〜おくつきに瞑る夢〜


第四章  ミゼレーレ


 
 あの日から2日。ガーネットはただ呆然と空を見つめたまま、ベッドの上に座っていた。
 何も喋らず、何も食べず、何も飲まなかった。
 誰がどんなに声をかけても、慰めても、何の反応も示さない。
 時折夢遊病者のように部屋を漂い、気がつくと再びベッドの上にうずくまっている。
 女官長も侍女たちも頭を抱えてしまった。
 このまま放っておいたら、大変なことになってしまう。
 痩せ細り、やつれた女王の姿を目にして、彼女たちは心を痛めた。
 だが、奥宮にいる彼女たちが表向きに口をさしはさむことはできない。女官長は思い余って宰相に相談し、宰相はトット先生に助けを求めた。閉ざされた女王の心を開けられる人物を他に思いつけなかったのだ。
 連絡を受けてすぐ、トット先生はリンドブルムから帰ってきた。
 いつになく険しい表情でリンドブルム一の快速船から降り立った先生は、その足で女王の居室に向かった。傍らで案内をしながら女官長が潤む目尻を指で拭う。
「大公様をお恨み申しますわ。なぜ動いてくださらなかったのでしょう。大公様のお力なら、ジタン様がどんな重罪人だろうと、罪一等を減じて命を助けることも可能だったでしょうに」
「大公はガーネット様のお心を慮られたのですよ」
 トット先生は表情を変えずに眼鏡をはずし、息を吹きかけた。
「リンドブルムに助けを請えば、事は大きくなる。ジタン様の嫌疑が晴れておらぬ以上、手助けしたものまでも同罪に問われる可能性もありましょう。ガーネット様はそれを避けようとなされたのです。それをシド大公はご理解なされた。ですから大公は手出しをなさらなかったのです」
 歩きながら眼鏡のレンズを布で磨き、光に透かして傷を確かめる。トット先生が二つの行動を同時にとることは滅多にない。たいてい、一つに絞って行動する。
 先生も動揺しているのだ。
 しかし今の女官長には、自分の手の届くところにある不幸しか目に入らなかった。
「今の女王様のお姿をご覧になれば、きっと私の気持ちを分かっていただけますわ」
 そう言って唇を噛み締める。悔やまれるのは何の助けにもならぬわが身だった。

 トット先生たちが女王の部屋に行き着いたとき、ちょうど扉の前に侍女が立っていた。食事の盆を持ったまま途方に暮れている。女官長に気がつくと、すぐに駆け寄ってきた。彼女もまた泣きそうだった。
「どうすればよいのでしょう、女官長様。ガーネット様は、何一つ召し上がってくださらないのです。飲み物にも手をつけてくださいません。それどころか、私のことなどまったく目に入れてくださらないのです」
 女官長は言葉もなく、ただ肯いて侍女の肩を叩いた。
 彼女にだってどうしようもないのだ。女王の目に入らないのは同じことだった。
「後は私が引き受けましょう。あなたはお下がりなさい」
 辛うじてそう命ずると、彼女は侍女から盆を受け取った。
「お聞きになられたでしょう。陛下はもうまる二日、何も召し上がっておられません。飲み物すらです。…何も見えず、何も聞こえないように、ただ魂が抜けたように座り込んでおられるだけです」
 鬱々とした気分が彼らにのしかかる。女官長は自分を立てなおすように息を整え、重苦しい扉を押し開けた。

「ガーネット様」
 優しくトット先生が声をかける。
 しかしガーネットは微動だにしない。完全に外界を遮断してしまっているのだ。
 トット先生は眉を寄せた。由々しき事態だった。彼はすぐに踵を返した。
「先生、どちらへ行かれるのです?」
 盆を抱えた女官長が慌てて引きとめる。
「宰相の許に参ります」
「何ゆえですか?それよりガーネット様のお側にいて差し上げてくださいまし」
 斜を向いたまま立ち止まっているトット先生の前に女官長がはだかった。
「これはもはや、わたくしではどうにもなりませんな…。女王陛下のお心を開けるのは、一人しかおりますまい」
「先生以外どなたがいらっしゃるというのですか」
 訝しげな女官長の問いに、間髪を入れず先生が答える。
「ベアトリクス殿ですよ」
「でも、ベアトリクス将軍は今・・・」
「存じておりますとも。ですから宰相とともに大法官に頭を下げに参ります。国家の一大事です、彼のご老体も、こればかりは譲歩せざるを得ぬでしょう」
 やはり淡々と、感情を交えずに先生は言った。
 果たしてその誓願が聞き届けられるのか。扉の向こうに姿を消した彼を不安気に見送った女官長は、無駄と知りつつ女王の元に戻った。
 ベッドの上に盆を載せ、女王の唇にスープをすくった匙をあてる。しかしスープは虚しく皿の上に滴り落ちた。紫色の女王の唇を微かに湿しただけで。
 思わず漏れそうになったため息を必死で堪える。
 ガーネットの前では決して落胆の素振りは見せまいと彼女は心に決めていたのだ。
 たとえ反応は示さなくとも、身の周りの人々の感情をきっとどこかで女王は受け止めてしまうだろう。
 これ以上、ガーネットを悲しませたくはなかった。
 
