One love,
One
heart<4>
「にいちゃん、いいのかな」
「しかたないだろ、手っ取り早く金を稼ぐにはこれしかないんだから」
遠くで人の話し声がする。
ぼんやりと霞がかかったような意識。ガーネットは重たい目を無理やりこじ開けた。
真っ先に飛び込んできたのは、アーチ状の木枠に掛けられた白い布だった。
横たわっている自分の体に響いてくる低い振動が、ここが乗り物の中であることを教えてくれる。
体はどこも痛くない。ただひたすら水を吸った真綿のように、どこもかしこも重たいだけだ。動かすのは億劫だったが、彼女は何とか体を起こした。
「あっ!」
その瞬間、びっくりしたような声が上がった。まだ若い、幼さの残る声だ。
「起きたのか」
それに被さるように、彼女に向けて発せられた言葉。こちらは、さっきの声よりは落ち着いた響きを持っている。だが、若々しい声であることに違いはない。
ガーネットはゆっくりと、その二つの声のする方向にかぶりを向けた。
ぼんやりと揺れる視界に二人の人間の姿が飛び込んでくる。どちらも縮れた赤毛を短く刈り込み、僧服を身に着けていた。ターコイズブルーの瞳が怯えたようにこちらを伺っている。手綱を握っていた一回り体の大きな青年の方が、握っていた手綱を隣の少年に渡し、帆布をかけた車の荷台に上がってきた。
何者なのです、と叫ぼうとして、ガーネットは慄然とする。
声が出ない。
「ごめんな。人が多くて、声を出されちゃかなわなかったから、サイレスの魔法をかけさせてもらったんだ」
見たところ十七・八の若者だった。
「にいちゃんは、頭が良いから、なんでもできるんだ。うちの近くのお寺で坊さんたちが魔法の練習をしてるの聞いて、それで覚えちゃったんだよ」
「マロート、余計なことを言うんじゃない」
「あ・・・ごめん、にいちゃん」
「あんたに傷は負わせないよ。きっと、どこか貴族のお嬢様なんだろう?あんた――すごく綺麗だ。だから、これなら売れるって思ったんだ。俺たち、子供には手を出したくなかったし」
とりあえず、青年は必死になって言い訳をしているのだ。自分が彼女を拉致してしまったことを、悪いことだとは思っているのだろう。
ガーネットは指で彼の僧服をさし示す。
仮にも僧侶たるものが、こんなことをしてよいのか、ということを伝えたかった。
相手の青年は確かに頭はいいのだろう、すぐにそれと察して苦笑した。
「これも、無断拝借したんだ。その・・・往来を行き交ってた坊さんからさ。あ、でも眠ってもらっただけで、殴ったりしてないぜ」
「にいちゃんは、スリプルの魔法もできるんだ」
少年がニコニコして振り返る。
「マロート」
「ごめん、にいちゃん」
首を竦め、あわてて正面を向きなおす少年。どうやら極めて口が軽い兄弟らしい。
ガーネットはなんだか複雑な気分になってくる。
弟の背中を見つめる兄の目が、こよなく優しかったからだ。少なくとも、そんなに悪い人間じゃない。なのに、なぜこんなことをするのか。ガーネットには理解不能だった。
「そんな目で見ないでくれよ。…わかってる。悪いと思ってるよ。でも、しかたなかったんだ。金がすぐ必要で…それも大金が必要で。俺たち、その日食べるものですら手に入らないんだ。仕事をしようにも、どこも雇ってくれなくて、しょうがないから街を出て畑耕して暮らしてたけど、ここんとこの戦争で畑は何にも実らなくなって、街に戻ったんだ。だけどやっぱり働き口はなくて。しょうがないから兵隊にでもなろうと思ったんだけど、兵隊は字を読めないとだめだって。十五になる前だったら、雇った後、お城で字も教えてくれるらしいけど、それを過ぎたらもうわざわざ教えてくれないって。だから他の職を探せって追い返されてさ。なのに母ちゃんが倒れて…どうしようもなかったんだ。…ごめんな。ほんと、ごめん」
目の前が暗くなった。サイレスの魔法のおかげで、口はきけない。だが、話は通じそうな相手だったから、筆談で事情を伝え、あわよくば説得しようと思っていたのだ。だが、この兄弟は字が読めないという。これでは、意思の伝達のしようがなかった。
ずっと頭を下げ続ける彼を、困ったような顔でガーネットは見つめた。諦めたようにふっとため息をつくと、彼女はそっと手を差し伸べ、相手の肩に置く。
