〜おくつきに瞑る夢〜


第二章 復讐の序曲


 人払いを済ませ、部屋の中にはベアトリクスしかいない。
 仄暗い寝室のベッドの真横で、彼女は声を潜めて具申した。
 「とにかく、あの男の素性をもう一度洗いなおしましょう。ジタン殿に唆されたと自白しているものの、その言葉の信憑性についてはまだ何の調査もしておりませんから」
 謀反、あるいは国王暗殺計画などの謀略犯に対する審判は、特別召集された二十二人の委員会によって行われる。そのときに提出される証拠は大法官の直属になる司法長官を通すことになる。彼自身も調査を行う場合があるが、細かな立証物については周辺からもたらされたものを採用する事が多い。
「司法長官は公正な人物だと信じたいわ」
 ベッドの上で低い天蓋を見つめながらガーネットはため息を洩らした。
 自分は動けない。そして、情報漏洩を心配しなくてもよい部下は、ベアトリクスとスタイナーしかいないのである。女官長も、そして宰相も、頼りにはなるし王家に心底からの忠誠を誓っている人物だけれども、人が好すぎてすぐに機密を洩らしてしまう。国務会議の構成員は口が堅いが、しかし彼らは概ねアレクサンドリア王家に対する忠誠心が薄く、危険を冒してまでジタンの潔白を証明することなど絶対にしないだろう。
 彼女の嘆息には、そんな意味もあったのだ。
 いわば孤立無援に等しいのである。自分には何の力もない…情けなく思うのはこんな時だった。
「ガーネット様。御気を強くお持ちください。実働は私達が致します。ガーネット様は国王の権限を最大限に行使して、どうか私たちの動きを見守ってくださいまし。それで十分です。きっと、ジタン殿の潔白を証明してさしあげます」
 力強いベアトリクスの言葉に、ガーネットは肯いた。
「ベアトリクス」
 踵をあわせ一礼して退出しようとした将軍に、思いついたようにガーネットが声をかけた。
「は」
「タンタラス団の方を呼んでください」
「タンタラス団、ですか。バクー殿を?ということでしょうか」
「いいえ。…バクー殿は有名に過ぎます。シドおじさまとの親交も人の知るところです。この件に巻き込めないと思うの。だから…」
「知られていない人物、ですね。かしこまりました。秘密裏に、こちらに伺わせましょう。明日の夜でよろしいですか?」
「ええ。構わないわ」
 ベアトリクスは再び拝礼した。
 女王陛下は同じ事を考えておられる。彼女はそう思った。
 彼女も、タンタラス団の力を借りようと思っていたのである。彼らの情報収集能力は桁が違う。
 だが、バクーを借り出してはまずい、というところまではベアトリクスは考え及ばなかった。
 (さすがガーネット様だ)
 内心感動を覚えながら、彼女はアレクサンドリア城を下がった。

 チョコボにまたがり、館に向かうため門を出ようとした彼女を一群の兵士団が追い抜いてゆく。
 宮中の警邏を担当する、司法長官指揮下にある隊だった。
 ベアトリクスの胸中を、不吉な予感が掠めてゆく。
 彼女はチョコボの首を廻らせ、行く先を下町へ変えた。
 まず何よりも先に、タンタラス団にこの事を知らせておくべきだという気がしたのである。
 そして彼女の判断は正しかった。


「何をなさるのです!ご主人様は不在です!勝手に屋敷内に立ち入るのは許されませんぞ!」
 執事の制止も聞かばこそ、武装した兵士たちはどっと屋敷に乱入した。彼らが雪崩を打って屋敷内に散らばったあと、一人の男が開け放たれた扉をくぐって姿を現した。
 痩せぎすの、背の高い男。
「マウリシオさま…」
 司法長官自らが踏み込んできたことに、屋敷の者たちは動揺を隠し切れなかった。
「アデルバート・スタイナー殿に謀反の疑いありとの密告が入った。大法官よりの家宅捜索許可が出されておる。一同、一歩たりとも動かぬように。動けば命はないものと思え」
 少しも感情を乱すことなく、高ぶることもなく、彼は静かにそう言い下した。
 息さえ詰めて人々が立ち尽くす中、部屋の家具や調度品を乱雑にぶちまけるような音が、屋敷中から響いてくる。
 青白く、滅多に動かぬマウリシオ長官の頬に、かすかに冷たい笑みが浮かんだ。
 
