2. 時の迷いの森

 トグル浜まで運んでくれた貨物船に別れを告げて、ジタンは久しぶりに土を踏んだ。
 予定を変更して足を伸ばしてくれたことはありがたかったが、隣の暑苦しい男だけはどうにかしてほしかった。冗談だと思っていたのに、本当についてくるとは思っていなかったのだ。
 うっとおしそうな顔で眉間に皺を寄せ、ちらりとジタンは船主に目を走らせた。
 だが意外なことに、当の男はこちらに頓着することなく、陸に上がるや否やスタスタと歩き出した。
「え?」
 思わぬ展開にジタンは目を丸くする。
「おい待てよ、案内してくれるんじゃなかったのかよ!」
 思わず口走り、それからはっとしたように両手を口にあてた。「しまった」とその顔に書いてある。
 男は立ち止まり、もったいぶって振り向いた。
 一人で目を白黒させて狼狽している少年を面白そうに眺めて、軽く肩を竦める。
「一人でやれるんだろう?”絶対てめえの力なんざ借りねえからな!”って言葉をどこかで聞いた気がするんだが」
 からかうような口ぶりに、ジタンはかっと頬に血を上らせた。
「べっ、べつに連れてってくれなんて言ってないじゃねえか!お前が嘘ついてっからそれが気に食わなかっただけだいっ!」
 思いっきり喚く。
 だが男はジタンに近寄ってきて、まるで仔犬をあしらうようにぽんと軽く額を小突いた。
「強情は張り時を間違えると痛い目に遭うぞ。まあ、そこがお前の面白いところだがな」
 フードの奥の声が笑っている。
 ふと――この男は自分のことを以前から知っているのではないかとジタンは思った。そんな口調だったのだ。それがまた癇に障った。船主とは船に乗せてもらうよう頼みに行ったときに初めて会ったのだ。船の中でだってそんなに接触していたわけではない。それなのに、何もかも見透かしたような台詞を吐く男が無性に腹立たしかった。
「知ったかぶりすんなよな!俺のこと何にも知らねえくせに!」
 噛み付くような剣幕のジタンを、やはり余裕綽々でいなしながら、彼は楽しそうにまた口を開く。
「あんまり喚くと魔獣が寄ってくるぞ」
「え?」
「ここは魔獣の巣窟だからな。そら、そこの茂みが動いた」
「ええっ!?」
 男が指した自分の脇をびっくり眼で振り返ったジタンは慌てて男の側に飛んで逃げた。
 くすくすと、本当に楽しくてならぬような笑いを洩らして男は自分の背後に隠れた少年を見下ろす。
「それくらいでびびってちゃ、先が思いやられるな」
「び、びびってなんかいるもんかっ!」
「では、私は失礼するよ。時の迷いの森に行かねばならぬのでね」
「時の迷いの森?」
「ここからメリダアーチに続く山道に出るためには、一旦この山脈を越えなければならない。幸いそんなに高い山ではないから、山越え自体は難しくはない」
 トグル浜の砂地が切れたところから先は、丈の低い草の密生するなだらかな丘陵になっている。やがてそれは潅木に覆われた斜面に変わり、その向こうに、青空を背に従えた峰が聳え立つ。男はほそい頤を上げ、その稜線に顔を向けた。
「だが、問題はメリダ平原側に下りてからだ。向こう側の山すそには大森林が広がっている。うかつに足を踏み入れたら、迷って永遠に出られなくなる」
 ジタンはゴクリとつばを飲み込んだ。
「それが時の迷いの森なのか?」
「そうだ」
「そんなとこに、あんた、何しに行くんだよ」
 少年の問いに、男は即答する。
「君に話す筋合いのものでもなかろう?」
 素っ気無く言われてジタンは小さく唸った。確かに詮索しすぎではある。自分には関係のないことだ。
「けっ、好きにしろよ!でも、俺が先に行く!」
 ててて、と小走りにジタンは山道を上り出した。船主の後について行ってるなんて思われたくなかったのだ。
 その少年の姿にしばし顔を向けていた男は、ふっと低い笑声を洩らしてやおら歩き始めた。ゆったりとした歩調でジタンの後を追う。
 
 頂上にたどり着いたのは真昼を過ぎていた。
 中天に輝く白色の太陽の日差しが容赦なく照りつける。上着を脱いで腰に巻きつけ、ごつごつした岩に腰を下ろしてジタンは額に吹き出る汗をぬぐった。
 そこへ、涼しい顔をした――といってもフードに隠されていて顔は相変わらず見えないが――男がゆっくりとやってきた。彼は今到着したらしい。息も肩もすこしも上がっていない。実に平然と、いつもと変わらぬ様子で彼はジタンの横に立った。
「この分だとふもとの森林を抜けるのは夜中になるな」
 眼下に広がる黒々とした森に目を落として、彼は呟いた。
「え?でも、あとは下りだろ?行きより時間はかからないんじゃないのか」
 座ったままジタンが顔を上げる。
「斜面が急だからな。それだけ道も九十九折になる。上りの倍は歩かなければならん」
「んなもん、突っ切ればいいじゃねえか!」
「出来るものならやってみろ。ここの樹木の枝はかなり堅いぞ。足を滑らせて上に落ちたら枝が突き刺さって一環の終わりだな。葉も細過ぎて緩衝材にはならんしな。俺は運が良い。こんな面白いものが見物できるとは。さあ、遠慮はいらん。今からこの急坂を駆け下りて見せてくれ」
 畳み掛けるような男の扇動にジタンはまたまた顔を朱に染めた。
「お、お前っ!からかってるだろ!分かったよ!道を行けばいいんだろ、道を行けば!」
 まったくもう、すなおにそこは危ないよとか何とか大人らしいアドバイスの仕方はできねえのかよ!
