだが、でも彼がこの世で一番好きなのは、いまのところかあさまの方なのだ。
「ちぇっ。そうだ、ルシアス。お前の言うとおり。でもな、久しぶりにとうさまが帰ってきた時だけは、例外なんだ。いいか、何事にも例外はある。お前だって、何日間かお母様と会わなかったら、寂しくてたまらなくなるだろう?で、やっとお母様と会えたら、例えお日様が沈んでいたって、お母様に抱きつきたくなるだろう?」
 二人の傍らで尊大に腕を組んで、ジタンがもっともらしいご高説を披露する。
「うん」
 素直な王子は煙に撒かれているとも知らずに素直にコクンと肯いた。
「とうさんはそのとき、お前がお母様に抱きついてもなーんにも言わないぞ。黙って見ててやるぞ。それが男の情けってもんだからな」
「オトコノナサケ?」
 初めて聞くその響きがいやに新鮮で気に入ったらしい。ルシアスは三遍ほどオトコノナサケと口の中で繰り返した。
「そうだ。だから今もちょっとだけ我慢して待っててやるのが、オトコノナサケなんだぞ。分かるか?ルシアス」
(ジタンったら、もうめちゃくちゃなんだから!)
 ジタンに苦言を呈しているところをガーネットとしてはあまりルシアスに見せたくはない。だから声を潜めてジタンの耳元で抗議する。それを利用してジタンはまたまたガーネットを腕の中に取り戻してしまった。
「な?」
 悪戯っぽく笑って息子にウインクしてみせる。ルシアスは上手く丸め込まれて、また力一杯肯いた。
「うん!」
 傍らで一部始終を見届けていた女官長が、もうどうしようもないといった呆れ顔でルシアスの手を握る。
「では王子様、向こうの部屋でおやつでも召し上がりませんか?――お父様とお母様は、少しだけお二人にしてさしあげないと、落ち着かないようでございますからね」
「うん、わかったよ、にょかんちょうさん。今日のおやつは何かなあ?」
「クイナが思いっきり腕によりをかけてプディングを作っておりましたよ」
「やったぁ!」
 子どもの頭はすぐに大好きなプディングで満杯になる。ご機嫌で女官長の手を握りしめ、ルシアスは部屋の向こうに姿を消した。

「もう、ほんとにやりたい放題なんだから。あなたの方が子どもみたいだわ」
 二人がいなくなると同時にガーネットが再開した抗議を、ジタンが実力行使で封じ込める。
 だが今度はガーネットも抗う素振りは見せなかった。
 再び訪れる静寂。
 しばらくの沈黙の後、ようやく解放されたガーネットが息を吐いた。
「向こうにあなたの分のプディングもあるわ」
 どうやらガーネットにとっても、今の一番は『お父さん』より『ルシアス』らしい。
 ちょっと憮然とした顔でジタンがため息をつく。
「なんだよ、やっぱり母さまは夜までお預けかよ」
 また迫ってくるジタンの唇を手でぱっと抑えて、ガーネットはにこやかに微笑んだ。
「約束を守るのは人間として一番大事なことだもの」
「お前ってさ、いつのまにそんなに人が悪くなったんだ?」
「あなたに似てきたって、ついこの間女官長から言われたわ」
「ゔ…」
 またもやジタンには返す言葉がない。 
「わかりました!ルシアスといっしょにおやつを頂きます!」
 半分やけくそで叫ぶと、ジタンは踵を返した。
 くすくす笑いながらガーネットが後に続く。

「そういえば」
 食事を摂る小食堂に向かう途中で、不意にジタンがガーネットを振り返った。
「もうすぐ、夏至祭――魂還節だな」
「ええ」
 突然彼が話題を振るのは良くあることだった。おおむねガーネットよりもジタンの方がよく喋る。
「何の根拠もない作り事ってわかってるけど――たまに信じたくなるんだよな、俺」
「…魂が帰ってくるって?」
 そしてまた、面白いことに、ジタンが振る話題はたいていガーネットが思っていること、話したいことだったりするのだ。波長が余程響応するのか、それとも長い年月ともに過ごしているゆえか。今もまた、彼女がふと思っていたことを見透かしたように、彼は語り始めた。
「ああ。あいつにさ…見せたくねえ?俺たちのがきんちょ」
「見せたいわ。――とても、見て欲しいわ。だけどきっと…どこかで見てくれてる気がする」
「…っかな?」
 自分を覗き込む青い目を見上げて、ガーネットは頷く。
「だって――ビビですもの」
 ジタンの手がすっと彼女の首筋に巻きつく。引き寄せられてガーネットはジタンの肩に頭を持たせかけた。
「だな」
 きつく抱きしめ、その頭頂に唇を押し付ける。
 それから彼は一人で食堂に向かって駆け出した。
「ルシアス!ちゃんとお行儀よく食ってるか!?」
 その言葉遣いのほうがお行儀悪いわよ…。ガーネットは後からゆっくり歩きつつ、またぞろ苦笑いを浮かべるのだった。

 誰もいなくなった部屋にふっと風が流れた。
 白いレースのカーテンを揺らした風は、ぐるりと部屋を一回りして、再び空へと散ってゆく。
 まるで、誰かを探しているようだった。