光という意味なのよ。
まだルシアスがほんの赤ん坊の頃から、ガーネットはいつも息子に繰り返し語りかけた。
あなたの名前は光という意味なの。
ルシアスが生まれる前の日、アレクサンドリアに初雪が降った。
音もなく降りしきる雪は、翌朝、見事なまでに世界を純白に染め上げた。
冬特有の、けぶるような水色の空にたなびく薄い雲の隙間から、高く上った太陽の細く透き通った光が地表に注ぐ。
雲母の屑をばら撒いたみたいに、きらきらと世界中が輝いていた。
そんな日に、彼は生まれたのだ。
冷たい空気は産褥にある母体にも、生まれたばかりの赤子にも障るからと産婆が止めるのも聞かず、ガーネットは無理やり窓を開けさせた。
窓の外に溢れかえる光の洪水。
それは真夏の太い光とは全く趣を異にしていた。
強い光は濃い影を落とす。しかし今外に横溢する光はどこにも影を作らなかった。淡くても、全てのものを優しく包み込む、清らかな光だった。
そんな光になってほしかったの。
あまねく全てのくにたみを照らす、やさしい清らかな光になってほしかったの。
だからそう名づけたの。
光――ルシアス、と。
いくら英邁の呼び声高くとも、まだ三つではその言葉の意味なぞわかるわけがない。
だがいつしかルシアスは意味が分からぬままその言葉を覚えてしまっていた。
「ぼくはひかりになるんだよ」
額面どおりに受け取って、これからあと7歳になるまで彼は『大きくなったら自分は光に変身するのだ』と思い込むことになるのだが――意味の取り違えはさておき、この当時、三歳のルシアスは折に触れて、ふとそう呟くことがあった。
それはたいてい一人で遊んでいる時だった。まるで、誰かがそこにいるかのように、彼は一生懸命に語りかけるのだ。
ガーネットもジタンも女官長も、たまにその姿を目にすることがあったけれど、特に気に留めることはなかった。小さな子どもがよくやる一人遊びだろうと思っていたのだ。
そうではないことを皆が知ったのは、ある出来事がきっかけだった。
「魂還節」の最後の日。
正午、軽いお昼を食べた後、女官長に連れられて裏の湖まで散歩に出かけたルシアスが行方不明になった。
蒼白になって女官長があたりを必死に探し回ったけれど、見つけ出すことはできなかった。
髪を振り乱し、半狂乱状態で城に戻ってきた彼女はすぐさま女王に報告した。
さすがにガーネットの顔からさっと血の気が引いた。反射的に部屋を飛び出そうとした彼女を抑えたのは、たまたま部屋にいたジタンだった。
「お前はここで待ってろ。俺が探してくる」
落ち着いた口調で彼は諭した。その冷静さが信じられないように、ガーネットは目を見開いて夫を見上げる。
「ジタン…だって、あの子にもしものことがあったら…!」
居ても立ってもいられないのだろう、彼女は自分の肩を掴むジタンの手を必死に剥がそうとする。だが、どんなに力を込めてもその腕はびくともしない。
動転してしまっている彼女を、ジタンはしょうがなく力任せにぎゅっと抱きしめた。
「落ち着けよ、ダガー。大丈夫だって!」
彼女が一番安心できる場所――夫の腕の中に抱き込まれ、そして夫の声を聞いて、ようやく彼女は一呼吸置くことができたようだ。
「大丈夫…かしら…?」
「ああ」
根拠も何もないくせに自信たっぷりに肯くジタンを見ていると、不思議にそんな気がしてくる。ガーネットはふっと吐息を洩らして、彼の腕の中から離れた。
「――ごめんなさい、取り乱して」
女王が我を失うなど今まで目にしたことがなかった女官長は、一部始終を目にし、自責の念に駆られてその場に崩れ落ちた。
「申し訳ございません!私の不始末でこのようなことに…もしルシアス様に何かございましたら、もう私は…」
絶句して女官長は涙にくれる。床に頭をつこうとする彼女を咄嗟にジタンは押しとどめ、立ち上がらせた。
「何言ってるんだ。ガキなんだから。男の子なんだから、これくらいあるさ。だろ?あんたの隙をついて姿をくらますなんざ、よくやったもんだって褒めてやりたいくらいだ。さすが俺の息子だよ。消えたのは城の中だし、そこから出ることはありえない。となれば、命の危険はまずないってことだ。ま、俺の子だから、少々の危険なんてものともしないだろうけどな」
いつもながらよく分からない理屈で相手を煙に巻き、彼はにかっと笑って片目をつぶった。
それでも女官長の不安を少しは解きほぐせたらしい。彼女の体から少し力が抜ける。
「そ、それならば…よろしいのですけれど…」
「ジタン、あなた間違ってるわ」
その背後でガーネットが抗議の声を上げた。
「ルシアスはあなたの息子じゃなくて、私とあなたの子どもなのよ。私の繊細なところも受け継いでるんだから、そんなに楽観的に考えないで」
その言葉に思わず女官長とジタンは顔を見合わせる。
「ほらな?ダガーに似てるってことは、絶対何があっても大丈夫ってことだよな」
「そうでございますね!」
それが一番効力を発揮したらしい。女官長の顔に笑みさえ戻ってきた。
「ど、どういうことよ、二人とも!」
ガーネットが白かった頬に朱を浮かべてジタンに詰め寄る。
「俺とお前の血が流れてるんだから、逞しさも俺たちの二倍だってことさ」
近づいてきた彼女をこれ幸いとジタンはすっと抱きしめた。それからやっぱりまだ心配でしょうがないという顔をしている母親を安心させるように、優しいキスを落とす。
「すぐに見つけ出してくるから、安心して女官長といっしょにここで待ってな」
ジタンは腕の中のつぶらな黒い瞳を覗き込んだ。
いつも必ず全幅の信頼を浮かべている瞳が、今もまた同じ光を湛えて瞬く。
「――わかったわ。でも、私もいっしょに行く。ここでじっと待ってるなんてできないもの」
ふう、とため息をついてジタンは苦笑いした。確かに彼女は昔から、一丁事あった時におとなしく待っている玉じゃなかった。見かけよりずっと行動派なのだ。だが…。
「あのな、もしかしたらあいつ、転んで泣きながらここに帰ってくるかもしれないんだぜ?そんときにお前がいなかったらどうするよ」
もっともなことを言われて、さすがに頑固なガーネットも反駁することができない。彼女はしぶしぶ肯いた。
「じゃ、女官長どの、状況と場所をもう一度詳しく教えてくれ」
手際よく状況を再確認すると、ジタンは早速部屋を飛び出していった。どうやら心当たりがあるらしい。少なくともガーネットの目にはそう見えた。
そして実際、ジタンには思い当たる節があったのだ。
ふらふらと出歩くこの放蕩父親は、城内の人の動きについて、実は誰よりも詳しい。昼間彼の愛息子がてけてけと駆けてゆく姿を何度も目撃している。
「ったく人騒がせな小僧だよ」
言いながら彼は笑みを禁じえなかった。
息子がそこに行きたがる理由が、なんとなく分かるような気がしたからである。