「失礼致します」
重いドアを開けて、一人の男が部屋に入ってきた。
「何の用なの?この部屋の出入りは禁じているはずよ」
目を吊り上げて急いで戸口に駆け寄った女が、体で男を押し出そうとする。
「申し訳ございません。ご主人様がこの棟においでになりましたので、取り急ぎご連絡をと思いまして」
怯えて腰砕けになりながら召使はぺこぺこと頭を下げた。
「男爵が…?分かったわ。すぐ行きます。お前は下がっていいわ」
言われて男は逃げるように廊下を去っていった。
それを確認して、女――マルガレーテはジタンを振り返る。
「私が戻るまでそこでまっていて。変な気を起こしたら承知しないわ。私の息のかかった者は王宮の中にもいるのよ。変な真似をしたら、あなたの大切なものがなくなるわよ。私の家宝と同じようにね」
最後の一言を、彼女はひどく静かに付け加えた。今までの迸り出た激情とは全く温度が違う。それは大きな楔となってジタンの胸を穿った。
扉の閉まる音を虚しく耳にして、ジタンにはただ、つなぎとめられた拳を震わせるしか術がなかった。
が、彼女の足音が遠のいた後、静かに再び扉が開いた。音はしなかったものの、気配を敏感に察知してジタンは首をめぐらす。
細く開けた隙間から痩身を滑り込ませるように入ってきたのは、先ほどの召使だった。
栗色の長めの髪が顔の半ばまでかかっている。だが見え隠れする顔立ちは意外に整っていて、端正な切れ長の目とともに、さぞかし女性にもてるだろうと思わせる容貌だった。
「どうしたんだ?ここに入ってきちゃいけないってさっき命じられてたじゃないか」
ジタンは首を浮かして男の様子を伺った。
殊更こちらに危害を加えるふうはない。男はごく自然体でふらふらとジタンに近づいた。
「それが助けに来てやった仲間に対する第一声かよ」
からかうような目で男がジタンを真上から見下ろす。
さらさらの髪がまっすぐに垂れて、隠されていた顔を露わにしていた。
どこかで見たような顔…だと思ってジタンはまじまじと男を凝視し、次の瞬間驚いたように口を大きく開け放った。
「ブランクかよ!?」
「何だよ、その驚きようは。何年同じ釜の飯くったんだよお前。すぐ分かれよな」
悪態をつきながら、ブランクは持っていた工具でジタンの鎖をいとも簡単に裁った。
「どうして鍵を盗んできてくれなかったんだ。これじゃあ、重いし音はするし、動きにくいだろ」
ぶらぶらと手首にぶら下がった鎖を揺らして、ジタンが口を尖らせる。
「文句言うな。だいたいタンタラス団たるもの、危地は自分で脱出しろ!仲間の手をわずらわせるなんざ、最低だぞ」
「頼んだ覚えはない」
「がー!かわいくねえやつ!!」
「お前から可愛いと思われたら気色悪いぜ!」
「このっ、くそガキ!」
ウォーミングアップを兼ねた不毛な言い争いが一通り終わると、ジタンは笑顔を張り付かせたままため息をついた。
「ブランク。聞いていいか?」
「何だよ、突然。改まって」
ブランクは邪魔になる前髪をピンで脇に止めようと四苦八苦している。
「ダガーは…どんな様子だ?」
ブランクの手からピンを取り上げ、止めてやりながら、さり気ない風を装って、ジタンは尋ねた。
「お姫様は…体の方はもうずいぶんよくなってる。だけどお前が死んじまってから、何にも食べなくなっちまって…ついこないだまで瀕死だったんだ。ベアトリクス将軍が特別のはからいでお側についてから、少しずつ元気を取り戻してるけどさ」
「ベアトリクスが…」
ジタンの瞳に安堵の色が浮かぶ。単に安心したのだろうと、このときブランクは思った。だからおどけたように言い募ったのだ。
「ああ。はやくお前が姿を見せてやらねえと、お姫様、いつまでたっても元通りになれねえぞ」
そして彼はおもむろに立ち上がった。
「さて、ここから脱出といきますか!」
しかしジタンはベッドの上に座り込んだまま、動こうとしない。
「おい、何してんだよ。行くぜ!さっさとこんなとこ抜け出して、お姫様に顔見せてやらなきゃだろ!」
けしかけるブランクをジタンは苦笑いを浮かべて見上げた。
「お前一人でここを出てくれ。俺は…まだ逃げない」
「な…何言ってるんだよ!?お前、正気か!?姫さんがお前を待ってるんだぞ?お前の無事を知らずに、悲しみのどん底にいるんだぞ!?それをほっとくって言うのか!」
言ってからブランクははっとした。
ジタンの顔に言いようのない苦渋の色が浮かんだからである。
「ダガーには…ガーネット女王には、ベアトリクスがいる。スタイナーがいる。リンドブルムのシド大公もいる。あいつの周りには、あいつのことを自分のこと以上に心配してくれる人間が沢山いる。俺がいなくても、あいつならきっと立ち直る。強い女だから。…あのどん底の戦いの中でも、どんな哀しみに襲われても、歯を食いしばって耐え抜いた女だからな」
