〜おくつきに瞑る夢〜


第一章  罠(2)



 帰着したジタンを待ち受けていたのは、司法長官とスタイナー将軍だった。飛空艇から降り立つなり彼は捕縛された。
「何の真似だ?一体」
 いぶかしむジタン。だが、彼は少しも動揺した素振りを見せなかった。冷静沈着に事態を把握しようとしたのだ。それは彼の胆力のなせる業だった。どんなに唐突で意外なアクシデントに遭遇しようと、彼は常に臨機応変に対処することができる男なのである。だがそれを知るのはこの国ではスタイナーと女王のみであり、それ以外の人間の目には、彼のその反応はむしろ横柄な開き直りと映った。ゆえに後の裁判でこのときの彼の態度が不利な証拠として上げられることになるのである。
 両手にかけられた縄を信じられないように見下ろし、ジタンはもう一度だけ、スタイナーに向かって尋ねた。
「将軍。これは何なんだ」
 答えようとしたスタイナーを遮るように長官がすっと前に身を滑り込ませた。背の高い怜悧な印象を与える痩せぎすの男だ。だが世間では高邁で正義漢、清廉潔白の士として名を馳せる人物でもある。その分罪を憎む気持ちが強く、犯罪者に対する尋問が熾烈を極めることでも有名だった。
「女王陛下暗殺未遂教唆のかどで、あなたを逮捕いたします。弁明は後ほどうかがいましょう。牢獄で」
 長官がにべもなく言い放つ。
 途端にジタンの顔色が変わった。耐えられないほどの衝撃だった。
「女王暗殺!?何だと!?ガーネットの身に、危害が及んだのか!?」
 とっさに身を捻って縄を解こうとする。今にも駆け出しそうなその体を警邏の兵士が数人で取り押さえた。
「今更演技は見苦しいですぞ」
 力任せに兵士を振り払い、さらに口を歪ませる司法長を体で押しのけて、ジタンはスタイナーににじり寄る。
「どうなんだ!ガーネットは無事なのか!?スタイナー!!」
 すぐに先ほどに倍する人数の兵士にのしかかられ、ジタンは床に押さえ込まれた。
 血の気を失って自分を見上げているジタンをスタイナーは無言で見つめた。それが嘘をついている顔なのかどうか、彼にはすぐに理解できた。
「ご無事だ。肩先から袈裟懸けに切られたが、傷はそれほど深くはない。ただ太い血管が損傷していて、出血がひどかった。かなりお体が弱られておるが――しかしお命に別状はあらせられぬ」
 ジタンの顔に赤みが戻ってくる。全身に安堵感を漂わせて、彼はほっとため息をついた。
「スタイナー殿。余計なことを申されるな。まるでこの男と共謀しておるようにすら見えますぞ。ご自分の言動にはよくよく注意なさることだ」
 司法長がこれ見よがしに嫌味を言う。
 前の戦役で功をなしたジタンとスタイナーの関係を知らぬものはない。嫌味ではあるが、司法長官の言葉にも一理ある。同様な見方をする輩もおそらくこの国には大勢いよう。
 ジタンはそれを悟ってすぐに口を噤んだ。
 不用意な自分の一言がスタイナーをも窮地に追い込むかもしれないと思ったのだ。
「立て」
 兵士に乱暴に小突かれて、ジタンは立ち上がらされた。
「濡れ衣だ。俺は――何も知らない」
 最後に、ジタンは静かに明言した。誰にともなく。あえて言うなら、その場に居合わせたすべての者たちの耳に届くように、しっかりとした口調で。
「ごたくを並べるのは後にしてもらおう。ひったてい!」
 真摯な情を込めたジタンの言葉を聞かばこそ、司法長官は冷たく配下の兵士に命令を下す。
 ジタンは目を閉じ、唇を引き結んだ。己の潔白を己で証明することがもはや適わぬことに、そのとき彼は思い至った。

