1.憧憬

 青く凪いだ海をかきわけて船は進む。
 一体どこに行きたいんだい?
 問われて、どう答えたものか一瞬少年は考え、それからおもむろに口を開いて故郷に帰るんだと素っ気無く言った。
「へえ、兄ちゃんの故郷ってなあ、どこなんだい?」
 今朝方には風が止んだ。上空の様子も安定している。当分ひどい嵐も雨もなさそうな気配だ。そのため船乗りたちはいつもより少しだけ饒舌だった。
「あんまり、人には言いたくない」
 根掘り葉掘りしつこく聞かれるのはごめんだった。少年はそれきり押し黙ると、ふいっと立ち上がって甲板に向かった。
 なんでえ、愛想のねえガキだぜ。せっかくタダみたいな船賃で乗せてやったのによ。
 水夫が彼の背中に毒づく。だが少年は無表情のままそれを聞き流した。罵声の方が煩わしい人付き合いよりマシだと言わんばかりに。
 
 甲板に上るやいなや、きつい潮の匂いが鼻をついた。
 海にも匂いがあるのだと言う事を、昨日初めて少年は知った。それまで海原を旅したことなどなかったのだ。家族同然の団員たちと遠出する時は決まって飛空艇を使っていたから。
 プリマビスタ、という愛らしい名を持つその飛空艇を懐かしく思い出しながら、彼はぼんやりと仰向いた。
 光がまぶしい。
 雲ひとつなく晴れ渡った空。
 あまりにも風がないため、白帆は幾分だらしなく垂れ下がっている。そのメインマストの太い柱の下を通って少年は舳先に向かった。
 今はさび付いたエンジンの力でなんとか前に進んでいる状態だが、それでも尖った舳先は白波をたて、船の両脇に沿って白い泡の筋を青い波の上に描く。
 飛空艇に比べると、実にゆっくりした進み具合だったけれど、かえってそれが少年にとっては好ましかった。
 故郷を探したい。そう思って養い親のところを黙って飛び出してきた。だが飛び出したはいいが、一体どこに行けばいいのか彼にも全く見当がつかなかった。自分の故郷がどこなのか、彼は知らなかったから。
 手がかりはただ一つ、記憶の奥底に残る青い光だけなのだ。そんな状態で家を出たって、あてどなく彷徨う羽目になるのは目に見えている。養い親が許すわけがない。だから、街に遊びに行くようなふりをして、そのままリンドブルム港から船に乗った。客船に乗れるような金は持ち合わせていなかったから、乗せてくれる貨物船を探して頼み込んだ。
 この貨物船の船員たちはおおむね気さくで気の良い人物たちだったが、ただ、気さくな人物にありがちな知りたがりのお節介揃いだった。一人旅をしている弱冠十三歳の少年を放っておくことなんかできるわけがない。
 それでも乗船した直後には海が荒れていたので他人事どころではなくて、彼らは必死に船を守るために立ち働いていた。天候が落ち着いて、帆をたたむ必要も、水をくみ出す必要も舵を固定する必要もなくなってしまって初めて、彼らは珍客のことを思い出したらしかった。
 まとわりつかれるのを嫌ってジタンが――少年の名はジタンと言った――逃げ出したことを不服に思っても、きっと船乗りたちは数秒でそのことをコロリと忘れているだろう。そしてまた親切という厄介な衣を被って、興味津々でジタンの周りに集まってくるに違いなかった。
「おーい、少年!飯ができたぞ!」
 甲板に顔だけ出して水夫が大声を上げる。
 首だけ返して肯いてみせ、ジタンはかすかに苦笑いを浮かべた。
 絶対、また肴にされちまうんだろうなあ。
 聞こえないようにそっと口の中でぼやきながら、呼ばれるまま彼は下に降りていった。

