One love, One heart<2>



 部屋に招き入れられたジタンは、外套を脱いで乱暴に椅子の背にかけた。 
「なんだか妙にあったかい部屋だな。っていうか、少し暑過ぎんじゃねえ?」
「うるせえ。年寄りにはこれくらいがちょうどいいんだ」
 暖炉に火をくべながらバクーが怒鳴る。これくらい燃しておかなければ、クローゼットの中でガーネットが凍えてしまう。
「ふうん?」
 半分腑に落ちないような顔でおざなりな相槌をうち、ジタンはどっかりと椅子に腰を下ろした。それから徐に話をしようとする彼を、慌ててバクーが遮る。
「おめえに聞きたいことがあるんだが」
「あ?何だよ」
 促されて、バクーはわざとらしい咳払いを一つする。
「あー、つつがなく婚礼を終えて、だな。晴れてお前たちは夫婦になったわけだ」
「はあ?いきなり何だよ、ボス。説教でも始めるつもりか?あの…ほら、来賓の祝辞みたいな奴?」
「馬鹿たれ。誰がそんな面倒くせえことをするかい。俺はだな、お前たちがちょっと心配になっただけだ」
「何でだよ。俺たちはそれこそツツガナク婚礼を終えたアツアツの新婚さんだぜ?」
「…の割には、お姫様に手をだしてねえらしいじゃねえか」
 ぎくっ。という音が聞こえたような気がする。それくらい青くなって、ジタンは固まった。額に、冷や汗が流れている。
「そ、そんなことは、ない。ないない」
 ぶんぶん首を横に振るジタン。その素振りがなお嘘臭さを助長する。
「お前は本当に嘘をつくのが下手くそだよなあ」
 呆れたように…だが慈しみをこめて、バクーが嘆息した。
「ほれ、顔に今のは嘘です、って書いてあるぞ」
「へ?うそ!」
 動転して何がなんだか分からなくなっているジタンは、両手を頬にあてて目を白黒させる。
「本当に、馬鹿だな、おめえはよ」
「ば、馬鹿馬鹿言うな!」
 バクーと話をしていると、ジタンはすぐに昔に戻ってしまう。拾われたばかりの、あどけない少年の頃に。
「で、理由を話してみろや。なんで、お姫様に手をださねえ」
 バクーはジタンの正面に座り、じっと相手の目を見据えた。
 その炯々たる眼光に貫かれて、ジタンは途惑ったように視線を逸らす。
「とぼけるのもいい加減にしろ。お姫様がな、昨夜の宴のとき、わざわざ俺のところまで来て相談していったんだぞ。あの子は…不安になっとる。お前に愛されてないんじゃないか、ってな。無理もねえよな。おおっぴらに愛を語れるようになったのに、肝心の亭主が指一本触れてこねえんじゃ、疑いたくもなるだろう」
 バクーに責め立てられて、ジタンは段々俯いてしまう。そして、彼の話が終った後、ふうっと深い溜め息をついた。
「お前…もしかして、もうガーネット姫に愛想を尽かしたのか」
「違う!」
 その言葉をすぐさまジタンは否定する。
「あいつは俺の半身なんだ。愛想尽かすことなんて、金輪際ない!」
「ならどうして――」
「恐いんだ」
 ジタンは、ぽつりと呟いた。
「あいつは、夢見てると思うから」
「夢?」
 ふっと、二度目の溜め息を洩らして、ジタンは立ち上がった。そのまま顔を隠すように窓際に寄り、浅い光の満ちる街路を眺める。
「初めての夜は、ロマンティックな雰囲気の中で、物語みたいに始まって終わるものなんだって…さ。絶対夢に描いてると思うんだよな」
 現実はそうでもなく――理性なんて途中からふっとんでしまうから、後で思い返せばそこだけ別世界みたいなものだが――それでも、最初は戸惑うだろう。そして、ジタンは悠長に雰囲気を盛り上げてあげられるだけの、自制心を持ち得る自信がなかった。一旦ことに及べば、後はただひたすら本能のままに暴走してしまうに違いないのだ。初めてである彼女の体を思いやってやる余裕さえ、持てるかどうか怪しかった。
 だから、少し頭を冷やしたかった、というのは、ある。
「けっ」
 あからさまに馬鹿にしたようなバクーの反応に、ジタンはちょっと肩を竦めて見せた。予想通りだな、とでも言うように。
「心配するほどのことえもねえな。お前があの姫様を乱暴に扱えるわけがねえだろう。心配しなくても、自然に任せとけば十分ロマンチックでムード満点の甘い夜がすごせるってもんよ」
「自然、ってのがさ。曲者なんだ」
 言外に肯定の意を含んだ言葉。ジタンは再び目を窓の外に向けた。
「特別な夜だと思うのは、ガーネットだけじゃない。――俺も、そう思ってる。そして、そういう特別な時にしたいんだ」
「どういうことだ」
「俺は、初めて女を抱くわけじゃない。だけど、ガーネットは今までの女たちとは違う。俺の中で…あいつは、特別なんだ。だから、俺は、俺自身にけじめがつけたいんだと思う」
 本能のままに、自然にまかせて「抱きたいから抱く」のでは今までと同じだと、ジタンは思ったのだ。確かに、簡単にムーディーな夜にはできる。二人の吐息が重なっていけば、自然に理性の箍は外れるし、箍が外れれば簡単に二人の世界に没頭していけるだろう。でもそれでは今までと何ら変わりがない。
 だからと言って、どうすれば「特別」にできるのか分からないから、手を出しあぐねているのである。
「まったく――大馬鹿野郎だな、お前は」
「だから、馬鹿馬鹿言うなって。自覚してんだからさ」
 ことこの件に関しては。
「あのお姫様が、自分のすべてを任せようとする男は、この世の中でただ一人だぞ。いいか、たった一人だ」
 その声に、ジタンの心が引き寄せられる。思わず彼は親方の方に顔を向けていた。
「女好きでだらしねえお前が、ここまでドツボにはまるってのも、初めてだろうが」
「…ああ」
 この言葉には同意しかねる部分もあるが、概ねその通りだと認めざるを得ない。ジタンは仕方なく頷いた。
「それのどこが特別じゃねえんだ。ああ?これ以上の特別がどこにあるんだ」
 ジタンは奥歯を噛みしめ、口元を引き締める。
「その気持ちがお互いの中にあれば、どこでどうやろうと、それは特別中の特別だぞ」
 いいか。と、バクーは強い語調で止めを刺した。
 ジタンは不思議な彩を称えた瞳を大きく見開いて、まるでたった今初めて真実に触れたように、ぎこちなく瞬きをした。
「さあ、分かったらとっとと城に戻って、姫様を安心させてやれ!」
 いつのまにかジタンの傍らに寄っていたバクーが、荒々しく彼の肩をどつく。
 二、三歩よろめいて、ジタンはやっと我に返る。「あ、ああ」辛うじて頷いて。それから彼は苦笑した。
「ありがとな、ボス」

