〜おくつきに瞑る夢〜


最終章 記憶が君を呼ぶ声



 ルビイはずいぶん遅れてやってきた。
 彼女にしては珍しく、髪を振り乱して息せき切って走りながら。
 夕食の片づけを終えて竃の火も落としてしまった厨房には、もう誰もいない。使用人が怪しまれず、しかも人目にたたないここは、密会するには格好の場所だった。
 待つのは得意な方ではない。むしろかなり気が短い人間だと自負している。苛々しながら待っていたブランクは、怒鳴ろうとした口をそのままむっと引き結んだ。
 ただ事ではないルビイの様子に気づいたからだ。
「どうした?」
「ブラガンサが来たやろ?」
 ルビイは苦しそうに息を弾ませ、肩を泳がせた。
 ドゥアルテ・ブラガンサ。バクーの読みによれば、マルガレーテの後ろ盾とみせかけて、その実彼女を裏から操っている黒幕である。
 アヴィス家の領地が没収になったとき、彼はまだ一介の賈人に過ぎなかった。だがアヴィス家の没落に歩調をあわせるように、この頃から彼は武器の商いに手を初めている。多量の武器を調達する元手をどこから捻出したか、誰も知らない。だが現実に彼は商売を始め、瞬く間に軌道に乗せて財を成したのである。
 野心に溢れる男がアレクサンドリアの貪欲な女王に目をつけるのは当然の成り行きだった。好戦的な彼女に取り入り、戦意を煽って武器を売りつける。
 確かに商才には富んだ男だった。無謀に思える女王の注文にもドゥアルテは完璧に応じたのだ。その功績に対する褒美として、女王はアヴィス伯爵領を下賜したのだった。
 一説にはそのとき、どこの所領を望むか問われたドゥアルテが、自らアヴィス領を所望したのだともいう。何となれば、そこは彼が頂に向かう第一歩を記した土地だからである。・・・バクーが彼を黒幕と考える理由はそこにあった。
 その街で、突然彼の上に大金が降ってきたのだ。
 時、場所。出来事。符牒は見事に合う。
 だが今の段階では、それはいずれも状況証拠に過ぎない。それを立証するための証拠を探して、今バクーたちタンタラスが走り回っているはずだった。
「そのタンタラスの動きに、気づいたみたいなんや」
 少し落ち着いてきたのか、ルビイは桶の蓋を開けて柄杓に水をすくった。ごくごくと喉を鳴らして一気に飲み干すと、唇についた水滴を手の甲で拭う。
「お前がマルガレーテを引き止めておいて、その隙に俺がジタンを助け出す。そういう計画だったはずだよな。ドゥアルテがタンタラス団の動きに気がついたのは分かるが、それとお前と何の関係があるんだよ」
 少々ブランクはご機嫌斜めである。
 だが機嫌の悪さならルビイも負けていない。
「だから言うてるやろ!?うちらの動きに、あの男は気がついたんや。ジタンをてっとりばやく火炙りにしたんは、ジタンが生きてて冤罪が晴れたら困るからやろ?ってことは今ジタンが生きてるのはものすごく都合の悪いことやん。だからすぐに手をうってきたんや。あいつ――司法長官の息のかかった兵隊、仰山連れてきてんねん。しらみつぶしにこの屋敷調べて、ジタンを殺す気や。せやから、うち、あいつの動きを張ってたのや。早くジタンを探し出して、助け出さんと、やられてしまう!」
 すがるようにルビイはブランクのむき出しになった腕を握り締めた。
「何人くらいだ」
「え?」
「仰山って、何人くらいなんだよ。一個小隊分くらいいるのか?」
 予想外の展開に、ブランクも動揺を隠せない。だが彼はうろたえはしなかった。ともすれば誇張の混ざりがちなルビイの情報を、きちんと正確なものに修正する。
「う、ううん、全部で…十人ってところかな。三人が射手で、屋根の方に向かっていった」
「分散したのか…。それなら俺たちだけでも何とかなるな」
「ジタンは?ジタンはまだあの部屋につながれてんの?」
「鎖は切った。あの女が男に会いに行ってる隙に」
「なんや、じゃあ、もう逃げられたんやな」
 ほっとルビイが表情を緩める。だがその正面に立つブランクは苦虫を噛み潰したような顔で腕を組んだ。
「…あいつ、逃げねえなんてほざきやがった」
「へ!?」
「あの女を見捨てて置けないんだってよ。けっ!反吐が出そうになるぜ。あいつのお優しい心のおかげで俺たちの苦労は水の泡、姫さんは泣き暮らす、ってわけだ!」
「ちょっと、それどういうことやのん?ほなジタンはまだこの屋敷の中におるん?」
 黙ってブランクはうなずく。
「それやったらすぐに知らせにいかなあかん!」
 血相を変えて厨房から飛び出そうとしたルビイは、戸口から乗り出しかけた身を慌てて引っ込めた。
「どうした?」