びっくりしたように顔を上げる青年に、ガーネットは首を振って見せた。
もういい、というように。
青年は、絶句する。
「あんた…、あんたって、顔かたちだけじゃなくて、心まで天使みたいな人なんだな」
「天使って言えばさ、俺と兄ちゃんの名前は、天使さまからもらったんだ。母ちゃんが言ってた。いつか空から天使さまがやってきて、自分たちと同じ名前がついている人間を救ってくださるんだって。だからお前たちには天使さまと同じ名前がついているんだよ、って」
弾かれたように、後ろを振り向いて明るい声を上げる少年。だが、すぐに瞳を曇らせる。
「かあちゃん、大丈夫かなあ。お金間に合うかなあ。お医者さん、来てくれるかなあ、ねえ、兄ちゃん」
「大丈夫さ。金さえ手に入れば、来てくれる。それよりほら、前を向いてないと、チョコボが変な方向に行っちゃうぞ」
「あ、ごめん、にいちゃん」
こういう状況下でさえなければ、非常にほほえましい兄弟の姿だった。だが、半分諦め気味とはいえ、単純に笑ってもいられない。ガーネットは青年の僧服の袖口をひっぱり、注意をこちらに向けさせる。そして、指で自分の口を示し、一語一語区切るように、『元に戻して』と唇を動かした。
だが青年は、弱り果てた表情で、頭をかいて答えた。
「ごめん。俺、耳で覚えただけだから、――解放の呪文知らないんだ」
『や・ま・び・こ・そ・う』
「やまびこ草は、干して燻して加工しないと効力を発揮しない。…加工してあるやまびこ草は、店にしか売ってなくて…。ごめん、俺たち、一文無しだから…」
がっくりと、ガーネットは項垂れた。本当に打つ手はなくなってしまった。あとは、ベアトリクスがこの異変に気づき、自分を探索してくれるのを待つしかない。
彼女は、また女将軍に迷惑をかけてしまうことになった自分の短慮を悔やんだ。
――あの時、不意に意識を失ったのは、きっとスリプルの魔法をいきなりかけられたからなのだろう。そして同時にかけられたサイレスの魔法は…やまびこ草かエスナの魔法がなければ解けることはない。となると、ガーネットには身に降りかかる危険を防ぐ手立てがないということだ。
あまりにどんよりと暗く落ち込んだ様子のガーネットに、青年は胸が痛んだらしい。
「あ、だけど、これ」
懐から乾した杏をひとつ取り出して、ガーネットの目の前に差し出す。
「腹減っただろ?これ食って、少し横になっててくれよ。もうすぐ、目的地に着くからさ」
彼らにとっては、食料は何よりも大切だった。どんな宝石より、食べ物を差し出された方が嬉しかった。彼の差し出した杏は彼らの宝だったし、そしてそれを差し出すことは、彼なりの精一杯の償いの気持ちだったのだ。
ガーネットは顔をあげ、目の前の杏を見つめた。
それからそれを手のひらに載せたまま突き出している、人のよさそうな赤毛の痩せこけた青年を見上げた。
ガーネットには、その小さな果実に込められた想いを理解することはできなかった。理解するには生きる世界があまりにも違いすぎた。
だが、ひもじいことがどんなに辛いかは知っている。
あの旅で、何度も経験したから。
力なく笑う青年の手を、ガーネットは優しく包み込み、そっと、押し戻した。
『ありがとう。でも、いい』
唇を動かして伝えようとする。青年はさらに困ったような顔つきになった。もう、半分以上泣きそうだ。
「もらってくれよ。じゃないと、俺…」
青年はガーネットの手をとって、無理やり果実を握らせた。
そして、ふいっと顔を背け、弟の傍らに戻って行った。
「にいちゃん、もうすぐ街道が終わるよ。山の麓に着いたら、アンガスさんたちが迎えてくれるんだよね」
「ああ。そこで飛空艇に乗換えだ」
「なんでアレクサンドリアまで飛空艇で迎えに来てくんないのかな」
「ばか。すぐばれるじゃないか。人買いの船なんて人目につくところにあったらまずいだろ」
「あ、そっか」
弟は、先ほど兄がしたように頭をぽりぽりと掻いた。判で押したように同じ仕草だった。
いったいどこが目的地、なのか。そしてそもそもここはどこで、自分はどこに連れて行かれようとしているのか。おかしなもので、そばに人がいなくなると急激に不安が襲ってくる。