「ば、馬鹿か、お前!お姫様が耐えられたのは、側にお前がいたからだろうが!」
ブランクの言葉に、ジタンは心の中で耳を塞ぐ。一旦定めた決意が揺らいでしまいそうだった。
迷いを断ち切るように、彼は重ねて言った。
「俺がいない二年間だって、あいつは一人で頑張ってた。大丈夫だ、あいつなら」
ブランクは絶句して、大きく目を見開いたまま首を振った。
「わかんねえ。俺には、お前の考えてることがまったく分からん!」
「マルガレーテは…今も一人なんだ」
ジタンの脳裏に5年前の出来事が甦る。孤独な心を抱えた美少女。それを放っておけなかった自分。
「そんなの、ただの同情じゃねえか」
「そうだ。同情だ。でも人間にとってただの同情が必要な時もある。あの女の心がボロボロに傷ついているのが俺のせいだと言うなら、――少しでも癒してやらないと、俺の気がすまないんだ」
「お前のせいなんかじゃねえだろーがよ!逆恨みじゃねえか!」
ブランクは必死に説得する。しかしジタンの心は動かなかった。
「それでも、あいつはそう思い込んでる。そしてそのあいつを受け止めてやれるのは、この世に俺しかいないんだ」
「こんな時間に何用ですの?」
特別待遇の愛妾に与えられたこの西の対の中でも、一等きらびやかな賓客用の部屋に男はいた。ついでに言うなら、ここは部外者の闖入することのない、機密を語るにもってこいの部屋でもあった。
「あの男はどうしてるね」
「一番目につきにくい私の部屋に縛り付けていますわ。…それが何か?」
「いや、あの男に今更ながら情が移ったのではないかと心配しているんだよ」
妙な猫なで声。男は太い腕をマルガレーテの腰に巻きつけた。
「それならご心配は無用ですわ。あの男は私の仇ですもの」
つんと横を向いて嘯く女の語調は、心なしか弱々しい。男は胡散臭そうに眉をあげ、じろりと女を検分した。その絡みつくような視線にマルガレーテは気がつかない。
「どうした。今日はやけに言葉遣いが丁寧じゃねえか…変によそよそしいぜ?」
ぐいと腰を引き寄せて、男は彼女の唇を奪った。
拒みもしない代わりに自分から受け入れもしない。ただ為されるがまま、マルガレーテは目を閉じる。
男はその無反応に彼女の心理を鋭く読み取った。だが、彼は悟ったことを気取らせぬように満面に笑みを浮かべると、彼女の体を解放した。
「そうだよな、お前の仇敵だ。地獄を見せてから無残に殺したい――そうだったな?」
獰猛な男の笑みを、厭わしげに横目で眺め、マルガレーテは肯いた。
「ええ。そうよ」
「そこでいい考えがあるんだ。これからあの男を逃がすんだ」
「え?」
意表をつかれて思わず彼女は声を上げた。
「司法長官から指折りの射手を借りてきた。そいつらを、今、中の対の屋根に潜ませている。この館からこっそり逃げ出すには中の対の裏門か通用門を通るのが一番だ。しかもそこは屋根の上からは格好の的だ。いい考えだろう?お前は復讐のことなど忘れたふりをして、あの男を篭絡するんだ。そして脱出の手引きをしてやればいい…。門まで連れてきたら、あとはこっちの番だ。お前の望むとおりの場所を射てやるぞ。まずは手足から射抜いて動きをとめるか?最後は目がいいか?それとも心の臓を一撃か?」
「待って。そんなつもりはないわ。もっとゆっくり時間をかけて、いたぶって…」
汗が滲む。動揺を懸命に隠して彼女は言いつくろった。
だが男はひどく醜悪な笑いを片頬に貼り付けて、再び彼女に顔を近づけた。声を潜め、彼女にそっと耳打ちする。
「悠長なことを言っていられなくなったんだ。タンタラス団が動き出した。証拠をつかまれる前に、あの男を亡き者にしておかねば、審判が覆る…そうなれば、俺もお前の復讐もすべてが水泡に帰すんだぞ。俺はお前のためを思えばこそ、言ってるんだ」
そして男は顔を離した。
「選択の余地はない。いいな。マルガレーテ」
男が初めて見せる、冷徹な一面だった。狂気にも似た脅しを秘めた口調にマルガレーテは圧倒されて、呆然と立ちつくす。抗うことはできなかった。
業を煮やしたブランクが腹を立てて部屋を出て行ったあと、ジタンはベッドに横たわって天上を見つめていた。
思わないようにしようと思えば思うほど、ガーネットの面影が彼の心を支配する。
彼女の嘆きは容易に想像がついた。どれほど悲しんでいることか。もし自分が彼女を失ったとしたら、きっと生きてはいられない。それと同じ哀しみを彼女は味わっているのだ。
だがそれでも、孤独に苛まれる憐れな魂を放っておくことはジタンにはできなかった。そう、ちょうどイーファの樹で、クジャを放っておくことができなかったように。