 先程よりさらに青白く血の気を失った顔で、ルビイは喉を押さえている。衝撃に息が詰まったのだ。
「どうしたんだ?ルビイ」
 言いながらブランクは足早に戸口に向かう。ルビイの答えを待つより自分の目で確かめた方が早いと思ったのである。ひょいと廊下に顔を出し、彼もまた絶句した。目に入ったのは、回廊の細い柱の向こうに消えてゆくジタンとマルガレーテの姿だった。
「どうしてや。なんでマルガレーテがジタンを連れて部屋を出てんの?」
 ブランクの背後から彼に合わせて再び外を覗きながら、ルビイが口走る。
「どこに行こうってんだ?まさか…」
「回廊を渡った向こうには通用門に続く出口がある」
 二人の頭の中にはこの屋敷の構造が細部に渡るまで刷り込まれている。彼らが何のために通用門に向かっているかは瞭然だった。
「逃がす気なんやろか」
 ルビイの希望的観測をブランクはにべもなく否定する。
「あいつがそんなやわな玉かよ。…射手は屋根に向かったんだったよな」
「うん」
「通用門は…棟の間のちょうど開けた場所にある。門が小さくて人目にはつかないが、屋根からなら丸見えの位置だ」
「ってことは…」
 二人は顔を見合わせ、息を詰めた。
「屋根から狙い撃ちするつもりだ!」
 言うや否やだっと走り出そうとするブランクの腕をルビイは慌てて押さえる。
「どうするつもりなん?」
「まずはジタンに知らせねえと!」
 と、そのとき。
 ブランクの言葉に被さるように、慌しい複数の足音が廊下に響き渡った。
 咄嗟に息を潜めてテーブルに身を隠す二人。
 足音が十分に遠のいてから、ルビイがそっとブランクに囁いた。
「なんやろ、今の足音」
「…軍靴だったよな。あれは。…残りの七人はしっかりジタンをマークしてるってわけだ。逃ささねえように」
 ブランクは唇を噛み締める。
「どうする?ブランク」
 間近で自分の指示を待っているルビイの目。口とは裏腹にブランクのことを信頼しきっているのがありありと分かる目だ。
 彼は苦笑して頭を振った。
 テーブルの下にかがみこんだ状態で、ルビイの頭を乱暴に引き寄せる。柔らかな髪に顔をうずめ、彼は決断を下すように低く囁いた。
「射手を倒そう」
 腕の中で、ルビイの髪が揺れた。

 女の手にした蝋燭の温かみを帯びた光が回廊の柱を闇夜に浮かび上がらせる。
「ここは昔<白亜のおくつき>と呼ばれていたの」
 部屋を出てからというもの、女は休みなく喋り続けている。それは打ち解けてきたせいなのか、それとも何か他の感情を押し隠すためなのか。
 ジタンは押し黙ったまま床に目を落とし、じっと女の声に耳を傾けていた。
「墓だなんて縁起が悪いっていう召使もいたわ。でも私はその呼び名が好きだった。魂が眠る場所。永遠の平穏が約束されてる場所って意味ですものね」
 廊下をすべるように流れてゆく蝋燭の光。
 彼女の後ろをゆっくりと歩くジタンには、彼女の顔は見えない。ただ静かな語り口だけが、彼の耳朶を打った。
 口からこぼれ出る言葉とは何と雄弁なものなのだろう。ジタンは胸中密かに嘆息する。言葉の意味が、ではない。それを語る人間の体温が、表情が見えないだけに直に伝わってくるのだ。
 女が押し込めている感情の意味するものをジタンは肌に感じ取っていた。だが自分を待ち受けるその運命を、彼は従容と受け入れるつもりだった。
「ここは、あんたにとって墓場そのものだったのかもしれないな」
 間断なく続く彼女の語りが途切れた時、ジタンはぽつりと呟いた。
 自分が誰からも疎まれ必要とされていないという思いは、人の心を縊り殺す。彼女は重い棺の蓋を開けることを拒んで、結局自らこのおくつきに篭る生き方を選んだのだ。ただでさえ傷つきやすい繊細な魂が生き延びるためには、それは必要不可欠な選択だったのかもしれない。ただ、それがさらに彼女の孤独に追い討ちをかけることになってしまっただけだ。
「あなたは救世主だと思ったわ。風みたいに私を淀んだこの室からさらっていってくれると思っていたの。なのに、金色の風は私を置いたまま消えてしまったわ。――何の痕跡も残さずに」
 ふっと、かすかな吐息が零れた。マルガレーテが小さく笑ったのだ。
「ひとつだけ聞いて良いかしら」
「ん?」
「なぜあの夜――私に手を出さなかったの?最後までいっしょにいてくれたのに」
 真夜中の中庭。吹きすぎてゆく微風に乗って、細い声がジタンに届く。
 ジタンは一呼吸置いて、そしてゆっくりと応えた。
「あんたが好きだった」
 女の足が止まった。手にした蝋燭が小さく震える。
「そして、俺にはあんたを背負うことはできないと思った」