 椅子の背にかけていた外套をとって、はにかんだように小声で零した彼の言葉は、クローゼットの中のガーネットにも確かに届いた。
 彼が出て行く足音と、重い扉が閉まる音が響く。と、すぐにガーネットの視界が明るくなった。
「待たせたな、お姫様」
 ひょっこり顔を覗かせるバクーの、悪戯っ子のような瞳の色に、ガーネットは微笑まずにはいられない。
「私に聞かせるために企んでくださったのでしょう?」
 城の中ではちゃんと話ができないからと場所を変えたい旨を伝えたのはガーネットだが、ここを指定したのはバクーだ。そして…折りよくジタンが現れたのは、この時刻にあわせてバクーが彼を呼んだからなのだろう。
「ばれちゃしかたねえか」
 ぺろりと舌をだして、それからガハハと豪快に腹をゆすって笑う。
「ありがとう、おじさま」
 ガーネットはバクーの太い首に手を回して抱きついた。
 今までの不安が、一気に幸福へと転じた瞬間。幸せで、嬉しくて――そうせずにはいられなかったのだ。
 抱きつかれた方は満更でもないらしく、相好を崩してガーネットの背中をぽんぽんと優しくたたいた。
「さあ、礼はいいからお前さんも早く城に帰りな。日が暮れでもしたら厄介だからな」
「はい」
 女王陛下はつつましく返事をすると、再び白いローブを羽織り、フードを深く被る。
「気をつけてな」
「はい」
 膝を軽く曲げて挨拶した後、彼女の姿はドアの向こうに消えた。

 ほんの数刻置いて。
 同じドアが低い音を立てて開く。
 入れ替わりに戻ってきたのは、ジタン・トライバルである。
「すまねえ、ボス。助かったよ」
「お前も情けねえ奴だぜ。面と向かって姫さんに告白すりゃあいいものを…」
「は、恥ずかしいだろーが!言えるかよ、男の口からそんな、お前は特別だからどうしていいかわらないんだ、なんて。やっぱカッコよくリードしてさ、余裕綽々でいたいだろ」
「そういうのを短慮、とか浅はか、って言うんだぞ。覚えとけ」
「だってさあ」
 頬を赤らめて顔をしかめるジタン。
「まあ、いいやな。お姫さんの誤解も解けて、晴れて今夜はお前らの初夜だ。な?」
「あからさまに言うなよ」
 ますますジタンの顔が赤くなる。
「ガハハハ。若いからな。忠告しておいてやるが、初めてなのに何発もやるのは止めといた方がいいぞ」
「エロ親父!」
 もう完全に火を噴きそうなジタンは頭の中身までまっかっかになったらしく、それしか言えない。
「くそエロ親父〜!!」
 ジタンのわめき声とバクーの楽しそうな大きな笑い声が部屋に満ちる。
 真赤になってバクーに悪態をつきながらも、ジタンは内心ほっとしていた。
 やっと、これで踏ん切りがつく。一歩、踏み出せる、と。

 だが、それは、別の意味で「甘い」予見でしかなかった。
 その夜、女王陛下は城に戻ってこなかったのだ。
 城で最後の夜会が催されると言うのに。