<5>ずっと



 コンデヤ・パタに続く山道から少し横道に逸れたところに、小さな洞穴がある。彼はそこに必要最小限のものを運び込んで、簡素な住処を拵えていた。
「たいていのものは気のいいドワーフがくれるんだ」
 椅子が一脚だけついた小さなテーブルに少女を座らせて、少年は素焼きのカップに茶を注いだ。一つを少女に差出し、もう一つは自分が持って、彼はそばの張り出した岩に腰を下ろす。
「魔物とか獣をとってドワーフに売って、その金で必要な品物を買って。結構楽しい生活だぜ?」
 カップに息を吹きかけながら、少女は上目遣いで少年を見る。
 その視線に気づいて、少年は少々照れくさそうに言った。
「何?」 
「そんなにおしゃべりだとは思わなかった」
「そう?…多分、慣れてきたせいかな。ここに」
 少年はぐるりと洞穴の中を見回した。つられて少女も天井に目を向ける。そして上を向いたまま、ぽつりと言った。
「でも良かった。楽しいって…思ってて。私はずっと寂しくてたまらなかった。お母さんがね…あんまり私が塞ぎこんでるもんだから、気を回して許婚を決めようなんて言いだしたりして、大変だったの」
「いいなずけ…かあ」
 彼女が期待したほど少年はショックを受けてくれなかった。ちょっとがっかりしながら、その落胆を隠すように明るく彼をからかってみる。
「分かるの?許婚って意味」
「馬鹿にすんなよな。そこのコンデヤ・パタの中にはちゃんと神殿だってあるんだ。俺がここに来てからでも、もう二組は結婚式を挙げてるぜ」
「へえ…そうなんだ…。」
 感心しつつ、一旦彼女は口を閉じた。しばしの沈黙がなにやら意味ありげだ。嫌な予感がして、少年がおずおずと口を開く。
「あのさ、もしかして…」
「明日そこに連れて行って!」
 やっぱり。少年の金色の頭ががっくりと垂れる。
「ねえ、いいでしょう?私もその神殿を見てみたいわ」
 予感通り、嬉々として少女が提案する。それを彼は言下に拒否した。
「そういう物見遊山ってか、遊び半分の見学者、いやがるんだ。ドワーフたちは」
 だがそんな恫喝に怯えるような娘ではない。けろりとした顔で、
「だったらそこで二人の結婚式を挙げましょう?ね?それで万事丸く収まるわ」
事も無げに言う。
「あのなあ…。お前は邑に帰らないといけないだろう?父さんも母さんも心配してるぞ、きっと」
 弱りきって少年は頭を抱えた。
「お前?」
 すかさず揚げ足をとる少女。軽い調戯を含んだ口調にもかかわらず、少年は真っ向から受け止めてうろたえる。
「あ、いや…ごめん」
「嬉しい」
「へ?」
 もはや完全に少女のペースである。少年は彼女に引っ張りまわされて汗まみれだった。
「そんなふうに呼んでくれて、すごく嬉しい。なんだか、恋人になったみたいな気分」
 うふふ、と彼女は可愛らしく微笑んだ。だがその可愛らしさに惑わされてはいけない。主導権を取り返すべく、少年はだん!っと勢いよく立ち上がった。
「とにかく!…それは置いといて、帰らなきゃだろ!」
「今は帰らない。父は未来が分かるのよ?私の行動だってお見通しだわ」
 あくまで強固に彼女は突っぱねる。さすがの少年も半ば呆れ気味である。
「こんなに頑固なやつだったなんて。人は見かけによらないよな」
「失礼ね。意志が硬いって言って。それに――心配しなくったっていつかはちゃんと帰るわ。あなたに迷惑かけたりしない」
「迷惑とは思わないけどさ…」
「約束する。必ず帰るわ。あなたが私と結婚式を挙げてくれたらね!」
「そうか。…えっ!?な、何だよ、それえっ!!」
 そんな他愛もないやりとりをするうちに、東の空が明るみ始めた。眠らないまま夜が明けたのだ。なんとはなく…二人とも意識した結果だった。枯れ草を敷き詰めてその上に薄い布を敷いた簡易ベッドは奥にあったが、二人ともそちらを一顧だにしなかった。恥ずかしくて、照れくさかったのだ。もう――子どもではなかったから。

 日が高く差し上る。 翌日少年は少女にせっつかれ、仕方なくコンデヤ・パタに向かった。

 晴れ渡った心地よい日だった。すぐ南の荒地から舞い上がった黄色い砂が空に散って景色を黄色く染めていた。少し歩くだけで髪も顔もざらざらになったけれど、そんなことはちっとも気にならなかった。少年と肩を並べて歩いている。それだけで少女はこの上なく幸せだった。

