One love,  One heart



 風が槐の梢を揺らす。
 冷ややかな中にも春の息吹を含んだ空気が、彼女の気道に流れ込んでくる。
 彼女は目を細め、眩しげに淡い緑の葉を見上げた。

 この季節のアレクサンドリアで、雲ひとつない快晴の日は珍しい。先日執り行なわれた女王の婚礼からこの方、その珍しい日がずっと続いている。ただでさえ祝賀の雰囲気に浮かれている巷では、連日の晴天はまたとない吉祥だと専らの噂だった。

 ようやく広場にも露天商が立ち並ぶようになり、街らしい喧騒と賑わいがもどりつつあった。そこに女王の婚礼である。挙式に列席する諸侯、賓客には必ず数多の従者や供がついてくる。加えて一目だけでも女王とその配偶者を拝もうと、各地の民がこの街に大挙して押し寄せているのだ。往来はいつもの数倍の人出でごったがえしていた。
 人波に紛れて、白い上等のローブを羽織り、フードを目深に下ろした、一見して貴族の子女と見て取れる娘が、足早に路地を通り過ぎる。人目を避け、辺りを憚るその様子から察するに、道ならぬ恋の逢瀬を果たしに向かっているのだろうと思われた。
 だが、この人ごみの中で彼女を気にとめるものはいない。
 娘はなんなく細い辻に身を滑り込ませ、橋げたの下の仄暗い階段を下りていった。
 路地の突き当たりにある、古ぼけた建物の前で彼女は立ち止まった。
 かなり年季の入った黒檀の扉に、剥がれかけた金の飾り文字で「宿屋」と刻まれたプレートが嵌め込まれている。他に何の装飾も看板もないその重い扉を、娘は静かに押し開けた。

「よう、来たか」
 陽気な野太い声が空から降ってくる。
 一応吹き抜けになっている狭いエントランスの正面階段で、髭面の親父が手を振っていた。
 つられて手を振りかけ、それから気付いたように娘はフードを背中に落とした。
 中から現れたのは、輝くばかりの美貌の白面――女王陛下、ガーネット・ティル・アレクサンドロスその人である。
「お待たせしてごめんなさい、おじさま」
「いいってことよ。おかげで人払いもできたしな。さあ、こっちに来な。ゆっくり話を聞こうじゃねえか」
 言いながらバクーは手振りで部屋を示した。
 ガーネットは頷いて、彼の後についてゆく。
 
 本来なら、今はまだ女王が城を出られる状況ではない。婚礼の儀はつつがなく終了したが、この後三日かけて各国からの祝辞を受け、午後は大夜会を主催しなければならないのだ。政務はこの間宰相が代行し、女王は婚儀に専念することになっていた。
 午前中、各国要人及び各使者との会見を済ませ、日替わりで彼らとの昼の会食をし、夜会までの短い合間に休息をとる。その僅かな間隙をぬって、ガーネットは城を抜け出してきたのだ。
 誰かに洩らせば反対されるに決まっているから、もちろん誰にも告げずにこっそりと決行している。
 私室の卓上に、行き先を書いた紙は置いてきた。女王不在が誤解を生み、大事に至ることのないように、との心遣いのつもりである。
 だが単独で行動することが――それも下町に下りることがどれだけ無謀極まりないか、彼女は一向分かっていない。ある程度腕に覚えがあるのと、召喚獣の守護に寄せる絶対的信頼が、その向う見ずな自信を生んでいるのだ。
 そしてもっと大きな原因は、彼女の中に「不逞の輩」なる概念がないことであった。アレクサンドリアの民草を信頼していると言えば聞こえはいいが、要はその「やから」の類が想像できないのである。同時に彼女は、自分がいかに蠱惑的な容姿の持ち主であるか、ということも分かっていなかった。
 ただ、万民の知る自分の容を露に出来ないことだけは自覚していた。そこでとりあえず、身を隠すための手立てだけは講じて、ここまでやって来たのだった。

 外は奉祝一辺倒で、みな浮き足立っている。やたら人が多くて、誰もそれなりの身分の女性が単独で市井に下りる事など思いつかなかったために、辛うじて彼女の身は護られたのだ。これはもはや僥倖と言っていい。
 そんなことまで思い及ばぬ呑気な女王様は、さりとて表情はどことなく不安な心もとない様子で――古ぼけた小さな部屋でバクーと対面したのだった。