 床に臥せた状態でガーネットはジタンの帰着の報告を受けた。
 同時に、彼女を襲った男がかつてジタンがリンドブルムで雇っていた使用人であったこと、そして彼を唆して凶行に及ばせたのがジタンであることを聞いた。
「嘘です」
 苦しい息の下で、ガーネットはそう断言した。
 奏上したのはシェダ卿である。本来ならベアトリクス将軍が行うべきだったが、彼女にはどうしても真実を告げることができなかったのだ。
 黒幕がジタンであることを知ったら、女王がどうなるかベアトリクスには簡単に想像がつく。
 ジタン・トライバルは女王のすべてなのだ。女王が女王として懸命に立っていられたのはジタンの存在があったからなのである。誰も彼の肩代わりなどできない。なのに、その男が完全に抹殺されてしまったら――陛下は、生きていられなくなるかもしれないと、ベアトリクスは思った。想像しただけで、ぞっと肌に粟がたつ。
「私も信じられませぬが」
 傍らにベアトリクスを控えさせて、シェダ卿は嘆息した。
「しかし取調べをなさったのはベアトリクス将軍直々でございますからな…。おそらくはそれが事実かと存じます」
「嘘です」
 だが、ガーネットは頑なに認めようとしなかった。
「第一、私を亡き者にして何の得があるというのです。ジタンが私を殺める理由がないではありませんか」
「ガーネット様」
 部屋の隅に控えていたベアトリクスが、堪えきれなくなって立ち上がった。
「私も信じられません。いえ、信じたくもありません。が、もしこれが真実であった時のために、どうかお心を強くお持ちください…そして、ベアトリクスめが申し上げる事どもにどうか耳をお貸しくださいませ」
 ガーネットは無言で天井を見詰めていた。見つめる、というより、睨みつけていると言った方が的確かもしれなかった。
「男の供述するところによりますと、ジタン・トライバルは己の財産を手放すのが嫌になったらしいというのです。先日からジタンは閉ざされた大陸の地質調査に赴いておりました。その結果、かの地に大量の金鉱が埋蔵されていることが分かりました。それからジタン殿は人が変わってしまったと言うのです。決して自分の名を洩らしてはならぬと念を押され、口止め料としてリンドブルムの郊外に屋敷を貰ったと。が、己のなした過ちに気づき、恐ろしくなって真実を語ったのだと申しておりました」
「嘘です!」
「お恐れながら、陛下。その男がジタンから貰い受けた屋敷は、確かにリンドブルム郊外に存在するのです」
 それはとどめに等しかった。
 もちろんそんな瑣末な事柄など、ガーネットにとっては片腹痛い程度の証拠でしかない。だが世間はそうは思わないだろう。世間だけではない――その事実は、この宮廷の並み居る貴族たちにも彼の謀計を信じさせるに足る証拠となるに違いないのだ。
 ガーネットは痛む体を起こした。苦痛に顔を歪ませる。とっさに押さえた肩に巻いた包帯が、瞬く間に朱に染まった。体を少しでも動かせば容赦なく出血する状態なのだ。
 慌ててベアトリクスが女王の体を支えようとする。だがガーネットはそれを拒んだ。
「大丈夫です」
 言いながら立ち上がろうとする。
「陛下!無茶です!」
 ベアトリクスがガーネットの許可を待たず彼女の体に腕を回した。その腕を熱い手で抑え、ガーネットは汗の滲む顔をベアトリクスに向けた。
「将軍。女王の命令です。私を、ジタンのところへ連れて行きなさい」
「そのお体では…」
「命令です!」
 ベアトリクスは体を強張らせた。これほど強い語調でガーネットが他人に命ずることは、未だかつてなかったのだ。
 彼女は頬を引き締め、静かに拒否した。
「なりません」
「ベアトリクス!女王の…」
「いかな女王陛下の命令でも、こればかりは聞き入れられません。まずは陛下のお体が大切です。処罰ならば如何様にもたまわります。覚悟はできております。私は、この命に代えましても、ガーネット様のお体をお守りいたす所存ですゆえ」
 ガーネットも頑固だがベアトリクスも引けをとらない。ガーネットはしばらくベアトリクスを睨みつけていたが、やがて根負けしてベッドに腰を下ろした。
 シェダ卿がほっと胸をなでおろしているのが見える。それを目の端で捉え、ベアトリクスはそっとガーネットに耳打ちした。ふっと、ガーネットの頬に喜色が走る。が、すぐに口元を引き締め、彼女はかすかに肯いた。
「シェダ卿…私はもう寝ます。その前に汗で濡れた夜着を着替えたいの」
 疲れたように洩らして、ガーネットがベッドに横たわる。
「は、では私めはこれにて下がらせていただきます」
 この重苦しい雰囲気から逃れられるとあって、彼はそそくさと部屋を出て行った。
 彼の足音が遠のいたのを確認して、ベアトリクスは一礼すると部屋を出た。警邏の兵士の目を盗むように足音を忍ばせながら彼女が向かったのは、西の牢獄だった。

