〜おくつきに瞑る夢〜


第三章  風のゆくえ(2)


 隙間風がかたかたと窓枠を揺らした。
 泣きながら少女は母親を呼んだ。だが、誰も応えてはくれなかった。
 あきらめて父親を探した。だが、広い屋敷の中にいるのは、執事と使用人たちだけだった。そして彼らは、彼女が近づくと一様に嫌そうな顔をした。伯爵家のわがままな一人娘。思い通りにならなければすぐに癇癪を起こして当り散らす。触らぬ神にたたりなしだ、という顔だった。
 少女は荒れ狂って部屋の中のありとあらゆるものを壁にぶつけて壊した。
 時には大階段から広間へ投げ捨てたこともある。
 だがそれでも誰も近寄ってはくれなかった。彼女の気持ちは重く沈むばかりで、一向に軽くならなかった。
 少しずつ大きくなって、彼女は自分に母親がないことを知った。今の母親は継母であり、そして父親は継母に骨抜きにされていた。
 たった一人の肉親である父親を少女は求めた。血の通った温かさに飢えていた。
 あるとき意を決して彼女にあてがわれていた屋敷を抜け出し、父親の住む邸宅に行った。少女を見て父親は驚き、そして激しく怒った。強制的に彼女は馬車に乗せられ、たった一人の御者をつけられただけで追い返された。
 隙間風がかたかたと馬車のガラスを拭きぬけてゆく。
 その帰り道、少女は野盗に出くわしてしまう。
 華美な装飾の貴族の馬車に盗賊たちは襲い掛かった。
 金目のものを奪い去った挙句、彼らは少女に目をつけた。
 少女は稀に見るほどの美しさだったのだ。
 もうどうなってもいいと彼女は思った。このまま慰みものになって死んだって構いやしない、と。
 だがそのとき、一陣の風が起こった。
 金色の風。
 一瞬少女はそう思った。
 金の髪と尻尾を持った少年が、野盗の手から彼女を救ってくれたのだ。
 一目で少女は彼に心を奪われた。
 運命の出会いだと思った。
 そして少年も、また自分を優しい目で見つめ返してくれたのだ。
 少女は自分の屋敷に彼をいざなった。
 少年は最初遠慮したものの、すぐに微笑んで肯いてくれた。
 じゃあ、ちょっとだけ。
 そう言って彼は笑った。

 屋敷中のものを彼に見せて回った。別に威張りたかったわけではない。少しでも長く彼をつなぎとめておきたかったのだ。少年は、ともすればすぐに帰ろうとしていたから。
「ねえ、最高に素敵な秘密の物を見せてあげるわ」
 少女は言った。
 少年が3つも年下だと分かって、ちょっとお姉さんになった気分だった。彼の手を引き、屋敷の最奥部に設えられた秘密の小部屋に案内する。
 少年の目が興味深そうに輝いた。
 それを目ざとく見て取って、これなら彼を引き止めて置けそうだと少女は思った。
 少女が取り出してきたものを見て、少年は息をのんだ。
「お父様が、私がお嫁に行く時にもたせるって約束してくださったの。アヴィス家の家宝なのよ。本当は、誰にも見せてはいけないの。見せていいのは、私の夫になる人だけ」
 はにかんだように頬を染めてうつむく少女を、少年は困ったような顔で見つめ返す。
「…俺は、ただの庶民だから」
 そう言って肩をすくめて、彼はすぐに部屋を出た。
「もう帰るよ。もてなしてくれてありがとう」
 精一杯優しげにそう言うと、少年はドアに手をかけた。が、そのまま体が固まってしまう。
 後ろから、少女が抱き付いてきたからだ。
 自分よりも年上の、18歳の娘の体が背中にきつく押し当てられている。
 その感覚が、少年の脳の奥を麻痺させた。
「お願い。もう少し、そばにいて。私は…寂しいの」
 屋敷中を一緒に回った彼には、彼女の言葉の痛みがわかった。彼女と同じくどこかに孤独を抱える少年の心は、彼女の孤独に切ないくらいに共鳴したのだ。

 少年は体を回した。そして、そっと少女の体を抱きしめた。

 翌朝娘が目覚めた時には、少年の姿はもうなかった。
 気配も痕跡も、髪一筋すら残さずに、彼は消えたのである。
 だが少女の心の中には少年が刻み込まれた。
 永遠に、自分の心は彼のものだと思った。
 その翌日、家宝の紛失が発覚した。
 少女の最愛の父親は罪に問われて獄中で自殺した。いわゆる「白い水」を与えられたのだ。
 とうとう最後まで父親の愛を与えられなかった少女は、満たされない心を抱いて、いつまでも泣き暮らした。
 彼女の心の支えは、あの金髪の少年だけだった。