 その夜、スタイナー邸からおびただしい武器弾薬が、王家転覆のための密書とともに発見された。
 城に常駐していたスタイナーはその場で捕らえられ、裁判が行われるまで屋敷に蟄居を命じられた。むろん、スタイナー家の奥方であるベアトリクスも同様である。

 こうしてガーネットは、完全に手足をもぎとられてしまうことになったのだった。


 侍女が運んできた盆を、ガーネットは驚愕のあまり取り落としてしまった。
 皿が砕け、銀製のスプーンが悲鳴にも似た音を立てて床に跳ねた。掛け布に熱いスープの染みが広がってゆく。
 真っ青になった侍女が慌てて布を新しいものにとりかえた。濡れた布を洗うため、それからすぐに侍女は部屋を出て行った。
 宰相のシェダ卿は、この事態をどう把握してよいか分からずに、ただ青い顔をいっそう青くしてベッドの脇に突っ立っている。
「シェダ卿…。用件は分かりました。しばらく一人で考えさせてください」
 辛うじて、彼女は声を絞り出した。
「は…」
 老宰相は哀れむような光を目に浮かべてため息をつき、女王陛下の命に従った。
 ガーネットは痛む肩を押さえながら、ゆっくりとベッドに横になる。
 ここ数日でもう見飽きてしまった天蓋を見上げる彼女の頬を、かすかな夜風がなぶった。
「聞こえましたか?」
 天蓋に目を据えたまま、微動だにせずにガーネットが問いかけた。 
「ああ。残念ながらな。大変なことになっちまったな」
 太いベルトを額に巻いて顔を半ば隠した青年が、ベランダから部屋に入ってくる。
 ジタンによく似た背格好だ。すっきりとした筋肉質の体、しなやかに伸びた手足。だが、体のあちこちに傷が走っていて、それが彼のこれまでの人生を物語っていた。
「もう私には、何の力もありません。頼れるのは――あなたがたタンタラスの方だけです」
 すうっと、一筋の涙が零れ落ちる。
 組んでいた腕を解いて、青年はゆっくりとベッドに近寄った。手を伸ばし、その涙をそっと親指でぬぐってやる。
「泣くのは早いぜ、お姫様。まだジタンが死んだわけでも、スタイナーのおっさんに審判が下りたわけでもないだろ」
 ぶっきら棒だが、その底に温かさを秘めた声が、ガーネットの心に沁みた。
 頬に当てられた手も、かもし出す雰囲気も、青年はどことなく彼女の最愛の人に似ていて、ガーネットは堪えきれずに彼の手に自分の手を重ねる。
「…ジタン」
 あまりにも深い哀しみ。渾身の想いを込めて、彼女は恋焦がれる人の名を呼んだ。
「あんたを残して奴は死んじまったりしねえよ。そして…俺もあいつをただで死なせたりしねえ。安心しな」
 ガーネットの顔を覗きこんで、青年は優しく囁く。
 と、突然その頭を誰かが力いっぱい小突いた。
「何でれでれしてんねん!この女ったらし!」
 妙な言葉を操る若い娘が、力任せに小突いた青年の頭に更に平手打ちをかます。
「お姫さんはジタンのものやっちゅうねん」
「分かってらあ!慰めてやってるだけだろうが!」
「あんたなんかに慰められたくないて思うてはるわ。余計なお世話やって。あんたもうちも、とにかくジタンを助けるために一肌脱げばいいだけやん。余計なことせんとき」
 彼女の登場で、瞬く間にその場の雰囲気が変わる。
 涙を滲ませた目で、ガーネットは思わず笑ってしまった。
「ルビイさん…。ごめんなさい。あなたたちまで巻き込むことになってしまって」
 痛みを堪えて首をめぐらす。
 ブランクにヘッドロックを咬ましていたルビイは、はっとしたように彼の頭を離した。
「気にせんといて。ジタンはうちらの仲間やもん。助けるのは当たり前やん。な、ブランク」
「ああ、その通りだ。気にすんな」
「あほっ!相手は女王陛下さまやねんで。気にしないでくださいませ、やろ」
「お前の方こそわけわかんねえ言葉で、しかもタメグチじゃねえか!人のこと言えねえだろ!」
 くすくすと、小さな笑い声がベッドの上から聞こえてきて、二人は慌てて正面を向きなおした。
「堪忍な、こういうど阿呆で。せやけど、腕は確かやから。まかしといてな」
 ルビイが硬い笑みを浮かべてガーネットに顔を近づける。
「ありがとう。…どうか、お願いします」
 仰向けに寝たまま懸命に頭を下げようとするガーネットの体を、ルビイがそっと手で押さえた。
「そんなん、みずくさいことせんといて。困った時はあいみたがいって言うやん」
 照れくさそうに言うルビイの頭を、横からブランクが引き寄せた。
「行くぞ。そろそろ巡回の兵士が来る頃だ」
「ん」
 ブランクの手が当たってずれたリボンを直しながら、ルビイが応じる。 
 彼らが扉を出て行ってしまうまで、ガーネットはずっと二人を見送っていた。祈りを込めて。
 スタイナー・ベアトリクスという王宮警護の責任者を欠いた今のアレクサンドリア城は、隙だらけの状態である。巡回の兵士の目を縫って城を抜け出すことなど、二人にとっては至極簡単なことだった。
 夜陰に紛れて、すぐに彼らの姿は見えなくなった。