「よろしいですね。時間はきっかり一時間。次の見張りが見回りを開始するまでです。できるだけ急ぐように」
 後ろに長いローブを被ったいやに背の高い娘を従え、ベアトリクスは辺りに目を配りながら足早に女王の居室に向かう。背後の娘は押し黙ったままわずかにフードを揺らした。
 目的の場所にたどり着くと、ベアトリクスは最後にもう一度だけ念を押した。
「時間になったら私が呼びに参ります。それまでに用件は済ませてくださいませ」
 娘は肯き、扉を開けて身を滑り込ませた。
 ベアトリクスは祈るような気持ちで扉の前を離れ、廊下すべてが見渡せる警邏の所定場所についた。
 猫の子一匹、その部屋には近づけぬために。

「ダガー!」
 部屋に入るなりフードをはねのけ、ジタンはベッドに駆け寄った。
 痛む体をおして起き上がろうとするガーネットの背中に手を回し、しっかりと支えてやる。
「ジタン…」
 汗で額に髪が張り付いている。それを指で優しく払いながら、ジタンはガーネットの顔を間近で見つめた。
「大丈夫…じゃなさそうだな。痛むか?」
 ガーネットはかぶりを振る。そうしてジタンの肩に頭をもたせかけた。
「私のことなら心配しないで。命にかかわるような怪我ではないわ」
 言葉とは裏腹に、また血が滲み始める。ジタンは眉宇を顰め、彼女を寝かせようとした。
「いやよ。このままでいて」
 駄々をこねる子どものようにガーネットはジタンにすがりつく。ずっと、彼に抱きしめていて欲しかった。ジタンの腕の中から離れたくなかったのだ。
「じゃあ、一緒に横になろう」
 耳元で優しく囁くと、ジタンはゆっくりとガーネットを寝かせ、自分もその傍らにぴったりと寄り添って横たわった。
「離さないで。抱きしめていて」
 ガーネットがかじりついてくる。それを全身で受け止め、ジタンは優しく彼女をくるみこんだ。
「ジタン、あのね…」
「ごめんな」
 ジタンは体を起こし、ガーネットの上に覆いかぶさるようにして彼女の目を真正面から見つめた。
「え?」
「お前をほったらかしにして、こんな目に合わせて…ごめん。城を空けなきゃよかった。お前の側にいてやればこんなことにはならなかったのに」
 泣きそうな顔だとガーネットは思った。そんなジタンの顔を見たことはそれまで一度もなかった。どんな時だって彼は気丈に笑っていた。苦しい状況であればあるほど、人に弱みを見せまいと、強くあろうとする人だった。
 その彼が、後悔に苛まれ、耐え切れないような顔をして自分を見つめている。
 ガーネットは自由になる右手を伸ばし、そっと彼の頬に当てた。
「あなたのせいじゃないわ。誰かが私を殺し、そしてあなたに罪を着せようとしているんだもの。あなたがこの国に残っていたら、きっと別の形で事をおこしたはずよ。あなたがもし傷ついたらと思うと…それより私が傷ついた方が私にとってはずっとまし」
「それは俺の台詞だ」
 ほっそりしたその手をジタンはそっと握り締めた。
「こんなことになるなら、俺が死んだ方がずっとましだぞ」
「いやよ!お願い、冗談でもそんなことを言わないで」
 見る間にガーネットの双眸が潤む。ジタンは彼女の手をそっとベッドの上に置き、それから彼女の髪を優しく撫でた。
「…泣くなよ。ごめん。悪かった」
