A bell rings on the hill.

 <2>

 透明な光が降り注ぐ午後の中庭。晩夏の緑は少し日に焼けて、秋の匂いを含んだ涼やかな風に揺れている。
 木々をおしつつむ薄い日差しを背景に、逆光で暗く浮かぶ東屋がぽつんとひとつ。その影の中に探していた人を見とめて、ジタンは自然、急ぎ足になった。
「ガーネット」
 名を呼ぶと彼女は振り向いた。花のような笑みを浮かべて。

「うまくいきますかなあ」
 執務室の机にうずたかく積もった書類をめくりながら、シェダ宰相が息を吐く。
「大丈夫でございますよ。何と言っても、本当によく我慢なさいましたもの、あのお方は」
 午後の茶を運んできた女官長が、空になった盆で口元を隠し、おほほと笑った。
「ですなあ。ヴァランタン卿としてこの国にお見えになられてからかれこれ――2年になりますか」
 シェダ宰相は運ばれた茶を美味しそうに啜る。
「アレクサンドリアがまず安定してからでないと結婚などできないというガーネット様のお気持ちを汲んだのでしょうなあ。陛下は決してそんなことは口に出されませんから、かの御仁は敏感に感じ取ったのでしょうが、いやそれにしても、同じ男からすると天晴れな我慢というべきですな」
「まあ、女の目から見てもそうですわよ。まるで、――そうですね、優しく、やわらかく張り巡らされたくもの糸みたいな気が致しますわ」
「くもの?」
「ええ。初めはわからないように、ガーネット様が傷つかないように、道化で隠した恋の糸をそっとめぐらして…そして姫君が気がついたときには、もう身も心もジタン殿の糸に包まれて離れられなくなっておしまいになる」
「賢しらな計略ですな」
「でもすばらしく忍耐のいる計略ですわ。ですから私、ジタン殿ならガーネット様をお任せしてもいいと思いましたのよ」
「どうりで支度にずいぶん時間をかけたわけだ」
 くすくすと女官長は笑い声を洩らし、そして大きく肯いた。
「ええ、あんなに磨きがいのある殿方は初めてでしたよ。おぐしを整えてガーネット様のお父上の装束を召していただいたらもう…」
 二十も若返って娘に戻ったように女官長は頬を染めた。
「まるで夢の国の若殿のようなお美しさでしたわ」

 そのこの世のものならぬ美しい若者は美しい午後の庭園にいた。白いタブレットとジャケットをまとい、その上に丈の長い純白のパルダメントゥム(マントのようなもの)を羽織っている。大きな歩幅で近づいてくる彼の背中で、それは風と光をはらんで揺れた。
 ガーネットは目を見開いて、近づいてくる彼をみつめた。
 どこか、ひどく懐かしい気分にさせる情景だと思った。背の高い美しい若者。身にまとった純白の正装。
 そうだ。遠い記憶を手繰り寄せながら彼女は思い至る。
 お父様の姿に似ているのだ。――実の子どものように自分を慈しんでくれたあのアレクサンドリアの父に。

 ガーネットの視線に気がついて彼は歩を止めた。照れくさそうに一瞬足元に目を落とし、そしてすぐに顔を上げて真っ直ぐにガーネットを見た。
 淡い光を金色の髪が弾いてきらきらと輝く。
 美しい、とガーネットは思った。ほんとうに、天の使いのように彼は綺麗だ。どこから見ても凛々しく颯爽とした見事な貴族の若殿だ、と。
 その目の前にジタンは跪いた。
 そっとガーネットの手をとり、その白くたおやかな甲に口付ける。
「ガーネット・ティル・アレクサンドロス」
 彼が彼女をフルネームで呼ぶことなどかつてなかった。それが何を意味するか、いかにニブチンのガーネットだって薄らとは分かる。心臓が口から飛び出しそうだった。彼女は薄いオレンジのドレスの胸元をきゅっと握り締めた。
 無論、心臓が飛び出しそうなくらいどきどきしているのは彼女だけではない。もう一人の当事者も、緊張の極に達していたのだ。だが彼はその張り詰めた心をおくびにも出さなかった。堂々と、威厳をもってジタンは言葉をつないだ。
「あなたを愛している。どうか私と結婚を――」
 勇気を絞りその言葉を口にした、その直後だった。
「ごめんなさい」
 意外
 を通り越して、幻聴としか思えない応えが彼の耳に飛び込んできたのだ。
 ジタンは固まったまま、
「え?」
 と空ろな声を洩らす。
「ごめんなさい、私…。わがままなのは分かっているのですけれど…」
 ガーネットが繰り返した。二度も幻聴が聞こえるわけはない。
 愛らしい彼女の声ははっきりと、残酷な槌を彼の頭上に振り落したのである。
 一瞬にして視界も頭の中身も真っ白になってしまって、――それから後どうやって城の部屋に戻ったのか、どうやって飛空艇に乗ったのかすら、ジタンは覚えていない。

