<2> 邂逅-second



 海岸にその少年が打ち上げられたのは、少女が十六の誕生日を迎える前日だった。
 召喚士の里――その頃にはマダイン・サリと呼ばれるようになっていたが――では十六歳は一つの節目の年齢だった。その年に達して初めて一人前の召喚士として認められるのだ。そのため誕生日には必ず村人が一堂に会し、神獣降臨の儀式が執り行われる習わしになっていた。
 その日、翌日の儀式に備えて海水を汲みに入り江に下りた少女は、波打ち際にうつ伏せで倒れている人間を見つけた。
 海藻と砂にまみれてはっきりとは分からなかったが、どうやらまだ若い男のようだった。海藻の合間から、水に濡れそぼった金色の髪と、同じ色の尻尾が見えた。
 少女は怖いもの知らずでおまけに好奇心の塊だった。手近に落ちていた小枝を拾って、その人間を突付いてみる。
 一見死んでいるようにも思えた彼は、突付かれてかすかに呻いた。
「生きてる…生きてるの!?」
 途端、少女は枝も桶も投げ出して彼に駆け寄った。
 水を吸って重たい体を揺り動かし、全身にまきついた海藻を丹念に取り除いてやる。
 中から現れたのは、目を閉じていてさえはっきりと分かる端正な顔立ちの若者だった。
「大丈夫…?待ってて、今誰か呼んでくる――」
 踵を返しかけて少女ははたと動きを止めた。昨年の出来事が脳裏をよぎったのだ。流れ着いた流浪民を、この里がどんな風に扱ったか。排斥はしないまでも、決して歓迎もしなかったではないか。閉鎖された環境を望んでここに住み着いた彼らは、余所者に対しては冷淡なのだ。この少年が瀕死だからと言って、里の者が手を貸してくれるとは思えなかった。
 白い頬を引きつらせて、少女は唇を噛み締める。
 だからといって捨て置ける彼女ではない。流浪民のもとにすら人の目を盗んで通ったくらいなのだ。ましてやこんな状態の若者を放っておけるはずがなかった。
 苦しげな呻き声をあげる少年を抱き起こすと、少女は全身の力を振り絞って立ち上がった。
 少年の上半身だけを持ち上げて運ぼうとする。足元はずるずると引きずる格好になったが、自分よりもがっしりして重たい体を動かすにはその方法しかなかった。それですら「やっと」なのだ。
 真冬であるにもかかわらず額から噴出す汗を拭いながら、少女は海辺の洞窟にようやくたどり着いた。
 このまま濡れた服を着せておいては凍え死んでしまう。少々気が引けたが、だが背に腹は替えられなかった。思い切って少年の服を脱がす。そして自分がはおっていた分厚い上着を彼の体にかけた。
 無論彼女の体を覆っていたくらいの大きさの服では、少年の全身を包むことはできない。少女は立ち上がると、相手に聞こえないことを承知で「待ってて」と語りかけた。
「すぐに毛布をもってくるから。そのまま寝てて」
 言われなくとも今の少年は動けるような状態ではないのだが、それでも彼女は言わずにおれなかった。
 急坂を駆け上り、息を切らせながら自分の部屋に飛び込む。そうして毛布を引っつかむと、辺りを伺いつつ、急いで入り江に戻ってきた。
 洞窟に少女の足音が響く。その音で少年は目を覚ましたらしい。軽く呻いて、寝返りをうつ。
「気がついた!?」
 毛布を胸元に抱えたままで思わず少女は駆け寄った。
 自分の傍らに屈み込んで、心配そうに見下ろしている人影に気付いた少年は、そちらに顔を向けてゆっくりと目を開いた。
 真っ青な――暗闇の中でも色が分かるくらいに鮮やかな、綺麗な蒼が、少女の目に飛び込んでくる。
 あまりの鮮烈な美しさに、少女は息を呑んだ。
 一方少年の方も、だんだんはっきりと像を結ぶ目の前の娘の姿にはっとしているようだった。
 豊かな真っ直ぐな黒髪。
 入り口から差し込むわずかばかりの逆光に浮かび上がる少女は可憐で――あまりにも美しかったのだ。
「あなた、名前はなんていうの?」
 少女が口を開いた。
「名前…?」
 それが何か分からないらしく、少年はきょとんとした顔をする。
「今まで人から何て呼ばれてたの?」
 少女はやさしく噛み砕いて問い直した。
 それでも少年は小首を傾げたままだ。
「覚えて――ないの?」
 言われて初めて彼はうなずいた。
「うん。何にも分からないんだ。僕は誰なのか、どうしてここにいるのか…何も」
 だが言葉の割には少年の表情に悲壮感はない。まるで<何者でもない>ことが普通の――ありふれたことだとでもいうように。
 微妙な違和感を感じながら、少女は「そう」と相槌を送った。
「だったら、しばらくここにいるしかないわ。必要なものは私が運んできてあげる。ちょっと不便かもしれないけど、でも少し我慢してて」
 少女は毛布を少年に渡して腰を浮かす。
「うん…ありがとう」
 幾分ぎこちない言い方で、少年は呟いた。
 どこか強制的に言わされているような――型にはまった口ぶりだと少女は思った。
 だがその一抹の違和感は、再びであった視線に吹き飛ばされてしまう。
 すがるような色を浮かべた青い瞳。
 人の心が一瞬にして虜になってしまうことがあるのだと、それは本の中だけの話ではなかったのだと、少女が初めて感じた瞬間だった。
 
 少女が外に出て行った後、少年は短いため息とともに横になった。
 頭の奥で低く唸る音がする。それが飛空艇のエンジンの音だと彼にはすぐに分かった。飛空艇。――その形状も簡単に頭に浮かぶ。その音ともに明滅する蒼い情景。蒼い光に埋め尽くされた機械だらけの冷たい部屋の記憶。
 そんなにはっきりと思い出せるのに、なぜ自分のことだけ忘れ去ってしまっているのか。
 そのこと自体に不安は感じない。心は微動だにせず平静なままだ。だがそれが却って彼の苛立ちに拍車をかけた。
 気持ちを抑えきれぬように、彼は生乾きの金髪を乱暴に掻きあげた。
 どうして自分はここにいるのか。そして一体ここはどこなのか。自分は何者なのか。
 分からないまま、その憔悴に覆いかぶさって、ある人影が彼の脳裏を埋め尽くす。
 長い黒髪。煌く美しい瞳。抜けるように白い肌、人の心を締め付けるように綺麗な少女。
 その少女を思い浮かべた時だけ、自分の中の不安がかき消されるような気がして、彼はまた息をついた。
 一目見ただけで心が奪われてしまうこともあるのだ。
 何よりも自分自身のその感情に、彼は戸惑いを感じているのかもしれなかった。