「――このまま牢獄に戻ったら、あなたはもう二度と生きてそこを出られないわ。この国の貴族たちはあなたのことをよく知らない。偽の証拠だってきっと頭から信じてかかるわ。私の力では…あなたを助けられない」
「大丈夫だ、心配するな。きっと何とかなる」
「どうやって!?」
「スタイナーが…ベアトリクス将軍だって、必ず俺の無実を証明してくれるさ」
「それまであなたは牢獄で拷問を受けるの?司法長官は公正な人だけど、厳格で少しの容赦もしない人だわ。正義の名のものとにどんな酷い拷問だって平然とやってのける…あなたがそんな目に合うなんて、私には耐えられない」
 ジタンは笑って、首を振った。
「案ずるより生むが易しさ」
 安心させるようにわざと軽い口調でそう言うと、熱を帯び、汗ばむガーネットの額にそっと口付けた。それから頬に、そして唇に、優しい吐息を落としてゆく。
「ジタン…」
 ガーネットの言葉は、ジタンの優しく熱い唇に封じ込めれてしまった。
 長い沈黙が部屋に訪れる。
 吐息と、そして早鐘のように鳴る鼓動だけが互いの肌に伝わってくる。
「お願いがあるの」
 うわごとのようにガーネットが呟いた。
「俺は、逃げない」
 先回りしてジタンが答える。彼女の言いたいことなどお見通しだった。
「ジタン!お願い。あなたが大切なの。もしあなたの身に何かあったら、私は生きていけない。側にいてくれなくてもいいの。あなたが生きていてくれれば、それだけでいいのよ。そうよ、これは私のわがままだわ。分かってる。でも、お願い。私のわがままを聞き届けて。生きていて。お願いよ、ジタン」
 すがりつくようなガーネットの必死な瞳を避けるように、ジタンは再び彼女の唇を塞いだ。
「ここで逃げ出したら、俺は罪を認めたことになる。お前を謀殺しようとした犯人を野放しにするのか?そんなことはできやしない。確かに逃げ出して生き延びる術ならごまんとあるさ。だが、真犯人がお前の命を狙っているその中にお前を放り出して、俺だけ助かるなんてまっぴらだ。それくらいなら死ぬまで無罪を主張してやる。たしか死の間際まで言い続ければ捜査は続行されるんだよな?この国では」
「やめてよ!それは絞首刑の床が開く瞬間までってことなのよ!?」
「ああ。知ってる」
「気が狂うわ」
「それでもお前には生きていて欲しい。――これは俺のわがままだ」
 まっすぐに見つめられて、もはやガーネットには返す言葉がなかった。
 ぽろぽろと涙が後から後から溢れ出す。
「気が狂うわ。私。きっと…」
「愛してる」
 ジタンが囁く。静かな声で。深い深い想いをこめて。
「私の方が愛してるわ」
 涙でぐしゃぐしゃになりながら、ガーネットが駄々っ子のように言い返す。
 微笑して、ジタンは彼女の体に腕を回した。傷に障らぬように、細心の注意を払いながら。
「最後くらい、力いっぱい抱きしめたかったな」
 冗談めかして言う。
「やめて。最後なんかにさせないから。私…あなたを助けるわ」
「ああ。頼むよ」
 それは実現する見込みのない願望だった。願望に過ぎないことが分かっていながら、ガーネットはそう言わずにいられなかった。

 再び部屋に熱く狂おしい沈黙が満ちた。

 ベアトリクスの声が、その時を告げるまで。