 意識を取り戻したのはリンドブルム城の上空だった。
 舵を握り締めたまま、ようやく何が起こったのかを思い出して彼は顔を歪めた。
 世界中の災厄がいっぺんに降りかかってきたみたいな気分だった。
 最悪、という言葉は、まさに今の自分のためにあるのだと、彼は思った。自嘲の笑いを口の端に刷いて。

「どうしてなのか、いくら考えても分からないんだ。ダガーが…なんで断ったのか」
 ソファに深々と身を沈めて、ジタンは両手で頭を抱え込んだ。
「うむ…」
 唸ったきり、シドは口をつぐんでしまう。応えようがないからだ。
 もちろん、どうしてか聞いても、シドに分かるわけがないことは、ジタンだって重々承知の上である。それでも聞かずにいられないほど彼は追い詰められているのだ。
「おっさんにさ」
「んあ?」
「おっさんに――いや、大公に前聞いただろ?作法にのっとった求婚はどうやればいいか。俺、そのとおりにやったんだぜ?最後の詰めに、女官長にも聞いて、確認して、リハーサルまでやって、準備万端整えてガーネットにプロポーズしたんだ。絶対無礼だったり下品だったりした覚えはないのに・・・なのにどうしてこんなことになるんだよ」
 八つ当たりだと分かっていながら、答えの出せないもやもやした気持ちをシドにぶつけてしまう。
「あー、それは暗にわしを責めておるのかな?わしの教えた作法に間違いがあったと?」
 穏やかにシドは返した。ガーネットの女心は雲を掴むようなもので見当もつかないが、負の波長に絡めとられている人間に対する処し方なら彼はよく心得ている。一緒になって色めき立っても意味はないのだ。
 ジタンもそこは分かっているから、決して激することはない。だが厄介なのはむしろこの意気消沈した沈鬱な心の方かもしれなかった。
「いや…。もしあったとしても、でもそんなことで旋毛を曲げたりするやつじゃないもんな、ダガーは…。だから余計分かんないんだ。あいつ、俺にもう興味がなくなったのかな?それとも――他に好きなやつが…」
「ジタン!それこそ有り得ぬことを、誰よりもお前が一番よく知っているはずじゃろう」
 彼らしくもなく悲観的な口ぶりになってしまうジタンを、シドは強制的に遮った。
「とにかく、今日はもう休め。どん底に沈んで煮詰まっておるときにあれこれ考えても詮無いことじゃ。打開策は見つからぬ。それより、一晩ゆっくり眠れば、明日にはなにか策が湧いてくるかもしれぬぞ」
 有無を言わせぬ迫力に圧されたのか、ジタンはふっと初めて笑みらしい表情を浮かべた。
「そうだな――。確かに、いくら考えたって泥沼にはまるだけだし」
 諦観に裏打ちされた虚無的な笑みではあっても、とりあえず鬱屈した顔よりましである。そして無理やり作った表情でも、その人間の心に影響を及ぼすことがあるという。
 笑顔が、少しでもこの青年の助けになればいいのだが。
 ふらりと立ち上がって、おぼつかない足取りで部屋を出てゆく彼の背中を眺めながら、シドはそんなことを考えていた。
 と。
 ゴキ!
 鈍い音が部屋に響いた。
 ジタンが扉にぶつかったのだ。
 重い黒檀の扉である。ずっしりとした重量感と存在感があって、イヤでもそこにあることがわかってしまう、そんな扉だ。なのに彼はそれにぶつかったのだ。そしてシドが見ている前で彼は呆然とノブを握り、声をたてるでなく痛がるではく恥ずかしがるでなく――ふらふらと廊下に姿を消していったのだった。
「…末期症状じゃな…」
 たいてい何でも面白がるシドだが、このときばかりはジタンに同情を禁じえないようだった。