 案の定、肴だった。
「で、どこが故郷なんでえ。教えてくれなきゃあ、おめえを目的地まで運んでやれねえぞ」
「第一、この船がどこ行きかおめえ、知ってんのか?」
 ほろ酔い加減で口が滑りやすくなった彼らが、よってたかってジタンを質問攻めにする。もともと彼らの温情にすがって乗せてもらっている借りがあるうえに、周囲をこうも取り囲まれては、さすがのジタンも逃げようがない。
「蒼い…」
 仕方なく口を開いたジタンの答えを最後まで聞かないうちに、一人の船乗りが早合点して決め付けた。
「ブルメシアか!」
「え?」
 いきなりの台詞にジタンは面食らう。
「蒼の王都だろうがよ。え?違うのか?」
「蒼の王都?」
 きょとんとして復唱する少年を赤ら顔の男は訝しげに眺めた。
「ああ、ブルメシアの別称さ。――知らなかったのか?」
「いや――ところで、この船ってそこに行くのかな」
 思いがけず鋭い切り返しに内心戸惑いつつ、ジタンは懸命に平静を装う。だがあまり上手い交わし方とはいえなかった。どう考えても話を逸らそうとしているのがあからさまだ。…にもかかわらず、この人のいい水夫たちは簡単にそれに乗ってしまう。
「残念だが逆方向だ。こいつはアレクサンドリア港まで荷物を運ぶ船だからなあ」
 一番年嵩な小太りの男がパイプに草を詰めながら首を振った。
「でも頭、ブルメシアの王都に行くならブルメシアの浜よりアレクサンドリアから山越えで行った方が安全で近いっすよ。あすこはエレノウ海岸とイージスタン浜しかないでしょう?エレノウ海岸には船は近寄れやしないし、イージスタン浜から行くにはあのウヴ砂漠を越えなけりゃならないし。こいつの装備じゃどう考えたって砂漠越えは無理ですよ」
 まだ若い精悍な顔つきの男が意見する。彼が頭と呼んだ小太りの男は水主頭(かこがしら)だ。船長とは別の、船乗りの長である。そして彼に意見したのが次席に位置する舵取りと呼ばれる水夫だった。二人の頭の中には霧の大陸の地図がきちんと方位を合わせてしまいこまれている。
「まあ、そういやそうだな。ウヴは…そんな軽装備じゃあ自殺しに行くようなもんか。何しろ相手は魔物じゃなくて大自然だからよ」
 パイプをくゆらせて頭が唸った。
「で、つまりそのブルメシアに一番近いアレクサンドリアの港には行くんだよな」
 ジタンが念を押す。
「まあな。船主さえ了解してくれりゃあ、ちょいと足を伸ばしてトグル浜まで行ってやってもいいんだが」
「構わんよ」
 この船の船主兼荷主である背の高い男が不意に階上に姿を現した。和やかな砕けた雰囲気だった船倉が一瞬にして固まる。この船の最高権力者の登場に、水夫たちは強張った顔で慌てて酒瓶を背中に隠した。
 だが船主はそのことについては全く頓着せぬ様子でゆっくりと梯子を降りてきた。船の中で、しかも晴れた暖かい日だと言うのに黒いマントで全身を包んでいる。フードまで深々と下ろしているものだから、表情は全くうかがい知れない。しかし、黒い影から発せられた声は、至極穏やかだった。
「ちょうど私もメリダアーチまで行かねばならぬ用があってね。ブルメシアまでは送っていってあげられないが、途中までなら道案内してあげてもいい」
 ゆったりとして温かみのある、よく響く声。
 人の魂を吸い寄せてしまうようなその響きに、だがジタンは屈しなかった。つとめて無表情を保ち、大きく首を横に振る。
「…いい。自分で行ける。アレクサンドリアのどっかに下ろしてもらえたら、オレはそれでいい」
「ったく、本当に強情なガキだぜ。こんなお優しい立派な船主様はそうそういねえぞ」
 舵取りがジタンの頭を小突く。それでもジタンはにこりともしなかった。
「…いい。てめえのケツはてめえで拭けって、ボスに言われてんだ」
 この船に乗ってからというもの、万事がこの調子だった。
 むっと口をへの字に曲げて一生懸命に主張する少年を、周囲の大人は半分呆れつつ、半分微笑ましげに眺めるのだった。