 トット先生が目論んだとおり、大法官は事態を悟ってすぐさま手を打った。スタイナーはさすがに屋敷に留め置かれたままだが、特例中の特例としてベアトリクスは奥宮に上がることを許されたのだ。無論、彼女が動けるのはそこだけである。城の外に出ることは許されず、当然監視もつけられた。それでも構わなかった。女王の身を案じていてもたってもいられなかったベアトリクスは、飛ぶようにガーネットの許に駆けつけた。
「ガーネット様…」
 憔悴しきった女王の姿を見るなりベアトリクスは絶句した。
 彼女が呼びかけてさえ、うつしよに戻ってくる気配の見られない女王の変わり果てた姿。半ば予想はしていたものの、ジタンという男の存在がここまで女王にとって大きなものであったことを、彼女は改めて思い知らされたのである。
 ベアトリクスは足早にベッドに近づくと、ひしとガーネットを抱きしめた。
 それしか出来ないことを知っていた。
 今はただ、時が過ぎるのを待つしかないのだ。
「ともかく何か召し上がらなくてはいけません。このままさだめに埋もれて流されてしまってはなりません。でないと――あなたに運命を乗り越えることを教えてくれた人の存在が、無に帰してしまいます。そうでしょう?」
 自身も夫を拘束された身であるベアトリクスの想いが、ガーネットの心と重なったのだろうか。
 その夜何日かぶりに、ガーネットは飲み物を摂った。
 まだ目は空ろで、咀嚼するには至らず、喉に流し込むだけではあったが。だがそれでも、それは大きな変化だった。

 その日を境に、少しずつガーネットの様子は回復していっているように見えた。
 半月ほど過ぎた、そんなある日のことだ。
 ベアトリクスが厨房からガーネットの食事を運び込もうとしていたとき、女王の居室から廊下中に響き渡るような悲鳴が聞こえた。盆をテーブルの上に放り出して、とるものもとりあえずベアトリクスが駆けつけると、ガーネットは髪を振り乱して彼女にすがり付いてきた。
「どうなさったのです、ガーネット様」
 腕の中でぶるぶると小刻みに震える女王の背中を優しくさすってやる。
「ア…ア…」
 ガーネットは言葉にならぬ呻きを漏らし、なおさらベアトリクスの胸に顔を埋めた。
 部屋の中を見渡し、そしてベアトリクスは得心が行く。突然の出来事にびっくりしてその場に固まっている侍女を見つけたのだ。
 彼女は、金髪碧眼だった。
「お行きなさい。…あなたのせいではないわ。安心なさい」
 ベアトリクスの言葉にはっと我に返った侍女は、手に持った鏡と櫛をサイドテーブルに置くと、そそくさと出て行った。
 ガーネットはまだ震えている。
 両手で頭をかきむしり、酷く興奮した状態で激しく首を振る。
 言葉にはならない迸るような女王の嘆きが、抱きしめるベアトリクスの胸に突き刺さった。
 金色の髪が思い出させるのだ。
 青い瞳が彼女を苛むのだ。
 思い起こされる鮮烈な記憶は、紅蓮の炎となって幕を閉じる。
 その最後の記憶が彼女の心をずたずたに引き裂いてしまうのである。
「泣いてよいのです、陛下。つかえたものを吐き出されてよいのです。…我慢なさらずともよいのですよ」
 女王の髪をそっと撫でて、ベアトリクスは静かに諭した。
 だがガーネットは青い顔を引きつらせ、目を見開いたまま唸るばかりだった。まるで喉にパンがつかえた子どもみたいに、唸りながら苦しそうにかぶりを振る。