 晩夏の遅い日暮れ時。執務室にもそろそろ灯が入る時刻だ。そのランプを持ってきたのはいつもの侍女でなかった。
「ガーネット、いる?」
  ひょっこり顔を出したのは紫色の髪の少女である。
「エーコ!どうしたの、突然。おじ様は?」
 傷心のあまりジタンは行方をくらましてしまっているはずなのに、ガーネットはいつもと変わらぬ鷹揚な笑みでエーコを迎えた。
「お父さんもお母さんもリンドブルムよ。エーコひとりで来たの」
 そのガーネットの反応がどうにも癇に障って仕方がないエーコは、おのずと冷たい口調になってしまう。
 なのに、それすらもガーネットは気がつかないようなのだ。
「まあ。まさか黙って出てきたりしてないわね?」
 なんて暢気にエーコの心配をしている有様である。
「うーん…そんなに長居しないもの。聞きたいことがあるから来たの。聞いたらすぐに帰る」
「聞きたいこと?」
「そう。あのね、ジタンはガーネットにプロポーズしたんでしょ!?」
 いきなり単刀直入に切り出されて、ガーネットはぼっと首筋まで赤くなった。
「え…ええ。でもどうしてエーコがそのことを知っているの?」
 幸せそうに恥らうガーネットにエーコは冷ややかな一瞥をくれる。
「ジタンがリンドブルムに来たの。すごく落ち込んでた」
 ガーネットは思わず腰を浮かした。
「ジタンが?落ち込む?どうして――何かあったの?」
 あのジタンが消沈するなんて、余程の事がない限り考えられないのだ。一体彼の身にどんな大異変が起こったというのか。
 気がかりでならないような痛切なその表情に、偽りはない。
 じっとその一部始終を見守るエーコは、だんだん訳が分からなくなってきた。
「何がって…ジタンがそんなふうにどつぼにはまるのって、ダガーのことに決まってるでしょ!」
「私の?」
 対するガーネットも狐につままれたような顔をしている。
 どうも全てがぼんやりとしていて、事実も真実も見えてこない。エーコは無性に腹が立ってきた。
「ジタンがどうして突然姿を消したか、不思議に思わなかったの?不安にならなかったの?」
「だって、彼が何も言わずにふらっと出かけるのなんて日常茶飯事なんですもの。聞きたいのはこっちの方だわ。ねえ、どうしてそんなに怒ってるの?彼に一体何があったっていうの?」
「ああ、もう、ダガーがジタンのプロポーズを断ったからでしょ!だからジタン滅茶苦茶に落ち込んで、お父様のところに泣きにきたのよ!全部ダガーのせいなんじゃない。なのに、なんでそんなに平気な顔してられるの!?エーコにはわかんない。エーコだったらジタンにあんな顔させたりしない。すぐにうんって言って、ジタンに飛びかかるんだから!」
 堰が切れたように腹の中の思いをきれいさっぱり全部ぶちまけてしまって、エーコはぜいぜいと肩を泳がせた。
「ジタン、かわいそうだったんだから。なのにダガーったら全然いつもと変わんなくて。ジタン、かわいそうなのだわ」
 大きな翡翠みたいなきれいな目が瞬く間に潤む。今にも泣き出しそうな少女の肩を、ガーネットは静かに掴んだ。そしておもむろに彼女の前に膝をついた。
「ねえ…」
 エーコと目の高さを合わせて、ガーネットは顔を寄せる。
「私が、断ったって…ジタンがそう言ったの?」
 こくんと、エーコは肯いた。下を向いた拍子に、留まりきれなかった雫がぽろぽろとこぼれおちる。
「ジタンすごくショックうけてた」
「でも――変ね――私、断ったつもりではないのよ」
「へ?」
「ただ、伝えたいことを言って、顔を上げたら――そこにジタンはもういなかったの。だから…彼がどこまで聞いてくれたのか分からないけど、でも、私、断ったりしてないわ」
「へっ?」
 あんまりな成り行きに、いっぺんに涙が引っ込んでしまう。エーコはびっくり眼でまじまじとガーネットを見詰めた。
「そうなの?じゃあ、OKしたの?」
 ガーネットは大きく肯いた。