<3>魔法

 最初に気がついたのは母親だった。
「最近、セーラの様子が変なの」
 考え込んでいることが多くなった。食がそれほど進んでいるとも思えないのに、食事の減る量が増した。何より、どちらかと言えば家の中で編み物をしたり家事をしたりすることが好きだった子が、しばしば家を抜け出していくようになったのだ。
 年頃の娘である。母親の心配は当然ある一つの方向に向く。
 村長である父親は、無表情のまま居間の中央にある自分の椅子に腰を下ろした。
 暖炉では勢いよく火がはぜている。暖かな炎の明かりに照らされて部屋の影がやわらかに揺れる。背もたれに体を預けて、父親は目を閉じた。眉間に深い縦皺が刻まれている。
「あなたの力なら、あの子の上に起こることなどお見通しでしょう?」
 じれったい思いに駆られて母親が夫の体を揺らす。
 未来見の力を個人の運命に用いることは禁忌とされている。それはともすればその人生を全く狂わせることにもなりかねないからだ。未来は定まったものではない。幾代も続いてきたこの邑の長は異口同音に伝えてきた。彼ら召喚士が覗ける未来など、ただの断片にすぎないのだと。山の天辺だけに目を取られているにすぎないのだ。少し視線をずらせば、それに倍する広がりをもつ裾野が広がっているのが分かるはずだ。その裾野が人生なのだ。天辺はただの先端に過ぎない。
 そのことは母親もよく知っているはずだった。やがて一族の長老となる村長に嫁いできたのだ。彼女もまた選ばれた召喚士なのである。
 だが、こと娘のこととなると、その明晰さも曇ってしまうらしい。
「ねえ、あなた…」
 いつもからは考えられない執拗さで夫の返答を促す。
 長は重い口をゆっくりと開いた。
「坂に置かれた石は、ほんの一押しで坂道を転がり始める。そして転がり始めたものを、途中でとどめることは適わぬのだ。だが…ひとまず、手は尽くしてみよう」
 彼がこういう抽象的な物言いをするのは決まって未来が見えてしまったときだった。そしてそういう時はこれ以上踏み込んではならないのだ。さすがに妻は口をつぐんだ。もっとも半分は安心したせいだったが。極めて異例なことに、彼が「手を尽くす」と言ったのだから。
 見えた定に手を加えることもまた、禁忌に属する事柄であるにもかかわらず。

 その日も娘は――セーラは海沿いの洞窟に下りて来た。
 毎日必ず彼のもとに通ってくる。
 薄紙を剥ぐように日一日と回復してゆく少年。
 おかしなもので、体が回復してゆくにつれて、彼の様子までもが少しずつ変化していった。それを見るのが楽しくて、嬉しくて、ついつい少女の足はここに向いてしまうのだ。
「おはよう」
 洞窟の狭い入り口からちょこんと顔を出して、少女がにっこり笑う。
「おはよう…」
 少し照れたように少年は笑い返した。
「ご飯を持ってきたわ。いつものとおりパンとチーズと飲み物…。あ、それと今日は果物があるのよ?」
 エプロンのポケットから次々に食べ物を取り出す少女。さすがにワインの小瓶は前垂れに隠してもって来ていたが――それらを洞窟の濡れた地面のやや平らなところにずらりと並べる。ちょっとした旅気分だ。
 嬉しそうな、困ったような表情で少年は瞬き、広げられた食べ物と少女を交互に見つめた。
「どうしたの?今日は変…いつもならすぐに食べてくれるのに」
「うん…。あのさ、もう7日間もこうして食べ物を持ってきてくれてるだろう?君に悪いなって…。体も元通り元気になったし、ここを出ようかなと思うんだ」
 少年の言葉に少女は絶句する。
 一体突然何を言い出すのだ…と言わんばかりの表情で、彼女はぶんぶんと頭を振った。
「駄目よ!だって、この邑はね、みんないい人なんだけど、よそから来た人には冷たいの。だからあなたが出て行ったらきっと嫌な目にあうわ」
 必死になってとどめようとする。
 だが少年の決意は固いようだった。
「この邑に厄介になるんじゃないよ。この邑から出て行くんだ」
 穏やかに語る彼に、少女は泣きそうな目ですがりつく。
「どうして?私がいやなの?」
「そういうんじゃなくて…」
 少年の体の奥で切ない気持ちが疼く。少女の潤んだ瞳は少年の中に芽生えている仄かな想いをひどく揺さぶった。
「だったら、もう少しここにいてもいいでしょう?この大陸は土地が痩せてるから、外に出たって食べ物にそうそうありつけやしないわ。ここにいた方が安全だし…」
 とにかくどんな理由でも良かった。ありとあらゆる理屈を並べ立てて、少女は少年を思いとどまらせようとする。
 と、そのとき、洞窟の入り口から不意に低い声が飛んだ。
「そうやって彼をずっとこの穴倉に閉じ込めておく気か、セーラ」
 少女がいまだかつて一度も抗ったことのない、聞きなれた声。少女は愕然としつつ、ぎこちなく振り向いた。
「お父様…」
 それから少年に視線を戻し、彼が弱ったように自分を見つめているのを確認する。
 そして彼女は全てを察した。
「お父様が変なことをこの人に吹き込んだのね!」
 父にはどんなことも見透かされてしまう。分かっていたはずだった。彼は召喚士の長――卓越した能力の持ち主なのである。今日まで少女が何の障害もなく彼の許に食料を運んでこれたのは、父親の黙認があったればこそだったのだ。だが、少年が快復した今、その必要もなくなったということなのだろう。
 それは、分かる。だが――。聡明な彼女は事情も理屈もすべて理解しながら、それでも涙を溜めた目で父親をにらみつけた。
「そんな言い方しちゃ駄目だよ。そうじゃない。僕ももうそろそろ動き回りたくなってたんだ。いつまでもここにはいられない」
 少年がそっと少女の背中に語る。
「誰のせいでもないよ」
 穏やかに、彼は言った。
 少女はもう、何も答えなかった。言っても無駄だと、悟っていた。