「マダイン・サリができてから、もう百年は経つんだろう?その間コンデヤ・パタと行き来はなかったのか?」
 登り道に差し掛かったところで、少年が少女に手を貸しながらさりげなく尋ねた。
 足場の悪い岩場が続いている。少女は足元に気を取られてそれどころではない。少年の手をしっかり握って、その手を頼りによろめきながら岩を渡る。
「行き来はあったと思うわ。今もあるはずよ。ただ私は生まれてから昨日まで、一回も村の外に出たことがなかったけど」
 それでも何とか少年の質問に答えを返し、少女は少年の立つ大岩に飛び移ろうとした。が、案の定彼女の足は岩に届かず、端を掠めて滑り落ちてしまう。と、落下しようとした彼女の体を少年が力任せに引っ張り上げた。軽い少女の体は簡単に引き上げられ、勢い余って少年の腕の中に倒れこむ。少年はしっかりと少女の体を抱きとめた。
「ごめんなさい」
 慌ててそのたくましい両腕から離れようとする少女。だが一瞬、彼女は身動きが取れなくなる。少年の腕に力がこもり、少女を抱きすくめたのだ。それは本当に瞬きの間ほどのことで――はっと気づいた時には少女は解放されていた。そして少年は照れくささを隠すように背中を向けて土ぼこりの立つ乾燥した山道に飛び降りていた。
 あとに続いて少女も飛び降りる。ひらりと軽やかにスカートのすそをなびかせて飛んだ、ところまではよかったのだが、足腰があまり頑丈とは言えない華奢な少女はバランスを崩して少年の背中に激突してしまった。
 うげっ。
 突然の衝撃に、下敷きになった少年は蛙が絞め殺されるような呻き声を上げる。
「ごっ、ごめんなさい!」
 顔を真っ赤にして少女は跳ね起きた。
 だが大の字で地面に突っ伏した少年は、ぴくりとも動かない。
 少女はびっくりして少年にとりすがった。
「ねえ…どうしたの?大丈夫?」
 どうしてよいか分からずに、必死になって彼の体を揺さぶる。
 それでも少年は反応しない。少女は蒼白になる。
「打ち所が悪かったの?ねえ…ねえってば。やだ…私…どうしよう…。ごめんなさい、ねえ、お願いだから目を覚まして」
 大きな目に涙をいぱいためて、今にもしゃくりあげそうだ。
 そのとき。
「…悪い、泣かせるつもりはなかったんだ」
 下からばつの悪そうな声が聞こえた。
 少年が悪戯な青い瞳を開けて、少女を見つめていた。
 しばし信じられぬように…あっけにとられた顔で彼女は下を向いた。その拍子にぽとぽとと涙が少年の頬に零れ落ちる。
「…悪い…ごめんな」
 自分のことを本気で心配してくれていたのか――半ば驚きをもって少年は少女を見上げる。
 この純真な――騙されやすい無垢な少女をからかって申し訳なかったという想いが胸を締め付けた。と同時に、不思議な安らぎが心を満たしていく。
 ここに、自分のことを思ってくれてる人間がいる。
 今まではっきり意識したことはなかったけれど、実はどこかに孤独を抱えていたのだと、彼は思った。だから、嬉しかった。たとえようもないくらいに、その涙が。
 神妙な顔になる彼とは対照的に、少女の涙は止まらなくなっていた。
「もう…ほっ、本当に心配したんだから。ひっ、ひどいわ、人をだ、だますなんて。もう、知らない」
 安心したのと腹立たしいのと…感情がごっちゃになってどうしようもなかった。少女はぷいっとそっぽを向いて、一人ですたすたと歩き始める。
「ご、ごめん!おい、待てよ。一人で先に行っちゃ危ないって。ここにも魔物はいるんだからさ!」
 慌てて立ち上がり、少女の後を追いかける少年。
 が、彼の足は数歩も進まなかった。
 不意に彼の意識に何かが飛び込んできたのだ。
 それは明瞭な言葉で――だが空気中を伝わる振動ではなく、直接脳にぶち込まれるようなダイレクトな信号だった。
――探したぞ。
 その信号が彼の脳髄の中で形を成す。
――TP7003。私がガイアに放ったジェノムのうち、今まで生き延びたのはお前だけだ。
「何の…話だ」
 そこには誰もいない。それは分かっている。だが少年は口に出さないではいられなかった。思念だけで相手に伝わる自信がなかったのだ。
 上り坂のてっぺんで、少女がこちらを振り返っているのが見えた。たちまち彼女が怪訝な顔をする。少年は彼女を安心させようと精一杯笑顔をつくった。だが脳の中を攪拌されるような感覚はめまいと吐き気を彼にもたらす。笑顔が引きつるのが自分でも分かった。
 少女が心配そうな表情になってこっちに駆け出す。
「どうしたの?」
 彼女の声が届いた途端、すっとその思念が解けた。
 ふうっと息を吐いて、少年は地面に膝をついた。
「大丈夫?顔色が悪いわ…どうしたの?」
 駆け寄ってきて少年の肩を抱き起こそうとする少女に、少年はにっと笑いかけた。
「さっき重たい尻に敷かれた後遺症かな」
 冗談で誤魔化す。
「なっ!」
 事情などあずかり知らぬ少女はたちまち顔を真っ赤に染める。支えようとしていた手をぱっと放し、彼女はまた怒って先に歩き始めた。
「冗談だって!」
 軽い口調を装って声をかけながら、しかし彼はまだ立ち上がることができなかった。
 足に力が入らない。
 再び坂の上から少女が叫んだ。
「早く行きましょうよ!今度はもう騙されないんだから!」
 いーっをするように顔をしかめて舌を出し、彼女は踵を返す。坂の向こうに彼女の姿が消えてしまいそうになる。しかたなく苦笑いを浮かべて少年は何とか立ち上がった。本当にここはモンスターの巣窟なのだ。彼女独りにしていては危ない。
 まだくらくらしている頭に手をあてて、彼が歩き始めた時だ。一旦向こう側に消えた少女の頭が坂の上に見えた。そしてすぐに全身が現れる。彼女は必死になってこっちに向かって走ってきているのだ。
 魔物か!
 少年はとっさに腰の短剣を引き抜こうとした。
「大変!ドワーフたちが!」
 少女の顔が真っ青になっていた。
 眩暈を忘れて少年は走り出した。
 悪い予感が――鼻先を掠めていったような気がした。