〜おくつきに瞑る夢〜


第五章 嵐の予感 


 明け方から風が強くなり始めた。窓から見える広場の木々の枝がさかんにしなう。風に剥がされ、吹き飛ばされた木の葉が、誰もいない広場の石畳に舞っていた。
「どうするよ。ぼやぼやしてるうちに、こんなことになっちまった」
 宿屋の一番表側の部屋。小さな両開きの出窓のへりで頬杖をつき、ブランクはぼんやりと外を眺めていた。
「うそや。うちは信じへんで。ジタンがこんな簡単に死ぬわけない」
 狭い部屋の中央に置かれた小さなテーブルに突っ伏したルビイが、自分に言い聞かせるように唸る。その後ろの、部屋で最も暗く光の差さぬ隅にバクーがいた。腕組みをして黙ったまま壁に寄りかかっている。
「ボス…どう思う。本当にジタンは…死んじまったのかな。死んじまったんだよな…俺はこの目で、あいつを括りつけた柱が焼け落ちるのを見てきたんだから。確かに焼け落ちた…跡形もなく」
 言ってブランクは歯軋りをした。握り締められた拳が震える。
「くそっ。何でこんなに早く刑を執行するんだよ!普通の罪人でももっとちゃんと裁判するぞ!」
「普通の罪人じゃねえからだ。…少しでも早く刑に処さねえと、冤罪が晴れちゃ許も子もねえだろ」
 今まで黙っていたバクーが、壁から体を離した。
「帰ってきやがった」
 廊下から響く足音がこちらに近づいてくる。
 ブランクはきょとんとしてルビイと顔を見合わせた。
 ガーネットに頼まれてから数日間、彼ら二人は懸命にジタンの濡れ衣を晴らそうと彼の周辺を洗っていた。暗殺未遂犯の身元が割れてからは、その女主人だった例の没落貴族についても調べた。だが零落してしまった貴族の屋敷はすでに人手に渡り、その家族の行方も杳として知れなかった。調査が暗礁に乗り上げた矢先、刑は尋常ならざる早さで執行されてしまったのだ。
 先手を打たれて歯噛みする二人を他所に、バクーはなにやら一人で算段しているようだった。それは知っていたが…一体何をしていたのだろう?
 見合わせる二人の顔には、疑問符が貼りついている。
 やがて古びた木の扉を開けてマーカスとシナが顔を出した。
「分かったズら、ボス。ボスの読みどおりだったずら」
 シナがとてとてと駆け寄ってくる。その後ろからマーカスがゆったりした足取りで入ってきた。
「どういうことだ?読みどおりって何だよ」
 ブランクが思わず腰を浮かす。
「ボスの命令で、俺たちあの女にぴったりはりついてたんっす」
「あの女?」
「マルガレーテ=ディアンヌ=フォン=アヴィス――取り潰しになったアヴィス家の生き残りだ」
 バクーが動いた。窓から漏れる薄明かりの下まで歩くと、彼は立ち止まって一同を見渡した。
「待てよ、俺たちだって調べたんだぜ?だけどあの家族の行方は分からなかった。どうやって探し当てたんだ!?」
 気色ばむブランク。出し抜かれたことに納得がいかないのだ。
「アヴィス家の領地はアレクサンドリアに没収されたがそれを買い戻した奴がいる。そいつはもと商家の出で、財力に物を言わせて貴族の地位を買い取り、アレクサンドリアの城の中枢にまで力を伸ばそうとしている野心家だ」
「まるでジタンみたいな経歴やな」
 こっそりとルビイがブランクに耳打ちする。ブランクはそれを聞き流し、先を促した。
「それで?」
「その男は結構な数の愛妾を抱えているが、そのうちの一人に殊にご執心らしい。二年ほど前に屋敷に入れた貴族の娘らしいが。それ以上のことは誰も知らん。が…」
 それがアヴィス家の娘である可能性もある。現に一人娘の容姿の特徴と、その愛妾の特徴は似通っていた。
 バクーはブランクもルビイもまったく失念していた搦手から攻めたわけだ。
「それで、俺たちが中を探ってたずら。そしたら、その女が不審な行動をとったずら」
「数日前、墓地の死体洗い場にこっそり行ってるんっす。で、その後俺たちがそこに行って、死体洗いの爺さんに、女の用向きを聞いたら、その女、死体を一体持ち帰ったそうなんっす」
「金髪で筋肉質の若者の体、という注文だったらしいずら。爺のやろう、金を掴まされたらしくてなかなか口を割らなかったズら。それで俺がこてんぱんに」
 手をぶんぶん振り回して殴る真似をするシナの頭をずいと押しのけ、マーカスが前に進み出た。
「金をかなり使いましたけど、でもおかげでいろいろわかったっす。爺さんはもともとアヴィス家の執事だったらしいんっす」
 その執事から聞いた話をマーカスはかいつまんで語った。
 年をとってから仕えていた家が取り潰されて途方に暮れていた執事は、何とかつてを辿って職にありついた。だが路頭に迷う主人一家を支えることなど出来るはずもなく、結局彼らは散り散りになった。その後奥方が病に倒れ、この世を去った。一人残された娘は、ずっとつき従っていた使用人の一人とともに、アヴィス家の領地に隣接するキング領、デドリー岬に流れ着き、そこで細々と暮らしていたらしい。
 その後の消息はわからなかった。ところが先日ひょっこりマルガレーテが姿を見せたのだ。旧交を温めあう間もなく、用件を果たすと彼女はさっさと帰っていった。老人に金を渡し、口止めをして。
「その直後にジタンさんの刑が執行されたっす」
 ガタン!と椅子が倒れる音が部屋に響いた。
「身代わりか!そうやろ!?」
 ルビイの叫びに、シナとマーカスは静かに肯いた。
「待てよ!ジタンを陥れようとしてたんだろ?殺すのが目的だったんじゃねえのか!?何で今更助けたりするんだよ。変じゃねえか!?」
 ブランクがルビイの腕を引っ張る。
「せやかて、死体を買うた目的はそれしか考えられへんやろ?」
 少しでも都合のいい方に解釈しようとするルビイだったが、だがそれを裏打ちするようにシナが口を挟んだ。
「そうずら。昨日、男の屋敷に大きな棺が運び込まれたずら」
 シナの言葉に大きく頷いて、マーカスが後を継ぐ。
「それ以来女は一歩も屋敷の外に出て来てないし…理由は俺にも分かりませんけど、ジタンさんが助け出されたことはまず間違いないと思うっす」
「そこでお前らの出番だ」
 言いながらバクーがブランクとルビイの肩を叩いた。
「敢えてお前らを探りに行かせなかったのは、面が割れたら困るからだ。もっともお前たちがかぎまわっていたことを向こうも感づいているかもしれんが、張り込みしていたこいつらよりかはマシだろう。そこで、だ。お前らはあの屋敷に」
「忍び込むんだな?」
 ブランクが先をとる。
 バクーは苦笑いしてブランクの頭をぐりぐりと捏ねた。
「堂々と乗り込むんだよ。使用人としてな。…あの屋敷に囚われているはずのジタンを助け出せ。その間俺たちが、ジタンの冤罪を晴らす動かぬ証拠を集めてやる」