 そう、ちょうどそのパンのように、想いが胸につかえているのだ。
 ベアトリクスは気づいた。
 行き場を喪った慟哭に、出口を与えてやらなければならないのだ、と。
 それはガーネットが無意識のうちに蓋をして、思い出さぬように目をそむけている事実を再認識させることでもあった。ひどく惨い――傷口をえぐるようなものである。
 それでもその荒療治を施せるのは自分しかいないことを、彼女は悟った。

 翌朝、屋敷から到着したベアトリクスは、相変わらず空ろな女王の目の前に布包みを置いた。
「いつか、陛下にお返しせねばと思っておりました。――主人から預かったものです」
 そう言って彼女はそれを開いた。
 瞬間、感電したようにびくんとガーネットの体が跳ねた。ベッドから降りてそれから離れようとする彼女の体を、ベアトリクスが力づくで押しとどめる。
「おとり下さい、陛下。この短剣を、その手に握り締めるのです。逃げないでください。この現実から」
 ガーネットはいやいやをする赤ん坊のようにしきりに首を横に振り、怯えた様子でベアトリクスを見上げた。
 必死で訴える目だった。見たくない。思い出したくない、と。
 だがベアトリクスはガーネットの願いを敢えて無視して、手に持った短剣を彼女に押し付けた。
 もう逃げる術はないのだ。逃れさせてはくれないのだ。諦めが彼女の目の端を走り抜ける。
 おそるおそるガーネットは目の前の短剣に視線を戻した。

 金色の柄。薄く緑に透けて光る刀身。
 彼の愛用していた、オリハルコンだった。

 ガーネットは息を詰め、ドレスの胸元をぎゅっと掴んだ。
 身も凍るほどの現実を突きつけられる恐怖。
 だがそれに勝る愛しさが、彼女の中に溢れ出す。
 
 ゆっくりと、彼女は手を伸ばした。
 小刻みに震える手を。
 そしてその手は、短剣を取った。 

 見る間に涙が膨れ上がり、とどまりきれずに彼女の双眸から零れ落ちる。
 ぽたぽたと、とめどもなく流れ落ちる涙を拭いもせずに、ガーネットはじっとオリハルコンを凝視めた。
 
 初めて――ジタンが刑に処されてから初めて、ガーネットは泣いた。
 
「声を上げて泣いてよいのです。我慢なさらずともよいのです。ガーネット様」
 ベアトリクスはガーネットの体を引き寄せ、抱きしめた。
 その胸にかじりついて、ガーネットは嗚咽を洩らした。心の底から噴き出してくる哀しみは、もはや止めようもなかった。
 
 オリハルコンを握り締めて。
 最愛の彼を想って。
 心が捩れる。胸が軋む。
 
 ジタン。
 ガーネットの脳裏には、ただ彼の優しい笑顔だけが浮かぶ。
 ジタン、ジタン。
 ぱっくりと、自分の胸に大きな傷が開いて、そこから全ての血が流れ出てしまったようだと彼女は思った。生きていることが苦しかった。
 自分がなぜまだここにいるのか、分からなくなりそうだった。


 熱い唇の感触が、彼を眠りから呼び覚ました。
 うっすらと目を開ける。
 ぼんやりと浮かぶ人影が、ゆらゆらと揺らめきながら近づいてきた。
 赤い唇。
 見覚えがない。
 誰だ、と問おうとした。
 だが声が出ない。唇も動かない。――いや、体中が動かないのだ。
「まだじっとしてなきゃ駄目よ。薬が効いてるんだから」
 低めのハスキーボイスが耳を打つ。
 漸次はっきりしてゆく意識。
 ジタンの目は、自分の顔を覗きこむ妖艶な女の面を捉えた。
「どう?気分は」
 女が笑った。どこかに重い影を含んだ、皮肉な笑みだった。
「薬が切れて動けるようになったら、手足に枷をつけさせてもらうわ。逃走しないようにね」
 妙に嬉しそうに女が言う。
「私のことを覚えてる?ジタン・トライバル。ああ、いいのよ、すぐに思い出せなくても。じっくり時間をかけて思い出させてあげるから。私たち二人の時間は、これから限りなくあるのですもの」
 
 女の哄笑に見送られるように、一度戻りかけた意識がまた奈落のそこに引きずり込まれてゆく。
 さっき口移しで何かを飲まされたのだ。

 ジタンは夢うつつの中で懸命に「彼女」を探していた。
 記憶の中で、美しく黒い瞳が哀しげに瞬く。
 誰よりも大切な、誰よりも愛しい女。
 ガーネット。
 俺は生きている。
 必ず、お前の許に帰る。
 脳髄の奥から吹き上がってくる混沌に絡めとられながら、ジタンは必死に夢の中で叫んでいた。