もしかしたら、ここでこの車から飛び降りた方がいいのではないかと、ふと彼女は思った。
だが、自分の位置がつかめない状態で自由になっても、彼女に帰り道がわかるわけがない。こうして城の外に出てしまうと、いつも自分の無知を思い知らされるのだ。
突然車ががたがたと激しく揺れだした。街道から外れ、道なき道を馬車がひた走り始めたのだ。
そしてその振動に紛れて、大きなエンジン音が上空から降ってくる。
「あ」
弟、マロートの声が上がった。
飛空艇が到着したのだ。
砂埃を巻き上げながら、飛空艇が高度を落とす。はしごを使って二人の屈強な男が降りてきた。どちらも極めて柄が悪い。二人とも禿頭で、後頭部に刺青を施していた。アンガスに雇われている証なのか何なのか、不思議な紋章のような図形が青く浮かび上がっている。
彼らは荷台を覗き込んだ。
そのとたん、ほお、っと目を見張った。
「すげえ。こいつぁ上玉だ。少々年は食ってるみたいだが…でもこれならお館様も喜ぶぜ」
ごつごつした大きな手がガーネットの頬を引っつかむ。彼女は嫌悪もあらわな表情でその手を避けた。
「こいつ」
男の額を怒りが走る。
殴られる。ガーネットは目をつぶり、衝撃に耐えようと身構えた。
「その人に傷をつけるな!」
痩せこけた青年が怒鳴る。どう考えても男の方が強そうなのに、男は気圧された様にいったん振り上げた手を止めた。
「やめとけ、この貧乏人の言うとおりだ。これだけの上玉は滅多に手に入らねえ。傷が残りでもしたら、お前お舘様から殺されるぞ」
地面に残ったもう一人の男が、皮肉な笑みを浮かべて車上の男に言った。車上の男は怒りが収まらぬ様子で出てくると、行きがけの駄賃に青年の顔を思いっきり殴り飛ばした。
ただでさえ痩せて細い青年の体は、簡単に草むらの中まで吹っ飛ぶ。
「にいちゃん!」
弟が泣きそうな声を上げて飛び降りた。
ガーネットもとっさに飛び降り、青年に駆け寄る。
男たちが気づいて止める暇もなかった。
「大丈夫だ、これくらい。俺、殴られなれてるから」
自分を覗き込む二つの心配そうな顔に笑いかけて、青年は身を起こした。
と、その目の前でガーネットの体が軽々と宙に浮かぶ。
先ほどの皮肉な顔の男が、彼女を抱え上げたのだ。ガーネットは身をよじり、手足をばたばたさせてその手を逃れようとするが、男の手はびくともしない。
「D。この娘を縛り上げてくれ」
男は彼女を横抱きにして、さっきの乱暴な男に手渡した。
「ああ。わかった」
Dと呼ばれた男は、荒縄でガーネットの体を慣れた手つきで見る間に縛り上げた。彼女の体を傷つけることなく、完璧に自由を奪う。
「そんなひどいこと…」
気色ばむ青年に、皮肉な男が顔をつきつける。
「うるさいぞ、お前。ここからは俺たちがこの女を預かる。お前たちは用済みだ。心配するな、値段をつけるのはお館さまだが、この女なら大金が貰えるだろう。それまで黙ってろ。とくにDの機嫌を損ねたら…お前、殴り殺されるぞ。お前が死んでも、誰も困らない。お舘様だって、金を払わずに済む。なのに、そうせず、お前たちを屋敷に招き、この娘を連れてきた褒美をちゃんと支払ってくださるアンガス様の寛大さに感謝するんだな」
猫をなでるような優しい声だが、なぜだか聞くものをぞっとさせる。それはこの男の、光の感じられない細い目のせいかもしれない。
低く笑って、男は顔を離した。
「覚えておけ若造。俺はX。あいつはD。アンガス様の直属の部下だ」
「俺はハルト」
「誰もお前の名前なんぞ聞いてねえ!」
横合いからDがいきなり入ってきて青年を蹴り上げた。
腹に一撃を受けた青年は、体を折って、地にうずくまる。
「兄ちゃんに何するんだ!お、おいらはマロートってんだ!俺たち、天使さまに守護されてるんだぞ!いつかお前たち、罰が当たるぞ!」
言い終わらぬうちにマロートの小さな体も吹っ飛ばされる。
「やめておけ、D。こんなやつらを殺しても意味がないだろう。かえって足がついて動きにくくなるだけだ。それにこのうわさを聞いたら誰も人を売りに来なくなるぞ」
嘲笑するような言い方。
がんじがらめにされたガーネットは、さっきからはらわたが煮えくり返って仕方がなかった。
もしサイレスさえかかっていなければ、こんなやつらはバハムートで黒焦げにしてやるのに!