 やけくそで喚き散らしながらジタンは道を下り始めた。
 その姿をしばし見やり、それから男は視線を稜線沿いにメリダアーチへ向けた。ここからはメリダ平野が一望できる。薄らと霧に覆われた平原の向こうで、小さな光がひらめき、ついで煙が立ち上った。一拍遅れて爆発音が届く。
 男は微かに頷くと、それを合図にしたように足を踏み出した。

 一旦迷い込んだら抜け出るのに何年もかかる。
 だからこの森は「時の迷いの森」と呼ばれているのだ。
 男の説明に、さもありなんとジタンは思う。
 頭上をくまなく覆う木々の枝。しばらく針葉樹が続いていたため木漏れ日も幾分か差し込んでいたのだが、麓に近づくにつれ木々の種類は広葉樹に変わり、日差しもふっつりと遮られてしまっている。
 細く伸びる山道は手入れされることもなくほったらかされ、枯れた葉がうずたかく積もったままだ。しっとり湿ったわくらばは、踏みしめると音もなく砕けて土に還る。
 薄暗い森の中では、あちらこちらから獣のものとも魔物のものともつかぬ鳴き声が響いてくる。
 ジタンはごくりと唾を飲み込んだ。
 意地を張って船主と別れたりしなければ良かった。
 今更ながら湧いてくる後悔の念。
 時の迷いの森に入ってすぐに、船主は道から外れたコースを進むように言ったのだ。だがジタンは彼を信用できなかった。彼の申し出を拒み、執拗に道沿いに進むことにこだわった。結果、船主は森の西側へ、ジタンは道を進むことになったのである。
 だが頼りにしたその道もこの有様だ。人が利用した痕跡もない。
 ぞっと鳥肌が立つ。ぼやぼやしてはいけないとジタンは思った。こんなところに長居するもんじゃない。くねくねと折れ曲がった道を彼は駆け抜けようとした。そのとき。
 ぽきっと、ジタンの足の下で乾いた音がした。枝が折れる音に似ているが、それよりもっと乾いて軽く堅い音だ。
 ジタンはびくっとして立ち止まり、そっと左足をあげた。その下から白い細長いものが現れる。屈んでそれを指でつまみ上げ――、それからすぐに「わあっ!」と叫んでそれを放り投げた。
「ひ、人の骨じゃねーかよ!」
 後ずさるとまたぽきっと音がする。恐る恐る当たりを見回し、彼は言葉を失った。
 今まで枯れ葉に埋もれていただけの何の変哲もない道が、その先で途切れている。そのかわりにぱっくりと口を開けているのは洞窟の入り口で…その周辺からジタンが今立っている所まで、おびただしい人骨が散らばっているではないか。
 造られた山道ではなかったのだ。魔物が獲物を誘い込むために作った罠だったのである。
 黒々とした闇に包まれた穴から不意にぐるぐると低い唸り声がした。
 ジタンが体を強張らせる。
 次いで闇にともる二つの赤い小さな光――魔物が獲物に気づいたのだ。
 咄嗟にジタンはナイフを抜いた。護身用にもっていた小さな切り出しナイフで、ものの役には立ちそうになかったが、それでも素手よりはマシなはずだ。
 つつ、と汗が背中に流れ落ちる。
 ジタンの緊張が極限に達した時、どすん、どすんと地響きがして、大きな魔物がゆっくりと穴から姿を現した。
「な、何だあ?草の化け物かよ!」
 大きな緑色の体躯。てっぺんにピンクの花弁らしきものをつけた、不気味な形態の化け物だった。腕と思しき長い緑の触手がうねうねと波打っている。腹の辺りにぱっくりと開いた口には尖った歯がぎっしりと並び、そこから異臭を含んだ息がしゅうしゅうと漏れ出ていた。 
 ジタンは汗で滑りそうになるナイフを握りなおした。
 魔物の体がジタンの方を向く。獲物の位置を確認するように、しばしその場で彼を眺め、それから再び歩き始めた。迫り来る化け物の姿はかなりインパクトがある。しかも、でかい。