 十五歳だった。娘は十分に魅力的で、しかも美しかった。孤独な哀しみに縁取られた美しさは、少年だった自分の心を虜にしそうだった。だが、同時に賢しい彼には見えたのだ。少女の背負う業が。そして、自分が決してそれをともに背負ってやることはできないことも。
「俺は自分の定めだけで手一杯だったんだ」
 余計な厄介ごとは背負い込みたくない。そんな打算も確かにあった。懊悩する少女の姿の向こうに、二重写しのように浮かび上がる自分の姿。それは彼に、彼の抱える孤独を思い知らせた。
 誰が相手だろうと同じなのだ。
 どうしたって自分の重荷から逃れられることはできないし、だとしたら相手を丸ごと受け入れてやるなんて芸当は自分には出来やしない。ずっとそう信じ込んでいた。彼女(ガーネット)に会うまでは。
 マルガレーテは再び歩き始めてからも、しばらく黙り込んだままだった。
 彼女の葛藤がその薄い肩越しに見えるような気がした。
 やがて二人の視界が不意に開けた。
 建物の外に出たのだ。
 敷き詰められた芝の絨毯が、噴水と庭園を抜けて向こうのアーチまで続いている。
 アーチのすぐ際にこの城の中で最も大きな中の対がそそり立っていた。
「噴水の片側に小さな階段があって、それを下るとバラの小道があるの。ちょっと歩けば通用門にたどり着くわ」
 青と赤の月が空を満遍なく紫に染め上げている。幻想的な月明かりの下、ぼんやりと光る広い庭の風景。マルガレーテが手元の蝋燭を吹き消すと、それはいっそう際立って見えた。
 マルガレーテは初めて後ろを振り返った。
「ここからは、一人で行けるわよね」
 降り注ぐ強い月の光。女の顔には濃い影が落ちていて、表情を伺うことは出来ない。
 助かった、とジタンは思った。さすがに最期まで重たい気分を引きずるのは御免被りたかった。
「あのさ」
 老婆心かもしれない。だがジタンは敢えて口に上らせた。
「あんたと別れてから、俺もいろんな経験をしてさ。ひとつだけ、確信したことがあるんだ」
 急に饒舌になって説教まがいの話を始める男を、女は不思議な気分で見つめる。
 なぜ今更そんな話を始めるのだろう。
「人は、絶対に一人じゃない。孤独なんかこの世の中には絶対にない。心を開けば、本当はたった一人でも自分を思ってくれてる人を見つけられるんだ。あんたにだって、見えるさ。絶対に、見えてくるさ。だから――やけになるなよな。今ままでずっと、辛かったんだろ?――もう、幸せになっていいころだよ」
 優しい吐息と共に零れる言葉が、深閑とした庭に静かに響いた。
 女の目からとどまりきれずに溢れ出した雫は、濃い影に隠されて闇に溶け込む。
 どこからも誰かも見えないはずのその涙を気配の中に感じ取って、ジタンは深い笑みを口元に浮かべた。そして、踵を返した。
 噴水に向かってゆっくりと歩き出す。
 何も語らない男の背中。
 不意にマルガレーテは気づいた。
 この男は、知っているのだ。これから何がその身に起こるかを。
 あの言葉は、彼の遺言だったのだ。――と。
 中の対の屋根の上で、何かが鈍く光った。それは間違いなく、月明かりに照らされた弓弦だった。

「こっちがバルコニーや。こっから屋根に上れるはずなんやけど」
 手すりの上に立って、屋根の縁にしがみつくルビイ。ブランクは小さく舌打ちすると彼女の細い手首を掴んで思いっきり引き上げた。勢い余ってルビイはブランクの腕の中に倒れこむ。
「しっかりしろよ、あねさん!なに女ぶってんだよ」
 その体を立て直してやりながらブランクが突っ込む。
「女やねんっちゅうに」
 照れくささを隠すようにルビイはそっぽを向いて、ずかずかと歩き出した。
「おい!気をつけないと足場が悪いから滑って…」
 ブランクの言葉をルビイがいきなり遮る。棒立ちになって、大きく目を見開いている。
「いかん!ブランク!兵士らもう矢をつがえてる!」
「なんだと!?」
 ブランクがルビイの横に駆け寄った。
 雲ひとつない夜空の下、強い月明かりに浮かぶ大きな弓。十分に引き絞られたそれは今まさに狙いを定めようとしていた。
 時間はなかった。
 二人はすっくと屋根の上に立ち上がり、一気に兵士に向かって駆け下りた。
「うおりゃあああ」
 よく鍛えられたえり抜きの兵士たちは、突然の大声にも全く動じない。二人の射手はそのまま引き絞った体勢を崩さず、残った一人の兵士が二人の射手をかばうために身を挺して立ちはだかり矢を放った。
 構わず射手に突っ込んでゆくブランク。
 だが――時既に遅かった。
 一瞬の差で射手の弓を放れた二本の矢は、唸りを上げて一直線に通用門へ向かっていた。