 逃げ出さぬようにジタンは手足を縄で縛り上げられ、馬車に乗せられた。大きな荷物でも運ぶように、二人の人夫が彼を担ぐ。 
 刑場に着くとすぐに彼は目隠しをされて柱に括りつけられるだろう。
 刑吏たちの手によってその柱が立てられ、足元に柴が積み上げられるのだ。それで準備完了である。
 速やかに処罰を行うべしとの大法官の達しで、彼の処刑は今夜、アレクサンドリアの外れの高台で行われることになった。
 かりにもアレクサンドリアの女王たるガーネット姫の命を狙い、国家を転覆させようと企んだ極悪人である。処刑は公開され、見せしめになるようなものでなくてはならない。
 司法長官はそう進言し、大法官はそれを受諾した。
 司法に女王が口を挟む権限はない。助命の請求はできるが、今回のような謀反人に対しては無効だった。
 なすすべなく、ガーネットは死罪の報告を聞かねばならなかった。
「今夜、ですか」
 震える声。どこか遠くで交わされている会話。ぼんやりとした意識。ガーネットには、とてもこれが現実の出来事だとは思えなかった。
「はい。月が昇り次第、火刑に処せられるそうでございます」
 シェダ卿はもはや眉を動かすこともなく、静かに告げた。
 だが、いつまでたっても応えが返ってこないことに気づき、ふと顔を上げる。
 ようやくベッドに起き上がれるようになった女王は、じっと虚空の一点を凝視していた。
 そこに何があるわけでもない。
 何もない空間を、ただぼうっと、見つめていたのだ。体も、彼女を取り巻く空気も、その場に凍り付いてしまったようだった。
「陛下…」
 シェダ卿は口をつぐんだ。お労しいという言葉を呑み込んで。
 もはやどんな言葉も、女王には何の足しにも慰めにもならぬのだ。
 かぶりを振り、長いため息をついて、宰相は御前を罷った。
 
 その夜、月が東の山べりをかすかに光らせ始めた頃、女王の姿が見えなくなった。

 刑場は黒山の人だかりだった。
 貴族の面々はジタンを疎ましく思っていた。が反対に庶民からは圧倒的な支持を受けていたのだ。相反する思惑を胸に集った彼らの眼前で、馬車から目隠しをされた金髪の青年が運び出され、柱に縛り付けられた。
 押し合いへしあい一目彼を見ようとする群集の間を縫って、懸命に前に出ようとする一人の女性がいた。フードを目深に被っていて誰かは分からない。だが、その掻き分け方は尋常ではなく、鬼気迫るものがあった。気圧されて、群集は自然に道を開く。こけつまろびつ柱の正面にはじき出された女性は、棒立ちになって柱を見上げた。
 気を失っているのか、柱に縛り付けられた青年の金色の尻尾は、力なくだらりと垂れ下がっている。
 それを見上げる女性の姿も、幽鬼のように生気がない。
 やがて現れた刑吏たちが、周辺の群集を押しのけた。無論、一番側に立っていた女性も、強引に人垣の向こうに押し出されてしまう。だが、あれほど前に出ようとしていたのに、女性はなされるがままだった。もはや、抗う気力もないようだった。
 柱の周囲に一定の空間を確保すると、彼らは群集に向かってこの罪人の罪状を述べ始めた。
 刑執行の儀式が一通り終了する。
 一人の執行人が、炬火を手にして石造りの室から姿を現す。
 いよいよ、そのときが来たのだ。
 群集は固唾をのんで見守った。
 その目の前で――火が、点けられた。
 油のしみた柴は瞬く間に燃え上がり、地獄の業火を思わせる火炎を吹き上げた。
 舐める様な紅蓮の炎が柱を包む。
 正視できないほどの熱風が辺りに巻き起こり、人々は目を覆った。
 不気味な静寂。
 刑場に響くのはただ炎の轟音だけである。
 人々は息を詰めて、今までそこにたっていた柱が崩れ落ちる瞬間を眼に収めた。
 
 すべてが無に帰し、すべてがその場から取り払われてしまってからも、女性はその場に佇んでいた。
 彫像のように、柱のあった場所を見つめていた。
 
 ぽつり、ぽつりと雨粒が天から落ちてくる。
 東の空から驟雨が走ってきたのだ。
 やがて訪れた激しい雨に打たれながら尚、彼女は立ち尽くしていた。
 しとどに濡れたローブの奥で、青白く歪んだ唇がわななく。
 瞬きを忘れた双眸は、ただひたすら、喪われた最愛の人を追いかけていた。