「こ、ここは…三十六系逃げるにしかず、って奴だよな?」
 誰にともなく口走ると、ジタンはだっと駆け出した。
 自慢じゃないが逃げ足だけは自信がある。懸命に走りつつ、ちらりと背後をうかがって、彼は途端に絶句した。化け物の触手が彼を追ってきていたのだ。それはもう、ものの見事に伸びきって、ものすごい勢いで彼の体に迫ろうとしている。
「うわっ!」
 その触手を避けようと身を捩ったために、足がもつれてその場に転んでしまった。体を支えるために地面についた手は深い腐葉土にのめりこみ、複雑に絡んだ木の根の間に挟まって取れなくなった。泣きっ面に蜂、弱り目に祟り目である。
 必死に手を外そうともがくジタンをめがけて、気味の悪い触手が今しも襲い掛かろうとしたその瞬間。
 しゅっと風を切って、一本のナイフが飛んできた。そのナイフは過たず触手を切り裂き、そのまま木の幹に突き刺さった。
「まったく、手のかかる小僧だな」
 フードをかぶった男――船主が奥の暗がりから姿を現す。彼はマントの下から盗賊刀を取り出した。ジタンが見たこともない、青い光を放つ美しい刀だった。
 はっとしてジタンは先刻飛んできたナイフに目を移す。オリハルコン。ジタンが知っている中で最高のダガーだ。目が飛び出るくらい高額な代物で…しかも使いこなすのにずいぶん技量がいるナイフだった。
「あんた、いったい…」
 誰なんだ、という言葉は発せられなかった。もう一本の触手がいきなりジタンの喉に巻きついたのだ。
 化け物の本体に向かって突進していた男はちっと舌打ちをすると、軽く跳躍してその触手を切断した。見事な腕だった。緑色の体液を撒き散らしながら、千切れた触手がのたうつ。その向こうにすとんと着地した男はそのままもう一度今度は高く飛び上がり、化け物を頭から両断した。
 凄まじい咆哮を発して化け物の体が左右に分裂する。そのままどうっと地に倒れ、動かなくなった。
 盗賊刀についた体液を払うと、男はマントの中にそれを戻した。
 巻きついていた触手を払いのけ、ジタンはごほごほと咳き込んでいた。手はまだ地面に捕らえられたままだ。戻ってきた男がジタンの傍らに屈み、地面に手を突き入れた。それから力任せに木の根を捻り上げ、隙間を広げた。
「今のうちに手を引き抜け」
 言われるがまま、慌ててジタンは手を引っこ抜く。
 手首が赤くはれ上がっていた。
 船主は何も言わずにそのジタンの手を引っ張ると、腰に下げた袋から膏薬を取り出して塗った。それから布を巻き、ぽんっと叩いた。
「骨に異常はない。軽い捻挫と打撲だ。二三日もすればよくなる」
「あんた――あんた誰なんだ?」
 治療の終わった手をもう一方の手で支えたまま、ジタンは男を見上げる。
 早立ち上がって身支度を調えなおしていた男は、ふと手を止めてこちらに体を向けた。
「只者じゃない。ただの商人なんかじゃない。そうだろう?あんな腕の立つ――しかも、オリハルコンを使いこなせるような奴、商人なわけがない。誰なんだ?なんでメリダアーチに行くんだ?何で俺を助けてくれたんだ?」
 矢継ぎ早な質問を浴びせられて、マントが困ったように少し揺れた。
「ここまでくれば出口はそこだ」
 すっと、腕を上げて男は薄明るい光の差し込む方を指し示した。
「そこまで行けば、また道は開ける」
「なんだよそれ。答えになってねえよ!」
「さっきメリダアーチの所で火の手が上がった。あれが合図だ」
「はあ?」
 訳の分からない男の返答に、ジタンがいらだつ声を上げた瞬間、ぐにゃり、と空気が揺れた。
 それはほんの一瞬だった。
「今、時がつながったな…」
 上空を仰いで男が呟く。
「何言ってるんだ?わけがわかんねえぞ!」
