One love,
One
heart<7>
市が立つ寸前の異様な熱気が室内に満ちていた。それほど大きな建物ではない。ここも、煉瓦造りの倉庫のひとつである。
その狭い場所に、芋の子を洗うようにひしめいている人間たちは、主に富裕な商人か貴族だった。彼らは己の素性が明らかになるのを嫌う。そのため、ここには覆面が常備されていた。目の部分だけがくりぬかれた、黒い布袋。ここにいる者は全てそれを被っている。
その黒の群れが、中央にしつらえられた二つの円舞台を取り囲んでいた。
売られる人間はセリで次々に上がってくる仕組みになっている。逃げられないように、両手両足を杭に縛り付けられた状態で。
舞台が小刻みにゆれ、大きな音がし始める。セリが動き出したのだ。集まった群衆は固唾をのんで、登場する女を待ち構える。
まず杭が見えてくる。
そして次に売られる人間の顔があらわになる。そのとたんどっと喚声が沸いた。現れた女性のあまりの美しさに観衆は度肝を抜かれたのだ。
どこか女王に似ていると思った者もいた。だが、よもやその本人がこんなところにいようとは誰も思わない。ガーネット女王によく似た女が売りに出されているとあれば、買いに走らない者はいなかった。全貌があらわになる前に、はや値を叫ぶ声があちこちから上がり始める。
セリは徐々に上がってくる。彼女が身に着けているのは、素肌が透けて見える薄い布地でできたブリオーだけだ。
肩先が露になり、やがて胸が見え始めると、もはやそこは興奮の坩堝と化した。形のよい白く豊かな二つの膨らみを少しでもよく見ようと、群集がどっと舞台に押し寄せた、瞬間。
突然どん!という大音響とともに、舞台の周囲に黒煙がたった。その途端、部屋の中が真っ暗になる。――いや、真っ暗になったと人々が思っただけで、実際に明かりが落ちたわけではない。
その証拠に、杭に縛り付けられた彼女の目には、天井からロープを伝って降りてくる人の姿がはっきりと見えた。
ガーネットは既に諦めきっていた。
あの湯浴みをさせにきた男が手足を縛っていたロープを外すや否や、そこにあった椅子で思いっきりそいつの頭をぶん殴った。男を失神させたのはいいが、そこから逃げ出そうと廊下に出た途端、監視の男に見つかってしまった。彼女の足では逃げ切れるものではない。結局、湯浴みは免れたものの、そのまま三番倉庫に送り込まれてしまった。
そこで着替えをさせられ…地下室に連れて行かれ、セリに載せられたのである。
絶望で目の前が暗くなっても、最後の最後まで、誰かが助けに来てくれると信じたかった。
それはベアトリクスかもしれないし、スタイナーかもしれない。
最愛の人かもしれない。…女王の不在で国務を任されているはずの彼が、城を抜け出すのは難しいと判っているけれど。
それでも、諦めたくはなかったのだ。
しかし…。衆人の前に裸体同然の姿が晒されることなど、彼女には耐えられそうになかった。もはやこれまでかと思ったその時、大音響が鳴り響いたのである。
何がそうさせたのか――無意識のうちに彼女は天井を仰ぎ、そして――心臓が潰れそうになった。
光の中にきらきらと輝く金色の髪。
声にならない声で彼女は叫んでいた。
ジタン!