柳眉が逆立っていることに、Xが気づいたらしい。またあの不気味な引きつり笑いを浮かべて、今度はガーネットの方に寄ってくる。
「娘。お前の顔はどこかで見たことがある。だが、思い出さなかったことにしておくよ。幸いにも、今口がきけないらしい。きけたら…大変だったな」
のどの奥でくつくつと笑って、Xはガーネットの顔に自分の顔を近寄せた。
顔立ちそのものは整っている部類に入るのだ。だがその撒き散らす雰囲気が、あまりに醜悪に過ぎる。ガーネットはぞっとして顔を背けた。自由を奪われた今、それしかできなかった。
Xはそっとガーネットの頬に手を掛ける。先ほどのDの乱暴な扱いとは正反対の、優しげな手つきで。だが、それがなおさら彼女を怯えさせた。まるで死人のように冷たい手だったのだ。
ジタン!
ガーネットはぎゅっと目を閉じ、唇を引き結んだ。無理やり重ねられた男の唇が、それ以上自分の中に割り込んでこないように。
ジタン!助けて!
声にならない悲鳴が体の中を駆け巡る。
男はすぐに唇を離した。そして立ち上がるなりDに命じる。
「さあ、すぐに出発だ。お舘様もお喜びになるぞ。こいつはまさに上玉だ。しかも、手付かずのな」
ガーネットの顔がさっと紅潮する。
この男はいったい何者なのだ。
その片鱗を匂わせるように、Xは視線だけをガーネットの上に落として、にやりと笑った。
「想い人はジタン、というのか。そいつが来ないうちに、さっさとあんたをどこかに売り飛ばさなきゃな」
人の心が読めるのだ。この男は。そういう特殊な能力を持っているのだ。
ガーネットは愕然とする。
彼女が何者であるかも、この男にはばれているはずだった。なのに、何の反応もないことが、恐ろしかった。
Xの洩らした、「見たことがある」という言葉の裏に隠された真意を、ガーネットはまだその時気づくことができなかった。
一足飛びに飛空艇でダリの村までやってきたジタンは、そこでとりあえず変装することにした。といっても、目立つ尻尾を隠すだけだが。
だぶだぶの農作業用のズボンにはきかえ、ダリの村で譲ってもらった村人の古ぼけたシャツを着込む。頭をわざとくしゃくしゃにして、顔にチョコボの糞を塗りたくって終わりだ。
「ちょっと栄養状態がよすぎるけど、いいだろ」
宿屋の姿見に映る自分の姿に苦笑しつつ、ジタンは洩らした。
「親父、ダリからアンガス様のお屋敷までどんくらいだい?」
宿の代金を支払いながら、さり気なくジタンは尋ねる。
宿屋の親父はいぶかしむように、目前の男の顔を見つめた。
「あんた…まさかお役人じゃないだろうね。」
「まさか。人を見て物を言えよ。俺がそういうのに見えるか?」
「…そうだな。いや、何、アンガスさまのところから、きつく言われてるものだからね。役人らしきものが現れたらすぐに知らせるようにって」
「へえ。最近敏感なんだ。じゃあ、警護もすごいんだろうな」
「そりゃあね。ところで、アンガス様に何の用事だい?」
「雇ってもらおうと思ってね」
「へえ…あんたも食い詰め物の一人か」
「そんなところさ。っていうか、普通の仕事じゃくそ面白くなくてね。もっと暴れられるのがいい。腕に自信はあるからな」
不敵に笑うジタンの背後に、人影がさす。
「親父、こいつか?役人らしいっていうのは」
禿頭の男。後頭部の刺青。アンガスのところの手下だった。
宿屋の親父は苦笑いしながら両手を顔の前で振った。
「すまん、すまん。わしの勘違いだった。この人は、アンガス様のところで雇ってもらいたいんだと」
「ほお?それはまただいそれた野心だな」
「ご挨拶だね。野心なんてそんなたいしたもんじゃない。雇ってもらうのなんて簡単さ。俺は強いから」
平然と言い放つジタン。
男は目を吊り上げる。
「ふっ、ほざいてろ。それも今のうちだ」
言い終わらぬうちに、男の鉄拳が飛ぶ。が、それをなんなく交わして身を沈め、次の瞬間にはジタンは男の鳩尾にボディーブローを咬ましていた。体重の乗ったいいパンチである。
ぐっ…という唸り声を残して、男はどうっと床に倒れ伏した。あまりの衝撃に、気絶している。
あんぐりと口を開け、絶句して見守る宿屋の主に、ジタンはウインクをして見せた。
「さあ、アンガス様に連絡してくれ。…あんた、そういう係なんだろ?」