 喚くジタンのすぐ側まで男は寄ってきて、そして静かに彼を見下ろした。
 黒い影に隠された顔はやはり見えなかったけれど、彼が自分を見ていることははっきりと分かった。
「俺はたった今初めてお前と出会ったんだ。だがその瞬間、恐ろしく巨大なエネルギーに弾き飛ばされた。そして一月前のリンドブルムで目が覚めた」
 何のことだか全くジタンには理解できなかった。だが、そんなことにはお構いなく、男は淡々と続ける。
「それが――この時の迷いの森のいたずらなのさ」
 分からないなりに必死に頭の中で解釈し、そして結局分からないまま宛てずぽうで確認してみる。
「時を遡ったりしちまう、ってことか…?」
「そういうことだな。俺はある目的のためにここにやってきた。だが、過去に飛ばされて、たった今もとの瞬間に戻ってきた。いや、戻ってきたというより、時がつながったと言った方が的確かもしれん。今の俺は一月お前とともに船旅をしてここにたどり着いた記憶を持ってる。――妙な感覚だよ。二つの記憶が同時に存在するってのは」
 男は手を差し伸べ、地面にぺたんと座り込んだままのジタンを引っ張り起こした。
「さあ、出発だ。森の出口はすぐそこだ」
 言うや否やスタスタと彼は歩き出した。
 ジタンが慌てて後を追う。
「あんた、あんたホントにメリダアーチまで行くのか?だったらそこまで一緒にいられるよな」
 なぜかジタンはこの男と別れたくなかった。だが男はこの質問には答えなかった。固く口を結んだまま黙々と歩き続ける。その後を小走りについていきながら、もう一度ジタンは繰り返した。
「なあ、一緒にいられるんだろ?」
 と、不意に男が立ち止まった。あまり急だったので、ジタンはもう少しで男の背中にぶつかるところだった。
 男の手が伸びてきて、ジタンの手を掴んだ。
「え?」
 疑問をさしはさむ間もなく、ジタンの体はぐいっと引っ張られて森の外に放り出された。
 それまで視界のほとんどを埋め尽くしていた暗い森が突然取り払われ、だだっ広い平原が姿を現す。森が終わったのだ。
 ジタンはきょろきょろと辺りを見回し、歓喜を堪えかねた面持ちで森を振り返った。
 男はまだその森に佇んだままだった。
「どうしたんだよ、どうしてこっちに来ねえんだよ!」
 ジタンの声に、男はゆっくりと頭を振った。
「この森から俺は出られん。気にせず、お前はこのまま真っ直ぐメリダアーチに向かえ。そのアーチを越えれば、ブルメシアだ」
「な…何言ってんだよ、森から出られねえ?だって俺と一緒に森に入ったじゃないか。出られないわけないだろ」
 言ってジタンは森に戻ろうとした。引っ張ってでも男を連れてこようと思ったのだ。だが、森に足を踏み入れようとした寸前、何かの力に押し返された。まるで透明な膜が張ってあるかのように、森は頑としてジタンを寄せ付けなかった。
「なんなんだよ、これ…」
 為す術なく立ち尽くすジタンを尻目に、男は静かに踵を返す。
「おい!待てよ!せめて名前だけでも教えてくれよ!どこに…どこに行けばまたあんたに会える!?」
 森の奥に姿を消してしまいそうな男の背中に向かって、ジタンは必死に声を飛ばした。
 男は足を止めた。そして言った。
「25年後の、今日、この森に来い。そしたらきっとまた会える」
「25年後?」
「会いたかったらな」
 男が笑ったような気がした。
「わかった。25年後だよな!」
 男の体は見る間に森の闇に溶けてゆく。ジタンは必死に言い募った。
「きっとだぞ!きっと俺はここに来るから、だからあんたも…」
 言い終わらないうちに男は消えた。深い森の中に。
「約束…だぞ…」
 ジタンはその場に佇んで、じっと黒い森を見つめた。
 もうそこには闇のほかに何も見えなかった。