<4>魔法-second
気配が揺れた。
自分の鼻面さえ見えないような漆黒の闇の中である。それが何の気配なのか判別することは難しかった。が、すぐに少女は悟った。
突然暗がりに灯された二つの火。――モンスターの目だったのだ。
咄嗟に彼女は召喚の詠唱を始めた。だがそれが半分にも達しないうちにその目はいきなり彼女に襲い掛かってきた。鋭い爪が少女の肩先を掠める。服と肉が僅かに裂けた。衝撃と痛みで彼女は一瞬気を失いかけ、地面に崩れ落ちた。倒れ臥して動きを止めた獲物を魔物は一気にしとめようと、高く跳躍し、上空から急降下を開始する。ブレイザビートルだった。尖った前足が今しもセーラの喉もとに突き刺さろうとした瞬間、闇から白い光が走ってきてその足を断ち切った。
閃光はそのままモンスターの体を斜めに走った。
薄青い体液を吹き上げながら、甲殻に覆われた固い巨体がどうと大地に倒れ臥す。
しゅっと白く光る刀身を振って、彼は短剣を鞘に収めた。
闇の中。
危機を救ってくれた主の顔も見えない。
だが、大地を踏みしめる足音で…風に乗ってかすかに届く体温で、少女にはそれが誰だかわかった。
何と言う僥倖だろう。探す前に、こうして巡り会えるなんて。
あまりの成り行きにわななく唇を必死にこじ開けて、彼の名を呼ぼうとし――そしてその名を知らぬことに気付く。
「こんなところに…どうして来たんだ」
先に少年が口を開いた。声が少し低くなっていた。口調も前に比べると少しだけぶっきら棒だった。
少女は笑う。闇に紛れて彼に届かぬと判っていたけれど、それでも笑いかけたかった。
「会いたかったの」
想いをこめて、囁く。風にさらわれてしまわないように、少しだけ大きな声で。
「あなたに――どうしてももう一度会いたかった」
少年が足を踏み出したのが分かった。ゆっくりと彼は歩を進め、お互いの顔がうっすらと見える距離まで近づく。
「むちゃくちゃだ」
眉間に皺を寄せて少年は口をへの字に曲げた。怒っているのだ。表情らしい表情を初めて浮かべている彼を少女はまじまじとみつめた。
「怒ってるの?」
「当たり前だ。集落の外は昼間でも危険極まりないんだぞ。何にも考えずにのこのこ出てくるなんて、無謀もいいとこだ」
髪も少し伸びた。どこもかしこもずいぶん変わった。それでもひとつだけ、変わらないところがあって。
澄んだ宝石みたいに綺麗な青い目をのぞきこんで、少女は尋ねた。
「あなたに会いに来ちゃいけなかった?あなたは――いや?」
覗きこまれた少年は、思わず今日のこの濃い闇に感謝する。おかげで真っ赤になっているに違いない自分を見られなくて済んだ。
少し間を置いて――少年はふっと息をついた。
「いやじゃない。…嬉しかった」
それから慌てて付け加える
「ここは危険なんだ。結構魔物が湧いて出てくる。とりあえず、邑に戻ろう。門はすぐそこだ。送ってくよ」
少女の手を握るのはためらわれるのだろう、彼はセーラの服の端をつまんで引っ張った。
彼女はそれを振り払う。
「いや。まだ帰らないわ。せっかくあなたに会えたんだもの。もう少し一緒にいたい。…ここに居合わせたって事は、あなたもこの近くに住む場所を見つけたってことでしょう?あなたの住んでる所に行ってみたいな」
意図してはいないのだろうが、期せずして彼女の仕草は男のツボを突いて来る。少年は唸ってしまった。
「残念ながら――俺の住処はかなり遠いんだ」
「俺?」
意外な一人称が彼の口から発せられて、少女は目を丸くする。
びっくりしたような声に少年は決まりが悪そうに頭をかいた。
「ああ――え?変か?」
「ううん、全然。全然変じゃないわ。ただ、びっくりしただけ。さっきから思ってたけど、ずいぶん話し方が変わったのね」
「そこにドワーフたちの邑があるだろう?そこでいろんなやつに会って――結構大陸からも人間が渡ってきてて――話をしてるうちにこんなになっちまったんだ。昔の喋り方ってのはインプットされてた情報に過ぎなくて…!」
言いながら彼は自分が口走った言葉にはっとする。
インプットされた情報?