 そうして里の誰にも知られることなく、少年はひっそりと邑を出た。翌日明け方近くのことだった。少女は家を出してもらえず、見送りにも行けなかった。いや、行かなかった、と言ったほうがいいかもしれない。今までそこにあった少年の吐息が離れてゆくのが、自分でもどうしようもなく苦しかったのだ。
 朝になって降り出した雨粒が窓ガラスを叩く。
 窓辺にもたれて重く垂れ込めた鈍色の雲を見つめる少女の背中を、村長が気遣わしげに見ていた。

 
 

 少女の姿が邑から消えたのは、それからほんの数月後のことだった。
 半狂乱になって取り乱す母親と慌てふためく村人たちを静めて、村長は長老に告げる。
「もはや、小石はとどまりませぬ。しかるべき行く末にたどり着くまでは」
 長老は重々しく肯いた。
 彼にもその行く末は見える。
 未来を垣間見られるただ二人の人間である彼らは、眼を閉じて空を仰いだ。なす術ないもどかしさと諦観が深い皺のたたまれた顔に去来する。
 遠い闇が指し示す行く末に、永の別れが横たわっていることを、既に彼らは感じ取っていた。

 いてもたってもいられなかった。
 父も母も大好きだったが、あの少年を知ってしまってから後、少女の世界は一変してしまったのだ。どうしても、あの青い瞳をもう一度だけ見たかった。
 せめて別れの挨拶だけでもちゃんとしておけばよかった。旋毛を曲げた自分を見せたまま別れてしまうなんてやめればよかった。少女の後悔は尽きなかった。
 文字通り、いてもたってもいられなかったのだ。

 少年が邑を出てどこに行ってしまったかは分からない。
 あてもなく探すしかない。
 けれど何となく、巡り会えそうな予感がしていた。
 もう一度少年に会えれば、ちゃんとお別れの挨拶をして――そしてせめて握手くらいできたら――すぐに邑に帰ってくるつもりだった。それはひどく楽天的でお気楽な盲信だったけれど、少女は自分の中の声に従いたかった。
 二日前から少しずつパンをためて、ちょっと干し肉を拝借して、水を筒に入れて。服の着替えを一枚と布を一枚。それだけ布袋に詰めて、村中が寝静まった真夜中、少女はこっそり二階の窓から抜け出した。
 父親に見つかるかもしれない、という危惧もあった。だからこそ家出の刻限を深夜にしたのだ。そして計画は図に当たり、彼女はまんまと邑を抜け出ることができたのだった。
 あとの騒動も薄々は考えた。けれど、それよりずっと胸の奥の衝動は強かった。

 村外れの門をくぐった時、一瞬だけ彼女の心に寂しさが走った。胸を締め付けられるような郷愁。だがすぐに彼女は前を向いた。
 どこまでも続く真っ暗闇。そこにうごめくのは魔物だけだ。
 だが不思議に怖くはなかった。
 十六の誕生日に行われた神獣降臨の儀式で彼女が呼び出せるようになった召喚獣は一体、ラムウだけだったが、それでもこの暗闇を支配する魔物たちを駆逐するには十分な戦力のはずだった。
 ずた袋を抱えなおし、少女は闇の中に一歩を踏み出した。