俺の心はお前のものだ。
ひたすら胸の中の面影に彼は語りかける。
もう二度と会うことはなくても、俺はずっとお前を想い続ける。俺は…お前のものだ。だけどお前は早く俺のことを忘れて、幸せになってくれ。元気になってくれ――ガーネット。
そのとき。
狂おしい彼の想いを遮るように、重たい扉が開いた。
マルガレーテが部屋に戻ってきたのである。
血の気のうせた顔をしている。一見して何かあったのだと分かる顔だ。だがすぐにその面には驚愕の色が浮かんだ。
「どうやって鎖を断ち切ったの」
ジタンに駆け寄り、手を掴む。
「力任せに」
冗談めかして応えるジタンを、マルガレーテはにらみつけた。
「仲間ね。仲間がこの屋敷に忍び込んでいるのね」
「まさか。仲間がきたんなら、俺はとうにここを逃げてるさ」
その言葉を聞いて、彼女ははっとする。
そうだ。なぜ枷が外れたのに、この男は逃げていないのだ。
彼女の疑問はそのまま彼女の顔に出る。マルガレーテは単純なのだ。だからこそ、人を信じることも裏切られることも憎むことも、いつも混じりけのない純粋な感情で突っ走ってしまうのである。
ジタンは優しい眼差しで彼女を見下ろし、そして優しい口調で語った。
「俺は決めたんだ。あんたが俺を憎むことでしか――殺すことでしか心を取り戻せないんだったら、俺はあんたに殺されてやるよ」
「な…何を言ってるの?」
彼女は自分の耳がおかしくなってしまったのではないかと本気で思った。
こんな言葉が虜囚の口から出るなど、一体誰が信じられるというのだろう。
男から命じられた言葉とジタンの優しいささやきが、彼女の頭の中でせめぎ合う。身が引き裂かれそうだった。
「どうして、そんな優しい言葉をあたしにかけるの」
マルガレーテは重い口を開いた。最後の、賭けだった。
「あんたがまだ孤独の中にいるから」
「同情?囚われの人間から同情されるほど、落ちぶれてやしないわ」
ジタンは肩をすくめて見せた。
「あんたと出会った頃、俺もおんなじ孤独の中でのたうってた。だから、同情って言うより、共感かもしれない」
部屋の中に、かつて二人が出会った頃の情景が浮かんだ気がして、マルガレーテは目を瞬かせる。
遠い目をして彼女は呟いた。
「あたしも感じてた。…あたしを理解して受け入れてくれる人に初めて出会えた、そう思ってたわ」
だが彼女の信頼はすぐに裏切られたのだ。
「アヴィス家の家宝を盗んだのは誓って俺じゃない。俺の仲間でもない。誰か他の奴だ。何度言ったってあんたは信じようとしないだろうけどな」
「じゃあどうして、どうして贖罪しようなんてするの!あたしに殺されようなんて…なんで言うの!?」
「あんたをそのままにしておけないからだよ」
静かにジタンは言った。彼女の悲しい激情を全て吸い取ってしまうかのような、穏やかな口調だった。
マルガレーテは言葉を発せなかった。身動きすることも忘れてしまう。
「俺にはあんたを癒せない。だけど俺を殺すことであんたが目を覚ませるんだったら――立ち直れるんだったら、それもありかなって」
にかっと、ジタンは笑った。屈託のない、明るい笑顔だった。
「馬鹿だわ…あなた」
「よくそう言われる」
マルガレーテは笑った。ジタンにつられたのかもしれない。だがすぐに真顔に戻って、訊いた。
「ねえ、もしずっとあたしの側にいてって言ったら、あなたはそうしてくれるの?」
「…ああ」
「女王よりあたしを選んでくれるの?」
「…ああ、そうだ」
「それは、あたしを愛してるから?」
少しの間を置いて、真実を語る唇が、なおも静かに言葉を紡いだ。
「…俺の愛する女は、今までも、そしてこれからも、たった一人だ」
むろん、それは自分ではないのだ。分かっていながら、マルガレーテは確かめずにはいられなかった。
「それは…ガーネット姫なのね」
ジタンは目を閉じ彼方へ思いを馳せる。そして渾身の想いを込めて、肯定した。
「そうだ」
最後通牒。
痛切な悲哀がマルガレーテの眉の間に浮かんで消える。
この男は、人を陥れるような卑劣な人間ではなかった。口先を飾って女を利用しようとする男でも、保身に走る男でもなかった。真摯な想いのこもった最後の一言が、それを立証していた。
だからこそ――それは彼女の心を打ち砕いたのである。
再び眼を見開いた時、彼女の気持ちは定まっていた。
彼女は言った。淡々と。何の感情も込めずに。
「あなたは正直な人ね。分かったわ。もう気はすんだから。だからあなたを――逃がしてあげる」
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