「で、相談ってのは何なんだ」
 切り出されて、ガーネットは俯く。耳の端までまっかっかだ。
「あの…」
「おう」
「ジタンの…ことで…あの…お伺いしたいことが、あるんです…」
 しどろもどろなのは慎重に言葉を選んでいるからだ。
「ジタンの?あいつはあんたに隠し事なんかしねえだろう。直接聞きゃあいいじゃねえか」
「ええ、でも…そのぅ…」
「なんだ、はっきりしねえな。まあいいや、ここまで来たんだ、言いたいことがあるなら言っちまいな」
「はい…」
 形のよい赤い小さな唇が、きゅっと硬く引き結ばれる。しばし息を整えて、彼女は意を決したように口を開いた。
「あの…ジタンは…男性ですよね?」
「はあ!?」
 あまりに素っ頓狂な問いに、バクーも素っ頓狂な声をあげてしまう。
「なんだ、そりゃ。あいつが女に見えるとでも?――いや見えねえこたねえが…女装すりゃそんじょそこらの娘よりよっぽど美人だしな。いや、そんなこた関係ねえか。なんでまた、そんなとんでもねえことを思いついたんだ?」
 第一、先日結婚式を挙げたばかりではないか。と、そう思ってバクーははたと思い当たる。
「もしかして、お前さんたちゃあ、ひょっとすると、まだ…?」
 満開のバラよりも尚赤く頬を染めて、ガーネットは深く俯いてしまう。そのうなじから湯気が立ち上りそうだ。それは紛れもない、無言の肯定だった。
「ううむ…」
 バクーは唸ってしまった。
 誓約の儀式から二日たった夜会の席で、ガーネットがわざわざバクーのもとにやってきて「ご相談があるのです」と告げたのは、こういう訳だったのだ。
「確かに、あのジタンがお前さんに手を出さないってのは信じられねえな」
 過去の素行からして、ジタンならすぐにでも「いただきます」とお辞儀しそうなものだった。
 再会して二年、名を偽って婚約者となってから更に二年。国が安定するのを待って、やっと華燭の典を挙げた彼の忍耐ですら、以前の彼をよく知るバクーたちには信じられないのだ。その間、ガーネットに手を出さなかった、というのだから。
 だからその反動で、夫婦であることが公に認められるや否や即行で――下世話な言い方をするなら、モノにする――だろうと、彼らは皆思っていたのである。
 ところが、誓約が済んだにもかかわらず、ジタンはガーネットを無垢なままに放っている。
 ガーネットだってジタンが女好きなのを知っている。そして、相愛する男女が最終的に及ぶ行為についても、知識としては認識している。
 ジタンがその行為に及ばないのは、彼が男ではないか、もしくはガーネットに対する想いが冷めたか、そのいずれかの理由しか考えられないのだ。
「だがあいつは紛れもなく男だぜ。正真正銘な。――それから、あいつがあんたにぞっこん惚れてるのも確かだ」
「だったら、なぜ…」
「そいつぁ本人に訊かねえとなあ」
「は、はずかしくて…私にはとても聞けません…」
 ま、そりゃそうだろうなあ。口の中でバクーはボソボソと呟いた。仮にも一国のお姫様が、何で私を抱いてくれないの、とは口が裂けても言えないだろう。
「その理由が知りたくて…。バクー親方なら、何か知ってらっしゃるんじゃないかと思ったんです」
「たとえば、あいつが不能じゃねえか、とか?」
 バクーのその言葉にガーネットは顔を上げ、憮然として言い返す。
「ジタンは馬鹿なんかじゃありませんわ。それは私でもわかります」
「いや、不能ってのはそういう意味じゃねえんだ」
「え?」
「その…まあ、なんだ。男として役に立たねえ、っていうか…」
「ジタンは立派に役に立ってくれています!あの旅でだって、今だって、いつもみんなを守ってくれて…。役に立たないだなんて、そんな…」
「いや、だから、そうじゃなくてだな」照れくささに頭を掻きながら、それでも思い切ってバクーは品のない言葉を口に出す。
「不能ってのはつまり――立たねえ、ってことだよ!」
「ジタン、立てますけど…」
 それでも見当はずれな答えを返すガーネットに、彼はとうとう業を煮やして声を張り上げた。
「だあ!!つまり、そういうことができねえ、子供が作れねえ体ってことだよ!」
「え…!?」
 ガーネットの顔がさっと蒼褪めた。さっきまでの紅潮が嘘のように。
 言った当人のバクーも自分の言葉にはっとしている。
 もしかしたら、それは図星かもしれなかった。
 息が詰まるようなしじまに一瞬支配された部屋は、二人の脳裏から全く同じ思惑を引きずり出す。
 その時階下から、この場末の宿屋を切り盛りしている年老いた支配人の声が届いた。
「バクー様、お客様がお見えでございますよ」
 バクーとガーネットは顔を見合わせる。
「私…どうすればいいでしょう」
 狼狽するガーネットの肩をぽん、と軽く叩くと、バクーは立ち上がった。
「そこのクローゼットの中に隠れてな。ここからあんたが出て行くところを誰かに見られちゃまずいからな」
 そして不意の客を迎えるために、彼は部屋を出た。
 ぱたん、と、後ろ手で扉を閉めた途端、バクーはしたり顔で口元を緩めた。
 それから吹き抜けに渡してある廊下の手摺から身を乗り出し、客人に向かって手を振った。
「おう、どうした」
「どうしたも何も――てめえで呼んだんだろうがよ」
 むすくれてバクーを見上げる青い瞳。
 客は、ジタン・トライバルだった。