 アレクサンドリア港には翌朝早くに到着した。乳白色の靄がたちこめる早朝の港で人足たちがせわしなく荷の積み下ろしをしている。水夫たちは一時の休暇を与えられて陸(おか)にあがり、瞬く間に街に散らばっていった。あとに残されたのはジタンと船主だけだ。二人は並んで甲板の手すりにもたれかかり、下を覗いていたが、あまりの居心地の悪さにジタンの方が先に音をあげてしまった。
「オレ、ここで降りる」
 いつも唐突に要点だけを口にする少年の喋り方に、船主はくすくすと笑いを洩らした。もっとも、本当に笑っているのかどうかは分からない。相変わらず彼はフードを深く下ろしたままだからだ。
「ここからメリダアーチまではかなりあるよ。君の足では一日歩き詰めでも丸五日はかかるだろう。がまんして明日まで待てば、明日の昼にはトグル浜に着く。そこからなら山を越えればアーチはすぐだ。…とはいえ、途中に深い森があって、案内人がいなくてはもしかするとそこで旅が終わってしまうかもしれないけれどね」
「…あんた、嫌味な奴だな。そんな深い森を通らなきゃいけないんだったら、こっからそのメリダアーチってとこまで歩いていった方が確実じゃねえか」
 ぶすっとしたままジタンが突っ込む。
「アレクサンドリアの街でスリの真似事でもするかい?今の君の所持金では、五日分の食料は買えないだろう。獣を狩るにも限度があるし、飛空艇に乗れるほどの持ち合わせもないはずだ。それにそんな悠長な旅をしていたら、時間はいくらあっても足りないんじゃないか?」
 図星を指されてジタンは返す言葉を喪ってしまう。
「何が言いたいんだよ」
「おとなしく人の忠告に従うこともたまには大切だって事さ」
 軽い揶揄を含んだ口調で男が言った。妙に訳知り顔な説教に閉口しつつも、ジタンはどこか抗えない空気をその言葉に感じ取る。
「で、あんたに案内してもらえってか?」
 ふっと、微かな吐息を洩らして、男は手すりから身を起こした。
「強制はしない。ただし方向は同じだから、たまに顔を合わすことになるかもしれないな」
 折からの風ではためくフードの縁を両手で押さえ、彼は踵を返す。ジタンの反応など全く意に介さぬような素振りだった。
「あんた――ほんっとに嫌味な奴だよな。水夫たちがなんであんたに一目置いてるか、俺には全然わかんねえ!」
 その幅広い背中に向かってジタンが精一杯の皮肉を投げかける。
 しかし相手は立ち止まりもしなかった。すっと右手を上げると、からかうように親指を立ててみせる。――問題なし、大丈夫、と言う意味の、水夫たちが好んで使う指言葉だ。
「くそったれ!絶対てめえの力なんざ借りねえからな!」
 わめくジタンをそこに置いて、船主の姿は階下に消えた。
 港を渡る風がそこらじゅうに潮溜まりのきつい匂いをふり撒いてゆく。
 ジタンはむずむずする鼻をこすると、鬱憤晴らしに思い切り手すりを蹴り上げた。運悪く足の親指が堅い木枠に激突する。思わず彼は足を押さえて絶句した。
「…ってええっ!くっそおおおっ!全部てめえのせーだからなっ!!」
 腹立ちまぎれに大声で喚く。
 八つ当たりなのは分かっているが、もやもやとした不安を紛らす術を彼は他に知らなかった。
 そう。
 船主の言っている事は全部「いちいちごもっとも」なのだ。
 金はない。そして…どこだか分からない故郷を探すためにこの世界全部を回らなければならないとしたら、そんなに暢気にしていられない。
 癪に障る船主の言うなりになるのはごめん被りたかったが、そんな贅沢を言える状態ではなかった。

 諦めたように彼はため息を一つついて、その場に座り込んだ。
 ふと。
 足を抱えたまま甲板にうずくまって俯くその脳裏に、ひどく懐かしい光が浮かぶ。
 青い…透き通った青い光。
 喩えようもなく幻想的で美しいその光だけが、自分の「底」なのだと彼は思った。
 どうしたってそこにたどり着きたかった。
 そこだけが、自分の着地できる場所なのだと、思った。