ロープを伝ってあっという間に滑り降りてきた彼は、目にも留まらぬ早さでガーネットを自由にすると、思いっきり抱きしめた。
「怖かったろう?もう大丈夫だからな」
耳元で囁かれる懐かしい声。懐かしいジタンの匂いに、ガーネットは堪らなくなって彼の首にかじりついた。ジタンはさらに腕に力をこめ、黒髪をまさぐる。
もう二度と離さないから。
そう呟いて、彼はガーネットの白い小さな顔を両手で挟み込んだ。
「刀魂放気で一時暗闇にしているだけなんだ。多分そんなに持たない。逃げるぞ!」
手挟んでいた拾い物のオーガニクスを床に放り投げて、ジタンはガーネットを肩に担いだ。
「しばらく我慢してろ!」言うや否や再びロープに右腕一本でぶらさがり、反動をつけて飛び降りた。
突然の暗闇に、訳がわからないまま右往左往する黒い覆面の群れのど真ん中に着地する。
何人かを下敷きにしてしまうが、とりたてて怪我させるほどではない。ジタンはガーネットを担いだまま、慣れた様子で人波を掻き分け、あっという間に出口にたどり着いた。
「ここから、走るぞ」
肩からガーネットを下ろし、その小さな手を握り締める。ガーネットも精一杯力を込めてジタンの手を握り返す。しっかりと固く手をつないで、二人はいっせいに駆け出した。
背後で「女が抜けたぞ!」という監視役の男たちの叫びが上がった。さすがに発見が早い。
その声に呼応するように、「こっちにはいない!」「向こうだ!」という声が飛び交う。ジタンはさっき駆け回ったときに見つけておいた建物の間の狭い通路に身を潜め、追っ手が過ぎるのを待つことにした。
このアンガスの館をはじめとする集落は、城壁代わりの通路に囲まれている。その通路の節目節目にポートがあり、広間があり、そして宿舎が設けられているのだ。外に出るためには、どこかの節目を突破しなければならない。
監視の目が薄い場所を見つけて移動するしかない。ジタンはそう思っていた。
そのためにはとりあえずこの場の監視者たちをやりすごさねばならない。木箱の散乱する狭路に屈み込み、ジタンはガーネットを引き寄せた。
自分の上着を脱ぎ、彼女をくるみこむ。
「オレとしては、そのままの方が嬉しいんだけどさ」そんな馬鹿なことを口にしながら。
ぶかぶかの上着に袖を通して、ガーネットはぎゅっとジタンに抱きついた。
ありがとう、ジタン。
そう言おうとして、彼女ははっとする。声が出ないのを思い出したのだ。
『サイレスを、かけられているの』
ハルトにしたのと同じように、口を一生懸命に開けて、その動きでジタンに状況を伝えようとする。
ジタンは彼女の唇にそっと手を当てた。
「大丈夫だ。オレが解放の呪文を知っているから」
え?と目を丸くするガーネットに、ジタンは悪戯っぽく笑いかけた。
「知らないのか?この世で一番の魔法は愛のチカラなんだぜ」
そう言って、彼女を引き寄せ、唇を重ねた。
「ん…」ジタンが口移しで自分に含ませたものを、ガーネットは思わず飲み込んでしまう。
「な、何を飲ませたの?」
一旦顔を離して訊ねる彼女の唇をすぐにジタンは塞ぎ直した。
溢れる気持ちが抑えられないように、深く深く口付ける。
ジタンのありったけの想いを感じ取って、ガーネットはそっと目を閉じた。
最初は薬を飲ませるためのキスだった。だが、ガーネットの柔らかい唇を感じ取った途端、ジタンの熱情はとまらなくなってしまった。
数日の別離が、彼女の存在を彼に思い知らせたのだ。
愛しいなんて半端な気持ちじゃなかった。どれほど心配したか、彼女を腕の中に取り戻してどれほど安堵しているか。
言葉では言い尽くせなくて、もどかしくて、ただ抱きしめることしかできなかった。貪るように唇を重ね、舌を絡ませる。
心が溶け出し、ひとつに交じり合うような気がした。
息をつくためにガーネットが離れようとする。が、ジタンは彼女を逃がさなかった。何度も何度も唇を重ね合わせ、彼女の全てを味わい尽くそうとする。
ガーネットの体から力が抜け、自分の体に彼女の重みがしなだれかかってくるのを感じて、やっとジタンは彼女の唇を解放した。
だがその代わりに彼女の細い体をぎゅっと自分の胸に抱きこむ。
「ほら、声が出るようになっただろ?」
自慢げに囁くジタン。
「もう」
くすくすと笑って、ガーネットはジタンの頬に顔を寄せた。
「ありがとう、ジタン。…大好きよ。世界中の誰よりも大好き」
そして彼の首に腕を巻きつけた。
ジタンは嬉しそうに彼女の頬に頬を寄せて目を閉じる。
「わかってる。そんなの。…それからさ、無事に逃げられたらさ。ちゃんと…」
「え?」
「ちゃんと、俺のものだって印をつけさせてもらうから」
「え…」
ガーネットの顔が火を噴く。上着をはだければ、きっと全身が同じように朱に染まっているのではないかと思われるくらい、まっかっかだ。
「いい?」
応える代わりに彼女は腕に力を込め、ささやきを返す。
「大好き」
「よし!じゃあ、張り切って逃げよう」
ジタンは立ち上がり、オリハルコンを抜いた。そしてガーネットとまた手をつなぐ。
「いいか、俺の手を絶対離すな」
「はい」
つつましやかに、しかし全幅の強い信頼を込めて、彼女は彼の目を見つめ返した。ジタンはふっと優しく笑って、もう一度だけ彼女に軽くキスをする。
「行こう」
そして二人は再び走り出した。