また記憶の断片が戻ってきたのだ。
すべて忘れ去っていたはずの自分に関する情報は、時を経るに従って顕在化していた。思いをめぐらせばめぐらすほど、芋づる式にずるずると格納された情報が露わになっていく。それもまた実験の一過程であるかのように。
こうして状況に感化され、陶冶されていくように仕組まれている――実験体。
点滅する光源。青い光。黒尽くめの男。
だがそんな少年の胸のうちなど知る由もなく、セーラは別の事柄に感動していた。
「ねえ、住んでる場所が遠いのに、ここまで来てたのはなぜ?」
あどけなさを装いながら核心を突く少女の問いに、少年は現実に引き戻されて目を瞬かせた。
「え?」
「だから、どうしてあなたはここにいたの?住んでるところ、遠いんでしょう?」
どうしてこの少女はこうも答えにくい質問ばかり繰り出してくるのだろう。
苦笑を禁じえない思いで少年は首を振った。嘘はつけなかった。
「会いたかったんだ。俺も」
蚊の泣くような小さな小さな声で、はにかみながら彼は言った。「君に」
だからよくこの周辺をうろついていた。集落の中には入れない。もう彼には十分状況を判断できるだけの力はあった。しかし彼もまた、会いたいという衝動を抑えることができなかったのだ。
言葉が、全身を突き抜けてゆく。
中心が疼くような陶酔を覚えて、彼女はうっとりと目を閉じた。彼もまた――自分と同じ気持ちでいてくれたのだ。それがとてつもなく嬉しかった。
そして彼女は思い出した。
あの予言を。
「…ガーネット」
そっと口にしてみる。
「え?」
「ガーネットって、呼んでくれる?」
いきなりの申し出に少年は当惑を隠せない。
「でも…君の名前はセーラだったよな。君のお父さんがそう呼んでたし」
自分の名前は大切にしなくちゃいけないんだと彼は言う。
「俺には名前なんてなくて――、そうだ、俺、呼称を思い出したんだぜ。なんて呼ばれてたと思う?R−TP7003っていうんだ」
「R−T…?」
「ああ。笑っちゃうだろ?ただの番号なんだ。俺は…一体何なんだろうな」
彼は軽く笑った。しかしその声に潜む自嘲の響きを少女は敏感に感じ取る。彼の中の蔭りを払拭するように、力強く彼女は言った。
「あなたは、ジタンよ」
「へ?」
「私があなたの名前をつけてあげる。あなたはジタン、って言うの。これからずっとそう呼ばれるの。そして、きっとガーネットって呼ばれるようになる私の…私の旦那様になるんだわ」
「なっ、な、なな何を言いだすんだ?だんなさまって言うのはその…だんなってことだろ!?」
「そうよ、どうしてそんなに焦るの?私の旦那様になるのはいや?」
「い、いやじゃないけど…でも…」
きょとんとしている少女を見下ろして、少年は嘆息する。
どうやらこの数ヶ月、荒地でいろんな人間と交わった経験が、彼を彼女よりずっと大人に仕立てあげたらしい。純粋培養の少女と、すべての情報を蓄積するように作られた自分とでは、収集した情報の処理能力もはなから違うのだろう。
そこまで考えてまた彼は自分の中の暗い翳を思い出してしまう。――そうか。やはり自分はそういうふうに作られた実験体なのだ。
重たい気分を吹っ切るように彼は頭を振った。無理やり笑ってみせる。
「で、どうしてジタンなんだ?どうせならイプセンとか、コリンとか…」
「ジタンなの。未来が読めるおばあさんに言われたの。いつか私はガーネットって呼ばれるようになるって。そして…そのとき、運命の人に出会うんだって」
「その相手の名がジタン…?」
少女はこくんと肯いた。
「流れ着いたあなたを見たときから、ずっと思ってた。あなたの名前がジタンだったらいいのに…って。そしたらいつか、私がガーネットって呼ばれるようになったら、あなたと結ばれるかもしれないでしょう?」
感傷的な少女の呟き。遮るように、少年は軽く言って片目をつぶった。
「そういうの、一目ぼれっていうらしいぜ」
途中で茶化されて、少女はぷっと頬を膨らませる。
「ちょっと…!私、すごく真面目に言ってるのに!」
思いのほかその怒っている顔が可愛く感じられて、少年はくすっとかすかに笑った。が、すぐに真顔に戻る。
「とにかく、ここを離れよう」
獣の遠吠えが聞こえる。耳のいい彼は、彼女よりずいぶん前に、彼らの匂いをかぎつけて寄って来る獣や魔物の気配を感じ取っていたようだ。腰の鞘から短剣を抜く。
「本当は邑に帰ったほうがいいんだけどな」
「いや。まだあなたと一緒にいたいわ。だって…文句を最後まで言わせて貰ってないもの」
「げっ…住処についたら続き言われるの?俺」
「そっ」
「勘弁してくれよ」
言いながら彼はためらいがちに少女の手を握った。
「走るぜ。近くまで気配が来てる。俺から――離れるなよ」
言い終わるや否や、二人はだっと駆け出した。
熱い、大きな手に指をからませ、力いっぱい握り締める。
懸命に彼について走る少女は、なぜか幸せな気持ちを噛み締めていた。獣の牙がすぐ後ろまで迫っているというのに、不安は少しもなかった。
ずっとずっと、こうして彼と…手を握っていたかった。
|