 一同は一斉に部屋を飛び出し、八方に散っていった。
 バクーの指示の下、本格的にタンタラスが動き出したのである。
 誰もいなくなった部屋で、葉巻に火をつけながらバクーは窓辺に寄った。
 ガラス越しに街の広場が見える。
 相変わらず風は強い。
 だが少しずつ射し始めた曙光が石畳を明るく照らし出し、風に舞う木の葉を美しく浮かび上がらせていた。


 今の状況にはひどく不釣合いな明るい部屋だった。
 白を基調にした瀟洒な作りの部屋だ。調度品も品のよい小ぶりなものが取り揃えてある。おそらく、目の前の女の私室なのだろう。
「何の真似だ」
 ベッドに起き上がり、ジタンは手首につけられた鎖を振った。じゃらじゃらという耳障りな金属音。
 ジタンは滅多に見せない冷たい一瞥を女にくれた。
 女はその視線にも動じることなく、不敵に笑う。
「簡単には死なせたくなかったのよ。あなたにはもっと――苦しんで死んでもらわなくては」
 言いかけて彼女は不意に顔を背けた。まっすぐに自分を見据えるジタンの視線から目を外すために。
「あんたに会ったのは一度きりだ。そのあんたに殺したいほど憎まれる心当たりはないんだけどな」
「あなたはアヴィス家を潰したわ」
 背中を向けたまま、女は吐き捨てた。
 ブルネットの長い髪を垂らした肩が僅かに揺れている。
「…何を寝ぼけたことを言ってるんだ。あの家宝の宝玉の紛失か?それが俺のせいだと?あんたがあの時見せてくれたのは確かだ。だがすぐに自分の手でしまいこんだだろう。俺に罪をなすりつけて何が楽しい?何が目的なんだ!」
 ジタンの言葉に憤りを抑えきれなくなったのか、女は再び振り返った。双眸に憎しみが渦を巻いている。
「寝ぼけたこと!?ごまかそうとしても無駄よ!何もかも知ってるんだから。あなたは宝玉の在り処を探って、仲間に報告する役目だった。そのためにあなたは私を騙して近づき、そしてアヴィス家に入り込んだんだわ」
「巷じゃアヴィス家の当主が傾きかけた家を建て直すために、盗難に見せかけて売っ払ったって専らの噂だったがな」
 言葉が終わるや否や、音高くジタンの頬が張り飛ばされた。赤い手形がくっきりと頬に浮かび上がる。
 片手を高く差し上げて、女は怒りに震えていた。
「お父様はそんなことをしないわ!それにアヴィス家は由緒正しい名門の貴族だったのよ。傾いてたなんて、そんなことありえない。あなたが盗んだから!だからお父様は死ななければならなかったのよ。あなたのせいだわ!それをよくも…よくもそんな平気な顔でそんな事が言えるものね!」
 一気にまくし立て、そして彼女はほうっと息をついた。平常心を取り戻すためだ。
 むきになってはならない。常に、自分の方が上位に位置していなければ、相手をいたぶることはできないのだ。彼女はそう自分に言い聞かせた。
 今の立場は自分の方が圧倒的に強い。ジタンの生殺与奪は自分の手に握られているのだから。
「これは復讐よ」
 一言一言、憎悪を込めて彼女は吐き捨てた。
「私の心も人生も滅茶苦茶にしてしまったあなたを、私は許さない。同じようにズタズタに引き裂いて殺してあげるわ。――あなたの体も、心も」 
 
 そう言いながら――そう言い聞かせながらジタンを殺してしまえない自分に、彼女は気づいていない。
 だが、ジタンは気づいた。
 自分を見下ろす女の憎悪に彩られた目の奥に潜む、深い哀しみと抑えきれぬ愛惜に。
 それは、彼の動きを止めてしまう、最も厄介な枷となるに違いなかった。