 鎧戸まで締め切った狭い部屋。片隅の卓の上で細く揺れている蝋燭の明かりが、石造りの壁に絡み合う二つの影を映し出す。ひとしきり寝台を軋ませていたその影は、用事が済むとあっさりと離れた。
 女は汗ばんだ肩にはりついた長い髪を厭わしげにかき上げ、体にシーツを巻きつけてベッドを下りた。ぺたぺたと裸足の足音を響かせながら卓に歩み寄って蝋燭の脇に置いたグラスを煽る。生ぬるくなったワインをさも不味そうに飲み干すと、彼女はベッドには戻らず木の椅子に腰を下ろした。
「どうした。えらくご機嫌斜めじゃないか」
 女の後を追って、男がベッドを下りてくる。それ程背は高くないが、がっしりした体格の壮年の男だった。彼は女の背後からぴったりと体を寄せ、いかにも手馴れた風情で女の体をまさぐる。その手をはらいのけ、女は男をねめつけた。
「あの女の息の根を止めてやるっていったわ」
 憎々しげな女の口調に、男は冷ややかな笑いを浮かべ肩をすくめて見せた。
「おお、怖。仕損じたのは俺ではなくあの男だ。お前が色仕掛けで篭絡した岬の集落長。おっと、もとはお前の下僕だったな。今頃与えておいた薬を飲んであの世に行っているだろうが――不憫なものよ。ひたすら慕い抜いた女主人の言うなりに重罪人となり、挙句の果てには殺されるとは」
 微塵も同情など感じさせない、むしろ面白がっているような声。
「アルトゥーロにとってもこれは復讐なのよ。仕損じたのは情けないけれど、とにかく一矢報いて死ぬのは本望のはずだわ」
 男の非情さに気づけぬほど、女は己の中の憎しみに支配されているようだった。
「だがお前はまだ満足していないわけだ。…貪欲な復讐の女神よの」
 揶揄するような男の言葉に、女は切れ長の目を吊り上げて振り返る。
「当然でしょう!あいつらは私の…アヴィス家の仇敵なのよ!地獄に落としてもまだ足りないくらいだわ」
 男は喉の奥で低い笑い声をたてた。
 体中から憎悪の念を滲ませてなお不可思議な妖艶さを振りまく女。男はその髪を手にすくい、弄ぶ。
「女王は仕損じたが…さて、男の方はどうするね」
「ただでは死なせない。痛め抜いて、苦しみぬいて死ぬように仕向けて」
「お前は本当に、怖い女だよ」
 楽しそうにうそぶくと、 男は女を引き寄せ、抱き上げた。
 男の肩に腕を回し、なされるがままにベッドへ連れてゆかれる女の目には少しの愛もなく、ただ凍りつくような冷えた憎しみだけが凝っていた。


 ガーネットの許に暗殺未遂犯の自害の報がもたらされたのはそれからすぐだった。
 彼の口は永遠に閉ざされ、そこからジタンの無実が証明されることはなくなったのである。
 局面は緩やかに、暗闇へと滑り落ちていた。